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2025-05-11

猪風来さんの創作現場を垣間見、貴重なお話しに耳を傾け、幸せな休日をすごした今日の五十鈴川だより。

 昨日思い立って、猪風来さんご夫婦に会いに行った。会いたいから会いにゆく。理由はない。午前9時前に家を出発、着いたのが11時、持参したちらし寿司ですぐに早めのお昼。たまたま猪風来さんのドキュメンタリーを作品を(この話は割愛する)創るカメラマンのT氏も一緒に。昼食を終え、たまたま来られていた、来館者にお茶をふるまいながら、猪風来さんが限られた時間のなかで、縄文土器について語る様子を私も同席して聞き入った。もう何度も耳にしたお話しなのであるが、何度耳にしても、それなりに新鮮に新鮮に感じるのが不思議である。

来館者へのお話が終わると、猪風来さんは今取り組んでいるレリーフの創作に向かった。自分が創作している姿は、これまで原野さんにしか見せたことがないとのことであった。今回ドキュメンタリー作品を創るにあたって、カメラマンの前に初めて創作している姿をさらしている。

その場に居合わせられ幸福でした

びっくりしたのは、私にも見てもいいよ、とおっしゃってくださったことである。その上写真を撮ってもいいか、写真を五十鈴川だよりにアップしてもいいですか、と問うと、いいよとこれまた二つ返事。

邪魔にならないように、創作される姿に見いった。原野さんが生んだ、創造した、縄文紋様を父である猪風来さんが、魂を込めて渦巻き状に丹念に、土を練り込んでゆく。77才であられる指先から、原野さんの魂を再生する気迫が伝わる。自由自在に指先が動く。まるで土と人間が一体化したかのように。

私は言い知れぬ、父の原野さんにたいするおもいの深さ、愛情の深さ、無念さを感じ、茫然とただ見詰めていた。土をちぎり、丸め、濡らし、のばし、くっ付け、細心の集中力で創造してゆく。私の語彙力をもってしては、これ以上打つのは控える。私の眼底にその姿を焼き付けたことを五十鈴川だよりに打っておく。

その姿を刻んでそとに出て、暫し会ったばかりのカメラマンのT氏と雑談をしていると、猪風来さんがちょっと休憩といって外に出てきた。そろそろおいとまの時刻だったので帰ろうかと思ったら、縦穴式住居に入ってゆく。ついて私も中に入る。それから30分くらい、ドキュメンタリーのことも含めての、ご自身の現在の心境を私にお話ししてくださった。

その内容は伏して控える。ただ一人の人間として深く脱帽し、頭を垂れるほどに感動したことだけは五十鈴川だよりに刻んでおく。思い立って出掛けたからこそ二人だけでの貴重極まるお話しが聞け、創作される姿にであえたのだ。幸せな気持ちで、よし子さんにご挨拶して猪風来美術館を後にした。

2025-05-09

ようやく普段の生活に戻りつつある、金曜日の夕刻の徒然五十鈴川だより。

 金曜日の夕刻である。すっかり日が長くなったお陰でもあり、今日などは昼前あたりからポツリポツリの雨模様で、暑くもなく労働するには暑くもなく寒くもなくもってこいの、私にとってはよい一日となった。疲れてはいても明日からお休みなので極楽とんぼ能天気五十鈴川だよりを私は打ちたくなる。もうこの年齢なので世界の大変さや、(決して無関心ではないことをあえて打っておく)いちいちの世相を飛び回る報道なんかを打つ五十鈴川だよりでは毛頭ない。ただうすらぼんやりと、思い付くことを、徒然打つだけである。

さてGWは菜園場で土と戯れていて、ぼんやりと妻と共に過ごす時間がなかったし、この数ヵ月スパイラルアームズのことにかかりっきりだったので、明日からのお休みも含め来週の火曜日までお休みし、月曜日から一泊二日で妻と旅をする予定である。

このような本をてにするとは

この旅は娘たちが一月と二月が誕生日の我々夫婦にプレゼントしてくれた。スパイラルアームズを終えるまで先延ばしにしていたのが実現する。このような有り難さをのうのうと綴るのは、私が老いたからである。晩年の父はどこへゆくにも母と一緒であったが、私もただ素直に意味もなく妻との時間を大切にしたいと想うだけである。孝行したいときには親はなしなんて言うが、思いついたときに悔いなく夫婦時間をする、娘たちの気持ちを有りがたく受け止めたいだけである。

さて、労働に復帰してようやく普段通りの生活に戻れている、つくづく私は肉体労働生活に救われている。GW赤玉ねぎを200個くらい収穫し、開墾マルチをひき、トマト、シシトウ、ピーマン、なす、枝豆などの夏野菜とちょっと遅いが、じゃがいもをいただいたので、それも植えた。収穫した赤玉ねぎの後には、近いうちにさつま芋を植える(4種類)予定である。

青空のもとただ体を動かしていると、身も心もすっきりする。単純な私には最高の高齢者アルバイトである。若き日、富良野での否応なしに肉体と精神をギリギリのところまで追い詰められた体験がこんなにも晩年の私の生活を助けてくれるようになるなんてことは、当時思いもしなかった。逆境はヒトを鍛える。人生に無駄なことはまったくないとはよく耳にするが、然りとおもう。

話変わり、早朝の読書もようやく普段通りになりつつある。これまで狭い範囲の読書しかしてこなかったという反省があるので、もうこれからは、自由気ままに手にとり、文字を追いながらの不良老人に憧れる私である。

ただただ意味もなく五十鈴川だよりを打ちつつ生活していると、また何やら老いたからだが発酵してくる。そんなこんな打っていると、猪風来さんの、【我が縄文芸術人生を語る】6月22日がやって来る。企画をしたのは私である。動かねばならない。


2025-05-05

我が家の菜園場を耕して、春野菜を植える前の、もの想う朝の五十鈴川だより。

 私のGWは菜園場で過ごすことで日中の大半が過ぎようとしている。スパイラルアームズ岡山公演を引き受けたことで、菜園場の管理に手が回らなかったので、いま土に触れている時間がとても嬉しい。私のようなぶきっちょな人間はあれもこれもは、全くといっていいほど出来ない。

一輪のウララ(妻丹精の)

だが、抱えたものにしか味わえない、感じられない達成感、喜びがある。あの夜のハレノワでのスパイラルアームズのライブの余韻はいまだ我が体を浸している。が、青空のもと菜園場で土と触れていると、たまっていた疲れがとれて、ようやく普段の生活に戻りつつある。

今日は、終日夕刻まで妻と、菜園場で過ごす予定である。玉ねぎも収穫する。だから短い五十鈴川だよりである。ぼーっとして、本を手にしても集中力が持続しなかったのだが、昨日あたりから、(図書館にいった)ようやく本を読む集中力も戻ってきた。

話は変わるが、この年齢での、私にとっての企画をするということはどういうことなのかを、改めて考えている。70代に入り4本の企画をなして想う。言葉ではとても言い表せないが、それでも私は人間なので言葉にしがみついて、考えるしか方法がない。

人間と付き合うのは本当に骨がおれる。時に心も折れる。だがなぜ仕事でもないのに企画を持続するのか、を私は思い考える。気障だが、見えないギャラを40才から企画を始めて、ずっといただいているからだと想える。とは言ってもこのように能天気な五十鈴川だよりを打てるのは、私ごときの企画者を(いたらないことのおおい)応援、支えてくれる、これまでの人生で培ってきた友人、仲間のカンパのお陰であることを、五十鈴川だよりにキチンと打っておく。

生活的なお金は、肉体労働でいまだおぎなえる。だが私にはどこかの誰かのギャラが、人間がヒトとして幻想ではあれ、豊かになってゆくためには、支援ギャラが絶対的に必要である。今回スパイラルアームズ岡山公演が無事に終われたのは支援者のお陰である。支援者がいれば次の企画が打てる。支援者は次の企画を生む原動力である。普段の生活、暮らしのなかで、生きることを見つめ、支援者仲間と共に夢のある企画を育むために、私なりに努力したい。

私にとっては企画をするということは、その夜限りの観客、他者とアーティストを介在してコミュニケーションをする、ということなのである、ということをあらためて得心した。スパイラルアームズとその夜限りの観客を出会わせるという、お膳立てをする役割である。

一夜のライブのお膳立てに、土取利行&スパイラルアームズを、暗雲漂う現代の今、企画できたという事実こそが、私のギャラなのである。私の信頼する友人Y氏が撮影記録をボランティアで撮ってくれた。満足である。ユーチューブにアップするために撮影しているのでは全くない。



2025-05-03

5月3日、いまだにスパイラルアームズの余韻覚めやらずの朝の五十鈴川だより。

 今日から4連休である。昨日から労働に復帰した。ただひとり春の陽光を浴びながら、気持ちよく黙々と体を動かした。30日ライブの日の出来事が繰り返し頭に浮かんできて、幸せな気分で草を抜いたり、草を刈ったりした。夕刻家に戻り、ゆっくりお風呂に入り、ライブのことを妻と夕飯をたべながら、余韻会話。午後9時には床に着き、ただ寝た。今朝午前6時に起きて、メル散歩の後タブレットに向かっている。

CDにサインする土取さん

さて、今私はつくづくスパイラルアームズ岡山公演の企画窓口を引き受けて良かったとのおもいが体に充満している。正直今現在の自分の体力、気力、能力で集客できるのか、というおもい、弱気というのとも異なる、時代との私自身が抱えるズレが、よい結果にならないのでは、とのおもいが強かったからである。

だが、結論から言えば、集客できなくてもやるだけやる、と肝をくくってからは迷いは消えた。何よりもライブの記録を私は残したかったのである。それさえ残ればいいと、かんがえたのである。とは言うものの、必須アイテムのお客様がいないと一夜のライブは成立しない。

GWの谷間の平日のあの夜のライブに足を運んでくださったお客様は、素晴らしかった。限界まで演奏した土取さんのスパイラルアームズに、カーテンコールの拍手を送ったのである。もちろん、スパイラルアームズはカーテンコールに応えた。

素晴らしいオウディエンスの存在が、土取さんの最後の数分間の奇跡的な、パーカッションソロを生み出し、その事がカーテンコールに結び付いたのを私は眼底に焼き付けた。その場に居合わせたものだけが、体感できる、居合わせたものだけの波動で成立するのがライブである。企画者冥利、肝をくくって芯から良かった。これこそが私にとっての贅沢の境地、それを全身であじわえた。

話を変える。長くなるので簡略に打つ。今回の企画を引き受けたことで、私のなかの企画者としての可能性が、うまくは言えないのだが拡がって、自由自在な発想での企画をやりたくなってきている。裏方企画者に徹する喜びの深まりである。今回遠方から来てくれた、その昔土取さんのワークショップを共に体験した女性のKさんや、岡山で私のシェイクスピアの音読に参加してくれたYさんなど、次世代の企画者として有望な人たち(全ては割愛する)との再会が、私にそういう想いにさせている。企画者として一番大切なことは、感動する力、勇気、好奇心、行動力、それと対等関係の仲間である。

私は地元岡山での企画を、東京でもやりたくなっている。地方発信の企画があってもいいと思う。スパイラルアームズも含め、土取利行さんの思いを受け止める企画を、あくまでも裏方企画者として、共にやれたら【夢】である。

2025-05-01

昨夜ハレノワでに、スパイラルアームズの公演が無事に終えたことを、ちょっとだけ打つ夕刻の五十鈴川だより。

今朝京ちゃんはメルとお別れ

岡山でのスパイラルアームズの公演が終わった。祭りのあとの充実感、空虚感、脱力感、ある種の淋しさ、疲労感が体と心をおおっている。正直なにも書く気がおきない。だが実現した嬉しさ、達成感、幸福感が五十鈴川だよりを打たせる。起きてから家にもどるまでの一日、こんなにもまるで夢の中のような時間を過ごすことができた、春の夜の夢をわずかでも打っておきたい。
土取利行さん率いる、スパイラルアームズの神が舞い降りてきたかのようなパーカッションアンサンブルの昨夜の、即興演奏には、度肝を抜かれた。そのあまりのわずか3人なのに、度肝をぬくというしかない多様な世界の、打楽器の音色にしびれた。ゴールデンウィークの谷間、平日の夜の公演で、開場まで、聴衆が集まってくれるのか企画者としては、心配でしかたがなかった。だが思ったよりも開演ギリギリまで聴衆が駆けつけてくれ、かなりの席が埋まり、よきお客様の熱気がスパイラルアームズに乗り移り、スパイラルアームズの演奏がお客様に乗り移り、一時間半のライブは女性の舞も岡山のみ実現、えもいわれぬ時が流れた。 スタッフはもちろん、特筆して打っておきたいのは、私の信頼する仲間、当日ボランティアのありがたさ、素晴らしさである。いちいちのお名前は割愛させていただくが、受付、の準備から、誘導看板の設置、お客様の対応、終えてからのCDなどの物販の販売と会計、楽屋の片付けや、掃除、ゴミの持ち帰りまで。無私の裏方に恵まれたこと。(遠方からのボランティアにはこの場をかりて御礼をお伝えします) 午後10時から市内の西川のそばの居酒屋で出演者、ボランティア計16名が参加して打ち上げの宴。全員幸せそうであった。私も酔った。幹事を務めたのはもちろん福岡から駆けつけた小島京ちゃんである。一滴も飲めない瀬政さんも(2次会5名)最後までおられたことも打っておく。京ちゃんとタクシーで家に。時計は午前2時をまわっていた。最後に昨日ハレノワに来てくださったお客様に感謝し、限界まで演奏してくださった土取利行さんと人生で巡り会えたことの幸運を五十鈴川だよりを打ちながらかみしめている。(下の写真は吹屋の友人大場さんが撮ってくれた一枚です)

2025-04-30

いよいよ、スパイラルアームズが、ハレノワにやって来日の朝の五十鈴川だより。

 26日から京ちゃんが、今日の日のために我が家にステイしている。昨日の栗林公園内の建物のなかの素晴らしい景観をバックにスパイラルアームズのライブを聴きに、相談の上行ってきた。朝6時過ぎの電車で岡山へ。待ち時間カフェで朝食、7時10分のマリンライナーにのる。高松駅から栗林公園まであるいた.着いたのが9時。

友来たり、ゴールデンウィークとなる

既にスパイラルアームズの二人が着いていた。栗林公園に入り、私と京ちゃんは楽器の搬入や音響の搬入、ステージの椅子並べなどを手伝った。11時すぎには全てが完了、すぐにお昼となり、昼食後スパイラルアームズのリハーサルをじっと私と京ちゃんはみいった。約30分近くで、リハーサルが終了。13時半開場、お客様がやって来る。午後2時本番開始、3時半ライブは無事終了。ちょっとだけ物販のお手伝いをし、私と京ちゃんは再び栗林公園から高松駅まで歩き16時20分のマリンライナーで岡山へ。

着いたのが5時過ぎ、今日打ち上げするお店の場所を再び確認し、ついでにそこで夕飯とした。又もや京ちゃんにご馳走になる。19時11分の赤穂線で我が家へ。西大寺駅のそばのコンビニで、京ちゃんが我妻に、アイスクリームほかの手土産を買った。家で妻も加わり3人で、今日の最終確認をしながら歓談、楽しい時間が流れた。妻の笑顔、私は幸せであった。

最後に昨日のライブ演奏。老人の血が騒いだ。思わず踊りたくなり、とてもではないが、座っては居られなかった。わずか3人での演奏とは思えないほどの、緻密で堅牢で豊かなリズムが響き合う、多種類のパーカッションの交流即興演奏にしびれた。あの演奏が今夜ハレノワで岡山の聴衆とともに体感できる。岡山引き受け窓口を受けて本当に良かったと、春の朝の陽射しを背中に浴びながら想う。


2025-04-28

一昨日と昨日の行動をスケッチ、記録的に打つ、五十鈴川だより。

 26日午前10時岡山駅に着いた京ちゃんをピックアップ。瀬政さんと私の3人で猪風来美術館に向かい、私が運転しお昼について、途中道の駅で買った、お弁当で猪風来さんご夫妻と昼食をとり、午後少し野焼きの準備を手伝った。瀬政さん京ちゃんも。

午後2時過ぎ土取さん一行、スパイラルアームズが到着、猪風来さんと土取さんは打ち合わせをしたのち、猪風来美術館から車で20分、その日の宿である吹屋の元仲田邸に移動、我々3にんも。午後4時前に着いた。

元仲田邸は昔の造り酒屋の主の豪商の明治時代に建てられた大邸宅である。その貴重な建物をを宿に作り替え、吹屋が誇る宿泊施設である。そこの仕掛人で、一切合切を取り仕切っている大場さん、私の友人が温かく迎えてくれた。早速湯を浴び、夕飯までのひとときを、明治の建物の風情が色濃く残る2階建ての離れの別次元に誘われる別邸で、新緑の山郷を望みながら、おのおの自由にくつろぐ。何と大場さんが私と京ちゃんにビールを振る舞ってくれた。瀬政さんはお茶を。2階からの眺め、部屋の古い調度品に囲まれ、タイムスリップ、京ちゃんはご満悦であった。京ちゃんの笑顔が嬉しかった。

