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2025-06-27

昨日ふるさと帰省、五十鈴川に程近い、門川町新庁舎で打つ五十鈴川だより。

 昨日から200日ぶりくらいにふ、るさと門川は兄のところに帰省している。ふるさと五十鈴川だよりを門川町の新しい役場のロビーで打っている。兄のところにはワイハイが飛んでいないので、役場に勤めている若いかたがあっという間に設定をしてくれたので、打っているというわけだ。

生と死を、梅雨空感謝、五十鈴川

家にいても、小さな旅に出掛けても、五十鈴川だよりは今や私にとっては、日々の生活の活力根源とでもいうほかはないほどに、必須なので、意味もなく何ほどかの文章がつむぎだせれば満足なのである。昨日はお昼過ぎに日向市駅について、若山牧水の生家に近い、道の駅で兄と手打ちそばを食べ、ついでに道の駅で地元の食材を義理の姉のおみやげに買い求め、午後2時過ぎ兄の家に着いた。

姉の登紀子さんが、買い求めたトウモロコシをすぐにラップに巻いてチンしてくれたのを、兄と共に頂いた。兄は腎臓ガンを患ってはいるのだが、あれから4年近く生き延びていて、トウモロコシを2本キチンと平らげていたのには、驚くと共に安堵した。

夕刻まで暫しゆっくりとお昼寝をし、16時半、登紀子さんお手製の夕飯(スズキのお刺身、煮物、おみそしる、等々、ふるさとの味、格別であった)をいただき、食後は兄や姉と歓談しながらのんびりと過ごした。今朝は朝一番、兄とお墓参りに行き、墓前にあれやこれやの儀式、報告をした。いつものことだが、ほっとする。もどって朝食(ニラ玉、トーストコーヒー、すいか、大満足)をいただき、門川町役場まで兄に送ってもらい、五十鈴川だよりタイムというわけだ。

私が73才、次兄が76才、長兄が79才、姉が82才である。この数年打っている。毎回これが最後の帰省になっても悔いのないように、私としては帰っている。幸い身の回りのことを、キチンとこなしながら生活しているのを、今回も確認でき、こうやって五十鈴川だよりを打てる小さな幸せを噛みしめている。やがては当たり前、お別れがやってくる摂理を受けとめねばならない。だがしかし、生きて元気な間は、ふるさと詣でを限界までやりたくおもう私である。

この惑星に、生を受けた場所、原点に回帰、過ぎし来しかたを、ふるさとの海山川草木の風景の中で、思いを馳せる時間は、いよいよのこれからの人生はなはだもって大切なひとときなのである。だからこそ、ほんのわずかな時間ではあれ、思いの欠片を、綴っておかねばと、おもうのである。

目に見えるふるさとの風景は、激変しているが、五十鈴川ほか、海に浮かぶ無人島、乙島、山並は不変である。普遍な風景にふれると、我が心は満たされるのである。【梅雨さなか、お墓参りや、五十鈴川】写真はお参り手を合わせる兄、私も撮ってもらった。本日はこれにて。

2025-06-23

昨日猪風来さんの【我が縄文芸術人生を語る】を終え、思う夕刻の五十鈴川だより。

 昨日夕刻午後4時半、猪風来さんの【我が縄文芸術人生を語る】を無事に終えることができた。正直何か打たねばとの思いはあれど、体が(それでも午前中働いた)この湿気と暑さのせいで、モワーッとしていて思考がまとまらない。

だがしかし、そのような私の体ではあるのだが、打てばかいろのひよりあり、短くてもいまの心境を綴っておかねばと、我が煩悩体がささやくのである。いまもあの、猪風来さんが高揚して、時に老いた獅子が吠えるかのような絶唱とでも言うしかない声が、私の体に渦巻いている。予定を30分もオーバーし、77歳の猪風来さんは水を飲むのも忘れて、2時間半立ったまま語り続けた。(関係者見含35名の人がお話に聞き入った)

縄文世界にとりつかれて50年間の、苦難のまさに激闘の歴史という他はない、貴重極まるお話の、ほんのわずかでも五十鈴川だよりに記しておきたいとは思うものの、いまの私の体調では無理である。ただ事実として映像記録(瀬政さんと那須さんの尽力による)が遺ったことが、企画を立案したものとして一番嬉しい。

私が挑んだ企画は、これまでほとんどがライブ音楽会や一人芝居であり、初めてトークライブ(単なる講演会の枠を猪風来さんのトークは超えていた)を企画したのだが、やるのだと決めさせたのは、猪風来さんのもつ唯一無二の、あまりにも一途、純粋無垢なその存在力の魅力である。

原野さんの小説、冬じっくり読むつもりです

このような傑物芸術家の存在を一人でも多くのかたに知らしめることが、企画する醍醐味なのである。40才から企画を始めて、企画を実現することで、振り返ると幾ばくかの取り組み実現した仕事の思い出が、我が体には記憶の宝としてのこっている。自己満足であれ何であれ、一番新しい企画として、猪風来さんのトークが加わったのである。素直に名誉である。

今は実現したばかり、’疲れはてているが、この老いたからだはきっと次なる企画を産み出しそうな予感がする。少しの夏休みの後、秋の20周年記念イベントに向かうことになる。

さきのことは皆目分からないにもせよ、猪風来さんご夫妻の回りには素敵な仲間がたくさんおられることを、今回知ることができたし、何よりも新しい未知なる世界を知り、小さな企画で大いなる気付きを頂いた気がしている。いずれにせよ猪風来さん、村上よし子さん、原野さんのファンになったことを五十鈴川だよりにキチンと打っておく。企画は未知の縄文世界の扉を拓く、先ずは自分の老いゆく体が悦ぶ企画を夢見る。

2025-06-22

猪風来さんのトークライブの朝が来た。そして思う五十鈴川だより。

 6月22日の朝である。昨日、今日の猪風来さんの【縄文芸術人生を語る】については五十鈴川だよりで打ったににもかかわらず、蛇足であれなんであれ、朝の時間他にはやりたいこともなく、簡単な準備は昨日のうちに済ませているので、何か打ちたいという老人妄想五十鈴川だよりである。

オシント情報(オープンソース)のみで、ほとんど表面的、一方的なニュースを受けとるばかりで、世界の複雑怪奇なあちらこちらでの出来事に関しては、もうまったくうんざりしているというのが、老人の偽らざるおもいである。(イスラエルのイラン核施設への突然の一方的な攻撃は、遠い島国の老人をも、気持ちを萎えさせる)

村上原野さんの縄文造形作品

さて、梅雨のこの季節にしては、異常気象という言葉の虚しさを感じるほどに、日中の陽射しは老人の我が体にはきつすぎる。がしかし、ぼやいてばかりではよけいに虚しい。そのような陽射しを浴びながら、今週もなんとか労働し、日々をやりくりし猪風来さんのトークライブの日の朝を迎えた。ちょっとうきうき、企画を発案したものとしては嬉しい。

今のところ25名の事前申し込みがある。先日レディオモモ(FM)で事前申し込みはしなくていいので、関心があるかたは当日直接いらしてくださいと、私が話したので、効果があることをねがっている。がしかし、昨日も打ったが、25名来ていただけるだけで、私としては充分にありがたく嬉しいのである。

心からやりたい企画が私の足を動かす。ゆっくりしか歩けず、今や走ることは不可能な我が体ではあるけれど、確実に歩を進められる。そのことの老いの醍醐味の気付きの深まりをかろうじて我が体は感じている。老人は時代に置いてきぼりにされる。私自身にそのような自覚がある。だが、置いてきぼりなりの企画がやれる。仲間もいる。わたしは元気に今を生き存在している。

そして、なによりかにより、猪風来さん御夫妻に(このお二人は2卵生双生児であるかのようである)なにやら本質的に、この年齢にして出会えたことの偶然的な必然の恵をかみしめている。お二人が放つ、縄文世界の豊かさのオーラを以前にもまして感じる。

感じる。うきうき、そわそわ、文字のない縄文時代に思いを馳せるとき、なんという天然大自然のなか、日本列島に奇跡的に出土した縄文時代の一万年にも及ぶ長きに花開いていた空前絶後の文化をお二人から教えられる。自由自在にその土地、風土、環境の中で命の讃歌を土偶や器に魂をこめていたのかと。老若男女、畏怖し、感動し、悦び、全身で創る。邪念のかけらもない。

気の遠くなるほどの豊かというしかない縄文時代にとりつかれた猪風来さん、さてもさても、今日は暫し企画者であることを忘れ、猪風来さんのお話に耳を澄ませたい。

2025-06-21

明日県立図書館デジタル情報シアターで行われる猪風来【我が縄文芸術人生を語る】前日の朝に想う五十鈴川だより。

明日は県立図書館デジタル情報シアターでの、猪風来さんの【我が縄文人生を語る】14時から16時(開場13時半)の日である。企画したのは私である。

詳細は割愛するが、昨年暮れ猪風来さんから今年秋の(10月12日)猪風来美術館開館20周年記念イベントの企画応援のお電話をいただいてから、すでにおおよそ8ヶ月以上の時が流れている。

企画者冥利である。

40才で岡山に移住し、仕事としての企画を美星町の中世の歴史公園中世夢が原で一から始めて(61才から69才まではまったく企画からは遠ざかっていた。その間は生活しながらひたすら、シェイクスピアの翻訳日本語の音読、リーディングにエネルギーをかたむけていた)70歳から再び企画を再開して今に至るのだが、よもやまさか、猪風来さんから直接お電話をいただくなどとはおもいもしなかった。

私は企画応援を引き受けるのにあたって、昨年暮れから新見の猪風来美術館に先ずは通うことから始めた。猪風来さんの過ぎし来しかたをほとんどなにも知らないといっても過言ではなかったからである。

何回か通って、年が明けてスパイラルアームズの公演に向かいながら時間を見つけては猪風来美術館に通っている時に、これほどの芸術家の存在が、私も含めてあまりにも、 この岡山で知られていないことに、愕然としたことが今回の企画の発端である。

先ずは私自身が少しでも猪風来さんの歩み、縄文造形人生を知るために本人に、改まった場所、空間で他者の前できちんとお話ししてもらう機会をつくり、その事を記録として遺しておきたいというのが動機である。(ゆく度に猪風来さん、急逝されたご子息原野さんの縄文造形作品の圧倒的なまでの、独創性、生命力の輝きにいまも打たれ続けているからである)

40才から、企画することをヒトに教えてもらったわけではなく、馬鹿の一つ覚えのように、感動する器、体がかろうじてあったからこそ、我が体が発熱するのを頼りに、(老人ではあるがいまだ発熱するそこにしがみついて企画をしているだけである)

トーク、(猪風来縄文造形デザイン語り世界)を企画するのは初めてである。この年齢で初めてのことを経験する、出来るなんて、私には実に贅沢なことなのである。お金をふんだんに持ち合わせている御仁ではなく、私のような生活労働者、一庶民が猪風来さんのトーク、物語を企画できるなんて、夢のようである。ましてこの年齢になると、元気にワクワク企画できることは何物にも換えがたい【何か】おおいなるものからのプレゼントに思えるのである。

企画をすることは、謙虚に學ぶことである。老人妄想癖企画者と受けとられてもかまわない。あえて打つ。他に誰もがやらないような企画がなせるなんて、企画者冥利に尽きる。参加者の多い少ないではない(多いに超したことはないが)。自分がやりたい、嬉しい遊び心のない企画は私には出来ない。私がほとんどの企画をやれたのは、中世夢が原(フィールドオブドリーム)の場と空間があったからである。(あそこだったから企画が成せた)

一万6000年まえからおおよそ10000年続いていたと言われている人間らしい、穏やかな縄文時代の、日本列島の北から南にかけて百花繚乱出土している縄文土器、言葉を凌駕してやまないあまりの敬虔な祈りに満ちた、遊び心の極致とでもいうしかない変幻自在な渦の紋様の美。その世界に導かれ、人生50年を捧げた猪風来さんのお話に、明日来られる参加者と共に耳を傾けたい。


2025-06-19

6月19日夕刻、瀬政さん我が家にやってくる。U氏からお葉書いただく、そして想う。

 6月19日の夕刻、ちょっと時間があるし、五十鈴川だよりタイム。今瀬政さんが秋の猪風来美術館の20周年記念イベントの後援名義の申請の件で、わざわざ家まで来てくれて、ちょっとお話をして、帰られたばかりである。

正直あまりの暑さのために、思考がほとんどおぼつかないし、何をするきもおきない。が、瀬政さんとちょっとお話が出来たことで、五十鈴川だよりが打ちたくなるのだから、われながらいい加減もここに極まりとでもいったような案配である。

内実が伝わる。有り難き幸せである

インターネットを利用しながら、五十鈴川だよりをうちながら、絶対矛盾を生きている私として、発信ししながら、内心まったく時折嫌になるときがあることを、正直に告白する。やはり私は骨の髄までアナロ人間である。だからといってデジタルワールドの世界を否定するのではまったくない。いや、あえて言えば、もうインターネットののない世界には私はおそらく存在できないだろう。

そんなこんな、なにを打っているのだろうかと、自分でも嫌になるが、昨日手書きの思いもよらぬかたから、お葉書を頂いたからである。この今の時代に、手書きのお葉書をいただける、もらうことの、ある種の贅沢、稀少価値に私の老いた体は悦びにうち震えるのである。

インスタントラーメンの、ある種の美味しさ、またときおりいただく我が身としてはその事実を否定するものではないが、自筆のお葉書をいただく嬉しさは、自分で育てた野菜をいただく嬉しさに例えれば、ご理解いただけるのでは、と思える。

今週日曜日、岡山県立図書館で、猪風来さんの縄文世界に半生をかけたトークを、発作的に企画した私であるが、反応は少ない。だが本番目前、私の心は穏やかである。企画するときにいつも想うことは、自分のなかで企画をしたいことがあるから企画しているのであって、他にはなにもこと更な理由はないからである。

猪風来さんのお話に耳を傾けてくださるかたが、一人でも多く来てほしいとはおもうが、誤解を恐れずにあえて打つが、参加人数の多い少ないではなく、猪風来さんという稀有な縄文造形アーティストの存在をひとりでも多くの人が知ってもらえればと、私としては企画をしたことに、どこか安堵するのである。

話の論旨がまとまらなくなってきたので、これ以上打つのは控えるが、言えることは、U氏のお葉書をいただくことがなければ、きっと五十鈴川だよりを打つことは無かった。この世に今存在する老人の私にとって、肉声、肉筆ほど、心を震わせるものはないのである。そのような、家族、友人に恵まれた私は、野暮を承知で打つ。企画をすることは愛する存在を確認するためなのである。お前には愛する存在がいるのかいないのか、それが大問題なのである。

2025-06-15

散歩と労働、読書と小さな旅(新見の猪風来美術館往復の)で鬱陶しい梅雨を過ごす五十鈴川だより。

 静に過ごす日々が以前にもまして、多くなってきている。若いときにはあれほど右往左往とあちらこちらに出掛けていたことが、まるで嘘のような気がする。がきっとこれが老いてきているということなのだとおもう。

さて、今日から妻が長女家族の助っ人として4泊5日ほど上京するので、私は今日からメルと花と私の生活になる。これまでも度々妻が上京したら、私は何かしら一人で食事をつくって、短期間ではあるけれど、ひとりでの生活を何とかやって来た。

この事は、私の年齢を考えると、パートナーのどちらかが先に召されたとき、いやでもの一人暮らし生活を考えてしまう。そのことに思いを馳せるとき、私は粛然たるおもいにかられる。私が先にゆく分にはなにも心配してはいない。

1936年お生まれの著者、凄い。

だが、こと命の灯火だけはそうはとんやがおおろさない。私の父の場合は母が先に召された。その後の父の目に見えての憔悴、衰えは何をもってしても空虚さの穴を埋めることができず、数年後にまるで母を追うように旅立った。(最後は幸せで本当に良かった)

兄や姉から、私が一番亡き父に似ていると言われているし、私自身も父に似ていると年年歳歳想うようになってきている。似ているから思春期から対立関係が続いていたのかもしれないと、今では思える。そしてあの父の頑固なまでの潔さ、厳しさ、情の深さ、愛情表現の下手さはかなりの程度私の現在に受け継がれているのを、痛感する。

だからといって、いまとなってはそのことを、私はプラス思考でとらえている。ヒトはいかんともしたいことを一生抱えながら、とぼとぼではあれ自分なりの生をまっとうするしかないというのが、偽らざる正直な気持ちである。本質的な遺伝子はこの世から消え去るまで、五十鈴川だよりを打てる間は、背負う覚悟をもって生きるしかないというのが、今の気持ちである。

さて、話を変える。自分でも年を重ねるに従って、限りなくシンプルな(自分で言うのもなんだが)生活が今のところ送れている。自分なりに足りる生活を心がけ実践している。我が道を我が体で、右往左往ヨタヨタ、家族の一人としての責任をなんとかキープ、生きている。

