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2026-02-10

平日の早朝、コメントを頂いた方にご返事を打つ、五十鈴川だより。

 私にとっての異変とでも言うほかはない、一度しか(たまたま)お逢いしたことがないかたから、一昨日打った五十鈴川だよりにコメントを頂いている。

それと2月2日に打ったチョンダラー長崎公演の五十鈴川だよりにも、スタッフとして参加されていた(忙しくしていてお話をする時間がもてなかった)Sさんから嬉しいコメントを頂いた。他にも言葉を交わしたこともない、兵庫県のかたからもコメントが。

説明不可能、凄い。

私の五十鈴川だよりにはほとんどコメントがないので、これは私にとってのちょっとした異変とでも言うしかない、綴り打ち続けてきたものにしか、わからない喜びである。。

特に今回の帰省で、日向市の駅からすぐに小倉が浜に直行、裸足になり、ふるさとの感触を確かめ、たまたま偶然そこに居られた、2匹の可愛い犬を連れた女性(多分サーフィンをされる)に、私は写真を撮ってもらった。多分そのかただと思うのだが、2度もコメントをくださった(いる)。

あの日、真冬サーフィンを(そのかたのご家族だと思う)していた人以外、あの広い小倉が浜には他に人の気配はなかった。もし、あの女性が居なかったら自撮りするしかなく、素足の老人の私の姿、全身、小倉が浜の波と青い空を五十鈴川だよりにアップすることは、かなわなかった。

あの日出逢えた女性は、私の五十鈴川だよりに、小説家のような文章だとのコメントを寄せられている。このようなコメントを頂いたのももちろん初めてである。折々五十鈴川だよりを還暦以後打ち続けているのは、自己慰撫、自己激励、自己満足以外のなにものでもない。

ただ脳内に浮かぶ、よしな無し事を打ち続けているだけである。古希目前、大きな手術をして、肩の力が抜け、徐々に日々是好日的なエッセイ風に変化してきているのかも。といった塩梅で、歳と共に、やはりあの五十鈴川や小倉が浜の幼少期、青少年期の、宝の(辛いことも悲しいことも嬉しいことも全てが)思い出が、私の今を、限りなく支えているのは間違いない。

若き日、18歳から二十代の終りまで、大都会で演劇を学び、分けてもシェイクスピア作品から、大きな影響を受け、その事で(シェイクスピアはこの世は舞台、我々は全て役者だと言っている)日々の生活を、物語る癖のようなものが私のなかにあるのかもしれない。

いわゆる名台詞の数々に、若き日の私は酔い続けていた。その影響は拭いがたい。消せないし落ちない。そして今、しみじみ思う。シェイクスピア作品に出会えて心からよかったと、おもうのである。このようなことをぬけぬけと打つことも含め、 もう私は厚顔無恥の老人なのであるから、ご寛恕願いたい。

たった一度の人生を、どこかフィクション的(全くシェイクスピアがそうである)に彩りたい、といった願望は、なんびとにもあるように思える。これ以上は打たない。老人の私だが、幾ばくかの羞恥心は未だ持ち合わせている。野暮は大嫌いである。

ところで、あの女性だとおもったのは、あの日大分から来ていると言う言葉。コメントに湯布院で雪かきをする、とあったからである。(岡山で再会する前に、私が帰省、小倉が浜か、湯布院に途中下車すれば逢える)

それからチョンダラーで出会えた、杉本さん(お名前が記してあったので)、お話しができなかったので、良健さんの春の個展には行くので、その際にお話が出来ることを望みます。貴女が終演後、梱包している姿、純子さんをサポートしている姿が焼き付いています。

PS 湯布院の方へ。あの73歳最後の小倉が浜での写真、気に入ってます。その日のうちの五十鈴川だよりへの反応、リスポンス、誠にありがとうございました。

2026-02-08

選挙の朝、老人は静かにこの国の行く末におもいを馳せ、そして思う。

 選挙の朝である。しかし、私の心は弾まない。世の中に出て、選挙権を得、この年齢まで何度も選挙には行くのだが、正直あまり政治には興味が持てない。その理由を縷々綴るのは気が重いし控える。

