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2021-09-04

ポストコロナを見据え、9月最初の休日の朝に想う。

 三日間雨が続いている。雷の音で目覚め、まだ暗い午前4時、休日ではあるが起きた。起床時間は毎日ほとんど変わらないが、休日はコンディション次第である。

バイトの日も含め、読んだり書いたりは早朝か、最近は午睡の後にも(涼しくなってきたので)書くようにしている。よく休んだ体でないと私の場合ダメなのである。この傾向は年齢と共にだから、五十鈴川だよりを打てる間は、一日でも長く持続根気を養いながら、朝の英気をいただきながら、打ち続けたいと念う。

もうほとんど、世の流れからは遠く離れた自分を自覚しながら、あえて打てばずれまくっている自分自身を、いい意味で途方に暮れながら、やれることを在り難がりながら、生活者としての今を、好奇心のおもむくまま生きている、のだ。

術後、お酒をたしなまなくなったし、ころなの猛威の渦中を、以前にもましてストイック、かつシンプルに日々を逆に、送っている。(送れている)アクティブに動ける暮らしから、アクティブには動けない暮らし、限られた範囲での生活を。

一言でいえば、コロナ以前、そして手術以前とは異なる生活の持続の中で、内なる内面との対話時間が増え、想わぬ本との出会いがあればこそ、このコロナ渦中でも何とか精神の安寧が保たれているのは間違いない。もっと打てば、充実しているのである。

まことに持って良き本というのは、かけがえがないと身につまされる。古希目前にもなってあまりの自分の無知、浅学菲才をこのコロナ渦中の読書体験で、ますますもって知らされている。

例えば、この春土取利行さんに教えていただいた、永井叔(よし)という青空詩人の自伝の青春篇を今半分以上読んでいるのだが、コロナ以前の生活が続いていたら、けっして読むことなく、知ることなく、人生を閉じていたかもしれないと想うと、一事が万事塞翁が馬というしかない気になる。

手術でお酒を飲まなくなったことが良き方に展開して、遅きに失した感が無きにしも非ずとはいえ、母の言葉が蘇り、気づいた時が一番若いのだ、と学び知ることの有難さを、日々感じている今なのである。

60代のかなりの時間は、好きなシェイクスピア作品の音読を中心に生活が回転していたのだが、コロナのおかげで、まったく予期しない生活が続いているおかげで、根本からの生活転換が、コロナ後できそうな気がしてきている、のだ。

コロナ後の生活を想定する。静かな音読は続けるかもしれないが、60代とは異なるシェイクスピア作品中心ではなく、楕円的に中心が分散しながらも集中し、つながってゆく自分にとっての、新しいこれからの時間の過ごし方を模索しているのである。

実現する、しないもさることながら、要はやりたいと思えるか、想えないかなのである。自分という器がおもい付くことがあったればこそ、シェイクスピア遊声塾も実現したのである。閉じることで、また新たな可能性が生まれるかもしれないではないか。

もやもやした揺籃、コトバ化しにくいのだが、以前やっていたようなことはもうやりたくない自分が生まれてきたのである。これからは一年でも二年でも、心底やりたいことをやれる仲間がいれば共にやりたいし、いなくても、とりあえずかまわない。

企画は、声を一人で出すようなわけにはいかないが、土取利行さんがやりたいことは、お手伝いではなく、共(友)にやりたいと 考えている。ほかにもやりたいことが生まれてきている。

土取利行さんの足跡、歩み、その 多岐にわたる膨大なお仕事、そして今、そしてこれからの時間の中で、取り組もうとされているエネルギーに少しでも関わりたく思っている。

土取利行さんの取り組み、お仕事の全貌のわずかしか理解しえていないことは、私が一番承知している。だが、理解しているから共に何かしたいのではない。理解できないからこそ、面白いのであり、未知なのであり、冒険心をそそられるのである。

もっと打てば、理解しているからではなく、信じているから共に仕事がしたいのである。


 




 

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