私は18才から世の中に出て、生活に追われ、無知蒙昧、無学のごまめの歯ぎしりのように生きてきたのだが、カサカサに渇いた心の一番の妙薬はやはり本を読むことである。今現在も本を手にすれば、心の安寧が保たれる。新しい一日をいい感じで過ごす必須アイテム、私には散歩と労働、旅と本が不可欠である。本を読むにはかなりの集中力、持続力、体力がいる。鬱陶しい梅雨を乗り切るために、体と心が満たされる、著者の本に出会いたと切に念う。念う心がなくなったら、きっと五十鈴川だよりは打てない。

2025-06-14

梯久美子著【戦争ミュージアム】を梅雨入り早々読み、静に反省する五十鈴川だより。

 梅雨入り早々、我がふるさとエリアでは大雨が続いている。肉体労働、雨は正直この年齢では辛いものがある。だけれども今週も4日ほど働くことができた。昨日は雨が終日降らなかったので、このときとばかり植え込みの剪定刈り込みの作業を、ゆっくりと行った。

この仕事を始めて8回目の刈り込み作業である。最初はおそるおそるではあったが、今では楽しみな仕事のひとつである。初夏と晩秋2度行うのであるが、延びた枝が刈り込まれると、見違える。ヒトに例えると散髪をしたような感じである。

静に反省する

大げさだがやりおえると気持ちがいい。刈り込んだ枝を片付けたあとの爽快感は私だけが感じる気持ちのよさである。梅雨、重く垂れ込めた雲は嫌でも気持ちを萎えさせてしまうが、そのような季節の剪定、刈り込み作業は今の私にはうってつけの労働である。

人間気分が重いときは誰にだってあるとおもうが、ゆっくりゆっくり体を動かし、作業を続けていると、はかどるに従って、気持ちも上向いてくる。誠にもって人間の体は動かすことが先ずは大事であると、我が体に知らされる。

すでにかいた記憶があるが、20年から23年にかけて、コロナ渦でヒトとの接触を避けることを、余儀なくされる生活にいきなり放り込まれたときに、人と接触せずただただ体を動かすこの仕事で私がどれだけ救われたかは、計り知れない。

この年齢で、いまさらのように健康にからだが動き、苦にならない仕事があり、生活が営め、その間に二人の孫、新しい命と巡り遇えたことの、有り難いという気付きの深まりは、何度書いても例えようがない。私の今の生活に孫たちの存在が、生きるエネルギーをくれる。

あらためて健やかな命の有り難さを想う。かたや絶望的に想えるほどの命の軽さが、国内はもとより、世界のあちらこちらから伝えられ、今のこの世を覆っている。鈍麻しそうになる。(アラブ世界のあまりの不条理は老人の想像力を萎えさせる)

話を変える。孫たちの存在が、私がこれまで手にしなかったような本を読むようになってきた。とくに先の大東亜戦争について。その渦中を生きてこられ、高齢になられ、その思いを伝えようとされて(それぞれの立場で)おられる方々の。(私がそのような理不尽な経験をしたならばとおもうと、言葉が虚しい)

孫たちの存在が、他者の命の尊さ、かけがえのなさにまで、知らねばとのとの思いが(反省が)本を捲らせる。今読んでいるのは梯久美子著【戦争ミュージアム】ー記憶の回路をつうなぐ_である。新書版の本で梯さんは国内14の戦争ミュージアムを紹介している。そのなかで私が行ったことがある戦争ミュージアムは都立第五福竜丸展示館だけである。

元気なうちに、おもいたったが吉日、この本で知らされた戦争ミュージアムを訪ねたくなっている。私の両親は北朝鮮からの引き揚げ者である。(長男と長女も)舞鶴引き揚げ記念館、岡山からさほど遠くはない。近々時間を見つけて行こうとおもう。


2025-06-08

どんよりと曇った梅雨入り模様の窓から、朝の空を眺めながら想う五十鈴川だより。

 雨の日以外、どんなことがあってもメル散歩は欠かさない。勿論今朝も行ってきた。毎日新しい朝をメルと共に迎える。夕刻は妻がゆく。もう14年近く共に暮らしていると家族そのものである。犬猫、動物が妻は大好きである。大きな声では言えないがきっと私のことも、動物の変種くらいに思っているのではないかと想える。がその事に関しては論考を避ける。

さて、6月3日長島茂男さんが逝去された。野球をやったこともない私でさえ、中学時代からテレビを通じて長島茂男という存在を知り、日本シリーズなどでの勝負強い、いわゆるはなのあるスター選手と同時代を生きられたことのありがたさをおもう。

冥福を祈ると共に、どうしても記しておきたい事がある。それは晩年病に倒れリハビリに励まれる姿である。人間の真価とは逆境でこそ試されるとはよく聞くことである。各々の苦難、艱難辛苦は千差万別である。ましてや、若いときではなく、晩年あれほどの大スターが、世間に身をさらしてリハビリに打ち込む姿をさらされたことに、私はそこに一人の人間としての威厳尊厳を感じた一人である。

一人の叫びが平易に綴られている。

雨にも負けず、風にも負けず、という有名な宮沢賢治の詩があるが、生前何かで読んだ記憶があるのだが、いかにも長島さんらしいと唸ったのは、僕は雨を楽しむ、風を楽しむとおっしゃっていたことである。スポーツマンの鏡というしかない。以後、私もあらゆることに、負けずと言う言葉をつかうことは極力しないと決めた。面白がる、楽しむという風に変えたのである。

企画を決断する際も、一旦決めたら前を向くだけである。年齢的なことも含め、収支、一切合切ネガティブなことは、考えない。少しでも地下に根をはり水を探す。言うは易し行うは堅ではある。が見渡せば、凄い先人たちの遺産がごろごろとおられる。そういう方々が遺された魔法の言葉を浴びて、私のような凡人は勇気をいただくのである。

晩年、仏教の言葉では遊行期をいかに生きるのかが、肝要である。私もそのような年齢である。昭和の時代、戦前世代と戦後世代、生まれ落ちた年齢や環境で体験された記憶が全くと言っていいほど違うのだということを、最近痛切に感じる。

先日、1936年(敗戦時9歳)東京生まれのNHKの名物アナウンサーとして、その名を知られる鈴木健二さんの【昭和の遺言】という新書の読みやすい本を読んだ。改めて多感な年頃で敗戦を体験した世代の、未来への伝言の重みを痛感した。長くなるので割愛するが、関心を持たれたかたは手にしてほしい。誰かを思いやったり、普通に平凡に、暮らすことのできる生活の重み、有り難さが染みた。

日々の暮らしのなかで、ややもすると、つい感謝することがなおざりになったりしてしまいがちに、私などはなりがちである。休日や、雨で労働が出来ないときは、鈴木健二さんの本のように読みやすいのだが、内容の濃い本を読まねば、と改めて思う。難しい言葉、読めない文字はほとんどなく、平易にすらすら読める。だが中身は、個人で全身で感じたことが書かれているので独特の文体。そこが凄い。

難しいことを、分りやすく、分かり易いことを深く、深いことを、、、、、。のお手本のような本である。謙虚に耳を傾ける、ことの大切さ。何故企画をするのか、平凡な暮らしを脅かす時代の足音には、徹底的に耳をそばだてる。敗戦後80年、いよいよ戦争を頭ではなく、皮膚で体感した世代が次々と居なくなる。お茶の間では、飢えたことも、家を焼かれたことも、肉親を殺されたこともない輩が、のうのうと他国の戦争のあれやこれやに、ご高説をのたまっている。

極限状況、戦場ではいかに普通の人間が狂って、鬼畜かしてゆくのかを、多くの極限状況でたたかった、多くの日本兵が90才を過ぎ語り始めている。おぞましいという言葉を越えている。五十鈴川だよりではこれ以上は打たない。五十鈴川だよりを打つものとして、無数の死者の遺言に耳を傾ける。(かたむけたい)

2025-06-07

梅雨入り目前、この夏熱中症を乗り切る対策に思いを馳せる五十鈴川だより。

 梅雨入り間近を思わせる土曜日の朝の五十鈴川だより。あっという間に6月も7日である。今週も5日無事に働いて、土曜日五十鈴川だよりを打てる。無事これ名馬、私は名馬でも何でもない、無名の今をいきる老人である。五十鈴川だよりを打ち始めて、幾年月が流れている。

極めて個人的な日録、一筋の流れのように、右往左往しながら、ささやかな思考を思い巡らし、あくまでも一庶民生活者の老人だより、でありたいと、今日もまた打ち綴る。さて、昨日午後家でお昼を済ませ、新見の猪風来さんを訪ねた。用件は後援名義の申請用紙を書いてもらい判子をもらうためである。

縄文スパイラルアート展のポスター

よし子さんが書いてくださり、用件はすんなりと終わった。猪風来さんは創作時間であったので、すぐに戻ろうかと思っていたら、午後4時、創作を終えた猪風来さんがやって来た。ちょっとお話をしているとそこへ猪風来美術館の開館20周年記念、縄文スパイラルアート展(7月1日から10月31日)の出来上がったばかりのフライヤーを那須さんが届けにきた。

4人で寸暇語らいコーヒータイム。出来立ての素晴らしいフライヤーとポスターを預かる。もう一度フライヤーをとりにゆく手間が省けた。無用の用、思わぬ出来事が重なる。4人での笑顔のスパイラル。

ミーティングは勿論大切ではあるのだが、普段の生活のなかでたまたま生まれてくる何てことのないおしゃべりの中にこそ、神は細部に宿りたまうなんて言うが、私は日々の細部を慈しみたいと古稀を過ぎてからは、体が発するサインに従うようになってきている。6月22日のことや、10月12日に向けての事など、寸暇ではあったがお話が出来て良かった。

毎回思うことなのだが、企画者の端くれとしては動くことで、人と会って話を対面で直接するということが、私の場合は不可欠である。(それしかできないと言ってもいい)

廃校跡が美術館になっている。ゆく度に、老いた体に新鮮な息吹が吹き込まれる。居心地がいいのである。それは言葉ではあらわせられない、目には見えない何かである。

さて、話を変える。この数日一気に夏の暑さを感じさせる。この数年毎年のように思うことは、過酷な夏を働きながら乗り越えられるか、ということである。とくにこれからの3ヶ月半を。72才までは乗り切ったが、今年の未知の夏はいかに。夏は五十鈴川だよりを打つ気にならないくらい消耗する。

だが、おそらく私の場合好きなアウトドアがやれなくなったら、一気にもっと精神的に駄目になってしまうような気がする。今おもうことは、一日一日やり過ごし、週末は五十鈴川だよりを綴って、のらりくらりやり過ごすというのが、私の熱中症対策である。動と静のバランス、栄養をとり、夜はひたすら体を休める。

だが、昨日も元気に働き、午後新見を往復運転し、朝の早い私はぐったり疲れたが、ぐっすりと眠り五十鈴川だよりを打ちたくなるほどに回復するのは、猪風来さんご夫妻の目には見えない縄文のエネルギーを浴びているからに違いない。


2025-05-31

5月31日の朝に想う、五十鈴川だより。

 5月末日の朝である。4月30日のスパイラルアームズを終えてはや一月である。いきなりだが、高校生のときに観た、北欧の映画だったと記憶するが、【短くも美しく燃え】というタイトルの映画があった。中身はほとんど今となっては記憶がない。ことほどさように、鮮明に記憶している映画もあれば、まったく記憶の奥底に埋もれてしまい、2度とよみがえらない映画もある。でもタイトルだけでもおもいだすのはいかなる故か。

教えられた、刺激を受けた。

老いの移ろいを、五十鈴川だよりに打ち続けるのは、ジコトウスイ煩悩なるゆえと、自己肯定する。この年齢になって、普段の生活のなかで一番嬉しいのは、孫たちの成長に触れるときである。子煩悩ならぬ孫煩悩である。世の中にはお子さんに恵まれなかったり、お孫さんがおられないかたも多く存在する。

私は恵まれている。そのことへの大いなる極めて当たり前な喜びは、授かったものにしか感じ得ようもない心持ちというしかない。そして、その心持は人それぞれ千差万別である。私が五十鈴川だよりに孫たちのことを打つのはそんなに回数的には多くはない。

なぜ孫たちのことを打つのかというと、将来私がこの世から消えて後、孫たちの誰かが、五十鈴川だよりを読んだときに、時おりお爺が自分達のことを、書いていたことを、伝えたいからである。これも人間の性、煩悩なのだろう。

孫たちとは時おり映像会話をする。ほとんどはありがたいことに、こちらからではなく、娘たちの方からかかってくる。長女次女家族とも共働きなので、子育て真っ最中である。6月半ば、長女の旦那さんが海外出張に一週間出掛けることになったので、家事応援に妻が出掛けることになった。嬉しかったのは、長女の息子のノア、次女の息子の葉、それぞれから、妻や私に上京してきてほしい、という言葉を直接聞けたことである。元気なうちに男同士、孫たちにお爺との思い出を刻む遊び時間を大切にしたい、のだ。意味もなく遊ぶ。これにつきる。

爺バカと言われようがかまわない。老いての一番の喜び、もっと打てば一番の楽しみは、お役に立つということだからである。先ずは我が家族の役に立つ。そのため、幸い好きなことであるからこそ続いている肉体労働の持続エネルギーも湧いてくる、のだ。企画を頼まれたり、自身で企画するにも、とてもではないが年金だけでは無理である。

だから、何かのお役に立つ生活を続けたいがために、私は肉体労働を続けたいのである。五十鈴川を見にお墓参り帰省旅もつづけたい。等々、お爺煩悩は消えない、だから五十鈴川だよりを打つのである。


2025-05-28

昨日、猪風来美術館で、秋10月12日、開館20周年記念イベントに向けてのミーティングがおこなわれた。そして想う。

 今日は69才で人生で初めて大きな手術をして退院して以来、その後3ヶ月に一度欠かさない定期検診の日の朝である。あの手術からすでに4年の歳月が流れている。人間の性格の親から授かった本質的なものは不変かもしれないが、術前と術後では、やはりなにがしかの変化が今もって続いているように思える。

この人の生き方にとても惹かれる

コロナの渦中であったし、動転し、どこかにこのまま死んでしまうのかもしれないとさえ想えた窮地の最中、雑多な思考が錯綜したことを覚えているが、いまはすっかりと健康を取り戻したことで、そのときのてんやわんやの自分の内面の有り様は、今となっては記憶は薄らいである。(人間は忘れるから生きられる)

ただ、あれから4年続いている、私の体の執刀をし、命を救ってくださったM先生の定期検診の日は、初めて経験した晩年の入院リハビリの日の体験が甦る。今現在健康を取り戻したからこそ言えるのだが、あの体験がなかったなら、もしも、という言葉を使うなら、70歳から今年に至る、企画再開という自分でも思いもかけない発露はなかったと思える。悔いなくやりたいことをやる、正直に、家族、そして仲間と。

まさに人生我が身も含め、明日は何が起こるのかなんて、まったく未知であるという事を私は我が体で、しっかり体感したのである。以後、普段通りの生活を取り戻しいたとはいえ、術前と術後では、体と心のどこかが、変わったことは間違いない。(でなければ企画は再開生まれなかった)

以前にもまして、日々の生活の一日一日を、ほとんど変わっていないとはいえ、大事に大切に丁寧に生きるようになったようにように思える。そして、命の不思議についてもの想うようになっている。

さて、話は変わるが、昨日は午前10時からお昼まで、秋の猪風来美術館開館20周年記念イベントに向けての、主催者である新見市の教育委員会からもお二人参加されてのミーティングが行われた。簡略に記録として打っておきたい。参加者は猪風来さん、奥様のよし子さん、イベントのスペシャルゲスト土取さんの側から、香川の大鹿さん、それと法曽焼き同好会の小林さん、(猪風来さんを支え続けてきた長老、尊敬する)それと猪風来さんの20周年企画を応援する、私を含めた裏方ボランティア(那須さん、大場さん、瀬政さん)である。

企画主催者である猪風来さんの進行で、スタッフミーティング行われた。まずは猪風来さんからこのイベントにこめた内容が語られ、おのおの自己紹介をしてから当日の流れの確認、当日の役割分担の確認、これからの4ヶ月と15日、10月12日本番までの役割分担の確認と、課題項目について、有益なミーティングが行われたことと、次回のミーティングは7月7日に決定した。濃密なよきミーティングが行われたことを五十鈴川だよりに打っておく。

ちなみに、私は告知PRを担当することになった。猪風来さんの今回の企画の応援以来を受けてからというもの、自分でも言葉にはしがたい、ある種の老いゆくなかでの微妙な肉体と心の変化の訪れを感じている。この企画に関わることで生まれた猪風来さん、よし子さんとのコミュ二ュケイトすることの面白さ、楽しみである。

猪風来さんよし子さんと本質的な関係性を深めることで、老いゆくなかでの新しい自分が生まれてくるような予感がするのである。その予感が、そこはかとなく私を活性化させている、