夕刻6時半から、6名での夕飯。地元のおばあちゃんお手製の吹屋の食膳を頂いた。全て美味しかった。食後の吹屋の焼酎、京ちゃんが持参した泡盛を、私を含めて4人は飲み、私は久方ぶりに酔って語った。お酒を飲まない土取さん、瀬政さんも、酒宴、談論風発時間の輪に付き合ってくれた。意外な組み合わせの、一期一会の歓談の宴に大場さんも途中から加わりヒートアップ、愉快な山里の夜は更けて午後11時お開きとなった。

現場で体感、見学、感動した。

翌朝朝食前、最高の別邸で6時、早起きの私に大場さんがコーヒーをいれてくれくつろいでいると、瀬政さんがやってきた。7時土取さんが加わり、大場さん、瀬政さん、私の3人は土取さんの途切れない貴重なお話に耳を傾けた。。発端は別邸にかけられていた一枚の変色した写真から始まった。8時が来て、朝食をすませチェックアウトも済ませ、再び別邸で土取さんの話に耳を傾けた。内容は割愛する。

10時過ぎ大場さんの先導で吹屋に移動、弘兼邸を駐車場から眺め、吹屋の大場さんのやっている紅やというカフェに車をおきほぼ一時間ベン柄の里吹屋の目抜通りを散策し、大場さんのカフェで少し休んで、そこから大場さんが道を途中まで先導、猪風来さんの野焼き祭り見学に移動する。お昼に到着、快晴のもと順調に野焼きは進んでいた。

着いたときの野焼き、のろ場の温度はすでに600度、そこから約1時間半で900度まであがり午後2時、予定より1時間早く野焼きは成功無事完了した。終了したことを祝い、作品を作った人たちを中心に数十人で輪になって踊った。私もちょっとだけ輪に加わった。輪に入ってよかかった。土取さん短時間ではあったが見学したことで、秋に望める。スパイラルアームズの二人も野焼きの現場をしっかりと確認したので、私としては大いに安堵したことを、五十鈴川だよりに打っておく。

午後2時半、スパイラルアームズは香川に移動、我々3人は岡山へ、途中まで賀陽の道の駅でコーヒータイム、瀬政さんを岡山で下ろし我が家に5時前に着いた。妻の御許しを得、5時18分の電車で岡山へ。駅前の居酒屋で京ちゃんと飲み語る。20時4分の電車で家に戻る。妻も暫し参加して3人でのひとときを過ごしたのち、最後はふたりで京ちゃん持参の美味しい泡盛を戴く。午後10時お開き。とも遠方よりきて助っ人になる。一泊二日の旅、そのありがたさがしみた。その事を最後に打っておく。


2025-04-26

明日、猪風来美術館でおこなわれる春の野焼きを見に行くまえの、短い五十鈴川だより。

土曜日の朝が来た。明日は新見の猪風来美術館で春の野焼きがおこなわれる。今日は土取さんも午後新見にやってきて、明日の野焼きを見学するので、今日は吹屋に泊まる。めったにない機会なので、私も共に行動することにしている。ちょっと時間があるので記録もかねて五十鈴川だよりを打っておく。

咲き始めた今朝の我が家のもっこうばら

博多の盟友京ちゃんが、午前10時に岡山に着き、ピックアップして、瀬政さんと3人で新見に向かう。とも遠方よりきたる。従って我々3人も土取さんとともに吹屋に泊まることした。(偶然が重ならないとこのようなことにはならない、人は物語を紡いでゆく生き物である。特に私はそのような傾向があると、自覚認識している。企画をすることは、ある面物語を紡いでゆく裏方なのであるのかもしれない。この世に生を受け、あの世に召されるまでの、偶さか時間を、出遭えた息の合う面々で、夢を紡ぐのである)

猪風来さんは新見に移住、以来20年にわたって、毎年年、春と秋の2回野焼きを行っている。不徳のいたすところ、私は猪風来さんの野焼きを見たことがない。秋の20周年特別企画の企画協力を依頼されたものとして、なんとしてもこの春の野焼きをこの眼でみておきたいのである。今日は明日の本番を前に、猪風来さんたちはその準備に追われていると思うので、できる限り、お邪魔にならないように、とは思っている。

とここまで打って、他にはなにも打ちたいことがなくなった。とにかく明日の野焼きの本番がどのように進行してゆくのかを、しっかりと見守りたい。それだけの今朝の五十鈴川だよりである。

2025-04-24

回らない頭で、谷口英久さんにお礼を伝え、想う春の宵の食後の五十鈴川だより。

午前中の肉体労働が終わり家に戻ると、またもや伊豆大島の谷口さんから4月30日のスパイラルアームズの打ち上げようのお酒が届いていた。麦から芋へ。

お礼。その事さえ打てば、もう私はなにも打つことはない。正直もうほとんどなにも打つ気にならないほどに、気もまわらず五十鈴川だよりを打っている。

なにせ、夜食後に五十鈴川だよりを打った記憶がない。だが、今宵は打っている。谷口英久さんにお礼を一言打ちたいがための、五十鈴川だよりなのである。

だが、単にお礼を打つだけでは、もったいないという、老いたりとはいえ、純な気持ちが私にはまだあって、蛇足の感謝を伝えたいのである。そういう気持ちに私がなるのは、添えられていたお手紙が素晴らしいからに他ならない。

話は変わるが、今回スパイラルアームズを引き受けたことで、枚挙にいとまがないくらいに、次から次に、劇的な再会がいちいち記すことができないほどに出来している。その事の筆頭が谷口さんとの再会である。くどくどとは今宵はもう触れない。本番を目前にしてこれ以上打つことは控えるが、スパイラルアームズの今回の企画は、はこれからの私の老いの前途を照らしてくれるように思えてならない。

その事に関して老いのおき火が、今後どのように変化してゆくのかは、いまはまだなんとも私にもわからない。本番を終えて、かならず私の体と心が、何かを見つけてくれる予感がする、としか今宵はいえない。

とまれ、話は変わるが、あたかも恥ずかしいというしかないが、たった一杯のハイボールのせいかもしれないが、生きているということのなんたる神秘に、殊勝な気持ちに誘われるのはきっとまだまだ私が、巌と生きていることの証左ではないかと肯定感に浸れるからである。ともあれ酔うのは勝手だが何事も実現しないと、砂上の楼閣である。老いの可能性を、谷口さんのご神火のスピリッツを口にして想う春の夜である。

2025-04-23

雨上がり、我が家の庭の春の草花が輝く、午前中の五十鈴川だより。

五十鈴川だより、 他に打つことがないのかと、時に思わぬでもないけれど、もう私は一老人の老境を綴り打つことが、老いの心身機能調節として欠かせない、からこそ打っている。

妻丹精の小さき花、小さきままに生きる。

66才の夏から働いている、今の肉体労働アルバイトだが、この夏が来れば、丸7年働いている。この間のコロナ下生活でも、人との接触のないこの労働のおかげでどれ程私が救われたことか、本人がいちばんよく自覚している。年金生活者は余裕がない。額の多寡ではなく、収入がある暮らしというものがないと、まず私の場合企画することは不可能である。

幸い娘たちの手が離れ、老夫婦のみの生活なので、余分な出費が不要だからこそ、このような願ってもない暮らしが、つつがなく送れていることはまず間違いない。他の方はいざ知らず、何よりも体が動いてくれているからこそ、労働もやれているし、企画もやれている。

その事にまずは、例えようもない有り難さを痛感しながら、73回目の春の日々を、ありがたいお念仏を、草を刈りながら天空の下で唱えながら生きている。真の意味で富良野での天空の肉体労働、中世夢が原での天空の下での22年間、そして今の労働をプラスすると、すでに30数年、私は天空の下で、四季の移り変わりを体感しながら、大いなるものに身を委ねる生活を、日々生きている。

従ってお金と言うものとは、一定の距離をおきながら(必要な時にのみできるだけお金を使う)の生活を送ってきたし、お金のない暮らしと言うものを、18歳からいまに至るも継続しているそのせいなのか、耐乏生活を続ける耐性感覚がいやでも身に付いている。

だからといって、けちな生き方は御免である。どなたかの本のタイトルではないが、貧乏だけど贅沢な生き方がしたいと、いまも心からそう願っている。だからなのではないかととも思える。企画することを継続しているのは。文章を書いたり、音読したり、本を読んだりするのには、ほとんどお金は不要であるし、何よりも精神的な安寧が得られる。

もっと年を重ね、いよいよもって家からほとんど出掛けられない、体が動かなくなってくる日を、一日でも先伸ばしするための、今のところ私が見つけた一番の方法は、気持ちよく体を動かす労働力をキープすることである。起きてから日が沈むまでの生活と、陽が沈んでからの生活のメリハリをつけ、老いては夜は体をひたすら休める。余分な情報は入れない。これまで学んできたことを、ただ繰り返す。ご縁のあった方々と共に生きる。これにつきる。(今日はこのような五十鈴川だよりになりました)


2025-04-20

4月30日、スパイラルアームズ、ハレノワでの挨拶文を何とか書き上げて想う、五十鈴川だより。

 昨日日帰りで名古屋に行き、スパイラルアームズの演奏と五木寛之さんの、私の親鸞と言う講演会を聴いた。突然やはりゆかねばとの思いにかられて行ったのだが,1932年生まれ、今年93歳になられる、そのどう表現したらいいのかわからないほどの、たたずまいとお話に感服した。その事実だけを五十鈴川だより打っておく。

さて、昨日の演奏を含めての、スパイラルアームズ5ヶ所のツアーが始まった。10日後にはハレノワにやって来る。もう私としては当日を無事に終えられるように、準備をしっかりとやるだけなのだが、何とか今朝、当日こられたお客様に配布する後挨拶文を書き上げたところである。 生来いろいろなことの、準備とか細かいことが苦手な私が よくもまあ、企画なんて煩雑な手続きのややこしさを何年にも渡ってやってきた事実に、自分でも驚いてしまう。

でもそれもこれも、有能なボランティアスタッフがいて、当日の細かい役割をこなしてくださるかたがいればこそ、成り立つのである。その事に思いを馳せるとき、我が身のなんたる有り難さを、嫌でも痛感する。我妻も含め、今回も12人のボランティアスタッフがが、当日の舞台設営、受け付け準備、楽屋、お客様誘導から、終わってからの片付けまでをボランティアスタッフが労を惜しまず手伝ってくださる。映像撮影やカメラ撮影もボランティアである。すべてのボランティアスタッフに、経費を計上したらまずこのような企画は実現不可能である。まず私にしてからがボランティアである。仕事ではとてもできないし、仕事ではではないからこそ、やれるのだとも言える。 ではなぜやれるのか。一言で言えば土取利行さんの一途と言うしかない、絶滅危惧種とでもいうしかない、あまりのひたむきさに圧倒されつつも、そのひたむきさの、老いを凌駕してあまりあるパーカッションの音波動を浴びたいのである。昨日五木寛之さんがお話されていたが、企画者は演奏家と聴衆を繋ぐ仕事なのである。どんなに素晴らしいアーティストでも当日足を運ぶお客様の存在なくしては成立しない。中世夢が原で一から企画者として出発した私だが、企画を積み重ねることで、徐々に企画することの面白さに目覚めてきた、小器晩熟の私である。正直この年齢でも企画が打てることに、驚いている。それもこれも年齢を超越したかのような、土取利行さんのおかげである。土取さんは、私を簡単には老人にさせてはくれない。だから私は覚悟を決めたのである。土取さんからのお声かけには、何としても応えられるように、足腰を鍛えておかねばと念うのである。

2025-04-18

猪風来美術館にゆくことが、最近の私の一つの喜び、楽しみであることを、告げる春の朝の五十鈴川だより。

 年だなあと思うし、感じる。こんなことを打つと、そうは思いたくない方々から、あまり年だ年だと、打たないほうがいいとやんわりと指摘される。が本人がそう感じているのだから、致し方ない。

だが、だがである。ここらへんのいわく言いがたい言葉の綾で、受け取りかたは多様にかんじてしまうのは、致し方ないと、私は思っている。どちらかと言えば、老いてきたなあ、と感じるのは肉体の方で、心の方はいい感じで老いを迎えられている、のだ。

今フライヤーをNさんが作っている

その事を、言葉で表すのは至難なのでよすが、私としてはこれが自然なので、どう思われようと、私自身の内実の吐露を五十鈴川だよりに打ちながら、流れるほうに流れてゆきたいと、ただ想うのである。

老いたなあと感じるのは、だんだんと血が騒がなくなってきつつある、というか、もう何が起こってもすべて受け入れるとでもいうしかない、どこか諦感にもにた感覚、感情が芽生えてきている、のだ。再び、だがだがである。絶対矛盾とでもいうしかないが、老いの心は、青春時代とはまったく異なって、激情にはほど遠いが、老人の心も激しく右往左往するという、当たり前を私は生きている。

話は一気に変わるが、昨年暮れから、新見の猪風来縄文美術館をたびたび訪れている。今年になってからは、猪風来さんの縄文美術館開館20周年記念事業、秋の大きな企画のお手伝いをすることになり訪れている。公私なくゆくのが愉しいのである。

つい先日15日も、そのための大切な打ち合わせ、秋に向けてのミーティングがおこなわれ、猪風来さん、村上よし子さん、とNさん、香川からOさん、瀬政さんと私の5人でおこなわれた。濃密でよきミーティングができたことだけを、五十鈴川だよりに記しておく。

私が打ちたいのはその事ではない。明らかな私自身の内面の変化が、(猪風来縄文美術館を訪れるたびに)起きているということである。老いゆく喜びの発見とでもいうしかない、ような感情にたた誘われるのである。その事に関して、今は縷々綴っている余裕はないが、老いつつも心がいきいきとしてくる感覚が満ちてくるのが分かるのである。だから私は新見の縄文美術館にゆき、猪風来さん、よし子さんに会いたくなるのである。

私がとうの昔に無くした、記憶のなかの風前の灯火の源風景が、あたかもまるで忽然とよみがえってでもくるかのような(錯覚であれ)安堵感に私は浸れるのである。だからゆくのである。臆面もなく五十鈴川だよりに刻んでおくが、今や猪風来縄文美術館は、現在の私のよりしろのような精神のトポスなのである。(今朝はこれまで、これから労働します)

2025-04-15

新見の縄文美術館に出掛ける前の、朝の五十鈴川だより。

 15日の朝である。春雨、花冷え、春雷とめまぐるしく季節はダイナミックに移り変わり中、とりあえず30日のスパイラルアームズを見据えながらも、あくまでも私の基盤生活である労働をしながら、日々を過ごしている。いい意味での老人生活を送れている安堵感がある。

手で書き、伝える

だが、フラジャイルな人間の生活には、いつなんどき何があるか、皆目わからないので、若い頃と違って私は静かに、できる限り腹をたてず、穏やかに暮らす営みを求めている。

ちょっと油断したり、横着になったり、億劫になったり、つまり手抜きをすると、まず自分の気持ちがスッキリしないので、できる限り起きてから日が沈むまではキチンとした生活を心かけ、日が沈んだら弛緩する、ってな案配である。

たびたび、今後は超シンプル生活に移行したいと綴っている。限りある元気時間を大切に生きるためには、もう余分なことには首を突っ込まず、どうしても手放せない人たちや、ものに囲まれて暮らす、と決めたのである。(老いては義理を欠くのである)

とはいっても、家族を含め、大切な誰かに頼まれたりしたら、私にできる恩返し的なことには、労を惜しまず動ける間は動くといった気構えではいる。土取さんからの依頼で、スパイラルアームズを引き受けたことで、その気構えがよい方向に流れていっていることを、今、私は感じている。

老いた企画者ではあるが、うまく言葉にはできないが、70才からの再出発、老いの可能性が深まってきて、若い頃には考えもしなかったことに想いが及ぶような感覚が生まれている。だからこのようにきっと能天気に極楽とんぼ的な五十鈴川だよりを、打てるのだと思える(のだ)。

実現する、しないはともかく、まずは私の場合思い付かないと、何事も始まらない。思い付いたら信頼できる友人に相談する。そういう友人が、今現在私の回りに想像以上に存在していることが、一番の財産であり宝である。大事な人、あってウキウキ感が湧いてくる人、男であれ女性であれ人間で、その日一日一日をしっかりと生活している人にいちばん私は憧れる。

文化的なことや、芸術的なことに、つまり私がこれまで出会って来た世界では、出会えなかったような人間に、いまわたしは惹かれる。生活者であり、自分の役割、仕事にいきいきと没頭している人間に惹かれるのだ。だから自分自身が先ずはそのような人間でありたい、のである。そのために、どのような生活を心かけたらいいのかを、五十鈴川だよりを打ちながら考えつづけたい。(時間が来た、本日はここまで)

