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2021-08-13

静かに物思う夜明け前の夏の朝。

毎日ではないにもせよ、10年間 近く五十鈴川だよりを打ってきて、よく続けてきたものだとのささやかな感慨にとらわれることがある。どこか今日のささやかな現在のおもいのかけらのような言葉が体の、あたまの、胸のどこかに浮かんでくる(浮かばなくても、思念する)それらを消える前に素早くキャッチ、キィを打ち文字が顕れてくるのが、まったく予期しない言葉が生まれてくるのが、つまりは苦しくも打ち続けている楽しさなのである。

降ってわいたコロナ生活、おおよそ1年半、この間そして今も否応なく続けてゆかなければならない状況下で、一人でささやかに思考し、絶えずふわふわと揺れ動く老いゆく中での、日々のつれづれを、キィで打つのは、内面の掃除、整理整頓をし続けながら、新鮮な酸素を体に取り込むかのようなあんばいで、時折強烈に打ちたくなるのである。

10代の終わりころまで、読むのも書くのも、まったく苦手としていたことが、真逆とまで言ってもいいほどに、いわば好きになってしまうのだから、いかに自分という存在が不思議な存在であるのかは、自分としてもようとしてわからない。

だが老い楽、晩年になっても、このコロナ自粛生活のおかげで、五十鈴川だよりを打ち続けてきたおかげで、まだ自分の心と体は更新し続けているといった感覚が、在るのがわかるので、厚顔無恥を満天下にさらしている、といった次第なのである。

と、ここでいつものように話は急展開、このところささやかにバイト先で手でつまんで、雑草を引き抜くという、かなり腰に負担のかかる行為を、時間を決めて無理のない範囲で、しかもあきらめず、コツコツと続けている。

菜園場の草取りもそうだが、かがんでしゃがんでのかなり体に負担のかかる作業を、意味もなく続けている。ただただ手先を動かす。指の血色がすごくよくなりつまむ力が付く。土の香りを嗅ぐ。一事が万事、何事も面白くやっていると身についてくるのをわが体は、体得している。万物の母土との哲学的対話。

掃き掃除、拭き掃除、あらゆる体動かし日常生活(機械を使っても)近代化以前、わが先人たちはいかに体の動かし方を、知悉していたのかがわかる。便利になればなるほど、不自由になるという何という逆説。中世夢が原や、富良野での労働、そして今も過去の経験の上に、そこそこ動け働けているのだと知る。

何事も一朝一夕には叶わず、焦っては何事もなしえない、人と競うのではなく、自分との対話の上に、身体が喜ぶことを見つけてゆく。病を体験し、謙虚に自分と向き合うようになってきたように思う。私は喉元過ぎれば熱さを忘れるタイプである。だから、五十鈴川だよりを打ち自省する。世界の多くの地域で困難を生きる、生きざるを得ない人々のことに想いをはせる、人間としての良識感覚は持ち続けたい。

そのために、一日でも長く肉体労働を続けたいのである。

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