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2019-12-14

中村哲先生がお亡くなりになり10日余り、ささやかに想う。

こんなに五十鈴川だよりを書かなかったのは初めてである。いろんな理由が考えられるが、やはり一番大きいのは中村哲先生がアフガニスタンの地でお亡くなりになったことが、遠因としてあるのは確かである。

 がしかし、そのことに関して五十鈴川だよりの中で整理するには、まだまだ時間がかかるのは、自分の体が一番深く理解しているが少し書きたい。これまでの人生で多少なりとも本を読むことで、かろうじて精神の均衡を保つことができ、いろんなかたがたに御本の一文に心と体が啓発され、何とか現在まで生きてこられた(いまも生きていられる)のだという自覚がある。

40代の終わり、ちょうど父親が亡くなったころに、私は中村先生の御本【ダラエヌールへの道】という本を読んだ。一読まだ若かった私は一驚した。深く心が揺り動かされた。爪の垢でも飲んでこのような方の生き方から、何かを学ばねばと思ったのである。
1993年に発行され私が読んだのは2000年の本

あれから20年近い歳月が流れた。やがてこの20年間がどのような時代であったのかは、時がもう少し経ち、後世の賢者の手にゆだねるほかはないが、このような人間がこの時代に存在し、それが日本人であり、それが九州人であったことに、とてつもないある種の誇りを九州人の端くれの一人として誇りを持つ。

最近、いい意味での衰え、老いの自覚がある。その老いの自覚が若いころと違って、静けきひとり時間をこよなく大事にするようになってきつつあるさなかに飛び込んできた、先生の突然の訃報である。(その日は塾のレッスン日であまりテレビを見ない私は、知るのが一日遅れた)

先生はお亡くなりになっても、ペシャワール会 の会員であろうとなかろうと、先生の御本を読んで何かが揺さぶられた方の胸には、今後ますます光り輝く存在となって、行く末を照らし続けると思う。

見事というしかない情熱の行く末の姿を、身を挺して先生は行動で範を示された。深く首を垂れ、ご冥福を祈念する。 私を含めて言葉であれやこれやを語る輩は、ごまんといるが自ら体を動かし、率先垂範される言文一致表裏一体の虚飾が限りなく少ない先生のお姿は、ある種私のような俗物には崇高という言葉しかない思い浮かばない存在である。

先生は神の領域の住人になってしまわれた。そして想う、還暦を過ぎて私は頻繁に故郷詣で、五十鈴川もうでを繰り返している。凡夫俗物のわたしであるが、寄る年波と共に故郷の母語での会話を楽しむ、楽しめる心からくつろげる人たちとの、幼少期感覚を共に過ごした方たち、あの環境で生きてきたふるさとから離れなかった人たちとの時間が、こよなく大切で、かけがえがなくなってきた。

ふるさとを飛び出しおおよそ半世紀。私は巡り巡って岡山に住んでいるが、豊かな水と緑に今も恵まれた、五十鈴川人であるとの思いはますます深まる。そこに生を受けたおのれの幸運を神に感謝、先祖に感謝するのである。いろいろな絶対矛盾を抱え込みながら、私のような凡夫は歩むことを余儀なくされるが、これからの時間の中で、可能な限り考え続けたい。人間にとって最も大切な命と水と緑を育む奇跡の大地のかけがえのなさを。

先生は命を賭してあの過酷なアフガニスタンの大地から、人類が争いをやめ、武器を捨て大地の恵みを噛みしめることの根源的な大事な哲学、人類絶望に向かうのか、それとも穏やかに全人類が飢えずに住める世界を目指すのかを、40年以上にわたって身を挺して発し続けられたのである。

そのことの重さを、これからささやかに五十鈴川だよりを書くものとして受け止めたい。

1 件のコメント:

  1. 日高さんから、紹介していただいた中村先生がお亡くなりになりとても驚きました。すぐにLINEでお知らせしましたが、塾の稽古だったそうです。テレビなどで中村先生のことが紹介されていますが、とても凡人の私には真似のできない勇氣ある行動と人生でした。少しでも社会貢献ができるよう自分なりに取り組んでいきたいと思います。ご冥福をお祈りいたします。合掌。

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