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2015-02-09

老女である、可愛い母の畑姿に学び思う。

寒い日がまだまだ続くが、立春を過ぎるとやはり気分的に春が近づいてきているのを、わが体のセンサーは微妙に感じている。

とはいえ今朝もかなり冷えているし、昨日も風が強く体感温度は最悪だったが、その中を午前中と午後(お昼は家で済ませ、3時過ぎまで)畑で過ごした。

午後は母と妻も一緒、おとといも午前中ともに行ったから、妻と母は二日連続しばしの時間を 畑で過ごしたことになる。

昨日は、私がはがしたマルチを集めて縛る作業を、風が吹く寒い中手伝ってくれた。82歳の母がマルチを引っ張るので、何度もしなくていいからと、忠告しても母はじっとしていると寒いのか、私の言うことを聞いてはくれなかった。

私は畑で嬉々として過ごす母の姿を眼底に焼付けた。5歳から畑仕事をしてきた母には土が体の中にしみこんでいるかのように感じることがある。

私を含めた、戦後民主主義世代には、肉体労働全般、いわゆる汗まみれ土まみれになってやる労働に対して、積極的ではないネガティブな感覚があるように感じるのだが、そんな私の中の弱点を吹き飛ばしたのは、やはり富良野塾に参加し卒塾したからだと、いまハッキリいえる。

自分にできる仕事ならば、どんな仕事であれ厭わずやり遂げる自信が富良野塾で私が学んだ、最大の宝である。

オーバーではなく、卒塾後もいろんな仕事をしながら、今日を迎えているのだがあれ以上の大変さはその後経験したことがない。

そういう意味で、青春も終わりかけようとするころ、富良野で過ごした数年間は、今は大切な宝の時間として心の中にそっと封印しておきたいと思えるほどに、良き体験としての記憶だけが残っている。

ともあれ、今日もこれから午前中しばしの時間を畑で過ごす予定だ。朝起きて体調もよく、やることが終日あるということは、男子にとってかけがえがないことである。

晴耕雨読とは、つくずくよくいったものである。それに私の場合は声出しはじめいろいろとやることがあるので、退屈などには程遠く一日があっという間に過ぎてゆく。

娘が結婚したことも大きい。もうひと踏ん張り 、ふた踏ん張りを楽しみたいという感覚がにわかにつよくなってきている。母が元気で踏ん張れるのは孫の存在が極めて大きいのだ。

その存在のために、自分も存在する。絆は親子であれ、他者とであれ、そんなに簡単には築くことはかなわぬものである。作物を育てることだっておそらく本質的にまったく同じだと私は考える。

人生をリセットなどと簡単に言葉では言える。農は全くの素人である、最低65歳までは踏んばりたい。そのためには時間を大切に生きるしかない。充実感の乏しい人生とは可能な限りおさらばしたい。

たった一つ決めていること、無農薬で安全な野菜を作ること、見た目が悪くて商いが難しくてもそれだけは死守したい。販路はコツコツと積み上げてゆく。これしか今のところ考えていない。

言うは易くだが、細き狭き道であれ開拓者精神を先人たちはやってこられたし、今もあこがれの先輩たちの後ろ姿が、大いに私を勇気づける。

畑で動きながら、初心者としては、ただただ謙虚に思索したい。

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