2025-05-25

セバスチャンサルガドの死が報じられるのを、たまたまラジオで耳にして想う今日の五十鈴川だより。

 先ほど年に2回の町内の溝掃除を済ませ、五十鈴川だよりタイムである。昨日雨の中所用があって、車で里庄に出掛けたのだが、ラジオから世界的な写真家、セバスチャン、サルガドの死が報じられるのをたまたま耳にした。

たまたま求めることができた

もう一年以上前から新聞を止めたし、テレビの報道などもあまり耳をたてなくなってきたので、ラジオで耳にすることがなかったら、知らないままに日々を過ごしていたのに違いない。だが、結果的に知ることができた。

私がセバスチャンサルガドの名前をしっかりと刻んだのは、今から10年前、2015年の夏、渋谷の映画館で、ヴィム、ベンダース監督の【セバスチャンサルガド地球へのラブレター】というドキュメンタリー作品のを観たことによる。

おそらくすでに五十鈴川だよりを打っていたから、なにがしかのことを打っていると思う。(振り返り探して読んでみたくなった)セバスチャンサルガドという名前は、以来私の脳裡にガッチリと収まっている。

映画を見てあまりの素晴らしさに感動した私は、映画公開に合わせて、サルガドの翻訳されたばかりの自伝が劇場においてあったので、すぐに買い求め、帰りの岡山に向かう新幹線車中で夢中で読んだ。五十鈴川だよりを開いてくださる方はには、是非ともお薦めしたい本である。

県立図書にサルガドの写真集が数冊あったので借りて凝視(み)いった。衝撃を受けた。そこには私の知らない、見たこともない世界が、切り取られていた。サルガド見て感じて切り取った世界の真実のポートレイトは、いまも今後も、おそらく見るものの心の奥を揺さぶり続けるに違いない。今日はサルガドの冥福を祈り、サルガドの自伝を、静かに再読したいとおもう。


2025-05-24

昨日午後、思い立って猪風来さんを訪ね、氏の熱き発露の言葉のつぶてを浴びて想う、今朝の五十鈴川だより。

 土曜日の朝が来た。昨日午後猪風来さんご夫妻に急遽会いに行った。昨日は働いていたのだが、何か無性に猪風来さんに電話をしたくなり、電話を入れたところ、話したいことがあるとのこと、私も直感的に対面でお話に耳を傾けたほうがいいという気が働いて、家で昼食を済ませ新見の法曽に向かった。

繰返し読む

着いたのが15時半、猪風来さんは今取り組んでいるレリーフ作品の磨きの工程をされていた。寸暇、磨きについてのお話しを拝聴した。滅多に聴けない話でこの話を聞けただけでも行ってよかった。

創作中断、すぐにいつものミーティングルームに移動、10月12日、猪風来美術館20周年記念特別企画に向けての進行状態、クリアしてゆかねばならないこれからの課題、懸案事項、等について、もっぱら猪風来さんがお話しし、時折わたしが合いの手をいれる、といった案配で約2時間以上、濃密な時間をすごした事実のみを、きちんと五十鈴川だよりに打っておく。

同席したのは奥様のよし子さんとパイプライン(猪風来さんのドキュメンタリー作品のカメラマン)のTさんの4人である。この2時間の内容を綴ることは、私の力では無理である。昨年秋、猪風来さんから企画協力要請を依頼されてからというもの、折々のタイミングで私は猪風来さんと直にお話しをする時間を(決まったミーティング以外にも)大切にしている。

何故かを言葉でもって説明することは出来ない。何故か行きたくなる。時に昨日などは、行かねば、と何かいわく言いがたい感情が沸き起こるのである。体がいまだ何かに反応するとでもいうしかない、名状しがたい内発である。我が家から美術館まで片道2時間半、往復5時間かけて運転するのは、我が年齢をおもえばかなりの気力体力がいる。

が、いつも感じることは、出掛けてよかったという思いである。体は正直である、家に帰り着いたのが午後8時過ぎ、朝5時から起きて午前中労働し15時間、ぐったり疲れている。だがその疲れは気持ちが悪い疲れではなく、6時間熟睡したらスッキリと起きて、五十鈴川だよりを打ちたくなるほどに回復するよき疲れなのである。

話を戻す。猪風来さんの一途で壮絶なという言葉しか思い浮かばない、縄文土器創造世界にかけた滾る情熱の余りの発露に、圧倒されながらも、このような傑物と出会えた我が人生の、運命(勝手にそう思う)を祝福する。

今年10月12日の猪風来縄文美術館20周年特別企画が終わるまで、あとおおよそ5ヶ月、我が家から法曽まで往復通う体力をキープして、私なりに猪風来さんの企画を、側面から寄り添い続けたいとの、ささやかなおもいが、ふっと法曽に向かう理由だと思う。氏はそのような私にずいぶん砕けた本心も、時折見せてくださるようになってきたのを私は感じている。

信頼関係が育まれてゆくのは、どのようなヒトであれ時間がかかるし。相性もある。企画協力要請を受けた私が思うことは、少しでも、一ミリでも猪風来さんの発する言葉の息づかいに耳を澄ませ、体で聞き取り、その念いを受けとめたいのである。(それによってエネルギーが湧いてくるのだ)

猪風来さんと共に人生を歩み、苦楽を共にされている奥様のよし子さん(草木で染めた前人未到のこれまたすごい織物作家である)はいつもそっとそばで猪風来さんを支えている。饒舌な猪風来さんと寡黙なよし子さん。表裏一体化したご夫婦である。今回の20周年企画、お会いする度に感じるのは黒子に徹しているよし子さんの姿である。その姿にあやかって私も微力に黒子に徹したい。

2025-05-18

手島龍一さんと佐藤優さんの新書版の本を読み、いまさらながら世界の複雑さを知らされ、想う。

 休日、よほどの予定がない限り、打つことで(気持ちは書いているつもり)私の一日は始まる。今日は妻のお供で、妻の好きな薔薇(手では書けない文字である)を見に熊山のガーデンにゆく前の五十鈴川だよりである。

先ずは朝一番打つことで、今日の始まりを整えるのが、日課となりつつある。古稀をすぎてからの五十鈴川だよりは、まったくといっていいほどに、いい加減で、自然体で、我が儘である。じっと画面を眺め、ただ静かに内なる何かに耳を澄ませていると、ゆっくりと何かが動き出す。この静かな時間がますます好きになりつつある。


静かに過ごす時間と、動く時間の兼ね合い、往還が私には大事なのである。おおよそ半年の間、抱え込んでいた、スパイラルアームズ公演を終えて3週間近く経つ。引き受け、抱えた者のみが体感するあれやこれやの解放感、安堵感はたとえようもない。今この年齢でやれることはやりきったので、ただ静かに日々の生活を送りたいのである。(ゆっくりと猪風来さんの秋の企画にシフトしてゆきたい) さて、いつものように話を変える。昨日伊豆大島の谷口さんに、万年筆でお便りを思い付くまま一気に書いて、自転車で近所の郵便局まで行き、ポストに投函した。便箋に2枚以上のお便りを書いて投函したのは、いったいいつ以来のことで、あるのかさえわからないくらい、お便りを書いていない自分の生活のあまりの、デジタル丸投げライフに、どこかデジタルに、心が乗っ取られているかのような、暗然たる思いにとらわれてしまったことを、五十鈴川だよりに打っておく。 体を使い、五感、第六感での直接情報を、基本に据えて、この世を生きてゆく術のような感覚を、私自身が無くしつつあることの恐ろしさを、感じてしまったのである。もし、谷口さんとの再会がなければ、相手がいなければ、私はデジタルの海の中で溺れてしまっていたのに違いないような恐怖である。話は飛ぶが、無人機やドローン兵器、生物兵器、小型核爆弾などなど、押すだけで相手に壊滅的打撃を与えてしまう、おびただしい、兵器の開発競争は、やがて人類を破滅へと導く確信である。 ささやかな一庶民の綴るお爺五十鈴川だよりだが、世界の素晴らしさ、この世に生を受けた者の喜びを、せめて我が孫たちにだけでも、伝える努力を惜しまず、手が動く間は、孫たちにも手で書いたお便りを書こうと思う。人間のなすおぞましきが、惹き起こす悲惨極まる映像の編集された一部分が、この半世紀以上、私が高校生の時初めて見たベトナム戦争の映像から、今現在も止むことなく、打つのも嫌になるくらい続いている。 だからといって、一庶民の私には、何をどうしたらいいのかの方策があるわけでは毛頭ない。だがうすらぼんやりと、今のままではとてつもない悪夢が、ある日突然、起こってしまうのでは、との恐怖感がつのるのである。あくまで楽天的に考え、いたずらに悲観的に考えるのは私の性格的に合わないのだが、歴史は繰り返す、仕方がない、と訳知り顔に物言う愚だけは避けたいと思う。我こととして感じる、他者に対する、考える想像力をなくしたら、(人類は太古から繋がっている)おそらくとんでもない未来がまっている気がしてならない。私の悲観的なおもいが杞憂に終ることを、心から願う。 手で書く、裸足で歩く、花の臭いを直接嗅ぐ、土に触れる、料理をする、などなど、編集された映像間接体験ではなく、直に世界に触れる、直接体感するよろこびを生活の中に取り戻さないと、あまりにもバランスの悪い世界がやって来るような気がする。

2025-05-17

昨日、伊豆大島に住む谷口英久さんからお便りを戴きました。そして想う。

 週末五十鈴川だより、とすっかりなり、老いおい綴る五十鈴川だよりである。もっと打てば、もうよれよれになりつつある、とどこかで感じながらも、敢えてうつ、打たねばという、絶対矛盾をいきている。これはこと五十鈴川だよりに関してということではなく、かきたいということと、もう書かなくても良いのでは、といったいわく言いがたい内的な老境の発露である。

であるが、私にはどうしても手放せない、やりたいことがまだある。その一つが、孫たちが10才になる頃まで、なんとか元気に生きて共に遊ぶ時間を持つということである。そのためには、私のからだが動いて、元気でないと共に遊べないので、その想いを実現するために、労働している。(ただ体を動かす、疲れはてただでくの坊のように寝る。気持ちがいい)

その労働が苦しいものであったなら、このように能天気に、五十鈴川だよりを打つことは叶わないだろう。69歳で初めての大きな手術をしてから丸4年が過ぎた。術後、この春で4本もの企画を成すことが出来た。この間二人の新しい孫に恵まれ、この夏、予定では次女に二人目の孫が授かり、私は4人の孫のお祖父さんになる。まったく人生とは、未知への旅路というほかはない。

話を変える。昨日伊豆大島の谷口さんから封書が届いた。3枚もの手書き文字のお手紙である。もう私自身の生活の中で、手書きでのやり取りなどは皆無になりつつある暮らしのなかで、何ゆえ谷口さんとは、手書き文字でのやり取りをするはめになったのかを、縷々記すのは控えるが、このように手書きでのやり取りができる相手が、この年齢で忽然と現れたことに言い知れぬ喜びを覚えている。

もしも、あのとき出会わず、話をしなかったら、それは妻との出会いであれ、今現在の私の人生で出会え、関係性が続いている貴重というしかない友人たちすべてに言えることだが、もしも、という言葉は、魔法のようなことばである。偶然と必然の際限のない、つまりはこの世を生きることになった旅路の過程で巡りあった、人達との出会いの集積の上に、私はいまも変化し続けている、のだ。

孫たちとの出会いも含め、人は出会うことで生まれ変わるように想う。もっと敷衍すれば、人は人と出会うことで、生まれ変わりたいという、幻想のようなものにしがみついていたいのではないかという気がする。ことに私などはそう言う体質である。

谷口さんに話を戻す。33年ぶりの再会、しかも一度しか言葉を交わしたことがない。あまりにもドラマチックというしかない。それも近所ではなく、住まわれているところが、伊豆大島である。物語が好きな私にはあまりにもである。

先日妻と泊まったホテルの部屋からの風景

いま、私はささやかな幸福感に浸っている。老いゆくなかで文通相手が見つかったからである。谷口さんはラインをしていない。距離を隔てた伊豆大島に住む谷口さんとの交信に、文を手書きする時間は、おそらくこれからの私の人生時間のなかで、貴重な、大切な時間となる。

話は大きく変わる。スマホをはじめとする。現代をあまねくおおうデジタルライフ、五十鈴川だよりだって、インターネットに由っている。絶対矛盾をわたしは生きている。だが、ここにハッキリと打っておくが、デジタルの及ばない世界にこそ、もっとも大切なことがあるという側を、私は生きてゆきたい。(クローンや優性思想は御勘弁願いたい、猪風来さんご夫婦ははスマホを持たない。限りなく私には新鮮である)



2025-05-11

猪風来さんの創作現場を垣間見、貴重なお話しに耳を傾け、幸せな休日をすごした今日の五十鈴川だより。

 昨日思い立って、猪風来さんご夫婦に会いに行った。会いたいから会いにゆく。理由はない。午前9時前に家を出発、着いたのが11時、持参したちらし寿司ですぐに早めのお昼。たまたま猪風来さんのドキュメンタリーを作品を(この話は割愛する)創るカメラマンのT氏も一緒に。昼食を終え、たまたま来られていた、来館者にお茶をふるまいながら、猪風来さんが限られた時間のなかで、縄文土器について語る様子を私も同席して聞き入った。もう何度も耳にしたお話しなのであるが、何度耳にしても、それなりに新鮮に新鮮に感じるのが不思議である。

来館者へのお話が終わると、猪風来さんは今取り組んでいるレリーフの創作に向かった。自分が創作している姿は、これまで原野さんにしか見せたことがないとのことであった。今回ドキュメンタリー作品を創るにあたって、カメラマンの前に初めて創作している姿をさらしている。

その場に居合わせられ幸福でした

びっくりしたのは、私にも見てもいいよ、とおっしゃってくださったことである。その上写真を撮ってもいいか、写真を五十鈴川だよりにアップしてもいいですか、と問うと、いいよとこれまた二つ返事。

邪魔にならないように、創作される姿に見いった。原野さんが生んだ、創造した、縄文紋様を父である猪風来さんが、魂を込めて渦巻き状に丹念に、土を練り込んでゆく。77才であられる指先から、原野さんの魂を再生する気迫が伝わる。自由自在に指先が動く。まるで土と人間が一体化したかのように。

私は言い知れぬ、父の原野さんにたいするおもいの深さ、愛情の深さ、無念さを感じ、茫然とただ見詰めていた。土をちぎり、丸め、濡らし、のばし、くっ付け、細心の集中力で創造してゆく。私の語彙力をもってしては、これ以上打つのは控える。私の眼底にその姿を焼き付けたことを五十鈴川だよりに打っておく。

その姿を刻んでそとに出て、暫し会ったばかりのカメラマンのT氏と雑談をしていると、猪風来さんがちょっと休憩といって外に出てきた。そろそろおいとまの時刻だったので帰ろうかと思ったら、縦穴式住居に入ってゆく。ついて私も中に入る。それから30分くらい、ドキュメンタリーのことも含めての、ご自身の現在の心境を私にお話ししてくださった。

その内容は伏して控える。ただ一人の人間として深く脱帽し、頭を垂れるほどに感動したことだけは五十鈴川だよりに刻んでおく。思い立って出掛けたからこそ二人だけでの貴重極まるお話しが聞け、創作される姿にであえたのだ。幸せな気持ちで、よし子さんにご挨拶して猪風来美術館を後にした。

2025-05-09

ようやく普段の生活に戻りつつある、金曜日の夕刻の徒然五十鈴川だより。

 金曜日の夕刻である。すっかり日が長くなったお陰でもあり、今日などは昼前あたりからポツリポツリの雨模様で、暑くもなく労働するには暑くもなく寒くもなくもってこいの、私にとってはよい一日となった。疲れてはいても明日からお休みなので極楽とんぼ能天気五十鈴川だよりを私は打ちたくなる。もうこの年齢なので世界の大変さや、(決して無関心ではないことをあえて打っておく)いちいちの世相を飛び回る報道なんかを打つ五十鈴川だよりでは毛頭ない。ただうすらぼんやりと、思い付くことを、徒然打つだけである。

さてGWは菜園場で土と戯れていて、ぼんやりと妻と共に過ごす時間がなかったし、この数ヵ月スパイラルアームズのことにかかりっきりだったので、明日からのお休みも含め来週の火曜日までお休みし、月曜日から一泊二日で妻と旅をする予定である。

このような本をてにするとは

この旅は娘たちが一月と二月が誕生日の我々夫婦にプレゼントしてくれた。スパイラルアームズを終えるまで先延ばしにしていたのが実現する。このような有り難さをのうのうと綴るのは、私が老いたからである。晩年の父はどこへゆくにも母と一緒であったが、私もただ素直に意味もなく妻との時間を大切にしたいと想うだけである。孝行したいときには親はなしなんて言うが、思いついたときに悔いなく夫婦時間をする、娘たちの気持ちを有りがたく受け止めたいだけである。

さて、労働に復帰してようやく普段通りの生活に戻れている、つくづく私は肉体労働生活に救われている。GW赤玉ねぎを200個くらい収穫し、開墾マルチをひき、トマト、シシトウ、ピーマン、なす、枝豆などの夏野菜とちょっと遅いが、じゃがいもをいただいたので、それも植えた。収穫した赤玉ねぎの後には、近いうちにさつま芋を植える(4種類)予定である。

