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2021-05-22

一年以上の、ほとんど巣ごもりオタク生活を静かに過ごし、そして想う。

 目覚めたら、まずしばらく闇の中でもぞもぞと体を動かす、足先とか手先とか。5~6分してゆっくりと床を離れる。年寄りらしく緩やかに階下までは電気をつけずに降りてゆく。家人がまだ休んでいるからである。

小さな電気をつけ、コーヒーを淹れ、メルに朝食をやり、電気を消し、再び闇の中を自室まで手すりにつかまりながら階段を上がる。自室の電気スタンドをつけ、明かりを絞り、薄暗がりの中、ゆっくりとコーヒーを飲む。 

コーヒーを飲み終えると布団をたたみパソコンをオンにする。肉体労働がない日、五十鈴川だよりに向かうときはほとんどこのルーティンである。朝食は書いてから軽くとったり、とらずにそのままブランチということも多い。

朝の闇の中の移動は、明かりに頼らないで足先や指先に頼り、意識を集中し体の感覚を確認するために、ずいぶん前から始めたことである。ベッドもあるが、できるだけ布団を敷き畳むようにしている。たったこれだけのことで、身体がずいぶんとすっきりして一日が始まる。いわばささやかな儀式である。

塵も積もれば山、ということにどこかすがる自分がいる。ぞうきんを絞る。かがんで弓の巻き藁をする自室の床をふく。 野菜を洗う、むく、刻む。食器を洗い拭く。書き出せば生活の中で何といろんな体の動き、所作を日々繰り返し生活していることか。

手術でまったく身体が動かせなかったとき(池江選手の比ではないが)、のことを、あの時のことを、いまだ反芻うする。動けるということが、見えるということが、食べられる、飲み込めるということが、自分で排泄できることが、どれほどありがたいか、手術入院でいくばくか私は思い知ったのである。

だから、この先(もうほとんどそのような感じの五十鈴川だよりだが)老人が繰り返し同じことを話すように、繰り返し似たようなことを綴ってゆくのかもしれない。ご容赦を。

話を変える。コロナの出現以来盛り場を歩いたり、書店にふらり立ち寄ったり、カフェすることがまったくなくなってしまってから一年以上たつが、今のところさほど大きな支障がなく生活ができている。

若い時に背伸びして買って、いつの日にか読もうと思って積んでおかれた本を、千歳一隅のチャンスと、恐ろしいほどの(時間は有限なのに) 遅読で読んでいられるのも大きい。今読まずしていつ読めるのか。循環しながら、大まかな時間割を作ってルーティン化しての日常生活を、オーバーに言えば虚構化しながら普遍化して遊んでいる。

若いころから還暦まで、あんなに動き回って、ワンダフルワールドを、浮き浮きドキドキはらはらしていた自分とは思えないほどのオタク生活ぶりである。

ダーウィンの進化論もいまだ精読したことがない、無知な私をこの歳て痛感している。思わぬコロナ自粛で 否応なくの変化生活、【知識は力】であるとの信念は、出口治明先生のお言葉であるが、高校卒業と同時に世の中に出て、真剣に学ぶ時間を持てなかっただけに、どこか降ってわいた巣ごもりオタク生活の在り難さをを静かに享受している。

夜が明けた。さあ、今日はどのような時間割で過ごせるか、面白がろう。


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