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2025-02-26

一気にハレノワでのスパイラルアームズ公演モードに頭が切り替わった、今朝の五十鈴川だより。

 東京からもどると、4月30日の香川、岡山での共通フライヤーとハレノワのチケットが香川のH氏から送られてきていた。送られてきたチケットの枚数は100枚。個人でこの枚数を完売することができるかどうか。私にもわからない。これから2ヶ月、すでに知っている友人知人はともかく、未知の人になんとか半分くらいチケットを行商行脚したいと、私は自分に言い聞かせている。


5月で2才になる、レイさんが撮った
東京モードから一気にハレノワ、スパイラルアームズモードに頭が切り替わった。が、まだ岡山バージョンのフライヤーはできていない。が、急いては事を仕損じる。Nさんが必死に取り組んでいるので、氏からの連絡を私は待っている。その間共通フライヤーでしのぎ、すでにチケット代を振り込んでくださったかたに、チケットをおくったり、やれることをしっかりとやり、チケットの行商を面識のある知人から始めよう。

家族は私の年齢的なことを十分に勘案して、フライヤーの配布やチケットの行商などは控えた方がいいと心配してくれるのはありがたいことなのだけれど、こればかりはいかんともし難く、スパイラルアームズ、私が動かないことには、チケットはさばけないのを、私自身が深く承知しているからである。

私は私の性格を、どこか能天気天の邪鬼と自認している。無名ではあれ、自分が凄いと思うアーティストを小劇場ではあれ、ハレノワ300席を満席にしたら愉快で痛快である。私のような高齢者企画者の心をこれほど熱くさせるアーティストは土取利行さんと猪風来さんしかいない。だから昨年から度々五十鈴川だよりに打っている、のだ。

ところでいつものように話は変わる。仕事として企画を成していた中世夢が原時代とはまったく異なり70歳からは、自分の感性、心が動いたアーティストだけを企画している。もうこの年齢になると、自分ではいい意味で限り無く我が儘に自由に企画したいという思いががぜん強くなってきているのを、否定しない。

だからこれまでの人生で出会え、今も交友関係性が持続している古い友人に思いを伝え、厚顔を承知で支援カンパを募るところからスタートしたのである。詳細は割愛するが、意外な反応といったらカンパをしてくださった方に大変失礼だが、そのような反応が寄せられていて、人間性、人間味、人間という存在の揺れ動く多面性を、改めて私に知らしめている。

先日23日の夜8時半、稲城の長女の住むマンションに、私に会いに来てくださった相模原に住むM子さんとの交友は35年以上である。夢が原で働いていたとき、わざわざ夢が原での私の企画にあしを運んでくださったこともある。今回もいち早く支援カンパを振り込んでくださったかたである。

その方にどうしても郵送ではなくちょっとでもお会いして御礼を伝え、土取さんのCDや猪風来さんの本、原野さんの絵本、作品集を手渡したかったのである。実現して本当によかった。義理の息子のレイさんが暖かくもてなしてくれ、午後9時半頃帰ってゆくM子さんを見送ったのだが、ただただありがたかった。

だが、話はこれで終わらない。M子さんが帰ったあとレイさんと少し焼酎を飲みながら話をしていたら、突然レイさんが私の今回のハレノワでの企画にたいして、M子さんのようにカンパすると言ったのである。私はよもやまさか、レイさんがそのような事を言うとは思いもしなかったので、ビックリした。そこで夜中、フライヤーを作ってくれているNさんに、支援者の名前に日高レイの名前を追加して欲しい旨メールをいれたのである。

私とタッグをくんでくれる10数名の高齢の私の友人たちの輪の中に、義理の息子のレイさんが加わったのである。レイさんは30代後半、新しい世代の仲間が支援者に加わってくれたことの喜びは例えようもない。それも家族を代表して。

レイさんとは国籍や世代を越えていろんな話が日本語でできる。日本人と話ばかりしていると視野狭窄に陥る。地球の未来はリア王の最後の場面ような風景思い起こさせる。土取さんや猪風来さんはワールドワイドの視野を持つ真に稀なアーティストである。岡山のハレノワでのスパイラルアームズ公演、動く老骨人で、今を生きたい。

2025-02-25

記憶が鮮明なうちに、23日、24日の出来事をスケッチふうに打つ今朝の五十鈴川だより。

 昨日午後7時前に家に戻ってきた。日曜日のことを記憶が鮮明なうちにスケッチふうにわずかでも打っておこう。23日日曜日朝食を済ませ次女家族と私とノアの5人で、周さんの運転で武蔵野の面影が色濃く残る小金井公園にゆく。

