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2019-11-10

ささやかにお芋を収穫し秋の実りを体感、そして想う。

いきなりだが、一昨日の金曜日午前中のアルバイトを終えたのち、そのバイト先の敷地内にある畳8畳くらいのスペースがあり、そこを好きに使っていいという許可をいただき、サツマイモを植えていたのだが、その収穫をした。

ほとんどほったらかしにしていたスペースを、一人でほッ繰り返しお芋を収穫したのだが、粒は小さいもののまあまあのお芋が収穫できた。

小さくても十分に食べられる、私としては植えっ放しでほとんど何もしていないにもかかわらず、形は不ぞろいではあるが十分に食べられるほどのサツマイモが、ひとりでに成っていることがうれしかった。

さらにれしかったのは、わずか2個ではあるが、思わぬ予期せぬ大きさの芋が土の中から出てきた時には、なんとも言えない収穫感が体を襲った。芋の蔓を鎌で切り集め、マルチをはがし、こんもりとした土の山をスコップや三本ぐわで芋が傷つかないように、注意深く掘り起し、約2時間近くかかったのだが、十分に収穫の喜びを味会うことができた。

光と土と水のおかげで作物は育つ、人間にできることは雑草をぬいたりのわずかな手間しかやっていないにもかかわらず、食べられるお芋が十分にできるということの恵み、実りの秋というが、超ささやかな秋の恵みのサツマイモは私を幸福感に導いた。

スーパーなどではほとんどお目にかからない、小粒なものがほとんどなのだが食べるのにはなんらししょうはない。今はまだ土と向かい合う時間がなかなか取れない私だが、いずれの行く末はささやかに土と向かい合いあいたいと思う。
根を張るお芋を食べ私も見えない世界に根を伸ばしたい

四季が移り変わり、多くの多様な自然の恵みを与えてくれるこのような日本という風土に生まれた我が身の幸福を、老いと共に実感する私である。

話は変わる、このところ急に秋らしくなり列島各地は冷え込み、各地で初冠雪のたよりも届くこの頃だが、私はまだこたつも出していないし、薪ストーブも焚いていない。そろそろとは考えているが、果たしていつになるか。

紅葉のたよりも北の方から、あるいは高地にある山々から届いている。どこにも出かけていない私だが、よくゆく運動公園のメープルリーフ、モミジ、桜、銀杏、プラタナス、ほかいろんな樹木が色づいてきた。身近な近所でも散歩がてら色づく燃える秋を感じることができる。

だが、一人山里を訪ね孤愁の秋の風情を堪能するのも一興ではないかとは考えている。孤独な秋もいいものである。先人たちは万人に等しく訪れる秋を、憂いをたたえながらも楽しんでいたのに違いない。凡夫の私でさえ風情あるこの日本列島の尽きぬ興趣には老いと共にますます、刻々と変容する色移りのあでやかさに感嘆してしまう。

これからしばしの間、葉が落ちるまで、木の葉に朝日が当たるいっときを愛でるひと時を、大事に味わいたいと思う。

2019-11-09

晩秋の日の出、日没、月の輝きの中でひとり想う。

夜明けとほぼ同時に家を出て、休日のほぼルーティン的日課である声出しを約一時間ほど済ませ、朝食を終えての五十鈴川だよりタイム、立冬を過ぎ穏やかな秋の陽ざしが二階のわが部屋に差し込んでいる。

さっと新聞に目を通したが、私のような凡庸な頭では、理解に程遠い紙面を埋める記事が、文字が、言葉が飛び込んでくるが、関心のない記事にはほとんど目がゆかないし、脳が閉じたままである。

それでも老いゆく今にまるであらがうかのように、目が留まる記事を探す自分がかろうじている。そして見つける。たとへば、昨日の紙面からでは、福岡工業大学研究チームが確認した、空気中にもマイクロプラスチック、の記事。
CW・ニコルさん尊敬している

また、発言の欄ではノンフィクションライターの岩本宣明氏の一文、日本から科学者が消える日などは、切り抜いてゆっくりと読む。定年退職してから一番うれしいのは、やはり時間的にゆっくりと物事に余裕をもって取り組めることである。

朝日を浴びながら、時間を気にせず新聞を読めたり本を読めたり、さわやかな秋の空に向かってなんの束縛もなく声を出せるいっときが、コトバにならない足りている今を実感、何もない我が身一つのシンプル健やかさを感じ感謝するのである。

