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2017-12-16

五十鈴川のそばに在る、両親のお墓参りをしないと、落ち着かない年の瀬のわたし。

朝が来た。師走、何かと充実多忙で、一日がもう少し長ければと思うほどである。それと年齢のせいだと自覚しているが、動作がゆるゆるとしてきたのを特に今年から自覚している。
歳とと共に、あらゆることを落ち着いて、丁寧にやるようにこころかけている。五十鈴川だよりも、書く回数がずいぶんと少なくなってきたが、以前に比べたら丁寧にかいているなあ、という自覚がある。時間がかかっても、遅くても丁寧に。

何回か前の五十鈴川だよりで書いた記憶があるのだが、漸くにして日々の暮らしの中に、自分の中にうろたえない重しのような、いい意味でのかたくなさのような生まれつつある気がしているのだが、いまはこれ以上書くことは控える。

ともあれ、自己満足的にいい感じで生活できている現在を、キープしたいとの思いが募る師走の五十鈴川である。

時代の趨勢は、油断ならないほどに何が起こっても、たじろいでも仕方がないとのいい意味での諦観感覚をどこかでもっていないと、一方的な情報に振り回されるので、私は画面からの情報ではなく、地面や、自分の内側からおのずとわいてくる本能的な感覚情報や、私が信頼できる方の情報に、ますますすがって生活している。

以前書いたが、ますますもって超マイノリティの側に、自分がシフトしてゆくような気配である。
アーサービナードさんの御本、凄い素晴らしい。

時代はますますAI生活ライフにシフトし、言語化するのが不可能とさえ思えるほどに、世界は2極化してゆく気配、一体全体どのような未来がやってくるのか、どこか不気味さを感じながらも、生きて在る間は、地面近くからその世界を眺めてみたいという、業も私は抱えている。いまも絶対矛盾の渦中をさまよう私である。

ところで、まだわが故郷へのお墓参りが実現していない、何とか来週にはとんぼがえりであろうと五十鈴川が静かに流れるほとりに立ちたい。そこでしばし一年を振り返りたい。

それにしても、なぜこうも私は年に数回五十鈴川のある、故郷もうでをしないと落ち着かないのかは、自分でもよくはわからない。

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