この公園は子供を遊ばせるには抜群の公園で約2時閑以上、ノアと葉を存分に遊ばせた。主に私は見守り役だが、3才と6才の葉とノアは子供らしいという表現以外に表現が思い付かないほどに、滑り台、大きなトランポリン、そして自転車乗りにチャレンジして、青い冬空のしたひたすら遊んだ。

したがノア、上が葉

本当に尊い時間、無心にひたすら遊ぶ二人の姿を、私は眼底に焼き付けた。お昼は公園の中に敷物を広げて、簡素にお昼としたが、スナックふうのポテトフライや焼きそばが遊びに遊んだ、葉やノアには美味しかったのだろう、頬張っていた。

大勢の家族連れでごった返す人々をターゲットの出店の、何てことのないできあいのたこ焼きや焼おにぎりが美味しく感じられるのは、目一杯体を動かしたあとだからなのだろう。

ただただ意味もなく走り、よじ登り、飛び、滑り、なかなか漕げない自転車を、必死でバランスをとりながら全身で自分の体と格闘する。人と競争するわけではない。ただ自分と、そしてノアは葉と、葉はノアと兄弟のように遊ぶ。その姿を私は目に焼き付け、何枚かスマホで撮った。3世代天空の下いい時間を過ごせたことを、五十鈴川だよりに打っておく。

小金井公園から稲城まで周さんが私とノアを送ってくれた。葉は寝ていてお別れが出来なかったが、次女と周さんとはお別れ。わずか一泊二日のノアと私のお泊まりではあったが、密度の濃い普段とは異なる時間が過ごせた私は、いつも書いているが、この歳にならないと感じられない、いわば老いゆくなかでの慶びのような時間が与えられたことを感謝した。楽しい時間は瞬く間にすぎる、のだ。

少しやすんで夕刻前、レイさんとミア、ノアと私の4人でマンションの近くの公園に散歩にゆく、外は冬の寒さ、だがミアとノアは風の子という表現がこれまたピッタリで、ものともしない、一時間以上散歩したがミアはもっともっと散歩したいといってレイさんを困らせていた。ミアは外が大好き、ノアもインドアゲームも大好きだが、アウトドア遊びも大好きなので、バランスよく成長していて、おじじとしては嬉しい。

夕飯はレイさんが美味しいピザを焼いてくれた、私もノアもお腹一杯いただいた。夕食後いつものように、私とノアが先にお風呂に入り、ミアとレイさんが続いて、ミアはそのままお眠りタイム。

午後8時半、相模原に住む30年以上の交友歴のM子さんがわざわざ訪ねてきてくださり、大切な渡しものを取りに来てくださった。(この件に関しては、また後日打つ)なぜこういう経緯になったのかをよくはわからないレイさんが、素早く機転よく暖かくM子さんを迎えてくれた。良くできた義理の息子の対応が、私はことのほか嬉しかった。

午後9時半M子さんをマンションの玄関まで見送り、その後10時半近くまで、レイさんと焼酎を飲んで、男同士あれやこれや話をした。そこで思わぬことが起こったのだが、この続きはM子さんのことも含めて、後日打つことにする。

そして昨日朝6時過ぎ、出張先サンフランシスコから早朝4時過ぎ、羽田に着いた長女が帰ってきた。7時家族揃って朝食、ミアもノアもそしてレイさん、みんなどこかホッと顔がほころんでいた。娘も嬉しそうだった。私も嬉しかった。

午前9時、娘のところを後にした。向かったのは帰るときに必ずといってほど立ち寄る神田の古本街、休日でかなりの本屋さんが閉まっていたが開いていた本屋さんを数件巡り、数冊の本を求め神田でお昼をゆっくりととり、東京へ。私のチケットは割引チケットなので、のぞみには乗れないのだが、求めた本を手に、こだま、ひかりと乗り継ぎ、午後6時岡山に着いた。

2025-02-22

午後9時過ぎ、一日に2度目の五十鈴川だよりを打つ。このようなことは初めてかも。男の孫二人との一日は楽しかった。

 夜、午後8時をまわっている。少しでも記録を打ちたいという、老いの煩悩が五十鈴川だよりを打たせる。午前10時半過ぎ、稲城から京王線で調布に出て、そこからバスで三鷹の下連雀に、お昼ジャストに次女のマンションいにノアと着いた。

次女のところでハッサクをむく

着くと昼食の焼き肉の準備がすべて整って我々を待っていた。よほど我々の到着を待っていてくれたのであろう次女の子ども、葉くん3歳が玄関まで走って来て、歓待してくれた。早速美味しい心尽くしのお昼をいただく。

