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2025-03-09

昨日、出逢ったばかりの女性(ひと)が、いきなりチケットを買ってくださった。そして想う日曜日の朝。

 昨日打ったばかりなのに、今朝も連続して打つ。フライヤーを配布していると、思わぬ人に出会い、嬉しさが込み上げてくると言うことを、昨日の五十鈴川だよりに打った。昨日もまた、午前中最初の配布先でそのような出来事が起こった。

先日、岡大の敷地エリアの中にあるカフェにフライヤーをお願いに上がったところ、そこで働いている方から、浜野の本部にも行かれたらいいと、住所を書いてくださったので早速そのカフェに出向いたのである。なんと住所を書いてくださった方がいらして即100枚ものフライヤーをカフェに置いてくださり、カフェのオーナーとも面識を得ることが出来た。のだが意外な出来事はそのあとに起こった。

写真がぶれていて申し訳ありません

その洒落たアートフルなビルのカフェやお店の一角で、美容室をやりながら、小さな音楽スタジオをお持ちの女性が、お客様がいるのにもかかわらず、フライヤーを見ただけで100枚ものフライヤーを預かってくださったのみならず、なんとその場でスパイラルアームズのチケットを2枚買ってくださったのである。そのことを先ずは今朝五十鈴川だよりに打たずにはいられない。

長いことフライヤー配布をしているがこのような出来事は初めてである。犬も歩けば棒に当たると言う言葉を、バカの一つ覚えのように、オマジナイのように、後生大事に私はフライヤー配布をやっているが、まさにそのようなことが起こったのである。

その方はお客様がいてお仕事中であったし、ゆっくりとお話しすることは控えたが、近日中にコンタクトをとって、お話しができることを私は願っている。十人十色という。まさにしかりである。けんもほろろから、このような方まで、人間とはなんと摩訶不思議な存在であることか。だがこのようななかたに出会うからこそ、きっと私は企画を続けているのだと、自分に語りかける。(のだともう)

人は生まれ、この世での命を終えるまで何人の人間と巡りあい、言葉を交わすのであろうか、何て事を、時折殊勝にも思ったりするのだが、昨日のような出来事があると、単純に子供のように、すでに十分に老人である私も嬉しい。その後昨日は、いい感じで表町界隈の多様なお店に配布が出来た。午前、午後3時間で目標の倍の600枚を配布できたので、無理せず早めに家に戻った。

BSで、世界町歩きと言う旅番組を私は妻とよく見るのだが、つくづく歩けると言うことの、ありがたみが、高齢になればなるほどますます染みてくるのを実感する。一日10キロを歩き回る喜びを体感しながらのフライヤー配布。目的があるので歩くのが楽しい。かなりの人から激励される。一見愛想がよくない人ほど温かい。開店前の居酒屋のオーナーなどほとんど預かってくださる。

老夫婦二人での生活、幸い健康で時間が有効に使える。大きな集客ではなく、50人未満の手の届く音楽イベント、老いる今を豊かに彩れる可能性のある企画がやれる、と希望が萌える。老いの春である。

2025-03-08

スパイラルアームズのフライヤー配布、5日から始めて思う、土曜日朝の五十鈴川だより。

 土曜日である。5日から歩き回りフライヤー配布を開始、今日も午後は半日配布に動くつもりである。午前中は労働者生活をやっているので、6000枚ものフライヤーを配布するのは、考えてみると、無謀、不可能のような気もするが、敢えて私はこれを自分に課して動いている。

歩き回り、フライヤーを置いてくれそうなお店に飛び込みでお願いするのである。

40歳で中世夢が原で企画者として働き始めた当初から、主に休日フライヤー配布をしていた(当時まだインターネットは普及していなかった)のが私の原点である。その残り火のような感覚がこの年齢になっても抜けきっていないのである。

完全に時代遅れであることは重々承知している。だが、どこかで私のうちなる声が、歩けるうちは、やれるだけのフライヤーを配布に動く事を、良しとする。どこか天の邪鬼的な私がどこかにいるのと、ここまで私を動き回らせてしまうほどの、土取利行さんがアーティストだからである。おそらく、土取さん、猪風来さんでなかったら、フライヤー配布は昨年で終えていたであろう。

フライヤー配布を始めてまだ3日を終えたばかりだが、このようなことでもない限り、街中のいろんなお店を眺め眺め歩く何てことは、私くらいの年齢になると、まずないのではないかと思う。長くなるので割愛するが、今のところやはり犬も歩けば棒に当たる、のような出来事が、次々に出来している。目標一日300枚配布して、3月いっぱいには配布を終えたいと、私は思っている。

だがハレノワでの300枚とか、友人が200枚とか、100枚単位で預かってくださる方がいて、フライヤーができてわずか5日間で、すでに2000枚近くが、はけている。焦らずこのペースで、休み休みしつこく配布に動けば目標が達成できそうである。

知人にラインで伝える。電話で伝える。友人に封書で伝える。そして見知らぬどこかの誰かに足で伝える。今のところこの4つの方法を駆使して伝える以外、私には方法がない。73歳の私の体をフルに動かしていると、脳の前頭前野が時おり閃く(気がする)。夢が原時代あちらこちらに配布に動いたので、体がいろんなお店を記憶していて、次から次に体があのお店に行けと、教えてくれるのである。

街の風景は時代と共に移り変わり、人心も移り変わり、閉店しているお店もあるけれど、元気に続けておられるお店もあり、温かくフライヤーをおいてくださる。とはいっても今回私が配布しているお店は、8割がた新しいお店である、カフェや、レストラン、ファッション、アパレル関係、居酒屋、バー、花や、CDショップ、などなど扉を開けてお願いするだけである。

表町界隈、奉還町界隈、倉敷美観地区界隈をこの3日動いたのであるが相対的に皆さん温かくフライヤーをおいてくださっている。さて、来週の土曜日にはどれ程のフライヤーが我が家から消えているか、とにもかくにも動き回るしかない。

PS 今日の写真は美観地区のとあるカフェの写真。ご主人が早速貼ってくださっていた。帰りに気づいたので写真に納めた、なんとも感じがよく、即反応してくださった。思わぬ人に出会えたときに、一気に嬉しさが込み上げてくる、こればかりは配布したものにしかわからない。(だろう)

2025-03-05

歩ける骨で動く、スパイラルアームズフライヤー配布に動く、初日の朝に思う五十鈴川だより。

 3月3日夕刻、N氏のデザインしたフライヤーが(届けてくださった)予備の枚数も入れて7000枚ドーンと届いた。一束1000枚のフライヤーは重い。そのフライヤーをできるかどうかはわからない。3月30日まで何とかあちらこちらに配布に出掛ける予定、でかけるつもりである。昨日のように雨で配布出来ない日もあるだろうから、そうはうまくはゆかないことは、承知しているが、家にじっとしていてもフライヤーは一枚も減らないので、基本私が動くしかない。(のだ)

Nさんの素晴らしいフライヤー。

だが、長くなるので割愛するが、このスパイラルアームズの岡山公演支援者に名を連ねるK氏が、一昨日の夕刻出来立てのフライヤー100枚を配布に動いてくださると言うことで、わざわざ取りに来てくださった。

そしてなんとそのK氏から昨日午後電話があり、友人知人にフライヤーを見せたところ、たった一日で10枚チケットが売れたとのこと。夕刻、岡山でK氏にチケットを渡しチケット代をいただいた。

気持ちが動き、あの人にお願いをしてみようかなあ、と思う面々が、迷惑を承知で私には今のところ岡山に10数人はいるので、もう年齢的にダメもとでのお願いをKさんにしたところ、快く引き受けてくださったので甘えたのだが、よもやまさかチケットまで売ってくださるとは思いもしなかったので、その嬉しさは雨を吹き飛ばすほどに嬉しかったことを、五十鈴川だよりに打っておく。

五十鈴川だよりを読んでくださっておられる方は、もう重々ご承知とは思うけれど、こういう予期せぬ意外な展開が起こることこそが、私が敢えて仕事ではなく、(何よりもよき思い出が確実に心に刻まれるのだ)この年齢でも企画を打ちたくなるモチベーションなのである。人間には喜びの感情、感動する感性のようなものが、ありがたいことに備わっている。(悲しいことだが備わっていたのに消滅しておられる方もいる)

もういい歳だから臆面もなく打つが、どうやら私にはありがたいと言う他はないが、いまだに感動したりするバネは健在である。でなかったらこのような企画を引き受けることは不可能である。話を戻す。Kさんのように人の頼みを我がことのように感じて動いてくださる奇特な御仁もおられるのだと、教えられるのである。絶望は愚か者のなすことと、もう希望探しに老人は動くしかないのである。その事を昨日Kさんから教えられた。

正直、この企画岡山では難しいといまでも思うのだが、この数十年、私が企画してきたものは、マイノリティのアーティストばかりである。父は若いうちの苦労は買ってでもせよ。人が嫌がることを率先してやれと、耳にタコができるくらい幼い私にいい聞かせたが、その教えはいつの間にか私のからだの奥深くに根をおろしている。

敢えてそのような私の性格を見込んで、この企画がもたらされたのであれば、父はきっと引き受けた私を誉めてくれるのではないかと思う。そういう私の原初的感覚の波動、想いの渦を、まさにスパイラルの渦を伝えるつもりで、フライヤー配布に動くつもりである。Kさんのおかげ、力強い同世代の仲間が現れたことで、なにやら幸先よい。スパイラル、うずうずする感覚は春の訪れ、私の春はフライヤー配布で見つけたい。

