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2025-09-05

昨日9月4日、新見市役所で行われた、10月12日の記者会見と実行委員会ミーティングを記録として五十鈴川だよりに打っておく。

本を読むのも体力がいる。

 雨台風が過ぎ去った日の夕刻、寸暇うっている。7月31日、10月12日のフライヤーが出来てから、今日9月5日まで、老人の私にはなにかと多忙な日々が続いている。だがその多忙な日々は、何ものにも代えられないほどの充実感を今を生きるにもたらしている。

さて、昨日は新見市役所で、あさ10時から猪風来美術館20周年記念記念特別企画、秋の縄文野焼き祭りの記者会見がおこなわれた。事実だけを簡略に打っておく。台風の影響もあり、こられているメディアは備北新報と吉備ケーブルテレビの2社、参加したのは猪風来さん、20年野焼きを裏方として支えてきた小林さん、土取さん側から大鹿さん、野焼き祭り実行委員会から大場さんと私が参加した。

猪風来さんが、新見の法曽に来られての20年の歩みの、お礼と感謝の言葉に始まり、20代のおわりから、縄文にとりつかれ、北海道での自給自足での、家族で建てた縦穴式住居での縄文人の心と技を修得する前人未到の、20年の生活含め、おおよそ半世紀、結果、今ようやく自分の縄文造形アート世界への評価が高まり、とくに今年は、開館20周年の節目に、猪風来さんドキュメンタリー映像作品が撮られることも同時進行で進んでいることにも言及、また、先日お亡くなりになった縄文考古学の大家小林達雄先生との交友についてもかたられた。

わずか、一部分をスケッチ擦るにとどめる。そばで、実行委員会の一人として、せつせつ訥々と語る姿を、その壮絶一途な歩みをそばでききいって、感動を新たにした。猪風来さんのお話しの後、おのおのこの稀な企画に参加することになった契機を一言ずつ述べ、記者会見はスムースに予定よりも早くおわった。

その後は、猪風来美術館ではなく、市役所の綺麗な会議室で、各々仕事を抱えながらこの企画に実行委員会として参加しているメンバー、小林さん、大場さん、大鹿さん、Nさん、猪風来さん、私、新見市役所からkさん、Hさん8名で、お昼を挟んで、午後2時時まで有意義なミーティングが行われたことを、記録として五十鈴川だよりに打っておく。

ミーティングを終え、私はよし子さんへの報告をかねて、美術館に立ち寄り、猪風来さんと3人で珈琲たいむ、高齢者ミーティング、いつもよし子さんが珈琲淹れてくださる。この珈琲のおかげで、眠くもならず安全に帰路についている。朝6時過ぎに家を出て、夕刻6時半に家についた。

ps 昨日に続いて佐藤優さんの10年前の本、忘れていることが多いので、新鮮に読める、チビリチビリ、シャクトリムシのように、気分転換の読書が私には必須dある。

2025-09-03

三鷹の下連雀、次女のマンションから西大寺に戻り、夕刻打つ五十鈴川だより。

9月1日夜10時過ぎ東京から我が家に戻り、昨日今日午前中、暑さのなか何とか働き、妻が仕事でなのでお昼を自分で作り(納豆野菜うどん)食べ、お昼寝をして、夕刻、珍しく寸暇五十鈴川だよりを打つ。

次女のところで、岡山での生活とはまったくことなった時間を過ごし、なんというのか時差ボケのような、まだ体のどこかに、あの孫と過ごした時間が濃厚に残っている。が、翌日から2日働いたので、ようよう普段にもどりつつある。

それにしてもいつまでも暑い、8泊9日三鷹の下連雀で過ごしたのだが、東京も暑いとはいえ、次女のマンションが快適だったし、用のないときはほとんどマンションの図書館で過ごし、夜は充分に寝ることが出来たので、事のほか体調がよい。体調が悪かったら、まず五十鈴川だよりを打とうという気にはならない。

東京では持参した3冊の本を、読むことが出来た。いちいち読んだ本のことを書いていない。(写真にアップしているのもあるが)この年齢になっても、本を読まねば、ますます知的好奇心は劣化してゆくとの、思いに駆られる。6月から既に3ヶ月以上の暑さが続いているが、チビリチビリ、本を読むことだけは持続している。