縁もゆかりもお目にかかったこともないかたから、突然電話があったり、郵便物が送られてきたりする。私のような時代とズレタ遺物にはまずもって、このような行為事態がゆゆしく呆れる。つまりはそういう世の流れに、無感覚ではないので、従ってそういう世の流れからは、遠く離れたところで静かに、五十鈴川だよりを打ちながら、ちっきょするのである。



今ゆっくり読んでいる池澤夏樹さんの本[また会う日まで]のなかに、書斎ひとつが我が領土、と言う言葉があった。全くもってそのことの気持ちが理解できる。

私が信頼する養老孟司先生も政治が苦手だとおっしゃっている。できれば、そのような大きな世間的な社会からは、もうひたすら距離を置いて(老いて)いたい。

そういうわけもあって、自分と向かい合って、(もう歳なので何でも打つ)、自分に期待する、自分のなかに希望の種を撒いて、それを自分で育てる、かのような人生を、今も歩んでいる。とはいっても、絶対矛盾を常にかかえてはいる。

経済成長、手取りを増やす、移民政策、国防、消費税、少子化、環境、教育、などなど、まさに乱世である。どの党に一票を投ずるのか。甚だもって私の頭では困難をきわめる。有権者の半数がネット世代、私の感覚には程遠いSNS時代、私のような輩はすでに時代の枠からはズレているのを認識している。

甚だ無責任に述べるが、勇ましい言葉の羅列、不安を煽りたてるような候補者にはご用心である。今年最初に花隆さんの天皇と東大で、近代、現代、終戦、までを読んだことで、あらためて無知を自覚している。そしてなんと人間は同じ過ちを繰り返すのかと。

戦後80年をすぎ、今回の衆議院選挙は、政治家も、有権者も(私を含め)戦前を皮膚感覚で知らない世代が多数を占める時代、だから大きな節目になる。その事だけは間違いない。この国の舵取り、リーダーをどの党の党首に委ねるのか、選んだつけはいずれ国民全員が払わなければならない、のは歴史が証明している。

この国の行く末ではなく、世界の行く末、人類の行く末をまで、射程にいれた(自国ファーストではなく)スケールの大きい人新世の、奇跡の水の惑星のリーダーの登場を祈らずにはいられない。

そして思う。国民を飢えさせず、外交努力でもって、有事を回避する胆力のあるリーダーを持てない国に(その事を真剣に考えない国民は)明るい未来は訪れない、と考える。

PS 今日の写真はかじまやぁ長崎公演でお会いした、Gさんがお勤めの長周新聞(このような新聞の存在を初めて知った)の2月2日の一面です。2年前からM新聞の購読を止めていましたが、2月から長周新聞を購読することにしました。小数の声を伝える新聞、Gさんの熱が私に伝わりました。




2026-02-07

五十鈴川だより、アクセスが130を超える。うたかたはかつ消え、かつ結びて久しくとどまりたるためしなし。

 ちょっと今週は頑張って働き、嬉しい土曜日の朝が来た。立春が過ぎ、気持ち夜明けが早くなってきた。とはいっても今夜から平地でも雪が降るとの予報、北国の人々の生活のご苦労を想うとき、わたしは宮崎に生を授かった、ありがたさを思わずにはいられない。あの途方もない忍耐力は雪国、寒冷地の風土がもたらした、力であると認識する。

30年前、初めての沖縄で求めた良健さんの画

話題を変える。五十鈴川だよりにちょっとした異変が起こっている。チョンダラー長崎公演を終えて、新鮮なうちにと、私には頑張って、労働のあと2月2日に、私なりの一部始終を記録し、なんとかアップした。

