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2023-02-05

亡き父の命日の朝に想う。

 昨日は立春だった。そして2回目の岡山夜間中学でのレッスン行われた。そして今日はなき父の命日である。父は生涯を教師で生きた。その父が私が夜間中学でレッスンしている姿を、もし生きて眺めたら、なんていうかなあ。などと考えながら帰路美しい月を(1月7日の初めてのレッスンでもフルムーンが浮かんでいた)愛でながらおもった。

昨年古稀を迎えて11日後、ウクライナで戦争が勃発し、おびただしいウクライナから他国に移動する難民の人々の映像を見た私は、当時日本が併合していた北朝鮮で教師をしていた父と母、3才の姉と生後半年の兄を伴い、まさに命からがら38度線を越え、今の韓国の仁川から(当時仁川はひなびた漁村だったが、現在はスーパーな国際空港になっている)引き揚げてきた。

小学校4年生のころの私と父

もしあのとき無事に帰国できなかったら、私はこの世に存在していない。若いときには自分のことで精一杯で、両親のことにおもいを馳せることは、正直少なかったのだが、親としての役割、社会的な役割を終え、死を以前にもまして真剣に考えるようになってきたからこそ、老い人生活のなかで、ウクライナの音楽家を10年ぶりではあったが、企画することができたのだと思える。

企画を決めてから実現するまでのほぼ2ヶ月、まるで何かにとりつかれたかのように、五十鈴川だよりを打ち続けたのは、たぶん両親の引き揚げ体験が私の中のなにかを灯をともし、平和というものの、無くしてみて初めて知る尊さを実感したからに他ならない。

話は、変わるが、ウクライナの音楽家を企画できたことは、あきらかに私のなかに内的な変化をもたらした。限りある命、これから何を自分は企画したいのか、どのように生活し生きて行けばいいのかを、改めて問わずにはいられなかったのである。

そしてその事が、思索の末、老いのアクションを引き起こし、松岡和子先生との再会をもたらし、松岡先生の翻訳でシェイクスピア作品を改めて一から音読することになり、長い台詞の筆写をすることになったり、岡山夜間中学でのレッスンに結び付いたりしたのではないかと、勝手にいい方向に考えてしまう私なのである。いい方向にものがたりか、することで生の充実を呼び起こし、自分で自分をのせてゆくのである。

ともあれ、還暦以降綴っている五十鈴川だより、日々時代と共に揺れ動きながら、庶民の一人として、つたなくはあれ、個人の記録的にでも一日でも健康が許す限り、揺れ動くうたかたのおもい、ささやかに打ち続けたいとの想いはやまない私である。そのなかで企画が生まれたり、夜間中学でのレッスンがやれたりしていることが、ありがたい、のである。

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