すっかり美味しい焼肉の昼食に満足した私は、娘たちの言葉に甘えて、お昼寝をさせてもらった。午後3時半、義理の息子の周さんと周さんの子ども葉くん3歳、私とノアの4人で三鷹の朝日湯という銭湯にゆく。よもやまさか銭湯に男ばかり3世代、4人で出掛けるとは思いもしなかったが、これもまた楽しい思いでのヒトコマということで、新鮮なうちに打っておかねば、と思うのだ。

もどると次女が夕飯の準備を整えてまっていた。夕飯前、私とノアと葉の3人でお相撲さんごっこのようなじゃれ遊びにしばし興じる。正直後あと何年このようなお付き合いが孫たちとできるか、何て考えると、今やれるときに、全力で遊ばねばとのおもいにかられる。

夕食は大人はお刺身海鮮丼を中心に、孫たちは野菜のコロッケやしょうが焼き、カボチャの煮たの、白菜の煮浸しなどなど、勿論大人もいただく。夕食後葉はお眠の時間が来たのだが、ノアが来ているので、もっと遊びたくて中々寝ない。周さんが何度も寝かしつけるが、うまくゆかない。結局次女がようやくねかしつけた。ここまで打つと時計は9時を指している。

ノアはまだ起きていてそばでゲームをやっているし、周さんは夕食の後片付けをしている。私は夕飯時に無糖のビールをいただき、今ハイボールをいただきながら打っている。お昼寝をしたせいか不思議と元気に文章が打てている。昔は人がそばにいたらまったく打てなかったのだが、最近はまったくお構い無し、打てるときに打っておく、でもさすがに、今夜はもうおしまいである。


稲城3日目の朝、寸暇五十鈴川だよりを打つ。j

 稲城3日目の朝、朝食を終え少し時間があるので打つ。昨日はあれから午後3時プールにゆくノアの付き添いで、出かけた。歩いて5分くらいのところのある。スイミングプール。冬でも全身運動のスイミングはいいと思う。約一時間後終えて出てきたノアにせがまれてアイスを買ってやる。頑張ったらわずかなごほうび。ノアはあまりねだらないから買ってやりたくなる。甘いおじじである。

初めて作ったポテトサラダ

もどってしばし漢字やひらがなを書く練習を見てやる。算数や理科、社会が得意なノアはあまり文字がを書くのが好きではないようだが、少しずつ少しずつ根気よく、すかしなだめやらせる。幸い私の言うことを聞いてくれるのがうれしい。

その間仕事を終えたレイさんはミアを保育園に迎えにいった。ミアはまだ私になれないが、どこか堂々としていて、わがままで、我を強く押し通す。すっかりパパっ子である。でもどこか愛くるしい個性が光っている。

いつものように五語6時半夕食。レイさんが子どもの好きな鶏肉の小さなハンバーグに野菜のお味噌汁、それに私の作ったポテトサラダときんぴらなどで、いい感じの夕飯を美味しくいただいた。夕飯のあとは私とノアはお風呂に入り、レイさんはミアの面倒を見ながら後片付け(本当にまめで感心しきり)午後8時ノアは少しゲームタイム。

9時近く私はいつものように、寝る前に絵本を2冊読んでやる。するとノアはあっという間に二段ベッドの上に移動、スイミングで疲れたのだろう、あっという間に眠りの世界に落ちて行き、私も落ちた。

ミアもノアもおねむりにはいり、その後レイさんと、焼酎を飲みながら男同士の久しぶりの語らいタイムを10時半近くまでした。会話は世界情勢、日本の神話ほか多岐にわたり、とても楽しかった。異国のお婿さんを娘が選択したがためにこのような会話が成り立つ。

そんなこんないろいろな感慨におそわれる。娘がレイさんを伴侶に選ばなかったら、きっと私は企画者としてはとうの昔に終わっていたような気がしている。複雑すぎて投げ出したくなるヨーロッパの歴史を今も少しずつ学んでいるのは、きっと娘が旧東ドイツの男性を伴侶に選んだからだと思える。我が娘ではあるが、女性は強い。

さて、今日は今日はこれから三鷹の次女家族のところに移動し、一泊することになっている。どのような一日になるのか皆目わからないが、きっと楽しい一日になるような予感がしている。

2025-02-21

今回の上京旅、記録的に綴りつつ、あわせて今をいきる私の思いなども綴りうつ、稲城二日目の五十鈴川だより。

 昨日は午後3時に学校から帰ったノアとお習字教室につれて行き、私もノアと同学年で、お習字を共に習っている女の子がお稽古するのをそばで見ていた。若い女の先生が厳しく、ときに優しく指導しておられたのが印象に残り、ノアはいい先生に恵まれたのだと、私には思えた。

