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2018-09-07

尻切れトンボの今朝の五十鈴川だより。

九月に入り、2度目の五十鈴川だよりである。シェイクスピアの普遍的なあまりにも有名な作品ハムレット、ハムレットは言う、【この天と地との間には、哲学などおもいもつかぬことがあるものだ】と。

北海道を震度7の地震が襲った、無残たる思いもかけぬ惨場には言葉を失う。映像は私の心を揺らし惑わす。なすすべのない呆然たる無力感にとらわれる。

青春の終わり、富良野で三度冬を越し、土地勘のある大地の上で暮らす人々に、思いをはせる。

九州生まれの私は、若いころ北の大地にあこがれを持ち、18歳で演劇学校にはいるために上京し、何とかバイト生活をつづけながら、二十歳までの3年間を過ごしたが、現実は限りなく厳しく私の上に乗りかかり、苦悶の果てに私はなけなしの金をもって、北の大地北海道を旅したことがある。(この体験は旅の重さを私に知らしめた。だから私は今も行き詰まると一人旅に出る)

ヒトは成功体験は語るが、無残体験は語りたがらない。かくゆう私だってそうである。私の10代の終わりから、30代の初め、つまりちょっと長めの青春時代は、お恥ずかしいくらいの、試行錯誤の繰り返し、挫折挫折の連続であった、と今にして思える。

だが、この歳になって気づき想う、ヒトは困難を避けたがるが、生きている限り困難は、おそらく永遠に続く のである。ヒトは追い詰められ、覚悟を決める。

ハムレットは絶えず自問自答を繰り返す。このままでいいのか、いけないのかと。66歳にもなって、お恥ずかしい限りではあるが、いまだ私はどこかに青春のしっぽの燃えカスのようなものを心のどかに隠し持っているかのように感じている。だから、五十鈴川だよりを書きながら、自問自答を繰り返す、このままでいいのかと。

さて、5回目の、あの夏のリア王の発表会を終え、6年目に向かう最初のレッスンが5日夜行われた。

参加者は私を含めた7人。テキストはロミオとジュリエット。高校生の時に見た、フランコゼフィレッリのロミオとジュリエットに出遭うことがなかったら、私はあのまま田舎で一生を終えたかもしれない。シェイクスピアの国に留学することもなく、イタリアを漫遊することもなく、この惑星に生を受けた奇跡を感知することもなく。

大きなスクリーンに登場する人物たちの、やり場のない持て余すエネルギーの発露、青春の光と影、生命力あふるる疾走する言葉言葉、大人の無理解、断絶、運命の非情残酷さ、完全に私は根こそぎ夢か現かの際の世界にといざなわれた。
蜷川幸雄商業演劇初演出ロミオとジュリエットのパンフ

あれから半世紀、岡山で塾生と共に声を出している自分が、まっこと不思議でならなかった。でも事実なのである。

ロミオとジュリエットで私がもっとも好きな人物の一人、マーキューシオ は言う、【夢とは暇な頭が生む幻】だと。

リア王からロミオとジュリエットへ。老いの物語から青春 物語へとシフトチェンジ、かなわぬ夢物語をつぐむために、可能な限り塾生と共に口を動かしたいと願う私である。




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