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2025-10-05

日曜日、朝一番一仕事し、先ほど裸足散歩からかえっての今日の五十鈴川だより。

 先日、千住真理子さんの、継続する力を読んで、改めて我が意を得た、というとオーバーだが、還暦以後継続(手術で中断もありけれど、復活している)していることがある。五十鈴川だよりもそうである。古希からの企画再開もそうだし、他には懸垂と裸足散歩、家庭菜園、踵の上げ下ろし、音読、それに筆写もいれれば、、、。かなり還暦以後毎日ではなくとも継続している。今は新聞の購読を止めたが、書評の切り抜きも20年近くやっていた。

絵本読み聞かせお爺になる

考えると、家、及び近所でやれ、企画を除いたらほとんどお金のかからないことばかりである。それでこの年に至るまで、自分でいうのもなんだが、面白可笑しく過ごしてこれたのである。

なぜこのようなことを打つのかというと、中高年の貯蓄率がことのほか我が国では高いということを知らされたからである。お金はきれいさっぱり使うものである。(西郷隆盛の言葉、子孫に美田を遺さず、これも父の言葉、ゼロから始まりゼロで宇宙の塵なるのが理想)守りに入ったときから、人は貧しくなるように私にはおもわれる。

もし私が経済的に余裕のある家庭に生まれ落ち、今現在も自由になる、ある程度の資産があれば、多分惜しみ無く企画を初めとする好きなことに、お金を費やすのではないかと、想像する。そのあげくどうなるのかは神のみぞ知る。

が私はそういう家庭環境には生まれなかった。両親は5人の子供を抱え、父は長男だったので、両親の面倒を最後まで見、戦後北朝鮮から命からがら、 無一文で引き上げてきて、借金して、町中からはなれた(当時は近所に家がなかった)場所に家をたて、ローンを払い一家の主としての生涯を全うした。父は文藝春秋だけ定期講読していた。

その両親の四番目の子供が私である。母は北朝鮮では小学校の先生をしていたが、引き揚げてきてからは、一家の母として、主婦の仕事、子供の世話、両親の世話に明け暮れた。私の記憶の中の母は、家事に明け暮れる母の姿しかない。怖い父と、怒ることのない優しい母、全く対照的というしかない両親に育てられたのである。今おもえば人生に必要なことはすべてあの両親から受け継いでいるのだということが、染みて自覚(わかる)。

結果、私は不必要な出費や、華美な飲食、華美な旅、華美なファッション(ボロでも清潔で、らしく着こなせればいいのである)などなど、身の丈に合わないような生活はとんと送れない生活者、似合わない生活者になってしまったのである。それでいいのだ。

もっと言えば、お金の使い方がわからないのである。高価な衣服や、車、飲食物、ライブや、コンサート、などなど、にはとんと興味がなく、コレクションの趣味もほとんどない。結果、今も私の生活は慎ましく、その慎ましさのなかで、いかに贅沢な時間、一日を過ごせるのか過ごせないのか、にしか頭が動かないのである。

だが、これも父からの教え、お金がなくとも、心が貧しいのは駄目だと。長くなるのではしょるが、心の貧しいケチな人間になるのだけは御免である。貧しくたって夢を見るのだ。夢を見る力がないのが貧しいのである。そういう人生を今も私は歩んでいる。企画の夢にお金が追いつかないとき(ほとんどだが)は、共有してくれそうな仲間にカンパをお願いする。一期一会、その時に集まったお金で企画する。打ち上げは足を運んでくれたその仲間と。これが私がこれまで経験した中で、もっとも愉しく贅沢な時間である。

だがこれからいよいよ私は老いてゆく。体がよぼよぼになる。だから、ゆっくりと私の贅沢時間は変容する。さしあたって、12日の縄文イベントを終えたら、ちょっと長めのお休みをとって、どうしても訪ねておかなければならない人に(会える人にはしっかりと会っておきたい)会う旅に出掛けようと思っている。お伴は、死ぬまでにどうしても読んでおきたい本である。

2025-10-04

二冊め、森永卓郎さんの[身辺整理という]本を読みました。そして想う。

 今日は猪風来美術館にゆく予定であったのだが、雨で作業が取り止めになったので、いつもの休日のように、静かな時間を過ごしている。

今年一月に、おなくなりになった経済アナリストの森永卓郎さんの官僚生態図鑑という本について、先日五十鈴川だよりに打ったのだが、続いて、森永さんが余命宣告されたのちに書かれた[身辺整理]という本を、先ほど読み終えた。

見事な人生、脱帽する


読み終えたばかりなのだが、降ってわいた時間があるのでなにがしか綴りたい。余命宣告をされたことがない私としては、まだまだやりたいことがあり、幸いにして頗る健康そのものなので、私事として、きちんと受け止めるには至難なのだが、打つ。

私は、これまで読書の傾向があまりにも偏り過ぎていたという反省が、古稀を過ぎて俄に強くなってきていたお陰で、森永さんのご本も手にすることができたことを、素直に喜んでいる。

思い込みや、知らぬうちに育まれている苦手意識、偏見が私をして狭い世界に充足させがちになってきていた。

古稀を過ぎたのだ、もっと自由に本に触れようと。だから努めて意見の異なる生き方や、異なる環境を生きた思考の持ち主の本も、意識的に読むようには心かけている。

おそらくそういう心掛けがなかったら、森永卓郎さんの本も手にしなかったのではないかという気がする。そして思う、手にして良かった。私とは全く異なる人生である。人は生まれ落ちた時代と環境のなかで、自分の人生を生き物として、どんなに理不尽であれ、非情な摂理の中を泳いでゆくしかないということを、知らされる本である。

私とは、あまりにも異なる世界を歩まれた方なのだという認識しかもてない、とはいえ一人の人間の、私には想像だにできない世界を必死で生き抜き、結果見事に全うされて、このようなご本を遺された、毅然とした見事な生き方に打たれた。

ちょっと話が逸れる。世は100年時代、総活躍時代などという標語が飛び交うが、私に言わせれば、 虚しい。身近な周りを見渡しても、見るからに幸せそうに生活しているご老人にはそう私はお目にかかっていない。ハッキリと五十鈴川だよりに打っておく、長生きすれば幸せなのか。

まったく私はそうは思わない。心からやりたいことがない人生は虚しい。幸いにして、まだまだやりたいことが私にはある。私は今しばらく生きねばとは、思ってはいる。だが、一寸先は神様にもわからない。だから、無目標でただ漫然と長生き、社会のお荷物的人生だけは御免である。

ボケると、このようなことは打てなくなるので、今のうちにキチンと打っておく。それにしても、 森永さんの余命宣告を受けてからの、あまりにものエネルギッシュなお仕事ぶりには脱帽する。死は怖くないと森永卓郎さんはおっしゃっている。あっぱれというしかない。

このような境地になれるのは、キチンと人生を生ききったもののみにしか、けっして訪れない。そのことは私にも分かるような気がする。臆面もなく打つ、私もまた死を受け入れるための生き方をせねばと。

我が両親も潔かった。あのように生きればいいのだという身近なお手本がある。引き上げ者としての両親を私は尊敬している。思春期から自己嫌悪、不甲斐ない自分をもてあましつつ、戦いつつなんとかいまを生きているが、多分一生頑張っても、あの両親にはかなわない。見習いたいと、ますます思う、この頃である。

2025-09-30

[続ける力],千住真理子著を読み、打たれた今朝の五十鈴川だより。

 昨日、千住真理子さんの、続ける力、というストレートなタイトルの本を読んだ。お名前は知っていたし、ラジオでお声も聴いたことはある。だが、実際に演奏を聴いたことはない。だが先週土曜日図書館で、ご本のタイトルが目に入った瞬間すぐに手に取った。3ページめに、この本を手に取ったあなたへ、というちょっと大きめな言葉が記されていて、続く言葉が[人生はロングレースだよ]というお父さんの言葉が冒頭に続いている。

生で聴きたい。

あまんきみこさんの絵本を探しにいったのだが、よもやまさか、千住真理子さんの本にも恵まれるとは。なぜこの本のタイトル、継続する力に吸い込まれたのかは、私自身が、幼少の頃から、今で言う発達障害とでもいうしかないほどに、落ち着きがなく、多動性であったことに起因している。

何事にも飽きっぽく(それは決して消えてはいない)、集中力のない、自分という存在との、オーバーに言えば、それとの戦いみたいな人生を、18歳で世の中に出てから送ってきたからだ、と思う。

生活をするだけでエネルギーを消費し、夢も希望もない蓄積したの実感のない泥沼のような貧しい青年の暮らし。この先を想うと、暗澹とする不安しかない焦燥坩堝時代。

運が良かったと言うしかない。不確かで、日々変容する自分との戦いの果てに、なんとかこの年齢までたどり着いている、というのが正直な気持ちである。

おもえばあれから55年の年月が流れ、いろんな方との廻り合いに助けられた。そして今、ようやく多動性発達障害がようやく収まりつつある自分を感じている。ただた単に年を重ね老人になったからということでは決してない。

臆面もなく打つ。振り返ると、不甲斐ない自分を見つめなおす勇気と課題を、綱わたりのように、ささやかに持続したから、いまをがあると思える。自己嫌悪になるほどの不甲斐ない自分との戦い(いまも続いている)から逃げたとしたら、還暦を過ぎて、五十鈴川だよりを打つなんてことは決してありえなかったとおもう。

18歳で上京してからの4年間、22歳になる前(まだ21歳だったと思う)英国に脱出する勇気を思いつかなかったら、その後の私の人生はどのように変化したのか皆目想像だにできない。実現のため、当時付き合っていた女性にこれから資金を貯めると告げた。そこから希望の光が差し始めたのであるる。

二人で3年以上ひたすらあれやこれやのアルバイトをして、一年間イギリスに滞在する資金を貯め、結果実現して、最初の成功体験(目標に向かって継続すると願いが叶うという)となり以後の人生の支えになっている。

話を戻す。千住真理子さんの継続する力は、二歳半でヴァイオリンを手にして、以来一筋の50年である。まさにヴァイオリンの神様に選ばれしヒトなのである。好きであるということに導かれた、あまりにも過酷な運命の道。しかし運命から逃げない。受け入れる。その健気さ、凛々しさ、潔さは受両親から受け継いだ天性の賜物である。

理想の音を求めてアスリートのように体を鍛える。ヴァイオリニストは過酷極まる肉体労働であると、初めて知った。二十歳で一度演奏家をやめる。挫折しても好きだからまたもや起き上がる。試行錯誤、真理子さんの(と呼びたくなる)挫折克服の、自分で見つけた方法が簡潔で的確に真理子さん文体で書かれている。

ある日スイスから携帯の電話がなる。しまわれたままの、誰も弾いていない、300年に創られたストラディヴァリウス、ヴァランティ、とのまさに運命的な出会い。出会いの一文が簡潔ですばらしい。弾かれていないストラディヴァリウス、ヴァランティは簡単には音がでない。名器ヴァランティとの格闘が始まる。目頭があつくなった。(何ヵ所も)

ある種選ばれし天才は、誰も聴いたこともないヴァランティの音色を奏でたく、格闘を続ける。努力自分自身と戦っておられ、そのあまりの純粋さに言葉を失う。いや天才だからこそあれほどの努力が出来るのだとも思える。楽譜にびっちりと書かれている文字をみると畏敬の念しかない。すごいの一言しかない。

真理子さんのご本は、分かりやすく凡人の私にも充分に面白く、しかも誰でもやれると思えるほどに、分かりやすく説得力があり、読みやすい。素直によめる力さえあれば、こと音楽の世界だけではなく万人に届く、と私は思う。身近な世界のワンダーを感じる感性をお持ちのヒトであれば。

何事の困難も、継続することのなかでしか、未知の扉は開いてくれない。扉を開く勇気のある人間だけにしか、挑んだものだけにしか見えない、感知できない景色、聴こえない音があるのだ、と知る。この年でこのような本に巡り会え、五十鈴川だよりを打てる事に感謝する。今年見つけたもっとも素敵な本である。

PS 8月上京した際、猛暑の中、男の孫二人と父二人、私の5人で野外プールにゆきその時、数年ぶり、何百メートルを休み休み泳いだのだが、意外にまだ泳げる自分がいた。その時今年の冬はプールに行こうと五十鈴川だよりに書いた記憶がある。

千住真理子さんはヴァイオリンを弾くための体力維持のために、行ける時間がある時には、どんなに疲れているときでも、這うようにして、自分を騙して出掛けるのだという。ジムまで行ってみる。着いたらとにかく着かえる。着かえたら水にはいると、チビリチビリ自分を騙してゆく。

昨日午後3時半から休み休み一時間、泳いだ。真理子さんのご本に刺激をうけ、予定の冬よりも早くゆくことになってしまった。さあ、継続出来るか。意欲がなえそうになったら、真理子さんのご本が背中をおしてくれる。まだ泳げるのだから。(取り敢えず週に一二度、泳ぐことにした)

2025-09-29

昨日9月最後のミーティングと作業が猪風来美術館で行われた。記録として打つ五十鈴川だより。

 夜明け前、一時雨音が凄かった。目が覚めたが今月の労働は先週で終わったので、今日明日は労働はなし、だから雨音に聞き入りゆっくりとおきた。今朝は朝食後、3通のお便りを書いて先ほど自転車で投函してきた。

中央のシートの下の廃材を片付けた

さて、記憶が新鮮なうちに、昨日の猪風来美術館野焼き祭りイベントのミーティング、及び作業のあらましを綴っておく。

起きてすぐ近所のスーパーにミーティング参加者のためのお弁当を買い、朝食を済ませ、7時26分の電車で岡山へ、瀬政さんの車で猪風来美術館へ向かった。途中コンビニで小休止、10時前に着いた。

すでにNさんや地域の方たちが、駐車場や美術館周辺の斜面の草刈りをしていた。盟友大場さんもやって来て、猪風来さんの指示で、私、瀬政さん、大場さん、Nさんの四人で当日の客席作りのシミュレーションをする。8畳の筵を広げ、その回りに、パイプ椅子を実際にある程度並べ、おおよその人数の把握をする。それだけでも、シミュレーションができて、実行委員会の一人として安堵した。

その後、お昼まで時間があったので、縦穴式住居の近くにあった、舞台背景にはちょっと邪魔な廃材の片付けと、当日燃やす(縄文鼓を暖める)薪を綺麗に積む作業を、我々4人と野焼き祭り、法曽焼き同好会のKさん、猪風来さんの計六人で、一丸となって約一時間やった。すっきり、場がいい感じになった。

Nさん以外は、古稀を過ぎた高齢者ばかりではあったが、皆普段から体を動かしている面々であったので、思った以上に早く作業の目処がついた。大場さんとは長い交友だがともに体を動かすのは初めて、大場さん最初は戸惑って、軽口をたたいていたが、始めると体が動く。

瀬政さんもお世辞ではなく、やはり山で鍛えているから、よく動く。古稀を過ぎたら動く体こそが宝であると、心底私は思う。心情は体の動きに表れる。この偶さかの、冗談が(特に私と大場さんの間で)飛び交う作業が愉しかったことを、五十鈴川だよりに打っておく。

共に体を動かして、事務所で和気あいあいお弁当昼食。ちょっと話が逸れるが、仕事ではなく、心情あふるる利害のない、ボランティア参加者との作業やミーティングは本当に楽しい。

猪風来さんからの思わぬお声かけで改めて思うのだが、なによりも主体的に、自分の頭で考えて、縄文野焼き祭りに参加してくださるボランティアたちの存在は少数だが実に心強い。(心から喜びを分かち合える、今回の実行委員会ボランティアはサイコーである。)

9月最後のミーティングは、細部の詰めの確認事項に重きをおいて進行し、最後に、猪風来さんから縄文への回帰、近況の動き、(2027年横浜で開かれる、花の博覧会への猪風来さんの作品展示、ほか)について実行委員会に報告があり、ミーティングを終えた。

改めて最後、打たれたのは、野焼き祭りへの尋常ではない、100点もの作品を一日で焼きあげる責任感の深さである。法曽での41回目の野焼き、お天気に恵まれ、無事に野焼きが終わることを、スタッフの一人として祈るしかない。ミーティングを終え外に出るとかなりの雨、猪風来さんの案内で、4ヶ所の駐車場を全員で確認して、猪風来美術館を後にした。

瀬政さんに岡山駅まで送って頂き、17時半家についた。(なりゆき、行き帰りの車中、瀬政さんと話すことで、若き日のこと、忘れていたことが次々と思い出された。若き日の辛い出来事も、今となっては切なくも甘美な記憶して、脳の海馬の奥深くにしまわれていたのだ。話を聴いてくださった瀬政さんに感謝する)


2025-09-27

午前中、菜園場の(さつまいも畑の)草取りをし、そして想う。

 ちょっと体がだるい。だけれども五十鈴川だよりを打つ元気はある。明日は猪風来美術館で作業とミーティングがあるので、五十鈴川だよりを打ってたまった夏の疲れが出ているのだろうから、午後はゆっくりと休むことにする。

自然は手強い、修行は一生なり

朝食後、約2時間以上菜園場の草取りをして、戻ってきて寸暇五十鈴川だよりタイム。バイト先のさつまいも畑が、約一月ほっといたら、あまりに雑草に覆われていたので、鍬で少しうがして、手で抜いたのである。

だるいのでちょっと億劫ではあったのが、今日を逃すとまた伸びる。自分の菜園場、自分がやらないと誰もやってはくれない。単調に体を動かす。

根にまとわりついている土をふるい、草をバケツに入れ、一杯になったら、農業用の小さな車に積む。最初は大変ではあったが、だるいのも忘れて、はかどり始め、気分よく菜園場を後にした。