前回、今後は孫たちに読み聞かせるための絵本を探すという、新たな読書意欲が灯ったのも幸運である。五十鈴川だよりを打つことも、草刈りをすることも、音読をすることも、あらゆることに通低(私の場合)するのは、あまり気が進まなくても、とにかく始めるということである。

それくらい、私の体はいい加減である。そのことを私は知っている。何事もやっているうちに、自然に捗ってゆくということを老いつつも我が体は知っている。これは決して自慢話を打っているのではない(そう思われても、もう古稀をすぎているのだからまったくとんちゃくしない)。

18歳から世の中に出て、お金に不自由する暮らし、お金にはまったくといっていいほど、今もだが縁のないない生活をしている私である。だが、なんとか生きている。その秘密はたぶん、おかねが無くても、お金には依存しない、 身の丈に合う、ヤドカリのような、その日が何とはなしに、生活できれば良しとしようってな、くよくよしない能天気さが、私を救ってくれているように思う。

老いるにしたがって、目も耳もよわくなり、そうなると根気も、持続力も今後はすべては下り坂、初めて経験する未知のゾーンを日々生きるしかない。自然の摂理を生きるにしても、私なりの方法の様なものを見つけたいという、いわば一日でも長く前向きの姿勢で在りたいと願うのである。


さて、いきなり話は変わるが、明日は猪風来美術館 20周年記念特別企画、縄文野焼き祭りの記者会見が新見市役所で行われる。私も参加することになっている。この年で初めて経験する未知の記者会見、ちょっと緊張するが、仕方がない。

それもこれもヶセラセラ、猪風来さんと出遭ってしまったからである。猪風来さんは私の老いゆく体に、縄文の新鮮な風を吹き込む稀人である。昨年秋よもやまさかのお電話を頂いてこのようなことに成ろうとは、正直思いもしなかったが、事実は小説よりも奇なりである。


ps 今日の写真は2008年に求めた、この20年近く私が最も読んでいる佐藤優さんの本、新しい本ばかりではなく、繰り返し読んで学ばせて頂いている。無学、無知蒙昧、井の中の蛙を、今も思い知らされる。


2025-09-01

次女のところ、下連雀で打つ8回目の五十鈴川だより。(最後の夜、葉に読んだケチャップマンの絵本で私は気づいた)

 昨日はあれからマンションのすぐそばの稲城の里山を男5人、暑い最中、朝9時15分に家を出て里山散策に出掛けた。汗だくになりながら、小さな藪虫に見舞われながら、葉とノアは時に気弱な声をあげながらも、約一時間の里山歩きを完遂した。周さんがカメラをもって、終始子供たちに声をかけ励まし、レイさんも冷静に子供たちが雀蜂ほかの危険を避けるための声かけも怠ることはなかった。

あの暑さの中の、午前中男だけでの3世代散策、いい思い出となった。里山からは大都市東京が一望に望める。終えて男5人ヤオコーというスーパーにたちより、昼食の買い物をして10階のお部屋にもどる。すでに長女と娘の未彩が帰ってきていた。ミアはパパっ子で一晩離れていただけなのにレイさんにあえて大喜びしていた。私とはずいぶん直接会ってはいなかったものの、リモートではよく顔をあわせていたので、ちょっとはにかんではいたものの、グータッチすると、さりげなく応じてくれた。

周さんが早速ソーメンをゆで、レイさんがテーブルを広げ、長女が加わり3人が、お昼の準備をてきぱきとやり、買ってきたお寿司やお惣菜、冷蔵庫の中の残りの食材で見事な食卓となり、7人での賑やかで楽しい昼食となった。私とレイさんだけが、糖質0のビールをいただいた。娘とミアと共に食事をするのは今回初めてだった。お昼からビールを頂き、私はまたもや、我が家族との、なかんずく孫たちとの食事時間、高齢者おじじは暫し感無量であったことを、臆面もなく打つことを、ご寛恕願いたい。