2025-04-12

春の宵闇、岡山のFMレディオモモに、スパイラルアームズの告知出演、そして想う。

 わずか一週間で、桜の花も既に散り始めている。私が働いている広い敷地も、新緑の芽吹きのすさまじさに、老人の私の体は圧倒されている。自然界の摂理はあまねく公平に全生物、万人に訪れる。

読み始めたばかり、すごく面白い

そして、私は冬を忘れ、春爛漫の世界に酔いしれる。とりたててどこかに出掛けてお花見をするなんてことはほとんどしない。わが労働先と、家の近所、我が家だけの春の訪れを、私は充分に楽しめている。ありがたい春を私は愛でる。

さて、昨日の夕刻、岡山のFMレディオモモに10分間、スパイラルアームズの告知のため出演した。いかほどの反応があるのかは皆目わからない。この年齢での労働生活を基本に据えながら、なおかつスパイラルアームズの企画窓口を引き受けるということは、背負ったものにしかわからない、ある種の覚悟、腹をくくる胆力がいる。ベストを尽くすだけである。

終えるとすぐに、瀬政さんからメールを頂いた。あたたかいメールであった。瀬政さんは山陽新聞の告知のために動いてくださっている。

山陽新聞の告知が出れば、もう私としてはことスパイラルアームズに関しては、やるべきことはやったという感じである。後は本番を迎えるだけである。やりきった感、これだけは私にしかわからない。

ところで、ながくなるのではしょるが、このレディオモモ出演は、とある方の紹介でレディオモモ社長、O氏にお会いしたことですんなりと決まった。O氏は何と、昔私の企画を中世夢が原で聴いたことのあるかただったのである。

古希を迎え企画を再開した私にとっては、いきなりの味方出現というわけで、改めて夢が原という強力な野外音楽芸能に適した場所で、数々の企画が、わが人生でやれたことの幸運を思い知らされた。O氏はその思い出をとつとつと語ってくださった。あの時代の、私の企画を今も心のうちに宿していてくださるかたがおられることに、企画者冥利というしかなかった。

その上O氏は、必ずスパイラルアームズ聴きに行きますとチケットを、その場で2枚(カンパ付き)買ってくださり、激励してくださった。

出演を終え、家に向かい車を走らせると、空にはでたばかりのほぼ満月の春の月が浮かんでいた。能天気な私は、月が祝福しているかのように感じられた。




2025-04-06

今朝起きて五十鈴川だよりを開いたら、谷口さんから3連発のコメントをいただき、有り難き春の夜の夢のごとし、なり。

 昨日新見の猪風来縄文美術館を訪ね、(午前9時前に着いた)打ち合わせを約2時間した後、猪風来さんご夫婦、瀬政さん、那須さん、私の5人で持参したお弁当で、和気あいあいの昼食を済ませ、岡山市内に戻ったのが午後2時であった。朝7時2分発赤穂線で岡山駅へ。瀬政さんが西口で私をピックアップしてくれ、一路新見を目指した。往復瀬政さんの車、彼が運転してくれた。(瀬政さん運転、ありがとう、ご苦労様でした)

風雪を、耐えて凪海、舞い降りる

岡山市内の天神山文化プラザで降ろしてもらい、私は6月22日の猪風来さんのトークのための会場を押さえるべくその足で事務所に向かった。あいにくすべての部屋が埋まっていたので、そのまま歩いて県立図書館に向かった。7年前リア王の発表会で使ったことのある空間が空いていればと願ったのだ。空いていた、よかった、すぐ手続きを済ませた。

猪風来さんの体が空いている日を押さえ、その日のうちに会場を押さえる。スムースに事が進んだことで、企画者の私としての心は一気に軽くなった。が、まだ春の日は沈まない。持参したスパイラルアームズのフライヤー200枚を、必ず置いてくださる、シネマクレールの浜田さんに直接お会いし、フライヤーを置いてもらえるようにお願いした。

浜田さんはニコニコと、いつものように応じてくださった。やはり眼力がある。岡山の中心部にシネマクレールがあるということは、岡山の誇りである。浜田さんは映画と言うものに、映画への愛に全人生を、いまもそそいでいる稀な方である。そのうつむき加減のたたずまいに秘めた底力、覚悟を想うとき、企画者のはしくれとしてエネルギーをいただくのである。

シネマクレールでのフライヤー配布を終え、岡山駅まで歩き赤穂線で西大寺の我が家に着いたのが午後5時近く。起きてから帰宅するまでおおよそ12時間、充実した疲れが体を浸していたが、またもや谷口さんから、心有り難きコメントが入っていて、あり得ない夕刻の五十鈴川だよりを打つということになり、結果ヨレヨレの体で打った。

そして今朝である。3連発のコメント。心にぎゅっと、グサッときた。14年目に入っている五十鈴川だよりだが、3連発でのコメントは、もちろん初めてである。オーバーではなく、実感する。このような稀な珠玉と言うしかない、宝石のようなコメントをいただくと、またもや老人はあらぬ世界に舞い上がるのである。ヒトは昔鳥だったのかもしれないね、という中島みゆきさんの詩が老人の頭に甦る。たぶんヒトは出会いと別れを繰り返し、刹那の人生に夢をみる。

もうこの年齢なので、お恥ずかしくも打つが、、、。だがやはり控える。今日は日没をできたら眺めながら、感じながら、ひとり谷口さんのお言葉にしたがって、凪海を呑みたい。

2025-04-05

谷口さんのコメントに想う、猪風来縄文美術館を訪ね、打ち合わせをした春の日の夕刻に打つ、稀な五十鈴川だより。 

 五十鈴川だよりにはいただくコメントが少ない。だからたまにコメントをいただくと本当に嬉しい。実は新見の縄文美術館に打ち合わせに行って、(瀬政さん、那須さんと4月30日に配布する、予告フライヤー、及び猪風来さんの縄文土器に打ち込んだ50年の人生を語るトークフライヤー2種類を作るための)帰ってきたばかりで、ぐったり疲れているのだが、谷口さんの頂いたコメントを読んだら、無性に何か打ちたくなったのである。

今日頂いたDVDのフライヤー

コメントに交通事故に遇われたことが触れられている。改めて想う。お会いしたのは一度だけ、あれから33年の歳月が流れたのである。おそらく誰にでも訪れたであろう時間の流れ、重みを想うとき、文字だけではなく、じっくりと改めて送られてきた焼酎【凪海】を飲んでみたくなったのだが、今のところまだ開封していない。

長くなるからはしょるが、先日我が家にステイした、小島京ちゃんと4月30日のハレノワが終わったら、我が家で祝杯をあげることにしていたのでそれまでは、凪海を味わうことは控えている。凪海は、私にとっては特別のお酒になってしまったのである。

であるが、今後いつまで飲めるかは別にしても、飲める間は谷口さんの造った焼酎を家では飲み続けたい。いや、飲む、だから、ささやかだが谷口酒造の焼酎を年に何回かまとめて注文したい。あわよくば、私の回りの焼酎好きにもPRしたい。

なにやら舞い上がっているかのような、老人五十鈴川だよりだが、ヒトは舞い上がれたり、動き回れるあいだに何事も思い付いたら吉日をモットウ、としている私としては私の心が思い付いたことに従うのである。

よしんばそれが現世の常識的通念とは乖離が甚だしくとも、感じるヒトは感じるし、わかるヒトは解るし、解らないヒトには解らないのだから。そういう意味では、今年は私の中の老いをより深く味わい、意識的に生きる老人元年として記憶に刻み付ける、エポックな年にしたいという老いのいい意味での欲望が、谷口さんのコメントで湧いてきている。谷口さんの造る御神火焼酎は名前が、今を生きる老人の私に火を灯すに充分である。

誤解を恐れずに敢えて打つが、ハレノワのスパイラルアームズが満員にはならなくても、もちろん満員にはなってほしいのはやまやまなれど、私のなかでは、どこか企画を引き受けた段階からなるようにしかならないという、どこかいい意味での諦念のような感覚が、ぬぐえなかったのは事実である。(うまく言えないが今という虚ろな時代を必死で生きているヒトはきっと反応する)

本番迄一人でも多く足を運んではほしいものの、どこか腹をくくってはいる、のだ。来られるかただけで、ハレノワの空間にえもいわれぬ熱が満ちれば足りるのである。谷口さん始め、濃い聴衆が駆けつけてくださることがハッキリしているからである。

この年齢にして、またもや何かを掴んだという実感が今の私の体を包んでいる。謙虚にこの感覚を育てれば、何か次の世代にバトンタッチできるような、プロデュースする側の意識の転換イベント、企画になる予感が今日も打ち合わせをしていて、体にわいてきたのである。ハレノワから秋の縄文美術館でのイベントにつながる流れを私は模索している。文章で思いを伝えるのは、やぶさかではないが、この五十鈴川だよりに実体を注ぐには、私の今現在の肉体が動いて事実を伝えるしか私には方法がないのである。                                 

2025-04-01

3月31日夕刻谷口英久さんから【凪海】とお便り届き心にぎゅっと春が一気にやってきた。

 昨日、谷口英久さんから【凪海】と言う素敵な名前の焼酎と、またもや谷口さん独特の文字のお便りが夕刻とどいた。極めて超個人的な喜びを、花粉症のせいなのか、鼻水が止まらず体調が悪いのだが、短くても五十鈴川だよりに打たずにはいられない。




いちばん嬉しかったことは、きちんと今現在の五十鈴川だよりを読んでくださったことである。自分のことはあまり自分ではわからない。私のやっていることへの評価をこのような形で直さいに伝えてくださったことへのあまりの嬉しさである。そして直しも含めての谷口さんの直筆の独特さ。軽みと純粋さと子供心。思い立ったら、駆けつける粋な今時珍しい心意気。いい年をして、ハシャギ、妻にあきれられる始末。

今回の企画は、あらゆる意味での不思議な再会が続いているが、この谷口さんとの再会は、自分でも信じられないくらいの、意外な出来事のひとつとして、生涯の晩年の思い出の筆頭になることは間違いない。

何事も愚直に持続継続していると、ときおり神様が粋な計らいを与えてくださる。まるでお酒が発酵してなにか突然変異が内なるからだで起こったかのような喜び、これまであまり経験したことがない嬉しさなのである。今をとにかくがむしゃらに生きていて本当によかった。

最後に、何度か書いているが、自分の体、手で文字を書く、その人の文字の力である。こればかりは機械で書くような画一的にはゆかない、その人なりの全人格が自ずと出てしまう。もういいのである。自分の文字で遊び刻み引っ掻くのである、。自由自在、どこ吹く風、その日の風に身を任せ。いよいよこれからの時間は、遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん、そのような仲間との時間を大切に生きてゆきたい。

2025-03-31

春3月末日、ひんやりした花冷えの朝に想う、五十鈴川だより。

 明日から4月である。先週で3月の労働を終えたので今日は労働はなし、だからというわけではないが、時間があるのでちょっと五十鈴川だよりを打ちたくなった。すごく打ちたい日もあれば、打つこともない日もある。労働がない日のかなりは五十鈴川だよりを打っている。労働も大好き、五十鈴川だよりを打つのも大好きである。

今朝の我が家のチンチョウゲ
(でないと続かない)

夢が原で働いていたときは、【囲炉裏通信】を綴り打っていた。ブログと言う、昔にはなかったツールでいわば遊びはじめて(ささやかに発信しはじめて)そうとうな時間を日々の生活のなかで割いてきたことになる。振り返って読んだことがないので、今となってはどのような事を書いたのかもまったく思い出せないが、綴り打った事だけは確かである。

まるで日記と言うほどではないが、ささやかな個人史記録にはなっているのではないかと言う、自足的なエゴとでも呼ぶしかない何かが、私に五十鈴川だよりを打たせる。

大船渡や岡山、今治、我がふるさと宮崎でも山火事が相次ぎ、ようやく鎮火したかと思えば、海の向こうのミャンマーでは大地震が起こって、阿鼻叫喚の報道が伝わる。高層ビルが崩れゆく様の映像はまるでこの世のおわりである。(果たして文明とはなんと無慈悲であることか)

毎朝のお務め、愛犬メル散歩を春のひんやりとした空気を吸いながら、ご近所の花ばなを眺めながら済ませてきたのだが、老人になってしまった私は、ただ平凡に暮らせていることの有り難みを、足りていることを芯からの感じられることの有り難みを、五十鈴川だよりに打つ。

大昔、テレビやインターネットとうの、つまりテクノロジーがなかった時代には、遠く離れたところでどのような悲惨な出来事が起ころうとも、知るすべがなかったのだから、知らぬが仏と言う言葉はあながち、むげにはできないほどに、ある種の真実をついているような気がしている。

情報に踊らされる。余計な情報が心を蝕む。欲望に火を焚き付ける。デジタルの発達で詐欺などの、あらゆる犯罪が巧妙かして、いつなんどき変な犯罪の片棒を担がされるか、とおもうとき、迂闊に家にかかってくる電話などには、もう私はほとんど出なくなっている。誤解されてもいいが打つ。限りなくでくの坊生活に私は憧れると言うことを、古稀を過ぎる頃から度々打ってきている。その傾向はますます強くなってきている。メメントモリ的時間をいきている、のだ。

新見の猪風来縄文美術館に昨年暮れから、度々訪れている。今年の秋の猪風来さんの縄文美術館開館20周年記念イベントの協力を依頼されたことがきっかけではある。私のなかで、何か機が熟したとでも言うしかないタイミングでの本質的な再会がようやくにして叶ったとでも言う他ない。猪風来さんや奥さまよし子さんとの語らいの時間にとてつもなく気持ちがよいのである。

まるでふるさとの五十鈴川で、幼い頃の姉や兄と語らっているかのような、安心感安堵感に包まれるのである。だから私は度々縄文美術館にゆくのだと想う。何かおおいなるものに包まれる気持ちよさにひたり、充足し、現世的な欲望まみれ世界からの逸脱、エクソダス時間に身を委ねるのである。その事の気持ちよさを我が体はまだ失っていない。

現代世界をあまねく覆うかのような、えたいの知れない不安感、鵺的魑魅魍魎妖怪から逃れる心の安らぎの拠り所、トポスとして、猪風来縄文美術館はこれから必須の輝きを放ち続ける、だろう。


2025-03-29

長女の旦那さん(パートナー)レイさんからスパイラルアームズの公演企画に対して、昨日思いもよらぬカンパが振り込まれ、想う。

 先月長女のところに上京した際、娘は不在だったが、夜、交遊歴の長いM子さんにわたすべきものがあり、稲城のマンションまでわざわざ来て頂いた。レイさんは見ず知らずのM子さんを温かく迎えてくれ、わずかな時間ではあったが、M子さんも安心して打ち解けてひとときを過ごした。主に私とM子さんが話すのをレイさんは聞いていた。

机の前の3年前の写真、ミアは生まれていない

M子さんは、70歳から再開した私の大きな企画の全てを支援してくださっている稀な方である。夜中M子さんとお別れした後、なんとレイさんがお父さん私もカンパするので、口座番号を教えてと言われたのである。

私は兄や姉にはカンパをお願いしたことがあるが、娘たちにはお願いしたことはない。手がかかる子育て真っ最中である。そのようなレイさんが何故、私の企画にカンパをしてくれたのかを、縷々説明する気はない。ただ、生まれも育ちも世代もまったく異なる私とレイさん。娘がまだ大学生であった頃、我が家に娘がボーイフレンドが出来たと連れてきたのがレイさんとの出会いである。

10年前、レイさんと娘は旧東ドイツ、エルベ川のほとりの町レイさんのふるさとドレスデンで結婚式をあげた。私たち夫婦もドレスデンまで駆けつけた。それは慎ましくも素敵な結婚式であった。あれから瞬く間に10年、今、レイさんと娘には7才になったばかりの男の子ノアと、まもなく2才になる娘ミアがいる。

話は忽然とかわるが、娘がレイさんと結ばれ家族を成したことで、私のなかでいわく言い難いいやが上にもの変化が、今も続いている。その事を五十鈴川だよりで簡略に説明することは不可能に近いが、一言で言えばバックボーンの異なる歴史文化の男性を、娘が生涯の伴侶に選んだことで、我が家に日本風とはまるで異なる意外というほかはない新しい風が生まれ、その事が私にも、老いたりとはいえ、嫌でも日本風男の根本的な弱点を、私に突きつけたのである。

レイさんは全てにドイツ的な、(レイさんのドイツ)いわば自然にレイさんの流儀で何事も為してゆく。古い私のような戦前の親父の影響が抜けきらない男にとって、新しいというほかはないほどに、板についた男女平等を実践する。時に余りも自然で、脱帽してしまうのである。このようなことを打つと、親ばかの謗りを免れないのでこれ以上打つのはやぼ、控える。(レイさんが私の今の活動に寄り添ってくれていることへの感謝、このような男性を選んだ娘に感謝する)