もう十分に、あくせく否応の人生を送ってきた自分を顧み反省し、もうそういうこれまでの自分とは限りなくおさらばしたいという自分がいる。三つ子の魂はいまだ健在ではあるものの、なんだが本当に家から(近所から)出掛けなくなったし、わずかしかお酒も飲まなくなった。まるで引きこもり老人である。

それでも十分に満ち足りた日々を、ようやくにして送っている自覚がある。やりたいことの焦点を絞り、微妙にうすい薄い自分の殻をむき続けることを継続持続する喜びの時間をこそ、これからは大切にしたいのである。

弓の巻き藁の稽古も、時に指が痛く気分がふさぎこみがちに(人間ですから)なったりもするのだが、そういうときにもひいていると、ふさぎの殻が吹き飛ぶことをすでに身体が知っているのであえてやる、(いかに人間の心が体に左右されるのかがわかる)

気分がふさぐ記事があまりにも多い昨今だが惑わされない。そのような紙面の中に人間へのゆるぎない信頼と希望の記事を見つけながら、なにはともあれ自分が変化する可能性をささやかに掘り続けたいと、きれいな秋の月を眺めながら初老男は想うのである。

2019-11-05

秋の夕暮れ、つれづれなるままに。

秋の夕日、つるべ落としとは昔の人は実に表現に生活感があふれている。とはいってももうほとんどの若い世代はつるべなどといっても見たことも触ったこともないだろう。

小学生のころ電気でポンプアップするまで、我が家は井戸からつるべで水を汲んでいた。私もよく水くみをやらされたものである。だから今は亡き生家の、小学生のころの近所の風景は、いまだはっきりと記憶の底にある。

そのようなことを、浦島太郎のように、いまだ思い出せ、このように秋の夕暮れの一時につづれることが、ナルシスティックであろうが、初老男はうれしいのである。思い出に浸れる余裕時間があり、そのことが自分の中に明日の活力を生むのである。

窓からは見事な半月の月が見える。湯を浴びてさっぱり気分で、暑くもなく寒くもなく、夕飯前のまさにささやか至福の夕刻の一時である。(ビールを我慢して書いている)

【とりたてて・書くこともなし、秋の夕暮れ】といった体なのだが、書いていると体が勝手に一文を運んでくれるかのような気分に陥るのも、これまたナルシスティックなのである。(自分で自分を大事にしない人が私は苦手である)

このように、厚顔無恥に気ままに綴れることこそが、老い力なのかもしれないと、もういい方向にしか考えないのである。起きてから陽が沈むまで今日一日も何とはなしに無事に穏やかに、ささやかな充実感をもって過ごせたことに対する有難さが、能天気な戯れ文を書かせるのである。
いつかゆっくりと読みたいと思っていた方の御本

今年も残すところあと2カ月だが、無事是名馬というではないか、体調がすぐれなかったら、旅もできないし、つまりはあらゆることに支障がきたすわけであるから、老いてきてますます今日一日元気に過ごせたことの感謝の念が深くなってきた私である。

きっとこの感覚は、歳を重ねるにつけ深まり続けるだろう。先日上京した際、わずかな時間ではあったが孫の望晃(ノア)くんと遊んだ時に見た笑顔と声としぐさに、コトバにならない名状しがたい感情、幸福感につつまれたのである。

このようなことを書き綴ると、あきらかに爺バカのそしりを免れないのでもうよすが、孫は刻一刻と精妙に変化しつつ成長する。果たして私は思うのである。孫にとって面白いおじじになろうというくらいにしか、今は言葉にできないが、面白いおじじになるにはどうしたらいいのか、考えるのである。

早い話、孫のおかげでうかうかできないテーマが、にわかに湧いてきているのである。孫の存在は行く末の老い先を照らしてくれそうなのである。

有名な俳句に習っていえば、【見渡せば・老い先照らす・孫光】お粗末。

2019-11-03

2泊3日上京旅・その2。

昨日の続きを書いておかねばと思う文化の日の朝である。約一時間夜明けの公園で声出し(夏の夜の夢のいろんな登場人物の長いセリフの)を終えて帰ってきたばかり、この一文を書いている2階の窓にまばゆいばかりの朝陽が差し込んでいる。

