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2018-09-24

秋分の日の翌日の夕方の五十鈴川だより

2週続いての3連休、昨日は秋分の日、今日はあいにくの曇りだが見えないだけで空にはかなり満月が近い月が浮かんでいるはずである。

もう繰り返し書いているが私は月に行くことよりも、月を眺める方がはるかに好きである。五十鈴川だよりを書き始めた日にも、空には満月が噛んでいたような記憶がある。

話は変わる。極めて個人的な身辺雑記をほとんどは書き連ねている五十鈴川だよりではあるが、時折どうしても触れたくなる新聞記事などがある。

最近でいえば、プラスチックのゴミ問題である。ミクロのプラスチックのごみが、魚や動物の体内ばかりではなく、飲料水 にまで及んでいるという報道記事を目にすると、どうしても心が穏やかではいられなくなる。

私は極めて手付かずのほとんどゴミのない、まだプラスチックの容器などがない時代に、10歳くらいまでごした世代なので、まったくきれいな海や川の原風景ノ記憶が、はっきりと残っている。

その記憶の宝のかけがえのなさを、年とともに痛感している。おそらく私が鮭が故郷の川に、還って産卵するのとはまた少し異なるかもしれないが、私が晩年になればなるほど、故郷の川や海や山に向かうのは、AIでは作れない自然世界に回帰したいという、生き物としての本能だろう。

そういう意味では、老いつつあるとはいえ、私のいまだ内なる自然回帰本能は元気である。おじじとしては、孫の望晃くんたちの未来世代のことを想うとき、時折暗澹としながらも、個人的に折々、世界の大問題に一個人として、五十鈴川だよりにきちんと触れておかねばと反省するのである。そういう意味では我々よりも若い世代の方がはるかに期待が持てる。

動植物たちを、絶滅危惧種に追い込んだり、ほかの生物にとって有害なプラスチックの ごみをまき散らして平然としているある種の人類の方々とは、神経の回路が私はちょっと異なると、はっきりと書いておく。

今年の夏、家族で宝伝の海に砂遊び出かけた折も、プラスチック製品のごみ容器が、あちらこちらに打ち寄せられていた。
我が家に初めて咲いたヒガンバナ

これこそグローカルに、人類の意識のある責任ある大人、一人一人がブログであれ、フェイスブックであれ、ツイッターであれ、投書であれ、なんでもいいから、問題意識をもって、自分なりの見解や、提議をなすべき喫緊の課題であると、私などは考えてしまう。

この半世紀、オリンピックや、ワールドカップほか、毎年のように、ありとあらゆる次から次にと繰り広げられる、主に映像による大型お祭り消費イベント の陰で、地球温暖化環境問題は、どうもよい方向に向かっていないように感じるのは、わたし一人ではあるまい。

安全な水、おいしい酸素は緑がなければ無理である。お金がいくらあっても、あらゆる生物、人類は困るのだ。優先順位で何にも勝るのは、あらゆる生命の連鎖の上での、持続的人類の営みの平和共存である。

 アメリカの高校生や、カルフォルニアの知事や、世界の心あるストローなどを使用する企業人が、果敢に声をあげ取り組み始めている、心強い。

日本人はあまりにも緑か豊かで、自らが豊富なので、ややもすると鈍感に(私のことです)なりやすい。反省しないといけない。

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