青空のもとただ体を動かしていると、身も心もすっきりする。単純な私には最高の高齢者アルバイトである。若き日、富良野での否応なしに肉体と精神をギリギリのところまで追い詰められた体験がこんなにも晩年の私の生活を助けてくれるようになるなんてことは、当時思いもしなかった。逆境はヒトを鍛える。人生に無駄なことはまったくないとはよく耳にするが、然りとおもう。

話変わり、早朝の読書もようやく普段通りになりつつある。これまで狭い範囲の読書しかしてこなかったという反省があるので、もうこれからは、自由気ままに手にとり、文字を追いながらの不良老人に憧れる私である。

ただただ意味もなく五十鈴川だよりを打ちつつ生活していると、また何やら老いたからだが発酵してくる。そんなこんな打っていると、猪風来さんの、【我が縄文芸術人生を語る】6月22日がやって来る。企画をしたのは私である。動かねばならない。


2025-05-05

我が家の菜園場を耕して、春野菜を植える前の、もの想う朝の五十鈴川だより。

 私のGWは菜園場で過ごすことで日中の大半が過ぎようとしている。スパイラルアームズ岡山公演を引き受けたことで、菜園場の管理に手が回らなかったので、いま土に触れている時間がとても嬉しい。私のようなぶきっちょな人間はあれもこれもは、全くといっていいほど出来ない。

一輪のウララ(妻丹精の)

だが、抱えたものにしか味わえない、感じられない達成感、喜びがある。あの夜のハレノワでのスパイラルアームズのライブの余韻はいまだ我が体を浸している。が、青空のもと菜園場で土と触れていると、たまっていた疲れがとれて、ようやく普段の生活に戻りつつある。

今日は、終日夕刻まで妻と、菜園場で過ごす予定である。玉ねぎも収穫する。だから短い五十鈴川だよりである。ぼーっとして、本を手にしても集中力が持続しなかったのだが、昨日あたりから、(図書館にいった)ようやく本を読む集中力も戻ってきた。

話は変わるが、この年齢での、私にとっての企画をするということはどういうことなのかを、改めて考えている。70代に入り4本の企画をなして想う。言葉ではとても言い表せないが、それでも私は人間なので言葉にしがみついて、考えるしか方法がない。

人間と付き合うのは本当に骨がおれる。時に心も折れる。だがなぜ仕事でもないのに企画を持続するのか、を私は思い考える。気障だが、見えないギャラを40才から企画を始めて、ずっといただいているからだと想える。とは言ってもこのように能天気な五十鈴川だよりを打てるのは、私ごときの企画者を(いたらないことのおおい)応援、支えてくれる、これまでの人生で培ってきた友人、仲間のカンパのお陰であることを、五十鈴川だよりにキチンと打っておく。

生活的なお金は、肉体労働でいまだおぎなえる。だが私にはどこかの誰かのギャラが、人間がヒトとして幻想ではあれ、豊かになってゆくためには、支援ギャラが絶対的に必要である。今回スパイラルアームズ岡山公演が無事に終われたのは支援者のお陰である。支援者がいれば次の企画が打てる。支援者は次の企画を生む原動力である。普段の生活、暮らしのなかで、生きることを見つめ、支援者仲間と共に夢のある企画を育むために、私なりに努力したい。

私にとっては企画をするということは、その夜限りの観客、他者とアーティストを介在してコミュニケーションをする、ということなのである、ということをあらためて得心した。スパイラルアームズとその夜限りの観客を出会わせるという、お膳立てをする役割である。

一夜のライブのお膳立てに、土取利行&スパイラルアームズを、暗雲漂う現代の今、企画できたという事実こそが、私のギャラなのである。私の信頼する友人Y氏が撮影記録をボランティアで撮ってくれた。満足である。ユーチューブにアップするために撮影しているのでは全くない。



2025-05-03

5月3日、いまだにスパイラルアームズの余韻覚めやらずの朝の五十鈴川だより。

 今日から4連休である。昨日から労働に復帰した。ただひとり春の陽光を浴びながら、気持ちよく黙々と体を動かした。30日ライブの日の出来事が繰り返し頭に浮かんできて、幸せな気分で草を抜いたり、草を刈ったりした。夕刻家に戻り、ゆっくりお風呂に入り、ライブのことを妻と夕飯をたべながら、余韻会話。午後9時には床に着き、ただ寝た。今朝午前6時に起きて、メル散歩の後タブレットに向かっている。

CDにサインする土取さん

さて、今私はつくづくスパイラルアームズ岡山公演の企画窓口を引き受けて良かったとのおもいが体に充満している。正直今現在の自分の体力、気力、能力で集客できるのか、というおもい、弱気というのとも異なる、時代との私自身が抱えるズレが、よい結果にならないのでは、とのおもいが強かったからである。

だが、結論から言えば、集客できなくてもやるだけやる、と肝をくくってからは迷いは消えた。何よりもライブの記録を私は残したかったのである。それさえ残ればいいと、かんがえたのである。とは言うものの、必須アイテムのお客様がいないと一夜のライブは成立しない。

GWの谷間の平日のあの夜のライブに足を運んでくださったお客様は、素晴らしかった。限界まで演奏した土取さんのスパイラルアームズに、カーテンコールの拍手を送ったのである。もちろん、スパイラルアームズはカーテンコールに応えた。

素晴らしいオウディエンスの存在が、土取さんの最後の数分間の奇跡的な、パーカッションソロを生み出し、その事がカーテンコールに結び付いたのを私は眼底に焼き付けた。その場に居合わせたものだけが、体感できる、居合わせたものだけの波動で成立するのがライブである。企画者冥利、肝をくくって芯から良かった。これこそが私にとっての贅沢の境地、それを全身であじわえた。

話を変える。長くなるので簡略に打つ。今回の企画を引き受けたことで、私のなかの企画者としての可能性が、うまくは言えないのだが拡がって、自由自在な発想での企画をやりたくなってきている。裏方企画者に徹する喜びの深まりである。今回遠方から来てくれた、その昔土取さんのワークショップを共に体験した女性のKさんや、岡山で私のシェイクスピアの音読に参加してくれたYさんなど、次世代の企画者として有望な人たち(全ては割愛する)との再会が、私にそういう想いにさせている。企画者として一番大切なことは、感動する力、勇気、好奇心、行動力、それと対等関係の仲間である。

私は地元岡山での企画を、東京でもやりたくなっている。地方発信の企画があってもいいと思う。スパイラルアームズも含め、土取利行さんの思いを受け止める企画を、あくまでも裏方企画者として、共にやれたら【夢】である。

2025-05-01

昨夜ハレノワでに、スパイラルアームズの公演が無事に終えたことを、ちょっとだけ打つ夕刻の五十鈴川だより。

今朝京ちゃんはメルとお別れ

岡山でのスパイラルアームズの公演が終わった。祭りのあとの充実感、空虚感、脱力感、ある種の淋しさ、疲労感が体と心をおおっている。正直なにも書く気がおきない。だが実現した嬉しさ、達成感、幸福感が五十鈴川だよりを打たせる。起きてから家にもどるまでの一日、こんなにもまるで夢の中のような時間を過ごすことができた、春の夜の夢をわずかでも打っておきたい。
土取利行さん率いる、スパイラルアームズの神が舞い降りてきたかのようなパーカッションアンサンブルの昨夜の、即興演奏には、度肝を抜かれた。そのあまりのわずか3人なのに、度肝をぬくというしかない多様な世界の、打楽器の音色にしびれた。ゴールデンウィークの谷間、平日の夜の公演で、開場まで、聴衆が集まってくれるのか企画者としては、心配でしかたがなかった。だが思ったよりも開演ギリギリまで聴衆が駆けつけてくれ、かなりの席が埋まり、よきお客様の熱気がスパイラルアームズに乗り移り、スパイラルアームズの演奏がお客様に乗り移り、一時間半のライブは女性の舞も岡山のみ実現、えもいわれぬ時が流れた。 スタッフはもちろん、特筆して打っておきたいのは、私の信頼する仲間、当日ボランティアのありがたさ、素晴らしさである。いちいちのお名前は割愛させていただくが、受付、の準備から、誘導看板の設置、お客様の対応、終えてからのCDなどの物販の販売と会計、楽屋の片付けや、掃除、ゴミの持ち帰りまで。無私の裏方に恵まれたこと。(遠方からのボランティアにはこの場をかりて御礼をお伝えします) 午後10時から市内の西川のそばの居酒屋で出演者、ボランティア計16名が参加して打ち上げの宴。全員幸せそうであった。私も酔った。幹事を務めたのはもちろん福岡から駆けつけた小島京ちゃんである。一滴も飲めない瀬政さんも(2次会5名)最後までおられたことも打っておく。京ちゃんとタクシーで家に。時計は午前2時をまわっていた。最後に昨日ハレノワに来てくださったお客様に感謝し、限界まで演奏してくださった土取利行さんと人生で巡り会えたことの幸運を五十鈴川だよりを打ちながらかみしめている。(下の写真は吹屋の友人大場さんが撮ってくれた一枚です)

2025-04-30

いよいよ、スパイラルアームズが、ハレノワにやって来日の朝の五十鈴川だより。

 26日から京ちゃんが、今日の日のために我が家にステイしている。昨日の栗林公園内の建物のなかの素晴らしい景観をバックにスパイラルアームズのライブを聴きに、相談の上行ってきた。朝6時過ぎの電車で岡山へ。待ち時間カフェで朝食、7時10分のマリンライナーにのる。高松駅から栗林公園まであるいた.着いたのが9時。

友来たり、ゴールデンウィークとなる

既にスパイラルアームズの二人が着いていた。栗林公園に入り、私と京ちゃんは楽器の搬入や音響の搬入、ステージの椅子並べなどを手伝った。11時すぎには全てが完了、すぐにお昼となり、昼食後スパイラルアームズのリハーサルをじっと私と京ちゃんはみいった。約30分近くで、リハーサルが終了。13時半開場、お客様がやって来る。午後2時本番開始、3時半ライブは無事終了。ちょっとだけ物販のお手伝いをし、私と京ちゃんは再び栗林公園から高松駅まで歩き16時20分のマリンライナーで岡山へ。

着いたのが5時過ぎ、今日打ち上げするお店の場所を再び確認し、ついでにそこで夕飯とした。又もや京ちゃんにご馳走になる。19時11分の赤穂線で我が家へ。西大寺駅のそばのコンビニで、京ちゃんが我妻に、アイスクリームほかの手土産を買った。家で妻も加わり3人で、今日の最終確認をしながら歓談、楽しい時間が流れた。妻の笑顔、私は幸せであった。

最後に昨日のライブ演奏。老人の血が騒いだ。思わず踊りたくなり、とてもではないが、座っては居られなかった。わずか3人での演奏とは思えないほどの、緻密で堅牢で豊かなリズムが響き合う、多種類のパーカッションの交流即興演奏にしびれた。あの演奏が今夜ハレノワで岡山の聴衆とともに体感できる。岡山引き受け窓口を受けて本当に良かったと、春の朝の陽射しを背中に浴びながら想う。


2025-04-28

一昨日と昨日の行動をスケッチ、記録的に打つ、五十鈴川だより。

 26日午前10時岡山駅に着いた京ちゃんをピックアップ。瀬政さんと私の3人で猪風来美術館に向かい、私が運転しお昼について、途中道の駅で買った、お弁当で猪風来さんご夫妻と昼食をとり、午後少し野焼きの準備を手伝った。瀬政さん京ちゃんも。

午後2時過ぎ土取さん一行、スパイラルアームズが到着、猪風来さんと土取さんは打ち合わせをしたのち、猪風来美術館から車で20分、その日の宿である吹屋の元仲田邸に移動、我々3にんも。午後4時前に着いた。

元仲田邸は昔の造り酒屋の主の豪商の明治時代に建てられた大邸宅である。その貴重な建物をを宿に作り替え、吹屋が誇る宿泊施設である。そこの仕掛人で、一切合切を取り仕切っている大場さん、私の友人が温かく迎えてくれた。早速湯を浴び、夕飯までのひとときを、明治の建物の風情が色濃く残る2階建ての離れの別次元に誘われる別邸で、新緑の山郷を望みながら、おのおの自由にくつろぐ。何と大場さんが私と京ちゃんにビールを振る舞ってくれた。瀬政さんはお茶を。2階からの眺め、部屋の古い調度品に囲まれ、タイムスリップ、京ちゃんはご満悦であった。京ちゃんの笑顔が嬉しかった。

夕刻6時半から、6名での夕飯。地元のおばあちゃんお手製の吹屋の食膳を頂いた。全て美味しかった。食後の吹屋の焼酎、京ちゃんが持参した泡盛を、私を含めて4人は飲み、私は久方ぶりに酔って語った。お酒を飲まない土取さん、瀬政さんも、酒宴、談論風発時間の輪に付き合ってくれた。意外な組み合わせの、一期一会の歓談の宴に大場さんも途中から加わりヒートアップ、愉快な山里の夜は更けて午後11時お開きとなった。

現場で体感、見学、感動した。

翌朝朝食前、最高の別邸で6時、早起きの私に大場さんがコーヒーをいれてくれくつろいでいると、瀬政さんがやってきた。7時土取さんが加わり、大場さん、瀬政さん、私の3人は土取さんの途切れない貴重なお話に耳を傾けた。。発端は別邸にかけられていた一枚の変色した写真から始まった。8時が来て、朝食をすませチェックアウトも済ませ、再び別邸で土取さんの話に耳を傾けた。内容は割愛する。

10時過ぎ大場さんの先導で吹屋に移動、弘兼邸を駐車場から眺め、吹屋の大場さんのやっている紅やというカフェに車をおきほぼ一時間ベン柄の里吹屋の目抜通りを散策し、大場さんのカフェで少し休んで、そこから大場さんが道を途中まで先導、猪風来さんの野焼き祭り見学に移動する。お昼に到着、快晴のもと順調に野焼きは進んでいた。

着いたときの野焼き、のろ場の温度はすでに600度、そこから約1時間半で900度まであがり午後2時、予定より1時間早く野焼きは成功無事完了した。終了したことを祝い、作品を作った人たちを中心に数十人で輪になって踊った。私もちょっとだけ輪に加わった。輪に入ってよかかった。土取さん短時間ではあったが見学したことで、秋に望める。スパイラルアームズの二人も野焼きの現場をしっかりと確認したので、私としては大いに安堵したことを、五十鈴川だよりに打っておく。

午後2時半、スパイラルアームズは香川に移動、我々3人は岡山へ、途中まで賀陽の道の駅でコーヒータイム、瀬政さんを岡山で下ろし我が家に5時前に着いた。妻の御許しを得、5時18分の電車で岡山へ。駅前の居酒屋で京ちゃんと飲み語る。20時4分の電車で家に戻る。妻も暫し参加して3人でのひとときを過ごしたのち、最後はふたりで京ちゃん持参の美味しい泡盛を戴く。午後10時お開き。とも遠方よりきて助っ人になる。一泊二日の旅、そのありがたさがしみた。その事を最後に打っておく。


2025-04-26

明日、猪風来美術館でおこなわれる春の野焼きを見に行くまえの、短い五十鈴川だより。

土曜日の朝が来た。明日は新見の猪風来美術館で春の野焼きがおこなわれる。今日は土取さんも午後新見にやってきて、明日の野焼きを見学するので、今日は吹屋に泊まる。めったにない機会なので、私も共に行動することにしている。ちょっと時間があるので記録もかねて五十鈴川だよりを打っておく。

咲き始めた今朝の我が家のもっこうばら

博多の盟友京ちゃんが、午前10時に岡山に着き、ピックアップして、瀬政さんと3人で新見に向かう。とも遠方よりきたる。従って我々3人も土取さんとともに吹屋に泊まることした。(偶然が重ならないとこのようなことにはならない、人は物語を紡いでゆく生き物である。特に私はそのような傾向があると、自覚認識している。企画をすることは、ある面物語を紡いでゆく裏方なのであるのかもしれない。この世に生を受け、あの世に召されるまでの、偶さか時間を、出遭えた息の合う面々で、夢を紡ぐのである)

猪風来さんは新見に移住、以来20年にわたって、毎年年、春と秋の2回野焼きを行っている。不徳のいたすところ、私は猪風来さんの野焼きを見たことがない。秋の20周年特別企画の企画協力を依頼されたものとして、なんとしてもこの春の野焼きをこの眼でみておきたいのである。今日は明日の本番を前に、猪風来さんたちはその準備に追われていると思うので、できる限り、お邪魔にならないように、とは思っている。

とここまで打って、他にはなにも打ちたいことがなくなった。とにかく明日の野焼きの本番がどのように進行してゆくのかを、しっかりと見守りたい。それだけの今朝の五十鈴川だよりである。