もうこの年齢になると、秋の空のもと、土に触れて香りを嗅ぎ、草と戯れていられる休日の時間が甚だ嬉しい。小さな菜園場がバイト先にあるなんて、なんとありがたいことかと、今朝も私は思った。私以外誰もいない。ただただ草を抜く。老いた我が体が喜んでいるのが分かる。

ささやかしごく、このような体の喜びを見つけられたことを、能天気に臆面もなく打てることが嬉しい。子供が夢中で虫とりをするように、私は草を抜く。正味2時間位が今の私にはちょうどいい。

養老孟司先生を、私は勝手に尊敬している。都市化(先生の言葉では脳化)された中での生活で、体が置き去りにされていることの危惧を、数十年もまえからお書きになっている。脳で考え、体を使って考えないことのバランスの悪さを、再三鋭く指摘しておられる。自然界は人間の思い道理には絶対にゆかない。どこかで自然と折り合いをつけないとまずい。畏敬の念を忘れたらとんでもないことになる。

老いて草を抜きながら、養老先生の言葉を反芻し、噛み締める。ときにこのような言葉を。人間の財産とは、結局自分の体に身に付けたものだけが全てであると。全財産、我が体は自然に還る。それまで体を動かし、菜園場でギリギリまで遊びたい。。

生老病死は摂理、自然である。私はやがて土に還る。宇宙の塵となる。都市化した生活をしてきた私は現代人である。だから死をどこかで怖れる。だが土に触れていると、気持ちが穏やかになる。土の力は偉大なものがある。土は生と死そのものである、そのような想いもしなかったことを感じる。土に触れなかったら決して生まれない感情である。

最近、私は現世的な執着や欲望がとんと(消えてはいないが)弱くなっている自覚がある。限りなく、一日の過ごし方が単調、シンプルになってきている。朝日とともに起き、体を動かし、暗くなったら、体を休める。もうほとんど満たされている。

お金や物に、執着しない。存在していることを、日々寿、ことほぐ。養老先生は覚悟を忘れて、永遠に満たされない欲望消費現代人に警鐘を、虫の視点で説く。然り、府に落ちる。自然を受け入れ、目を閉じる覚悟を日々養いたい。

2025-09-21

昨日、猪風来美術館の敷地の草刈りをしました。そして想う。

 昨日猪風来美術館に行った。着いたのが午前9時前、持参した草刈り機で敷地を約2時間草刈りした。春から秋まで毎日のようにバイト先で草を刈っているので、手慣れているので、私にとってはなんてことはない。

猪風来美術館の敷地の草刈りを初めてやった日として。記録として打っておきたい。そして思う。私が元気でいる間は、年に数回は、敷地の草刈りボランティアをやりたい。ご夫婦のお役にたてれば、ただ嬉しい。それだけである。

猪風来さんからお借りした本


おつむが弱い私としては、ただ体を動かし好きなことでしかお役にたてない。私自身高齢者ではあるものの、未だ十分に草は刈れる。ほんの少しでも役にたてる、その喜びが私を猪風来美術館に向かわせる。

初めての敷地での草刈り、おおよその時間の目安がわかった。すべては現場で自分の体をうごかさないと、何事もつかめない。砂利が多くてスムーズにはゆかないのだが、何事も一事が万事、やれば、動けばはかどる。私は単純である。

終えて、私のみ早めの昼食、お相手はもちろん、猪風来さんとよし子さんである。ゆく度に猪風来大兄から、私にとっては未知の領域の、蒙をひらかれるお話をうかがう。おそらくその事が、私を猪風来美術館に足を運ばせる、のだ。

昨日は、関西から土ひねり体験の予約が入っていて、猪風来さんはその準備や、こられてからの対応のさなか、私はさきに昼食を終え、よし子さんと私が、二人で話をしているとお昼に戻って来られた。私が縄文世界について参考になる本がありますかと、たずねると、とある考古学者が書いた縄文世界について書かれた本についての、前提からしての間違いについて、ひとしきり、お話しされた。私は又もや、府に落ちる説得力に脱帽した。(詳しく書けなくて申し訳ない)

猪風来さんが昼食を終え、遠方からの生徒さんの対応に戻ると、私は再びよし子さんとのおしゃべりに戻る。よし子さんのご年齢は知らない。おそらく私よりもちょっと上かもしれない。もう最近では、気安く姉感覚でおしゃべりができる。それが楽しい。このこともまた、今を生きる私の喜びの一つなのである。

この方のそそとした、凛とした聡明さ、思慮深さ、芯の強さは、猪風来さんとはまたことなり、女性ならではの柔らかさが、私にある種の新鮮な驚きをもたらす。そしてエネルギーをいただく。

先週、よし子さんから、5年前32歳で他界された、ご子息原野さんが10最のときに書いた、岩手県への旅行記ノートを見せてもらった。かけがえのない、大切なよし子さんの宝を、見せてもらえた事に驚き、そのことがジーンと私には嬉しかった。

(10歳、好奇心満載、子供とは思えない細かい観察記録、文字にも力があり、遠方への初めての旅、世界を見つけた喜びがあふれている。暫し預かり繰り返し丁寧に読み、老人の私も未知の旅を追体験、いつの日にか訪ねたい)

西大寺から新見法曽まで、往復約5時間の一人ドライブ、ボーッと過ごせる有り難さ、ゆく川の流れは絶えずして、高梁川を眺め、たわわに実った稲穂、日本の里山の秋の景観にみいる。運転できるこれからの時間、猪風来美術館で繰り返しあのお二人の縄文のオーラを浴びたいと私は切に念(ねが)う。

2025-09-19

ようやっと待ち焦がれた秋がきた。ただただ嬉しい五十鈴川だより。

 暑さ寒さも彼岸までという言葉が虚しくおもえるほどの気候ではあるものの、萩の花がさき、コオロギが草を刈っているとそこかしこから姿を現す。天が高く高く感じられ、青い空のもと、いくばくか涼しく感じられるなかでの、早朝の草刈りは、なんとも言えず気持ちがいい。

あざやかな、実りただき、秋がきた。

だあれもいない広い場所で、ただ一人エンジンの音を響かせ草を刈る。40分やったら、少し息を整え、その繰り返し、おおよそ4ラウンドやれば、かなりのフィールドの草が刈れる。早春から晩秋まで草は休みなく伸びつづける。

ときに、うんざりするほどの草の生命力に圧倒される。正直今年の暑さには、もういい加減にうんざりしている。だが、なんとか乗りこえることができた悦びは、たとえようもない。

有難い事実として、記録として打っておくが、この酷暑の夏、我が体は、どこかで1日1日を生き延びることこそが、楽しみで働いていたのである。

もっと敷衍するなら、この年齢での限界に敢えて、挑むかのような塩梅で日々、暮らしていた、と綴るのは、ちょっカッコつけすぎか。

年齢を暫し忘れ、ただ草刈りに暫し没頭する。没頭することの、没頭できることの老いのからだの摩訶不思議を、この夏ほど痛み入りますと言ったあ塩梅で感じたことの、有り難さを五十鈴川だよりに打っておく。

もうこの年齢になると、ただ老いゆく存在を、一日でも慈しみたいのである。結果、他者との時間も慈しみたくなる。従って今日共に働いたkさんとの束の間のふれあいなども、いかんともしがたく、なにやらそこはなくうれしいのである。

Kさんとは週に二回しか、ともに働かない。kさんは口数が少ない。もう丸3年ともに働いている。誠実でまことにもって信頼できる。今どき稀なご仁であり、歩んできた道のりは全くといっていいほどに異なるのに、何故かの私の企画もカンパも含め、支援してくださる人である。

今日も、お家で収穫したたくさんのピーマンや大きなシシトウをお裾分けに持ってきてくださった。つくづく思う。ての届く範囲での人間としての日々の生活、をこそ大事に生きていきたい、いきてゆかねばとの思いにわたしはかられる。

いきなり話は変わる。明日は、猪風来さんのところに、ゆく予定である。行って何をするかというと、少し草を刈るつもりである。kさんに頂いたピーマンもよし子さんにお裾分けしたい。

2025-09-15

敬老の日、最後のフライヤー配布に出掛ける前の朝の五十鈴川だより。

 今日は最後のフライヤー配布に出掛ける。その前に頭が新鮮なうちに、ちょっと五十鈴川だよりを打つ。

今日は敬老の日だそうだが、私にはいまだピンとこない言葉である。確かに年齢的にも、外見的にも十分に老人ではある。しかし、普通に生活して歳を重ねてきただけで、うやまれるようなことは何ひとつしてきたことがないので、面映ゆい。ただお休みがもらえるのは正直嬉しい。嬉しいのは、フルタイムは無理だが、いまだ現役で働いているからだろう。これが毎日が日曜日なら、嬉しいという気持ちも半減するに違いない。

遺言の書である

話は変わるが、今年1月、67歳で亡くなられた森永卓郎さんの本(官僚生態図鑑)という本を読んだ。随所に怒りがわいてきた。詳細は割愛する。

テレビでお顔は拝見していたが、本を読んだことはなかった。昨年秋に上梓され、すい臓がん末期の治療中に書かれている。森永さんが40年にわたって官僚と共に働く中で見つめ続けてきた、官僚の生態があけすけに綴られている。

(事実であればこのような、エリート偏差値を世間知らずバカが、国を司るポストでのうのうと、血税を貪っているかと思うと、暗然暗澹、この国が没落するはずである)

読んでみて、余りにも庶民とのずれ、感覚のずれに言葉をうしなった。とくに天下り他の、既得権益に巧妙、狡猾にしがみつき、甘い汁を吸い続ける財務省官僚の生態はおぞましいのイチゴ一語に尽きる。一般国民との感覚のズレに呆れかえって、いかんともしがたい感情を抑えられず読み終えた。(大多数の他のこの国のエリート官僚はしっかりと仕事をしていると信じたい)

森永さんの官僚への遺言のような本である。この国の行く末を想うとき、森永さんはいてもたってもいられないような、お気持ちで病と格闘しながら、書かずにはいられなかったのだろう。その真摯さがつたわってきた。だから五十鈴川だよりを打っている。

この国の行く末、少子化をはじめとする、余りの多岐にわたる問題山積、閉塞感、どん詰まり感、を何とかするべく、官僚への愛と憎しみ、叱咤激励の書である。以前の私だったら、手にしなかったような本を、意識的に読むようになってきた。昨日も打ったが、老成ということについて、敬老の日の今日、じっくりと物思いに耽るのも一興である。

森永さんは私よりも五歳年下である。命は何時なんどき奪われるか、死が訪れるのか未知である。何かで読んで記憶に残っているのだが、中島敦という若くして亡くなった作家の言葉、やることがいっぱいある人の人生は短く、やることがない時間を生きる人の人生は長いと。

18歳で世の中にでて、あっという間にこの年齢を迎えている。そのような感慨が私にはある。一方、あっという間ではあったが、ずいぶんいろんな事を、じたばたやってきたのだと、そしてよくぞやれたものだとの感慨にもおそわれる。

誰かがいっていた、いつ何時召されようが、それがその人の運命、寿命であると。ただ長生きすればいいとの側には、私はたちたくはない。これは幻想的願望に近いが、可能ならギリギリまで動く心身を、と敬老の日の朝に想うのである。



2025-09-14

昨日、お昼を猪風来さんよし子さんとご一緒し、その後真庭のkさんを訪ねた日の、翌日の五十鈴川だより。

 昨日9日ぶりに猪風来さん、よし子さんを訪ねた。火急の用事があったわけではないのだが、野焼き祭りまであと一月をきったし、これから本番まで週末の土曜日はとりたてての用事はなくとも行くことにしたのである。

着いたのが11時半、早めの昼食を3人でゆっくりとする。対面すればお自ずと会話が自然に流れる。私の文章力ではお伝えできない悲しさなのだが、縄文末期から渡来人がやってきてからの、日本列島のそこかしこに棲んでいた、つまりは縄文人のあの長きにわたる、土偶や生活土器に象徴される穏やかで豊かな文化が、滅ぼされた。縄文人には所有するという概念がなかった、と。事実に基づいての貴重なお話に私は聞き入った。

(人類が破滅、死滅しかねないせとぎわを、戦後80年、世界は何とか生き延びてはいる。だが明日は、未知である。核弾頭を誇示し会う為政者がひきもきらない。老人の私にはまるで理解が及ばぬことがあまりにも多すぎる。もう十分過ぎるほどに、この惑星は悲鳴を上げているように私にはおもえる。気候変動で命の源、食物が脅かされることがないことを祈る。飢えが一番恐ろしい。

人類の歴史は殺戮の歴史でもある。私がもの心つく頃からも、戦争したがる為政者は一向に減らない。領土を広げ、資源を漁り、口実をつくり、宗教の相違、イデオロギーの相違、大義を掲げ、戦争をいまも繰り広げ、罪のない人まで殺戮し巻き込む。あらゆる命を育む、唯一無二の母なる大地、水の惑星を汚し続ける。命を生む水が汚染される。命はつながっているのに、現代物質文明は暴走を止めない。何故か。

プラスチックの目に見えない分子はめぐりめぐって食物連鎖、全人類の人体にはいりこむ。魚や肉をいただくどのような人間にも入り込む。一人の今を生きる愚かな人間の一人として、愚かな一歩間違ったら取り返しのつかない、この世にだけはしたくない、と、わたしは勝手に考える側にいる。

私は今まで十分に生きることができたが、これからをこそ、しっかりと生きなければならない、すべての人にとっての大切な未来、一番必要な物は食い物と水である。人類が生き延びるための母なるヒントが、あの長い縄文時代を生きた人々の叡知にはあるように想える)

ゆく度に、繰り返し聴いたお話しばかりではなく、新しいお話を聞くことにもなる。それが楽しい。無知な私にはすべてが新鮮なのである。ふだん余計なことには一切口を挟まないよし子さんが、時おり会話に入ってくる。それもまた新鮮である。表裏一体、一心同体の二卵性双生児のようなご夫婦である。

気になっていた観客席作りのことなどもクリアされていた。追加のフライヤーも届いていた。よし子さんが500グラム量れる量計で、てきぱき用意してくれた300枚のフライヤーを預かった。

別れ際、原野さんが10歳の時に書いた貴重な岩手県への旅行記をお借りし、午後一時に猪風来美術館を後にし、その足で真庭の落合に向った。8月のフライヤー配布でパンクした際に大変ご迷惑をかけ、お世話になったkさんを訪ね、一言御礼を伝えたかったからである。

それにしても、あのような奇特なご仁に、災い転じて遇えるとは。世知辛い人の世で浴びた一陣の爽やかな風に私は心から癒された。お家がまた素晴らしい。離れに囲炉裏の空間があり、お茶でのおもてなし。まさにわびさび、賢者とはかくのごとしを実践されている稀人にわたしは助けられたのである。おん年80歳、あのように歳を重ねたいと私は意をつよくした。

バイト先で見つけた10センチ位の幼虫

時間がなく、ゆっくりとお話はかなわなかったが、私が運転出来る間は、年に一一度でもいいからお訪ねし、お顔にあやかりたいと思っている。別れ際、kさんは何と秋の猪風来さんのイベントをご夫婦で申し込んだと私に告げた。

嬉しい。単なる音楽会ではない、猪風来さんご夫婦の心血が込められた祈りの、集大成企画である。kさんご夫婦が来てくださる。動いたからのご褒美である。時間があったので、その足で真庭の農産物直売所と、 もう一ヶ所フライヤーを配布し、五時前に家に戻った。

ps 老成という有難い言葉がある。体が思うように動けなくなってきて、嫌でも死の気配のおとずれを意識するようになってきた。老いないと見えてこない、湧いてこない感覚、感情だとおもう。老醜ではなく老成感を少しでもあやかれるには、といったことを想う。ようやく森羅万象の小さな生物や植物の生態にも見いるようになってきた。

2025-09-13

4ヵ月近く続いた酷暑の夏、肉体労働を持続しながら、乗り切った我が体に感謝する五十鈴川だより。

 5日も五十鈴川だよりを打たないとずいぶん打っていない気がする。すべてなるようにしかならない。五十鈴川は流れるようにしか流れない。泰然自若には程遠いが、わたしもまた自然に流れてゆきたい。(ある日突然五十鈴川だよりが打てなくなるまで)

学ばないと、当たり前、まずい。

今日から3連休である。嬉しい。ようやく朝夕涼しくなり油断はできないがほっとしている。この4ヵ月近く続いた 猛烈な暑さのこの夏を、この年齢で、我が体があの肉体労働をよくぞ乗り切ったくれたものである。古稀を過ぎてからは、毎年一年一年をしっかり生きる、との思いしか私にはない。

さて、今の労働、老いらくのアルバイトを66歳の夏から始めて、この夏の終わりで、まる7年が経った。

昨夜外で夕飯を妻としたのだが、よくこの夏を乗り切ったね、と労いの言葉をもらった。私は春夏秋冬、自分のやり方で任せられているこの労働バイトがことのほか気に入っている。

それは年間通してやることがあり、工夫しながらあれやこれややることが尽きないからである。つまりは面白いのである。だからきっと続いているのだ。

激しいあめのときはやらないが、少々の雨なら、炎天下よりもずっとはかどる。着かえる肌着をたくさん持参して着かえる。着かえた後の気持ち良さはやったものだけが味わえる。つまり、苦あれば楽ありである。何度か打っているが、このよう肉体労働の喜びのような感覚を体得したのはやはり富良野塾である。自分の人生で限界に近いところまで体と心を、青春のおわりに追い込まれ鍛えられた経験が今の私を支えている。