娘が異国の男性を伴侶に選んだことで、ノアとミアは、ダブルスタンダードのバックグラウンドを抱え持つ、宿命人生を嫌でも歩むことになる。がその事をまったく私は案じてはいない。どのような人生であろうと、ヒトは生まれ落ちた宿命を生きるのである。

彼らが大きくなるまで、私が見届けられないかもしれない。が、案ずるよりも産むが易し、を私は選ぶ。その方がずっと実りがあることを、私はこれまでの73年の人生で学んで来た、からだ。(ノアとミアは困難をきっと乗り越えてゆくのを見守りたい)

娘とレイさんが出会って十数年で、新しい命が生まれ新しい家族の営みが一瞬の休みもなく形作られてゆく、生命の輝き連鎖、その行く末を見届けはしたいが叶わぬ。それでいいのである。だから私は五十鈴川だよりを打つ。いつの日にかほんの一部分でもいいから五十鈴川だよりを読んで貰えればいいのだ。見えなくなっても宇宙の塵となってでも見守れるのだから。

五十鈴川だよりに、スパイラルアームズ公演のカンパのお礼を綴り打ちます。レイさん😆💕✨ありがとうございます。




2025-03-27

伊豆大島で焼酎造り酒蔵を営む、谷口英久さんがスパイラルアームズの(30日)公演に来てくださいます。そして想う。

40歳で 中世夢が原で働くことになり、当時妻と3才の長女と東京から岡山に移住、企画者の端くれとなり61歳で退職するまで働き、紆余曲折70歳で再び企画を再開、今年4年目の企画は土取利行さん率いるスパイラルアームズであることは、繰り返し五十鈴川だよりに綴っているので、読まれている方はまたかとお思いの方も、おられるかもしれない。

老人は繰り返し同じことを語り続ける。私は老人である。繰り返し念仏を自分のうちなる闇に向かって、唱えるかのように五十鈴川だよりを打つ。とにかく新しい、今日一日を気持ちよく過ごすために、貴重な老人ライフの充実に努めながら生きている。

谷口さんの年賀状と暑中見舞葉書

もう企画をすることも(引き受けることも)ないだろうと思っていた矢先の昨年11月、土取さんからの依頼で、スパイラルアームズ、岡山公演の企画窓口を引き受ける、はめになった。そのことで、私の生活は、老人である事を暫し忘れ、時が逆回転したかのような生活を余儀なくされている、といっても過言ではない。

何事にもことが動くには、奇縁、タイミングと言うものが大きく作用すると言うことを知らされる。意外な、予期せぬ出来事が次々に出来する。依頼が土取さんでなかったらまず引き受けてはいないし、覚悟して引き受けたからこそ、意外な再会や、予期せぬ展開がもたらされる、としか思えない。そのことの不思議を、五十鈴川だよりに打ちたくなる。(のだ)

長くなるので簡略に打つが、伊豆大島で家業を受け継ぎ、焼酎造りに情熱の限りを尽くしておられる、谷口英久さんと面識を得たのは中世夢が原がオープンした1992年であったと記憶する。爽やかな方で何故かうまがあい、5年近く、お年賀や暑中見舞をやり取りする関係が続いたがいつの間にか、関係性がとおのいていた。

昨年から私は、身の回りの今となってはお荷物の本や、CD、レコード、チラシポスター、資料、衣類等と共に、数十年保管していたお手紙や葉書、年賀状などを、いまもゆっくりと手放している。だが、どうしても手放せないものがやはりある。

娘たちからもらった手紙や、兄や姉からの葉書手紙、分けても友人たちからのお手紙、年賀状には私の交友録、出会いの縁、妙、人生がつまっている。この数年毎回これが最後の気持ちで企画をしている。谷口さんの、あの懐かしくも素晴らしい年賀状は私が生きている間は手放せない。(のだ)

久方ぶりに年賀状にみいっているうちに、急に私はたった一度しかお会いしたことがないその谷口さんの住所宛に方に、今回の企画のカンパのお願いの一文のはいったおたよりを厚顔を省みず送りたくなった。なぜ送ったのかはわたしにもわからないが、きっと元気なうちにもう一度会いたいという気持ちが、そういうアクションになったのだ。

後日、突然カンパを振り込んだというお葉書を頂いたときの私の嬉しさは、格別という陳腐な表現しかないほどに、じわーっとからだの芯からの嬉しさが込み上げてきた。まさに偶然の思い付きが思いも及ばぬ結果を生む、事実の重さに祝杯をあげた。

私はカンパのお礼に、猪風来さんの本、ご子息原野さんの絵本等と共に、今回のフライヤーと一文を添えて送ったところ、またもや先日、ハレノワでのスパイラルアームズの公演にやって来るとのお葉書を頂いたのである。私よもやまさか伊豆大島から来ていただけるとは。青天の霹靂の嬉しさ、思わず私はインターネットで谷口酒造の電話を調べ、お電話した。

女性の方が出られたので御礼を伝えたら、すぐに折り返しご本人から私のケータイにお電話を頂いた。声はまったく変わっていなかった。名状しがたい感情に襲われた。一気に空白が埋まった。まるでドラマだが事実である。

スパイラルアームズ公演の企画を引き受けなかったら、33年ぶりの再会は実現しなかったにちがいない。折り返し後半の人生、企画者の端くれとして再出発して33年、今回の私のエネルギーを支えているのは、これ迄の交友録で関係性が途切れずにいる友人たちのおかげである。現時点での私の人生の集大成の企画といっても過言ではない。が、これで終わりではない、その事を谷口さんや京ちゃん、今回私を支えてくださる宝石のような面々から教えられている。(人生の奥の深さを)


2025-03-24

40年以来の古き友人が、一泊二日の岡山にやってきて我が家にステイ、縄文美術館を案内しました。

一昨日土曜日お昼から、昨日午後3時半まで 小島 京志さん(以下京ちゃん)が、わざわざ岡山まで来てくれて、有意義な時間を共に過ごせたことのありのままを、ほんの少しでも記憶が新鮮なうちに、記録的に綴っておきたいと思う。

一昨日午後2時に岡山の県立美術館で私は京ちゃんと待ち合わせた。京ちゃんはお昼前に岡山について柚木沙弥郎展を見ていた。私はその間約300枚のスパイラルアームズのフライヤーを岡山駅、県立美術館エリアの、カフェやショップに久しぶりに配布した。

猪風来さんと京ちゃん

午後2時、落ち合ってからは、歩いてハレノワを少し見学した後、30日の公演後の打ち上げのお店探し等を、京さんとともにし、手頃なよき店を店を見つけることができた。

そのお店の開店が午後5時だったので岡山駅に近い居酒屋で、約一時間軽く再会の乾杯をしてから、打ち上げのお店に移動、腰を落ち着けて語り合った。

2時間お任せ4000円コース、飲み放題を二人で注文、去年の暮れ以来の久方の、飲み食べ語りあいのよき時間を過ごした。男同士、古稀を過ぎての語らいは秘密の森に分けいるかのように妖しい展開を帯びて、切なくも面白かったことをきちんと打っておく。最後美味しい日本酒の店でしめ、午後8時半過ぎの赤穂線で西大寺へ。春のよる。ほろ酔いおとこふたり、家まで歩いた。裏方企画者は仲間も歩く。京ちゃんはタフである。

ほんとうに久しぶりに私は酔い、家でも京ちゃん持参の高級な焼酎を飲んだら、あっという間に睡魔が来た。妻もわずかな時間、京さんと語りあえたが、午後10時にはお開き、私も京ちゃんも嬉しき睡眠世界へ。

昨日日曜日は6時におきてすぐに買い出しに行き、妻のおもてなし朝食を済ませ新見の縄文美術館に向けて8時に出発、10時半に着いた。京ちゃんは、11時に10人ほど事前に予約して訪れた団体の方たちと共に、猪風来さんのお話を聞きつつ、縄文美術館の展示作品に先入観なく見いった。

私はその間、初めて奥さまのよし子さんと二人でお話をする時間を持てた。なんと原野さんの幼少期の写真を見せていただいた。宝のお写真のかずかずに寸暇見いった。まさか写真を見せていただけるとは思いもしなかったので、素直に私は嬉しかった。

団体の方たちが、じっくりと作品にみいっている間に、4人で(猪風来さん、よし子さん、京ちゃんと私)おむすび、サンドイッチ、リンゴをつまみながらお昼。食後よし子さんがいつも熱いコーヒーをいれてくれる。

食べながら秋のビッグイベントについて猪風来さんは語り続ける。当初、秋に向けての打ち合わせ時間は、とれないと思っていたのだが、限られた貴重な時間のなかで、とりあえず、4月30日当日配布するフライヤーと、それまでに【猪風来、我が縄文土器造りに捧げた人生50年間を語る】(期日未定、タイトルも仮題、私が考えた)を4月26日までに作ることを決めた。そのフライヤーはスパイラルアームズのフライヤーを創ってくれたN氏依頼することにした。

午後1時半、縄文美術館を後にし、15時半京ちゃんを岡山駅まで送り、福岡に帰る京ちゃんとは一月後の再会、固い握手をしてお別れした。丸一日以上密度の濃い時間を過ごした。私の体は最高に喜んでいた。岡山から縄文美術館往復の車中京ちゃんとは、またもやいろんな話が出来たし、よき思い出ができたことを、五十鈴川だよりに打てることが嬉しい。

なによりも我が古き友人が、縄文美術館にいたく感動したことが、案内したものとしていちばん嬉しかった。言葉少なく圧巻の縄文美術館といってくれ、春のハレノワ、に続いて秋の縄文ビッグイベントにも裏方として仲間として加わったことのありがたさは、例えようもない。お互いに、この年齢ではかなりの強行行動ではあったし、なり疲れたが、疲れが全て吹き飛び、満たされた。

京ちゃんの滞在時間は、一日とちょっと、そばにいてくれ、ただ私の話を受け止めて、次々と裏方としてポジティブなスパイラルなアイデア、提案をしてくれる。配慮の人、大人である。おそらく京ちゃんがそばに居なかったら、私の頭もフル稼働はしなかったと想う。小島京志さんへの真摯な感謝を五十鈴川だよりにキチンと打っておく。

2025-03-22

スパイラルアームズを岡山で企画することによってもたらされた至福の旧交復活に想う、今朝の五十鈴川だより。

 土曜日の朝が来た。今日午後博多から40年近い交友が続いている小島の京ちゃんが我が家にやって来て一泊二日滞在する。五十鈴川だよりを読んでくださっている方は、昨年暮れふるさとの兄の家まで来て泊まって、翌日彼の住む鹿児島は隼人市まで共にドライブしたことを五十鈴川だよりに綴っているから、ご存じかもしれない。

いずれにせよ、今回のスパイラルアームズの企画も、私の古希からの4年間も含め、個人で抱えた大きな企画は、ほとんど無私で支援してくれる得難い友の一人である。特に私と京ちゃんは、1984年に設立した、土取さんとパートナーの桃山晴衣さんが創られた芸能堂【立光学舎】のワークショップで出会った。依頼交友関係が途切れたことがない。

お互い土取さんとの奇縁、彼は若き日、お互い20代、旅の途中ネパールで土取さんと出会い、私はロンドンで土取さんと出会った。お互いに強烈な影響を受けたもの同士である。あれから幾年月、その土取さんがスパイラルアームズを率いて岡山にやって来る。血が騒がないわけがない。岡山の窓口を私が引き受けると言うことで、万難を排して助っ人として参加してくれるのである。

4月30日の本番はもちろん、今回はわざわざ当日の事前打ち合わせをかねて来てくれるのである。多くを語らなくても同時代を生きてきたもの同士分かち合える、繰り返すがまさに得難い友と言うしかない存在である。居てくれるだけで私は安堵感に包まれる、のだ。理屈はない。

スパイラルアームズ岡山公演の支援者には身内以外、16名の支援者の名前が掲載されている。40年以上、30年以上、20年以上、30年未満の方々ばかりである。これほどの強力な支援者に支えられてエネルギーをいただき、今回の企画実現に私は向かっている。私はよき意味でのわがままな企画者をどこか自認している。私のような老いた(いい意味で)企画者は支援者(パトロンと言ってもいい)の存在なくしてはどのような小さな企画ではあれ実現することは不可能である。

人生の晩年にこのような至福感とでもいうしかない、旧交再会のひとときが数十年の、空白のあとに突然訪れる何てことは、スパイラルアームズを引き受けなかったら、まず有り得なかったにちがいない。そのようなことの、まるで夢のような出来事が期せずして起こってしまうことの醍醐味を今回の企画であらためてその事の不思議に想いを馳せてしまうのである。

東京都ではあるが、伊豆大島で(出会った時は東京の出版社勤務)実家の焼酎造りの跡継ぎをしておられるTさんとの旧交復活も有り得なかったにちがいない。会ったのは夢が原に視察残られたオープンして間もない頃の一回のみ。何故かうまがあい、何回か年賀状のやり取りをしたことがあったのだが、その後ご縁が遠のいていた。

そのTさんの年賀状があまりに素晴らしいので、ずっと保管していたのである。賀状を眺めているうちに急に厚顔にもカンパのお願いがてら一筆いれて、現況をしらせた

なんと突然お葉書を頂いた。きちんと我が父の文章を読まれたことにも触れられていて、私は一気にある種の名状しがたい感情に襲われた。年内なんとか時間をつくって、伊豆大島までTさんに会いに行くつもりである。京さんほか何人かにお声かけしようと思っている。

2025-03-20

春分の日の朝に想う両親のこと、春の五十鈴川だより。

 五十鈴川だよりは日々生活記録的になっている。若いときのように文化的なこと(広い意味での)には、きっと年齢的なことも作用しているかもしれないが、家族、身近な人たち平凡に生活できることの有り難さを最優先で生きている。そして、もうほとんど過去の記憶、思い出に生かされながら、現在を生き直し続けている、といった案配である。

晩年の父と母

この数ヵ月土取さんや、猪風来さんのことに触れることが多いことで、私のことを誤解、曲解しておられる方がいるやも知れぬが、私はまったくそのような人間ではない。

ただ若い頃から多くの映画や、舞台や、音楽、書物、などに触れ見聞を繰り返してきたお陰で現在の自分が在るということは紛れもない事実である。

だが古稀を過ぎてからは、そういうことに耽溺しなくても、日々労働しながら、妻との老夫婦生活ができるだけで、十分な充足感が得られるような暮らし方が送れている。平凡生活のなかで、五十鈴川だよりが打て、日々草と戯れ体動かし、空の下で生きることの気持ちよさを私は見つけたのである。

今もそうだが、18才から世の中に出て井の中の蛙をいやと言うほど知らされた経験、そのトラウマのような感覚が、今だ抜けきれずにいるのは確かである。だが、古稀を迎える頃から、特に大きな手術を経てから後は、以前にもまして、身の回りの生活、妻や家族との時間を何はともあれ最優先生きている。

その合間合間、時間が割けるときに、企画を引き受けたりしているだけなのである。特に土取さんとは、26才のときから今に至るまで、交友関係性の持続の上に依頼されて、引き受けた責任上、生活者としての感覚、のりをこえず取り組んでいる。

土取さん、猪風来さんに依頼されることの誉れは、例えようもなく有り難く嬉しい。その事だけは五十鈴川だよりにキチンと打っておく。私のようないい加減な人生を歩んできた(ある意味では人生と言う運命に放り込まれた)そのことを余儀なくされ、なにがしかの夢のような出来事に、諦めずしがみついて生き続けてきたお陰で依頼された誉をバネに動いているだけである。スパイラルアームズ本番まで後40日、やれることをやる覚悟だけは健在である。

だがコマーシャリズムに身をおかない、ある種時代を超越した音の神秘を、独自に探求し続けている土取利行さんのスパイラルアームズを、この岡山で、今と言う時代に受け入れてもらえることの困難さを感じているのも事実である。その困難さを敢えて楽しむくらいのどこかに余裕、遊び心が不可欠である。

今、心から願うのは、一人でもチケットを買っていただき、スパイラルアームズの音の波動に身を委ねてほしいと、企画を引き受けたものとしておもう。誤解を恐れずに打つが、なんと難儀な企画を引き受けたものかと時に想うが、古い私、父は言うであろう。男がいったん引き受けたら歯をくいしばってでもやれと。小中、鬼のような父親に鍛えられた私は恐らくそのトラウマから一生涯逃れることはできないだろう。

話が脱線したが、フライヤー配布が一段落つき、このところ一筆いれての(メールで一斉送信すれば楽ではある)封書作業を平均一日に何通か、宛名の名前だけでも早朝墨を擦って筆で書き、他は万年筆で書いているのだが、その事が私には楽しい。たぶん今後ますます私は手書きの方に向かうに想う。その方がワクワク心が動きだし、楽しいからである。