2025-04-24

回らない頭で、谷口英久さんにお礼を伝え、想う春の宵の食後の五十鈴川だより。

午前中の肉体労働が終わり家に戻ると、またもや伊豆大島の谷口さんから4月30日のスパイラルアームズの打ち上げようのお酒が届いていた。麦から芋へ。

お礼。その事さえ打てば、もう私はなにも打つことはない。正直もうほとんどなにも打つ気にならないほどに、気もまわらず五十鈴川だよりを打っている。

なにせ、夜食後に五十鈴川だよりを打った記憶がない。だが、今宵は打っている。谷口英久さんにお礼を一言打ちたいがための、五十鈴川だよりなのである。

だが、単にお礼を打つだけでは、もったいないという、老いたりとはいえ、純な気持ちが私にはまだあって、蛇足の感謝を伝えたいのである。そういう気持ちに私がなるのは、添えられていたお手紙が素晴らしいからに他ならない。

話は変わるが、今回スパイラルアームズを引き受けたことで、枚挙にいとまがないくらいに、次から次に、劇的な再会がいちいち記すことができないほどに出来している。その事の筆頭が谷口さんとの再会である。くどくどとは今宵はもう触れない。本番を目前にしてこれ以上打つことは控えるが、スパイラルアームズの今回の企画は、はこれからの私の老いの前途を照らしてくれるように思えてならない。

その事に関して老いのおき火が、今後どのように変化してゆくのかは、いまはまだなんとも私にもわからない。本番を終えて、かならず私の体と心が、何かを見つけてくれる予感がする、としか今宵はいえない。

とまれ、話は変わるが、あたかも恥ずかしいというしかないが、たった一杯のハイボールのせいかもしれないが、生きているということのなんたる神秘に、殊勝な気持ちに誘われるのはきっとまだまだ私が、巌と生きていることの証左ではないかと肯定感に浸れるからである。ともあれ酔うのは勝手だが何事も実現しないと、砂上の楼閣である。老いの可能性を、谷口さんのご神火のスピリッツを口にして想う春の夜である。

2025-04-23

雨上がり、我が家の庭の春の草花が輝く、午前中の五十鈴川だより。

五十鈴川だより、 他に打つことがないのかと、時に思わぬでもないけれど、もう私は一老人の老境を綴り打つことが、老いの心身機能調節として欠かせない、からこそ打っている。

妻丹精の小さき花、小さきままに生きる。

66才の夏から働いている、今の肉体労働アルバイトだが、この夏が来れば、丸7年働いている。この間のコロナ下生活でも、人との接触のないこの労働のおかげでどれ程私が救われたことか、本人がいちばんよく自覚している。年金生活者は余裕がない。額の多寡ではなく、収入がある暮らしというものがないと、まず私の場合企画することは不可能である。

幸い娘たちの手が離れ、老夫婦のみの生活なので、余分な出費が不要だからこそ、このような願ってもない暮らしが、つつがなく送れていることはまず間違いない。他の方はいざ知らず、何よりも体が動いてくれているからこそ、労働もやれているし、企画もやれている。

その事にまずは、例えようもない有り難さを痛感しながら、73回目の春の日々を、ありがたいお念仏を、草を刈りながら天空の下で唱えながら生きている。真の意味で富良野での天空の肉体労働、中世夢が原での天空の下での22年間、そして今の労働をプラスすると、すでに30数年、私は天空の下で、四季の移り変わりを体感しながら、大いなるものに身を委ねる生活を、日々生きている。

従ってお金と言うものとは、一定の距離をおきながら(必要な時にのみできるだけお金を使う)の生活を送ってきたし、お金のない暮らしと言うものを、18歳からいまに至るも継続しているそのせいなのか、耐乏生活を続ける耐性感覚がいやでも身に付いている。

だからといって、けちな生き方は御免である。どなたかの本のタイトルではないが、貧乏だけど贅沢な生き方がしたいと、いまも心からそう願っている。だからなのではないかととも思える。企画することを継続しているのは。文章を書いたり、音読したり、本を読んだりするのには、ほとんどお金は不要であるし、何よりも精神的な安寧が得られる。

もっと年を重ね、いよいよもって家からほとんど出掛けられない、体が動かなくなってくる日を、一日でも先伸ばしするための、今のところ私が見つけた一番の方法は、気持ちよく体を動かす労働力をキープすることである。起きてから日が沈むまでの生活と、陽が沈んでからの生活のメリハリをつけ、老いては夜は体をひたすら休める。余分な情報は入れない。これまで学んできたことを、ただ繰り返す。ご縁のあった方々と共に生きる。これにつきる。(今日はこのような五十鈴川だよりになりました)


2025-04-20

4月30日、スパイラルアームズ、ハレノワでの挨拶文を何とか書き上げて想う、五十鈴川だより。

 昨日日帰りで名古屋に行き、スパイラルアームズの演奏と五木寛之さんの、私の親鸞と言う講演会を聴いた。突然やはりゆかねばとの思いにかられて行ったのだが,1932年生まれ、今年93歳になられる、そのどう表現したらいいのかわからないほどの、たたずまいとお話に感服した。その事実だけを五十鈴川だより打っておく。

さて、昨日の演奏を含めての、スパイラルアームズ5ヶ所のツアーが始まった。10日後にはハレノワにやって来る。もう私としては当日を無事に終えられるように、準備をしっかりとやるだけなのだが、何とか今朝、当日こられたお客様に配布する後挨拶文を書き上げたところである。 生来いろいろなことの、準備とか細かいことが苦手な私が よくもまあ、企画なんて煩雑な手続きのややこしさを何年にも渡ってやってきた事実に、自分でも驚いてしまう。

でもそれもこれも、有能なボランティアスタッフがいて、当日の細かい役割をこなしてくださるかたがいればこそ、成り立つのである。その事に思いを馳せるとき、我が身のなんたる有り難さを、嫌でも痛感する。我妻も含め、今回も12人のボランティアスタッフがが、当日の舞台設営、受け付け準備、楽屋、お客様誘導から、終わってからの片付けまでをボランティアスタッフが労を惜しまず手伝ってくださる。映像撮影やカメラ撮影もボランティアである。すべてのボランティアスタッフに、経費を計上したらまずこのような企画は実現不可能である。まず私にしてからがボランティアである。仕事ではとてもできないし、仕事ではではないからこそ、やれるのだとも言える。 ではなぜやれるのか。一言で言えば土取利行さんの一途と言うしかない、絶滅危惧種とでもいうしかない、あまりのひたむきさに圧倒されつつも、そのひたむきさの、老いを凌駕してあまりあるパーカッションの音波動を浴びたいのである。昨日五木寛之さんがお話されていたが、企画者は演奏家と聴衆を繋ぐ仕事なのである。どんなに素晴らしいアーティストでも当日足を運ぶお客様の存在なくしては成立しない。中世夢が原で一から企画者として出発した私だが、企画を積み重ねることで、徐々に企画することの面白さに目覚めてきた、小器晩熟の私である。正直この年齢でも企画が打てることに、驚いている。それもこれも年齢を超越したかのような、土取利行さんのおかげである。土取さんは、私を簡単には老人にさせてはくれない。だから私は覚悟を決めたのである。土取さんからのお声かけには、何としても応えられるように、足腰を鍛えておかねばと念うのである。

2025-04-18

猪風来美術館にゆくことが、最近の私の一つの喜び、楽しみであることを、告げる春の朝の五十鈴川だより。

 年だなあと思うし、感じる。こんなことを打つと、そうは思いたくない方々から、あまり年だ年だと、打たないほうがいいとやんわりと指摘される。が本人がそう感じているのだから、致し方ない。

だが、だがである。ここらへんのいわく言いがたい言葉の綾で、受け取りかたは多様にかんじてしまうのは、致し方ないと、私は思っている。どちらかと言えば、老いてきたなあ、と感じるのは肉体の方で、心の方はいい感じで老いを迎えられている、のだ。

今フライヤーをNさんが作っている

その事を、言葉で表すのは至難なのでよすが、私としてはこれが自然なので、どう思われようと、私自身の内実の吐露を五十鈴川だよりに打ちながら、流れるほうに流れてゆきたいと、ただ想うのである。

老いたなあと感じるのは、だんだんと血が騒がなくなってきつつある、というか、もう何が起こってもすべて受け入れるとでもいうしかない、どこか諦感にもにた感覚、感情が芽生えてきている、のだ。再び、だがだがである。絶対矛盾とでもいうしかないが、老いの心は、青春時代とはまったく異なって、激情にはほど遠いが、老人の心も激しく右往左往するという、当たり前を私は生きている。

話は一気に変わるが、昨年暮れから、新見の猪風来縄文美術館をたびたび訪れている。今年になってからは、猪風来さんの縄文美術館開館20周年記念事業、秋の大きな企画のお手伝いをすることになり訪れている。公私なくゆくのが愉しいのである。

つい先日15日も、そのための大切な打ち合わせ、秋に向けてのミーティングがおこなわれ、猪風来さん、村上よし子さん、とNさん、香川からOさん、瀬政さんと私の5人でおこなわれた。濃密でよきミーティングができたことだけを、五十鈴川だよりに記しておく。

私が打ちたいのはその事ではない。明らかな私自身の内面の変化が、(猪風来縄文美術館を訪れるたびに)起きているということである。老いゆく喜びの発見とでもいうしかない、ような感情にたた誘われるのである。その事に関して、今は縷々綴っている余裕はないが、老いつつも心がいきいきとしてくる感覚が満ちてくるのが分かるのである。だから私は新見の縄文美術館にゆき、猪風来さん、よし子さんに会いたくなるのである。

私がとうの昔に無くした、記憶のなかの風前の灯火の源風景が、あたかもまるで忽然とよみがえってでもくるかのような(錯覚であれ)安堵感に私は浸れるのである。だからゆくのである。臆面もなく五十鈴川だよりに刻んでおくが、今や猪風来縄文美術館は、現在の私のよりしろのような精神のトポスなのである。(今朝はこれまで、これから労働します)

2025-04-15

新見の縄文美術館に出掛ける前の、朝の五十鈴川だより。

 15日の朝である。春雨、花冷え、春雷とめまぐるしく季節はダイナミックに移り変わり中、とりあえず30日のスパイラルアームズを見据えながらも、あくまでも私の基盤生活である労働をしながら、日々を過ごしている。いい意味での老人生活を送れている安堵感がある。

手で書き、伝える

だが、フラジャイルな人間の生活には、いつなんどき何があるか、皆目わからないので、若い頃と違って私は静かに、できる限り腹をたてず、穏やかに暮らす営みを求めている。

ちょっと油断したり、横着になったり、億劫になったり、つまり手抜きをすると、まず自分の気持ちがスッキリしないので、できる限り起きてから日が沈むまではキチンとした生活を心かけ、日が沈んだら弛緩する、ってな案配である。

たびたび、今後は超シンプル生活に移行したいと綴っている。限りある元気時間を大切に生きるためには、もう余分なことには首を突っ込まず、どうしても手放せない人たちや、ものに囲まれて暮らす、と決めたのである。(老いては義理を欠くのである)

とはいっても、家族を含め、大切な誰かに頼まれたりしたら、私にできる恩返し的なことには、労を惜しまず動ける間は動くといった気構えではいる。土取さんからの依頼で、スパイラルアームズを引き受けたことで、その気構えがよい方向に流れていっていることを、今、私は感じている。

老いた企画者ではあるが、うまく言葉にはできないが、70才からの再出発、老いの可能性が深まってきて、若い頃には考えもしなかったことに想いが及ぶような感覚が生まれている。だからこのようにきっと能天気に極楽とんぼ的な五十鈴川だよりを、打てるのだと思える(のだ)。

実現する、しないはともかく、まずは私の場合思い付かないと、何事も始まらない。思い付いたら信頼できる友人に相談する。そういう友人が、今現在私の回りに想像以上に存在していることが、一番の財産であり宝である。大事な人、あってウキウキ感が湧いてくる人、男であれ女性であれ人間で、その日一日一日をしっかりと生活している人にいちばん私は憧れる。

文化的なことや、芸術的なことに、つまり私がこれまで出会って来た世界では、出会えなかったような人間に、いまわたしは惹かれる。生活者であり、自分の役割、仕事にいきいきと没頭している人間に惹かれるのだ。だから自分自身が先ずはそのような人間でありたい、のである。そのために、どのような生活を心かけたらいいのかを、五十鈴川だよりを打ちながら考えつづけたい。(時間が来た、本日はここまで)

2025-04-12

春の宵闇、岡山のFMレディオモモに、スパイラルアームズの告知出演、そして想う。

 わずか一週間で、桜の花も既に散り始めている。私が働いている広い敷地も、新緑の芽吹きのすさまじさに、老人の私の体は圧倒されている。自然界の摂理はあまねく公平に全生物、万人に訪れる。

読み始めたばかり、すごく面白い

そして、私は冬を忘れ、春爛漫の世界に酔いしれる。とりたててどこかに出掛けてお花見をするなんてことはほとんどしない。わが労働先と、家の近所、我が家だけの春の訪れを、私は充分に楽しめている。ありがたい春を私は愛でる。

さて、昨日の夕刻、岡山のFMレディオモモに10分間、スパイラルアームズの告知のため出演した。いかほどの反応があるのかは皆目わからない。この年齢での労働生活を基本に据えながら、なおかつスパイラルアームズの企画窓口を引き受けるということは、背負ったものにしかわからない、ある種の覚悟、腹をくくる胆力がいる。ベストを尽くすだけである。

終えるとすぐに、瀬政さんからメールを頂いた。あたたかいメールであった。瀬政さんは山陽新聞の告知のために動いてくださっている。

山陽新聞の告知が出れば、もう私としてはことスパイラルアームズに関しては、やるべきことはやったという感じである。後は本番を迎えるだけである。やりきった感、これだけは私にしかわからない。

ところで、ながくなるのではしょるが、このレディオモモ出演は、とある方の紹介でレディオモモ社長、O氏にお会いしたことですんなりと決まった。O氏は何と、昔私の企画を中世夢が原で聴いたことのあるかただったのである。

古希を迎え企画を再開した私にとっては、いきなりの味方出現というわけで、改めて夢が原という強力な野外音楽芸能に適した場所で、数々の企画が、わが人生でやれたことの幸運を思い知らされた。O氏はその思い出をとつとつと語ってくださった。あの時代の、私の企画を今も心のうちに宿していてくださるかたがおられることに、企画者冥利というしかなかった。

その上O氏は、必ずスパイラルアームズ聴きに行きますとチケットを、その場で2枚(カンパ付き)買ってくださり、激励してくださった。

出演を終え、家に向かい車を走らせると、空にはでたばかりのほぼ満月の春の月が浮かんでいた。能天気な私は、月が祝福しているかのように感じられた。




2025-04-06

今朝起きて五十鈴川だよりを開いたら、谷口さんから3連発のコメントをいただき、有り難き春の夜の夢のごとし、なり。

 昨日新見の猪風来縄文美術館を訪ね、(午前9時前に着いた)打ち合わせを約2時間した後、猪風来さんご夫婦、瀬政さん、那須さん、私の5人で持参したお弁当で、和気あいあいの昼食を済ませ、岡山市内に戻ったのが午後2時であった。朝7時2分発赤穂線で岡山駅へ。瀬政さんが西口で私をピックアップしてくれ、一路新見を目指した。往復瀬政さんの車、彼が運転してくれた。(瀬政さん運転、ありがとう、ご苦労様でした)

風雪を、耐えて凪海、舞い降りる

岡山市内の天神山文化プラザで降ろしてもらい、私は6月22日の猪風来さんのトークのための会場を押さえるべくその足で事務所に向かった。あいにくすべての部屋が埋まっていたので、そのまま歩いて県立図書館に向かった。7年前リア王の発表会で使ったことのある空間が空いていればと願ったのだ。空いていた、よかった、すぐ手続きを済ませた。

猪風来さんの体が空いている日を押さえ、その日のうちに会場を押さえる。スムースに事が進んだことで、企画者の私としての心は一気に軽くなった。が、まだ春の日は沈まない。持参したスパイラルアームズのフライヤー200枚を、必ず置いてくださる、シネマクレールの浜田さんに直接お会いし、フライヤーを置いてもらえるようにお願いした。

浜田さんはニコニコと、いつものように応じてくださった。やはり眼力がある。岡山の中心部にシネマクレールがあるということは、岡山の誇りである。浜田さんは映画と言うものに、映画への愛に全人生を、いまもそそいでいる稀な方である。そのうつむき加減のたたずまいに秘めた底力、覚悟を想うとき、企画者のはしくれとしてエネルギーをいただくのである。

シネマクレールでのフライヤー配布を終え、岡山駅まで歩き赤穂線で西大寺の我が家に着いたのが午後5時近く。起きてから帰宅するまでおおよそ12時間、充実した疲れが体を浸していたが、またもや谷口さんから、心有り難きコメントが入っていて、あり得ない夕刻の五十鈴川だよりを打つということになり、結果ヨレヨレの体で打った。

