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2017-10-21

雨の秋の朝、妻への慕情を臆面も綴る五十鈴川だより。

この一年、メニエール病で体調の維持に難儀をしていた妻(特にこの半年間)が、まだ油断はできないものの、ようやく普段の生活には支障がないほどに回復しつつある。そのことがたとえようもなく私はうれしい。(夫婦には夫婦にしか感知しえないことがやはりあるのだ)

妻は、私が 弓を始めるのとほぼ同時にピアノを習い始め、ときおり電子ピアノでの練習の音色が我が家に響くようになった。わたしがいまこの一文を綴っている向こうで彼女は指を動かすのに余念がない。

メニエールを抱えながらも、仕事も家事もピアノも、あらゆる生活全般を、淡々とこなしてゆく姿に、私はまた、いまだ私の知らない妻の性格の一端を垣間見ている、辛抱強い。

知り合って31年になるが、未だ妻は私を驚かす存在である。だからなのだろう、飽きずに共に暮らしていて、面白いのである。何気ない日常のなか微妙に変化し続けている。私が好きなのは、性差を超えて、勇気をもって変化し続けるヒトである。

男である私にとって、女性である 妻は、永久に謎の存在であることこそが望ましいのだと、最近は納得しているが、向こうはどのように思っているのか皆目わからない。

ようやくにして、臆面もなく、鉄面皮のように、公に 恥ずかしげもなくこのような一文を綴っても平気になりつつあるのは、私が老いてきたからだと、はっきりと自覚している。

この調子だと、老いるにしたがって 、私の妻へのそこはかとない慕情の念は、五十鈴川つづりは、減ることはなく、増えてゆくのではないかという気がするが、繰り返す老いたのだ。

生活のすべての基盤である、家庭生活 の充実感あってこその、わがさやけき人生の花に、私はすがる。子供たちが自立し、これからはあらためての夫婦の関係性の再構築の人生時間に入ったのだという認識が、65歳を契機により一層深まってきた。

健康にお互い過ごせる人生時間をこそ、これからは大事にしたいと、私は決めた、いくら鉄面皮の私でも、これ以上書くのは控える。

話を変える、9月娘夫婦にこどもがやどった(安定期に入った)ことを、二人の口から直接聞かされて以来、またもや私の中になんともいえない、新たな感情が湧きおこってきている。それは妻も同じである。

娘の誕生が、私の人生の選択を変えたが、今はただただ無事に孫の生誕を祈るだけだが、孫に恵まれるということが、私にどのような変化をもたらすのかを待ち望む私である。

若い頃から随分と世界を飛び回り、右往左往した私だが、狭い範囲での老いらく生活を希求したいとの、思いが深まる秋の雨の朝である。、



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