2025-03-16

妻と共に雨模様の中、柚木沙弥郎展に出掛けました。そして想う。

 急にキーボードが動かなくなり画面にダイレクトに打っている五十鈴川だより。時間がかかるが仕方ない。外は雨である。

昨日午前中妻と、今県立美術館で開催されている、柚木沙弥郎展に出掛けた。私はあまり美術展とか展覧会とかにほとんど出掛けない。出掛けるのはよほどのことである。今回県立美術館に出掛けたのは星野道夫展以来である。

日本民芸館で求めた

なぜ出掛けたのかを書くのは、長くなるので割愛、はしょるが、ほんの少し打つ。柚木沙弥郎と言う名前が強烈に私には刻まれたのは、一年前聞いたラジオ深夜便のインタビューである。インタビューされたときの年齢が95歳、そのみずみずしいあまりの宝石のような言葉の数々に心から感動したのである。

東京は駒場東大前に、日本民芸館があるのは知ってはいたがいったことはなかった。そこで柚木沙弥郎さんの展覧会会が開催されている事を知り、私は何としても行きたくなり一人で出掛けた。柚木沙弥郎さんは昨年一月101歳で長寿をまっとうされ召されたので、おそらく再放送されたのを私は聴いたのである。

数少ない戦争体験世代の最後のアーティストかも知れない。戦後染織家として民芸作品づくりからスタートするが、晩年70歳、80歳以降の作品がまさに自由自在、であまりに素晴らしく、生命感に満ちあふれていて、見ていて幸福な気もちになる。岡山ゆかりの方であることを、今回あらためて再認識した。(生来のアーティストである)

ワクワクすることの、感動することの、ただ純粋に、心のおもむくままに、あるがままに、命が輝くことの、気持ちがいいことの、一切合切を生活者の一人として、生活が豊かに彩られるような作品を創造、想像された稀有なアーティストである。ナンセンスの極致の晩年の作品の豊かさは例えようもない。

まさに先生と呼びたい、心から慕いたくなるような語り口の方であられた。たまたまラジオで耳にした、そのあまりの自然体語り口のお声に打たれた。一日一日をきちんと生活し感謝して生きることの当たり前の奥深さを、先生から学びたい。妻と共にゆくことが叶い、よき時間が過ごせたこと、感謝を五十鈴川だよりに打っておく。

2025-03-15

ほぼ、スパイラルアームズのフライヤー配布を終えた朝に想う五十鈴川だより。

 嬉しい土曜日の朝が来た。9日の朝打って以来である。多分これからはお休みの日、つまり労働アルバイトをしない日以外は打たないと想う。心と体が充分に休息をした日以外は、一文を紡ぎ出すと言う気にはきっとならないだろう。

望晃、七歳のお誕生日プレゼントの本

60代まではまだまだ煩悩というか、怒りの感情などが日々随所に沸いてきたのだが、このところそういう感情が消えてはいないのだが、むなしさの方が勝って、ただ静かに暮らしている。限り無くシンプルにシフトして生活している。そのことをただただ楽しむ叡智を見つけたい、とでもいうしかない老いの感覚を生きている、最近の私である。

話はかわる。先週土曜日打ったときに、次の土曜日フライヤー配布がどこまでやれたのか、打つのをどこか楽しみにしていたのだが、結果は思いもよらぬ早さで配布が進み、目標の6000枚配布が一昨日の段階で終えることができ、今手元に予備の1000枚弱が残っている。長くなるので割愛するが、6000枚のうち私がおおよそ4000枚をあちらこちらに配布と郵送し、残り2000枚は、友人知人が100枚、200枚、300枚、70枚、40枚、10枚単位で預かってくださり、実質ほぼ一週間で配布を終えることができた。

中でもKさんはチケットも売ってくださった。最初100枚も配布できるかなあ、と不安を見せていたのだが、あっという間にチケットを売り、追加の100枚をまたもや我が家まで取りに来てくださった。その際、私が勤めていた美星町にあるカフェ(私が働いていたときにはなかった)のオーナーが世界の打楽器に興味をお持ちの方で、なんといきなり60枚も預かってくださり、フライヤーをもっと預かってもいいとのことで、明日Kさんと共にそのカフェに持って行く約束を昨日電話でしたのである。その約束をした際、すぐにKさんから折り返し電話がありチケットが5枚売れたので、持ってきてほしいとの連絡があった。嬉しいと言うしかない。

Kさんは私より年上、インテリである。私は氏からこれまで何度も本をいただいた。このようなことは岡山に来て初めてである。いただくばかりなので、先日氏に私も返礼、本を差し上げた。読書家で博学、社会的なことや文化的なことに知的関心、好奇心が旺盛なかたである。その上今回よく氏の人柄を改めて認識しなおしたのだがよく動く。まるで我がことのように動いてくださる。私は書斎で安全なところにいて、汗もかかず訳知り顔に知識や知見を宣う、いわゆる俗に、(もう年なのでなんでも書くが)進歩的知識人を全く信用していない。

ところで、どうしても一行五十鈴川だよりに書いておきたい人がフライヤー配布を手伝ってくれたYさんと言う女性がいる。3日前天神山で300枚もフライヤーを預かってくださった。この方とは昨年春今ごろ、シェイクスピア作品の音読の会で出会った。子育て真っ最中のお忙しいなか、熱心にリーディングされていたのが印象的で、時間に余裕できればまたリーディングをやりたいとまで言ってくれた方である。スタッフが居ない中、わざわざ夢が原まできて、マルセさんの受付ボランティアまでしてくださった方である。

昨年【マエストロに聞け】参加者の中で、瀬政さん以外フライヤーを預かってくださった方である。世代を越えて、何か感じあえる関係性というものが生まれると、私は信じる。でなければスパイラルアームズは企画できない。若い世代に一人でも土取さんの存在に関心をもってほしい、のだ。なぜこの年齢でフライヤー配布をしてまで企画を引き受けるのか。それは何度もかいているが、おもわぬ光が体をつらぬくような出来事が起こる、発生するからである。

P.S. 天神山でYさんと別れる際、新見の縄文美術館に行くことを、お節介承知で勧めた。


2025-03-09

昨日、出逢ったばかりの女性(ひと)が、いきなりチケットを買ってくださった。そして想う日曜日の朝。

 昨日打ったばかりなのに、今朝も連続して打つ。フライヤーを配布していると、思わぬ人に出会い、嬉しさが込み上げてくると言うことを、昨日の五十鈴川だよりに打った。昨日もまた、午前中最初の配布先でそのような出来事が起こった。

先日、岡大の敷地エリアの中にあるカフェにフライヤーをお願いに上がったところ、そこで働いている方から、浜野の本部にも行かれたらいいと、住所を書いてくださったので早速そのカフェに出向いたのである。なんと住所を書いてくださった方がいらして即100枚ものフライヤーをカフェに置いてくださり、カフェのオーナーとも面識を得ることが出来た。のだが意外な出来事はそのあとに起こった。

写真がぶれていて申し訳ありません

その洒落たアートフルなビルのカフェやお店の一角で、美容室をやりながら、小さな音楽スタジオをお持ちの女性が、お客様がいるのにもかかわらず、フライヤーを見ただけで100枚ものフライヤーを預かってくださったのみならず、なんとその場でスパイラルアームズのチケットを2枚買ってくださったのである。そのことを先ずは今朝五十鈴川だよりに打たずにはいられない。

長いことフライヤー配布をしているがこのような出来事は初めてである。犬も歩けば棒に当たると言う言葉を、バカの一つ覚えのように、オマジナイのように、後生大事に私はフライヤー配布をやっているが、まさにそのようなことが起こったのである。

その方はお客様がいてお仕事中であったし、ゆっくりとお話しすることは控えたが、近日中にコンタクトをとって、お話しができることを私は願っている。十人十色という。まさにしかりである。けんもほろろから、このような方まで、人間とはなんと摩訶不思議な存在であることか。だがこのようななかたに出会うからこそ、きっと私は企画を続けているのだと、自分に語りかける。(のだともう)

人は生まれ、この世での命を終えるまで何人の人間と巡りあい、言葉を交わすのであろうか、何て事を、時折殊勝にも思ったりするのだが、昨日のような出来事があると、単純に子供のように、すでに十分に老人である私も嬉しい。その後昨日は、いい感じで表町界隈の多様なお店に配布が出来た。午前、午後3時間で目標の倍の600枚を配布できたので、無理せず早めに家に戻った。

BSで、世界町歩きと言う旅番組を私は妻とよく見るのだが、つくづく歩けると言うことの、ありがたみが、高齢になればなるほどますます染みてくるのを実感する。一日10キロを歩き回る喜びを体感しながらのフライヤー配布。目的があるので歩くのが楽しい。かなりの人から激励される。一見愛想がよくない人ほど温かい。開店前の居酒屋のオーナーなどほとんど預かってくださる。

老夫婦二人での生活、幸い健康で時間が有効に使える。大きな集客ではなく、50人未満の手の届く音楽イベント、老いる今を豊かに彩れる可能性のある企画がやれる、と希望が萌える。老いの春である。

2025-03-08

スパイラルアームズのフライヤー配布、5日から始めて思う、土曜日朝の五十鈴川だより。

 土曜日である。5日から歩き回りフライヤー配布を開始、今日も午後は半日配布に動くつもりである。午前中は労働者生活をやっているので、6000枚ものフライヤーを配布するのは、考えてみると、無謀、不可能のような気もするが、敢えて私はこれを自分に課して動いている。

歩き回り、フライヤーを置いてくれそうなお店に飛び込みでお願いするのである。

40歳で中世夢が原で企画者として働き始めた当初から、主に休日フライヤー配布をしていた(当時まだインターネットは普及していなかった)のが私の原点である。その残り火のような感覚がこの年齢になっても抜けきっていないのである。

完全に時代遅れであることは重々承知している。だが、どこかで私のうちなる声が、歩けるうちは、やれるだけのフライヤーを配布に動く事を、良しとする。どこか天の邪鬼的な私がどこかにいるのと、ここまで私を動き回らせてしまうほどの、土取利行さんがアーティストだからである。おそらく、土取さん、猪風来さんでなかったら、フライヤー配布は昨年で終えていたであろう。

フライヤー配布を始めてまだ3日を終えたばかりだが、このようなことでもない限り、街中のいろんなお店を眺め眺め歩く何てことは、私くらいの年齢になると、まずないのではないかと思う。長くなるので割愛するが、今のところやはり犬も歩けば棒に当たる、のような出来事が、次々に出来している。目標一日300枚配布して、3月いっぱいには配布を終えたいと、私は思っている。

だがハレノワでの300枚とか、友人が200枚とか、100枚単位で預かってくださる方がいて、フライヤーができてわずか5日間で、すでに2000枚近くが、はけている。焦らずこのペースで、休み休みしつこく配布に動けば目標が達成できそうである。

知人にラインで伝える。電話で伝える。友人に封書で伝える。そして見知らぬどこかの誰かに足で伝える。今のところこの4つの方法を駆使して伝える以外、私には方法がない。73歳の私の体をフルに動かしていると、脳の前頭前野が時おり閃く(気がする)。夢が原時代あちらこちらに配布に動いたので、体がいろんなお店を記憶していて、次から次に体があのお店に行けと、教えてくれるのである。

街の風景は時代と共に移り変わり、人心も移り変わり、閉店しているお店もあるけれど、元気に続けておられるお店もあり、温かくフライヤーをおいてくださる。とはいっても今回私が配布しているお店は、8割がた新しいお店である、カフェや、レストラン、ファッション、アパレル関係、居酒屋、バー、花や、CDショップ、などなど扉を開けてお願いするだけである。

表町界隈、奉還町界隈、倉敷美観地区界隈をこの3日動いたのであるが相対的に皆さん温かくフライヤーをおいてくださっている。さて、来週の土曜日にはどれ程のフライヤーが我が家から消えているか、とにもかくにも動き回るしかない。

PS 今日の写真は美観地区のとあるカフェの写真。ご主人が早速貼ってくださっていた。帰りに気づいたので写真に納めた、なんとも感じがよく、即反応してくださった。思わぬ人に出会えたときに、一気に嬉しさが込み上げてくる、こればかりは配布したものにしかわからない。(だろう)

2025-03-05

歩ける骨で動く、スパイラルアームズフライヤー配布に動く、初日の朝に思う五十鈴川だより。

 3月3日夕刻、N氏のデザインしたフライヤーが(届けてくださった)予備の枚数も入れて7000枚ドーンと届いた。一束1000枚のフライヤーは重い。そのフライヤーをできるかどうかはわからない。3月30日まで何とかあちらこちらに配布に出掛ける予定、でかけるつもりである。昨日のように雨で配布出来ない日もあるだろうから、そうはうまくはゆかないことは、承知しているが、家にじっとしていてもフライヤーは一枚も減らないので、基本私が動くしかない。(のだ)

Nさんの素晴らしいフライヤー。

だが、長くなるので割愛するが、このスパイラルアームズの岡山公演支援者に名を連ねるK氏が、一昨日の夕刻出来立てのフライヤー100枚を配布に動いてくださると言うことで、わざわざ取りに来てくださった。

そしてなんとそのK氏から昨日午後電話があり、友人知人にフライヤーを見せたところ、たった一日で10枚チケットが売れたとのこと。夕刻、岡山でK氏にチケットを渡しチケット代をいただいた。

気持ちが動き、あの人にお願いをしてみようかなあ、と思う面々が、迷惑を承知で私には今のところ岡山に10数人はいるので、もう年齢的にダメもとでのお願いをKさんにしたところ、快く引き受けてくださったので甘えたのだが、よもやまさかチケットまで売ってくださるとは思いもしなかったので、その嬉しさは雨を吹き飛ばすほどに嬉しかったことを、五十鈴川だよりに打っておく。

五十鈴川だよりを読んでくださっておられる方は、もう重々ご承知とは思うけれど、こういう予期せぬ意外な展開が起こることこそが、私が敢えて仕事ではなく、(何よりもよき思い出が確実に心に刻まれるのだ)この年齢でも企画を打ちたくなるモチベーションなのである。人間には喜びの感情、感動する感性のようなものが、ありがたいことに備わっている。(悲しいことだが備わっていたのに消滅しておられる方もいる)

もういい歳だから臆面もなく打つが、どうやら私にはありがたいと言う他はないが、いまだに感動したりするバネは健在である。でなかったらこのような企画を引き受けることは不可能である。話を戻す。Kさんのように人の頼みを我がことのように感じて動いてくださる奇特な御仁もおられるのだと、教えられるのである。絶望は愚か者のなすことと、もう希望探しに老人は動くしかないのである。その事を昨日Kさんから教えられた。

正直、この企画岡山では難しいといまでも思うのだが、この数十年、私が企画してきたものは、マイノリティのアーティストばかりである。父は若いうちの苦労は買ってでもせよ。人が嫌がることを率先してやれと、耳にタコができるくらい幼い私にいい聞かせたが、その教えはいつの間にか私のからだの奥深くに根をおろしている。

敢えてそのような私の性格を見込んで、この企画がもたらされたのであれば、父はきっと引き受けた私を誉めてくれるのではないかと思う。そういう私の原初的感覚の波動、想いの渦を、まさにスパイラルの渦を伝えるつもりで、フライヤー配布に動くつもりである。Kさんのおかげ、力強い同世代の仲間が現れたことで、なにやら幸先よい。スパイラル、うずうずする感覚は春の訪れ、私の春はフライヤー配布で見つけたい。

2025-03-02

犬も歩けば人に出会う。下津井エリアまで出掛ける前の五十鈴川だより。

 昨日の五十鈴川だよりに瀬政さんについて実名写真入りで打った。その瀬政さんが所用で西大寺の近くに来られていて、夕刻わずかな時間ではあったが、立ち寄られ、リビングでお話が出来た。五十鈴川だよりを打つことで、なにやら思考がまとまったり、整理したりできるからこそ、こうも長く打ち続けているのだと思う。

雑談できる相手も似たようなことが言えると思う。瀬政さんとお話しできたことで、これからの大まかな流れの確認のようなものができて、本当によかった。時折信頼できる仲間と会話をすることで、いまを唯我独尊的にならないように、事を進めてゆくために、私にとって大切な時間となった。妻の存在もそうだが、私の行動や言動に直言してくれる身近な信頼できる存在が、私には絶対的に必要である。

ところで、明日の午後にはハレノワでのスパイラルアームズのフライヤーが完成する。お休みを中心にフライヤー配布に、おおよそ週に2日から3日動くとして、20日間、一日あちらこちら目標300枚として6000枚、予備として1000枚、計7000枚印刷することにした。時間を有効に使って配布するためのプランを、昨日今日と立てているところである。

今日はこれから倉敷の下津井まで出掛ける。これまで私の企画に足を運んでくださっていた主に同年代世代が、私を含めて高齢化し、社会的なそれぞれの事情を抱え、家を空けて出掛けることが困難な状況がにわかに増えていることを、この数年企画を再開し、その事を肌で私は感じている。