健康に体が動いてくれるからこそなのは言うまでもない。体に感謝。能天気にこのようなことを打てる在りがたさなのだが、夏の労働を乗りこえた(また一つ知恵がついた)ので、これから涼しくなる秋の労働は、きっと楽しい。企画をすることも草刈り他の労働も、限りなく私のなかでは連動している。

草取りを持続するには、スクワット、立ったり座ったり足腰が、老人の我が体の筋力が鍛えられる。いつまでこのバイトが続けられるのかはわからないが、ハッキリとわかっているのは、出来なくなるその日まではやる、ということだけである。

10日も労働をやらないでいると、筋力はよわまる。体は正直である。相撲で言うところの三年先を見据えて、1日1日を怠らない暮らしを、(老いの稽古を持続)臆面もなく打つが古稀を過ぎてからは、なんとか実践している。AIに聞けば、いろんなことを教えてくれるだろうが、教えてもらったことを、実践するのはあくまでも自分の体である。


2025-09-07

キーボード無しで打つ、近づいてきた、10月12日の縄文野焼き祭りに想う、今朝の五十鈴川だより。

 キィーボードをコーヒーで濡らして使えなくしてしまったので、金曜日から3日連続画面に直接打っている。まだ慣れず時間はかかるが、慣れればキーボードは不要になるので、このまま画面に直接打つ訓練を続けることにした。

ところで、同年齢の他の方はいざ知らず、当たり前だが老眼が進み、運転には眼鏡は必要ないのだが、本を読むのには必須である。老眼鏡さえあれば、今のところまったく生活には支障がない。が、確実に眼は衰える。眼だけではなく肉体のあらゆる機能が上向くことはない。冷厳な摂理である。だが、その事への心の配慮はできるだけ先伸ばしにしたい、というのがいまの私の心境である。(現状維持、今日やれたことを明日もやる)


今日、今やれることにのみ集中して(よく休みながら)1日を過ごす、その事にのみ重きを置いて生活することにしか、志行、思考しないように心かけている。

ある日突然のアクシデントが起こるのが、人生の摂理と受けとめ、その時に対処(出来るだけ受け入れる)するためにも、今日を悔いなく生きることが肝要なのだと、我が身にいいきかせる。

話は変わる。この2日10時間近く良く睡眠をとったおかげで、夏の疲労が取れたのか、今朝はすこぶる体が軽く感じられる。日中は今だ暑いが、朝夕はいいくぶんしのぎやすくなってきた。

さて、いよいよ猪風来さんの10月12日の縄文野焼き祭りまで、一月とちょっとに、迫ってきた。

野焼き祭り実行委員会の一人として、無い袖は触れないし、やれることしかやれないのだが、出来るだけやれることをやって当日を迎えたいのだ。来週から、土曜か日曜の1日、毎週末猪風来美術館に行こうと思う。

そのために考えたのだが、五十鈴川だよりを読んでくださっておられる方で、ボランティアしてくださるかたが、(もし一緒に行ってくださる方が)いればありがたい、のである。募りたい。ただそれを思い付いたので打つ。(直接ご連絡いただけると嬉しい)

私ひとりでも行けば、なにがしかの事は出来る。片付け、草刈り、などなど、動けば老人であれ、祭りの一員になれる。私は縄文野焼き祭りに参加し、その一員になりたいのである。うまくは言えないのだが、猪風来さんからのお声かけをいただいてから、いわく言いがたい老いの情動の発露が、猪風来縄文の風が、微風が私の体を吹き抜けるのである。

この爽やかな縄文の風は、これから先の老いゆく我が道程を、照らし導いてくれる確信がある。その事が私を美術館に向かわせる。

ps 縄文野焼き祭りをお祝いすべく、250人の参加を実行委員会の一人として、達成したい。

2025-09-06

4人の孫たちに、私が伝えたいこと、今朝はこのような五十鈴川だよりになってしまいました。

 休日は五十鈴川だよりを打つことから始める、ということがルーティンになってきている。66歳の夏からいまの高齢者バイトを始めてまる7年になる。一言7年、そして昨日も元気に午前中だけとは言え労働ができて、ぐっすり寝て起きて、静かに五十鈴川だよりを打てる、ただそのことに言い様のない喜びを覚える。

そしてこの7年のあいだに、今年の8月5日、私は4人目の孫に恵まれた。もし、私が年金生活のみであったなら、きっとこのような穏やかな高齢者生活は送れていない。そのことに思いをいたすとき、この労働アルバイトに巡り会えた事の幸運に、ただただ感謝するほかはない。

この間の、コロナ禍で世間が騒然としている四年前、次女は最初の子供をまさに命がけで生み、私は初めて大きな手術を短期間に3度も経験した。あの体験がやはり大きい。術後すでに4年がたちすっかり健康である。次女は今年二人め女の子が授かった。長女も2年前二人め女の子を授かった。いろいろな思いが去来する。

術後4年が経つ、70歳で企画を再開、私はもう年齢のことは忘れることにした。命が、体が動き、労働意欲がある間は、企画も続けることに決めたのである。すでに打ったことがあるのだが、年金生活だけでは企画はなせないし、よしんば幾ばくかのお金に恵まれていたとしても、体と心が連動しなければ、企画は生まれない。他の方はいざ知らず、私はそうである。

忌憚なく打つが、あくまでもギリギリのところで、基本、汗をながし稼いだお金で生作費を考える。これが楽しい。したがって高額なギャラが必要なアーティストは企画しない。アーティスト自身も土取さんのように、コマーシャルベースに重きを置かない活動を基本にされている、芸能者や音楽家を自ら探す。

企画者とアーティストは対等関係である。お金を有効に、大切に使うからこそ、必死になれるのである。もっと打てば、必死にならない、なれない企画は私にはできない、面白くない。きわめていい加減、わがままな企画者なのである。

知の巨人から繰り返し学ぶ

40歳で企画をすることになったときに、実現できる目算があったわけでは毛頭なったのだが、実現したらお面白いだろう、というワクワク感だけが私を支えていた。あれから33年の歳月が経ってはいても、いまだかろうじてワクワク感がある。だから企画が成せる。

話は変わるが、私が孫たちに伝えたいことは、ただひとつである。生まれて来たのだから、健康に、一回個っきりの人生、自分がワクワクする時間を見つけて欲しい、ただそれだけである。あくまで自分のリズムで、体が気持ちのいい、没頭できる時間を過ごして欲しい、のだ。

そのためには、お爺である私が、労働であれ、音読であれ、企画であれ、何であれ、できるだけ愉しそうに存在している、お爺でありたいと念願(おも)うのである。

2025-09-05

昨日9月4日、新見市役所で行われた、10月12日の記者会見と実行委員会ミーティングを記録として五十鈴川だよりに打っておく。

本を読むのも体力がいる。

 雨台風が過ぎ去った日の夕刻、寸暇うっている。7月31日、10月12日のフライヤーが出来てから、今日9月5日まで、老人の私にはなにかと多忙な日々が続いている。だがその多忙な日々は、何ものにも代えられないほどの充実感を今を生きるにもたらしている。

さて、昨日は新見市役所で、あさ10時から猪風来美術館20周年記念記念特別企画、秋の縄文野焼き祭りの記者会見がおこなわれた。事実だけを簡略に打っておく。台風の影響もあり、こられているメディアは備北新報と吉備ケーブルテレビの2社、参加したのは猪風来さん、20年野焼きを裏方として支えてきた小林さん、土取さん側から大鹿さん、野焼き祭り実行委員会から大場さんと私が参加した。

猪風来さんが、新見の法曽に来られての20年の歩みの、お礼と感謝の言葉に始まり、20代のおわりから、縄文にとりつかれ、北海道での自給自足での、家族で建てた縦穴式住居での縄文人の心と技を修得する前人未到の、20年の生活含め、おおよそ半世紀、結果、今ようやく自分の縄文造形アート世界への評価が高まり、とくに今年は、開館20周年の節目に、猪風来さんドキュメンタリー映像作品が撮られることも同時進行で進んでいることにも言及、また、先日お亡くなりになった縄文考古学の大家小林達雄先生との交友についてもかたられた。

わずか、一部分をスケッチ擦るにとどめる。そばで、実行委員会の一人として、せつせつ訥々と語る姿を、その壮絶一途な歩みをそばでききいって、感動を新たにした。猪風来さんのお話しの後、おのおのこの稀な企画に参加することになった契機を一言ずつ述べ、記者会見はスムースに予定よりも早くおわった。

その後は、猪風来美術館ではなく、市役所の綺麗な会議室で、各々仕事を抱えながらこの企画に実行委員会として参加しているメンバー、小林さん、大場さん、大鹿さん、Nさん、猪風来さん、私、新見市役所からkさん、Hさん8名で、お昼を挟んで、午後2時時まで有意義なミーティングが行われたことを、記録として五十鈴川だよりに打っておく。

ミーティングを終え、私はよし子さんへの報告をかねて、美術館に立ち寄り、猪風来さんと3人で珈琲たいむ、高齢者ミーティング、いつもよし子さんが珈琲淹れてくださる。この珈琲のおかげで、眠くもならず安全に帰路についている。朝6時過ぎに家を出て、夕刻6時半に家についた。

ps 昨日に続いて佐藤優さんの10年前の本、忘れていることが多いので、新鮮に読める、チビリチビリ、シャクトリムシのように、気分転換の読書が私には必須dある。

2025-09-03

三鷹の下連雀、次女のマンションから西大寺に戻り、夕刻打つ五十鈴川だより。

9月1日夜10時過ぎ東京から我が家に戻り、昨日今日午前中、暑さのなか何とか働き、妻が仕事でなのでお昼を自分で作り(納豆野菜うどん)食べ、お昼寝をして、夕刻、珍しく寸暇五十鈴川だよりを打つ。

次女のところで、岡山での生活とはまったくことなった時間を過ごし、なんというのか時差ボケのような、まだ体のどこかに、あの孫と過ごした時間が濃厚に残っている。が、翌日から2日働いたので、ようよう普段にもどりつつある。

それにしてもいつまでも暑い、8泊9日三鷹の下連雀で過ごしたのだが、東京も暑いとはいえ、次女のマンションが快適だったし、用のないときはほとんどマンションの図書館で過ごし、夜は充分に寝ることが出来たので、事のほか体調がよい。体調が悪かったら、まず五十鈴川だよりを打とうという気にはならない。

東京では持参した3冊の本を、読むことが出来た。いちいち読んだ本のことを書いていない。(写真にアップしているのもあるが)この年齢になっても、本を読まねば、ますます知的好奇心は劣化してゆくとの、思いに駆られる。6月から既に3ヶ月以上の暑さが続いているが、チビリチビリ、本を読むことだけは持続している。

前回、今後は孫たちに読み聞かせるための絵本を探すという、新たな読書意欲が灯ったのも幸運である。五十鈴川だよりを打つことも、草刈りをすることも、音読をすることも、あらゆることに通低(私の場合)するのは、あまり気が進まなくても、とにかく始めるということである。

それくらい、私の体はいい加減である。そのことを私は知っている。何事もやっているうちに、自然に捗ってゆくということを老いつつも我が体は知っている。これは決して自慢話を打っているのではない(そう思われても、もう古稀をすぎているのだからまったくとんちゃくしない)。

18歳から世の中に出て、お金に不自由する暮らし、お金にはまったくといっていいほど、今もだが縁のないない生活をしている私である。だが、なんとか生きている。その秘密はたぶん、おかねが無くても、お金には依存しない、 身の丈に合う、ヤドカリのような、その日が何とはなしに、生活できれば良しとしようってな、くよくよしない能天気さが、私を救ってくれているように思う。

老いるにしたがって、目も耳もよわくなり、そうなると根気も、持続力も今後はすべては下り坂、初めて経験する未知のゾーンを日々生きるしかない。自然の摂理を生きるにしても、私なりの方法の様なものを見つけたいという、いわば一日でも長く前向きの姿勢で在りたいと願うのである。


さて、いきなり話は変わるが、明日は猪風来美術館 20周年記念特別企画、縄文野焼き祭りの記者会見が新見市役所で行われる。私も参加することになっている。この年で初めて経験する未知の記者会見、ちょっと緊張するが、仕方がない。

それもこれもヶセラセラ、猪風来さんと出遭ってしまったからである。猪風来さんは私の老いゆく体に、縄文の新鮮な風を吹き込む稀人である。昨年秋よもやまさかのお電話を頂いてこのようなことに成ろうとは、正直思いもしなかったが、事実は小説よりも奇なりである。


ps 今日の写真は2008年に求めた、この20年近く私が最も読んでいる佐藤優さんの本、新しい本ばかりではなく、繰り返し読んで学ばせて頂いている。無学、無知蒙昧、井の中の蛙を、今も思い知らされる。


2025-09-01

次女のところ、下連雀で打つ8回目の五十鈴川だより。(最後の夜、葉に読んだケチャップマンの絵本で私は気づいた)

 昨日はあれからマンションのすぐそばの稲城の里山を男5人、暑い最中、朝9時15分に家を出て里山散策に出掛けた。汗だくになりながら、小さな藪虫に見舞われながら、葉とノアは時に気弱な声をあげながらも、約一時間の里山歩きを完遂した。周さんがカメラをもって、終始子供たちに声をかけ励まし、レイさんも冷静に子供たちが雀蜂ほかの危険を避けるための声かけも怠ることはなかった。

あの暑さの中の、午前中男だけでの3世代散策、いい思い出となった。里山からは大都市東京が一望に望める。終えて男5人ヤオコーというスーパーにたちより、昼食の買い物をして10階のお部屋にもどる。すでに長女と娘の未彩が帰ってきていた。ミアはパパっ子で一晩離れていただけなのにレイさんにあえて大喜びしていた。私とはずいぶん直接会ってはいなかったものの、リモートではよく顔をあわせていたので、ちょっとはにかんではいたものの、グータッチすると、さりげなく応じてくれた。

周さんが早速ソーメンをゆで、レイさんがテーブルを広げ、長女が加わり3人が、お昼の準備をてきぱきとやり、買ってきたお寿司やお惣菜、冷蔵庫の中の残りの食材で見事な食卓となり、7人での賑やかで楽しい昼食となった。私とレイさんだけが、糖質0のビールをいただいた。娘とミアと共に食事をするのは今回初めてだった。お昼からビールを頂き、私はまたもや、我が家族との、なかんずく孫たちとの食事時間、高齢者おじじは暫し感無量であったことを、臆面もなく打つことを、ご寛恕願いたい。

昼食後、ミア、葉とかくれんぼをして遊ぶ。このようなことを何度繰り返してもミアと葉は飽きずもう一回を繰り返す。マジに遊ぶことはお爺にはしんどいのだが、めったなことではないので、リクエストに応えた。娘やレイさんが声をかけてくれ、ようようお開きとなったが、またもやよき思い出となった。

ノアの2段ベッドで20分ほどお昼寝をし、午後2時過ぎ、周さんと葉と私は長女家族とお別れ(ミアはお昼寝していた)下連雀へ。京王線で千歳烏山へ。そこからバスで下連雀へ帰った。(周さんがお昼寝タイムで、葉が少しグズった。稲城のマンションから、あの暑さのなか、荷物と葉を背負って駅まで歩いた。電車のなかで葉はぐっすりとすぐに寝た)

絵本大好きお爺になりたい(葉ありがとう)

戻って一休みした後、私は娘に頼まれイナゲヤ(稲城やではない)といういつもゆくスーパーに買い物へ。戻ってお風呂をいただき、午後6時すぎいつものように夕食。

夕食は周さんがお好み焼きとスープを作ってくれた。お代わり(結局、1枚と4分の1食べた)をするほど美味しかった。レイさんも周さんも調理をこなす。洗濯掃除ほか育児分担は私などの世代とは、おもいもよらない。確実に女性の負担が減っている。

親として、どことはなしに娘たちが、平凡な幸せを共有しているのを、まの当たりにするのは嬉しい。慎ましさのなかに、お互いが労りああって生活しているのを、わずか一週間ではあれど共有体験出来たことは幸せである。

j上京する度に打っているのだが、老いたら、老いゆくなかで、娘たち家族のお役にたてるということが、一番肝要なのだと思う。あくまでもその上で、老いのなかでの企画というものがなせるのであれば、それに越したことはない、といったスタンスである。

さて、最後の夕食を終え、葉とトランプで7並べなどして遊んで、いよいよお寝むの時間がきた。そこへ娘がお爺が明日岡山に帰るので最後に本を読んでもらったらということになり、本を数冊もって(先日三鷹の図書館で私が選んできた本)いざ読み始めたら、なかなかに葉は集中して聞いてはくれない。

ところがその中のケチャップマンのお話し、鈴木のりたけさんの絵本にだけは持続的に大笑いをやめず、結果は同じ本を繰り返し数回、ときおり即興でのお話しも交え、読み聞かせたところ、結果満足して眠りに落ちてくれたのだが、わたしは何か大切なことを葉から示唆された気分になってしまった。

そのことを、いま縷々説明は不可能に近いが、簡単に言えば、私自身がとても絵本の魅力にはまってしまったということなのである。オーバーに言えば、生まれたばかりの風香、ミア、葉が小学校に上がるまでの時間の読み聞かせに、読み聞かせたいと思える本を、私自身がこれから見つけたいというテーマがみつかったのである。