2025-03-02

犬も歩けば人に出会う。下津井エリアまで出掛ける前の五十鈴川だより。

 昨日の五十鈴川だよりに瀬政さんについて実名写真入りで打った。その瀬政さんが所用で西大寺の近くに来られていて、夕刻わずかな時間ではあったが、立ち寄られ、リビングでお話が出来た。五十鈴川だよりを打つことで、なにやら思考がまとまったり、整理したりできるからこそ、こうも長く打ち続けているのだと思う。

雑談できる相手も似たようなことが言えると思う。瀬政さんとお話しできたことで、これからの大まかな流れの確認のようなものができて、本当によかった。時折信頼できる仲間と会話をすることで、いまを唯我独尊的にならないように、事を進めてゆくために、私にとって大切な時間となった。妻の存在もそうだが、私の行動や言動に直言してくれる身近な信頼できる存在が、私には絶対的に必要である。

ところで、明日の午後にはハレノワでのスパイラルアームズのフライヤーが完成する。お休みを中心にフライヤー配布に、おおよそ週に2日から3日動くとして、20日間、一日あちらこちら目標300枚として6000枚、予備として1000枚、計7000枚印刷することにした。時間を有効に使って配布するためのプランを、昨日今日と立てているところである。

今日はこれから倉敷の下津井まで出掛ける。これまで私の企画に足を運んでくださっていた主に同年代世代が、私を含めて高齢化し、社会的なそれぞれの事情を抱え、家を空けて出掛けることが困難な状況がにわかに増えていることを、この数年企画を再開し、その事を肌で私は感じている。

だから、この度はいまをいきる、粋のいい40代50代のかたに一人でも出会うべく、無理せず、しかし、もうこれで最後と言える位に、先日も打ったが老骨人としてやれるだけのことをやりたいと思っているのだ、その手始めに下津井エリアを探索しようと決めたのである。

封書に一筆入れる

せっかくのお休み、せめて半日なにがしかの動きを試みれば、犬も歩けばではないけれど、何かに当たるかもしれない、との淡い願望のようなものがないと砂漠に水を撒くような企画は出来ないのである。アクションが起こせなくなったら、私は引退する。

フライヤーを置いてくれそうなお店やカフェを見つける感覚は、これまでの経験で歩き回るしかない、というのが私の原点、素朴極まる方法である。私が10才くらいまでの記憶、物売りのおばさんが、リヤカーに魚や、豆腐などを積んで直接訪問販売をしていた。限り無く私はその原初方法を遵守している、のだと思える。

家でじっとしていても、チケットは一枚も売れない。お客様を劇場に運ぶには、営業に徹するしかないではないか。頭の弱い私は体を運ぶ、行動力、実践力だけが取り柄のような私である。他にはなにもないと思っている。ってなわけで下津井エリアまで出掛ける。

2025-03-01

3月1日土曜日の朝、瀬政さんの意外なリアクションに驚かされる、今朝の五十鈴川だより。

 2月末のこの二日間は、4月30日のハレノワでのスパイラルアームズ公演に向けて、フライヤーの詰めのメールのやり取りがN氏と私との間で頻繁に行われ、日が変わ直前まで、N氏の推敲が繰り返された末、フライヤー決定稿が出来た。N氏から楽しく刺激を受けた。

大地にねっころがるノア

数日中にフライヤーが手元に届くその日が、今か今かと待ち遠しいが何はともあれ、これで4月30日のハレノワでのスパイラルアームズの公演に向けて、月も変わり新たな気持ちで向かえるので、正直かなりくたびれてはいるのだが、嫌な疲れではまったくない。

きっと年齢的なところからくる疲れなのだと、自分ではおもうものの、不思議とよく眠れるし、朝になるとこうやって五十鈴川だよりを打ちたくなるのだから、その気持ちが動く間は企画ができると自分に言い聞かせている。

ところで、フライヤーの完成を我が事のように喜んで早速私やNさんにメールをくれたのが、スパイラルアームズ岡山公演支援者の静かで熱き情熱の持ち主、瀬政さんである。色々打ちたいことがこの一週間立て続けに起こっているのだが、一番新しい瀬政さんのことから打っておく。

今回の企画、無名のスパイラルアームズを引き受けるにあたっては、経済的な支援もさることながら、まずはこれまでの私の人生で出会えた、得難い仲間にお声かけし、その仲間たちと共に、この公演を成功に導きながら、仲間とのこれからの関係性を、一段と深めてゆくための、千載一遇の好機到来と考えることにし、アクションを起こしたのだが、結果思いもよらぬことが次々と出来している。

昨日私は瀬政さんに(瀬政さんはすでに多額のカンパをしてくださっている)チケットは何枚位必要かと、仲間として軽く打診したのだが、なんとカンパ(カンパは自由に使って欲しいといわれた、そうさせていただく)とは別に10枚確保して置いて欲しいとのメールがきた。

これまでの交友で、彼が10枚もチケットを必要としたことは記憶にないので、正直私は驚きを隠せなかったのだが、その事以上に私を驚かせたのは、氏が自分も私のようにチケットを行商行脚すると、書かれていたからである。

蒜山でお地蔵さまになった瀬政さん

心強いという以外ないではないか。よもやまさかこのような人工知能AIが全世界を闊歩し、人心に便利で快適、人が人として動く楽しみすらコントロールしようとしている時代に、私と同じように、リアカーで手作り野菜を販売するかのように、チケット行商行脚する仲間が現れるとは。愉快である。

人間とはまったく計り知れない。シェイクスピアは自分という器は、自分では時にどうしようもないコントロールできない感情におそわれると、登場人物に言わせているが、まさに昨年からのシェイクスピア作品の音読への参加といい、瀬政さんは私を驚かせ続けている。

清水の舞台から飛び降りるという言葉がある。身を捨ててこそ浮かぶ背もあれ、とも言う。さすがキリマンジャロに登頂したこともあるご仁、伊達ではないと今回知らされている。人は長年の交友でもわからない奥深さを(時に自分でも自覚していない)秘めていることを痛感する。今回、仲間としての瀬政さんからは特にその事を感じている。

情熱の根拠は人それぞれである。余人にはうかがい知れない、多くの人間が普通関知しないような事柄に、時に敏感に反応する。今回支援カンパを振り込んでくださったかたがたは、そのような尊い感覚の持ち主である、無私の人ばかりである。スパイラルアームズを引き受けることなくして、このような稀な本質的な再会、新たな新鮮な高齢者再出発、出会いはなかったであろう。

そのようなあれやこれやをおもうとき、ただもくもくと🦏さいのように歩めと言う言葉が浮かぶ。歩き始めた幼児が無心でただ歩くように、老いてはいるが私もまだ歩ける。瀬政さんと行商行脚を楽しみたい。

2025-02-26

一気にハレノワでのスパイラルアームズ公演モードに頭が切り替わった、今朝の五十鈴川だより。

 東京からもどると、4月30日の香川、岡山での共通フライヤーとハレノワのチケットが香川のH氏から送られてきていた。送られてきたチケットの枚数は100枚。個人でこの枚数を完売することができるかどうか。私にもわからない。これから2ヶ月、すでに知っている友人知人はともかく、未知の人になんとか半分くらいチケットを行商行脚したいと、私は自分に言い聞かせている。


5月で2才になる、レイさんが撮った
東京モードから一気にハレノワ、スパイラルアームズモードに頭が切り替わった。が、まだ岡山バージョンのフライヤーはできていない。が、急いては事を仕損じる。Nさんが必死に取り組んでいるので、氏からの連絡を私は待っている。その間共通フライヤーでしのぎ、すでにチケット代を振り込んでくださったかたに、チケットをおくったり、やれることをしっかりとやり、チケットの行商を面識のある知人から始めよう。

家族は私の年齢的なことを十分に勘案して、フライヤーの配布やチケットの行商などは控えた方がいいと心配してくれるのはありがたいことなのだけれど、こればかりはいかんともし難く、スパイラルアームズ、私が動かないことには、チケットはさばけないのを、私自身が深く承知しているからである。

私は私の性格を、どこか能天気天の邪鬼と自認している。無名ではあれ、自分が凄いと思うアーティストを小劇場ではあれ、ハレノワ300席を満席にしたら愉快で痛快である。私のような高齢者企画者の心をこれほど熱くさせるアーティストは土取利行さんと猪風来さんしかいない。だから昨年から度々五十鈴川だよりに打っている、のだ。

ところでいつものように話は変わる。仕事として企画を成していた中世夢が原時代とはまったく異なり70歳からは、自分の感性、心が動いたアーティストだけを企画している。もうこの年齢になると、自分ではいい意味で限り無く我が儘に自由に企画したいという思いががぜん強くなってきているのを、否定しない。

だからこれまでの人生で出会え、今も交友関係性が持続している古い友人に思いを伝え、厚顔を承知で支援カンパを募るところからスタートしたのである。詳細は割愛するが、意外な反応といったらカンパをしてくださった方に大変失礼だが、そのような反応が寄せられていて、人間性、人間味、人間という存在の揺れ動く多面性を、改めて私に知らしめている。