昼食後、ミア、葉とかくれんぼをして遊ぶ。このようなことを何度繰り返してもミアと葉は飽きずもう一回を繰り返す。マジに遊ぶことはお爺にはしんどいのだが、めったなことではないので、リクエストに応えた。娘やレイさんが声をかけてくれ、ようようお開きとなったが、またもやよき思い出となった。

ノアの2段ベッドで20分ほどお昼寝をし、午後2時過ぎ、周さんと葉と私は長女家族とお別れ(ミアはお昼寝していた)下連雀へ。京王線で千歳烏山へ。そこからバスで下連雀へ帰った。(周さんがお昼寝タイムで、葉が少しグズった。稲城のマンションから、あの暑さのなか、荷物と葉を背負って駅まで歩いた。電車のなかで葉はぐっすりとすぐに寝た)

絵本大好きお爺になりたい(葉ありがとう)

戻って一休みした後、私は娘に頼まれイナゲヤ(稲城やではない)といういつもゆくスーパーに買い物へ。戻ってお風呂をいただき、午後6時すぎいつものように夕食。

夕食は周さんがお好み焼きとスープを作ってくれた。お代わり(結局、1枚と4分の1食べた)をするほど美味しかった。レイさんも周さんも調理をこなす。洗濯掃除ほか育児分担は私などの世代とは、おもいもよらない。確実に女性の負担が減っている。

親として、どことはなしに娘たちが、平凡な幸せを共有しているのを、まの当たりにするのは嬉しい。慎ましさのなかに、お互いが労りああって生活しているのを、わずか一週間ではあれど共有体験出来たことは幸せである。

j上京する度に打っているのだが、老いたら、老いゆくなかで、娘たち家族のお役にたてるということが、一番肝要なのだと思う。あくまでもその上で、老いのなかでの企画というものがなせるのであれば、それに越したことはない、といったスタンスである。

さて、最後の夕食を終え、葉とトランプで7並べなどして遊んで、いよいよお寝むの時間がきた。そこへ娘がお爺が明日岡山に帰るので最後に本を読んでもらったらということになり、本を数冊もって(先日三鷹の図書館で私が選んできた本)いざ読み始めたら、なかなかに葉は集中して聞いてはくれない。

ところがその中のケチャップマンのお話し、鈴木のりたけさんの絵本にだけは持続的に大笑いをやめず、結果は同じ本を繰り返し数回、ときおり即興でのお話しも交え、読み聞かせたところ、結果満足して眠りに落ちてくれたのだが、わたしは何か大切なことを葉から示唆された気分になってしまった。

そのことを、いま縷々説明は不可能に近いが、簡単に言えば、私自身がとても絵本の魅力にはまってしまったということなのである。オーバーに言えば、生まれたばかりの風香、ミア、葉が小学校に上がるまでの時間の読み聞かせに、読み聞かせたいと思える本を、私自身がこれから見つけたいというテーマがみつかったのである。

私が一番好きで、得意な日本語音読、読み聞かせを先ずは自分の孫たちにやりたい、との想いが俄然わいてきたのである。その気付きを与えてくれたのだが、ケチャップマンの絵本であったことを五十鈴川だよりに打っておく。

2025-08-31

稲城、長女家族の住むマンション、レイさんの部屋で打つ、寸暇、7回目の五十鈴川だより。

 昨日早めのお昼、周さんが作ってくれたチャーハンで済ませて、午後一時前稲城に男5人が集まった。少しやすんで、タクシーで府中にある市営プールまでタクシーで移動、乗りきれない人数なので、なんとあの暑さのなかを、レイさんは自転車で往復した。

レイさんの部屋に飾ってあった、

簡略に記しておく。午後3時から午後4時半まで、市営プールで過ごした。滑り台が2種類、流れるプール、泳ぐ専用プールが備えられていて、幼児から私のような高齢者まで、家族ずれで大にぎわいのなか、我々も大いに楽しむことができた。当初、私は泳ぐつもりはなかったのだが、レイさんが水着を貸してくれたので、急遽参加したのだが、老若男女が楽しそうに水に浸かっているのを見ているうちに、急に現在どれくらい泳げるか、現在の体力測定を兼ねて泳いでみた。