私が一番好きで、得意な日本語音読、読み聞かせを先ずは自分の孫たちにやりたい、との想いが俄然わいてきたのである。その気付きを与えてくれたのだが、ケチャップマンの絵本であったことを五十鈴川だよりに打っておく。

2025-08-31

稲城、長女家族の住むマンション、レイさんの部屋で打つ、寸暇、7回目の五十鈴川だより。

 昨日早めのお昼、周さんが作ってくれたチャーハンで済ませて、午後一時前稲城に男5人が集まった。少しやすんで、タクシーで府中にある市営プールまでタクシーで移動、乗りきれない人数なので、なんとあの暑さのなかを、レイさんは自転車で往復した。

レイさんの部屋に飾ってあった、

簡略に記しておく。午後3時から午後4時半まで、市営プールで過ごした。滑り台が2種類、流れるプール、泳ぐ専用プールが備えられていて、幼児から私のような高齢者まで、家族ずれで大にぎわいのなか、我々も大いに楽しむことができた。当初、私は泳ぐつもりはなかったのだが、レイさんが水着を貸してくれたので、急遽参加したのだが、老若男女が楽しそうに水に浸かっているのを見ているうちに、急に現在どれくらい泳げるか、現在の体力測定を兼ねて泳いでみた。

結果、25メートルを、休み休み平泳ぎ、クロールで10回位を泳ぐことができた。そして思ったことは、やはり泳げる間は、ほんのちょっとではあれ、泳ごうという当たり前のことであった。私が泳いでいる姿を、孫たちの記憶にも残したい、という気持ちもわいてきた。

これからは妻と共に、月に数回泳ぐこともあり、そんな手応えを、私は孫たちとの夏休みの終わりの土曜日のプール体験で得ることとなった。午後5時、再びタクシーで稲城へ。

午後6時、夕飯はれいさんが焼いた特性ピザを、葉、望晃、周さん、レイさん、私の5人で、最高の気分でいただいた。たっぷり頂き、レイさんがチェコのビールとハイボールを用意していてくれたのを頂いた。250メートル泳いだ疲れが、一気に出てきた。

それを感じたレイさんが、部屋の一隅を仕切り、あっという間にベッドを拵えてくれ、お父さんは休んだほうがいいという言葉に甘え、午後8時にもならないうちに私はその言葉に甘え、横になった。

夜中起きたらまだ3時、少し持参した3冊目の本を5時まで読み、再び寝て起きたら7時。ベッドをたたみ、しばらくすると起きてきたレイさんが、あっという間にこれまた手際よく、子供も大人も喜ぶクレープを作って朝食、皆揃って美味しく頂き、朝食後五十鈴川だよりを打っているという次第。

その朝食の時、ママが恋しい葉が少しグズっていたのだが、整然と論理的に、ノアがさすが2年生説得力をもってお兄さんしていたのが、とても私を驚かせた。成長を目撃できたこと、幸せであった。レイさんがグランベリーの干したのを葉に持たせると、あら不思議、葉はいきなり手を突っ込んで食べ、すっかりご機嫌に変身した。

この間の一部始終を静かに目撃していた私は、突然家族の素晴らしさに、じんわり感動した。長女が結婚し、あれから10年の歳月の後、いま私は4人の孫に恵まれている。彼らのいない生活は私には想像だにできない。これから10年後私は存在していないかもしれない。でもいいのである。孫たち4人がひょっとしたら五十鈴川だよりを読んでくれるかもしれない、なんて想像すると、五十鈴川だよりをうちたくなるのである。これから、近所の里山散策に出掛けるので、今朝はこれにて。

PS 今朝の写真は昨年春、千葉のマザー牧場に行ったときにレイさんが撮った写真です。

2025-08-30

土曜日、次女のマンションで打つ6回目の五十鈴川だより。

 今日はこれから長女家族の住む稲城に男だけ出掛け、男たちですごし、長女が娘の未彩を連れて、下連雀にきて、女性たちだけで過ごす予定になっている。私は男なので稲城にお供する。親子でプールにゆく予定なのは知っているが、私はプールには行かないで、家で留守番をしていたいと、考えている。

風香をあやす4歳の葉


さて、昨日は吉祥寺で、気のおけない仲間と、私が40年前妻と出逢った通称ハモニカ横丁にある東南アジア系の人達が働く、狭い居酒屋で、4月30日の打ち上げ以来、お酒を飲んだ。

(妻と出逢ったエリアは当たり前、全く別世界的な変貌を見せていたが、面影がそこかしこに残っていて、私を40年前にワープさせるに十分で、そのことがきっと私を昔へと回帰させ、しばし年齢を忘れて饒舌になったのは間違いない。

その横丁は今や多国籍人が、闊歩、人種の坩堝と化しかして、一日の終わりに乾杯していた。私は込み合う雑踏で、皆がトンスナショナルににこやかに過ごしているのをある種の感慨をもってって眺めた。これから40年後はいかなる風景になっているのだろう)

私より一回りしたのYさん、Yさんよりちょっとだけ歳上の、女性ふたり、計4名、午後6時半に駅で落合、その後10時近くまでの時間を、愉快にすごしたことを、五十鈴川だよりに短く打っておく。

アルコールと、幾ばくかは世代が近い気安さから、ずいぶん昔の思い出などが、つぎつぎと思い出され、しばし熱い記憶の流出に年齢を忘れてしまうほどであった。愉快な時間はあっという間に過ぎる。このような機会が持てたことは、やはりスパイラルアームズを企画したからこそ、もたらされたのだと、あらためてYさん、Mさんとの、すれすれのご縁を思った。

Yさんの面白い経歴(若き日一年間ブラジルにりゅうがくしている)繊細な優しさ、かつ豪放磊落な一面もあらためて知ることができた。そのYさんのお話し聞き上手に甘えて、結果、かなりきわどい今現在の私のおもいが、本音が発露されたのは間違いない。

ブログを打つことで、かなり内省的な時間を過ごすことができ、揺れる内面の整理ができるし、気のおけない仲間に話を聞いてもらうことの有りがたさ(わがままを)が染みた一夜となった。

ささやかな宴をおえ、吉祥寺から歩いて帰っていると鈴虫の鳴き声が聴こえてきた。ジブリ美術館の近くでバスが来たのでバスに乗った。マンションに着いても眠る気がしなかったので、エントランスで、数十分酔いをさまし、11時過ぎ部屋に戻ったら周さんがまだ起きて、ストレッチをやっていた。その姿を目にとめ横になって、私も睡魔が来るまで静かにささやかな我流の老人腹筋をやってめを閉じた。

2025-08-29

金曜日、下連雀の次女の住むマンションの図書館で打つ5回目の五十鈴川だより。

 もう5泊を娘のところですごし、まるでルーティンのように朝の次女家族の、お手伝いを済ませ、しばし自由時間、一人時間の居場所、図書館で五十鈴川だよりを打つ。

マンションの入口に聳えるヒマラヤ杉

記録として、この5日間、どのようなお手伝いをしたのかを、思い出すまま時系列で打っておく。細かいことは省く、朝食の準備、あさのお掃除、洗濯物をたたむ、洗濯物を干す、ゴミだし(細かく分類して、指示された場所にきちんとだす)買い物(娘のメモにしたがって片道500メートルくらいのところにある地元のスーパー稲城屋まで)昼食のお手伝い(お昼を2回自分で作った)、夕食のお手伝い、(夕食は娘が作る)後片付け、お風呂洗い、午後4時前、葉の保育園にお迎え、などなど。まあ、このようなお手伝いをしている。

夜は葉と同じくらいに早く休んでいるので、8時間は寝ている。そのせいなのだと想うが、すこぶる心身の体調が昨日辺りからがぜんよくなってきている。一昨日も打ったかもしれないが、この3ヶ月にも及ぶ酷暑の疲れが、元気ではあれ、73歳の体の累積疲労が抜け、別の場所、居心地のいい空間で癒されているのが覚る。

さて、今夜は私を含め、男二人、女性二人の4人が集い、会食することになっている。私の上京を機に、わざわざ会いに来てくださる稀なひとたちである。メンバーのいちいちについては省く。私にとっては大切な得難い面々である。(わたしの企画したイベントに参加してくださり、以来関係性が続いている方々ばかりである。日常的な交遊はほとんどない)

前回も少し触れたが、人生の晩節を付かず離れず、しかも気持ちよく共有できる仲間が、私には存在している。私が年齢を省みず、我が儘に突き進むちょっと集客が難しく、制作費が足りないとき、私のカンパの依頼に、気持ちよく応じてくださるまれな方たちばかりである。特に今年の春に企画したスパイラルアームズの企画では、正直想像を越えた応援が寄せられ、その事に助けられ、無事にあのライブを終えられたことへの感謝は、いまも例えようもない。

そのように粋な、もの好きとでもいうしかない面々のお陰で、私はかろうじて(臆面もなく打つが)今を元気に活き長らえているのだ。だがその元気に振る舞える体も、そうはいつまでもは無理である。だからといって体がやれる、やりたいという間は、よしんば実現は不可能でも不断の夢を育む努力だけは持続しないと、そうは簡単には夢の神は降臨しないのである。

40歳から突然企画することの醍醐味に目覚めた私は、途中シェイクスピアの音読に夢中になり、10年近く中断した後、再び70歳から企画を再開したのだが、毎回これが最後という気持ちで、かろうじてギリギリ、企画がやれている。(応援団がいるからこそやれているだけなのである)

なぜ、高齢者になっても企画するのかのエネルギーはどこからわいてくるのかは、私にもよくはわからないが、つまりは、まだ生きて元気であるからにちがいない、と考えている。理屈はどうでもいいのである。やれるうちに、やれる仲間と、というくらいの軽いのりである。芭蕉は夢は枯れ野を駆け巡る、と詠っているが、外見は枯れていても、内側には未だほんのりと燠びが残っている。(のだ)当たり前のことだが、この世に生を受けたからには、死は平等に訪れる。

ならば、どのように一日を生きるのか、生後一月にも満たない風香のしぐさ、寝姿をこの5日間毎日眺めながら、老人である私は考える。

2025-08-28

次女のマンションの図書館で打つ4日目の五十鈴川だより、【今を想う】

 昨日3日目を過ぎた辺りから、次女のところでの、いわば助っ人老人生活も幾ばくかは慣れつつある。が、慣れてはきても、基本的に私には都会生活は、全くダメである。この事について書くのは、五十鈴川だよりでは無理なのだが、やはり生まれ落ちた場所が、まったくの田舎の田園地帯のなかの、回りには他に建物がない家だった、その記憶のなかの原風景が絶対的に大きく作用している(と思う)。

次女の住むマンションの図書館で打つ五十鈴川だより


その事は、年を重ねるにしたがって、ますます自分のなかで大きくなってきているのを自覚している。おそらく次女の助っ人でなければ、先ずもって東京に4日以上滞在するなんてことは、私には出来ない。

話はあちこちするが、人生のいよいよもっての最終章をいかに自分にとって、居心地のいい場所で生活し、なおかつ理想を言えば、充実した生活を送りたい、という願望にそって還暦以後、下り坂人生を五十鈴川だよりを今も打ちながら次女の住むマンションのw考えている。

ヨタヨタ、途方にくれる体験もしつつ、あれから13年、いまを、ありがたいことに穏やかに生活できることに手をただ合わせている。折々五十鈴川だよりを打つことを持続しなかったら、生来の本質的性格に堕落していったのではないかと思える。だから、これからもできる限り五十鈴川だよりを打ちながら、日々を見つめ、ての届く仲間とともに老いながら、可能なら愉快な時間を過ごしたい。

私は今、次女の住む七階ではなく,一階にある、居心地のいい空間である、このマンションの図書館で五十鈴川だよりを打っている。娘たち夫婦が、私のために、フリーになる時間を考えてくれているのが、とてもありがたい。

宮崎の門川の五十鈴川のほとりの、山河の風景のもと、西行の歌になぞらえれば、願わくは、故郷エリアで、お迎えをと、私は祈るが、決して思い通りにはならないことは必定なので、一行五十鈴川だよりに打っておく。

朝からとりとめないことを打つ。明後日長きに渡って関係が続いている友人と会うことになっている。若いときと違って、老いるということは、皆それぞれ千差万別の老いる時間を過ごしているということである。ある日突然に、これまで経験したことのない未知の状況に置かれたりして、以来関係性が遠退いたりする。

私にだって十分に起こりうるのが、未知の老いの世界であることを認識している。だが、無理なく集えるときに会える、仲間友人があるということはかけがえがない。(だってもう十分に明日は会えないのかもしれないのだから)

自分の老いと向かい合う勇気は如何様にして、育めるのか、育めないのか、を考えつつ一日を過ごす、その日暮らし考になりつつある五十鈴川だよりである。そのような折、昨年から猪風来さんご夫婦と親しくさせていただくなかで、自分のこれから歩む指針のようなものが、うすらぼんやりと見えてきた気がしている。あのように自然にただ存在したい、自分に正直に存在するだけで気持ちが、呼吸がしやすい場所でその日暮らしをする。企画も、あくまでも老いながら自然に、やれる範囲で。

2025-08-27

次女のマンションの図書館で打つ、3日目の五十鈴川だより。

風香、生後22日目の足

 水曜日の朝、朝食を済ませ、洗濯物を干し、周さんが葉を保育園に送ってゆく前、一階にある図書館で、(何とも静かで快適な空間)五十鈴川だよりを打っている。

昨日の昼食はミートソースを(次女の指導のもと)私が作って3人で食べ、昼食後ネットフリックスで韓国の弁護士の物語(素敵な女優さんが出ている)を一話みて、夕飯用のハンバーグを次女と共に仕込み、暫しお昼寝、午後4時前、葉をお迎えにゆく。

葉は、風香の出現以来複雑な心理状態にあって、しばし私のお迎えを、てこずらかせたが、なるようにしかならないので、遠巻きに見守るべく、何とか家までたどり着いた。この間のなんとも言い様のない私のやるせなさを、ただ一行五十鈴川だよりに記しておく。やがては全てが思い出となり、蜃気楼のように、うたかたの出来事として記憶に刻まれることを私は願っている。

次女のマンションで過ごすのも3日目となると、幾ばくかなれてきて、一日の過ごし方にも少し余裕が出てきて、昨日はずいぶん本が読めたし、今日も恵島良太郎さんという作家の本を読む時間がとれそうなので、忙中閑あり、うれしい。

次女の旦那、周さんが何かと気を使ってくれるし、プライベートな個人での時間を、快適に過ごす共有スペースがマンションのそこかしこにあるのが、本当に嬉しい。異常な暑さのこの夏の疲れを、(主に労働とフライヤー配布で)岡山を離れ、このマンションで過ごすことで、リフレッシュできそうである。

昨日は、津野海太郎著【生きるための読書】という本を読み終えた。75才から82才のくらいまでの間に読んだ本についての、みずみずしい考察が綴られている。なんとも年齢を凌駕してあまりあるほどの柔らかい筆致に随所で唸らされた。

このような知的胆力のある文章にお目にかかれる、巡り会えることの幸運を、私は勝手に俺は運がいいと、どこかでほくそ笑む。風香のお陰で上京することになり、滞在中に読みたい本をと、23日西大寺の図書館で見つけたのだが、沁みるように読めた。

いつ死んでもおかしくはない年齢で見つけた、著者から見たら数世代後の主に30代から40代前半のかたたちが書いた本についての読書、考察記、である。著者より一世代下の私には、身につまされるほどの刺激を受けた。そして、思うことは、もしこのまま健康なら、いよいよしっかりと80才を見据え、揺れる胸中を引きずりながら、悔いなく日々を生活したいという一念である。

2025-08-26

8月26日、下連雀次女のマンションで打つ、2日目の朝の五十鈴川だより。

 早くも二泊、3日目の朝の寸暇五十鈴川だよりである。昨日の過ごし方のあらましを、時系列でざっと記録しておく。

朝食後、葉を周さんに連れ添って私も葉を送ってゆく。帰って洗濯物を干す。五十鈴川だよりを打つ。お昼は次女の特性ソーメンのタレ作りをちょっと手伝う。凍ったトマトをすりおろして、シーチキンと三つ葉の刻んだのをいれた特性ユニークのタレ。これが抜群に美味しかった事をきちんと打っておく。

85歳のかたの文章、沁みる

昼食後、歩いて10分くらいのところにあるスーパーまで、買い物にゆく。次女に渡されたメモを見ながら、きちんと役に立つべく私は動く。大きなリュックサックにいっぱいの食品を背中に、炎天下歩いて往復、無事に買い物を終えることができた。

マンションに戻って、私は12通主に岡山の友人に、残暑お見舞いの一文をいれた縄文のフライヤーを送る封書作業。その後後暫しお昼寝、夕方5時半、保育園に葉をお迎えに周さんとゆ戻って、全員順次お風呂をいただき、午後6時過ぎ、夕飯。生まれて3週間、次女は風香の面倒を見ながら、買ってきた食材をテキパキト調理し、短時間で夕飯を整えていたのには、さすがに驚いた。夕食後、周さんが台所の後片付けを見事にこなしていた。

全く岡山とは異なる環境での生活をしている。老いては子に従えと言うが、まさにしかりなれど、老人の私は、あれやこれや、時代とのあまりのずれに戸惑いつつも、何とかお役にたてるべく奮闘しているといったところである。