先日23日の夜8時半、稲城の長女の住むマンションに、私に会いに来てくださった相模原に住むM子さんとの交友は35年以上である。夢が原で働いていたとき、わざわざ夢が原での私の企画にあしを運んでくださったこともある。今回もいち早く支援カンパを振り込んでくださったかたである。

その方にどうしても郵送ではなくちょっとでもお会いして御礼を伝え、土取さんのCDや猪風来さんの本、原野さんの絵本、作品集を手渡したかったのである。実現して本当によかった。義理の息子のレイさんが暖かくもてなしてくれ、午後9時半頃帰ってゆくM子さんを見送ったのだが、ただただありがたかった。

だが、話はこれで終わらない。M子さんが帰ったあとレイさんと少し焼酎を飲みながら話をしていたら、突然レイさんが私の今回のハレノワでの企画にたいして、M子さんのようにカンパすると言ったのである。私はよもやまさか、レイさんがそのような事を言うとは思いもしなかったので、ビックリした。そこで夜中、フライヤーを作ってくれているNさんに、支援者の名前に日高レイの名前を追加して欲しい旨メールをいれたのである。

私とタッグをくんでくれる10数名の高齢の私の友人たちの輪の中に、義理の息子のレイさんが加わったのである。レイさんは30代後半、新しい世代の仲間が支援者に加わってくれたことの喜びは例えようもない。それも家族を代表して。

レイさんとは国籍や世代を越えていろんな話が日本語でできる。日本人と話ばかりしていると視野狭窄に陥る。地球の未来はリア王の最後の場面ような風景思い起こさせる。土取さんや猪風来さんはワールドワイドの視野を持つ真に稀なアーティストである。岡山のハレノワでのスパイラルアームズ公演、動く老骨人で、今を生きたい。

2025-02-25

記憶が鮮明なうちに、23日、24日の出来事をスケッチふうに打つ今朝の五十鈴川だより。

 昨日午後7時前に家に戻ってきた。日曜日のことを記憶が鮮明なうちにスケッチふうにわずかでも打っておこう。23日日曜日朝食を済ませ次女家族と私とノアの5人で、周さんの運転で武蔵野の面影が色濃く残る小金井公園にゆく。

この公園は子供を遊ばせるには抜群の公園で約2時閑以上、ノアと葉を存分に遊ばせた。主に私は見守り役だが、3才と6才の葉とノアは子供らしいという表現以外に表現が思い付かないほどに、滑り台、大きなトランポリン、そして自転車乗りにチャレンジして、青い冬空のしたひたすら遊んだ。

したがノア、上が葉

本当に尊い時間、無心にひたすら遊ぶ二人の姿を、私は眼底に焼き付けた。お昼は公園の中に敷物を広げて、簡素にお昼としたが、スナックふうのポテトフライや焼きそばが遊びに遊んだ、葉やノアには美味しかったのだろう、頬張っていた。

大勢の家族連れでごった返す人々をターゲットの出店の、何てことのないできあいのたこ焼きや焼おにぎりが美味しく感じられるのは、目一杯体を動かしたあとだからなのだろう。

ただただ意味もなく走り、よじ登り、飛び、滑り、なかなか漕げない自転車を、必死でバランスをとりながら全身で自分の体と格闘する。人と競争するわけではない。ただ自分と、そしてノアは葉と、葉はノアと兄弟のように遊ぶ。その姿を私は目に焼き付け、何枚かスマホで撮った。3世代天空の下いい時間を過ごせたことを、五十鈴川だよりに打っておく。

小金井公園から稲城まで周さんが私とノアを送ってくれた。葉は寝ていてお別れが出来なかったが、次女と周さんとはお別れ。わずか一泊二日のノアと私のお泊まりではあったが、密度の濃い普段とは異なる時間が過ごせた私は、いつも書いているが、この歳にならないと感じられない、いわば老いゆくなかでの慶びのような時間が与えられたことを感謝した。楽しい時間は瞬く間にすぎる、のだ。

少しやすんで夕刻前、レイさんとミア、ノアと私の4人でマンションの近くの公園に散歩にゆく、外は冬の寒さ、だがミアとノアは風の子という表現がこれまたピッタリで、ものともしない、一時間以上散歩したがミアはもっともっと散歩したいといってレイさんを困らせていた。ミアは外が大好き、ノアもインドアゲームも大好きだが、アウトドア遊びも大好きなので、バランスよく成長していて、おじじとしては嬉しい。

夕飯はレイさんが美味しいピザを焼いてくれた、私もノアもお腹一杯いただいた。夕食後いつものように、私とノアが先にお風呂に入り、ミアとレイさんが続いて、ミアはそのままお眠りタイム。

午後8時半、相模原に住む30年以上の交友歴のM子さんがわざわざ訪ねてきてくださり、大切な渡しものを取りに来てくださった。(この件に関しては、また後日打つ)なぜこういう経緯になったのかをよくはわからないレイさんが、素早く機転よく暖かくM子さんを迎えてくれた。良くできた義理の息子の対応が、私はことのほか嬉しかった。

午後9時半M子さんをマンションの玄関まで見送り、その後10時半近くまで、レイさんと焼酎を飲んで、男同士あれやこれや話をした。そこで思わぬことが起こったのだが、この続きはM子さんのことも含めて、後日打つことにする。

そして昨日朝6時過ぎ、出張先サンフランシスコから早朝4時過ぎ、羽田に着いた長女が帰ってきた。7時家族揃って朝食、ミアもノアもそしてレイさん、みんなどこかホッと顔がほころんでいた。娘も嬉しそうだった。私も嬉しかった。

午前9時、娘のところを後にした。向かったのは帰るときに必ずといってほど立ち寄る神田の古本街、休日でかなりの本屋さんが閉まっていたが開いていた本屋さんを数件巡り、数冊の本を求め神田でお昼をゆっくりととり、東京へ。私のチケットは割引チケットなので、のぞみには乗れないのだが、求めた本を手に、こだま、ひかりと乗り継ぎ、午後6時岡山に着いた。

2025-02-22

午後9時過ぎ、一日に2度目の五十鈴川だよりを打つ。このようなことは初めてかも。男の孫二人との一日は楽しかった。

 夜、午後8時をまわっている。少しでも記録を打ちたいという、老いの煩悩が五十鈴川だよりを打たせる。午前10時半過ぎ、稲城から京王線で調布に出て、そこからバスで三鷹の下連雀に、お昼ジャストに次女のマンションいにノアと着いた。

次女のところでハッサクをむく

着くと昼食の焼き肉の準備がすべて整って我々を待っていた。よほど我々の到着を待っていてくれたのであろう次女の子ども、葉くん3歳が玄関まで走って来て、歓待してくれた。早速美味しい心尽くしのお昼をいただく。

すっかり美味しい焼肉の昼食に満足した私は、娘たちの言葉に甘えて、お昼寝をさせてもらった。午後3時半、義理の息子の周さんと周さんの子ども葉くん3歳、私とノアの4人で三鷹の朝日湯という銭湯にゆく。よもやまさか銭湯に男ばかり3世代、4人で出掛けるとは思いもしなかったが、これもまた楽しい思いでのヒトコマということで、新鮮なうちに打っておかねば、と思うのだ。

もどると次女が夕飯の準備を整えてまっていた。夕飯前、私とノアと葉の3人でお相撲さんごっこのようなじゃれ遊びにしばし興じる。正直後あと何年このようなお付き合いが孫たちとできるか、何て考えると、今やれるときに、全力で遊ばねばとのおもいにかられる。

夕食は大人はお刺身海鮮丼を中心に、孫たちは野菜のコロッケやしょうが焼き、カボチャの煮たの、白菜の煮浸しなどなど、勿論大人もいただく。夕食後葉はお眠の時間が来たのだが、ノアが来ているので、もっと遊びたくて中々寝ない。周さんが何度も寝かしつけるが、うまくゆかない。結局次女がようやくねかしつけた。ここまで打つと時計は9時を指している。

ノアはまだ起きていてそばでゲームをやっているし、周さんは夕食の後片付けをしている。私は夕飯時に無糖のビールをいただき、今ハイボールをいただきながら打っている。お昼寝をしたせいか不思議と元気に文章が打てている。昔は人がそばにいたらまったく打てなかったのだが、最近はまったくお構い無し、打てるときに打っておく、でもさすがに、今夜はもうおしまいである。


稲城3日目の朝、寸暇五十鈴川だよりを打つ。j

 稲城3日目の朝、朝食を終え少し時間があるので打つ。昨日はあれから午後3時プールにゆくノアの付き添いで、出かけた。歩いて5分くらいのところのある。スイミングプール。冬でも全身運動のスイミングはいいと思う。約一時間後終えて出てきたノアにせがまれてアイスを買ってやる。頑張ったらわずかなごほうび。ノアはあまりねだらないから買ってやりたくなる。甘いおじじである。

初めて作ったポテトサラダ

もどってしばし漢字やひらがなを書く練習を見てやる。算数や理科、社会が得意なノアはあまり文字がを書くのが好きではないようだが、少しずつ少しずつ根気よく、すかしなだめやらせる。幸い私の言うことを聞いてくれるのがうれしい。

その間仕事を終えたレイさんはミアを保育園に迎えにいった。ミアはまだ私になれないが、どこか堂々としていて、わがままで、我を強く押し通す。すっかりパパっ子である。でもどこか愛くるしい個性が光っている。