結果、25メートルを、休み休み平泳ぎ、クロールで10回位を泳ぐことができた。そして思ったことは、やはり泳げる間は、ほんのちょっとではあれ、泳ごうという当たり前のことであった。私が泳いでいる姿を、孫たちの記憶にも残したい、という気持ちもわいてきた。

これからは妻と共に、月に数回泳ぐこともあり、そんな手応えを、私は孫たちとの夏休みの終わりの土曜日のプール体験で得ることとなった。午後5時、再びタクシーで稲城へ。

午後6時、夕飯はれいさんが焼いた特性ピザを、葉、望晃、周さん、レイさん、私の5人で、最高の気分でいただいた。たっぷり頂き、レイさんがチェコのビールとハイボールを用意していてくれたのを頂いた。250メートル泳いだ疲れが、一気に出てきた。

それを感じたレイさんが、部屋の一隅を仕切り、あっという間にベッドを拵えてくれ、お父さんは休んだほうがいいという言葉に甘え、午後8時にもならないうちに私はその言葉に甘え、横になった。

夜中起きたらまだ3時、少し持参した3冊目の本を5時まで読み、再び寝て起きたら7時。ベッドをたたみ、しばらくすると起きてきたレイさんが、あっという間にこれまた手際よく、子供も大人も喜ぶクレープを作って朝食、皆揃って美味しく頂き、朝食後五十鈴川だよりを打っているという次第。

その朝食の時、ママが恋しい葉が少しグズっていたのだが、整然と論理的に、ノアがさすが2年生説得力をもってお兄さんしていたのが、とても私を驚かせた。成長を目撃できたこと、幸せであった。レイさんがグランベリーの干したのを葉に持たせると、あら不思議、葉はいきなり手を突っ込んで食べ、すっかりご機嫌に変身した。

この間の一部始終を静かに目撃していた私は、突然家族の素晴らしさに、じんわり感動した。長女が結婚し、あれから10年の歳月の後、いま私は4人の孫に恵まれている。彼らのいない生活は私には想像だにできない。これから10年後私は存在していないかもしれない。でもいいのである。孫たち4人がひょっとしたら五十鈴川だよりを読んでくれるかもしれない、なんて想像すると、五十鈴川だよりをうちたくなるのである。これから、近所の里山散策に出掛けるので、今朝はこれにて。

PS 今朝の写真は昨年春、千葉のマザー牧場に行ったときにレイさんが撮った写真です。

2025-08-30

土曜日、次女のマンションで打つ6回目の五十鈴川だより。

 今日はこれから長女家族の住む稲城に男だけ出掛け、男たちですごし、長女が娘の未彩を連れて、下連雀にきて、女性たちだけで過ごす予定になっている。私は男なので稲城にお供する。親子でプールにゆく予定なのは知っているが、私はプールには行かないで、家で留守番をしていたいと、考えている。

風香をあやす4歳の葉


さて、昨日は吉祥寺で、気のおけない仲間と、私が40年前妻と出逢った通称ハモニカ横丁にある東南アジア系の人達が働く、狭い居酒屋で、4月30日の打ち上げ以来、お酒を飲んだ。

(妻と出逢ったエリアは当たり前、全く別世界的な変貌を見せていたが、面影がそこかしこに残っていて、私を40年前にワープさせるに十分で、そのことがきっと私を昔へと回帰させ、しばし年齢を忘れて饒舌になったのは間違いない。

その横丁は今や多国籍人が、闊歩、人種の坩堝と化しかして、一日の終わりに乾杯していた。私は込み合う雑踏で、皆がトンスナショナルににこやかに過ごしているのをある種の感慨をもってって眺めた。これから40年後はいかなる風景になっているのだろう)

私より一回りしたのYさん、Yさんよりちょっとだけ歳上の、女性ふたり、計4名、午後6時半に駅で落合、その後10時近くまでの時間を、愉快にすごしたことを、五十鈴川だよりに短く打っておく。