さて、月曜日夕方の新幹線までの間どう過ごそうかと考えながらホテルを7時半過ぎにチェックアウト、月曜の朝なのでこの時間帯、地下鉄は出勤のサラリーマンで混んでいるし、しばし思案し思い切って有楽町まで歩くことにした。

思えば上京したてのころ、貧しく、そして少年期から青年期へと向かっていた私は、底知れぬこれからの未知の人生に対する不安を抱えながら、未知の東京のあちらこちらを、さ迷い歩いたものである。未来に対する不安と、矛盾する未来に対する得体のしれぬきたいと渇望。

あれから半世紀、老いつつあるわが体で、都心部をもう一度歩けるうちに歩いてみようとのおもいが忽然と湧いたのである。まず溜池まで出て、虎ノ門、新橋、霞が関から日比谷公園と抜け、皇居の見事な松を眺め9時過ぎに有楽町についた。背中に荷物を背負っていたのだが、お天気も良く散歩がてら気持ちよく歩くことができた。

思いのほか自転車や、歩いて諸官庁(このエリアは国の中枢の官庁がひしめいている)に吸い込まれてゆく人々を多く見かけた。私とは異次元の世界で生きている方々の生態を観察しながらの散歩は楽しかった。この朝のウォーキングは今後上京する際の楽しみの一つにしたいと思わせるほどの充実感が私の中に広がった。

世はまさに高齢化いかんにかかわらず、巡礼地をめぐったりと歩くことが大はやりだが、私の場合は、半世紀を起点にして第二のふるさとともいえる、メガテクノポリス東京を老いゆく身体で歩けるうちに歩いてみたいとの気持ちが湧いてきたのである。ふるさと五十鈴川を歩くのと、東京ウォークの両極を歩く、歩けるうちに。

話を変える。有楽町についた私は荷物をコインロッカーに入れ(すっかりデジタル化されているが慣れてきた)身軽になって銀座をぶらぶらする、このぶらぶら感がたまらなく自由でいいのである。


本は帰りの新幹線で読み終えた

足はよく通った界隈の映画館へ、驚いた。よく見た好きな映画館スバル座が閉館していたのである。ちょっぴりセンチになった。おなかがすいたので、スバル座のビルの地下にある昔風の喫茶店でかろうじてのモーニングタイム。今はすっかりカフェスタイルが多くなったが、まだかろうじて昭和の雰囲気を残しているお店があるのが東京の良さである。

中年の女性の方が一人で営んでおられた。そこそこの大都市の値段で全く驚かなかったが、とーストもコーヒーもおいしく、ミルクも生であった。店内には私の好きな落ち着いたジャズが流れていて数人しかお客がいなかったので、ゆっくりと時間を過ごさせてもらった。

午後、私の足はこれまた昔よく通った映画館シネスイッチ銀座で上映されているドキュメンタリー映画【樹木希林を生きる】を観に向かった。今回の旅の最後にこのドキュメンタリーフィルムを見ることができて本当に良かった。見終えて私は早めに東京駅に向かい遅い昼食を済ませ、新幹線に乗り岡山に帰った。実りの多い旅となった。

2019-11-02

先週の上京2泊3日の旅、その1。

一週間ぶりの五十鈴川だよりである。先週土曜日から二泊三日で上京してきたことを身体が新鮮なうちに書いておきたい。

スケッチ風に。まず土曜日は着いて赤坂のホテルに荷物を預け、18歳の時から半世紀にも及ぶ交友が続いている、最初に私が上京してすぐ入った演劇学校、貝谷芸術学院で知己を得た先輩、佐々木梅治氏の演劇人生50周年自主企画、井上ひさし作【父と暮せば】を午後3時から見る。

佐々木梅治氏の、企画・構成・演出・出演の芝居一人語りである。氏は2003年からこの芝居の一人語りに取り組み、上演回数200回の記念公演。場所は浅草の木馬亭。金曜日から火曜日までの毎日一回、公園は五日間行われ私は公演二日目の午後3時からの公演を見届けた。上演時間は一時間20分。

また、氏についてはゆっくりといずれ書くことがあると思うが、18歳からの3年間かなり密に公私ともに過ごした(1970年から72年)ので、その時代の空気感の中、多様な影響を受けた先輩の一人なのである。

一言半世紀というが、その時の演劇学校で知り合った仲間の一人はすでになくなっていたりもしているし、信念を貫き、現役で自主公演までやり続けながら、演劇人生を持続している先輩は氏一人になってしまった。めでたい私にとっての慶賀な出来事というほかない。