いつものように五語6時半夕食。レイさんが子どもの好きな鶏肉の小さなハンバーグに野菜のお味噌汁、それに私の作ったポテトサラダときんぴらなどで、いい感じの夕飯を美味しくいただいた。夕飯のあとは私とノアはお風呂に入り、レイさんはミアの面倒を見ながら後片付け(本当にまめで感心しきり)午後8時ノアは少しゲームタイム。

9時近く私はいつものように、寝る前に絵本を2冊読んでやる。するとノアはあっという間に二段ベッドの上に移動、スイミングで疲れたのだろう、あっという間に眠りの世界に落ちて行き、私も落ちた。

ミアもノアもおねむりにはいり、その後レイさんと、焼酎を飲みながら男同士の久しぶりの語らいタイムを10時半近くまでした。会話は世界情勢、日本の神話ほか多岐にわたり、とても楽しかった。異国のお婿さんを娘が選択したがためにこのような会話が成り立つ。

そんなこんないろいろな感慨におそわれる。娘がレイさんを伴侶に選ばなかったら、きっと私は企画者としてはとうの昔に終わっていたような気がしている。複雑すぎて投げ出したくなるヨーロッパの歴史を今も少しずつ学んでいるのは、きっと娘が旧東ドイツの男性を伴侶に選んだからだと思える。我が娘ではあるが、女性は強い。

さて、今日は今日はこれから三鷹の次女家族のところに移動し、一泊することになっている。どのような一日になるのか皆目わからないが、きっと楽しい一日になるような予感がしている。

2025-02-21

今回の上京旅、記録的に綴りつつ、あわせて今をいきる私の思いなども綴りうつ、稲城二日目の五十鈴川だより。

 昨日は午後3時に学校から帰ったノアとお習字教室につれて行き、私もノアと同学年で、お習字を共に習っている女の子がお稽古するのをそばで見ていた。若い女の先生が厳しく、ときに優しく指導しておられたのが印象に残り、ノアはいい先生に恵まれたのだと、私には思えた。

戻ってほんの少し、ノアに漢字やひらがなの書き取りの稽古をするのを手伝ったりしている間にレイさんミアを午後5時半過ぎマンションのすぐそばの保育園に迎えに行った。もどって夕飯の準備、レイさんが仕事の合間に、パスタをゆで私のために作りおきのカレーを温めてくれたりして、お母さんはいないけれど、リモートで少し参加しながら、4人での夕食、私はただただ、レイさんの心尽くしをいただき、久しぶりの孫たちとの夕飯を感謝した。

想像力全開で読む

(かいがいしい、という言葉が、ミアをケアしながらのレイさんの姿に、私は感動した)

夕食を終え、私とノアはお風呂にゆったりとつかり、湯からでたあとノアの部屋で横になっていたら、朝が早い私は強烈な睡魔におそわれ、しばし沈没、午後8時半就寝時間がやって来たノアに起こされ、約束通りノアにヨシタケシンスケさんの絵本を2冊読んでやると、さすがに一年生の成長したノアは聞き分けよく、2段ベッドの上に移動、あっという間に眠りに落ちた。

私もまた、再び眠りに落ち、朝6時過ぎに起きてみると、6時半すでに朝食が準備されていたのには驚いた。いまこの五十鈴川だよりは、ノアは小学校に行き、ミアは保育園にゆき、レイさんはリモートで自室で仕事をしているので、誰にも気がねなく打てる。ベランダから背中に冬の日差しが、部屋のなかだから暖かい。

まるで日記、記録のようにわずかではあれ、綴り打っておきたいという、老爺心は平凡な日常生活への讃歌への気付きの深まり、以外のなにものでもない。ノアの通学路信号機が出来たので、そこまで見送っていったのだが、学校に向かうすべての子どもを朝の陽射しが照していた。

さて、いきなり話は変わるが、今回の上京旅に持参した本はただ一冊、タイトルは【戦争語彙集】オスタップ スリヴィンスキー作、ロバート キャンベル翻訳である。持ってきてよかったと、思う。

多くを語りたくはない。多くを語ることにも、正直もう疲れている。が、そうはいっても、元気な間は、どんなことがあって戦争や平凡な日常を脅かすような、ある日突然の、狂気的な振るまいには断固としたノーであるとの、決意は高齢ではあってもなんとしてもなくしたくはないものである。

悲しいかな人は老いる。孫たちは輝く。でもそれでいいのだと自分に言い聞かせる。私の両親も子どもたちの行く末を見守り、静かにこの世から消えていったのだと思うけれど、きっと納得していたのに違いないという安堵感のようなものを私はかんじる。

あまり言葉にしたくはないのだが、敢えて言葉にしておく。もうどこか私は現世に生きているのではなく、どちらかといえば、この世とあの世の真ん中辺りをさまよっているような感覚におそわれながら日々を生きている。だからなのかもしれない。もうほとんど昔のようには現世的な悩みのようなものにとらわれなくなってきている。水が流れる方にしか流れないように、私も流れて行きたい、ただそれだけである。

思想信条はまったくない、高齢でくの坊の私が大事にしていることは、限りなく少なくなって来ている。もうほとんどを手放しつつあるなか、どうしても手放せないものだけを大事にして行きたいと思う最近の私である。お見送りや、ちょっとした役に立つだけでも私は嬉しいので、そのような年寄りを可能なら一年でも長く生きることができれば、もうなにも私には必要がない。(今年の企画が無事にすめば、限りなく私は超シンプル老人ライフへシフトするように思える、家族や長い交友のかたたちと、ただ関係性を深めたく念う、そして意味もなく旅がしたい)

2025-02-20

稲城、長女家族がすむマンションのリビングルームで寸暇 打つ五十鈴川だより

 朝いちばんの西大寺発の電車で岡山に出て新幹線で東京に着き、中央線で新宿、そこから京王線に乗り換え、稲城の長女家族の住むマンションにお昼前に着いた。

新幹線のなかでゆっくりブランチをしたのでお腹は空いていなかったのだが、レイさんが作ったというパンが美味しそうだったので、それを軽くサンドイッチにしたものでお昼とした。

ところでなぜ私が4拍5日の予定で稲城に来たかというと、長女がアメリカはサンフランシスコに一週間出張になり、せっかく行くのだから、3連休を利用して系10日ほど家を空けることになったので、妻と交代で急遽やって来たというわけである。小学一年生の孫のノアが学校から帰ってくるまで、時間があるので暫し五十鈴川だよりというわけである。

五十鈴川だよりを打っているとパンのいい香りがする。やはり酵母が生きているパンは、ちょっと違う。部屋は床暖房が効いているし10階の部屋には日差しが差し込み、なんというのか、いきなり我が家とは違う空間にやってきて、身も心も忙中閑あり、ちょっと変身、孫たちとの時間を楽しもうと思っている私である。

2025-02-16

スパイラル・アームズのフライヤーを依頼したNさんと我が家で昨日対面での打合せをしました。そして思う。

 ハレノワでのスパイラル・アームズの岡山バージョンのフライヤーを依頼しているNさんと、昨日我が家でお昼から約2時間打合せをした。すでに何度かメールでは思いを伝えたりはしていたのだが、対面での打ち合わせは初めてである。

バイト先で見つけた蜂の巣

この数年何度も依頼しているので、私の人となりはかなり把握してもらええているので、かなりの時間一方的に私のこの公演にたいしての思いを伝えた。私の土取利行さん率いるスパイラル・アームズへの今の思いが少しでもNさんに伝われば、きっといいフライヤーができると信じたからである。

この企画の依頼メールが来たときの経緯はすでに昨年の五十鈴川だよりに打ったので重複は避けるが、当初現在の私の体力でこの企画を引き受けていいものかどうか、暫し逡巡したのはたしかではあるが、結果私は引き受けた。単純な私は一旦胆が決まればもう進むだけである。

あれからはやくも2ヶ月以上がたち、紆余曲折を抱えながらも、私なりのやり方で労働しながら一歩一歩進めている。そして現時点で岡山バージョンのフライヤーの打ち合わせが行われたというわけである。長くなるのではしょるが、今回の企画は、土取利行さんとの、長年の交友関係性で舞い降りてきたお話なのである。

体力的には、とうの昔に全盛期はすぎ、老境に入りつつある今の私にもたらされた、この企画、ハレノワ小劇場300席を満席にできるかどうか、デジタル音痴の、時代の流れにまったくついて行けない私には、ハードルが高いというのが正直なきもちなのである。

が、一旦引き受けたのだから、潔く引き受け、あとはやれるだけのことを、仲間に呼び掛け、老人力を結集して、他力の力、小さくても強い老人風を吹かそうと、覚悟を決め、古い友人や長いことご無沙汰しているこれまでの人生で出会え、関係性が持続している面々に、率直な私のおもいを伝えるところから、開始したのが一月の半ばすぎからである。

カタツムリのように歩みは超とろいが、確実に歩を進めているという実感が私を支えている。300席を埋められるだろうかとか、昔だったらおもい悩んだかもしれないが、(もちろん埋めるつもりではいる)もうそういうことに思い煩う年齢ではない。腹をくくるとは、収支を含めすべての責任をとるということである。

そのようなことをどういうわけか、40代からずっと我流でつづけてきたおかげかもしれないが、私にとって企画するということは、どこか腹をくくるということと同義なのである。素人が、仕事でもなく企画をする、引き受けるということは、覚悟を決めるということなのである。