だから、この度はいまをいきる、粋のいい40代50代のかたに一人でも出会うべく、無理せず、しかし、もうこれで最後と言える位に、先日も打ったが老骨人としてやれるだけのことをやりたいと思っているのだ、その手始めに下津井エリアを探索しようと決めたのである。

封書に一筆入れる

せっかくのお休み、せめて半日なにがしかの動きを試みれば、犬も歩けばではないけれど、何かに当たるかもしれない、との淡い願望のようなものがないと砂漠に水を撒くような企画は出来ないのである。アクションが起こせなくなったら、私は引退する。

フライヤーを置いてくれそうなお店やカフェを見つける感覚は、これまでの経験で歩き回るしかない、というのが私の原点、素朴極まる方法である。私が10才くらいまでの記憶、物売りのおばさんが、リヤカーに魚や、豆腐などを積んで直接訪問販売をしていた。限り無く私はその原初方法を遵守している、のだと思える。

家でじっとしていても、チケットは一枚も売れない。お客様を劇場に運ぶには、営業に徹するしかないではないか。頭の弱い私は体を運ぶ、行動力、実践力だけが取り柄のような私である。他にはなにもないと思っている。ってなわけで下津井エリアまで出掛ける。

2025-03-01

3月1日土曜日の朝、瀬政さんの意外なリアクションに驚かされる、今朝の五十鈴川だより。

 2月末のこの二日間は、4月30日のハレノワでのスパイラルアームズ公演に向けて、フライヤーの詰めのメールのやり取りがN氏と私との間で頻繁に行われ、日が変わ直前まで、N氏の推敲が繰り返された末、フライヤー決定稿が出来た。N氏から楽しく刺激を受けた。

大地にねっころがるノア

数日中にフライヤーが手元に届くその日が、今か今かと待ち遠しいが何はともあれ、これで4月30日のハレノワでのスパイラルアームズの公演に向けて、月も変わり新たな気持ちで向かえるので、正直かなりくたびれてはいるのだが、嫌な疲れではまったくない。

きっと年齢的なところからくる疲れなのだと、自分ではおもうものの、不思議とよく眠れるし、朝になるとこうやって五十鈴川だよりを打ちたくなるのだから、その気持ちが動く間は企画ができると自分に言い聞かせている。

ところで、フライヤーの完成を我が事のように喜んで早速私やNさんにメールをくれたのが、スパイラルアームズ岡山公演支援者の静かで熱き情熱の持ち主、瀬政さんである。色々打ちたいことがこの一週間立て続けに起こっているのだが、一番新しい瀬政さんのことから打っておく。

今回の企画、無名のスパイラルアームズを引き受けるにあたっては、経済的な支援もさることながら、まずはこれまでの私の人生で出会えた、得難い仲間にお声かけし、その仲間たちと共に、この公演を成功に導きながら、仲間とのこれからの関係性を、一段と深めてゆくための、千載一遇の好機到来と考えることにし、アクションを起こしたのだが、結果思いもよらぬことが次々と出来している。

昨日私は瀬政さんに(瀬政さんはすでに多額のカンパをしてくださっている)チケットは何枚位必要かと、仲間として軽く打診したのだが、なんとカンパ(カンパは自由に使って欲しいといわれた、そうさせていただく)とは別に10枚確保して置いて欲しいとのメールがきた。

これまでの交友で、彼が10枚もチケットを必要としたことは記憶にないので、正直私は驚きを隠せなかったのだが、その事以上に私を驚かせたのは、氏が自分も私のようにチケットを行商行脚すると、書かれていたからである。

蒜山でお地蔵さまになった瀬政さん

心強いという以外ないではないか。よもやまさかこのような人工知能AIが全世界を闊歩し、人心に便利で快適、人が人として動く楽しみすらコントロールしようとしている時代に、私と同じように、リアカーで手作り野菜を販売するかのように、チケット行商行脚する仲間が現れるとは。愉快である。

人間とはまったく計り知れない。シェイクスピアは自分という器は、自分では時にどうしようもないコントロールできない感情におそわれると、登場人物に言わせているが、まさに昨年からのシェイクスピア作品の音読への参加といい、瀬政さんは私を驚かせ続けている。

清水の舞台から飛び降りるという言葉がある。身を捨ててこそ浮かぶ背もあれ、とも言う。さすがキリマンジャロに登頂したこともあるご仁、伊達ではないと今回知らされている。人は長年の交友でもわからない奥深さを(時に自分でも自覚していない)秘めていることを痛感する。今回、仲間としての瀬政さんからは特にその事を感じている。

情熱の根拠は人それぞれである。余人にはうかがい知れない、多くの人間が普通関知しないような事柄に、時に敏感に反応する。今回支援カンパを振り込んでくださったかたがたは、そのような尊い感覚の持ち主である、無私の人ばかりである。スパイラルアームズを引き受けることなくして、このような稀な本質的な再会、新たな新鮮な高齢者再出発、出会いはなかったであろう。

そのようなあれやこれやをおもうとき、ただもくもくと🦏さいのように歩めと言う言葉が浮かぶ。歩き始めた幼児が無心でただ歩くように、老いてはいるが私もまだ歩ける。瀬政さんと行商行脚を楽しみたい。

2025-02-26

一気にハレノワでのスパイラルアームズ公演モードに頭が切り替わった、今朝の五十鈴川だより。

 東京からもどると、4月30日の香川、岡山での共通フライヤーとハレノワのチケットが香川のH氏から送られてきていた。送られてきたチケットの枚数は100枚。個人でこの枚数を完売することができるかどうか。私にもわからない。これから2ヶ月、すでに知っている友人知人はともかく、未知の人になんとか半分くらいチケットを行商行脚したいと、私は自分に言い聞かせている。


5月で2才になる、レイさんが撮った
東京モードから一気にハレノワ、スパイラルアームズモードに頭が切り替わった。が、まだ岡山バージョンのフライヤーはできていない。が、急いては事を仕損じる。Nさんが必死に取り組んでいるので、氏からの連絡を私は待っている。その間共通フライヤーでしのぎ、すでにチケット代を振り込んでくださったかたに、チケットをおくったり、やれることをしっかりとやり、チケットの行商を面識のある知人から始めよう。

家族は私の年齢的なことを十分に勘案して、フライヤーの配布やチケットの行商などは控えた方がいいと心配してくれるのはありがたいことなのだけれど、こればかりはいかんともし難く、スパイラルアームズ、私が動かないことには、チケットはさばけないのを、私自身が深く承知しているからである。

私は私の性格を、どこか能天気天の邪鬼と自認している。無名ではあれ、自分が凄いと思うアーティストを小劇場ではあれ、ハレノワ300席を満席にしたら愉快で痛快である。私のような高齢者企画者の心をこれほど熱くさせるアーティストは土取利行さんと猪風来さんしかいない。だから昨年から度々五十鈴川だよりに打っている、のだ。

ところでいつものように話は変わる。仕事として企画を成していた中世夢が原時代とはまったく異なり70歳からは、自分の感性、心が動いたアーティストだけを企画している。もうこの年齢になると、自分ではいい意味で限り無く我が儘に自由に企画したいという思いががぜん強くなってきているのを、否定しない。

だからこれまでの人生で出会え、今も交友関係性が持続している古い友人に思いを伝え、厚顔を承知で支援カンパを募るところからスタートしたのである。詳細は割愛するが、意外な反応といったらカンパをしてくださった方に大変失礼だが、そのような反応が寄せられていて、人間性、人間味、人間という存在の揺れ動く多面性を、改めて私に知らしめている。

先日23日の夜8時半、稲城の長女の住むマンションに、私に会いに来てくださった相模原に住むM子さんとの交友は35年以上である。夢が原で働いていたとき、わざわざ夢が原での私の企画にあしを運んでくださったこともある。今回もいち早く支援カンパを振り込んでくださったかたである。

その方にどうしても郵送ではなくちょっとでもお会いして御礼を伝え、土取さんのCDや猪風来さんの本、原野さんの絵本、作品集を手渡したかったのである。実現して本当によかった。義理の息子のレイさんが暖かくもてなしてくれ、午後9時半頃帰ってゆくM子さんを見送ったのだが、ただただありがたかった。

だが、話はこれで終わらない。M子さんが帰ったあとレイさんと少し焼酎を飲みながら話をしていたら、突然レイさんが私の今回のハレノワでの企画にたいして、M子さんのようにカンパすると言ったのである。私はよもやまさか、レイさんがそのような事を言うとは思いもしなかったので、ビックリした。そこで夜中、フライヤーを作ってくれているNさんに、支援者の名前に日高レイの名前を追加して欲しい旨メールをいれたのである。

私とタッグをくんでくれる10数名の高齢の私の友人たちの輪の中に、義理の息子のレイさんが加わったのである。レイさんは30代後半、新しい世代の仲間が支援者に加わってくれたことの喜びは例えようもない。それも家族を代表して。

レイさんとは国籍や世代を越えていろんな話が日本語でできる。日本人と話ばかりしていると視野狭窄に陥る。地球の未来はリア王の最後の場面ような風景思い起こさせる。土取さんや猪風来さんはワールドワイドの視野を持つ真に稀なアーティストである。岡山のハレノワでのスパイラルアームズ公演、動く老骨人で、今を生きたい。

2025-02-25

記憶が鮮明なうちに、23日、24日の出来事をスケッチふうに打つ今朝の五十鈴川だより。

 昨日午後7時前に家に戻ってきた。日曜日のことを記憶が鮮明なうちにスケッチふうにわずかでも打っておこう。23日日曜日朝食を済ませ次女家族と私とノアの5人で、周さんの運転で武蔵野の面影が色濃く残る小金井公園にゆく。

この公園は子供を遊ばせるには抜群の公園で約2時閑以上、ノアと葉を存分に遊ばせた。主に私は見守り役だが、3才と6才の葉とノアは子供らしいという表現以外に表現が思い付かないほどに、滑り台、大きなトランポリン、そして自転車乗りにチャレンジして、青い冬空のしたひたすら遊んだ。

したがノア、上が葉

本当に尊い時間、無心にひたすら遊ぶ二人の姿を、私は眼底に焼き付けた。お昼は公園の中に敷物を広げて、簡素にお昼としたが、スナックふうのポテトフライや焼きそばが遊びに遊んだ、葉やノアには美味しかったのだろう、頬張っていた。

大勢の家族連れでごった返す人々をターゲットの出店の、何てことのないできあいのたこ焼きや焼おにぎりが美味しく感じられるのは、目一杯体を動かしたあとだからなのだろう。

ただただ意味もなく走り、よじ登り、飛び、滑り、なかなか漕げない自転車を、必死でバランスをとりながら全身で自分の体と格闘する。人と競争するわけではない。ただ自分と、そしてノアは葉と、葉はノアと兄弟のように遊ぶ。その姿を私は目に焼き付け、何枚かスマホで撮った。3世代天空の下いい時間を過ごせたことを、五十鈴川だよりに打っておく。

小金井公園から稲城まで周さんが私とノアを送ってくれた。葉は寝ていてお別れが出来なかったが、次女と周さんとはお別れ。わずか一泊二日のノアと私のお泊まりではあったが、密度の濃い普段とは異なる時間が過ごせた私は、いつも書いているが、この歳にならないと感じられない、いわば老いゆくなかでの慶びのような時間が与えられたことを感謝した。楽しい時間は瞬く間にすぎる、のだ。

少しやすんで夕刻前、レイさんとミア、ノアと私の4人でマンションの近くの公園に散歩にゆく、外は冬の寒さ、だがミアとノアは風の子という表現がこれまたピッタリで、ものともしない、一時間以上散歩したがミアはもっともっと散歩したいといってレイさんを困らせていた。ミアは外が大好き、ノアもインドアゲームも大好きだが、アウトドア遊びも大好きなので、バランスよく成長していて、おじじとしては嬉しい。

夕飯はレイさんが美味しいピザを焼いてくれた、私もノアもお腹一杯いただいた。夕食後いつものように、私とノアが先にお風呂に入り、ミアとレイさんが続いて、ミアはそのままお眠りタイム。

午後8時半、相模原に住む30年以上の交友歴のM子さんがわざわざ訪ねてきてくださり、大切な渡しものを取りに来てくださった。(この件に関しては、また後日打つ)なぜこういう経緯になったのかをよくはわからないレイさんが、素早く機転よく暖かくM子さんを迎えてくれた。良くできた義理の息子の対応が、私はことのほか嬉しかった。

午後9時半M子さんをマンションの玄関まで見送り、その後10時半近くまで、レイさんと焼酎を飲んで、男同士あれやこれや話をした。そこで思わぬことが起こったのだが、この続きはM子さんのことも含めて、後日打つことにする。

そして昨日朝6時過ぎ、出張先サンフランシスコから早朝4時過ぎ、羽田に着いた長女が帰ってきた。7時家族揃って朝食、ミアもノアもそしてレイさん、みんなどこかホッと顔がほころんでいた。娘も嬉しそうだった。私も嬉しかった。

午前9時、娘のところを後にした。向かったのは帰るときに必ずといってほど立ち寄る神田の古本街、休日でかなりの本屋さんが閉まっていたが開いていた本屋さんを数件巡り、数冊の本を求め神田でお昼をゆっくりととり、東京へ。私のチケットは割引チケットなので、のぞみには乗れないのだが、求めた本を手に、こだま、ひかりと乗り継ぎ、午後6時岡山に着いた。

2025-02-22

午後9時過ぎ、一日に2度目の五十鈴川だよりを打つ。このようなことは初めてかも。男の孫二人との一日は楽しかった。

 夜、午後8時をまわっている。少しでも記録を打ちたいという、老いの煩悩が五十鈴川だよりを打たせる。午前10時半過ぎ、稲城から京王線で調布に出て、そこからバスで三鷹の下連雀に、お昼ジャストに次女のマンションいにノアと着いた。

次女のところでハッサクをむく

着くと昼食の焼き肉の準備がすべて整って我々を待っていた。よほど我々の到着を待っていてくれたのであろう次女の子ども、葉くん3歳が玄関まで走って来て、歓待してくれた。早速美味しい心尽くしのお昼をいただく。

すっかり美味しい焼肉の昼食に満足した私は、娘たちの言葉に甘えて、お昼寝をさせてもらった。午後3時半、義理の息子の周さんと周さんの子ども葉くん3歳、私とノアの4人で三鷹の朝日湯という銭湯にゆく。よもやまさか銭湯に男ばかり3世代、4人で出掛けるとは思いもしなかったが、これもまた楽しい思いでのヒトコマということで、新鮮なうちに打っておかねば、と思うのだ。

もどると次女が夕飯の準備を整えてまっていた。夕飯前、私とノアと葉の3人でお相撲さんごっこのようなじゃれ遊びにしばし興じる。正直後あと何年このようなお付き合いが孫たちとできるか、何て考えると、今やれるときに、全力で遊ばねばとのおもいにかられる。

夕食は大人はお刺身海鮮丼を中心に、孫たちは野菜のコロッケやしょうが焼き、カボチャの煮たの、白菜の煮浸しなどなど、勿論大人もいただく。夕食後葉はお眠の時間が来たのだが、ノアが来ているので、もっと遊びたくて中々寝ない。周さんが何度も寝かしつけるが、うまくゆかない。結局次女がようやくねかしつけた。ここまで打つと時計は9時を指している。

ノアはまだ起きていてそばでゲームをやっているし、周さんは夕食の後片付けをしている。私は夕飯時に無糖のビールをいただき、今ハイボールをいただきながら打っている。お昼寝をしたせいか不思議と元気に文章が打てている。昔は人がそばにいたらまったく打てなかったのだが、最近はまったくお構い無し、打てるときに打っておく、でもさすがに、今夜はもうおしまいである。


稲城3日目の朝、寸暇五十鈴川だよりを打つ。j

 稲城3日目の朝、朝食を終え少し時間があるので打つ。昨日はあれから午後3時プールにゆくノアの付き添いで、出かけた。歩いて5分くらいのところのある。スイミングプール。冬でも全身運動のスイミングはいいと思う。約一時間後終えて出てきたノアにせがまれてアイスを買ってやる。頑張ったらわずかなごほうび。ノアはあまりねだらないから買ってやりたくなる。甘いおじじである。

初めて作ったポテトサラダ

もどってしばし漢字やひらがなを書く練習を見てやる。算数や理科、社会が得意なノアはあまり文字がを書くのが好きではないようだが、少しずつ少しずつ根気よく、すかしなだめやらせる。幸い私の言うことを聞いてくれるのがうれしい。

その間仕事を終えたレイさんはミアを保育園に迎えにいった。ミアはまだ私になれないが、どこか堂々としていて、わがままで、我を強く押し通す。すっかりパパっ子である。でもどこか愛くるしい個性が光っている。

