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2015-02-14

63歳、最初の日の朝に思う。

こまごまと書くことは控えますが、昨夜は私にとって一番大切な家族からのこれ以上望むべくもない生誕の夕食会をしていただきました。

そのうえ、全員から(東京に住む娘夫婦からも)いま私が生活する中で最も必要な品々(足に関する)のプレゼントをいただき、私はただただ幸福感につつまれました。

私が寒風に負けず ネギ一輪行商できるのもすべては、応援してくれる家族有らばこそなのですから。最高齢の母からの手編みの分厚い家ではくソックスは、しばし宝としてまつることにしました。

(こういう支え、幸せを突然奪い取られた東北の被災地の方々や、あらゆる世界の理不尽な紛争、戦争に巻き込まれてゆかざるを得ない、現実のすごい数の人たちのことに対する想像力はなくしたくはないものです、明日は我が身という感覚)

自分のなかの至らない点や、弱点を気づいた時から薄皮を最新の注意をしながらむいてゆくように 正面から向かい合う勇気のような感覚が有難いことに、かろうじて今も私のなかには流れています。

若い頃の私は家族をあまり顧みず企画の仕事に没頭していたりしていたのですが、緩やかに緩やかに、家族あっての企画なのだということを自覚するようになってきました。(家族の応援がなかったら企画は今後しません)

そういうささやかな気づきの連鎖は限りなく続いてゆくような、深まってゆくような気がしていまして新しい自分に出会えたかのような気さえする最近の私です。

今年の初夢は行商だとブログに書いた記憶があります。始めるまでは勇気がいったのですが、とびとびに間もなくひと月、これは決定的に一つのいわゆる行のような修行体験となりました。

ネギのおかげで友人や知人と思わぬ幸福な再会をすることができました。(それは本当に素晴らしい再会でした)怪我の功名ではなく、ネギの功名。そして一番素晴らしいことは、まったく見知らぬ未知の素敵なかたとネギのおかげで出会うことができたことです 。

自分が育てたネギ一輪を商うことに対するためらいは、どこからまれるのか。私は自分に問いかけます。ええいままよ、18歳には帰れないものの、原点回帰、堂々と前進あるのみ、扉を開いてみると、思わぬ世界が見えてきたように、いま感じています。

昨夜も九時前に(私は少し酔っていました)、とある行商した焼きとり屋さんから、おいしいからまたもってきてくれという、行商の疲れが吹っ飛ぶようなありがたきご注文をいただきました。積み重ねしかないのです。畑を耕し、自分も耕す。

苦しみと、喜びはこうやって、交互に立ち現れる。考えてみるとわがお恥ずかしき人生は、未だ 恥ずかしきことが続くのではありますが、市井の片隅で、ひっそりとかくも素敵な人の顔に出会えた喜びは、言葉がありません。

ネギやこれから私が育てる野菜が、新たな人との出会いを生み出してくれる 、その感動が単にイベントを企画するのではなく、私が求める人と人との出会い感動の喜びの縁を深めてくれる、確信を持ちます。

これから畑に行きます。大地の神に感謝し土との対話こそが、今の私にとって最も大切な時間です。

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