一言で言えば、土取利行さんは私に覚悟をさせる、それに値するアーティストだからこそ引き受けているだけである。土取利行さんはそんじょそこらのプロの演奏家、パーカッショニストではない。この現代の底知れない、全世界が、人類が抱え込んでいる漆黒の深い闇を、見えない音の波動で照らす、言葉では尽くせぬ哲学者、アーティストである。だから私ごときが安易に引き受けるのは、冒険以外のなにものでもない、のだが名誉である。

話を戻す。昨日打合せを終えたばかりなのに、真夜中Nさんから、私のおもいを汲んだフライヤーの原案が送られてきたのを、今朝起きたばかりの体で見た。打合せの重みを感じた。私は気に入った。これでいこうとNさんにメールを送った。今朝の五十鈴川だよりはそれをアップする。

感動する。体がワクワクしなくなったら企画はできない。人間は泣き笑い憎み嫉妬しあらゆる感情を抱える自分でも御しがたい、とてつもなく摩訶不思議な、絶えず変容する器である。私の中の感動するバネのようなワクワク感が、思春期からあったればこそ何とか生き延びるることができ、いまもかろうじて企画ができているのだと、勝手に思っている。

PS タブレットの調子が悪く、写真がアップ出来ないので今日は文字だけの五十鈴川だより。後日写真をいれることにします。ご容赦ください。(代わりに蜂の巣の写真をいれます)

2025-02-15

73歳になりました。冬の日差しを浴び、今を想う五十鈴川だより。

 数日前に73歳になりました、が私の日常生活は普段とかわりなく続いている。古稀を過ぎてからのこの3年は、世間や世界のことはさておいて、こと私自身にとっては、きわめて普通に生活が営めただ存在している。その事がなにわともあれありがたいことだと、日々感じながら生きている。

気分転換に日本語を書写する

妻をはじめとする家族からは、今を元気に生きて活動している私にたいして、心尽くしのランチや夕食、労りとお祝いの言葉をいただいて、素直に嬉しかったことだけは、きちんと五十鈴川だよりに記しておきたい。

70才、ウクライナで戦争が始まった年から企画することを再開し、今年で4年連続企画をするなんて思いもしなかった。それも今年は春の4月30日ハレノワでの企画と秋の縄文と大きな企画にかかわれる。

昨年の秋まではよもやまさか、土取利行さんのスパイラル・アームズを岡山で窓口として引き受け、結果ハレノワでの公演をやるなんて考えもしなかったのだから、まさに事実は小説より奇なりという他はない。元気だからできる。企画が元気の源である。

昨年の秋までの私は、もう企画をすることはやめようと思っていたのにである。土取利行さんと猪風来さんはそのような私を再生させたのである。

何が私を豹変させたのであろうか。私にしかわからない感情が、言葉にならない何かが私の中に湧いてきたからとでも言うしかない。自分という生き物、器は移り変わり生まれ変わる。変容する。絶望が希望へとねじれ反転する。裏返る。

昨年12月1日、名古屋のライブハウス、希望へと点火させる爆発的なエネルギーを、土取利行さんのスパイラル・アームズのパーカッションの音の波動に私の体は撃ち抜かれた。私は覚醒したのである。

スパイラル・アームズの演奏を聴いてからのち、猪風来縄文美術館を訪ねてからは、作品がまったく違ったかのように私に迫って来た。(この体験には、今朝はこれ以上触れない)

以来、今月まで私は何度も猪風来縄文美術館を訪れ、今月も先日11日訪ねてきたばかりである。何故かくもなんども訪れるようになったのか?それは私のなかの何かが破壊され、奥深くしまいこまれ姿を消そう、諦めようととしていたものが、土取利行さんの音魂と、猪風来さん、原野さんの縄文土器、村上よし子さんのタペストリーが、あまりにもの生命力の躍動感、魂の輝きが、私の奥深い言葉にし得ない感情を揺り動かしたのである。(言葉にするのが気恥ずかしいので止める)

企画を持ち込んでくださった土取利行さんとの古稀を過ぎてからの再会と、縄文土器一筋50年の猪風来さん、奥さまの村上よし子さん、そして32歳、あまりにもの若さで召されたご子息、村上原野さんとの本質的ともかってにおもえる再会(この3人の創造作品の放つ普遍的輝きは、私のつたない言葉では表しようがない、その一途さに撃たれる。是非体感してほしい)が、私自身の今の生活に言い様のないエネルギーをもたらしているのはまちがいない。



2025-02-09

寒い日が続いているけれど、心のなかは一足早い春の気配、N氏のフライヤーが楽しみな五十鈴川だより。

 来週土曜日15日、4月30日ハレノワでのスパイラル・アームズ公演の、フライヤーを作ってくださるNさんとの打合せを我が家でする。

今日の気分転換に最良の本

しかし、打合せをの前に、すでにN氏とのやり取りは(メールで思い付くことなどを)している。今朝起きたら午前1時過ぎのラインに、ラフのデザインが送られてきて、意外な早さと、その発想力に、またちょっとワクワクしてしまった。だから五十鈴川だよりを打つ気はなかったのだが打つことに、した。

遅くとも2月末までには、フライヤーを完成したいとおもう。岡山バージョンのフライヤー、納得したものを創りたい。キャッチコピー、他、必要最小の文言を入れないといけないので、私もこの寒いなか、労働しながら思い付く文言を、体が発する言葉を、恥ずかしやを、かなぐりすて知恵を絞っている。

N氏は言葉巧みに、私を誘導するので、なりふり構わず、企画の恥は書き捨てとばかり、思い付いた文言を送る。

そうやってお互いの共同作業で、(私のおもいを汲み上げてくださり)N氏はデザインを進める。このやり取りはことのほかの愉しさで、まもなく73歳になる私を嬉しがらせ、刺激をもらえる。

企画をする醍醐味、まして仕事ではない企画を引き受ける喜びは、まさにこれからの未知の時間をいかにワクワクするか、しないかに私の場合はかかっている、といっても過言ではない。

ものの本で知る、老いと共に脳の記憶や創造力を司る前頭葉の退化が進むのは、摂理ではある。がその退化を少しでも送らせるには、企画をすることが、私の場合いちばんなのだと、思える。まず自分がワクワク、感動しなければ、目に見えない波動は他者には決して伝わらない、という確信のようなものが私にはある。

まったく話は変わる。現実的な問題として企画をするということは、収支のバランスが取れないと成り立たない。細々としたことは打たないが、今回のスパイラル・アームズ、ハレノワでの公演は私が窓口として引き受けてはいるが、内実は私のこれまでの人生で出会えた、奇特な友人知人たちの支援無くしてはまったく成立しない。

70歳から再び企画を再開し、今年で4年連続継続出来ているのは、繰り返し打つ、この友人知人たちの支えがあるからである。今回一月末から、スパイラル・アームズ支援カンパと、チケットの事前予約のお願いを例年のように封書で送ったのだが、他力の応援カンパがすでに寄せられている。(鳥取のMさん、岡山のSさん、Jさん、Kさん、鹿児島のHさん、神奈川のKさん、栃木のIさん、東京のM子さん、福岡のKさん、この場をかりて心から感謝します)

すべての仕切りを委ねられている私としては、チケットを完売すれば十分に予算的にまかなえる。収支を黒字化し、幾ばくか次の企画に打って出る余裕を残す。そのために必要不可欠なのがインパクトのあるフライヤーなのである。

フライヤーが完成したら、街中や岡山ローカルエリアを、(他県の仲間にも配布をお願いする、岡山のフライヤーに反応する人に出会いたい)お遍路するかのように配布行脚したい。



2025-02-08

あと5日で73歳を迎える土曜日の朝に想う、五十鈴川だより。

 この一週間かなりの寒波のなか、なんとかフルタイムではないが、労働を合計30時間やり、待ち遠しい土曜日の朝がきた。正直もうやりたくはないとおもう日もあったが、結果的にはいろんなことを考えることが出来てよかった。

長女の2番目の子供、未彩、5月で2才

家で静かに考えても、私の場合ほとんどいいアイデアや、思い付きが浮かばないのだが、体を動かして労働しいていると、血が流れ始め、雲の流れや風の音や野鳥の声に耳を澄ませたりしていると、あの人に連絡してみようとか、体が動き始めるのである。だからおそらく、先のことはわからないにもせよ、ひとつの啓示としてきっと労働が億劫になってきたら、企画する意欲が失われて来るのだろう、と考える。

だが、ありがたいことに間に合った。今年は何やら私の老人力は、なぜか今のところ不思議なほどといえるほどに、自分でもおかげの力で、ありがたやの力をいただいている。今がすべて、今がすべてと呪文のように唱え、新しい一日を生きている。

話は変わる。知らなかったが、私は統計とか、データとか、をほとんど頼りにしない人生を歩んできた。(いろんな人や書物に影響を受けてこの年齢まで生きてくることが出来た)

私がこのようなことを五十鈴川だよりに打つのは珍しいのだが、日本人の男性の平均寿命は、82歳、健康寿命が73歳であるとものの本で知らされた。気がつくとあと5日もすれば私は73歳になる。おかげさま、他人と比較するなんて野暮の骨頂、私は私の今を生きるしかない、当たり前の摂理を日々受け入れながら生きている。

