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2016-05-21

蜷川さんがお亡くなりになり9日目の朝に思う。

蜷川幸雄さんが、12日にお亡くなりになってから9日目の朝である。80歳で冥界へと逝かれた。見事な死というしかない。蜷川さんの死は今を生きる私にあらゆる示唆を喚起させる。
私は1970年、18歳で上京してから25歳で英国に旅立つまでに、蜷川さんの演出作品を思い出すだけで7本見ている。

とくに商業演劇以前、いわゆるアングラといわれた時代の、清水邦夫作の2本、【鴉よおれたちは弾を込める】【泣かないのか、泣かないのか1973年のために】と唐十郎作【盲導犬】の3作品。私が二十歳までに見た無名時代の蜷川演出作品は、強烈に今も脳裏に焼き付いている。

田舎から上京して、あっぷあっぷ暮らしていた私は、とにかくお金の許す限り、劇場めぐりをしていたのだが、振り返ると、蜷川さんのこの3作品 を若き日に観たことは、今となっては返す返すも幸運なことであったと思う。

蜷川さんは私より16歳年長だから、あのころすでに30代半ば、すごいというしかない演出力(お金がなかった中で)で、観客の度胆をぬいていた。若かった私はただただ圧倒された記憶がある。

無名時代の蜷川演出作品に出会えたことは、やはりいまだ大きい。特にこの3作品は映画館で、映画が終わった後、9時過ぎから今は亡き新宿のアートシアターギルド(いわゆるATG)で上演された、今となっては伝説の舞台作品。

これを私はみているのだ。あの当時の新宿の雑踏感、猥雑感、1970年代の数年間はまさに田舎者の私には、何かが怒涛のように押し寄せた時代だった。

いまだ、あの青春時代の残滓が私の中にかすかに、だが色濃く残っているのを感じる。蜷川さんはお亡くなりになったが、あの当時映画館の通路にへたり込んでいた蜷川さんの若き日の無名の姿は強烈に今も私の脳裏に焼き付いている。カッコよかった。

あのまま、その後世界の蜷川と呼ばれても、倒れるまで時代の中を疾走し続けた(戦い続けた、見えないものに向かって)希代の演出家として記憶に刻まれるお仕事をされたのだ。

自分は回遊魚で、立ち止まったら死んでしまうと語られている。

きっとこれから蜷川さんに関する本が次々に出版されるだろうが、間接的に同時代を生きて生で氏の演出作品に出会えたことは幸運であったことを、ほんのわずかでも五十鈴川だよりに記しておきたい。

シェイクスピアであれ何であれ、自分が自分にびっくりするような演出を絶えず追求し続け、その世界に殉じた見事というしかない生き方をされた、あの時代が 生んだ稀な演出家だと思う。

きっと私が東京に住んでいたら、蜷川さんの老人劇団のオーディションを受けていただろうと思う。そして私は思う。今岡山の地でささやかにまだじたばたと生きているが、私が蜷川さんの年齢まで生きるとしたら、どのようなことをしながら死を迎えたいのかと。能力の問題ではない。

こ難しいことはさておき、夢が原退職後の3年間はあっという間に過ぎた。きっとおそらく私の死も今私が感じているより人生時間はすぐに終わりを迎えるのだろうと思う。だからこういうことがきちんと考えられるうちに、蜷川さんの逝き方を前に爪の垢でも何かを感じ取りたいのだ。

まさに死に向かって、青年のまま蜷川さんは、ライブ感覚で、時代をどこか遠くから眺めながら正直に満身創痍、疾走 し続け、真の意味で舞台人として生きられたのだ。尊敬する。





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