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2015-09-16

安全保障法案審議中、居眠り国会議員にSEALSの若者の当たり前の一言、そして思う。

前回書いたブログの上に、今日の五十鈴川だよりが乗っかる。いわば最近はそのような感じでブログを書いている。

安全保障法案の採決が今日にも決まるかというなか、私の心はこの数か月の中では一番いいいみで冷静である。参加しているSEALSの若者たちだって熱く冷静なのである。終わりの始まり。

6月一番最初に国会議事堂前に駆け付けたころと、自分の中では ちっとも変わっていないが、あの頃よりいろいろと学んだ分、冷静なのである。

何よりもやはり一番国会議事堂前に駆けつけてよかったことは、昨夜も映像が流されていたが、あの現場感覚が、あのコーナーでの若者たちが先導し、老いも若きも駆け付けた無所属の人々の示威活動が、皮膚感覚で分るのだ。

個人個人で考え、どこにも属さず自分の足で行動し連帯する。自分の子供たち世代が中心になり、動き始めたことに動かされて、単細胞のおじさんとしては参加せずにはいられなかっただけなのだが、若者たちから教わること、感じることの多い今年の夏だった。

ただ歳を重ねればいいというものではない、反省しきりの最近の私である。若者たちの一部は、軽やか、柔軟に学びつつ、勝手に連帯しているのである。若さゆえの特権をおじさんだって学ぶのだ。

これまでの日本のデモではみられなかったアクションに、遅まきながら、ともに闇の中で無言で連帯し、その現場におじさんはただ、たたずみたかったのである。

昨夜の民放のニュース で、国会に呼ばれたSEALSの若者がまず一番先に、【眠っている国会議員】にしっかり話を聞いてほしいと発言した。

それを聞いて私は、心底情けなくあきれた。 民の代表である議員諸氏の(一部の議員だと思いますが)あまりの危機感のない、ゆるんだたるみ切った議員たちにこの国の行く末を託さなくてはならない恐ろしさを、感じたからである。(国会議員同士で注意もできない情けなさ、若者に注意されるお粗末さ)

そのような議員たちを選んでいる。国民の側にも責任があるとはいえ、低投票率で選ばれた議員の多数が与党として、国民から信任されたと思い込み 、国民にゆっくりと考える時間も与えないまま、強行採決にと向かうこの内閣の暴走ぶりが、凡人の私には理解ができない。

それにしても、この国の行く末を決める、大事な安全保障法案の審議中に、居眠りしている国会議員がいるという我が国の現状の危機意識のなさ、現実の前には唖然としてしまう。

一体全体、議会制民主主義はどこに行こうとしているのだろうと、庶民、凡夫の私でさえ不安を覚えるくらい、画面に映る与党の議員たちの顔つきに、おごりと緊張感が足りなく感じるのは私だけだろうか。

【主権在民】という憲法の言葉を、我々は今一度も二度もかみしめねばならないと、私個人は考える。

国民がなめられたら、権力者の側の思うつぼではないか。議員のみならず次々と警察官はじめ権力者側の不祥事が起こる。何かこの国のタガが緩んでいる中での、ゆるゆる安全保障法案の強行採決は納得がゆかない。

真面目に働いている方々もおられるのは承知しつつも、おごれるものは久しからず、あらゆる権力は堕落するからこそ、国民は責任を持って、送り込んだ代表をウオッチしないといけないと思う。

繰り返すが、民主主義は私も含めた国民もまた一人一人が問われる。民主主義は在るものではなく、永遠に創り続けてゆくものでしかない、そのように私には思える。

穏やかに生存できる権利をまもってゆくことは、生半可なことではない。一個人として民主主義とは何か、生きてゆくことの意味まで含め、安全保障法案が我々に問いかけている。






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