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2013-06-19

梅雨の雨音を感じながら静かに過ごせる幸福を噛みしめブログを書く



天と地と身体は繋がっているということが実によくわかる最近の天候である。昨日結局雨は降らず、終日重苦しい雲が立ち込めていたが、今日は午前中洗濯物を干し終わってしばらくすると雨が落ちてきた。雨の午後静かに書いている。

 

ようやく梅雨本番という感じ、風疹の流行が衰えないというし、食中毒の季節でもあり、これから梅雨がやがて明けると本格的な夏がすぐやってくる。私を含めた中高年齢者にとっては厳しい季節になる。そこをいかに過ごすか、そこをいかに楽しめるかによって、日々は色合いを変える。

 

身体は小さいころから弱かったくせに、性格的に何かと無茶をしがちなところがある私なのだが、これから歳を重ねてゆくことにたいして、可能な限り意識的でありたいということを、度々書いている。無理にではなく、61歳の今を意識的に全開する方法のようなこと、頭ではなく身体で考える癖のような事を、あきらめたくはない自分がいる。有難いことだとおもうことにしている。明らかにいつの日か意識は終わりを告げるのだから。

 

一日の過ごし方にしても、若い時とは異なる方法で、メリハリをつけ、なるべく脳と身体が活性化することを心かけている。意識と体は密接に繋がっている、不思議だ。塾であれ、トークであれ、恥を覚悟でいまやりたいこと、やれることをひた向きにやる、しかない。

 

さて、なかにし礼さんという、有名な作詞家、作家がいる事は御存じだとおもいます。気にはなっていて、いつか本を読みたいと思っていました。というのはこの方が満州からの引き揚げ者だということを知ったからです。(私の父母姉兄が北朝鮮引き揚げなので、すごく関心があるのです、それにしても引き揚げ者には素晴らしい仕事をしている方が多い)

 

当時8歳の眼で見た、引き揚げ船の地獄絵を、わずかですが書かれている一文を、御自分が食道癌と戦った本の中で読みました。何げなく手に取り読みだしたら、眼が吸いつけられてゆき手が止まりませんでした。

 

私には派手な作詞家の印象が強く、遠い世界の方のように感じていたのですが、その赤裸々な、おぞましき体験の果てにつかんだ、氏の哲学的世界観は、土取さんや、椎名さんにも共通するのですが、潔さと、諦めないしぶとさが同居していて、73歳にしてなんとも精神が若々しいのです。

 

私は自分が今がんを宣告されたら、何を思うのか、なかにしさんの本を読んで少し考えはじめている。呆然としながらのあの冷静さはどこから来るのか、修羅場をくぐった人だけが到達する何かがあるのだとしたら。短いブログで書くことではないと承知しつつ考える。

 

ただ、何度も書いているが、手にとり巡り合う本には、何がしかの縁があると私は考える。その年齢で巡り合える本が、必ずある。そしてそれは探していなければけっしてめぐり会うことはないのだということも、この年になると沁みるのだ。

 

そんな本に出会った日は、静かなある種の幸福感に包まれる。実体験から生まれてくるうそのない文章。心の奥深いところで、こんな豪放磊落、繊細、無頼バンから、知的胆力人間が存在することに、元気を頂き、まさに生と死は隣り合わせの日々なのだということを思い知るための訓練を還暦を過ぎた私はしなければならない。

 

それにしても、命の重さ、人間がしのぎを削って生き延びる運命の過酷さは、シェイクスピアの間違いの喜劇の父親のイージーンの台詞に在るように、身を引きずってでも生きている間は考えなくてはならない。

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