いつものように五語6時半夕食。レイさんが子どもの好きな鶏肉の小さなハンバーグに野菜のお味噌汁、それに私の作ったポテトサラダときんぴらなどで、いい感じの夕飯を美味しくいただいた。夕飯のあとは私とノアはお風呂に入り、レイさんはミアの面倒を見ながら後片付け(本当にまめで感心しきり)午後8時ノアは少しゲームタイム。

9時近く私はいつものように、寝る前に絵本を2冊読んでやる。するとノアはあっという間に二段ベッドの上に移動、スイミングで疲れたのだろう、あっという間に眠りの世界に落ちて行き、私も落ちた。

ミアもノアもおねむりにはいり、その後レイさんと、焼酎を飲みながら男同士の久しぶりの語らいタイムを10時半近くまでした。会話は世界情勢、日本の神話ほか多岐にわたり、とても楽しかった。異国のお婿さんを娘が選択したがためにこのような会話が成り立つ。

そんなこんないろいろな感慨におそわれる。娘がレイさんを伴侶に選ばなかったら、きっと私は企画者としてはとうの昔に終わっていたような気がしている。複雑すぎて投げ出したくなるヨーロッパの歴史を今も少しずつ学んでいるのは、きっと娘が旧東ドイツの男性を伴侶に選んだからだと思える。我が娘ではあるが、女性は強い。

さて、今日は今日はこれから三鷹の次女家族のところに移動し、一泊することになっている。どのような一日になるのか皆目わからないが、きっと楽しい一日になるような予感がしている。

2025-02-21

今回の上京旅、記録的に綴りつつ、あわせて今をいきる私の思いなども綴りうつ、稲城二日目の五十鈴川だより。

 昨日は午後3時に学校から帰ったノアとお習字教室につれて行き、私もノアと同学年で、お習字を共に習っている女の子がお稽古するのをそばで見ていた。若い女の先生が厳しく、ときに優しく指導しておられたのが印象に残り、ノアはいい先生に恵まれたのだと、私には思えた。

戻ってほんの少し、ノアに漢字やひらがなの書き取りの稽古をするのを手伝ったりしている間にレイさんミアを午後5時半過ぎマンションのすぐそばの保育園に迎えに行った。もどって夕飯の準備、レイさんが仕事の合間に、パスタをゆで私のために作りおきのカレーを温めてくれたりして、お母さんはいないけれど、リモートで少し参加しながら、4人での夕食、私はただただ、レイさんの心尽くしをいただき、久しぶりの孫たちとの夕飯を感謝した。

想像力全開で読む

(かいがいしい、という言葉が、ミアをケアしながらのレイさんの姿に、私は感動した)

夕食を終え、私とノアはお風呂にゆったりとつかり、湯からでたあとノアの部屋で横になっていたら、朝が早い私は強烈な睡魔におそわれ、しばし沈没、午後8時半就寝時間がやって来たノアに起こされ、約束通りノアにヨシタケシンスケさんの絵本を2冊読んでやると、さすがに一年生の成長したノアは聞き分けよく、2段ベッドの上に移動、あっという間に眠りに落ちた。

私もまた、再び眠りに落ち、朝6時過ぎに起きてみると、6時半すでに朝食が準備されていたのには驚いた。いまこの五十鈴川だよりは、ノアは小学校に行き、ミアは保育園にゆき、レイさんはリモートで自室で仕事をしているので、誰にも気がねなく打てる。ベランダから背中に冬の日差しが、部屋のなかだから暖かい。

まるで日記、記録のようにわずかではあれ、綴り打っておきたいという、老爺心は平凡な日常生活への讃歌への気付きの深まり、以外のなにものでもない。ノアの通学路信号機が出来たので、そこまで見送っていったのだが、学校に向かうすべての子どもを朝の陽射しが照していた。

さて、いきなり話は変わるが、今回の上京旅に持参した本はただ一冊、タイトルは【戦争語彙集】オスタップ スリヴィンスキー作、ロバート キャンベル翻訳である。持ってきてよかったと、思う。

多くを語りたくはない。多くを語ることにも、正直もう疲れている。が、そうはいっても、元気な間は、どんなことがあって戦争や平凡な日常を脅かすような、ある日突然の、狂気的な振るまいには断固としたノーであるとの、決意は高齢ではあってもなんとしてもなくしたくはないものである。

悲しいかな人は老いる。孫たちは輝く。でもそれでいいのだと自分に言い聞かせる。私の両親も子どもたちの行く末を見守り、静かにこの世から消えていったのだと思うけれど、きっと納得していたのに違いないという安堵感のようなものを私はかんじる。

あまり言葉にしたくはないのだが、敢えて言葉にしておく。もうどこか私は現世に生きているのではなく、どちらかといえば、この世とあの世の真ん中辺りをさまよっているような感覚におそわれながら日々を生きている。だからなのかもしれない。もうほとんど昔のようには現世的な悩みのようなものにとらわれなくなってきている。水が流れる方にしか流れないように、私も流れて行きたい、ただそれだけである。

思想信条はまったくない、高齢でくの坊の私が大事にしていることは、限りなく少なくなって来ている。もうほとんどを手放しつつあるなか、どうしても手放せないものだけを大事にして行きたいと思う最近の私である。お見送りや、ちょっとした役に立つだけでも私は嬉しいので、そのような年寄りを可能なら一年でも長く生きることができれば、もうなにも私には必要がない。(今年の企画が無事にすめば、限りなく私は超シンプル老人ライフへシフトするように思える、家族や長い交友のかたたちと、ただ関係性を深めたく念う、そして意味もなく旅がしたい)

2025-02-20

稲城、長女家族がすむマンションのリビングルームで寸暇 打つ五十鈴川だより

 朝いちばんの西大寺発の電車で岡山に出て新幹線で東京に着き、中央線で新宿、そこから京王線に乗り換え、稲城の長女家族の住むマンションにお昼前に着いた。

新幹線のなかでゆっくりブランチをしたのでお腹は空いていなかったのだが、レイさんが作ったというパンが美味しそうだったので、それを軽くサンドイッチにしたものでお昼とした。

ところでなぜ私が4拍5日の予定で稲城に来たかというと、長女がアメリカはサンフランシスコに一週間出張になり、せっかく行くのだから、3連休を利用して系10日ほど家を空けることになったので、妻と交代で急遽やって来たというわけである。小学一年生の孫のノアが学校から帰ってくるまで、時間があるので暫し五十鈴川だよりというわけである。

五十鈴川だよりを打っているとパンのいい香りがする。やはり酵母が生きているパンは、ちょっと違う。部屋は床暖房が効いているし10階の部屋には日差しが差し込み、なんというのか、いきなり我が家とは違う空間にやってきて、身も心も忙中閑あり、ちょっと変身、孫たちとの時間を楽しもうと思っている私である。

2025-02-16

スパイラル・アームズのフライヤーを依頼したNさんと我が家で昨日対面での打合せをしました。そして思う。

 ハレノワでのスパイラル・アームズの岡山バージョンのフライヤーを依頼しているNさんと、昨日我が家でお昼から約2時間打合せをした。すでに何度かメールでは思いを伝えたりはしていたのだが、対面での打ち合わせは初めてである。

バイト先で見つけた蜂の巣

この数年何度も依頼しているので、私の人となりはかなり把握してもらええているので、かなりの時間一方的に私のこの公演にたいしての思いを伝えた。私の土取利行さん率いるスパイラル・アームズへの今の思いが少しでもNさんに伝われば、きっといいフライヤーができると信じたからである。

この企画の依頼メールが来たときの経緯はすでに昨年の五十鈴川だよりに打ったので重複は避けるが、当初現在の私の体力でこの企画を引き受けていいものかどうか、暫し逡巡したのはたしかではあるが、結果私は引き受けた。単純な私は一旦胆が決まればもう進むだけである。

あれからはやくも2ヶ月以上がたち、紆余曲折を抱えながらも、私なりのやり方で労働しながら一歩一歩進めている。そして現時点で岡山バージョンのフライヤーの打ち合わせが行われたというわけである。長くなるのではしょるが、今回の企画は、土取利行さんとの、長年の交友関係性で舞い降りてきたお話なのである。

体力的には、とうの昔に全盛期はすぎ、老境に入りつつある今の私にもたらされた、この企画、ハレノワ小劇場300席を満席にできるかどうか、デジタル音痴の、時代の流れにまったくついて行けない私には、ハードルが高いというのが正直なきもちなのである。

が、一旦引き受けたのだから、潔く引き受け、あとはやれるだけのことを、仲間に呼び掛け、老人力を結集して、他力の力、小さくても強い老人風を吹かそうと、覚悟を決め、古い友人や長いことご無沙汰しているこれまでの人生で出会え、関係性が持続している面々に、率直な私のおもいを伝えるところから、開始したのが一月の半ばすぎからである。

カタツムリのように歩みは超とろいが、確実に歩を進めているという実感が私を支えている。300席を埋められるだろうかとか、昔だったらおもい悩んだかもしれないが、(もちろん埋めるつもりではいる)もうそういうことに思い煩う年齢ではない。腹をくくるとは、収支を含めすべての責任をとるということである。

そのようなことをどういうわけか、40代からずっと我流でつづけてきたおかげかもしれないが、私にとって企画するということは、どこか腹をくくるということと同義なのである。素人が、仕事でもなく企画をする、引き受けるということは、覚悟を決めるということなのである。

一言で言えば、土取利行さんは私に覚悟をさせる、それに値するアーティストだからこそ引き受けているだけである。土取利行さんはそんじょそこらのプロの演奏家、パーカッショニストではない。この現代の底知れない、全世界が、人類が抱え込んでいる漆黒の深い闇を、見えない音の波動で照らす、言葉では尽くせぬ哲学者、アーティストである。だから私ごときが安易に引き受けるのは、冒険以外のなにものでもない、のだが名誉である。

話を戻す。昨日打合せを終えたばかりなのに、真夜中Nさんから、私のおもいを汲んだフライヤーの原案が送られてきたのを、今朝起きたばかりの体で見た。打合せの重みを感じた。私は気に入った。これでいこうとNさんにメールを送った。今朝の五十鈴川だよりはそれをアップする。

感動する。体がワクワクしなくなったら企画はできない。人間は泣き笑い憎み嫉妬しあらゆる感情を抱える自分でも御しがたい、とてつもなく摩訶不思議な、絶えず変容する器である。私の中の感動するバネのようなワクワク感が、思春期からあったればこそ何とか生き延びるることができ、いまもかろうじて企画ができているのだと、勝手に思っている。

PS タブレットの調子が悪く、写真がアップ出来ないので今日は文字だけの五十鈴川だより。後日写真をいれることにします。ご容赦ください。(代わりに蜂の巣の写真をいれます)

2025-02-15

73歳になりました。冬の日差しを浴び、今を想う五十鈴川だより。

 数日前に73歳になりました、が私の日常生活は普段とかわりなく続いている。古稀を過ぎてからのこの3年は、世間や世界のことはさておいて、こと私自身にとっては、きわめて普通に生活が営めただ存在している。その事がなにわともあれありがたいことだと、日々感じながら生きている。

気分転換に日本語を書写する

妻をはじめとする家族からは、今を元気に生きて活動している私にたいして、心尽くしのランチや夕食、労りとお祝いの言葉をいただいて、素直に嬉しかったことだけは、きちんと五十鈴川だよりに記しておきたい。

70才、ウクライナで戦争が始まった年から企画することを再開し、今年で4年連続企画をするなんて思いもしなかった。それも今年は春の4月30日ハレノワでの企画と秋の縄文と大きな企画にかかわれる。

昨年の秋まではよもやまさか、土取利行さんのスパイラル・アームズを岡山で窓口として引き受け、結果ハレノワでの公演をやるなんて考えもしなかったのだから、まさに事実は小説より奇なりという他はない。元気だからできる。企画が元気の源である。

昨年の秋までの私は、もう企画をすることはやめようと思っていたのにである。土取利行さんと猪風来さんはそのような私を再生させたのである。

何が私を豹変させたのであろうか。私にしかわからない感情が、言葉にならない何かが私の中に湧いてきたからとでも言うしかない。自分という生き物、器は移り変わり生まれ変わる。変容する。絶望が希望へとねじれ反転する。裏返る。

昨年12月1日、名古屋のライブハウス、希望へと点火させる爆発的なエネルギーを、土取利行さんのスパイラル・アームズのパーカッションの音の波動に私の体は撃ち抜かれた。私は覚醒したのである。

スパイラル・アームズの演奏を聴いてからのち、猪風来縄文美術館を訪ねてからは、作品がまったく違ったかのように私に迫って来た。(この体験には、今朝はこれ以上触れない)

以来、今月まで私は何度も猪風来縄文美術館を訪れ、今月も先日11日訪ねてきたばかりである。何故かくもなんども訪れるようになったのか?それは私のなかの何かが破壊され、奥深くしまいこまれ姿を消そう、諦めようととしていたものが、土取利行さんの音魂と、猪風来さん、原野さんの縄文土器、村上よし子さんのタペストリーが、あまりにもの生命力の躍動感、魂の輝きが、私の奥深い言葉にし得ない感情を揺り動かしたのである。(言葉にするのが気恥ずかしいので止める)

企画を持ち込んでくださった土取利行さんとの古稀を過ぎてからの再会と、縄文土器一筋50年の猪風来さん、奥さまの村上よし子さん、そして32歳、あまりにもの若さで召されたご子息、村上原野さんとの本質的ともかってにおもえる再会(この3人の創造作品の放つ普遍的輝きは、私のつたない言葉では表しようがない、その一途さに撃たれる。是非体感してほしい)が、私自身の今の生活に言い様のないエネルギーをもたらしているのはまちがいない。



2025-02-09

寒い日が続いているけれど、心のなかは一足早い春の気配、N氏のフライヤーが楽しみな五十鈴川だより。

 来週土曜日15日、4月30日ハレノワでのスパイラル・アームズ公演の、フライヤーを作ってくださるNさんとの打合せを我が家でする。

今日の気分転換に最良の本

しかし、打合せをの前に、すでにN氏とのやり取りは(メールで思い付くことなどを)している。今朝起きたら午前1時過ぎのラインに、ラフのデザインが送られてきて、意外な早さと、その発想力に、またちょっとワクワクしてしまった。だから五十鈴川だよりを打つ気はなかったのだが打つことに、した。

遅くとも2月末までには、フライヤーを完成したいとおもう。岡山バージョンのフライヤー、納得したものを創りたい。キャッチコピー、他、必要最小の文言を入れないといけないので、私もこの寒いなか、労働しながら思い付く文言を、体が発する言葉を、恥ずかしやを、かなぐりすて知恵を絞っている。

N氏は言葉巧みに、私を誘導するので、なりふり構わず、企画の恥は書き捨てとばかり、思い付いた文言を送る。

そうやってお互いの共同作業で、(私のおもいを汲み上げてくださり)N氏はデザインを進める。このやり取りはことのほかの愉しさで、まもなく73歳になる私を嬉しがらせ、刺激をもらえる。

企画をする醍醐味、まして仕事ではない企画を引き受ける喜びは、まさにこれからの未知の時間をいかにワクワクするか、しないかに私の場合はかかっている、といっても過言ではない。

ものの本で知る、老いと共に脳の記憶や創造力を司る前頭葉の退化が進むのは、摂理ではある。がその退化を少しでも送らせるには、企画をすることが、私の場合いちばんなのだと、思える。まず自分がワクワク、感動しなければ、目に見えない波動は他者には決して伝わらない、という確信のようなものが私にはある。

まったく話は変わる。現実的な問題として企画をするということは、収支のバランスが取れないと成り立たない。細々としたことは打たないが、今回のスパイラル・アームズ、ハレノワでの公演は私が窓口として引き受けてはいるが、内実は私のこれまでの人生で出会えた、奇特な友人知人たちの支援無くしてはまったく成立しない。

70歳から再び企画を再開し、今年で4年連続継続出来ているのは、繰り返し打つ、この友人知人たちの支えがあるからである。今回一月末から、スパイラル・アームズ支援カンパと、チケットの事前予約のお願いを例年のように封書で送ったのだが、他力の応援カンパがすでに寄せられている。(鳥取のMさん、岡山のSさん、Jさん、Kさん、鹿児島のHさん、神奈川のKさん、栃木のIさん、東京のM子さん、福岡のKさん、この場をかりて心から感謝します)

すべての仕切りを委ねられている私としては、チケットを完売すれば十分に予算的にまかなえる。収支を黒字化し、幾ばくか次の企画に打って出る余裕を残す。そのために必要不可欠なのがインパクトのあるフライヤーなのである。

フライヤーが完成したら、街中や岡山ローカルエリアを、(他県の仲間にも配布をお願いする、岡山のフライヤーに反応する人に出会いたい)お遍路するかのように配布行脚したい。



2025-02-08

あと5日で73歳を迎える土曜日の朝に想う、五十鈴川だより。

 この一週間かなりの寒波のなか、なんとかフルタイムではないが、労働を合計30時間やり、待ち遠しい土曜日の朝がきた。正直もうやりたくはないとおもう日もあったが、結果的にはいろんなことを考えることが出来てよかった。