舞台を拝見しながら、様々な思いが去来したが、【父と暮せば】になぜかくも氏が情熱を傾注して持続公演を重ねているのかは謎だが、この芝居の何かが、氏の琴線をとらえて離さないのだろう。この一人語り、企画者時代岡山でも2度ほど私が自主企画でをやっている。(名作は古びない)

今回見るのは本当に久しぶりなのだが、以前見た時よりも深く心にしみた(泣けた)のは、私がおそらく老いつつ、娘二人を無事に育て嫁がせ、何とか父として多少の役割を何とか終えることができたことに由来している。(気がした)

ともあれ、出会いから間もなく50年、人生はまさに偶然なのか必然なのか不思議というほかはない。公演後奥様中心に近親者での当日打ち上げに飛び入り参加させていただき、一次会(佐々木氏は明日の公演があるので途中で退座)二次会まで浅草の夜をはじめてであった方々と楽しく過ごし、赤坂のホテルに。

翌日曜日朝早くホテルを出て、8時過ぎに稲城に住む長女のところに。孫の望晃(ノア)君は早起きすでに朝食を済ませていた。私が玄関でおいでというと、久しぶりなのに物おじしない、すぐ私の胸に飛び込んできた。これ以上綴ると爺バカになるので控えるが、言葉がないほどに可愛く、好奇心満々で日々成長している。一歳と間もなく8か月、言葉への理解力、反応が速い。

しばし遊んでいると、次女がやってきた。レイさんはその日友人たちが午後やってくるので、昼食の準備に取り組んでいたので、娘二人とノア君の4人で気持ちのいいお天気の中、近所に買い物がてらお散歩、途中に遊具があったのでノア君はしばし滑り台などの遊具に夢中、爺も少し持ち上げたりして手助けなどしながらともに遊ぶ。

ノア君はとにかく一時もじっとしていない、ホモルーデンスとは?走りたいのだろう、歩くというよりは、気持ち走っている感じで移動する。動ける自分が面白いのだろう、その姿がなんとも言えない。とある遮断された(新しく作る住宅地を整地しているパワーシャベルが置いて在っては入れない)金網のところで転び瞬間べそをかきそうになったが、立ち直りが早い。
天使を肩車、爺は身体を鍛えて遊ぶのだ

見たこともない虫と出会って、いきなり顔が引きつったりして泣き出す。うーむ、孫は日々新しく世界と向き合って森羅万象を体得している。これから会うたびに男同士いろんな体験をするのが楽しみである。孫のおかげで爺も何か新しい自分が生まれるかもしれない。

その日は、お昼前に次女と共に長女のところを辞し、夜次女夫婦と赤坂のホテルの近くで待ち合わせ夕食。(その間私は神田界隈でひとり時間を過ごし、早めにホテルに戻って待機していた)

待ち合わせたのは夕闇迫る5時20分。ホテルから歩いて15分くらいのところにある赤坂見附の近くの、とある関西風のおでんと和食のお店、次女が予約してくれていた。次女は2か月前結婚したばかりである。二人目の義理の息子がレイさんに続いてできた。名前は周平さん(書いてもいいよね)これも親ばかになるので控えるが、好青年である。

3人での穏やかで楽しい語らいの夕食が進み、私が周さんに頼んでいた、イラスト入りの素晴らしい名刺が出来上がっていて渡された。大満足の仕上がり、名刺を作る気になったのは、また別の時に書きたい。周さんという息子がレイさんに続いて、娘たちの結婚のおかげで、忽然と私にできた不思議感を何と言葉にできよう。

周さん、シェイクスピア遊声塾これでエンジンが入る、感謝。
これまた、偶然か必然化、人生はまさに予期せぬことの連続の連鎖の上に刻々と刻まれてゆくのである。名刺のお礼に私がご馳走しなければいけないのに何と周さんがご飯代まで支払ってくれていた。たいして飲んでもいないのにいい気持になり、初老男は幸福であった。

周さんはお酒をたしなまないので食事を終え、偶然見つけたアラビアコーヒーの一家言ある主が営んでいるこだわりの茶房でコーヒータイム。値段は秘す、野暮は苦手である。人生忘れられない思い出がいかほどできるか。良き記憶は財産である。(やがては忘れゆくも、だからこそ今を切なくも大切に生きるのである)

