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2017-02-01

弱肉強食でいいのか、いけないのか、五十鈴川だよりを書き続けられる平和をかみしめ思う。

今日から2月である。数えたら一月は11回五十鈴川だよりを書いている。
みごとにまるまる花

これくらいのペースで書き続けていられるのはきっと書きたいとがあるからなのだ。

いい意味での煩悩を抱えて今月もなにがしか、自分と対話するように書くという落ち着いた夜明けの朝時間をたいせつにしたい。

ところで、このところトランプ大統領に関する話題がニュースに取り上げられない日はない。

この世の中に生きている以上、社会の動向に関していくばくかの関心はわたくしごと気でも ささやかに持ち続けている。だがささくれだったこの世相、心が穏やかになるようなニュースがあまりに乏しい。

安全保障法案なども、多数決の論理がこうまでなし崩しにまかり通ってしまうと、まさに民主主義って何なのかと、問わずにはいられない。

正直、政治的な事柄や 事件や、あまたの私の常識的な感覚から程遠い、これでもかと報道される編集されたニュース映像にはうんざりしてしまう。(目と耳を閉じたいほどに)NHKのニュースはラジオの方が聞きがいがある。骨のあるジャーナリストはどこへ消えたのか。

時代のトレンドを、ようやく冷静に眺められるような年齢と身分を手に入れた私は、ささやかに身の丈に合う範囲で、懐疑的に観察したいと思わずにはいられない。

幸福感や平和 という感覚は、各人千差万別だとは思うが、大方の人間は食べて寝るところがあって、ささやかな家族的な営みと希望が保たれれば、満足感には遠くても生きられるのではないかと思う。
青木理著(この方のおかげでいろんなことをしることができた)

それが、ひたひたとそうはゆかない時代の足音を、かなりの人たちが敏感に、潜在的に本能的に不安をもっているのではないかと推察する。

私など世の中に出てから、嫌というほど弱者の側に身を置いてきたので、食うものがないという恐怖にも近い感覚は、戦前の方たちとは比較にならないにもせよ、かなり持っているつもりである。

私がささやかに母のような菜園場だけでも確保したいと思うのは、その表れといっても過言ではない。いざとなったら我が身は我が身で守るしかないというのが、自然界の法、掟であるのかもしれない。

がしかし、弱肉強食が自然界の掟であるのなら、人類の少数者は、おごる力強きものに対して、死を賭してまで、どうして哲学、芸術や芸能やあらゆる文化という英知を綿々と紡ぎ続けてきたのだろうか。

いつの時代も芸術家は少数者である。私も含めた庶民大衆は、もっともっと少数者の声に耳を傾ける、穏やかな根性を身に着けねばとおもう。

TO BE OR OR NOT TB THAT IS THE QUESTION 私に言わせれば弱肉強食でいいのか、いけないのか、考え続ける勇気を持たねばならない、という気が個人的にする。

こ難しい議論は置く。その日一日働いて、ささやかに家族(独身であれ)と夕食を共にできるくらいの、つましい暮らしの確保,他者の(他国の)存在を尊重する理念が掲げられる憲法を持つ国でありたいものだ。私が能天気に 五十鈴川だよりを書き続けられるのも平和であるからだ。




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