戻ってほんの少し、ノアに漢字やひらがなの書き取りの稽古をするのを手伝ったりしている間にレイさんミアを午後5時半過ぎマンションのすぐそばの保育園に迎えに行った。もどって夕飯の準備、レイさんが仕事の合間に、パスタをゆで私のために作りおきのカレーを温めてくれたりして、お母さんはいないけれど、リモートで少し参加しながら、4人での夕食、私はただただ、レイさんの心尽くしをいただき、久しぶりの孫たちとの夕飯を感謝した。

想像力全開で読む

(かいがいしい、という言葉が、ミアをケアしながらのレイさんの姿に、私は感動した)

夕食を終え、私とノアはお風呂にゆったりとつかり、湯からでたあとノアの部屋で横になっていたら、朝が早い私は強烈な睡魔におそわれ、しばし沈没、午後8時半就寝時間がやって来たノアに起こされ、約束通りノアにヨシタケシンスケさんの絵本を2冊読んでやると、さすがに一年生の成長したノアは聞き分けよく、2段ベッドの上に移動、あっという間に眠りに落ちた。

私もまた、再び眠りに落ち、朝6時過ぎに起きてみると、6時半すでに朝食が準備されていたのには驚いた。いまこの五十鈴川だよりは、ノアは小学校に行き、ミアは保育園にゆき、レイさんはリモートで自室で仕事をしているので、誰にも気がねなく打てる。ベランダから背中に冬の日差しが、部屋のなかだから暖かい。

まるで日記、記録のようにわずかではあれ、綴り打っておきたいという、老爺心は平凡な日常生活への讃歌への気付きの深まり、以外のなにものでもない。ノアの通学路信号機が出来たので、そこまで見送っていったのだが、学校に向かうすべての子どもを朝の陽射しが照していた。

さて、いきなり話は変わるが、今回の上京旅に持参した本はただ一冊、タイトルは【戦争語彙集】オスタップ スリヴィンスキー作、ロバート キャンベル翻訳である。持ってきてよかったと、思う。

多くを語りたくはない。多くを語ることにも、正直もう疲れている。が、そうはいっても、元気な間は、どんなことがあって戦争や平凡な日常を脅かすような、ある日突然の、狂気的な振るまいには断固としたノーであるとの、決意は高齢ではあってもなんとしてもなくしたくはないものである。

悲しいかな人は老いる。孫たちは輝く。でもそれでいいのだと自分に言い聞かせる。私の両親も子どもたちの行く末を見守り、静かにこの世から消えていったのだと思うけれど、きっと納得していたのに違いないという安堵感のようなものを私はかんじる。

あまり言葉にしたくはないのだが、敢えて言葉にしておく。もうどこか私は現世に生きているのではなく、どちらかといえば、この世とあの世の真ん中辺りをさまよっているような感覚におそわれながら日々を生きている。だからなのかもしれない。もうほとんど昔のようには現世的な悩みのようなものにとらわれなくなってきている。水が流れる方にしか流れないように、私も流れて行きたい、ただそれだけである。

思想信条はまったくない、高齢でくの坊の私が大事にしていることは、限りなく少なくなって来ている。もうほとんどを手放しつつあるなか、どうしても手放せないものだけを大事にして行きたいと思う最近の私である。お見送りや、ちょっとした役に立つだけでも私は嬉しいので、そのような年寄りを可能なら一年でも長く生きることができれば、もうなにも私には必要がない。(今年の企画が無事にすめば、限りなく私は超シンプル老人ライフへシフトするように思える、家族や長い交友のかたたちと、ただ関係性を深めたく念う、そして意味もなく旅がしたい)

2025-02-20

稲城、長女家族がすむマンションのリビングルームで寸暇 打つ五十鈴川だより

 朝いちばんの西大寺発の電車で岡山に出て新幹線で東京に着き、中央線で新宿、そこから京王線に乗り換え、稲城の長女家族の住むマンションにお昼前に着いた。

新幹線のなかでゆっくりブランチをしたのでお腹は空いていなかったのだが、レイさんが作ったというパンが美味しそうだったので、それを軽くサンドイッチにしたものでお昼とした。

ところでなぜ私が4拍5日の予定で稲城に来たかというと、長女がアメリカはサンフランシスコに一週間出張になり、せっかく行くのだから、3連休を利用して系10日ほど家を空けることになったので、妻と交代で急遽やって来たというわけである。小学一年生の孫のノアが学校から帰ってくるまで、時間があるので暫し五十鈴川だよりというわけである。