ただおもうことは、寿命はまるきり私にはわからないし、健康寿命などという言葉自体が私は苦手である。命の終わりは何時なんどき訪れるか誰にもわからないし、健康寿命の終わりも何時なんどき訪れるかは、誰もわからないのである。だからこそこの年齢での日々を、私は慈しみ(このようなことを打つとどこか気恥ずかしいが)一日一日可能な限り悔いなくいるのだと、キザだが寒風のなかで、ものおもうのである。

73歳、まったくまたもや未知のゾーンに入って行くなかで、4月30日ハレノワで土取利行さんと再会(再開)、秋にはまったく未知の縄文世界一筋の、畏人稀人猪風来さんとの仕事が控える。さきほど、間に合ったと打ったが、これは自分にしか分かりえぬ感覚なのである。

満を持して、という言葉でしか言えないし、あらゆるタイミングが、まさに機が熟さねば降ってはこない企画なのである。だから敢えて五十鈴川だよりに打っておく。このような企画が我が人生にもたらされた運命の在り難さが、きっと私の、おこがましくも打つが、元気のもとなのである。

18歳で世の中に放りでて、才能なき我が身に時に絶望的になり、大切な人にご迷惑をかけ、あらゆる人たちの援助、理解のお陰で現在の私がある。あれから55年、やっとと言うべきか、耳を済ませば、命の終わりを微かに感じられるような年齢を迎えている。同年代の私の今をつくってくださった方々が、次々と冥界に召されている。だが、私は生きている。前回も打ったが、死者のエネルギーが私を鼓舞する。

土取利行さん、猪風来さんとお仕事できるのは、55年間の見果てぬ夢の、結実だとかってにおもえる。

2025-02-02

スパイラル・アームズ岡山公演、S氏と相談し単独岡山バージョンの必須フライヤーを創ることにしました。

 くどくどとは打たないが、春の4月30日のハレノワでのスパイラル・アームズの公演は名古屋、京都、大阪はライブハウス、香川と岡山は地元の有志で担当、全5ヶ所をツアーする。私は最後の公演地の岡山の窓口を引き受けている。

波乱万丈サイコーにカッコいい人


そのための共通フライヤーの データが主催のO氏から昨日送られてきた。一目見て感じたのは、共通フライヤーではダメだという直感である。右腕のSさんにすぐ相談し、急遽岡山は共通フライヤーだけではなく、オリジナルの岡山単独でのフライヤーを創ることにし、この3年私の企画のフライヤーを縁あって創ってくださっているN氏に、経緯を話し、私のおもいを電話で伝えると、私の性格をかなりつかんでくださっているN氏は、すぐに受け止めて、早速取り組んでくださっている。

私に共通フライヤーに対する期待のようなものがあったがゆえに、最初から岡山は単独バージョンのフライヤーでゆけばよかったと今は思うが、明らかに私の判断ミスである。とはいえまだ時間は十分にある。またひとつ学んだと思えばいいのだと、自分に言い聞かせる。

ハレノワに定員300人、岡山では知名度のないスパイラル・アームズを集客するのは至難である。だが、あの今は伝説的でさえある土取利行さんが、スパイラル・アームズを率いてハレノワにやって来るのだ。伝説ではなく現役バリバリの奏者として。

その岡山での仕切り、窓口を、土取さんと出会ってから46年になる私が依頼されたのである。(26才、子供だった私も少しは成長したのだ)うすぐ73歳になる私が、(熱くなる)のもやむを得ないというしか言葉が浮かばない。

そういう想いは私だけではない。中世夢が原以来、10数年ぶりにタッグを組むSさんも同じである。紆余曲折の果て、Sさんと同志的再会、福岡のKさんや鳥取のMさん(想像してもいなかった大口のカンパをしてくださった)東京のM子さん、岡山のジャラン等々がまるで我がことのようなアクションでハレノワでのスパイラル・アームズを支援してくださっている。もうビックリありがたいという言葉しかない。

なぜイベントを、企画を、私は仕事でもなく、70歳から再び再開し始めたのだろうかと、時に考えたりもしてしまう、が理屈も秘密もなにもないというのが、今の私の答えである。もっとカッコつけて、敢えて言葉にするなら、生きているからである。そして敢えて打っておくが、私を奮い立たせるのは土取利行さんばかりではない。今は亡き私の両親をはじめ、私がこれまでの人生で直接であれ、間接であれ出会え大きな影響を受けた方々が、次々におなくなりになっている。その方々が私に見えないエネルギーを与えてくださっているのである。

ときどき父が1999年、死ぬ半年前に書いた文章【 私は生きている】 を読み返す。もう26年前の文章である。まだ長女は9才である。私も人並みに年を重ねその文書が沁みて、私を鼓舞する。

家族をはじめとする、友人知人、いわばお金では図れない、私のいわば全人的交遊財産の感謝の念が、私を奮い立たせるのである。理屈抜きに土取利行さんスパイラル・アームズの公演を全身で見て聴いて体感してほしい。ただそれだけである。何としても満席にしたい。命のフライヤーが必須である。


2025-02-01

昨日午前中、約2ヶ月ぶりに瀬政さんと我が家でオセローのリーディングをする、そして想う。

 今日から2月である。わずか一日で気分が変わるのだから、当たり前という他はないが、人間はいいかげんなものであり、私なんぞはそのさいたるものであるとの自覚が年々深まる。

とは言うものの、年明けそうう発熱し、ダウンしてなんとか立ち直って以後は肉体労働に復帰し、なによりも足元の日常生活をたんたんとこなしながら、春のハレノワの個人企画に静かに向かっている。

ブレディみかこさんの短編集、面白い。

もう毎度同じようなことの繰り返しのような五十鈴川だよりであるのを、どこか承知しながらも、寝ておきて新しい一日を、本人はできるだけ新鮮に過ごしたいという老人性願望を、備忘録的に打つ続けているといった塩梅である。

話を変える。昨日、午前中約2ヶ月ぶりに瀬政さんと、シェイクスピア作品の【オセロー】のリーディングを我が家のリビングで正味2時間ほどやった。私が余裕がなかったのでしばらくできなかったのだが、一月末日久しぶりに実現した。

オセローの二幕と四幕、もう何度も書いているが瀬政さんがシェイクスピア作品の音読を始めたのは71才、昨年の3月、マエストロに聞け、からだから間もなく一年になろうとしている。

正直、よく続いていることに感心している。現代日本語に翻訳されている松岡和子先生の作品をリーディングしているのだが、要所要所、私がこれまで馴染んできた小田島雄志先生(どちらの翻訳が優れているとかの比較の問題ではなく)とは異なりまったく新しい気持ちで新鮮にリーディングできるので、まさに時間が瞬く間に過ぎてしまう。

約30年間のブランクの後、61歳からシェイクスピア作品の音読を始め、コロナで公の場でのレッスンはやってはいないが個人的には持続、昨年からは松岡和子先生の翻訳でまっさらな気持ちで公に再開したのだが、丸12年が過ぎた。

マエストロに聞けが終わり、続ける人がいなければシェイクスピア作品のリーディングもあきらめようと思っていた矢先、瀬政さんがシェイクスピア作品の音読を継続したいとの申し出。正直よもやまさか瀬政さんがシェイクスピア作品の音読を継続するとはおもいもしなかった。まさにハムレットの言葉【この天と地の間には哲学などでは及びもしないことが起こる】のだ。

妻は仕事で家にはメルと花が居るだけ、高齢者二人が、オセローの全登場人物を交互に音読する。たかが音読されど音読、瀬政さんは何せすべて初めてなのである。蓄積がまったくないのである。だが継続している。高齢者があのシェイクスピア作品の膨大な長い台詞をいきなりリーディングするのは、まったくもって途方もなく大変なことなのである。

体に付加がかかっているのは容易に推測される。途中休憩を入れて2時間ほど、一旦始めたら集中力と持続力が求められる。それでもあえて瀬政さんがシェイクスピア作品の音読に挑み続けているのは、きっとシェイクスピア作品の面白さを読むほどに体で発見しているからだろう。それとやはり、音読は体にとってとてもいいということを、瀬政さんが自分の体で実感しているからだと思う。

音読するほどに、日本語の言霊がお互いの体にしみわたり、オセローの嫉妬に猛り狂う言葉、イアゴーの知謀策略の言葉、デズデモーナの天真爛漫な言葉、あまりにもの意識心理のズレの悪魔的的小宇宙に誘われてしまう。なんという人間の存在の不条理、理屈抜きにシェイクスピア作品は途方もなく面白く、なんといっても今だからこそシェイクスピア、現代に通ずる。

ドラマ、劇的小宇宙自由世界に身を委ねる二人。いつの日にか、ささやかに、ささやくかのようなプロには出来ない、ミニの高齢者発表会ができたら夢のようである。

2025-01-26

休日、春のハレノワでのスパイラル・アームズ公演の応援依頼文を書き、宛名を筆かき、一筆入れ投函する。

 この年齢になると、いよいよもってあれもこれもはできず、ということを実感しながら、やれることを少しずつ進めている。平日はフルにではないが、肉体労働をしているので、ここいちばん集中力をもってやらなければならないことは、土曜日曜日にやることにしている。

1月21日猪風来縄文美術館にて

五十鈴川だより、かなり日録的になってきているのを自覚している。今週何をやっていたのかを忘れないうちに、打っておかねばとのおもいが増してきているのだ。振り返り記録を確認するかのように打っておくことを習慣化することが、脳のセロトニンを増すのでは、という淡いおもい。自分で自分のモチベーションをあげてゆくのである。