娘夫婦の子育てぶりを間近で、わずか2日といえども垣間見て思うことは、そのあまりのそつのなさである。お互いしっかりと支えあっての子育てぶりには、頭が下がるほどのものである。特に旦那さんの献身的な育児ぶりには、目を見張る。淡々と冷静に感情的にならずに。老人の私は、少なからず今となっては遅きに失した感は否めないものの、彼らの子育て負担を少しでも減らすべく、、と考えている。

4歳になった葉は風香が突然やって来て、ちょっとこれまでとは勝手が異なる生活になって戸惑っている様子が伺えるが、少ない語彙で、必死にもがいている。僅か数ヶ月で驚くほどの成長ぶりを私は感じている。(周さんが保育園からの恒例の朝散歩から帰ってきた。彼はこれからリモートでのお仕事である。私は郵便局に出かける。今日はこれくらいで)

2025-08-25

4番目の孫風香とご対面、三鷹、下連雀の次女のマンションで打つ朝の五十鈴川だより

 昨日最初の孫ノアと(ノアは3日間岡山に来ていた)共に上京、次女に第2子、風香が8月5日に産まれたので、何かと大変な次女の家族のお手伝いに来ている。

岡山には9月2日帰るまで、寸暇下連雀滞在日録を綴り打ちたい。昨日お昼過ぎにつき、ノアのお父さんレイさんと品川で落合、そこから調布に移動、そこで本格的な釜で焼いたピザのお店で昼食。レイさんがご馳走してくれた。

8月25日午前中の母と娘

昼食後レイさんノアとお別れ、彼らは稲城へ、私はバスで吉祥寺駅へ。午後3時、たまたまお仕事で山梨から東京に来ていた、旧友の(春、スパイラルアームズに来てくれた)Kさんと会う。私に会うために、わざわざ新宿から吉祥寺にきてくださったのである。30分弱ビールとハイボールで駅近くのお店で歓談できた。すべては成り行き、会えてよかった。またの再会を約束した。(なりゆきとはなんと不思議であることか、その不思議感覚を私はいよいよ大事にしたい)

吉祥寺から、風香が生まれ4人家族となった次女のマンションに着いたのが午後4時過ぎ、久しぶりの再会、4歳になった葉は照れながらも、私が来たのを喜んでくれているようだった。初めて直接風香を見た。すやすや休んでいた。

直ぐに葉とお風呂に入り、夕食前、葉におしり探偵の本を読んであげた。夕食は、旦那さんの周さんが用意してくれた。チキン、クリームコロッケ、お味噌汁などなど。食後、はみがきをすませ、なんと8時過ぎ、葉とおなじくらいの時刻に寝てしまった。ぐったりと疲れがたまっていたのである。

8月21日夕刻、妻が岡山に戻ってきたとき、長女の7才の最初の子供ノアをつれてかえってきたので、それから22日、23日の二日間は、ノア中心の夏休み海と山川時間を過ごした。(このノア3日間の岡山滞在の濃い出来事はいずれ、岡山でゆっくりと書きたい)

ともあれ、よく寝たお陰で、五十鈴川だよりを打ちたくなるくらいには、体力気力が戻ってきたので、早速五十鈴川だよりを打っている。これから9月2日に帰るまでの日々、次女家族のおお役に立つために、わたしのやれることを、との殊勝な気持ちでいる。そばに風香がみえる。今日が初日、まずは午前中の買い物からのお手伝い。私は一日一日を前向きに、面白がる役立つおじじでありたい。

我が娘、共働き、都会の子育て世代の実相をわずかな日数ではあるが、共に体験できるのは、老いゆく私にとっても、貴重な時間、その事を共有したい。

2025-08-20

猪風来さんのドキュメンタリー映画、制作発表記者会見を見届けた、翌日の五十鈴川だより。

 妻が上京し、8泊一人での生活を過ごした。明日の夜には、長女の7才の孫と共に帰ってくる。孫は3日ほど我が家に滞在、24日に今度は私が孫を連れて上京する。今日は午前中3ヶ月に一度の健康診断、いつもと逆で午後仕事にでかける予定である。

さて、昨日は、13時半から約1時間、新見市役所で猪風来さんのドキュメンタリー映画の、パイプラインによる制作発表記者会見が行われた。私はその記者会見を会場の片隅で聞き入った。やはり遠路駆けつけてよかった。

その場に居合わせたことでしか、感じられない、ある種のさあ、いよいよ始まるのだという独特の緊張感を感じた。東京からパイプラインの社長、Nさん(映画を撮ることを覚悟した)他2名の方がこられ、思い、意気込みの深さが伝わってきた。

猪風来さんも短い時間のなかで、縄文世界に導かれ50年、結果、自分の歩み、自分が見つけた縄文の心、体得した縄文造形世界の美、その奥深さが、映像化され、世界に発信されることの、嬉しさをしっかりとお話しされた。今年の2月からの、意外なことの成り行きの展開、わずか半年で、制作発表記者会見が行われたことに、どこか感無量の面持ちであった。私はその一部始終を見届けるためだけに出掛けた。

共に見届けた、相棒瀬政さんとは彼の家の近くで朝9時半に待ち合わせ、ふたりで一路新見に向かった。瀬政さんとは今年になって、何度もミーティングほかで、お互いの車で運転、往復道中時間、同世代、あれやこれやの、思いつきの会話をしながら、ドライブしている。吉備中央町からたかはしを抜け、高梁川に沿ってドライブ、井倉洞を越え新見へ。新見は山奥、田舎育ちの私には、寂れた故郷を思い出させる。


昨日も、車内で行き帰り往復4時間以上を車内で、あれやこれや高齢者よもやま話ができ、またもやよきおもいでができた。新見には11時半につき、お昼をとお店を探すも、なかなか手頃なお店がなく(お休みだったりして)、市内をうろついたのだが、美味しいランチ(私が運転したので瀬政さんが昼食をご馳走してくれた)になんとかありつけ、ゆっくりと昼食をして、記者会見に臨めた。

記者会見が終わり、猪風来さん、パイプラインのかたは市長表敬訪問、すべてが終わったのが、午後3時半、私と瀬政さんは、新見市役所から猪風来美術館に立ち寄って、お茶と美味しい桃をよし子さんからいただき、一路岡山へ。

夕闇迫る午後6時半、市内で瀬政さんを下ろし(市内から瀬政さんは自宅へ歩いた)我が家についたの午後7時を回っていた。長い往復路、一人で運転、家族の花、メルのケア、ほかを済ませ、一人での夕食、お風呂を済ませ、午後9時過ぎ眠りに落ちた。

PS 今日の写真は、ドキュメンタリー映画を撮ることを決めた、覚悟したプロデューサーNさんの一文です。

2025-08-19

フライヤー配布、タイヤパンクで巡りあったKさんから、昨夜お電話を頂く、そして想う。

 今日は午前中労働はお休みした。今日は午後1時半から新見市役所で、猪風来さんの映画の発表記者会見がおこなわれるからである。

今年2月、ドキュメンタリー映画を撮っている東京のパイプラインという制作会社のNさんが猪風来美術館を訪れ、これまでの猪風来さんの縄文造形作品を直接体感、衝撃を受け、猪風来さんの思い、魂を、全世界の人々に【猪風来と縄文を世界中の人に知ってほしい】、唯一無二の人間が創った、唯一無二の作品群を後世100年後の人々にも伝えたく、猪風来という傑出人間の映像化を決断したのである。


昨年秋から、こん秋の【縄文野焼き祭り、開館20周年特別企画】のために、猪風来さんに請われ頻繁に猪風来さんよし子さんと密な時間を共有し、その人柄のまるで縄文人が、現代に飄然と生き返ってでもきたのではと、おもわせるほどに、ぐんぐんと私はその唯一無二の存在感に引き込まれている、自分を感じている。

だから、今日私が新見の記者会見にゆくのは、とりたてて自然なことで、オーバーではなく、歴史的必然とでも言うしかない。映像化、世界配信という画期的な快挙である記者会見に立ち会いたい、ただそれだけのいわば、ミーハー老人でありいたいだけなのである。

話は変わる。前回の五十鈴川だよりに、パンクの出来事で、思わぬ82才の先輩昭和快男児に出逢えた幸運を綴った。長くなるので割愛するが、私はこのKさんに猪風来さんの秋のフライヤーを5枚ほど手渡しし、私の名前、住所、電話番号とブログ五十鈴川だよりを手書きし、お渡ししたのだが、昨夜午後7時頃Kさんから、予期せぬお電話を頂いたのである。

先輩からの、第一声は五十鈴川だよりを読みましたよ、との一言であった。Kさんは名前も住所も電話番号も教えてくださらなかったのだが、私は何としてでもこの先輩とは関係性を持続すしたかったので、メモを渡しといて本当によかったと、安堵した。

Kさんは近所に、岡山の経済人、文化人が遺した由緒ある家が、故人の資料展示スペースとなり、今もいろんな文化的なことに想いを寄せる方々が訪れるので、そこにフライヤーを置きますと、おっしゃったのである。そして猪風来美術館に必ず行きますとも。

リモート会議、メール、世はまさにデジタル世界が覆っていて、今時手渡しフライヤー配布行脚など、お笑い草、一笑にふされそうだが、猪風来さんの思いの丈のイベントであるからこそ出来るだけのことである。

縄文世界の豊かさを伝えるのは、わたしの任を超えている。が、私のような人間でも足繁く美術館に通って、猪風来さんの(よし子さん、原野さんの作品を含む)邪心のない造形作品にふれると、現代のこの世を覆う閉塞感から暫し、解き放たれる自由な感覚がある。ピュアになれる。その実感が老人の私にエネルギーを注ぐ。そのスピリッツが。

なんとか250人、猪風来美術館をまだ知らない、行ったことのない方々を10月12日の猪風来さん渾身の縄文祭りに、足を運んでほしい。ために私がやれることに専心、遊ぶように【今】を苦楽したい。

PS 今朝の写真は我が家の猛暑に耐えて、地面の近くに一輪咲いていた朝顔です。

2025-08-17

フライヤー配布行脚のなか、山道でタイヤがパンク、昭和快男児に助けられ想う今朝の五十鈴川だより。

岡山に移住して33年になる。その間クルマの運転をしているがタイヤがパンクをしたことはなかった。が昨日タイヤのパンクを経験した。その稀なアクシデントで出逢えた、稀な家族の人たちのことを、今朝の五十鈴川だよりで、なにはともあれ、短くともキチンと打っておきたい。

私のそばを離れない花

山道でこの年齢で、初めてパンクなるものを経験して、改めて一夜開けて思うことは、無償の善意、山道で親切がこんなにも嬉しく有り難いものであるのかという事がしみた出来事だった。ましてや、このような殺伐とした、出来る限りヒトとの面倒には、関わりたくはないというのが現代の世相の中、稀な家族に私は出逢った幸運を、何としてでも五十鈴川だよりに綴らずにはいられない。

昨日私は午前9時、猪風来さんの秋のビッグイベントのフライヤーの配布(24日から、来月2日まで上京するので、それまでは配布を終えたく)に出掛けた。建部、久米南町、津山の、文化センター、図書館、ギャラリーなど、8ヶ所にに配布、お昼は持参したお弁当を車の中で食べた。

午後まだ時間があるので、もう少し配布したく、津山から初めての山道(山越え)で吉備中央町を目指したのだが、想像以上の狭い山道で、崩れ落ちた石や木片が路上にずいぶんと転がっていて、車を降りて、2回ほどその石や木片をどかしたりしながら、その細いやまみちを注意深く運転、抜け出し、吉備中央町に近い広い道になんとか出たのだが、そこでタイヤに異変を感じ、すぐに路肩に車を寄せタイヤを確認すると、前の右側のタイヤがパンクしていた。

そこからの、ことの顛末を簡略に記しておく。困った私は、とにかく誰かに応援を求めたく、通りすがりの道行く車にてをあげたところ、すぐに50代位のご夫婦連れと、私の子供くらいの年齢の男性が止まってくれ、即手際よく鮮やかに頭が下がる対応してくださったのである。(保険会社への連絡ほか)、単なる親切の範疇を越えてきぱきと、対処してくださったことへの感謝を、五十鈴川だよりにキチンと打たずに入られない。

結果、私の子供くらいの年齢の男性が、現場から15キロのところ、真庭の落合にすむお父さんに電話を掛け、お父さんを呼び出し、急を聞いて駆けつけた父に、息子さんがタイヤをはずして、その後を任せ、ご夫婦と息子さん3人は、お名前と連絡先の電話番号を、どうしてもを教えてくれず風のように去ってゆかれた。

その後、私はお父さん(82才とは思えない軽快な身のこなし、びっくりした)の運転する軽トラックで久世にあるイエローハットでタイヤを購入し、再び現場にもどった。(私の車には予備のタイヤもなくジャッキもなかった)

購入したタイヤをお父さんがとりつけた。(私はタイヤを持ち上げるのをてつだったばかり)この息子にしてこの父親あり、連絡先、電話番号を教えてほしいと何度頼んでも、頑として教えてくださらなかった。

現場から、久世のイエローハット往復の軽トラックのなかで、車中82才の、人生の大先輩とまさに一期一会の会話のなかで、深く印象に残ったのは、私は特定の宗教は持っていないが、困った人がいたら、出来るだけの対応をしているだけだと。因果応報、すべての行いは自分に返ってくる、とおっしゃったのである。

飄々として頑固一徹、だが温かくて優しい、昭和の快男児に、わたしは、、フライヤー配布の山のなかで出遇った。

ある夜の出来事という古きよき映画がある。ある夏のお盆の日の山中での、私の忘れられないパンクの出来事、宝石のような思い出となった。あのご夫婦と、あの息子さん、そしてあの爽やか昭和の快男児に、何としてもまた会いたい。表札を見たので、姓はわかっている。

2025-08-16

8月15日敗戦の翌日の朝に思う、五十鈴川だより。

 私の父が書き残してくれた一文がある。北朝鮮からロシア軍に追われながら引き揚げて来た体験記である。タイトルは【私は生きている】。当時3才の姉と生後半年の兄を連れて、4人での命からがらの書ける範囲での極限記である。

無事に引き揚げてきて、両親が生き延びたからこそ、私を含めたその後3人の男子が存在している。もし両親が引き揚げてこれなかったら、私は存在していない。このようなことをいきなり書き始めたのは、8月5日次女の代2子、女の子風香が、暑い夏の日の午後2時過ぎ無事に産まれたからである。あれから11日母子共に健康に育っている。

命は現れ、命はみえなくなる。

妻は12日から次女のお世話で上京している。戻ってくるのは21日、この間私は独り暮らし、既に4日が過ぎた。今週も何とか午前中は働き、こうやって五十鈴川だよりが落ち着いて打てる土曜日の朝を迎えている。

家事身の回りの、生活を妻なしで全てこなすのは、7年前最初の孫が授かってから、折々年に数回やって来たので、今では慣れて、炊事、洗濯、掃除買い物、などなど苦もなくやれている。

想えば、世の中に出た18才から、今に至るもギリギリ生活を(はためにはともかく)ずっと続けているような感覚がある私である。縁あって生活を共にして39年、夫婦といえども、やがてはお別れの時がやって来る。このようなことを書くと、縁起でもないと言われるのは必定である。が私は、敢えてまだこうやって、かろうじての思考が出来るうちに、現在の私の思いを打っておかないと、思うのである。(ボケてからでは悔いが残る)

それはやはり、私は生きている、という無き父の一文を、特に古稀を過ぎて繰り返し読み、その事が私に五十鈴川だよりを打たせているからである。命というものの無常を物心つく頃から、今に至るも考え続けて来たからこそ、(長くなるからはしょる)いまも企画が時折なせているという自負、自覚がある。

ささやかな庶民生活者の一人として、ようやくこの年齢になって身に染みて沁みて思うことは、与えられた命を全うすることがいかに困難であるか、という冷厳な定め、事実である。生命は儚く、人生は理不尽、不条理である。幸い私は、今を生きて、家族に恵まれ、新しい孫にも恵まれる、という人生を今は送れている。新しい命は、老いた私に訳のわからないエネルギーをくれる。何故なのか。(わからないが、眺めていると元気がわいてくる)

一度の人生、何かのお導き、直感に従って、いまも葦のように揺れて生きている私である。妻、娘、孫、友に恵まれ思うことは、縁あって巡り会えたかけ換えのない存在達の役に立ちたい、という殊勝な心構えの成長感である。

老人ではある。が、私なりに何かのお役に立てる老人で在るためには、何をなして日々を送ればいいのか、いけないのかを、老いたハムレットのように、考え続ける持続力をみつけたい。(正解や、正義などというものは、いまやない時代である。そのような時代に猪風来さんご夫妻に巡り会えたのは、啓示である)お盆、敗戦記念日、妻が帰ってくるまで、一人時間を大切に過ごしたい。

2025-08-11

Yさんの手作りの品に感動する。フライヤー配布の疲れが一気に吹き飛び、そして想う。

 お休みの日の始まりは、五十鈴川だよりをまず打つことから、スタートするように、このところなってきている。取り立てて、特に打つ気にならない、気乗りがしないときでも、敢えてなにか、うすらぼんやりと、タブレットを開き画面を眺めていると、指先が動き始める。

五十鈴川だよりを打つことで、精神的な安寧、精神の調節機能が保たれて、日々の生活が送れている(とおもう)。ながれゆく日々、心の整理整頓をすることで、一日を新たに生きられる。(のだ)

Yさんの、手作りの品、有り難し。

さて、一昨日夕刻思いもかけない有難い品物が届いた。頂いた。2013年、働いていた中世夢が原で私は日韓パーカッションフェスティバルを企画したのだが、その際に観客として、当時NHK岡山放送局にスタッフとして勤務しておられたYさんと面識を得た。