平坦な人生などあるはずもない、力を合わせ乗り切っていってほしい。二組の娘たち夫婦に対して不即不離の関係で、おじじとして迷惑をなるべくかけないように見守ってゆくべく、私もいよいよこれからが、正念場である。(続きは明日書きます)

2019-10-26

第一回西日本槇峰会総会に参加できました、そして想う。

昨日、大阪の道頓堀ホテルでお昼から午後3時まで行われた、第一回西日本槇峰会総会に、日帰りで行ってきた。

そのことを、わずかでも頭が新鮮なうちに少しでも五十鈴川だよりに綴っておきたい。数週間前、3年ぶりに突然私にK君からメールが入った。

内容は25日、大阪で槇峰会なるものがあるので参加してみないかとのお誘いであった。同窓会ではなく槇峰会のお誘い。しばし私は逡巡した。が、どこかで私は出かけてみたいとの思いが次第に湧いてきた。

槇峰会なるものが関東や、関西にあるとのことは、3年前槇峰の地にあった美々地小学校の同窓会にたまたま偶然参加することができたた時に聞いてはいた。

話を少し戻すが、私は父親が教師であったため生まれて就学前も含めれば、宮崎県の中を5回ほど引っ越している。生まれてすぐ高千穂というところに行き(私の最初の記憶は高千穂に雪が降っていた光景である)3歳まで過ごし、そこから生まれた門川に引っ越して、小学校の5年生までを門川小学校で過ごし、6年生の時一年間だけを、槇峰銅山のあった美々地小学校で過ごしたのである。

妻の最愛の花、五十鈴川だよりを綴るとやってくる
この時の一年間の出来事は、齢67歳の今になっても記憶の底のそこかしこに、かなり鮮明に残っている。それはそれまで過ごした海沿いの門川小学校とは、多面的にあまりにも異なる環境に突然放り込まれたことと、6年生でいよいよ多感な思春期の入口に差し掛かっていたからではないかと思う。

 この時過ごした一年間の途中から、槇峰銅山閉山のうわさが教室内に流れ、ぽつりぽつりと旧友が転校してゆき、私も一年後、父親が都城の近くにあった高城町立四家(しか)中学校への転勤と共に転校を余儀なくされた。

私が転校して後間もなく、槇峰銅山は閉山し、かっての級友たちは全国各地に離散した。が美々地小学校での鮮烈な記憶が私を槇峰へといざなう。高校生になった夏休み生家に戻った私は、ひとり槇峰の地を訪ねた。槇峰の地の風景は一変し、かって一年間住んだ中学校の下に在った桜が丘の炭住あとは無残なまでに雑草に覆われていた。

地元の子供だけが通う美々地小学校はまだあったが、私の中の面影、あの山間の地の槇峰は無残なまでに姿を変えていた。私は15歳になっていた。

わずか3年前とのあまりの劇然たる変化に茫然自失したといっても過言ではない。多感な思春期の真っ盛り、今考えると力が全身から抜けてゆくかのような虚脱状態に私は襲われたのである。

あの級友たちはいずこへ。あの時の虚脱感が私に与えた、今風に言えばトラウマが、その翌年高校2年生になりまたもや転校、生家から通い始めた富島高校で演劇部に入部することになるのである。

話を戻す。50歳を前にして父親が亡くなり、私はまたもや槇峰の地を訪ねた。長くなるので端折るが、そこで槇峰の地に今も住むT君に40年ぶりくらいに再会し、幸いなことに彼が私のことを覚えていてくれたことが、3年前静岡で行われた美々地小学校への同窓会に参加するという、思わぬ予期せぬ出来事へとつながるのである。

長女が生まれた時に植えたスダチ今年は当たり年である
その同窓会で、当時岡山に住んでいていまは滋賀県に住むK君と知り合い、彼が3年ぶりに私にメールを突然くれ、誘ってくれたおかげで槇峰会に参加がかなったというわけである。

今日これから上京せねばならず簡略に記すが、槇峰銅山閉山後、日本各地に散った仲間がその後半世紀以上にわたって今もこのような形で、絆の確認とお互いの友好を継続持続しておられる会に、浦島太郎のように参加させていただいた幸運な出来事を何としても、五十鈴川だよりに書いておきたいのである。