五十鈴川だよりを打っているとパンのいい香りがする。やはり酵母が生きているパンは、ちょっと違う。部屋は床暖房が効いているし10階の部屋には日差しが差し込み、なんというのか、いきなり我が家とは違う空間にやってきて、身も心も忙中閑あり、ちょっと変身、孫たちとの時間を楽しもうと思っている私である。

2025-02-16

スパイラル・アームズのフライヤーを依頼したNさんと我が家で昨日対面での打合せをしました。そして思う。

 ハレノワでのスパイラル・アームズの岡山バージョンのフライヤーを依頼しているNさんと、昨日我が家でお昼から約2時間打合せをした。すでに何度かメールでは思いを伝えたりはしていたのだが、対面での打ち合わせは初めてである。

バイト先で見つけた蜂の巣

この数年何度も依頼しているので、私の人となりはかなり把握してもらええているので、かなりの時間一方的に私のこの公演にたいしての思いを伝えた。私の土取利行さん率いるスパイラル・アームズへの今の思いが少しでもNさんに伝われば、きっといいフライヤーができると信じたからである。

この企画の依頼メールが来たときの経緯はすでに昨年の五十鈴川だよりに打ったので重複は避けるが、当初現在の私の体力でこの企画を引き受けていいものかどうか、暫し逡巡したのはたしかではあるが、結果私は引き受けた。単純な私は一旦胆が決まればもう進むだけである。

あれからはやくも2ヶ月以上がたち、紆余曲折を抱えながらも、私なりのやり方で労働しながら一歩一歩進めている。そして現時点で岡山バージョンのフライヤーの打ち合わせが行われたというわけである。長くなるのではしょるが、今回の企画は、土取利行さんとの、長年の交友関係性で舞い降りてきたお話なのである。

体力的には、とうの昔に全盛期はすぎ、老境に入りつつある今の私にもたらされた、この企画、ハレノワ小劇場300席を満席にできるかどうか、デジタル音痴の、時代の流れにまったくついて行けない私には、ハードルが高いというのが正直なきもちなのである。

が、一旦引き受けたのだから、潔く引き受け、あとはやれるだけのことを、仲間に呼び掛け、老人力を結集して、他力の力、小さくても強い老人風を吹かそうと、覚悟を決め、古い友人や長いことご無沙汰しているこれまでの人生で出会え、関係性が持続している面々に、率直な私のおもいを伝えるところから、開始したのが一月の半ばすぎからである。

カタツムリのように歩みは超とろいが、確実に歩を進めているという実感が私を支えている。300席を埋められるだろうかとか、昔だったらおもい悩んだかもしれないが、(もちろん埋めるつもりではいる)もうそういうことに思い煩う年齢ではない。腹をくくるとは、収支を含めすべての責任をとるということである。

そのようなことをどういうわけか、40代からずっと我流でつづけてきたおかげかもしれないが、私にとって企画するということは、どこか腹をくくるということと同義なのである。素人が、仕事でもなく企画をする、引き受けるということは、覚悟を決めるということなのである。

一言で言えば、土取利行さんは私に覚悟をさせる、それに値するアーティストだからこそ引き受けているだけである。土取利行さんはそんじょそこらのプロの演奏家、パーカッショニストではない。この現代の底知れない、全世界が、人類が抱え込んでいる漆黒の深い闇を、見えない音の波動で照らす、言葉では尽くせぬ哲学者、アーティストである。だから私ごときが安易に引き受けるのは、冒険以外のなにものでもない、のだが名誉である。

話を戻す。昨日打合せを終えたばかりなのに、真夜中Nさんから、私のおもいを汲んだフライヤーの原案が送られてきたのを、今朝起きたばかりの体で見た。打合せの重みを感じた。私は気に入った。これでいこうとNさんにメールを送った。今朝の五十鈴川だよりはそれをアップする。

感動する。体がワクワクしなくなったら企画はできない。人間は泣き笑い憎み嫉妬しあらゆる感情を抱える自分でも御しがたい、とてつもなく摩訶不思議な、絶えず変容する器である。私の中の感動するバネのようなワクワク感が、思春期からあったればこそ何とか生き延びるることができ、いまもかろうじて企画ができているのだと、勝手に思っている。

PS タブレットの調子が悪く、写真がアップ出来ないので今日は文字だけの五十鈴川だより。後日写真をいれることにします。ご容赦ください。(代わりに蜂の巣の写真をいれます)