そして今朝である。3連発のコメント。心にぎゅっと、グサッときた。14年目に入っている五十鈴川だよりだが、3連発でのコメントは、もちろん初めてである。オーバーではなく、実感する。このような稀な珠玉と言うしかない、宝石のようなコメントをいただくと、またもや老人はあらぬ世界に舞い上がるのである。ヒトは昔鳥だったのかもしれないね、という中島みゆきさんの詩が老人の頭に甦る。たぶんヒトは出会いと別れを繰り返し、刹那の人生に夢をみる。

もうこの年齢なので、お恥ずかしくも打つが、、、。だがやはり控える。今日は日没をできたら眺めながら、感じながら、ひとり谷口さんのお言葉にしたがって、凪海を呑みたい。

2025-04-05

谷口さんのコメントに想う、猪風来縄文美術館を訪ね、打ち合わせをした春の日の夕刻に打つ、稀な五十鈴川だより。 

 五十鈴川だよりにはいただくコメントが少ない。だからたまにコメントをいただくと本当に嬉しい。実は新見の縄文美術館に打ち合わせに行って、(瀬政さん、那須さんと4月30日に配布する、予告フライヤー、及び猪風来さんの縄文土器に打ち込んだ50年の人生を語るトークフライヤー2種類を作るための)帰ってきたばかりで、ぐったり疲れているのだが、谷口さんの頂いたコメントを読んだら、無性に何か打ちたくなったのである。

今日頂いたDVDのフライヤー

コメントに交通事故に遇われたことが触れられている。改めて想う。お会いしたのは一度だけ、あれから33年の歳月が流れたのである。おそらく誰にでも訪れたであろう時間の流れ、重みを想うとき、文字だけではなく、じっくりと改めて送られてきた焼酎【凪海】を飲んでみたくなったのだが、今のところまだ開封していない。

長くなるからはしょるが、先日我が家にステイした、小島京ちゃんと4月30日のハレノワが終わったら、我が家で祝杯をあげることにしていたのでそれまでは、凪海を味わうことは控えている。凪海は、私にとっては特別のお酒になってしまったのである。

であるが、今後いつまで飲めるかは別にしても、飲める間は谷口さんの造った焼酎を家では飲み続けたい。いや、飲む、だから、ささやかだが谷口酒造の焼酎を年に何回かまとめて注文したい。あわよくば、私の回りの焼酎好きにもPRしたい。

なにやら舞い上がっているかのような、老人五十鈴川だよりだが、ヒトは舞い上がれたり、動き回れるあいだに何事も思い付いたら吉日をモットウ、としている私としては私の心が思い付いたことに従うのである。

よしんばそれが現世の常識的通念とは乖離が甚だしくとも、感じるヒトは感じるし、わかるヒトは解るし、解らないヒトには解らないのだから。そういう意味では、今年は私の中の老いをより深く味わい、意識的に生きる老人元年として記憶に刻み付ける、エポックな年にしたいという老いのいい意味での欲望が、谷口さんのコメントで湧いてきている。谷口さんの造る御神火焼酎は名前が、今を生きる老人の私に火を灯すに充分である。

誤解を恐れずに敢えて打つが、ハレノワのスパイラルアームズが満員にはならなくても、もちろん満員にはなってほしいのはやまやまなれど、私のなかでは、どこか企画を引き受けた段階からなるようにしかならないという、どこかいい意味での諦念のような感覚が、ぬぐえなかったのは事実である。(うまく言えないが今という虚ろな時代を必死で生きているヒトはきっと反応する)

本番迄一人でも多く足を運んではほしいものの、どこか腹をくくってはいる、のだ。来られるかただけで、ハレノワの空間にえもいわれぬ熱が満ちれば足りるのである。谷口さん始め、濃い聴衆が駆けつけてくださることがハッキリしているからである。

この年齢にして、またもや何かを掴んだという実感が今の私の体を包んでいる。謙虚にこの感覚を育てれば、何か次の世代にバトンタッチできるような、プロデュースする側の意識の転換イベント、企画になる予感が今日も打ち合わせをしていて、体にわいてきたのである。ハレノワから秋の縄文美術館でのイベントにつながる流れを私は模索している。文章で思いを伝えるのは、やぶさかではないが、この五十鈴川だよりに実体を注ぐには、私の今現在の肉体が動いて事実を伝えるしか私には方法がないのである。                                 

2025-04-01

3月31日夕刻谷口英久さんから【凪海】とお便り届き心にぎゅっと春が一気にやってきた。

 昨日、谷口英久さんから【凪海】と言う素敵な名前の焼酎と、またもや谷口さん独特の文字のお便りが夕刻とどいた。極めて超個人的な喜びを、花粉症のせいなのか、鼻水が止まらず体調が悪いのだが、短くても五十鈴川だよりに打たずにはいられない。




いちばん嬉しかったことは、きちんと今現在の五十鈴川だよりを読んでくださったことである。自分のことはあまり自分ではわからない。私のやっていることへの評価をこのような形で直さいに伝えてくださったことへのあまりの嬉しさである。そして直しも含めての谷口さんの直筆の独特さ。軽みと純粋さと子供心。思い立ったら、駆けつける粋な今時珍しい心意気。いい年をして、ハシャギ、妻にあきれられる始末。

今回の企画は、あらゆる意味での不思議な再会が続いているが、この谷口さんとの再会は、自分でも信じられないくらいの、意外な出来事のひとつとして、生涯の晩年の思い出の筆頭になることは間違いない。

何事も愚直に持続継続していると、ときおり神様が粋な計らいを与えてくださる。まるでお酒が発酵してなにか突然変異が内なるからだで起こったかのような喜び、これまであまり経験したことがない嬉しさなのである。今をとにかくがむしゃらに生きていて本当によかった。

最後に、何度か書いているが、自分の体、手で文字を書く、その人の文字の力である。こればかりは機械で書くような画一的にはゆかない、その人なりの全人格が自ずと出てしまう。もういいのである。自分の文字で遊び刻み引っ掻くのである、。自由自在、どこ吹く風、その日の風に身を任せ。いよいよこれからの時間は、遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん、そのような仲間との時間を大切に生きてゆきたい。

2025-03-31

春3月末日、ひんやりした花冷えの朝に想う、五十鈴川だより。

 明日から4月である。先週で3月の労働を終えたので今日は労働はなし、だからというわけではないが、時間があるのでちょっと五十鈴川だよりを打ちたくなった。すごく打ちたい日もあれば、打つこともない日もある。労働がない日のかなりは五十鈴川だよりを打っている。労働も大好き、五十鈴川だよりを打つのも大好きである。

今朝の我が家のチンチョウゲ
(でないと続かない)

夢が原で働いていたときは、【囲炉裏通信】を綴り打っていた。ブログと言う、昔にはなかったツールでいわば遊びはじめて(ささやかに発信しはじめて)そうとうな時間を日々の生活のなかで割いてきたことになる。振り返って読んだことがないので、今となってはどのような事を書いたのかもまったく思い出せないが、綴り打った事だけは確かである。

まるで日記と言うほどではないが、ささやかな個人史記録にはなっているのではないかと言う、自足的なエゴとでも呼ぶしかない何かが、私に五十鈴川だよりを打たせる。

大船渡や岡山、今治、我がふるさと宮崎でも山火事が相次ぎ、ようやく鎮火したかと思えば、海の向こうのミャンマーでは大地震が起こって、阿鼻叫喚の報道が伝わる。高層ビルが崩れゆく様の映像はまるでこの世のおわりである。(果たして文明とはなんと無慈悲であることか)

毎朝のお務め、愛犬メル散歩を春のひんやりとした空気を吸いながら、ご近所の花ばなを眺めながら済ませてきたのだが、老人になってしまった私は、ただ平凡に暮らせていることの有り難みを、足りていることを芯からの感じられることの有り難みを、五十鈴川だよりに打つ。

大昔、テレビやインターネットとうの、つまりテクノロジーがなかった時代には、遠く離れたところでどのような悲惨な出来事が起ころうとも、知るすべがなかったのだから、知らぬが仏と言う言葉はあながち、むげにはできないほどに、ある種の真実をついているような気がしている。

情報に踊らされる。余計な情報が心を蝕む。欲望に火を焚き付ける。デジタルの発達で詐欺などの、あらゆる犯罪が巧妙かして、いつなんどき変な犯罪の片棒を担がされるか、とおもうとき、迂闊に家にかかってくる電話などには、もう私はほとんど出なくなっている。誤解されてもいいが打つ。限りなくでくの坊生活に私は憧れると言うことを、古稀を過ぎる頃から度々打ってきている。その傾向はますます強くなってきている。メメントモリ的時間をいきている、のだ。

新見の猪風来縄文美術館に昨年暮れから、度々訪れている。今年の秋の猪風来さんの縄文美術館開館20周年記念イベントの協力を依頼されたことがきっかけではある。私のなかで、何か機が熟したとでも言うしかないタイミングでの本質的な再会がようやくにして叶ったとでも言う他ない。猪風来さんや奥さまよし子さんとの語らいの時間にとてつもなく気持ちがよいのである。

まるでふるさとの五十鈴川で、幼い頃の姉や兄と語らっているかのような、安心感安堵感に包まれるのである。だから私は度々縄文美術館にゆくのだと想う。何かおおいなるものに包まれる気持ちよさにひたり、充足し、現世的な欲望まみれ世界からの逸脱、エクソダス時間に身を委ねるのである。その事の気持ちよさを我が体はまだ失っていない。

現代世界をあまねく覆うかのような、えたいの知れない不安感、鵺的魑魅魍魎妖怪から逃れる心の安らぎの拠り所、トポスとして、猪風来縄文美術館はこれから必須の輝きを放ち続ける、だろう。


2025-03-29

長女の旦那さん(パートナー)レイさんからスパイラルアームズの公演企画に対して、昨日思いもよらぬカンパが振り込まれ、想う。

 先月長女のところに上京した際、娘は不在だったが、夜、交遊歴の長いM子さんにわたすべきものがあり、稲城のマンションまでわざわざ来て頂いた。レイさんは見ず知らずのM子さんを温かく迎えてくれ、わずかな時間ではあったが、M子さんも安心して打ち解けてひとときを過ごした。主に私とM子さんが話すのをレイさんは聞いていた。

机の前の3年前の写真、ミアは生まれていない

M子さんは、70歳から再開した私の大きな企画の全てを支援してくださっている稀な方である。夜中M子さんとお別れした後、なんとレイさんがお父さん私もカンパするので、口座番号を教えてと言われたのである。

私は兄や姉にはカンパをお願いしたことがあるが、娘たちにはお願いしたことはない。手がかかる子育て真っ最中である。そのようなレイさんが何故、私の企画にカンパをしてくれたのかを、縷々説明する気はない。ただ、生まれも育ちも世代もまったく異なる私とレイさん。娘がまだ大学生であった頃、我が家に娘がボーイフレンドが出来たと連れてきたのがレイさんとの出会いである。

10年前、レイさんと娘は旧東ドイツ、エルベ川のほとりの町レイさんのふるさとドレスデンで結婚式をあげた。私たち夫婦もドレスデンまで駆けつけた。それは慎ましくも素敵な結婚式であった。あれから瞬く間に10年、今、レイさんと娘には7才になったばかりの男の子ノアと、まもなく2才になる娘ミアがいる。

話は忽然とかわるが、娘がレイさんと結ばれ家族を成したことで、私のなかでいわく言い難いいやが上にもの変化が、今も続いている。その事を五十鈴川だよりで簡略に説明することは不可能に近いが、一言で言えばバックボーンの異なる歴史文化の男性を、娘が生涯の伴侶に選んだことで、我が家に日本風とはまるで異なる意外というほかはない新しい風が生まれ、その事が私にも、老いたりとはいえ、嫌でも日本風男の根本的な弱点を、私に突きつけたのである。

レイさんは全てにドイツ的な、(レイさんのドイツ)いわば自然にレイさんの流儀で何事も為してゆく。古い私のような戦前の親父の影響が抜けきらない男にとって、新しいというほかはないほどに、板についた男女平等を実践する。時に余りも自然で、脱帽してしまうのである。このようなことを打つと、親ばかの謗りを免れないのでこれ以上打つのはやぼ、控える。(レイさんが私の今の活動に寄り添ってくれていることへの感謝、このような男性を選んだ娘に感謝する)

娘が異国の男性を伴侶に選んだことで、ノアとミアは、ダブルスタンダードのバックグラウンドを抱え持つ、宿命人生を嫌でも歩むことになる。がその事をまったく私は案じてはいない。どのような人生であろうと、ヒトは生まれ落ちた宿命を生きるのである。

彼らが大きくなるまで、私が見届けられないかもしれない。が、案ずるよりも産むが易し、を私は選ぶ。その方がずっと実りがあることを、私はこれまでの73年の人生で学んで来た、からだ。(ノアとミアは困難をきっと乗り越えてゆくのを見守りたい)

娘とレイさんが出会って十数年で、新しい命が生まれ新しい家族の営みが一瞬の休みもなく形作られてゆく、生命の輝き連鎖、その行く末を見届けはしたいが叶わぬ。それでいいのである。だから私は五十鈴川だよりを打つ。いつの日にかほんの一部分でもいいから五十鈴川だよりを読んで貰えればいいのだ。見えなくなっても宇宙の塵となってでも見守れるのだから。

五十鈴川だよりに、スパイラルアームズ公演のカンパのお礼を綴り打ちます。レイさん😆💕✨ありがとうございます。




2025-03-27

伊豆大島で焼酎造り酒蔵を営む、谷口英久さんがスパイラルアームズの(30日)公演に来てくださいます。そして想う。

40歳で 中世夢が原で働くことになり、当時妻と3才の長女と東京から岡山に移住、企画者の端くれとなり61歳で退職するまで働き、紆余曲折70歳で再び企画を再開、今年4年目の企画は土取利行さん率いるスパイラルアームズであることは、繰り返し五十鈴川だよりに綴っているので、読まれている方はまたかとお思いの方も、おられるかもしれない。

老人は繰り返し同じことを語り続ける。私は老人である。繰り返し念仏を自分のうちなる闇に向かって、唱えるかのように五十鈴川だよりを打つ。とにかく新しい、今日一日を気持ちよく過ごすために、貴重な老人ライフの充実に努めながら生きている。

谷口さんの年賀状と暑中見舞葉書

もう企画をすることも(引き受けることも)ないだろうと思っていた矢先の昨年11月、土取さんからの依頼で、スパイラルアームズ、岡山公演の企画窓口を引き受ける、はめになった。そのことで、私の生活は、老人である事を暫し忘れ、時が逆回転したかのような生活を余儀なくされている、といっても過言ではない。

何事にもことが動くには、奇縁、タイミングと言うものが大きく作用すると言うことを知らされる。意外な、予期せぬ出来事が次々に出来する。依頼が土取さんでなかったらまず引き受けてはいないし、覚悟して引き受けたからこそ、意外な再会や、予期せぬ展開がもたらされる、としか思えない。そのことの不思議を、五十鈴川だよりに打ちたくなる。(のだ)

長くなるので簡略に打つが、伊豆大島で家業を受け継ぎ、焼酎造りに情熱の限りを尽くしておられる、谷口英久さんと面識を得たのは中世夢が原がオープンした1992年であったと記憶する。爽やかな方で何故かうまがあい、5年近く、お年賀や暑中見舞をやり取りする関係が続いたがいつの間にか、関係性がとおのいていた。

昨年から私は、身の回りの今となってはお荷物の本や、CD、レコード、チラシポスター、資料、衣類等と共に、数十年保管していたお手紙や葉書、年賀状などを、いまもゆっくりと手放している。だが、どうしても手放せないものがやはりある。

娘たちからもらった手紙や、兄や姉からの葉書手紙、分けても友人たちからのお手紙、年賀状には私の交友録、出会いの縁、妙、人生がつまっている。この数年毎回これが最後の気持ちで企画をしている。谷口さんの、あの懐かしくも素晴らしい年賀状は私が生きている間は手放せない。(のだ)

久方ぶりに年賀状にみいっているうちに、急に私はたった一度しかお会いしたことがないその谷口さんの住所宛に方に、今回の企画のカンパのお願いの一文のはいったおたよりを厚顔を省みず送りたくなった。なぜ送ったのかはわたしにもわからないが、きっと元気なうちにもう一度会いたいという気持ちが、そういうアクションになったのだ。

後日、突然カンパを振り込んだというお葉書を頂いたときの私の嬉しさは、格別という陳腐な表現しかないほどに、じわーっとからだの芯からの嬉しさが込み上げてきた。まさに偶然の思い付きが思いも及ばぬ結果を生む、事実の重さに祝杯をあげた。

私はカンパのお礼に、猪風来さんの本、ご子息原野さんの絵本等と共に、今回のフライヤーと一文を添えて送ったところ、またもや先日、ハレノワでのスパイラルアームズの公演にやって来るとのお葉書を頂いたのである。私よもやまさか伊豆大島から来ていただけるとは。青天の霹靂の嬉しさ、思わず私はインターネットで谷口酒造の電話を調べ、お電話した。

