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2017-09-03

弓道教室で出遭った、O氏ファミリーが午後やってくる日の朝ブログ。

日曜日は、家族と過ごす日、とよほどのことがない限り決めている。家族といっても妻や母と過ごすだけなのであるが、日曜日は安息の一日ということで、やはり何か有難い日である。取り立てて何をするでもなし、ただただ静かに体と心を休め、普段やれないことを妻や母とやりながら英気を養う。

今日は珍しく、午後弓道教室で出遭った、私の息子くらいの年齢の若いO氏のファミリーが我が家にやってくる予定である。知り合ってまだそんなに間がない関係なのだが、これも縁としか言いようのない流れ、五十鈴川はケセラセラである。

常々思うことだが、私の小さいころには、いろんな人間たちが我が家にはやってきた。そのころ多感な少年だった私は、そういう人たちの姿を通して、人間という存在の面白さ不思議さを、自然と学んでいったような気がしている。私の人間に対する好奇心は少年期に育まれたのだ。

あのころ、ちょこまかなことには、とんと無頓着な、面白い大人たち(特に職人をはじめとする体を動かす労働者たち)が、小さい海山川の小さな町には、数多くいて、そのころの貧しくとも愉しさに満ちた、少年時代の記憶が、いまとなっても心の片隅で今の私の暮らしを、どこか心の奥底で支えている。(あのころには帰れないが、あのころの楽しさをつたえたいものだ)

夏休みの帰省で、姉の孫たちに声を出す喜び楽しさを、ささやかに伝えることができたが、 小さい頃の愉しい思い出というものは、一生の宝だとつくづく思えるので、これから私は縁のあった、子供たちにはあの爺さんは面白い、といわれるようでありたいと、心かけることに決めた。

健康であれば、歳を重ねることのなかで、いろいろと新しい役割の発見があるのだ。そのことを姉の孫たちから、私は学んだのである。

ありがたいことに、まだまだ現役感覚が残っていて、あれやこれややりたいことが減らない私だが、やがては、孫たち世代のために最後のお勤めができないものかと考え始めている。

話は変わる。今朝の新聞一面に、陸上男子短距離の末続慎吾氏の人知れぬ苦闘の末に見つけた、走る、かけっこの楽しさを見つけられた記事が2面にわたって大きく掲載されていて、朝一番読み入った。

37歳にしての、走る悦びに破顔一笑の写真が載っている。順位ではない、ただただひたむきに走る純粋さ、こそが尊いのである。わたくしごと気でさえ思うのだ、順位や序列には私もとんと興味がない。

感動を与えられる人には、序列を超えたその人にしか醸し出せない何かがあるように思える。

自然と笑顔がこぼれるような子供たちが数多く住んで居るような、街にこそ住みたいものである。そのために数多くの人生経験を積んできたリタイアした大人たちのなすべき、役割はささやかであれ小さくはないと、小生は考える。

あきらかを極めるために、簡単にあきらめるのは、いささか、もったいなきがいまだ私はする。未知は(道は)無数に存在する。すべては自分次第である。

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