ということで昨日は、ハレノワでのスパイラル・アームズの4月30日の公演の案内、お願いの一文を朝いちばんに書き、同封する私がこれまでに書いた拙文を2枚含め、3枚をいれ、墨を擦り宛名だけ小筆で書き(あとは万年筆)、40通以上を仕上げた。今日はその宛名の方々に一筆いれて、投函する。

まだフライヤーもできていないのに、自分が近しく感じている友人知人へ一文を書いて、お願いをするのは、仕事ではなくリタイヤ後、再び今回のような企画をするようになってからである。庶民の私の個人企画イベントは、規模にもよるが一人で背負うのはまず無理である。

だから、できる限り友人知人の他力の応援を仰ぐべく、知恵を絞って私は私なりの方法を思考実践するしかないのである。時代遅れ感覚を十分以上に自覚している私だが、幸いなことに、私の苦手な分野をカバーしてくれる、妻や家族の応援があればこそかろうじて、この数年の企画が実現しているのである。

それとこれまでの人生で出会えた貴重な友人、知人の存在なくしてはまったく実現することは叶わなかったであろう。私の友人知人も当たり前、年齢を重ねているが、土取さんや猪風来さんはもっと年長である。外見はそれなりの年齢を感じさせるが、その内面の輝き、泉のような枯れない若々しさは、いったいどこから醸し出されてくるののであろうか。謎である。

土取利行さんからの依頼があったとき、思ったことは企画を受ければ、少しでもその謎をかいまみえるかもしれないし、なによりも小さな世界に安住し、ややもすると守りに逃げ込み、好好爺に成り下がってしまうのではないかとの怖れを、払拭するのにはまったくもって、最高のタイミングでのオファーであったのである。多分、土取利行さんでなければ引き受けてはいない。

そうはいっても、私は自分のやれることをまったく過信してはいない。もっと打てば、もう年齢的に、イベント企画にはほとんど関心がなくなってきていることを、私は正直に告白する。(ひとりでやれることに関心がシフトしているのである)

そしてもっと正直に告白する。自分で言うのも気恥ずかしいのだが、土取さんや猪風来さんの、世界の行く末に対するあまりの真摯なこれこそが芸術家とでも言うしかない直感力的危機感、(裏返しの人類のみにとどまらないあらゆる生き物に対する愛の深さ)をようやくにして深く共有実感できるようになってきた、己を感じるからこそ、例外、土取さん猪風来さんとはなんとしてもタッグを組みたいのである。

お爺さんではあるが、これまでに、私なりに学んできた方法で、地を這うようにチラシを配布して歩きたい。顔の知らない、未知のどこかの誰かの目に触れるように。反応してくれるように。土取さん、猪風来さんの足跡は圧倒的に傑出している。若いかたにこそ知ってほしい。

土取利行さん、猪風来さんの前人未到の荒野を、黙々とただ🦏のように歩み続けている稀な人間アーティストを企画できることの、喜びが私の今を限りなく活性化させている。

PS 写真は1月21日土取利行さんが猪風来縄文美術館を訪ね、2時間秋のイベントについて打   合せをしたさい、土取さんに32歳の若さで逝去されたご子息村上原野さんの遺作となった作品について、お話をされている猪風来さん。

2025-01-18

2025年、書写始め、手島圭三郎さんのお仕事を(素晴らしい絵本の文章)このところ書いてます。

 今週4日無事に寒い中、楽しく働け、あらためて動く体の有り難さがが染みた。体の回復と共にほぼ完全に、普段の生活にシフトして今日を迎えている。妻も普段通りに働けるようになり、平凡生活が戻ってきた。ただ、嬉しい。

原画をみに行きたい

さて、今年からかなり真面目にやりたいことのひとつに、日本語の気に入った本や、言葉を書写することがある。以前からシェイクスピアの作品の気に入った台詞の書写をやってはいたのだが、シェイクスピア作品の書写だけではなく、絵本や詩など分野にこだわらず、とにかく手を動かして、ノートに書き込んでゆく時間を楽しみたいという素朴な気持ちがよりましてきたのである。

今年もまた、働くという楽しみ、働けるというありがたさを第一義に、日々の暮らし、生活を基本に、生きる喜びの糧として、旅や読書や音読にもうひとつ、書写の楽しみを深めたいのである。さしあたって手島圭三郎さんの、あまりに素晴らしき作品の絵本の書写から始めたのだが、理屈抜きに楽しい。書写しているときにはまったく余計なことを考えず、ただひたすら手を動かすだけなので、精神的にすこぶる私に合っている。

単純労働しかり、単純な所作の繰り返しが、単細胞の私には、ことのほかあっているのだということのあらためての気付きが嬉しい年明け早々の私なのである。一人もくもくとできるのがいい。草刈りや草取りもだが、一人でやれるのが何よりもいいのである。

まったくお金もかからず、出掛ける必要もないので時間も、かぎりなく有効に使える。かぎりなく高齢者向き、私向きである。年金生活者になったとき思ったことは、かぎりなくお金に頼らず貧乏ではあれ、慎ましき喜びの追求ということの実践と思ったことだったが、そのことをただひたすら今年も続けたいと、願っている。年金生活以外に、自分のやりたいこと、好きなことで副収入があるということは、すなおに嬉しい。

それと、体が喜ぶ独学の楽しみの追求である。学ぶことはまさに終わりなし、日々充実して過ごすのには私の場合学ぶことがやはりいちばん、楽しい。老いてゆくとだんだん記憶力他が、弱くなってゆくのは摂理だとはいえ、そこをなんとかならないものかとのおもいで、少しでもじたばた反復単純繰り返しを、脳の海馬に向かって刺激をおくる術のようなことを続けたい。

言うは易し、実践はかたしではあれ続ける。3日坊主の私が10年以上続けていることが、気がつくと5つくらいある。これを今年も続ける。目標はいつも低めに設定する。いちばん確実にやれることだけをやる。難しいことには老いたら手を出さない。ささやかで十分誰かの役に立つことを心かける。とまあ、元気になったことの証左、あれやこれやを思考する私である。


2025-01-13

元日本代表サッカー監督、岡田武史さんの現在を伝えるNHK今治放送局の【これから】を見て感動しました、そして思う。

3連休最後の朝である。体調万全とは言いがたいが鼻水も収まってきた。気力が萎えたら免疫力が落ちると能天気に確信しているので、何はともあれ何でも綴って五十鈴川だよりを打ち続けることで、心身機能をわたしは調節する。何よりも喜ばしいのは、妻の体調も回復傾向にあり、台所に立てるようになってきたことである。
村田喜代子さんの本はじめて手にした


ややもすると、この年齢になると当たり前だとは思うが、体力が落ちると回復も長引く。だがそこをいかにして前向きに工夫し知恵を絞り、養生してゆくのかそこが思案のしどころである。この二日間ひたすらじっとしていたお陰であきらかに体は回復している。その喜びが五十鈴川だよりを打たせる。

話は変わるが、今朝妻が今治NHK放送局製作の、前サッカー日本代表監督の岡田武史監督のインタビュー番組を見て、見るのを薦められたのでNHKプラスで見た。今治でサッカーチームのオーナーになって丸10年の岡田武史さん(現在68才)の歩みがスタジアム完成として結実した。

地方で、この経済が疲弊した時代にである。一人の男の途方もない夢が、格安の、だがしかし本当に地域に根差した、人々の心が美しいスタジアムとして完成する。スタンドから街、島々、海が望める。岡田武史さんは借景が素晴らしいスタジアムと言っておられた。この借景はいくらお金を積んでも買えないものである。

一口に10年という地道な時間の積み重ね、ローカル今治で、ゼロから途方もいない夢に向けての地道な取り組みの過程が、短い時間で編集され、よく伝わってきた。何よりも武骨で口下手な岡田武史さんのお人柄に感動した。何よりも明確なビジョンとたぎるような情熱、意思と支える仲間がいれば夢は叶うのである。そのことをあらためて知らされた。

人間を人間足らしめていることの大きなひとつに、感動するということが欠かせないという気が私はするのだが、妻がよかったというので見る気になったのだが、今年最初によき番組に出合得たこと、それも体調が万全ではないなかで見ることができてよかった。サッカースタジアムが完成してお礼の言葉を地域の方々にのべる際に、あのクールなイメージの岡田武史さんが、感極まって涙を流された時には思わず私ももらい泣きしてしまった。

人は自分のためだけでは、そんなに頑張れない。他者の喜びのため地域の喜びにこそ頑張る勇気がわいてくるし、これからの時代は自分の頭と体で考えて動ける人間でないと生き延びることができないと、岡田武史さんは語る。まさに前例なき危機の時代を乗りきらなくてはならないのだ。その非凡な日本の未来を憂える危機感が、58才からなりふり構わず、未知の今治で悪戦苦闘、従来のサッカースタジアムでは考えられないほどの低予算で完成する。地域住民がサッカースタジアムで生き生きと交流する場所としての再生機能を果たす。

10年前、ことサッカーのことだけに留まらず、日本の未来に、特に若者の未来に強烈な危機感を感知した岡田さんは、なんと私立高校の校長先生までを勤め、教育の現場の再生にまで取り組んでおられる。発想がまったく新しい。世界相手に従来の紋切り型教育(サッカーを含め)ではまったくダメであることを岡田武史さんは深く認識している。

