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2025-07-05

猛暑の最中、熱中症対策、チビリチビリ本を読み、がまのあぶら、汗をかき新陳代謝を心がける。

 7月に入り2回めの五十鈴川だよりである。新聞購読を止めてもう一年以上になる。瀬政さんや、河合さんから、折々これはという記事を転送してくれる友人がいるのでとても有難い。昨日も瀬政さんが、猪風来さんや、セバスチャンサルガドの記事を送ってくださったので、読むことができた。

話は変わるが、私は日々飛び込んでくる様々な情報に正直うんざりしている。だからなのである新聞の購読を止めたのは。50歳を過ぎる頃から折々目についた、記事や書評を切り抜く作業を、我ながらよく続いたとおもうが、ノートに切り抜いては貼り付けていた。そのノートは棄てられず、数十冊今も手元に置いてある。

真面目に考える。新しい記事もさることながら、こ

元気が湧いて来る本。

れら切り抜いた古い記事の方が、今を生きる私にとっては、限りなく面白く有益であったりするのである。もう日々のニュースソースよりも、過ぎ去った(おなくなりになった)方々の記事などの方が、今の私には活が入るのである。

おそらく、猪風来さんのお仕事や、(猪風来さんは現役バリバリである)セバスチャンサルガドの仕事は、これからの私の人生の持ち時間をいかに生きて行けば良いのかの指標になる。先日故郷に帰省し、何時ものように五十鈴川の畔で過ごした82歳の姉との時間の有り難さは、言い知れない。

この世での、姉の今現在の様子が、一枚の五十鈴川での写真に撮れたことがただよかった。セバスチャンサルガドが亡くなったのは、今年の5月、82歳である。姉だっていつ天命に召されるか分からないし、人は皆母なる大地、宇宙へと還ってゆく摂理を生きるしかない。

と、ここまで打って論旨がまとまらなくなってきそうなのだが、あえて打ちたい。今回の五十鈴川帰省旅で、初めて姉兄と現世で会える時間が有限であることを実感したのである。その事で、五十鈴川の、日向灘のあまりものすばらしさを、お金ではとうてい買えない、大自然のただ行けば、いつもそこに在る恵みの偉大さ(どのようなテーマパークもかなわないのだ)に気付き、茫然とし、打たれたのである。

ところで故郷への帰省旅のお伴に、たまたま図書館で見つけた【マーク、ボイル著、ぼくはお金を使わずに生きることにした】、2011年発行の本を持参し、チビチビ読み進めこの猛暑のなか、昨日読みおえた。

当時30歳のマーク、ボイルが一年間お金を使わずに生活した、貴重極まるこの現代消費文明生活のなかでの、奮闘実践記録のレポートである。【世界を変えたければ、まず自分がその変化になりなさい】マハトマ、ガンディーの言葉に深く揺る動かされた彼は実践する。その一心不乱なあまりもの実戦力は、老人の私にも届いたことを、五十鈴川だよりに打たずにはいられない。

そのあまりにも、がんじがらめ欲望消費がた資本主義(つぎつぎ新製品で人間の欲望に火をつける)世界に放り込まれた人類の行く末に絶望した若者が、脱出する方法、終わりなき試行錯誤のリポートである。私が感動したのは、太陽光で古いパソコンを使いながら、このインターネット時代のなか、人類がいかにこの惑星地球の恵みを、人類がシェアしてゆくのか、ゆけないのかを、問いつづけていることである。

五十鈴川はただ流れている、小倉が浜の波は寄せては引く。黙して語らずである。限りなく与えるだけで人間を気持ちよくさせる。大いなる大自然はときに人間をうちのめす。セバスチャン、サルガドは晩年黙して語らず、ふるさとの土地を甦らせる。400年以上も前、ハムレットは後は沈黙、といって死ぬ。

とりとめなき、今朝の五十鈴川だよりになったが、この猛暑のなか、何とか一日一日働き、生活しながら、この世に生を受けた存在のひとりとして、五十鈴川の声なきこえに耳を澄ませ、心穏やかに暮らす、お金に振り回されない、生活の探求を実践したい。

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