女性の方が出られたので御礼を伝えたら、すぐに折り返しご本人から私のケータイにお電話を頂いた。声はまったく変わっていなかった。名状しがたい感情に襲われた。一気に空白が埋まった。まるでドラマだが事実である。

スパイラルアームズ公演の企画を引き受けなかったら、33年ぶりの再会は実現しなかったにちがいない。折り返し後半の人生、企画者の端くれとして再出発して33年、今回の私のエネルギーを支えているのは、これ迄の交友録で関係性が途切れずにいる友人たちのおかげである。現時点での私の人生の集大成の企画といっても過言ではない。が、これで終わりではない、その事を谷口さんや京ちゃん、今回私を支えてくださる宝石のような面々から教えられている。(人生の奥の深さを)


2025-03-24

40年以来の古き友人が、一泊二日の岡山にやってきて我が家にステイ、縄文美術館を案内しました。

一昨日土曜日お昼から、昨日午後3時半まで 小島 京志さん(以下京ちゃん)が、わざわざ岡山まで来てくれて、有意義な時間を共に過ごせたことのありのままを、ほんの少しでも記憶が新鮮なうちに、記録的に綴っておきたいと思う。

一昨日午後2時に岡山の県立美術館で私は京ちゃんと待ち合わせた。京ちゃんはお昼前に岡山について柚木沙弥郎展を見ていた。私はその間約300枚のスパイラルアームズのフライヤーを岡山駅、県立美術館エリアの、カフェやショップに久しぶりに配布した。

猪風来さんと京ちゃん

午後2時、落ち合ってからは、歩いてハレノワを少し見学した後、30日の公演後の打ち上げのお店探し等を、京さんとともにし、手頃なよき店を店を見つけることができた。

そのお店の開店が午後5時だったので岡山駅に近い居酒屋で、約一時間軽く再会の乾杯をしてから、打ち上げのお店に移動、腰を落ち着けて語り合った。

2時間お任せ4000円コース、飲み放題を二人で注文、去年の暮れ以来の久方の、飲み食べ語りあいのよき時間を過ごした。男同士、古稀を過ぎての語らいは秘密の森に分けいるかのように妖しい展開を帯びて、切なくも面白かったことをきちんと打っておく。最後美味しい日本酒の店でしめ、午後8時半過ぎの赤穂線で西大寺へ。春のよる。ほろ酔いおとこふたり、家まで歩いた。裏方企画者は仲間も歩く。京ちゃんはタフである。

ほんとうに久しぶりに私は酔い、家でも京ちゃん持参の高級な焼酎を飲んだら、あっという間に睡魔が来た。妻もわずかな時間、京さんと語りあえたが、午後10時にはお開き、私も京ちゃんも嬉しき睡眠世界へ。

昨日日曜日は6時におきてすぐに買い出しに行き、妻のおもてなし朝食を済ませ新見の縄文美術館に向けて8時に出発、10時半に着いた。京ちゃんは、11時に10人ほど事前に予約して訪れた団体の方たちと共に、猪風来さんのお話を聞きつつ、縄文美術館の展示作品に先入観なく見いった。

私はその間、初めて奥さまのよし子さんと二人でお話をする時間を持てた。なんと原野さんの幼少期の写真を見せていただいた。宝のお写真のかずかずに寸暇見いった。まさか写真を見せていただけるとは思いもしなかったので、素直に私は嬉しかった。

団体の方たちが、じっくりと作品にみいっている間に、4人で(猪風来さん、よし子さん、京ちゃんと私)おむすび、サンドイッチ、リンゴをつまみながらお昼。食後よし子さんがいつも熱いコーヒーをいれてくれる。

食べながら秋のビッグイベントについて猪風来さんは語り続ける。当初、秋に向けての打ち合わせ時間は、とれないと思っていたのだが、限られた貴重な時間のなかで、とりあえず、4月30日当日配布するフライヤーと、それまでに【猪風来、我が縄文土器造りに捧げた人生50年間を語る】(期日未定、タイトルも仮題、私が考えた)を4月26日までに作ることを決めた。そのフライヤーはスパイラルアームズのフライヤーを創ってくれたN氏依頼することにした。

午後1時半、縄文美術館を後にし、15時半京ちゃんを岡山駅まで送り、福岡に帰る京ちゃんとは一月後の再会、固い握手をしてお別れした。丸一日以上密度の濃い時間を過ごした。私の体は最高に喜んでいた。岡山から縄文美術館往復の車中京ちゃんとは、またもやいろんな話が出来たし、よき思い出ができたことを、五十鈴川だよりに打てることが嬉しい。

なによりも我が古き友人が、縄文美術館にいたく感動したことが、案内したものとしていちばん嬉しかった。言葉少なく圧巻の縄文美術館といってくれ、春のハレノワ、に続いて秋の縄文ビッグイベントにも裏方として仲間として加わったことのありがたさは、例えようもない。お互いに、この年齢ではかなりの強行行動ではあったし、なり疲れたが、疲れが全て吹き飛び、満たされた。

京ちゃんの滞在時間は、一日とちょっと、そばにいてくれ、ただ私の話を受け止めて、次々と裏方としてポジティブなスパイラルなアイデア、提案をしてくれる。配慮の人、大人である。おそらく京ちゃんがそばに居なかったら、私の頭もフル稼働はしなかったと想う。小島京志さんへの真摯な感謝を五十鈴川だよりにキチンと打っておく。

2025-03-22

スパイラルアームズを岡山で企画することによってもたらされた至福の旧交復活に想う、今朝の五十鈴川だより。

 土曜日の朝が来た。今日午後博多から40年近い交友が続いている小島の京ちゃんが我が家にやって来て一泊二日滞在する。五十鈴川だよりを読んでくださっている方は、昨年暮れふるさとの兄の家まで来て泊まって、翌日彼の住む鹿児島は隼人市まで共にドライブしたことを五十鈴川だよりに綴っているから、ご存じかもしれない。

いずれにせよ、今回のスパイラルアームズの企画も、私の古希からの4年間も含め、個人で抱えた大きな企画は、ほとんど無私で支援してくれる得難い友の一人である。特に私と京ちゃんは、1984年に設立した、土取さんとパートナーの桃山晴衣さんが創られた芸能堂【立光学舎】のワークショップで出会った。依頼交友関係が途切れたことがない。

お互い土取さんとの奇縁、彼は若き日、お互い20代、旅の途中ネパールで土取さんと出会い、私はロンドンで土取さんと出会った。お互いに強烈な影響を受けたもの同士である。あれから幾年月、その土取さんがスパイラルアームズを率いて岡山にやって来る。血が騒がないわけがない。岡山の窓口を私が引き受けると言うことで、万難を排して助っ人として参加してくれるのである。

4月30日の本番はもちろん、今回はわざわざ当日の事前打ち合わせをかねて来てくれるのである。多くを語らなくても同時代を生きてきたもの同士分かち合える、繰り返すがまさに得難い友と言うしかない存在である。居てくれるだけで私は安堵感に包まれる、のだ。理屈はない。

スパイラルアームズ岡山公演の支援者には身内以外、16名の支援者の名前が掲載されている。40年以上、30年以上、20年以上、30年未満の方々ばかりである。これほどの強力な支援者に支えられてエネルギーをいただき、今回の企画実現に私は向かっている。私はよき意味でのわがままな企画者をどこか自認している。私のような老いた(いい意味で)企画者は支援者(パトロンと言ってもいい)の存在なくしてはどのような小さな企画ではあれ実現することは不可能である。

人生の晩年にこのような至福感とでもいうしかない、旧交再会のひとときが数十年の、空白のあとに突然訪れる何てことは、スパイラルアームズを引き受けなかったら、まず有り得なかったにちがいない。そのようなことの、まるで夢のような出来事が期せずして起こってしまうことの醍醐味を今回の企画であらためてその事の不思議に想いを馳せてしまうのである。

東京都ではあるが、伊豆大島で(出会った時は東京の出版社勤務)実家の焼酎造りの跡継ぎをしておられるTさんとの旧交復活も有り得なかったにちがいない。会ったのは夢が原に視察残られたオープンして間もない頃の一回のみ。何故かうまがあい、何回か年賀状のやり取りをしたことがあったのだが、その後ご縁が遠のいていた。

そのTさんの年賀状があまりに素晴らしいので、ずっと保管していたのである。賀状を眺めているうちに急に厚顔にもカンパのお願いがてら一筆いれて、現況をしらせた

なんと突然お葉書を頂いた。きちんと我が父の文章を読まれたことにも触れられていて、私は一気にある種の名状しがたい感情に襲われた。年内なんとか時間をつくって、伊豆大島までTさんに会いに行くつもりである。京さんほか何人かにお声かけしようと思っている。

2025-03-20

春分の日の朝に想う両親のこと、春の五十鈴川だより。

 五十鈴川だよりは日々生活記録的になっている。若いときのように文化的なこと(広い意味での)には、きっと年齢的なことも作用しているかもしれないが、家族、身近な人たち平凡に生活できることの有り難さを最優先で生きている。そして、もうほとんど過去の記憶、思い出に生かされながら、現在を生き直し続けている、といった案配である。

晩年の父と母

この数ヵ月土取さんや、猪風来さんのことに触れることが多いことで、私のことを誤解、曲解しておられる方がいるやも知れぬが、私はまったくそのような人間ではない。

ただ若い頃から多くの映画や、舞台や、音楽、書物、などに触れ見聞を繰り返してきたお陰で現在の自分が在るということは紛れもない事実である。

だが古稀を過ぎてからは、そういうことに耽溺しなくても、日々労働しながら、妻との老夫婦生活ができるだけで、十分な充足感が得られるような暮らし方が送れている。平凡生活のなかで、五十鈴川だよりが打て、日々草と戯れ体動かし、空の下で生きることの気持ちよさを私は見つけたのである。

今もそうだが、18才から世の中に出て井の中の蛙をいやと言うほど知らされた経験、そのトラウマのような感覚が、今だ抜けきれずにいるのは確かである。だが、古稀を迎える頃から、特に大きな手術を経てから後は、以前にもまして、身の回りの生活、妻や家族との時間を何はともあれ最優先生きている。

その合間合間、時間が割けるときに、企画を引き受けたりしているだけなのである。特に土取さんとは、26才のときから今に至るまで、交友関係性の持続の上に依頼されて、引き受けた責任上、生活者としての感覚、のりをこえず取り組んでいる。

土取さん、猪風来さんに依頼されることの誉れは、例えようもなく有り難く嬉しい。その事だけは五十鈴川だよりにキチンと打っておく。私のようないい加減な人生を歩んできた(ある意味では人生と言う運命に放り込まれた)そのことを余儀なくされ、なにがしかの夢のような出来事に、諦めずしがみついて生き続けてきたお陰で依頼された誉をバネに動いているだけである。スパイラルアームズ本番まで後40日、やれることをやる覚悟だけは健在である。

だがコマーシャリズムに身をおかない、ある種時代を超越した音の神秘を、独自に探求し続けている土取利行さんのスパイラルアームズを、この岡山で、今と言う時代に受け入れてもらえることの困難さを感じているのも事実である。その困難さを敢えて楽しむくらいのどこかに余裕、遊び心が不可欠である。

今、心から願うのは、一人でもチケットを買っていただき、スパイラルアームズの音の波動に身を委ねてほしいと、企画を引き受けたものとしておもう。誤解を恐れずに打つが、なんと難儀な企画を引き受けたものかと時に想うが、古い私、父は言うであろう。男がいったん引き受けたら歯をくいしばってでもやれと。小中、鬼のような父親に鍛えられた私は恐らくそのトラウマから一生涯逃れることはできないだろう。

話が脱線したが、フライヤー配布が一段落つき、このところ一筆いれての(メールで一斉送信すれば楽ではある)封書作業を平均一日に何通か、宛名の名前だけでも早朝墨を擦って筆で書き、他は万年筆で書いているのだが、その事が私には楽しい。たぶん今後ますます私は手書きの方に向かうに想う。その方がワクワク心が動きだし、楽しいからである。

2025-03-16

妻と共に雨模様の中、柚木沙弥郎展に出掛けました。そして想う。

 急にキーボードが動かなくなり画面にダイレクトに打っている五十鈴川だより。時間がかかるが仕方ない。外は雨である。

昨日午前中妻と、今県立美術館で開催されている、柚木沙弥郎展に出掛けた。私はあまり美術展とか展覧会とかにほとんど出掛けない。出掛けるのはよほどのことである。今回県立美術館に出掛けたのは星野道夫展以来である。

日本民芸館で求めた

なぜ出掛けたのかを書くのは、長くなるので割愛、はしょるが、ほんの少し打つ。柚木沙弥郎と言う名前が強烈に私には刻まれたのは、一年前聞いたラジオ深夜便のインタビューである。インタビューされたときの年齢が95歳、そのみずみずしいあまりの宝石のような言葉の数々に心から感動したのである。

東京は駒場東大前に、日本民芸館があるのは知ってはいたがいったことはなかった。そこで柚木沙弥郎さんの展覧会会が開催されている事を知り、私は何としても行きたくなり一人で出掛けた。柚木沙弥郎さんは昨年一月101歳で長寿をまっとうされ召されたので、おそらく再放送されたのを私は聴いたのである。

数少ない戦争体験世代の最後のアーティストかも知れない。戦後染織家として民芸作品づくりからスタートするが、晩年70歳、80歳以降の作品がまさに自由自在、であまりに素晴らしく、生命感に満ちあふれていて、見ていて幸福な気もちになる。岡山ゆかりの方であることを、今回あらためて再認識した。(生来のアーティストである)

ワクワクすることの、感動することの、ただ純粋に、心のおもむくままに、あるがままに、命が輝くことの、気持ちがいいことの、一切合切を生活者の一人として、生活が豊かに彩られるような作品を創造、想像された稀有なアーティストである。ナンセンスの極致の晩年の作品の豊かさは例えようもない。

まさに先生と呼びたい、心から慕いたくなるような語り口の方であられた。たまたまラジオで耳にした、そのあまりの自然体語り口のお声に打たれた。一日一日をきちんと生活し感謝して生きることの当たり前の奥深さを、先生から学びたい。妻と共にゆくことが叶い、よき時間が過ごせたこと、感謝を五十鈴川だよりに打っておく。

2025-03-15

ほぼ、スパイラルアームズのフライヤー配布を終えた朝に想う五十鈴川だより。

 嬉しい土曜日の朝が来た。9日の朝打って以来である。多分これからはお休みの日、つまり労働アルバイトをしない日以外は打たないと想う。心と体が充分に休息をした日以外は、一文を紡ぎ出すと言う気にはきっとならないだろう。

望晃、七歳のお誕生日プレゼントの本

60代まではまだまだ煩悩というか、怒りの感情などが日々随所に沸いてきたのだが、このところそういう感情が消えてはいないのだが、むなしさの方が勝って、ただ静かに暮らしている。限り無くシンプルにシフトして生活している。そのことをただただ楽しむ叡智を見つけたい、とでもいうしかない老いの感覚を生きている、最近の私である。

話はかわる。先週土曜日打ったときに、次の土曜日フライヤー配布がどこまでやれたのか、打つのをどこか楽しみにしていたのだが、結果は思いもよらぬ早さで配布が進み、目標の6000枚配布が一昨日の段階で終えることができ、今手元に予備の1000枚弱が残っている。長くなるので割愛するが、6000枚のうち私がおおよそ4000枚をあちらこちらに配布と郵送し、残り2000枚は、友人知人が100枚、200枚、300枚、70枚、40枚、10枚単位で預かってくださり、実質ほぼ一週間で配布を終えることができた。

中でもKさんはチケットも売ってくださった。最初100枚も配布できるかなあ、と不安を見せていたのだが、あっという間にチケットを売り、追加の100枚をまたもや我が家まで取りに来てくださった。その際、私が勤めていた美星町にあるカフェ(私が働いていたときにはなかった)のオーナーが世界の打楽器に興味をお持ちの方で、なんといきなり60枚も預かってくださり、フライヤーをもっと預かってもいいとのことで、明日Kさんと共にそのカフェに持って行く約束を昨日電話でしたのである。その約束をした際、すぐにKさんから折り返し電話がありチケットが5枚売れたので、持ってきてほしいとの連絡があった。嬉しいと言うしかない。

Kさんは私より年上、インテリである。私は氏からこれまで何度も本をいただいた。このようなことは岡山に来て初めてである。いただくばかりなので、先日氏に私も返礼、本を差し上げた。読書家で博学、社会的なことや文化的なことに知的関心、好奇心が旺盛なかたである。その上今回よく氏の人柄を改めて認識しなおしたのだがよく動く。まるで我がことのように動いてくださる。私は書斎で安全なところにいて、汗もかかず訳知り顔に知識や知見を宣う、いわゆる俗に、(もう年なのでなんでも書くが)進歩的知識人を全く信用していない。