長くなるのではしょるが、御会いしたのはその時が一度だけである。(現在は東京のNHK勤務)

その日、Yさんは打ち上げにも参加、素晴らしいライブであったと、興奮冷めやらぬ面持ちで私に語りかけてきた。面白い人であると思った。そのとき名刺を頂きNHKに勤めておられるかたであることを知った。以来お年賀状をやり取りする関係は続いていたが、お会いすることはなかった。

2度目の再会が実現したのは、4月30日スパイラルアームズのライブに駆けつけてくれたからである。Yさんは2013年の日韓パーカッションフェスティバルでの土取利行さんの演奏に大感動されていたので、その事もあって、案内を送ったところ、チケット代とカンパがある日突然、私の口座に振り込まれ、あげく岡山までご夫婦でライブに足を運んでくださったのである。よもや来てくださるとは思わなかった。

その日、Yさんは土取利行さん率いるスパイラルアームズの演奏にも大感動され、またもやその日の打ち上げにも、2次会まで参加された。その事からYさんの人柄にいたく打たれた私は、この方とは長く付き合いたいと決めたのである。

ということで、10月12日の【魂の縄文ビッグバン、秋の縄文野焼き祭り】のフライヤーを送ったところ、仕事の都合で参加できないとのご丁寧な一文とともに、彼が手作りしたという、梅干し、梅ジュース、梅酒、2種類の梅ジャムが届いたのである。私は熱いものが込み上げた。

以下、ながくなるので割愛するが、人間というものは、表面上うかがい知れぬ、豊かな内面性を秘めている存在であることを、あらためて思い知らされている。特に春のスパイラルアームズを引き受けたことで、私を支え、応援してくれた方々のことは、私の意識がしっかりしている限りは、大事に関係性を持続したいと思いしる。

自分がされて嬉しいことを、可能な限り、お世話になった友人、知人には、私のやれる範囲で応える。その関係性を持続大切に生きる。Yさんのお品物は痛く老人の今の私の心を揺さぶる。

最後に、さきの打ち上げの場で、私が送った、私の父が死ぬ半年前の文章のことに触れ、Yさんの父上も関東軍におられたとのことを話された。その事で一気にYさんと私の間の距離が近づいたことは間違いない。8月下旬上京するのでYさんと語り合うのが楽しみである。

2025-08-10

二どめの妻とのフライヤー配布を終え、8月10日の午前中に想う、五十鈴川だより。

 鹿児島や福岡の集中豪雨の報が伝わる。宮崎出身の私は、土地勘があるために心がざわつく。天変地異を直接経験したことがない私には、想像力、理解が及ばない。ただ直感的に、現代文明社会、都市型インフラ快適便利生活をなが年にわたって享受してきて、私などは正直、ある種災害に鈍感になってきている。この年齢になるといざというときに、体がまず敏捷に動いてはくれないのではないかとの危惧がある。何時なんどき我が身に起こっても不思議ではない時代を迎えている。そういう認識はある。

18才銀座の酒屋でアルバイトの私

話題をかえる。昨日午前中義父のお墓参り(妻と雑草を抜いてきれいにした)を済ませ、妻と二人で、(2度めの)午前10時過ぎから、フライヤー配布に出掛け、岡山市内の図書館3ヶ所に配布した(幸町、中央、浦安)。お昼は岡山市内南区のとある焼肉店(そのお店にもポスターとフライヤーを置かせてもらった)のランチで済ませた。

午後は倉敷美観地区に移動。スパイラルアームズの時に配布したエリアをメインに歩き回った。美観地区は、ライブハウス、古本屋、カフェ、雑貨屋さんなど、8ヶ所に配布、午後2時半持参したフライヤー400枚、ポスター15枚が配布できた。自分一人ではこのようにスムーズ配布はまず無理である。相棒の妻とのコンビネーションがあったればこその、早業配布であった。午後4時前、予定よりもずっとはやく家に戻れた。

12日から、妻は次女家族のお世話で10日ほど上京、私も25日から9月2日まで交代で上京するので、昨日は二人してかなり動いたのである。フライヤーが出来てから、わずか10日間で、わたしが預かった枚数3000枚のフライヤーのうち2500枚はすでに配布を終えた。残りは、岡山市内の色々なお店に、私が上京する前までに終えるつもりでいる。

この酷暑のなかでのフライヤー配布が、思ったよりもずっと早く進んでいるのは、やはり40才から何十年も配布してきた蓄積、老いてはいてもやはり体が勘を記憶しているからだとおもう。それと今回はやはり妻のアドバイスが大きい。一行感謝をキチンと打っておく。

今日はOFF、妻は仕事に出掛けたので、一人時間、友人諸賢に暑中見舞いをかいたりしてすごそう。動と静の往復、動いたらやすむ。メリハリ、もう十分老人なのだから。ところで昨日思いもかけない方から品物が届いた。その事は明日綴ることにする。

PS 銀座の酒屋でアルバイト、18歳の貴重な写真です。髪がふさふさ、そして長い。移ろいを残酷なまでに実感。でも振り返り、全く悔いはありません。やがて色々なことが思い出せなくなる。だから五十鈴川だよりを【今】打っているのです。整理していたら出てきた写真です。ゆっくりと、先ずは今を生きながら、過去の整理も進めたく思うさいきんのわたしです。


2025-08-09

8月5日、次女に2番目の子供が生まれ(女の子、風香、ふうか)、そして想う五十鈴川だより。

 土曜日の朝が来た。涼しい。蝉も啼いていない。一昨日午前中雨であまりの嬉しさに、カッパを着て、いつも通り労働した。炎天下で働くよりもずっと気持ちよく働けはかどった。待ちに待った雨、雨に歌えばではなく、雨に働く。

ヒイヒイいいながら、どこかで老齢を感じながらも、ギリギリ知恵を絞りながら、一日一日をしのぎ、今週も月曜日から昨日まで午前中無事に働き、午後3日間フライやー配布をすることができた。

遮光土偶、風香に目がそっくり

立秋を過ぎ、昨日の夜は、何時以来か熱帯夜ではなく涼しく、あっという間に眠りに落ち気持ちよく快眠できたので、こうやって五十鈴川だよりを打てるということが、疲れてはいるのだが、嬉しい私である。

さて、私の日常生活のなか5日火曜日嬉しい知らせが、午後スマホに届いた。次女に二人目、女の子が無事に産まれ、母子共に健康で安産であったとの知らせである。これで私は4人の孫のお爺となった。

生まれたばかりの新生児はまぶたを閉じている。猪風来さんのお話の縄文遮光器土器の瞼とそっくりである。あらためて、猪風来さんと出会わなかったら、ここまで真剣に我が孫の誕生したばかりの顔をこんなにもしげしげと見ることはなかったかもしれない。

私の五十鈴川だよりは、何の脈絡もないことを綴ることがおおい。読んでくださっておられるかたには、またかと閉口することが多いかもしれないが、ご勘弁あれ。お子さんもおられず、ましてお孫さんもおられないかたには、私のこの年齢での心持などは綴っても、、、。とはおもう、がこればかりは、親にさせていただいたり、孫を授かったものにしか感じられないのは、いたしかたない。

話をかえる。私は若い頃、自分が結婚して、家庭をもち、人並みに平凡な生活が営めるなどというイメージを持ちにくい放埒な生き方をしていたがために、初めて我が子と対面したときの驚きは言葉では表せない。忽然と私は過去を捨て、変身した。長くなるので割愛するが、何としてでも、我が家に舞い降りた最初の赤ちゃんを二十歳になるまで育てなくてはと決めたのである。

あれから36年の歳月がながれ、最初の赤ちゃんである長女は今や7歳と2歳の(男の子と女の子)そして次女に二人目が(4歳男の子、女の子)が授かり、私は4人の孫のお爺となったのである。

年齢的にお迎え、死を意識する(しないといけない)考えることが多くなってきて、逆説的に、我が人生は(臆面もなく打つが)輝き、若い頃とは比較にならないほどの喜びが(苦楽が)増えてきている。物質的な喜びではなく、ただ生きている有り難さ感覚が深まる喜びとでも言うしかない何かがである。

その感覚的な有り難き多幸感をこれ以上綴るのは、野暮なのを承知で打つが、新生児の輝きはそのあまりにも初々しいしぐさの丸ごと全部が、老人の私に降り注ぐのを私はじっかんしている。2日目には眼を明け(まだ見えないが)、3日目には指をしゃぶり始めている

7年前、ある日突然、我が家に最初の孫が舞い降り、5日に産まれた4人の孫の存在が、私の晩年時間を彩るであろうことはまず間違いない。だが単なる猫可愛がりの凡庸な老人になるのだけは、御免である。行く末に正解などがあろうはずもなく、私なりの老人ライフを右往左往いきるしかない。孫たちが私に言葉にならない静かな老いのエネルギーを与えてくれている。

PS 今日の写真、良く撮れていなくて申し訳ありません。猪風来美術館で是非とも、ご覧になってください。



2025-08-03

70歳からの、私の企画や、活動を支えてくださる、Iさんの寸暇、真夏の我が家来訪に想う。

 日本列島に暮らすすべての人々が、経験したことのない長い暑い夏を過ごしている。私もその一人である。だが、嘆いていても酷暑はいっこうに収まる気配はない。一日でも早く、秋の気配が訪れてくることを祈りながら、何はともあれ、一日一日を今日もしのいで過ごそうと言うくらいにしか、私の頭は働かない。でもまあ、五十鈴川だよりを打とうと言う元気は、まだ我が体に残っているので、そこのところに耳を傾け、この夏を乗りきりたい、私である。

今日は頂いた本を読みます。

今年は春のスパイラルアームズと、秋の猪風来さんの縄文野焼き祭り特別企画に関わることで、充実この上ない生活を、いまのところ送っているという実感がある。そのような日々をこの年齢で送れていることの多幸感は、私、家族友人が健康であることと、生活上の心配がないというところに起因している。

何度か、年金生活だけでは企画はできないという事実を、臆面もなく五十鈴川だよりに私は打っている。70歳、古稀を迎えてから企画を再開、考えた末、これまでの人生で遭遇(であ)え、数十年にわたって、交遊関係が持続し、私の性格(善し悪しまるごと)をかなり理解してくれているとおもえる方々に、なりふり構わず、企画応援カンパを募ることで、企画実現が叶っている。

そういう利害のない奇特な方々の存在があるからこそ、私の企画が、すれすれのところで成立している。特に今年感じる嬉しさは格別である。私の企画を一貫して応援してくださって揺るがない方々の有り難さである。

臆面もなく打つ。私の企画はかなり集客が難しい。生来のあまのじゃく企画者(仕事ではなく、企画したいアーティストしか企画できない)としては、他のだれもが企画をしない、やりたがらない、しかし本物のコマーシャルにはのらないマイナーなアーティストしか私は情熱が沸いてこないのである。何故なのかは説明できないし、したくもない。

さて、そのようなあまのじゃく企画者に、寄せられるカンパを、私のセンス、感覚で大切に(自分で労働して得られたお金を大切に使うように)使用している。信頼され、信用されるには責任が伴う。私の企画に寄せられる(カンパしてくださる)心ある方々のお気持ちだけは決して裏切らないようにするためには、どうすればいいのか、いけないのかを、考え続けている。

だが、やはり年だからとは思いたくないのだが、やはり年なのである。カンパを募ることに、どこか鈍感になりつつあるのである。一回こっきりのカンパ要請に応えてくださるかたのカンパでと、チケット収入で予算を組むだけ、いたってシンプルなのである。若いときは広告や協賛回りに動いていたが、それはもう止めた。それを私は勝手に年の功だと思っている。

寄せられたお金で企画を成立させるだけである。寄せられた信頼に応えるためにやるだけのことをやる。その一点の覚悟が決まればやるだけである。寄せられた財源、貴重なお金で知恵を絞り企画を実現してゆくことの醍醐味感覚を、(老いの花)体で感じ始めたのである。(アーティストにも、払える額で納めていただく)

潤沢にお金があっても、私の企画は生まれない。寄せられた人の面子、おもいが、が私を鼓舞するのである。汗を流して得た仲間の応援、お金の重みを老いの体で受けとめられる老人力企画者でありたい。何よりも私の心に火がつかなければ動けないし、企画は出来ないのだ。

話は変わる。一昨日金曜日お昼頃、Iさんがわざわざ出来立ての縄文フライヤーを我が家まで、取りに来られた。読んでほしいという坂口恭平さんの本【土になる】と雨宮国広さんの【ばくは縄文大工】、高木恭造さんの津軽弁の詩集【まるめろ】を玄関で慌ただしく受け取った。ゆっくりした時間が持てなかったのは、私が縄文のフライヤー配布に出かける直前だったからである。

驚いたのは本に【寸志】の封筒が納められてあったからである。お別れして寸志のお気持ちにびっくりした。長年、企画する度に応援依頼文章を送り、、チケット付きのカンパ他募ってしのいできたが、フライヤー配布を手伝って頂き、本まで頂き、なおかつ多額のカンパを直接(本に挟んであったのが奥ゆかしい)手渡されたのには心底、今も驚かされている。

企画を成すには、何よりも動かねばならない。現代生活ではガソリン代始め、あらゆる必要経費が必須である。貧すれば鈍す、お金の面だけでのことではなく、どこか心に余裕を持って企画を実現するためには、Iさんのような無私の応援者、存在ががつくづく私に勇気とエネルギーをくれるのである。信頼に応える。だからだとおもう、暑い夏、動けるのは。

PS いつの日にか、カンパを募らず、観客のチケット収入だけで企画が成せることを夢見る。



2025-08-02

わずか二日間で、1000枚の秋の縄文野焼き祭りのフライヤー配布を終えて思う、今朝の五十鈴川だより。

 今朝は8月2日だが、7月31日(木)猪風来美術館で、午前10時から12時まで、3回目の、10月12日の20周年特別企画のミーティングがおこなわれた。

老人の心に灯をともすフライヤー配布の夏

参加者は猪風来さん、よしこさん、猪風来さんご夫妻の野焼きを地元で一貫して支えている古老のKさん、新見市からKさん、Hさん、香川からOさん、予告フライヤーをデザインしたNさん、吹屋の面白人大場さん、相棒瀬政さん、それに私の9人でおこなわれた。

内容は割愛するが、有意義なミーティングが行われ、何よりも待ちに待ったフライヤーが完成し、届けられたことで、一気に秋の本番に向けて向けて、参加者の気持ちが熱くなった事実を五十鈴川だよりに一行きちんと打っておきたい。

一昨日は、私の車に瀬政さんとNさんを、午前7時半岡山でピックアップし、新見へ。9時半前に着いたので、早速ほやほやフライヤーを確認して、郵便局でのキャリアで瀬政さんはお金を数えるのが得意な技を早速活かして、フライヤーを100枚ごとに各封筒に入れる作業をミーティングが始まる前までに速やかにやってくれた。その間、フライヤーが完成して安堵している猪風来さんの話し相手を、Nさんが絶妙に務める。

ミーティング開始前に、私のフライヤー3000枚分は車に納めることが出来た。ミーティング後お弁当を頂き、お茶もそこそこに、私の運転で岡山市内へ。市内でNさんとはお別れし、その後は、運転を瀬政さんにお願いし、県立美術館、県立図書館、天神山文化プラザ、タウン情報岡山と、もう2ヶ所、フライヤーを配布、できたてのフライヤーをその日のうちに400枚以上配布できた。瀬政さんの家で運転を交代、我が家には5時過ぎに着いた。

昨日8月1日、午前中仕事、家で昼食後、妻が絶妙のアイデアを出してくれ、A4サイズの透明の封筒に各30枚のフライヤーを入れたものを、10部以上作り、瀬戸内エリアと、備前エリアに配布に出掛けたのだが(美術館、図書館、ギャラリーなどに)、10部以上効率よく配布することが出来た。

3000枚のうち、1000枚が(昨日お昼、友人が我が家まで100枚のフライヤーをわざわざ取りに来てくださったのも含め)わずか二日間で配布することが出来た。私の体調次第だが、可能ならお盆前までに配布を終えられるかもしれない。が、急ぐ必要はない。お盆はゆっくりとお休みし、週に一度はおやすみのペースで8月末までには、配布を終えたいと、考えている。

暑さの中のフライヤー配布を、妻がことのほか、私の体調を案じてくれて、あれやこれやの、効率的な配布のために、アイデアを出してくれる。老人になると、私のことです。繰り返しのくりごとが多くなるが、そのことをわたしはまったく意に介してはいない。老夫婦2にん3きゃくでの、フライヤー配布なんてまったく期待も、考えもしなかったが、今日は午前中一緒に配布に同行してくれるそうである。意外なことの喜びが、平凡な生活のなかで発生する。

この年齢で肉体労働し、仕事とは無関係に好きな企画を続けていられるのは、これまでに培った我が人生で出会えた稀びとたちが私の企画をささえてくださっているからである。今年は特にお世話になった。お陰で、スパイラルアームズも実現することができた。明日はその事のへの、有り難さについて、伝えられる範囲での、いまの私の感謝の念を記したい。(とおもう)

2025-07-30

真夏の朝、Iさんから嬉しい肉声の長いお電話をいただきました。そして想う。

 7月の労働は昨日でおしまい、朝から水浴読書をしていたところ、Iさんから思わぬ嬉しいお電話をいただき、打つつもりはなかったのだが、結果打ちたくなった。インターネットの普及で、私の暮らしもまた一変してしまって、ほとんどのやり取りはメールになりつつある。

