ページ

2015-05-23

平凡を非凡感じて楽しむ。

昨日、初めて干した雑草や小枝を畑の隅で燃やした。今私が借りている畑地は開墾から関わった初めての土地なのでひときわ愛着がある。畑の手入れが楽しい。

もう一月、このまま順調にチシャトウが病気にもならず生育してくれれば、人生で初めて出荷できるところまでこぎつけてきた、うれしい。

農の仕事を始めてもうすぐ1年と8か月、ほとんどまだ何も知らないといってもいい。これから先あとどれくらいやれるのかも皆目わからない、ただうれしい。

とにかく土に向かい合い、母をはじめいろんな方に教えていただきながら、失敗を恐れず、植えられる作物を植えてみよう、それしかないとの思いだ。
母が種から育てたカボチャの苗

良心に恥じない安全な作物を作れれば私はいい。

それを行商できれば、こんな楽しいことはない、そのような能天気なことを考えられるのも、ひとしきりのことを終えた、晩年時間を生きているが故だ。

自分で書くのもおこがましいが、特に娘の結婚報告会を終えてからというもの、何やら何をしていても楽しく、つましい幸福感につつまれている。

すべては、母をはじめ家族全員が健康なればこそなのだ。ブログを書き始めたころ、妻は人生で初めて大きな手術をしている。

母も今は完治しているから書けるが、5年くらい前に背中を骨折して3か月くらい入院していた。

母は見事に復活(すごい母だと思う)今再び自転車に乗って我が家にやってきているし、数年前には川で泳いで私を驚かせた。五十鈴川だよりは、身内のあれやこれやにはほとんど触れていないが、我が家にもいろんな出来事がある。

でも今現在は、全員が健康である。一寸先はわからないのが人生だからこそ、今日一日を感謝して生きる、そのような境地に漸くにして私もなってきた。

私ごときがいうのもなんだが、人生はまさに厳粛な綱渡り、自分の器の分をわきまえ、きちんとやれることをやってゆく中でしか、身の丈に合う充実感は見つけえない、とまあそのような気がする。

さて、今日もブログを書き上げたら、畑に行き昨日の続きをするつもりでいる。居場所があり、やりたいことができること、少々しんどくても、そのことが楽しめることこそが肝要だ。

夕方は一転して、運動公園で【間違いの喜劇】を声に出す。やく40分くらい、いま20行くらいの長いセリフを暗誦する ことをやっている。畑の草を抜くように根気がいるが、脳内が活性化するのがわかる。

つくずくシェイクスピアは私を鍛えてくれる。 今日できたことを、体と相談しながら無理なく可能な範囲で明日も続ける、それしかない。




2 件のコメント:

  1. このコメントは投稿者によって削除されました。

    返信削除
  2. 「出荷」=プロの仕事。 農「業」者として スタートですね。全然 「晩年時間」じゃないじゃないですかぁ。(*^_^*)

    上記 のコメント削除は 間違えて「晩年生活」 と入力して送信しまったためです。二文字違いで 大きな違いですから。

    返信削除