長女の2番目の子供、未彩、5月で2才

家で静かに考えても、私の場合ほとんどいいアイデアや、思い付きが浮かばないのだが、体を動かして労働しいていると、血が流れ始め、雲の流れや風の音や野鳥の声に耳を澄ませたりしていると、あの人に連絡してみようとか、体が動き始めるのである。だからおそらく、先のことはわからないにもせよ、ひとつの啓示としてきっと労働が億劫になってきたら、企画する意欲が失われて来るのだろう、と考える。

だが、ありがたいことに間に合った。今年は何やら私の老人力は、なぜか今のところ不思議なほどといえるほどに、自分でもおかげの力で、ありがたやの力をいただいている。今がすべて、今がすべてと呪文のように唱え、新しい一日を生きている。

話は変わる。知らなかったが、私は統計とか、データとか、をほとんど頼りにしない人生を歩んできた。(いろんな人や書物に影響を受けてこの年齢まで生きてくることが出来た)

私がこのようなことを五十鈴川だよりに打つのは珍しいのだが、日本人の男性の平均寿命は、82歳、健康寿命が73歳であるとものの本で知らされた。気がつくとあと5日もすれば私は73歳になる。おかげさま、他人と比較するなんて野暮の骨頂、私は私の今を生きるしかない、当たり前の摂理を日々受け入れながら生きている。

ただおもうことは、寿命はまるきり私にはわからないし、健康寿命などという言葉自体が私は苦手である。命の終わりは何時なんどき訪れるか誰にもわからないし、健康寿命の終わりも何時なんどき訪れるかは、誰もわからないのである。だからこそこの年齢での日々を、私は慈しみ(このようなことを打つとどこか気恥ずかしいが)一日一日可能な限り悔いなくいるのだと、キザだが寒風のなかで、ものおもうのである。

73歳、まったくまたもや未知のゾーンに入って行くなかで、4月30日ハレノワで土取利行さんと再会(再開)、秋にはまったく未知の縄文世界一筋の、畏人稀人猪風来さんとの仕事が控える。さきほど、間に合ったと打ったが、これは自分にしか分かりえぬ感覚なのである。

満を持して、という言葉でしか言えないし、あらゆるタイミングが、まさに機が熟さねば降ってはこない企画なのである。だから敢えて五十鈴川だよりに打っておく。このような企画が我が人生にもたらされた運命の在り難さが、きっと私の、おこがましくも打つが、元気のもとなのである。

18歳で世の中に放りでて、才能なき我が身に時に絶望的になり、大切な人にご迷惑をかけ、あらゆる人たちの援助、理解のお陰で現在の私がある。あれから55年、やっとと言うべきか、耳を済ませば、命の終わりを微かに感じられるような年齢を迎えている。同年代の私の今をつくってくださった方々が、次々と冥界に召されている。だが、私は生きている。前回も打ったが、死者のエネルギーが私を鼓舞する。

土取利行さん、猪風来さんとお仕事できるのは、55年間の見果てぬ夢の、結実だとかってにおもえる。

2025-02-02

スパイラル・アームズ岡山公演、S氏と相談し単独岡山バージョンの必須フライヤーを創ることにしました。

 くどくどとは打たないが、春の4月30日のハレノワでのスパイラル・アームズの公演は名古屋、京都、大阪はライブハウス、香川と岡山は地元の有志で担当、全5ヶ所をツアーする。私は最後の公演地の岡山の窓口を引き受けている。

波乱万丈サイコーにカッコいい人


そのための共通フライヤーの データが主催のO氏から昨日送られてきた。一目見て感じたのは、共通フライヤーではダメだという直感である。右腕のSさんにすぐ相談し、急遽岡山は共通フライヤーだけではなく、オリジナルの岡山単独でのフライヤーを創ることにし、この3年私の企画のフライヤーを縁あって創ってくださっているN氏に、経緯を話し、私のおもいを電話で伝えると、私の性格をかなりつかんでくださっているN氏は、すぐに受け止めて、早速取り組んでくださっている。

私に共通フライヤーに対する期待のようなものがあったがゆえに、最初から岡山は単独バージョンのフライヤーでゆけばよかったと今は思うが、明らかに私の判断ミスである。とはいえまだ時間は十分にある。またひとつ学んだと思えばいいのだと、自分に言い聞かせる。

ハレノワに定員300人、岡山では知名度のないスパイラル・アームズを集客するのは至難である。だが、あの今は伝説的でさえある土取利行さんが、スパイラル・アームズを率いてハレノワにやって来るのだ。伝説ではなく現役バリバリの奏者として。

その岡山での仕切り、窓口を、土取さんと出会ってから46年になる私が依頼されたのである。(26才、子供だった私も少しは成長したのだ)うすぐ73歳になる私が、(熱くなる)のもやむを得ないというしか言葉が浮かばない。

そういう想いは私だけではない。中世夢が原以来、10数年ぶりにタッグを組むSさんも同じである。紆余曲折の果て、Sさんと同志的再会、福岡のKさんや鳥取のMさん(想像してもいなかった大口のカンパをしてくださった)東京のM子さん、岡山のジャラン等々がまるで我がことのようなアクションでハレノワでのスパイラル・アームズを支援してくださっている。もうビックリありがたいという言葉しかない。

なぜイベントを、企画を、私は仕事でもなく、70歳から再び再開し始めたのだろうかと、時に考えたりもしてしまう、が理屈も秘密もなにもないというのが、今の私の答えである。もっとカッコつけて、敢えて言葉にするなら、生きているからである。そして敢えて打っておくが、私を奮い立たせるのは土取利行さんばかりではない。今は亡き私の両親をはじめ、私がこれまでの人生で直接であれ、間接であれ出会え大きな影響を受けた方々が、次々におなくなりになっている。その方々が私に見えないエネルギーを与えてくださっているのである。

ときどき父が1999年、死ぬ半年前に書いた文章【 私は生きている】 を読み返す。もう26年前の文章である。まだ長女は9才である。私も人並みに年を重ねその文書が沁みて、私を鼓舞する。

家族をはじめとする、友人知人、いわばお金では図れない、私のいわば全人的交遊財産の感謝の念が、私を奮い立たせるのである。理屈抜きに土取利行さんスパイラル・アームズの公演を全身で見て聴いて体感してほしい。ただそれだけである。何としても満席にしたい。命のフライヤーが必須である。


2025-02-01

昨日午前中、約2ヶ月ぶりに瀬政さんと我が家でオセローのリーディングをする、そして想う。

 今日から2月である。わずか一日で気分が変わるのだから、当たり前という他はないが、人間はいいかげんなものであり、私なんぞはそのさいたるものであるとの自覚が年々深まる。

とは言うものの、年明けそうう発熱し、ダウンしてなんとか立ち直って以後は肉体労働に復帰し、なによりも足元の日常生活をたんたんとこなしながら、春のハレノワの個人企画に静かに向かっている。

ブレディみかこさんの短編集、面白い。

もう毎度同じようなことの繰り返しのような五十鈴川だよりであるのを、どこか承知しながらも、寝ておきて新しい一日を、本人はできるだけ新鮮に過ごしたいという老人性願望を、備忘録的に打つ続けているといった塩梅である。

話を変える。昨日、午前中約2ヶ月ぶりに瀬政さんと、シェイクスピア作品の【オセロー】のリーディングを我が家のリビングで正味2時間ほどやった。私が余裕がなかったのでしばらくできなかったのだが、一月末日久しぶりに実現した。

オセローの二幕と四幕、もう何度も書いているが瀬政さんがシェイクスピア作品の音読を始めたのは71才、昨年の3月、マエストロに聞け、からだから間もなく一年になろうとしている。

正直、よく続いていることに感心している。現代日本語に翻訳されている松岡和子先生の作品をリーディングしているのだが、要所要所、私がこれまで馴染んできた小田島雄志先生(どちらの翻訳が優れているとかの比較の問題ではなく)とは異なりまったく新しい気持ちで新鮮にリーディングできるので、まさに時間が瞬く間に過ぎてしまう。

約30年間のブランクの後、61歳からシェイクスピア作品の音読を始め、コロナで公の場でのレッスンはやってはいないが個人的には持続、昨年からは松岡和子先生の翻訳でまっさらな気持ちで公に再開したのだが、丸12年が過ぎた。

マエストロに聞けが終わり、続ける人がいなければシェイクスピア作品のリーディングもあきらめようと思っていた矢先、瀬政さんがシェイクスピア作品の音読を継続したいとの申し出。正直よもやまさか瀬政さんがシェイクスピア作品の音読を継続するとはおもいもしなかった。まさにハムレットの言葉【この天と地の間には哲学などでは及びもしないことが起こる】のだ。

妻は仕事で家にはメルと花が居るだけ、高齢者二人が、オセローの全登場人物を交互に音読する。たかが音読されど音読、瀬政さんは何せすべて初めてなのである。蓄積がまったくないのである。だが継続している。高齢者があのシェイクスピア作品の膨大な長い台詞をいきなりリーディングするのは、まったくもって途方もなく大変なことなのである。

体に付加がかかっているのは容易に推測される。途中休憩を入れて2時間ほど、一旦始めたら集中力と持続力が求められる。それでもあえて瀬政さんがシェイクスピア作品の音読に挑み続けているのは、きっとシェイクスピア作品の面白さを読むほどに体で発見しているからだろう。それとやはり、音読は体にとってとてもいいということを、瀬政さんが自分の体で実感しているからだと思う。

音読するほどに、日本語の言霊がお互いの体にしみわたり、オセローの嫉妬に猛り狂う言葉、イアゴーの知謀策略の言葉、デズデモーナの天真爛漫な言葉、あまりにもの意識心理のズレの悪魔的的小宇宙に誘われてしまう。なんという人間の存在の不条理、理屈抜きにシェイクスピア作品は途方もなく面白く、なんといっても今だからこそシェイクスピア、現代に通ずる。

ドラマ、劇的小宇宙自由世界に身を委ねる二人。いつの日にか、ささやかに、ささやくかのようなプロには出来ない、ミニの高齢者発表会ができたら夢のようである。

2025-01-26

休日、春のハレノワでのスパイラル・アームズ公演の応援依頼文を書き、宛名を筆かき、一筆入れ投函する。

 この年齢になると、いよいよもってあれもこれもはできず、ということを実感しながら、やれることを少しずつ進めている。平日はフルにではないが、肉体労働をしているので、ここいちばん集中力をもってやらなければならないことは、土曜日曜日にやることにしている。

1月21日猪風来縄文美術館にて

五十鈴川だより、かなり日録的になってきているのを自覚している。今週何をやっていたのかを忘れないうちに、打っておかねばとのおもいが増してきているのだ。振り返り記録を確認するかのように打っておくことを習慣化することが、脳のセロトニンを増すのでは、という淡いおもい。自分で自分のモチベーションをあげてゆくのである。

ということで昨日は、ハレノワでのスパイラル・アームズの4月30日の公演の案内、お願いの一文を朝いちばんに書き、同封する私がこれまでに書いた拙文を2枚含め、3枚をいれ、墨を擦り宛名だけ小筆で書き(あとは万年筆)、40通以上を仕上げた。今日はその宛名の方々に一筆いれて、投函する。

まだフライヤーもできていないのに、自分が近しく感じている友人知人へ一文を書いて、お願いをするのは、仕事ではなくリタイヤ後、再び今回のような企画をするようになってからである。庶民の私の個人企画イベントは、規模にもよるが一人で背負うのはまず無理である。

だから、できる限り友人知人の他力の応援を仰ぐべく、知恵を絞って私は私なりの方法を思考実践するしかないのである。時代遅れ感覚を十分以上に自覚している私だが、幸いなことに、私の苦手な分野をカバーしてくれる、妻や家族の応援があればこそかろうじて、この数年の企画が実現しているのである。

それとこれまでの人生で出会えた貴重な友人、知人の存在なくしてはまったく実現することは叶わなかったであろう。私の友人知人も当たり前、年齢を重ねているが、土取さんや猪風来さんはもっと年長である。外見はそれなりの年齢を感じさせるが、その内面の輝き、泉のような枯れない若々しさは、いったいどこから醸し出されてくるののであろうか。謎である。

土取利行さんからの依頼があったとき、思ったことは企画を受ければ、少しでもその謎をかいまみえるかもしれないし、なによりも小さな世界に安住し、ややもすると守りに逃げ込み、好好爺に成り下がってしまうのではないかとの怖れを、払拭するのにはまったくもって、最高のタイミングでのオファーであったのである。多分、土取利行さんでなければ引き受けてはいない。

そうはいっても、私は自分のやれることをまったく過信してはいない。もっと打てば、もう年齢的に、イベント企画にはほとんど関心がなくなってきていることを、私は正直に告白する。(ひとりでやれることに関心がシフトしているのである)

そしてもっと正直に告白する。自分で言うのも気恥ずかしいのだが、土取さんや猪風来さんの、世界の行く末に対するあまりの真摯なこれこそが芸術家とでも言うしかない直感力的危機感、(裏返しの人類のみにとどまらないあらゆる生き物に対する愛の深さ)をようやくにして深く共有実感できるようになってきた、己を感じるからこそ、例外、土取さん猪風来さんとはなんとしてもタッグを組みたいのである。

お爺さんではあるが、これまでに、私なりに学んできた方法で、地を這うようにチラシを配布して歩きたい。顔の知らない、未知のどこかの誰かの目に触れるように。反応してくれるように。土取さん、猪風来さんの足跡は圧倒的に傑出している。若いかたにこそ知ってほしい。

土取利行さん、猪風来さんの前人未到の荒野を、黙々とただ🦏のように歩み続けている稀な人間アーティストを企画できることの、喜びが私の今を限りなく活性化させている。

PS 写真は1月21日土取利行さんが猪風来縄文美術館を訪ね、2時間秋のイベントについて打   合せをしたさい、土取さんに32歳の若さで逝去されたご子息村上原野さんの遺作となった作品について、お話をされている猪風来さん。

2025-01-18

2025年、書写始め、手島圭三郎さんのお仕事を(素晴らしい絵本の文章)このところ書いてます。

 今週4日無事に寒い中、楽しく働け、あらためて動く体の有り難さがが染みた。体の回復と共にほぼ完全に、普段の生活にシフトして今日を迎えている。妻も普段通りに働けるようになり、平凡生活が戻ってきた。ただ、嬉しい。

原画をみに行きたい

さて、今年からかなり真面目にやりたいことのひとつに、日本語の気に入った本や、言葉を書写することがある。以前からシェイクスピアの作品の気に入った台詞の書写をやってはいたのだが、シェイクスピア作品の書写だけではなく、絵本や詩など分野にこだわらず、とにかく手を動かして、ノートに書き込んでゆく時間を楽しみたいという素朴な気持ちがよりましてきたのである。

今年もまた、働くという楽しみ、働けるというありがたさを第一義に、日々の暮らし、生活を基本に、生きる喜びの糧として、旅や読書や音読にもうひとつ、書写の楽しみを深めたいのである。さしあたって手島圭三郎さんの、あまりに素晴らしき作品の絵本の書写から始めたのだが、理屈抜きに楽しい。書写しているときにはまったく余計なことを考えず、ただひたすら手を動かすだけなので、精神的にすこぶる私に合っている。

単純労働しかり、単純な所作の繰り返しが、単細胞の私には、ことのほかあっているのだということのあらためての気付きが嬉しい年明け早々の私なのである。一人もくもくとできるのがいい。草刈りや草取りもだが、一人でやれるのが何よりもいいのである。

まったくお金もかからず、出掛ける必要もないので時間も、かぎりなく有効に使える。かぎりなく高齢者向き、私向きである。年金生活者になったとき思ったことは、かぎりなくお金に頼らず貧乏ではあれ、慎ましき喜びの追求ということの実践と思ったことだったが、そのことをただひたすら今年も続けたいと、願っている。年金生活以外に、自分のやりたいこと、好きなことで副収入があるということは、すなおに嬉しい。

それと、体が喜ぶ独学の楽しみの追求である。学ぶことはまさに終わりなし、日々充実して過ごすのには私の場合学ぶことがやはりいちばん、楽しい。老いてゆくとだんだん記憶力他が、弱くなってゆくのは摂理だとはいえ、そこをなんとかならないものかとのおもいで、少しでもじたばた反復単純繰り返しを、脳の海馬に向かって刺激をおくる術のようなことを続けたい。

言うは易し、実践はかたしではあれ続ける。3日坊主の私が10年以上続けていることが、気がつくと5つくらいある。これを今年も続ける。目標はいつも低めに設定する。いちばん確実にやれることだけをやる。難しいことには老いたら手を出さない。ささやかで十分誰かの役に立つことを心かける。とまあ、元気になったことの証左、あれやこれやを思考する私である。