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2024-05-04

五月晴れの4日の朝に想う、五十鈴川だより。

 なんとも表現しがたいほどの、まさに五月晴れの昨日今日の朝である。妻が丹精した我が家のバラや種々の花がまさに百花繚乱、たとえようもなく気持ちのいい季節の到来である。そのような一日の昨日、朝から途中お昼休みをとり夕刻まで、家庭菜園畑仕事にいそしんだ。

大型の草刈り機に乗る葉くんと私

サツマイモを50、他にトマトや茄子、シシトウ、パプリカ、いただいたメロンの苗を3つほどうえた。6年前、バイト先に家庭菜園ができるスペースを確保してから、折々土と触れる時間を大事にしている私だが、こんなにたくさんサツマイモを植えたことははじめてである。雑草もすきこみ、耕運機で耕し、2列の畝を作り、マルチで覆い50本の苗を等間隔に植え最後水やりをして終わりである。

完全無農薬なので雑草がおびただしいのだが、それが自然なのだからそれでよいのである。大きく育たなくてもかまわない。余った小さなスペースもマルチで覆い、2本ずつ苗を植えたのだが、もう少しスペースがあるので近日中にピーマン他の苗を植える予定である。

私は前期高齢者になってまもなく、この肉体労働仕事に恵まれたことの果報を心より感謝している。31歳ではじめて土に触れ、おおよそ3年間の富良野での労働体験が、私のコペルニクス的な転回となった。あの3年間がなかったら、恐らく今のこの仕事をやろうとも思わなかっただろう。そして想う。富良野での経験がなかったら、きっと中世夢が原とも巡り会えなかっただろう。人生は限りなく無駄なく今と繋がっている。

土を盛り上げ畝を作るのは鍬でやるしかない。25本ずつ植えるため2列の畝を造ったのだが、何度も息が上がりその度に雲を眺め天を仰ぎ深呼吸、しゃがんで50本の苗を植えるのは腰が痛くなる。だが終えたときの達成感は、やったものだけが味わえる喜びである。一事が万事すべてにいえる。苦しさと喜びは表裏一体である。たぶん一生修行は終わらない。覚悟すべしと何かがささやく。

体力、根気、やる気、持続力、すべてリーディング音読に通ずる。深い呼吸ができないとシェイクスピアのリーディングはまず無理である。だから私は肉体労働仕事、息が上がると深い呼吸を意識して心がけるようにしている。体操でも必ず深呼吸して心身を整えるように、呼吸をすることに意識的になることは、若い人はもちろん、老人にはとても大事なことである。

たぶん、私はシェイクスピア作品を一年でも長く音読したいがために、肉体労働仕事に従事しているのは確かだが、想うに何をするにも、体が健やかで気が働かないと、すべては成し得ない、のだ。古稀を過ぎるとその事を実感する。だからこそ大事なことにのみ時間を費やす老いゆく時間の体が喜ぶ使い方が、私にとっては大事なのである。

時に億劫になることも確かだが、そのようなときにこそ、少しずつ少しずつ体を動かしていると、不思議と体は動き始めるのである。いまがすべて、頭で考えてはならない。まずは体を動かし考えるのである。

老後という言葉が私は嫌いである。老いに怯え若さにこだわるお年寄りも苦手である。老いは病気ではない。老いとあくまでも自然に向き合える私でありたい。当たり前、日々はじめて経験する老いゆく時間、一日一日をいかに過ごし、面白半分(という雑誌がかってあった)に生きられるか。五月晴れの朝に想う私である。

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