昨日の五十鈴川だよりで触れた佐藤勝さん、方や分野はスポーツではあるが、すばらしく共通するのは未曾有のこれから先を生き抜いてゆく新しい日本人の教育に全力を注いでいることだ。点取り虫ではない教育の必要性、危機感を心から憂えていること。そして単に憂えているだけではなく、どうすれば克服できるのかを、お二人してその方法を実践していることである。





2025-01-12

佐藤勝氏の、知の技法を読みつつ、ひたすら体調を整える。

 少しずつインフルエンザの症状が快方に向かっているという安堵感が私を五十鈴川だよりに向かわせる。栄養をつけ、やり過ごす、忍耐、辛抱という言葉を呪文のように繰り返す。このようなことを打つと何やら深刻感が漂うが、当人は至って気楽に過ごしている。鼻水がおさまればもうあとはほとんど生活に支障はなくなってきている。

今年最初に読んでいる本

これで妻の体調が戻れば、私としてはいうことはない。幸い3連休なのでここはじっと我慢をして、外気に触れることは避けて部屋のなかでじっと、昨日も打ったが猫のようにじっと生活、本を読んで過ごしている。

手にしている本は、佐藤勝著、知の技法である 。今から10年前に上梓された本の文庫版である。おおよそ2005年から2015年までに書かれた文章や対談が、講座形式で全10講座にまとめられている。

出版された当時も手にしたはずなのだが、内容をどれ程深くつかんでいたのかはまったくお恥ずかしいほどのものであることを、この度再読して(今212ページまで読み進んだところ)痛感している。

(それにしても佐藤勝さんの視野の広さ、記憶力の底しれなさには脱帽舌をまくしかない、よくもまあ、このようなスケールのでかい知識人が出てきたものである。わたしにとっては分野は異なるが土取利行さんと双璧である)

読み進めて思うことは、逆境に強い氏の思考方法がいかに培われてきたのかの、一端を垣間見ることができるという点で、以前はちんぷんかんぷんに思えたほどに遠く感じられた文章が、かなりすいすい読めるようになり、読んでいてへーっといたく知的刺激を受けることが多くなってきている。だから読める、面白い。

大学も出ていないわたしは、佐藤勝さんの(かってに私の先生だと思っている)知的胆力に畏怖の念を覚えるほどの仰ぎ見る本物の知識人だとかってに思っている。佐藤勝さんが国策捜査で理不尽な判決で有罪逮捕され、512日間東京拘置所に収監され、出所後出版された本の、国歌の罠、外務省のラスプーチンと呼ばれて他、が私などのごく平均的な庶民にでさえ与えた衝撃は、オーバーではなく思考のコペルニクス転回を迫るほどに衝撃的なものであった。

今から10年前に出された本ではあるが、今読んでもまったく新しく読める。読んでいる私があきらかに変容(いい意味でととらえたい)しているからこそ、まったく新しい本として読めているのだし、読む速度が遅くなったとはいえ、教養が生きる上で最強の武器であると学ぶことの醍醐味をこれほどに赤裸々に伝授、説得力をもった知識人を他にわたしは知らない。

佐藤勝さんは筋金入りのキリスト教神学者である。佐藤さんの本を読むまで、神学という学問があることさえ、わたしは知らなかった。それほどまでにわたしは、今もだが無知である。だが学ぶことの面白さ、独学の有り難さはふかまっている。(ように感じている)

古稀を過ぎて世俗的な動向他にとんと関心が向かわなくなりつつあるし、この事がいいことなのか、たんなる老化現象なのかは、しばらくおくとしても、私としては佐藤勝さんの本や、佐藤さんがおすすめする本を、これからいよいよ生きているうちに学んで過ごしたいという、老いらく学び願望は増してきている。

2025-01-11

寒中を外では犬に、家では猫に変身する五十鈴川だより。

土曜日3連休の朝である。この一週間体調が万全ではないなか、なんとか3日間ほど働いて今日を迎えている。交代というわけではないが、今度は妻がダウンしてしまった。共に生活しているのだから、こればかりは致し方がない。共倒れでにはならなかったのが、せめてもの救いである。
お正月近くの公園で横たわるノア

幸い、万全とは言いがたいとはいえ、五十鈴川だよりを打つ気力が戻ってきたことがまずは有り難い。とはいえ妻の体調がもとに戻るまでは、つとめて家事他をきちんとやらねばならない。共に生活するということはそういうことである。

一人であれ、二人であれ生活を維持キープしてゆくということは、ただもうそれだけでをこなすというだけで、大変なことであるとあらためて知らされる。そういう経験を年明け早々味わっていることを、私はよき方に受け止めている。

日々丁寧に生きるということを、還暦以後自分に言い聞かせているといった塩梅なのだが、今年もまたそのように生きる、生きたいということに尽きる。そのためにもっとも肝心、大切なことは健康第一で動ける体の養生である。

お正月早々、身に染みている。そういう意味で大局的によき時間を過ごさせてもらっていると、私は受け止めている。亡き母が風邪は万病の元と言っていたが、ようやくにしてその言葉が染みる年齢になってきた。

妻は五十鈴川だよりにあれやこれやを書かれるのを嫌がるので記さないが、老夫婦の在り方の慎ましき現在を再確認するという意味で(まだ完治してはいないが)も、夫婦二人してインフルエンザに罹患したことで、多岐にわたっておもいをくゆらせられたことが、恵みである。

ところで、この一週間薪ストーブの上でふんだんにお湯を沸かして、我が家特製のペットボトル湯タンポにどれ程助けられているかわからない。寝るまえに布団のなかに入れておく、潜り込むときに包まれる暖かさは、ささやかな至福である。

人は大事な人たちと、ささやかな至福感があれば、この年齢になると十分生きるに値する。今、これを打つ2階の部屋に冬の日差しが降り注ぎ、私の背中を暖めてくれている。夏のお日様は苦手だが、冬のお日様は大歓迎である。ポカポカお日様の陽光に身を委ね、猫のように暫し生活し、立春を待つことする。

2025-01-06

大晦日、寸暇打つ、五十鈴川だより1。

 大晦日の朝食後、寸暇打つ五十鈴川だより。昨日から次女の旦那さんと、3才の葉君が加わり、9人のまあ大家族となり、我が家は3人の孫たちの声があちこちで響きわたっている。

右望晃(のあ)6才、左葉3才、共に遊ぶ

私が打っているそばで、ノアが冬休みのお勉強をしている。そうこうしているうちに、葉がやって来て、私の膝の上に座り、とても落ち着いてブログを打つなんてことはまず不可能なのであるが、この喧騒の中でも打つ楽しさのようなものが私にはある。

妻や娘たちは、洗濯物を畳んだり、洗濯物を干したり、あれやこれやの家事に忙しい。その合間本を読んだり、歌を歌った利と、孫たちとのお相手に余念がない。何せ孫たちは、一瞬たりともあらゆる動きをやめないからである。

そして私は、その女性たちの動き、若い私たちの世代とは異なる、現代の子育て真っ最中世代の、悲喜こもごもを寸暇垣間見しながら、改めて子育ての大変さを勘案しながら、私のような爺さん世代がお役に立つことの重要性を、娘たちの子育てを年の瀬共有しながら、現代の家族のあり方を、嫌でも考えざるを得ないし、そのようなことをつい思ったり、考えたりすることで、高齢者の役割の今なすべきことが、やんわりと見えてくるような気がするのである。

幸いなことに、無事に家族が集い、このように能天気に大晦日、五十鈴川だよりを打てることの平凡な喜びを、心底私は堪能している。このような平凡な当たり前の慎ましき喜びが、いかに非凡な出来事であるか。と、まあここで一旦中断。

2025年最初の五十鈴川だより、義理の息子レイさんに買ってもらった新しいキィーボードで打つ。

 明けましておめでとうございます。

新しい年も一日一日大切に生きたい

年末年始、お天気にも恵まれ、つつがなく穏やかなお正月を家族全員で過ごせたことを一行記せれば事足りるほどに、わたしにとっては有り難いお正月でした。

が、2日長女家族、3日次女家族が帰京し、我が家は火が消えたかのような静寂に包まれ、そのあまりの慎ましき喜びの反動なのか、3日の夜からにわかに体がだるくなり、これはいかんと早々に横になったのですが一昨日4日朝熱を計ると37度8分、咳も出始めインフルエンザに罹患したと覚悟しました。

土曜日だったし高熱ではなかったので、39度を超えるようなことになったら緊急外来を考えることにしてひたすら横になっていました。まったく食欲がなくなってしまったのですが、妻が用意してくれたものは、残さず食べてひたすら安静にしていました。日曜日一番高いときで38度8分くらいまで上がったので、この状態が月曜日まで続くようだったら、医者にゆこうと決めました。

安心は禁物なのですが、幸いなことに昨日の夕方くらいから熱が下がり始め、咳も治まりつつあります。今36度6分、かなり平熱に近づいてきましたので、新年のご挨拶を何はともあれ打たずにはいられない、業の深い私なのです。妻にばれたら叱られるので本日はこれくらいにしておきます。

妻が私になり代わり、オンライン診療なるもので、薬を処方してもらい今日のお昼からそれを飲んでいるので熱が一時的に下がっているだけなのかもしれないので、今しばらく安静にしておきます。2日間よき安息時間をいただいたこと恵みです。昨年に続いて、今年も平凡に日々の新しい時間を有意義に過ごしたく想います。世界の安寧を祈念(いのり)ます。