かく言う私だってそうである。だが何度も打っているが、肝心なことはやはり、お便りやお電話が嬉しい。とはいっても、いまさらのこのネット時代、私だってほとんどはメールですませている。

が、最近の動向に関しては知らなかった。(何しろ新聞も止め、余計な情報遮断生活に入っているからである)聞けば、今は熊本にすんで農耕生活に従事しておられ、都会から熊本移住後に書かれた本であるらしい。

Iさんは以前お会いしたとき、津軽弁で書かれたどなたかの詩集も私に読んで欲しいと仰っていた。(情報遮断生活でも、肝心な情報はこうやって入ってくるのだ)

私が急遽五十鈴川だよりを打ちたくなったのは、Iさんのような人に薦めたくなるような本、読んでほしい一人として直接お電話をいただいたからである。現代の私の生活のなかで、このようなお電話は稀である。

Iさんはスパイラルアームズの公演でも、チケットを友人知人にすすめてくださったり、フライやーを配布してくださったり、私のアクションに熱く協力してくださる、わたしにとっては有り難き稀びとなのである。岡山に移住して33年、このような意外な知己(利害関係がまるでない)に出会えたことの有り難さを、一行五十鈴川だよりに記しておく。

PS 蛇足だが、私も五十鈴川だよりに読んでいる本をずいぶんアップしている。いずれも今を生きている生活のなかで精神の糧としている本である。この夏、本に救われている。久しぶりに坂口恭平さんの本を読むのが楽しみである。

2025-07-27

蝉時雨、聴きつつ眺む、夏の雲、今朝の五十鈴川だより。

 昨日も打ったが、やせ我慢の夏である。高温多湿の日本の夏、しかも、気候変動の渦中、オーバーではなく、人類の行く末さえもいやでも視野に入れ、案じるほどの不安を抱え込んでおられる方も多いのではないかと、私などは感じている。

先の参議院選挙で急遽にわかに議席数を伸ばした政党の、党首のアジテーションなどを画面で斜め見すると、直感的に得たいの知れない薄気味悪さを感じてしまう。まさに時代の芻勢は、のんきに構えてはいられないほどに、ひたひたと邪悪な勢力にのみ込まれてしまう危うさを、暫し老人を忘れて感じる。

バッタと共に過ごす夏

この事に関して、今朝はこれ以上打つことは控えるが、あまりにもの熱狂的な、付和雷同する民衆の姿には、一抹の気持ちの悪さを覚える事だけは、五十鈴川だよりに打っておく。

さて、話を変える。6月も猛暑が続いていたが、蝉の鳴き声はあまり聴かなかったのに、私の感じでは7月の19日くらいから、俄然蝉時雨の夏がやってきた、と感じている。日本列島に蝉時雨が一斉にシャワーのように降り注ぐ夏が来ないと、日本の夏ではない。

蝉時雨を聴くと、老人の私はいまだに、少年期の思いでと共に、五十鈴川で毎日(あめや台風で行けなかった日を除いて)泳いで過ごした我が人生の黄金の日々を思い出す。お金や物質的には恵まれてはいなかったものの、いやというほど遊んで飽きるということが、まるでなかった日々を、老人の私は心から懐かしい。遊べる体こそが宝である、と知ったあの頃が。

あまりにも遊ぶことに熱中し、勉学そっちのけで、学校での成績は振るわず、その付けが、いまだに尾をひいていることを、どこかで感じてはいる。が、なんとかこの年齢まで、身すぎ世すぎ生きてこられて、蝉時雨を聴きつつ、五十鈴川だよりを打てることの平凡な有り難さを噛み締めている。

話のまとまりが、なくなりそうなので、これ以上打つことは控える。が、これは極論かもしれないが、いま自分の人生を振り返り想うことは、10才くらいまで、海山川でいやというほどに遊ぶことに熱中した時間が持てたことに限りのない感謝をもつ。(家に全く本がなかった。かえってこれが良かったとさえ今は思える)

遊ぶことに夢中で、勉強しなかったので学校での勉強はできなかったが、小学高学年頃から、気が付くとふつうの成績はとれるようになっていた。成績は他者に委ねられるものではなく、結局は、自分自身に委ねられてゆくしかないという、厳しい自然の掟を、少年期にかすかに感じたことが、なんとかこの年齢まで生きてこられた原点(原因)である。独学の面白さ、自分の成績は自分でつける。(つけたい)

生まれてくる時代、場所、環境を選べない掟をヒトはいきる。蝉時雨はすべての人に訪れる。日本の夏の大自然のプレゼントである。蝉の地上での命は短くも儚い。老いの夏、蝉時雨、聴きつつ念う、有り難さ。

2025-07-26

下半身水浴び読書で酷暑を耐える私の夏、今朝の五十鈴川だより。

 あっという間に、またもやの土曜日がやって来た。この実人生では、ほとんど体感したことのない暑さを、すでに2ヶ月近く過ごして、なんとか五十鈴川だよりを打つ程度の、元気さをキープしていられるのが、我ながら有難いと、ただ念仏を唱えている私である。

その暑さのなかで、草刈り他の肉体労働がやれていることの有り難さ、やる気がいまだ失せていないことへの、我が体への感謝はいくら綴り打っても足りない。決して無理をしているわけではない。10月12日の猪風来さんの、縄文祈りのイベントを終えるまでは、なんとしてでも、我が体をいい状態でキープしてゆくゆくべく、この未曾有のあまりの過酷な夏を、いい感じでしのがなければならない、のだ。

ノートを録りつつ読む、凄い。

年齢を忘れているわけではないのだが、体年齢は、人それぞれである。私は唯一無二の我が体を過信せず、猪風来さんからのお声かけに、わずかでもお役に立てるように、この夏を有意義に生活するべく、知恵をしぼらねばならない。

すでに書いたが、企画をするのには年金生活だけでは、まずもって無理である。だから私はこれまでの人生で身につけた、かなり得意な肉体労働で、我が体を活性化させ、我が体にすがるのである。もっと打てば、それが高齢者のわたしにとって一番の健康法であり、あえて打てば生き甲斐なのである。

遊行期の私のこれからの時間を、枯れつつもいかにいかに生きてゆくのかを考えたときに、想うことは、誰かの(家族を含めた、友人知人すべてので会えた人たちの)お役に立ちたいということである。

話は変わるが、まもなく次女に代2子が誕生する予定である。わたしにとって、4番目の孫である。この7年、我が家族に新しい命が、次々に生まれ、その事が、私を活性化させ続けている。理屈ではなく命の輝きのお役に立つためにも、老いゆく体の健康寿命をキープするためにも、老いの存在理由を正当化、カッコつけるためにも、私は限界まで働きたいのである。もっとカッコつけるなら、その延長で生を閉じられたらと、祈るのである。言うは易しである、が。

さても、また話は変わる。リベラルアーツ、教養、知的レベルのあまりの足りなさを、痛感する游行期を私は生きている。この酷暑をやり過ごすために、私は繰り返し読むに足りる本を、ちびりちびり読んでいる。へーっ、と教えられる度に暑さを暫し忘れる。水風呂に下半身を浸しての読書である。ごぜんちゅうは労働、午後は水浴び読書で猛暑を耐える。やせ我慢の夏である。

2025-07-21

昨日、津山の奥座敷阿波(あば)村を夫婦日帰り旅、今朝の五十鈴川だより。。

 別に自慢でもなんでもなんでもなく、私はこの夏も自分の部屋に冷房を入れたことがない。汗をかいて寝苦しい夜はあっても、時折3方の窓から入る自然な風に身をまかせしのいでいる。

冷房のない部屋で、高齢者が熱中症でおなくなりになった報道を耳にする。妻は冷房をつけて過ごせと、しきりに心配して意見するのだが、あの人工的な涼しさにいまだ馴染まない私である。

滝を目指して山道をゆく妻

いい意味でと思いたいが、耐乏生活とやせ我慢は、痩せた我が体に染み付いていて、瞬間的にはクーラーを受け入れるものの、ずっと続くと、体が拒否反応をするのである。この暑さのなか、なんとか今日までしのいでいるし、体がこの暑さに順応してきているのもかんじている。(あらゆる知恵を絞り、のらりくらりやり過ごしたい)

食欲があり、眠れないということが、私の場合ないので、この夏を今のところなんとか元気に、五十鈴川だよりを打つ程度の気力をキープしているのではないかと、考えている。

新陳代謝のよい体を、意識的に自覚してキープする方法を自分なりに考えて、工夫する。これしか今現在の私には、この暑さの夏をしのぐ対策はない。これが奏をこうしているのだと思いたい。汗をかくときには汗をかく。

その分きちんと栄養を補給し、疲れたらとにかく風の抜けるところを探して、横になる。冷水をまめに浴びる。昼寝をする。熱中する本を読む。などといったところが私の、暑さ対策である。

ところで、この3連休、珍しく妻と私の休みが、同じだったので、昨日急遽津山の奥座敷阿波(あば)温泉まで遠出した。出発は朝7時、着いたのが9時過ぎ、西大寺から吉井川を遡るコースを走ったのだが道がすいていて、ずいぶん早く着いた。

阿波村の一番奥まったところ、渓流が流れていて、手頃な避暑地として、バンガローやグランピング、テントなどが完備されている。食事をするところもあり、夏休みに入ったばかり、家族連れやカップルで賑わっていた。(半分以上は県外車、札幌ナンバーもあった)

標高が700メートルくらいあるので涼しく、急に思い付いて出掛けて良かった。遠出が苦手な妻も、深い山からの涼風と、綺麗な渓流にすっかりご機嫌な笑顔になっていた。暫し渓流に沿って散策していると、立派な茅葺き屋根の民家の庭先で、高齢のご夫婦と友人男性の3人が、お茶の時間をしておられたので、短いゆきずりの会話を楽しんだ。

私が立派な茅葺き屋根ですね、とお声掛けすると、もう私たちでこの家の茅は最後ですと、おっしゃっていた。そのご主人が、せっかくここまで来たら、とても珍しい滝があるので、見てきたらと勧めてくださり、車で滝のすぐ近くまで行けるということで、二人して滝巡りをすることに。大滝、白髪滝、布滝(のんだき)の3つを回ったのだが、これが素晴らしかった。

滝にみいっているときは我々しかおらず、来て良かったねえ、と何度も二人してうなずきあった。性格がまるで異なる我々なのだが、滝は二人とも大好きである。(何枚か写真を撮ったので、順次五十鈴川だよりでアップします)、気がつくと時刻は11時近く、村の中心部にリニューアルオープンした温泉があったので(70才以上は600円)入ることに。夏はあまり温泉には入らないのだが、せっかくなので。

結果は満足した。晩秋又来て入りたいと思った。温泉を出るとお昼。すぐ側に手頃なレストランが併設されていたので、そこでランチ、チキンと、カツのランチ(それぞれ1000円)をいただいたのだが、熱々の揚げたてで満足した。昼食を終え、一路家を目指した。途中コンビニで私はコーヒー、妻はアイスを。予定の午後3時前、我が家に。

短くも、妻と私の小さなよき思い出旅ができたことを、五十鈴川だよりに記しておく。

2025-07-19

蝉時雨を聴きつつ秋を見据えて打つ、今朝の五十鈴川だより。

 暑い夏が続いている。老いた体が悲鳴をあげている。が、今のところなんとか労働しながらしのいでいる。今日から貴重な3連休である。先ずは、五十鈴川だよりを打って、この私にとっての短い夏休みを有意義に過ごしたいと、思案している。

暑さ対策のことは、何度か記している。この暑さの、特に数日前、雨が降るまでの、雨を待ちわびたまでの日々は、このまま雨が降らなかったら、と思うとぞっとした。だから雨が降った日は、慈雨と言う言葉が沁みた。昨日も午前中9時頃までは雨だったが、激しい雨ではなかったので、雨のなか一人草を刈った。

松岡正剛さんは私の先生である

暑さのなか、来る日も来る日も同じような仕事を繰り返している私だが、いつも想うことは、今日が自分にとっては一番新しい日である、ということである。亡き母が、若き日の私が先の見えない人生に焦りにもにた弱音をはくと、今が一番若いと思いなさいと、エールをおくってくれたことを、この年齢になっても臆面もなくありがたく思い出す。

さて、小学2年の孫は夏休みにはいる。セミもようやく本格的に鳴き始めた。私は夏が好きである。幼少期の貧しくも、姉兄弟、両親、私が小学5年生まで全員で共に暮らした愉快な夏休みの、おだやかな記憶の黄金時代が俄に、未だ鮮烈に甦るからである。郷愁である。(井上陽水の少年時代という夏の名曲を聴くと、充分に老人ではあるのに、未だ心がうずく。あの家族の原風景。時代が余りにも急激に変わり果てたとはいえ、孫たちには夏休みの思い出を、と願わずにはいられない)

その事のいちいちを記す事は、今はしないが、肉体労働が不可能になり、企画がやれなくなっても、意識がしっかりとしていれば書いておきたいことだけは書いておこうと念っている。

さて、この暑さのなか、あぶらあせを垂らしながらの読書を、ちびりちびりと続けている。草刈りをするように、続けている。五十鈴川だよりを読まれている方は、また同じ話だと思われるかもしれない。読んでいる本は同じ本であっても、読んでいる私は、変化しているので、昔読んだ本であっても、全く新しい本なのである。

昔は歯が立たなかったなかったわけではないのだが、より深く読める、感じる自分が育って来ている。(のだ)いわば、面白いのである。草刈りだって、未だ面白いから、何処かに充実感を感じるから続けられるのである。草刈り職人、音読職人、企画職人、何かに夢中になる、成れる、そのような悦びが、いまだ私を活性化させる。動くからだのお陰である。

話は変わる。4月30日、スパイラルアームズを岡山で企画したことで、名状し難い老いの喜び感覚が深まっている。それは友人たちとの関係性、コミュニケーションの変化である。(長くなるので、割愛するが、60代までとはまたことなった充実感を、70代になって感じられる喜びである。積み重ねのなかで、脳の神経細胞シナプスが伸びてゆくかのような)

年齢を重ねても、お互いいい感じで再会でき、いきなり阿吽の呼吸で企画チームが組めることの喜び、醍醐味をあの日、4月30日に私は体感したのである。あの喜びを、いまだに私は草を刈りながら反芻する。7月末には猪風来美術館20周年を祝うビッグイベントのフライヤーが完成する。

暑い夏は今しばらく続くが、やがて終わる。草刈りしながら、汗をかきながら、一日一日しのいで秋を見据えて生活したい。

2025-07-13

朝一番、菜園場で、日照りのなか、いくばくかの実をつけてくれた野菜を収穫して想う、今朝の五十鈴川だより。

 朝一番菜園場にいって、乾いた大地にかろうじて実をつけた重宝極まる、ミニトマト、枝豆、なす、シシトウ、ピーマンを収穫してきた。この物価高ご時世老夫婦にはとてもありがたい。

義理の母が、土に触れるのが大好きで、多種類の野菜を育てるのが、上手であった。私のような無精ものが、家庭菜園を継続してやれるなんて、思いもしなかったが、気がつけば、もう6年も、菜園場で野菜を育てている。(昨日はわずかだが、じゃがいもも収穫した)

種類は少ないのだが、充分に食べられる分量を、時には娘たちや友人たちに送って、喜ばれるくらいの玉葱も収穫できるようになってきている。どんなに苦手なことでも、続けているうちに、学習する(している)というのが人間なのである。

日照りで茄子は萎びているが、有難い

始めた頃、妻にお父さんにやれるかなあ、とどこか半信半疑であった。自分でもとてもではないが、母のようには無理、出来ないとは思っていた。だが、手をかければ、それなりに実をつけてくれるということが、経験をとおしてわかってきてからは、楽しさが年々増している。

まして、野菜の高騰が続いたりすると、正に天と地の恵みを実感するし、何より安心で旨い。日本列島は豊かな水、海と山と川の邦である。

一極集中、はあらゆる意味で、人間の心を蝕むように思える。日本の田舎の里山は、恵みの土の宝である。ちょっと大地をお借りして、特に我々のような高齢者世代が、菜園場での楽しみを見つければ、年金生活者にとっては、色々な意味での豊かな晩年ライフが送れるのではないかと思う。

何よりもお金で野菜を買うのではない悦びが見つかるのは、この6年継続してやってみて間違いない。

話が脱線するが、一回こっきりの人生、ただ消費者として、大部分をいきるのではなく、ほんのわずかでもいいから、物を自分で作る。自分の体を、動かして何かを成す悦びを体得してゆく、という喜びを見つけられれば、老いもまた輝くと愚考する。

先ずは何はともあれ、イキイキ健康ライフ。食と生は直結している。喰うということ、喰えるということの、有り難さ、食い物の一部、わずかを自分で育てる喜びを、私はもっと見つけたい。そういう仲間と、飲み食い語り、その上で面白い企画がやれたらと夢見る。お金という概念の無かった一万年以上の、生を受けた環境風土での縄文人(びと)世界の穏やかさに、老人の私は、限り無く憧れる。

水の惑星、この地球に空き缶や、プラスチックのゴミがまったくなく、生と死が穏やかに繰り返され、それはそれは万物生命がかがやいていて、美しかったに違いない。命が経済活動、お金に汚染されず、時間という観念も文字もなく、狩猟採集、住居を創り、人間は歌い、踊り、祈りの土器をそれぞれの環境で創り、ただ存在していたのだろう。(現在、水の惑星は悲鳴をあげている、その上で生活している大多数の人類が、酷暑の夏悲鳴をあげている)