未曾有の高齢化の中49名の方の参加、私やK君が一番若く、ほとんどの参加者の方が私より年上の方々ばかりだった。その後人生の修羅場を潜り抜けて今もこうして友愛を継続持続されている事実に、私は深く感謝の念を抱かずにはいられなかった。

高齢化し、関西槇峰会は継続不可能となり、有志9名で再び西日本槇峰会を立ち上げられたとのことである。その情熱の深さ念いには脱帽するほかはない。日本人の誇りここに健在である。

K君ぐらいしか話し相手がいなかったが、私の父親を覚えていた方もおられた。アルコールのおかげで、私もすっかりリラックスし、いろんな方がたった一年しかいなかった私に暖かく声をかけてくださり、本当に恐縮しながらも参加してよかったとの思いが、こうして私に五十鈴川だよりを書かせるのである。

人生は有限である。身体が元気な間は可能な限り槇峰銅山閉山後も、熱き絆の継続を実践されている諸先輩方との交友に学びたく、今後も参加したい。K君お声掛けありがとう。

2019-10-22

歓喜と絶望のはざまに想う。

今日は午前中肉体労働はお休み、即位の礼だからである。まだ外は暗い。さて何を綴ろう。

もう10日近く前、日本対スコットランド戦が行われた13日私は故郷に帰省していた。前日の12日から当日、台風19号が主に関東以北を直撃、未曾有の多くの川が決壊するかって経験したことがないほどの水災害となった。

その日兄と共にスコットランド戦を見たが、その間完全に被災地のことなど念頭になく、画面に吸い付けられていた。

前回大会で苦杯をなめた相手スコットランドに、何としてでも勝つんだという執念は、被災された方々に、試合後あの笑わない男稲垣選手が少しでも勇気を与えたかったとインタビューで応えていた。
書評欄のイラストのカットがとにかく楽しみでした

おそらく被災された方々の多くはワールドカップどころではなかったであろう。一方で絶望的なほどの困難さの状況を生きる方々、方や歓喜につつまれるスタンド。これが現実の世の中である。

想像する、自分が被災し家を流され、肉親を失われたしたりしたら、ワールドカップどころではなかっただろう。悲しいかな残酷というほかはないほどに人間は(自分は)自己中心的な存在である。
他者の苦しみや、哀しみ痛みは、(喜びもまた)おそらく経験した者でなければ分からない。昨年夏の豪雨で、我が家のそばを流れる小さな川、砂川の上流が決壊し一部のエリアの家屋が水に浸かった。猛暑の中一日だけボランティア活動に行ったが言葉がなかった。

話は変わるが、人間は心も決壊する。自殺者の数はこの数年減少傾向にあるが、小中学生の自殺は増えている。いじめのニュースなどひきも切らない。教師が教師をいじめる、漫画である。なぜかくも弱者に対する思いやりなどが、退行する社会になったのか。

凡夫の私には遠く理解の及ばぬところではあるが、特に戦後、きっとあまりにも世の中が急激なテクノロジーの発達経済社会にシフトしすぎたために、何が何だか分からなくなっているのではないか。自然の一部である身体が、いじめをする側もされる側も、わけもわからず悲鳴を上げているのではないかと、愚考する。

この一文も私の好きな池澤夏樹さんが寄せておられる。
で、ふたたびラグビーの話。テクノロジーがいかに発達しようが、人間は所詮排泄する器、身体を動かす、自分を動かすしかない存在である。でないと他者に迷惑をかける。家の中に泥が入り、どかすにも片づけるにも、高齢者はともかく、基本的には自分の体を動かすしかない。基本を置き去りにした社会、身体が動かなくなったらアウトである。

石油、耕運機や車社会以前はみんな体を動かしていた。私を含めたほとんどの日本人が、体を動かすことの悦楽を忘れたのである。

便利快適社会を追求し続ける経済発展幻想社会の未来は、果てしなく災害に弱い社会であることが、立証され続けているかのようなこの9・11以降の日本列島。そう感じるのは私だけであろうか。

ラグビー日本代表が示唆している姿に私は生きるヒントを感じる。勝負は置いといて、あの汗水たらして大事なもの、誇りを守るために身体を張る。感動は銭では買えない。男の私としては困った時には足場を固めるしかほかに方法がない。足るを知る者は富む。難しくはない、当たり前のことである。原点に還る。そのことを日本代表が教えてくれたように想う。