ところで、どうしても一行五十鈴川だよりに書いておきたい人がフライヤー配布を手伝ってくれたYさんと言う女性がいる。3日前天神山で300枚もフライヤーを預かってくださった。この方とは昨年春今ごろ、シェイクスピア作品の音読の会で出会った。子育て真っ最中のお忙しいなか、熱心にリーディングされていたのが印象的で、時間に余裕できればまたリーディングをやりたいとまで言ってくれた方である。スタッフが居ない中、わざわざ夢が原まできて、マルセさんの受付ボランティアまでしてくださった方である。

昨年【マエストロに聞け】参加者の中で、瀬政さん以外フライヤーを預かってくださった方である。世代を越えて、何か感じあえる関係性というものが生まれると、私は信じる。でなければスパイラルアームズは企画できない。若い世代に一人でも土取さんの存在に関心をもってほしい、のだ。なぜこの年齢でフライヤー配布をしてまで企画を引き受けるのか。それは何度もかいているが、おもわぬ光が体をつらぬくような出来事が起こる、発生するからである。

P.S. 天神山でYさんと別れる際、新見の縄文美術館に行くことを、お節介承知で勧めた。


2025-03-09

昨日、出逢ったばかりの女性(ひと)が、いきなりチケットを買ってくださった。そして想う日曜日の朝。

 昨日打ったばかりなのに、今朝も連続して打つ。フライヤーを配布していると、思わぬ人に出会い、嬉しさが込み上げてくると言うことを、昨日の五十鈴川だよりに打った。昨日もまた、午前中最初の配布先でそのような出来事が起こった。

先日、岡大の敷地エリアの中にあるカフェにフライヤーをお願いに上がったところ、そこで働いている方から、浜野の本部にも行かれたらいいと、住所を書いてくださったので早速そのカフェに出向いたのである。なんと住所を書いてくださった方がいらして即100枚ものフライヤーをカフェに置いてくださり、カフェのオーナーとも面識を得ることが出来た。のだが意外な出来事はそのあとに起こった。

写真がぶれていて申し訳ありません

その洒落たアートフルなビルのカフェやお店の一角で、美容室をやりながら、小さな音楽スタジオをお持ちの女性が、お客様がいるのにもかかわらず、フライヤーを見ただけで100枚ものフライヤーを預かってくださったのみならず、なんとその場でスパイラルアームズのチケットを2枚買ってくださったのである。そのことを先ずは今朝五十鈴川だよりに打たずにはいられない。

長いことフライヤー配布をしているがこのような出来事は初めてである。犬も歩けば棒に当たると言う言葉を、バカの一つ覚えのように、オマジナイのように、後生大事に私はフライヤー配布をやっているが、まさにそのようなことが起こったのである。

その方はお客様がいてお仕事中であったし、ゆっくりとお話しすることは控えたが、近日中にコンタクトをとって、お話しができることを私は願っている。十人十色という。まさにしかりである。けんもほろろから、このような方まで、人間とはなんと摩訶不思議な存在であることか。だがこのようななかたに出会うからこそ、きっと私は企画を続けているのだと、自分に語りかける。(のだともう)

人は生まれ、この世での命を終えるまで何人の人間と巡りあい、言葉を交わすのであろうか、何て事を、時折殊勝にも思ったりするのだが、昨日のような出来事があると、単純に子供のように、すでに十分に老人である私も嬉しい。その後昨日は、いい感じで表町界隈の多様なお店に配布が出来た。午前、午後3時間で目標の倍の600枚を配布できたので、無理せず早めに家に戻った。

BSで、世界町歩きと言う旅番組を私は妻とよく見るのだが、つくづく歩けると言うことの、ありがたみが、高齢になればなるほどますます染みてくるのを実感する。一日10キロを歩き回る喜びを体感しながらのフライヤー配布。目的があるので歩くのが楽しい。かなりの人から激励される。一見愛想がよくない人ほど温かい。開店前の居酒屋のオーナーなどほとんど預かってくださる。

老夫婦二人での生活、幸い健康で時間が有効に使える。大きな集客ではなく、50人未満の手の届く音楽イベント、老いる今を豊かに彩れる可能性のある企画がやれる、と希望が萌える。老いの春である。

2025-03-08

スパイラルアームズのフライヤー配布、5日から始めて思う、土曜日朝の五十鈴川だより。

 土曜日である。5日から歩き回りフライヤー配布を開始、今日も午後は半日配布に動くつもりである。午前中は労働者生活をやっているので、6000枚ものフライヤーを配布するのは、考えてみると、無謀、不可能のような気もするが、敢えて私はこれを自分に課して動いている。

歩き回り、フライヤーを置いてくれそうなお店に飛び込みでお願いするのである。

40歳で中世夢が原で企画者として働き始めた当初から、主に休日フライヤー配布をしていた(当時まだインターネットは普及していなかった)のが私の原点である。その残り火のような感覚がこの年齢になっても抜けきっていないのである。

完全に時代遅れであることは重々承知している。だが、どこかで私のうちなる声が、歩けるうちは、やれるだけのフライヤーを配布に動く事を、良しとする。どこか天の邪鬼的な私がどこかにいるのと、ここまで私を動き回らせてしまうほどの、土取利行さんがアーティストだからである。おそらく、土取さん、猪風来さんでなかったら、フライヤー配布は昨年で終えていたであろう。

フライヤー配布を始めてまだ3日を終えたばかりだが、このようなことでもない限り、街中のいろんなお店を眺め眺め歩く何てことは、私くらいの年齢になると、まずないのではないかと思う。長くなるので割愛するが、今のところやはり犬も歩けば棒に当たる、のような出来事が、次々に出来している。目標一日300枚配布して、3月いっぱいには配布を終えたいと、私は思っている。

だがハレノワでの300枚とか、友人が200枚とか、100枚単位で預かってくださる方がいて、フライヤーができてわずか5日間で、すでに2000枚近くが、はけている。焦らずこのペースで、休み休みしつこく配布に動けば目標が達成できそうである。

知人にラインで伝える。電話で伝える。友人に封書で伝える。そして見知らぬどこかの誰かに足で伝える。今のところこの4つの方法を駆使して伝える以外、私には方法がない。73歳の私の体をフルに動かしていると、脳の前頭前野が時おり閃く(気がする)。夢が原時代あちらこちらに配布に動いたので、体がいろんなお店を記憶していて、次から次に体があのお店に行けと、教えてくれるのである。

街の風景は時代と共に移り変わり、人心も移り変わり、閉店しているお店もあるけれど、元気に続けておられるお店もあり、温かくフライヤーをおいてくださる。とはいっても今回私が配布しているお店は、8割がた新しいお店である、カフェや、レストラン、ファッション、アパレル関係、居酒屋、バー、花や、CDショップ、などなど扉を開けてお願いするだけである。

表町界隈、奉還町界隈、倉敷美観地区界隈をこの3日動いたのであるが相対的に皆さん温かくフライヤーをおいてくださっている。さて、来週の土曜日にはどれ程のフライヤーが我が家から消えているか、とにもかくにも動き回るしかない。

PS 今日の写真は美観地区のとあるカフェの写真。ご主人が早速貼ってくださっていた。帰りに気づいたので写真に納めた、なんとも感じがよく、即反応してくださった。思わぬ人に出会えたときに、一気に嬉しさが込み上げてくる、こればかりは配布したものにしかわからない。(だろう)

2025-03-05

歩ける骨で動く、スパイラルアームズフライヤー配布に動く、初日の朝に思う五十鈴川だより。

 3月3日夕刻、N氏のデザインしたフライヤーが(届けてくださった)予備の枚数も入れて7000枚ドーンと届いた。一束1000枚のフライヤーは重い。そのフライヤーをできるかどうかはわからない。3月30日まで何とかあちらこちらに配布に出掛ける予定、でかけるつもりである。昨日のように雨で配布出来ない日もあるだろうから、そうはうまくはゆかないことは、承知しているが、家にじっとしていてもフライヤーは一枚も減らないので、基本私が動くしかない。(のだ)

Nさんの素晴らしいフライヤー。

だが、長くなるので割愛するが、このスパイラルアームズの岡山公演支援者に名を連ねるK氏が、一昨日の夕刻出来立てのフライヤー100枚を配布に動いてくださると言うことで、わざわざ取りに来てくださった。

そしてなんとそのK氏から昨日午後電話があり、友人知人にフライヤーを見せたところ、たった一日で10枚チケットが売れたとのこと。夕刻、岡山でK氏にチケットを渡しチケット代をいただいた。

気持ちが動き、あの人にお願いをしてみようかなあ、と思う面々が、迷惑を承知で私には今のところ岡山に10数人はいるので、もう年齢的にダメもとでのお願いをKさんにしたところ、快く引き受けてくださったので甘えたのだが、よもやまさかチケットまで売ってくださるとは思いもしなかったので、その嬉しさは雨を吹き飛ばすほどに嬉しかったことを、五十鈴川だよりに打っておく。

五十鈴川だよりを読んでくださっておられる方は、もう重々ご承知とは思うけれど、こういう予期せぬ意外な展開が起こることこそが、私が敢えて仕事ではなく、(何よりもよき思い出が確実に心に刻まれるのだ)この年齢でも企画を打ちたくなるモチベーションなのである。人間には喜びの感情、感動する感性のようなものが、ありがたいことに備わっている。(悲しいことだが備わっていたのに消滅しておられる方もいる)

もういい歳だから臆面もなく打つが、どうやら私にはありがたいと言う他はないが、いまだに感動したりするバネは健在である。でなかったらこのような企画を引き受けることは不可能である。話を戻す。Kさんのように人の頼みを我がことのように感じて動いてくださる奇特な御仁もおられるのだと、教えられるのである。絶望は愚か者のなすことと、もう希望探しに老人は動くしかないのである。その事を昨日Kさんから教えられた。

正直、この企画岡山では難しいといまでも思うのだが、この数十年、私が企画してきたものは、マイノリティのアーティストばかりである。父は若いうちの苦労は買ってでもせよ。人が嫌がることを率先してやれと、耳にタコができるくらい幼い私にいい聞かせたが、その教えはいつの間にか私のからだの奥深くに根をおろしている。

敢えてそのような私の性格を見込んで、この企画がもたらされたのであれば、父はきっと引き受けた私を誉めてくれるのではないかと思う。そういう私の原初的感覚の波動、想いの渦を、まさにスパイラルの渦を伝えるつもりで、フライヤー配布に動くつもりである。Kさんのおかげ、力強い同世代の仲間が現れたことで、なにやら幸先よい。スパイラル、うずうずする感覚は春の訪れ、私の春はフライヤー配布で見つけたい。

2025-03-02

犬も歩けば人に出会う。下津井エリアまで出掛ける前の五十鈴川だより。

 昨日の五十鈴川だよりに瀬政さんについて実名写真入りで打った。その瀬政さんが所用で西大寺の近くに来られていて、夕刻わずかな時間ではあったが、立ち寄られ、リビングでお話が出来た。五十鈴川だよりを打つことで、なにやら思考がまとまったり、整理したりできるからこそ、こうも長く打ち続けているのだと思う。

雑談できる相手も似たようなことが言えると思う。瀬政さんとお話しできたことで、これからの大まかな流れの確認のようなものができて、本当によかった。時折信頼できる仲間と会話をすることで、いまを唯我独尊的にならないように、事を進めてゆくために、私にとって大切な時間となった。妻の存在もそうだが、私の行動や言動に直言してくれる身近な信頼できる存在が、私には絶対的に必要である。

ところで、明日の午後にはハレノワでのスパイラルアームズのフライヤーが完成する。お休みを中心にフライヤー配布に、おおよそ週に2日から3日動くとして、20日間、一日あちらこちら目標300枚として6000枚、予備として1000枚、計7000枚印刷することにした。時間を有効に使って配布するためのプランを、昨日今日と立てているところである。

今日はこれから倉敷の下津井まで出掛ける。これまで私の企画に足を運んでくださっていた主に同年代世代が、私を含めて高齢化し、社会的なそれぞれの事情を抱え、家を空けて出掛けることが困難な状況がにわかに増えていることを、この数年企画を再開し、その事を肌で私は感じている。

だから、この度はいまをいきる、粋のいい40代50代のかたに一人でも出会うべく、無理せず、しかし、もうこれで最後と言える位に、先日も打ったが老骨人としてやれるだけのことをやりたいと思っているのだ、その手始めに下津井エリアを探索しようと決めたのである。

封書に一筆入れる

せっかくのお休み、せめて半日なにがしかの動きを試みれば、犬も歩けばではないけれど、何かに当たるかもしれない、との淡い願望のようなものがないと砂漠に水を撒くような企画は出来ないのである。アクションが起こせなくなったら、私は引退する。

フライヤーを置いてくれそうなお店やカフェを見つける感覚は、これまでの経験で歩き回るしかない、というのが私の原点、素朴極まる方法である。私が10才くらいまでの記憶、物売りのおばさんが、リヤカーに魚や、豆腐などを積んで直接訪問販売をしていた。限り無く私はその原初方法を遵守している、のだと思える。

家でじっとしていても、チケットは一枚も売れない。お客様を劇場に運ぶには、営業に徹するしかないではないか。頭の弱い私は体を運ぶ、行動力、実践力だけが取り柄のような私である。他にはなにもないと思っている。ってなわけで下津井エリアまで出掛ける。

2025-03-01

3月1日土曜日の朝、瀬政さんの意外なリアクションに驚かされる、今朝の五十鈴川だより。

 2月末のこの二日間は、4月30日のハレノワでのスパイラルアームズ公演に向けて、フライヤーの詰めのメールのやり取りがN氏と私との間で頻繁に行われ、日が変わ直前まで、N氏の推敲が繰り返された末、フライヤー決定稿が出来た。N氏から楽しく刺激を受けた。

大地にねっころがるノア

数日中にフライヤーが手元に届くその日が、今か今かと待ち遠しいが何はともあれ、これで4月30日のハレノワでのスパイラルアームズの公演に向けて、月も変わり新たな気持ちで向かえるので、正直かなりくたびれてはいるのだが、嫌な疲れではまったくない。

きっと年齢的なところからくる疲れなのだと、自分ではおもうものの、不思議とよく眠れるし、朝になるとこうやって五十鈴川だよりを打ちたくなるのだから、その気持ちが動く間は企画ができると自分に言い聞かせている。

ところで、フライヤーの完成を我が事のように喜んで早速私やNさんにメールをくれたのが、スパイラルアームズ岡山公演支援者の静かで熱き情熱の持ち主、瀬政さんである。色々打ちたいことがこの一週間立て続けに起こっているのだが、一番新しい瀬政さんのことから打っておく。

今回の企画、無名のスパイラルアームズを引き受けるにあたっては、経済的な支援もさることながら、まずはこれまでの私の人生で出会えた、得難い仲間にお声かけし、その仲間たちと共に、この公演を成功に導きながら、仲間とのこれからの関係性を、一段と深めてゆくための、千載一遇の好機到来と考えることにし、アクションを起こしたのだが、結果思いもよらぬことが次々と出来している。

昨日私は瀬政さんに(瀬政さんはすでに多額のカンパをしてくださっている)チケットは何枚位必要かと、仲間として軽く打診したのだが、なんとカンパ(カンパは自由に使って欲しいといわれた、そうさせていただく)とは別に10枚確保して置いて欲しいとのメールがきた。

これまでの交友で、彼が10枚もチケットを必要としたことは記憶にないので、正直私は驚きを隠せなかったのだが、その事以上に私を驚かせたのは、氏が自分も私のようにチケットを行商行脚すると、書かれていたからである。

蒜山でお地蔵さまになった瀬政さん

心強いという以外ないではないか。よもやまさかこのような人工知能AIが全世界を闊歩し、人心に便利で快適、人が人として動く楽しみすらコントロールしようとしている時代に、私と同じように、リアカーで手作り野菜を販売するかのように、チケット行商行脚する仲間が現れるとは。愉快である。

人間とはまったく計り知れない。シェイクスピアは自分という器は、自分では時にどうしようもないコントロールできない感情におそわれると、登場人物に言わせているが、まさに昨年からのシェイクスピア作品の音読への参加といい、瀬政さんは私を驚かせ続けている。

清水の舞台から飛び降りるという言葉がある。身を捨ててこそ浮かぶ背もあれ、とも言う。さすがキリマンジャロに登頂したこともあるご仁、伊達ではないと今回知らされている。人は長年の交友でもわからない奥深さを(時に自分でも自覚していない)秘めていることを痛感する。今回、仲間としての瀬政さんからは特にその事を感じている。

情熱の根拠は人それぞれである。余人にはうかがい知れない、多くの人間が普通関知しないような事柄に、時に敏感に反応する。今回支援カンパを振り込んでくださったかたがたは、そのような尊い感覚の持ち主である、無私の人ばかりである。スパイラルアームズを引き受けることなくして、このような稀な本質的な再会、新たな新鮮な高齢者再出発、出会いはなかったであろう。

そのようなあれやこれやをおもうとき、ただもくもくと🦏さいのように歩めと言う言葉が浮かぶ。歩き始めた幼児が無心でただ歩くように、老いてはいるが私もまだ歩ける。瀬政さんと行商行脚を楽しみたい。