アルコールと、幾ばくかは世代が近い気安さから、ずいぶん昔の思い出などが、つぎつぎと思い出され、しばし熱い記憶の流出に年齢を忘れてしまうほどであった。愉快な時間はあっという間に過ぎる。このような機会が持てたことは、やはりスパイラルアームズを企画したからこそ、もたらされたのだと、あらためてYさん、Mさんとの、すれすれのご縁を思った。

Yさんの面白い経歴(若き日一年間ブラジルにりゅうがくしている)繊細な優しさ、かつ豪放磊落な一面もあらためて知ることができた。そのYさんのお話し聞き上手に甘えて、結果、かなりきわどい今現在の私のおもいが、本音が発露されたのは間違いない。

ブログを打つことで、かなり内省的な時間を過ごすことができ、揺れる内面の整理ができるし、気のおけない仲間に話を聞いてもらうことの有りがたさ(わがままを)が染みた一夜となった。

ささやかな宴をおえ、吉祥寺から歩いて帰っていると鈴虫の鳴き声が聴こえてきた。ジブリ美術館の近くでバスが来たのでバスに乗った。マンションに着いても眠る気がしなかったので、エントランスで、数十分酔いをさまし、11時過ぎ部屋に戻ったら周さんがまだ起きて、ストレッチをやっていた。その姿を目にとめ横になって、私も睡魔が来るまで静かにささやかな我流の老人腹筋をやってめを閉じた。

2025-08-29

金曜日、下連雀の次女の住むマンションの図書館で打つ5回目の五十鈴川だより。

 もう5泊を娘のところですごし、まるでルーティンのように朝の次女家族の、お手伝いを済ませ、しばし自由時間、一人時間の居場所、図書館で五十鈴川だよりを打つ。

マンションの入口に聳えるヒマラヤ杉

記録として、この5日間、どのようなお手伝いをしたのかを、思い出すまま時系列で打っておく。細かいことは省く、朝食の準備、あさのお掃除、洗濯物をたたむ、洗濯物を干す、ゴミだし(細かく分類して、指示された場所にきちんとだす)買い物(娘のメモにしたがって片道500メートルくらいのところにある地元のスーパー稲城屋まで)昼食のお手伝い(お昼を2回自分で作った)、夕食のお手伝い、(夕食は娘が作る)後片付け、お風呂洗い、午後4時前、葉の保育園にお迎え、などなど。まあ、このようなお手伝いをしている。

夜は葉と同じくらいに早く休んでいるので、8時間は寝ている。そのせいなのだと想うが、すこぶる心身の体調が昨日辺りからがぜんよくなってきている。一昨日も打ったかもしれないが、この3ヶ月にも及ぶ酷暑の疲れが、元気ではあれ、73歳の体の累積疲労が抜け、別の場所、居心地のいい空間で癒されているのが覚る。

さて、今夜は私を含め、男二人、女性二人の4人が集い、会食することになっている。私の上京を機に、わざわざ会いに来てくださる稀なひとたちである。メンバーのいちいちについては省く。私にとっては大切な得難い面々である。(わたしの企画したイベントに参加してくださり、以来関係性が続いている方々ばかりである。日常的な交遊はほとんどない)

前回も少し触れたが、人生の晩節を付かず離れず、しかも気持ちよく共有できる仲間が、私には存在している。私が年齢を省みず、我が儘に突き進むちょっと集客が難しく、制作費が足りないとき、私のカンパの依頼に、気持ちよく応じてくださるまれな方たちばかりである。特に今年の春に企画したスパイラルアームズの企画では、正直想像を越えた応援が寄せられ、その事に助けられ、無事にあのライブを終えられたことへの感謝は、いまも例えようもない。

そのように粋な、もの好きとでもいうしかない面々のお陰で、私はかろうじて(臆面もなく打つが)今を元気に活き長らえているのだ。だがその元気に振る舞える体も、そうはいつまでもは無理である。だからといって体がやれる、やりたいという間は、よしんば実現は不可能でも不断の夢を育む努力だけは持続しないと、そうは簡単には夢の神は降臨しないのである。