2025-07-12

暑くなる前、菜園場で一仕事したのちの、つらつら考える今日の五十鈴川だより。

 東京やその他の地域では、集中したゲリラ豪雨の映像が頻繁に報じられているが、私の暮らしているエリアでは、余りの雨の降らなさに、我が体まで干上がりそうである。気候変動。識者がいくら訳知り顔に、それらしいご託宣を述べても、どこか釈然としない。

経済格差は降水量にまで、二極化しているのかと、余りのバランスの悪い雨の降りかたに、ぼやきのひとつもでようというものだ。事実としての我が生活エリアの日照りつづきは、やはり自然の一部としての人間の内面にまで悪影響を、与えてしまいかねない。いやすでに度重なる地震報道などで、古さとを一時的に避難しなければならなくなった、トカラ列島の方などの心中を思うと、なんともやりきれなさが、つのる夏である。

今朝の我が家のカボチャの花

充分に高齢な私、このような夏、肉体労働なんかに勤しむ私のことを、妻はしきりに心配する。が所詮なるようにしかならないと、私は何処かで腹を括っている。体があかんという信号を発したら、すぐ休むようにしている。バイト先にも伝えているのだが、早朝や日没前に労働するようにして、お昼前から夕刻までの時間はできるだけ避けるようにして働いている。

五十鈴川だよりを打ちながら、いかにして一日一日、妻との二人暮らし老夫婦生活を慎ましくも、充実感をもって生きられるのか、生きられないのか。

お迎えまで、知恵を絞って考えないと、やすきにながされてしまう。別に流されたっていいのだが、そこが小者の情けなさ、往生際の悪さを生きるのである。

凡人の私でも、このようなことを考える。この閉塞感極まる、いかに老いるか超難時代を、逆転の発想で生き生きとしのいでおられる年長者がいる。そういう方々が、私のお手本支えである。私は非常に横着で、怠け者である。もうこの年齢、人間としての勤めのほとんどの役割を終え、静かにできるだけ好きなことにのみエネルギーを注ぎ、余分なことはせず、猫のようにくらしたい、とただ願っている。

この年齢で今のところ熱中症にもならず労働し、時折五十鈴川だよりを打ち、がまのあぶらのような汗をかきつつ、本を読む。私の暑さ対策、集中力の持続、集中した時間をできるだけ持つ。栄養を摂る。よく寝る。頭で考えない。体が喜ぶことだけ考える。

明後日から大好きな相撲が始まる。相撲だけは見る時間をお惜しまない。もうその他の観ることに時間がとられるスポーツや映像コンテンツは、よほどのことがない限り、人生の残り時間を考えると、手放している。遊行期、日々滋養を頂けるのは、やはり書物である。今日も松岡正剛先生の本を読む。(私には、自分がかってに先生と思うかたがいる、松岡正剛さんはその1人)読書は、著者との対話、教わること限りなし。遅読だが面白い。

ワクワク面白がる精神、好奇心がないと先ず、企画は出来ない。この世とあの世、hereとther,アンパンマンんは言う、何のために生きるのかと。それがわからないと、いやだという。愛と勇気だけが友達だと。すごい歌詞である。やなせたかしさんの言葉を噛み締める夏にしたい。

2025-07-09

令和7年7月7日(月曜)の出来事を記す、五十鈴川だより。

 昨日に続いて、忘れないうちに7月7日の日録をスケッチしておく。10時を少し過ぎて、10月12日に向けての打ち合わせ、ミーティングが始まる。

参加者は猪風来さん、よし子さん。新見市の教育委員会から、お二人。瀬政さん、大場さん、Nさん、香川からOさん、それに私の8人によるミーティング。

事前によし子さんが、打ち合わせレジュメを準備してくださっていてスムースにすすんだ。

1主催、共催、後援、の確認。2当日のタイムスケジュール。3駐車場、送迎について。4申し込み、受付について。5散らし、ポスターの内容と部数を確認。6前日準備、当日仕込み、音響、楽器などの確認。7一部(野焼き)と二部(縄文鼓演奏)への繋ぎの確認。8ボランティアスタッフの役割、分担の確認。

8項目についてのミーティングが約2時間お昼まで続いた。詳細は割愛するが、集客目標の250人達成の成否の要とも言えるフライヤーについて、担当の香川O氏の現段階でのデザインについて、活発な意見が述べら交わされ、その意見の集約を踏まえて、7月31日の次回のミーティングまでにフライヤーを完成させることが決められた。

私は、広報、PR、マスコミ対応を担当する。以下、駐車場、案内板設置等の係。当日受付、物販の係。舞台設営仕込み等の係、昼食バザーなど。送迎について。駐車場、会場事前整備等の項目について、役割分担を詰めることができて有益なミーティングになったことを、五十鈴川だよりに記しておく。

ミーティングを終え、コンビニのお弁当で和気あいあいの昼食を済ませ、なんと新見から車は蒜山の瀬政さんの別荘にと向かった。有漢、真庭、高速で湯原温泉まで。そこから蒜山の瀬政さんの別荘へ。着いたのが14時頃、Nさんは瀬政さんの別荘は初めて。私は何度も来ているが、とはいっても、十数年ぶり。Nさんはすっかりご機嫌で、そばを流れる小さな川で水遊びに興じている。瀬政さんは別荘に風を入れ、野良猫に早速缶詰をあけて、食事を与えていた。

ミーティングのあと、新見から、よもや蒜山へのドライブが待っているとは思いもしなかったので、私は瀬政さんの蒜山の別荘旅を、ただ楽しむことにした。ひさかたぶりの瀬政さんの蒜山の別荘は、全く変わらずそこに在った。Nさんが小川で遊んでいる間、私と瀬政さんは、瀬政さんが育てて6年目のラズベリーの2本の樹が、実をたわわにつけていて、それの収穫をした。(わたしもこんなにも実をつけてくれるのであれば植えてみよう)

七夕の日瀬政さんから
頂いたラズベリー

収穫したのち、瀬政さんが淹れてくれた熱いコーヒーを、小川の涼しい風をうけながら3人で頂いた。思いもかけない蒜山の半日日帰り旅を堪能した。帰りは勝山辺りから高速に入り、Nさんと瀬政さんが交代で運転し、岡山へ。北方郵便局にNさんの車がおいてあったので、Nさんとはそこでお別れ、そこから我が家までは瀬政さんが西大寺の家まで私を送ってくれた。午後時計は7じまえであった。

男3人での思わぬ1泊2日の真夏日の旅は、口に出すのも嫌になるほどの、異常気象猛暑をしばし忘れさせてくれるには、五十鈴川のへの旅に続いて充分な旅となった。これで今年の夏が乗りきれそうである。

2025-07-08

7月6日、日曜日の行動日録、忘れないうちに打つ五十鈴川だより。

 昨日と一昨日、二日間の出来事を新鮮なうちにスケッチ風に五十鈴川だよりに記しておく。

6日土曜日、午前10時に岡山駅で、Nさんと瀬政さんと3人落合、ピックアップしてもらい一路新見の猪風来美術館を目指す。瀬政さんの車、運転するのはNさん。私はただ乗っけてもらった。途中賀陽の道の駅で、3人で早めに弁当を食べ、昼食とした。12時過ぎについたので、すぐに展示されている19人の縄文造形作品をみる。多様と言うしかない超ユニークな3Dプリンター創作作品まで、90以上の作品が展示されている。

是非訪れて欲しい

午後一時から、スパイラルアート展の参加者のギャラリートークが始まる。暑くて汗が吹き出すなか聞き入る。展示スペースが狭いなかでのトークなので、会場に入りきれない人もいる。訪れているかたもユニークである。

うだるような暑さ、狭いスペースのなかで、お話しする方も、聴く人たちもその暑さをものともせず、渾然一体となってどう表現していいのかわからない、不思議な時間を全員が共有した事実を五十鈴川だよりに記しておく。

出展している作家御本人がそれぞれ作品についてお話されるのが実に新鮮で、興味深く、そして面白かった。何しろギャラリートークなるものに、初めて参加し、縄文世界に魅いられた作家のお話に耳を傾けたのだが、理屈抜き、愉しく面白く参加してよかったという思いが、五十鈴川だよりをうたせる。

13時から14時までは1階の展示スペースでギャラリートーク、14時から15時までは2階の展示スペースで。15時からは敷地の反対側にある創作ルームに場所を変えて、(ここは過密ではなく)リラックスした雰囲気での来館者とのフリートークが行われ、内容の濃いお話を、主に造形作家たちの口から聴くことができた。

最後は猪風来さんの火炎土器の構造についてのお話でフリートークが締め括られた。(すごい内容だった)なんと時間は17時近く。縄文世界に魅いられたひとたちの熱気を私も十分に浴び、ぐったり疲れ、(気持ちよい疲れ)猪風来美術館を後にした。瀬政さんとNさん私の3人は吹屋の今宵の宿である元仲田邸にむかった。

宿についてすぐに一風呂浴び、ちょっとやすんですぐ夕食、3人での夕食はもちろん初めて、愉快な夕食となった。鮎の塩焼き、天ぷら(すべて地物)完食。わずかのビールで話が弾み、聞き上手のNさんの故か、我が青春時代の滅多にしないお話なども、口から飛び出したのは、いい意味でと思いたいのだが、老いて、話せるうちに話しておこうという覚悟が深まったからだろう。本当に老いたら、記憶が飛んで話せなくなるかもしれないのだから。

元仲田邸に泊まるアイデアは瀬政さんの発案。明日月曜日(七夕)は午前10時から10月12日のビッグイベントに向けてのミーティング、スケジュールがタイトなので、このような展開に。瀬政さんのアイデアがなかったら、このようなことにはならなかっただろう。相性、タイミング、気の流れでの意外な展開こそが、ささやかな人生の喜び醍醐味である。午後10時、長い充実した一日を終え、床についた。

7日、朝6時起床。少し体操してのち、吹屋の地域起こし仕掛人、大場さんが(彼は元仲田邸の管理を時おりしている)なんとも趣のある別邸(明治時代の建物)朝食前わざわざ美味しいコーヒーをいれてくれる。(心つかいに深く感謝します)最高に美味しくいい時間が過ごせた。

7時45分からこれまた美味しい朝食をいただき、8時半過ぎに宿を発ち、吹屋のコンビニでミーティングのお弁当を求め、高梁にでて、そこから初めて高梁川から、新見に向けて左側の道をドライブ、川沿いの急斜面に建つ人々の家、手入れされた日本の夏の棚田や畑の風景が素晴らしかった。日本の里山の景観には、きっと縄文時代からの日本人の深層DNAが眠っているのに違いない。本日はここまで。

2025-07-06

猪風来縄文美術館に出掛ける前の五十鈴川だより。

 今日は、ほぼ3週間ぶりに、現在猪風来美術館でひらかれている縄文スパイラルアート展に出掛ける。午後1時からギャラリートークが行われるので、ちょっとその場に居合わせたいと思っている。猪風来さんのお弟子さんたち19名の縄文アートを虚心に作品に向かい合いたい。

正直、昨年秋、猪風来さんからの一本の電話をいただくことがなかったら、こんなにも猪風来美術館に足しげく通うことは無かったかもしれないと考えると、ある種不思議な気持ちに襲われる。事実として猪風来美術館に出掛けることが、うまく説明できないのだが、どこか愉しいのである。

何故楽しいのかは、私にも深い自覚をもって説明することは不可能である。猪風来さん、よし子さんとの何気ない他愛もないやりとりが気持ちが良いのである。また猪風来さんの縄文創作年代作品に、取り組みこめられた思いの丈、その深さ、ご子息原野さんの作品について語る愛情というしかない思いに打たれるからである。何度聞いても新鮮で面白い。(あまりにもの愚直なまでの一途さに、縄文人が忽然と現れてきたのではないかと、ときに思えるほどである)

私のように絶望的に現世に染まった俗物にとっては、それを洗い流す、物言わぬ五十鈴川に通じる、大いなるものに包まれている安堵感を覚えるのである。そのような大人(たいじん)傑物から、20周年の企画の応援を頼まれるなんて、意外性の極致、その事実にとまどいつつも、企画者として関われる嬉しさが、私にくりかえし五十鈴川だよりを打たせるのである。

おおよそ、あと3ヶ月で10月12はやって来る。明後日7日七夕の日に、5月27日以来のミーティングも開かれる。本番当日まで、何が自分に出来るのかを草刈りしながら、五十鈴川だよりを打ちながら、知恵を絞って考えたい。

今日は瀬政さんの車で行くことになっている。瀬政さんは私とは異なったスタンスで、縄文世界に深い関心を寄せている。フライヤーを創っている(デザイン一切)那須さんも強力にボランティアしている。それに吹屋の地元を深く愛する大場さん、今のところこの4人が黒子として熱く参集している。

妻丹精、マンドリアの花

私としては当日も含め、この倍以上の積極的な、自分の人生とどこかでクロス、接点の火花が散るような人材ボランティア、我がこことして動く(うごける)人間を求めている。これまで様々な企画をして来て、いつもほとんど個人的に信頼できるかたに、ご無理をお願いしてきたが、今回ももちろん、お願いするつもりである。

プラス、意外な人が加わることを私は望む。黒子に徹する喜びを味わいたいのだ。黒子の力で、より記憶に残る20周企画イベントになるようになるように。

猪風来さん家族が生涯を賭して発見した縄文土器造形世界の空前絶後のイベントを実り豊かに終えるためには、肝をわって話し合い、有意義で用意周到なミーティングを重ね(あと5回は必要な気がする)冷静に細部を詰めてゆかねばならない。

2025-07-05

猛暑の最中、熱中症対策、チビリチビリ本を読み、がまのあぶら、汗をかき新陳代謝を心がける。

 7月に入り2回めの五十鈴川だよりである。新聞購読を止めてもう一年以上になる。瀬政さんや、河合さんから、折々これはという記事を転送してくれる友人がいるのでとても有難い。昨日も瀬政さんが、猪風来さんや、セバスチャンサルガドの記事を送ってくださったので、読むことができた。

話は変わるが、私は日々飛び込んでくる様々な情報に正直うんざりしている。だからなのである新聞の購読を止めたのは。50歳を過ぎる頃から折々目についた、記事や書評を切り抜く作業を、我ながらよく続いたとおもうが、ノートに切り抜いては貼り付けていた。そのノートは棄てられず、数十冊今も手元に置いてある。

真面目に考える。新しい記事もさることながら、こ

元気が湧いて来る本。

れら切り抜いた古い記事の方が、今を生きる私にとっては、限りなく面白く有益であったりするのである。もう日々のニュースソースよりも、過ぎ去った(おなくなりになった)方々の記事などの方が、今の私には活が入るのである。

おそらく、猪風来さんのお仕事や、(猪風来さんは現役バリバリである)セバスチャンサルガドの仕事は、これからの私の人生の持ち時間をいかに生きて行けば良いのかの指標になる。先日故郷に帰省し、何時ものように五十鈴川の畔で過ごした82歳の姉との時間の有り難さは、言い知れない。

この世での、姉の今現在の様子が、一枚の五十鈴川での写真に撮れたことがただよかった。セバスチャンサルガドが亡くなったのは、今年の5月、82歳である。姉だっていつ天命に召されるか分からないし、人は皆母なる大地、宇宙へと還ってゆく摂理を生きるしかない。

と、ここまで打って論旨がまとまらなくなってきそうなのだが、あえて打ちたい。今回の五十鈴川帰省旅で、初めて姉兄と現世で会える時間が有限であることを実感したのである。その事で、五十鈴川の、日向灘のあまりものすばらしさを、お金ではとうてい買えない、大自然のただ行けば、いつもそこに在る恵みの偉大さ(どのようなテーマパークもかなわないのだ)に気付き、茫然とし、打たれたのである。

ところで故郷への帰省旅のお伴に、たまたま図書館で見つけた【マーク、ボイル著、ぼくはお金を使わずに生きることにした】、2011年発行の本を持参し、チビチビ読み進めこの猛暑のなか、昨日読みおえた。

当時30歳のマーク、ボイルが一年間お金を使わずに生活した、貴重極まるこの現代消費文明生活のなかでの、奮闘実践記録のレポートである。【世界を変えたければ、まず自分がその変化になりなさい】マハトマ、ガンディーの言葉に深く揺る動かされた彼は実践する。その一心不乱なあまりもの実戦力は、老人の私にも届いたことを、五十鈴川だよりに打たずにはいられない。

そのあまりにも、がんじがらめ欲望消費がた資本主義(つぎつぎ新製品で人間の欲望に火をつける)世界に放り込まれた人類の行く末に絶望した若者が、脱出する方法、終わりなき試行錯誤のリポートである。私が感動したのは、太陽光で古いパソコンを使いながら、このインターネット時代のなか、人類がいかにこの惑星地球の恵みを、人類がシェアしてゆくのか、ゆけないのかを、問いつづけていることである。

五十鈴川はただ流れている、小倉が浜の波は寄せては引く。黙して語らずである。限りなく与えるだけで人間を気持ちよくさせる。大いなる大自然はときに人間をうちのめす。セバスチャン、サルガドは晩年黙して語らず、ふるさとの土地を甦らせる。400年以上も前、ハムレットは後は沈黙、といって死ぬ。

とりとめなき、今朝の五十鈴川だよりになったが、この猛暑のなか、何とか一日一日働き、生活しながら、この世に生を受けた存在のひとりとして、五十鈴川の声なきこえに耳を澄ませ、心穏やかに暮らす、お金に振り回されない、生活の探求を実践したい。