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2020-05-24

五月の夜明けの陽光の有難さにつつまれる初老凡夫の私。

今朝も陽が昇ってきた。私は限りなく昔人の暮らしに、年々憧れるようになってきているので、もう数十年の早起き男である。早起きの効能については碩学、あこがれの老いを生きる達人、外山滋比古先生が度々説いておられる。

私は初めて先生の御本から、この言葉を知った時に、まさに膝を打ったものである。わずか半世紀で、時代の流れから、流れにはついてゆけない体になっているのを自覚している。ますます自分は少数マイノリティの側に身を置いているのを。
花の神秘に癒される

どこか、もうすでに自分は、この世の側にはいなくて、あの世の側に、すでに身を置いているかのような塩梅の自覚がある。でもまだどうやら生きているし、家族や身近に感じる方々がいるし、その方々のためにも、自分のためにも、死を身近に抱え込みながらの、初老凡夫人生を、いかに生きるのか、思案している。。

文学詩人ともいうべき、日本に帰化され、先年亡くなられたドナルドキーン先生が、晩年、もう私は 自分よりも若い方の本を読んでいる時間はないと、おっしゃっていた記憶があるが、初老凡夫の私もまた、まったくにして天才的な大先達のお言葉が、わずかではあるが、染み入る年齢になってきた。

老いゆく季節の味わい、深まり感が ますにつれ、あこがれていた方々が、自分の中で年々様変わりしてゆくのは、何故なのであろうか。これが老いゆきつつあるということなのだというほかはないような感情にとらわれる、が初老凡夫の私は、いまだ絶対矛盾的な揺らぎの渦中を生きている自覚がある。さすらい、漂泊し、移ろいやすい、物の怪を生きる。



コロナ時間、ずいぶんと本が読めている、これもまたありがたい。

話を変える。コロナウイルスのおかげですっかり出かけることが、かなわぬような 世相の渦中に身を置いている初老凡夫の私であるが、本を携えてのささやかな旅ができないことは、やはりつらい。早いところ、県をまたいでの移動自粛 が解除されるようになってほしい。初夏、五十鈴川のほとりにしばし立ちたい。

とは言うものの、私の中ではコロナの効用のようなものが確かにあって、こんなにも移動せず、人にも遭わず、静かな自問自答生活を(今現在もだが)送ったのはわが人生で初めてのことである。じっと動かず、過ぎし来し方を振り返ることは、コロナ騒ぎがなかったら訪れなかったかもしれない。ありがたやと思うことにする。

事程左様に、禍福は糾える縄の如しという言葉が沁み行ってくる。何気ないありきたりな平凡な時間の何という非凡さの有難さが、こんなにもしみたこと、五十鈴川だよりにきちんと書いておきたい。

動ける。移動できる。孫や家族友人、知人、会いたい人に会える。そのような時間が再びやってくるのを私は待ちわびる。




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