40歳から突然企画することの醍醐味に目覚めた私は、途中シェイクスピアの音読に夢中になり、10年近く中断した後、再び70歳から企画を再開したのだが、毎回これが最後という気持ちで、かろうじてギリギリ、企画がやれている。(応援団がいるからこそやれているだけなのである)

なぜ、高齢者になっても企画するのかのエネルギーはどこからわいてくるのかは、私にもよくはわからないが、つまりは、まだ生きて元気であるからにちがいない、と考えている。理屈はどうでもいいのである。やれるうちに、やれる仲間と、というくらいの軽いのりである。芭蕉は夢は枯れ野を駆け巡る、と詠っているが、外見は枯れていても、内側には未だほんのりと燠びが残っている。(のだ)当たり前のことだが、この世に生を受けたからには、死は平等に訪れる。

ならば、どのように一日を生きるのか、生後一月にも満たない風香のしぐさ、寝姿をこの5日間毎日眺めながら、老人である私は考える。

2025-08-28

次女のマンションの図書館で打つ4日目の五十鈴川だより、【今を想う】

 昨日3日目を過ぎた辺りから、次女のところでの、いわば助っ人老人生活も幾ばくかは慣れつつある。が、慣れてはきても、基本的に私には都会生活は、全くダメである。この事について書くのは、五十鈴川だよりでは無理なのだが、やはり生まれ落ちた場所が、まったくの田舎の田園地帯のなかの、回りには他に建物がない家だった、その記憶のなかの原風景が絶対的に大きく作用している(と思う)。

次女の住むマンションの図書館で打つ五十鈴川だより


その事は、年を重ねるにしたがって、ますます自分のなかで大きくなってきているのを自覚している。おそらく次女の助っ人でなければ、先ずもって東京に4日以上滞在するなんてことは、私には出来ない。

話はあちこちするが、人生のいよいよもっての最終章をいかに自分にとって、居心地のいい場所で生活し、なおかつ理想を言えば、充実した生活を送りたい、という願望にそって還暦以後、下り坂人生を五十鈴川だよりを今も打ちながら次女の住むマンションのw考えている。

ヨタヨタ、途方にくれる体験もしつつ、あれから13年、いまを、ありがたいことに穏やかに生活できることに手をただ合わせている。折々五十鈴川だよりを打つことを持続しなかったら、生来の本質的性格に堕落していったのではないかと思える。だから、これからもできる限り五十鈴川だよりを打ちながら、日々を見つめ、ての届く仲間とともに老いながら、可能なら愉快な時間を過ごしたい。

私は今、次女の住む七階ではなく,一階にある、居心地のいい空間である、このマンションの図書館で五十鈴川だよりを打っている。娘たち夫婦が、私のために、フリーになる時間を考えてくれているのが、とてもありがたい。

宮崎の門川の五十鈴川のほとりの、山河の風景のもと、西行の歌になぞらえれば、願わくは、故郷エリアで、お迎えをと、私は祈るが、決して思い通りにはならないことは必定なので、一行五十鈴川だよりに打っておく。

朝からとりとめないことを打つ。明後日長きに渡って関係が続いている友人と会うことになっている。若いときと違って、老いるということは、皆それぞれ千差万別の老いる時間を過ごしているということである。ある日突然に、これまで経験したことのない未知の状況に置かれたりして、以来関係性が遠退いたりする。

私にだって十分に起こりうるのが、未知の老いの世界であることを認識している。だが、無理なく集えるときに会える、仲間友人があるということはかけがえがない。(だってもう十分に明日は会えないのかもしれないのだから)

自分の老いと向かい合う勇気は如何様にして、育めるのか、育めないのか、を考えつつ一日を過ごす、その日暮らし考になりつつある五十鈴川だよりである。そのような折、昨年から猪風来さんご夫婦と親しくさせていただくなかで、自分のこれから歩む指針のようなものが、うすらぼんやりと見えてきた気がしている。あのように自然にただ存在したい、自分に正直に存在するだけで気持ちが、呼吸がしやすい場所でその日暮らしをする。企画も、あくまでも老いながら自然に、やれる範囲で。