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2017-11-02

小さき秋を、何やら充実して生きられる日々を、感謝しながらつづる五十鈴川。

昨夜は遊声塾のレッスンで、おそく寝たのだが、5時間熟睡して目が覚めたので、起きて朝湯を浴び、おもむろに五十鈴川だよりを綴りたくなった。

二日連続して、書くなんてことはいつ以来か。涼しくなり、ほんの少し肉体労働にも慣れて、体に余裕が生まれてきたのかもしれない。

ともあれ、囲炉裏通信も含めれば10年くらい、切れ切れにも細い川の流れのように、右往左往する精神の流れの在り様を、臆面もない日々を、熱しやすく冷めやすく、飽きっぽい私が続けていることが、ときおり不思議である。

でもまあ、心と体の調節機能として、自省機能として、私にとって今や五十鈴川だよりを書くことは、 書かないことは考えられない。

明治維新から150年、灯火親しむ秋です

書禅というとオーバーだが、静かに自分と向かい合いながら、想いが浮かびつづれるということは、何かしら日々を新鮮に感じられるという意味において今や欠かせない。初老時間の楽しみである。

じっと、パソコン画面に見入りながら、指を動かしていると、なにやら指が勝手に動き出すのが、これまた不思議である。ことほど左様に生きて存在するということは、まさに不思議ワールドを日々体感することに他ならない。

凡夫の私などは、すぐそのことを忘れてしまいがちであるが、日々新陳代謝を繰り返しながら、動的平衡を保ち、古い細胞と入れ替わりながら、生きながら得ている日々の折々をつづれるなんて、ことのほかの有難さと感謝する。

ところで、昨日も月を十分に愛でることができ、よきレッスンができ、ことのほか何もなき在るがままの、良き秋の一日を過ごすことができた。

だからこそ、さやけきなにがしかを、生きている今自分がここにいるという思いを、つづりたくなるのかもしれない。外を見ると夜が明けてきつつある。

話は忽然と変わるが、昨夜遊声塾のY氏から、干し柿用の柿を50個くらいいただいた。今日はこれから予定を変え、午前中母と二人でむいて吊るす予定である。

この10年近く、秋が深まるこの季節には、必ずいくばくかの干し柿を造り続けているが、今年もY氏のおかげで吊るすことができそうだ。

吊るし終えたら、次の五十鈴川だよりに写真をアップしたい。

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