桑江純子さんに読んでもらいたくメールしたところ、なんとも身に余る(これまで頂いたメールでもっとも嬉しい)お言葉を2通頂いた。

私の五十鈴川だよりにはほとんどコメントが入らない。が、まる13年五十鈴川だよりを綴ってきて、初めていきなり4人ものかたから、有り難いコメントをいただいた。

そのコメントは先の長崎公演の裏方ワンチームから頂いたものである。そのことの嬉しさは、同士的結びつき、一朝一夕には生まれない類いの何かである。

それは、齢あとわずかで満74歳になる私に、大いなる、これからどの方向に向かって歩を進めて往けばいいのかの示唆を与える。老いゆく未来の明るさをあのワンチームは照らす。大変貴重なひとときを、チョンダラー長崎公演の裏方、ワンチームと過ごした(せた)幸せがいまだに私を包んでいる。(あの面面と未来について語り合いたい、何かがあの面面となら起きるように思えるのである)

一糸乱れぬ、あうんの呼吸で全てが進行してゆく気持ちの良さを私は体験、体感した。この気持ちの良さは、一体全体何処から生まれてくるのか。揺るがない信頼感に支えられた、真の意味でのイベントを、かじまやぁのお二人は果てしなく持続してきたのである。その厳然たる事実の重さに、脱帽、感動する。

そして、考える。思う。動かない限り人は出会うことはない。現世に、私自身限りなく縛られて、時に身動き出来ないほどにガンジガラメなのではあるが、やはり縁(えにし、よすが)に時折ジャンプする勇気を持たないと、意外性は生まれない。意外性こそが芸術の真髄である。老いて守りに入るのは愚である。かけがえのない人に会いにゆく。これこそが宝でなくして何の人生、喜びか。チョンダラー長崎公演のワンチームで、謎のような気持ち良さに私はおそ(教)われた。

その謎を、今私は年齢をしばし忘れて、少しでももっともっと知りたい、のである。古希を過ぎて、またもや懲りずに企画を始めた私だが、可能ならあのワンチームのような企画を、と夢みる。

お二人に出遭って30年になるが、裏方として参加したことで、あらためて私は本質的に、お二人が心血を注いできた、かじまやぁ(52年の歩みの重み、凄さに)に出会ってしまった、のである。(もう年齢的に怖いものはなにもないので何でも打つが)地に足のついた、根のあるイベント、企画には(私が知らないだけである、と思うけれど)この数十年ほとんどお目にかからない。

数多の根のない、造花の(もっといえば消費するばかりの根のない、関係性がふかまらない、つまりは人間力が乏しい、痩せたイベント)無味乾燥なイベントには、もう私の感性は閉じている。かじまやぁはほとんど自力(地力)根がある、何よりも体の力、夢の創造力でもって、子供たちの想像力、 未来に働きかける。かじまやぁにあやかり、老いの花を今しばらく夢見たい。

年上の凄い先輩、猪風来ご夫妻、今年は早々に桑江ご夫妻、本質的に再会できた重み、幸運を五十鈴川だよりに綴りうたずにはいられない。

2026-02-02

1月31日、長崎で人形劇団[かじまやぁ]桑江純子、良健さんの最後の公演、チョンダラーを観ました。そして思う。

 昨日午後、予定より1日早く帰って来ました。ふるさとで二泊、長崎で二泊、4泊5日の小さな旅は、私にとって大きな旅となった事を、気持ちが新高揚しているうちに打っておきたい。


人生は出会いと別れの集積である。摂理、始めたことは終わりが来る。30年前、かじまやぁ、桑江純子、良健さんご夫妻二人で全てを切り盛り、こなす人形を当時働いていた美星町の廃校で企画したのがご夫妻との出会いである。

30年の交友、関係性が持続し、最後の公演に立ち会えた事実の重み、幸福である。記録として五十鈴川だよりに記しておきたい。何よりも孫たちが大きくなったときに読んでもらいたい、とのおもいが私に、私に五十鈴川だよりをうたせる。

おととい30日午後6時前、3年ぶり(飯田でのに人形劇フェスティバル以来に、よもやまさか最後の公演での再会になるとは思いもしなかった)長崎のホテルで桑江さんご夫妻と再会、公演前日の夕食会に私も呼ばれたので参加した。

ご夫妻、出演、兼舞台監督のYさん、照明のNさんほかスタッフ含め9人での、慎ましく静かな夕食会であった。桑江さんご夫妻のこれまでの活動、歩みに魅せられた長い関係性の上に、強固に築かれた人達が集まっておられた。今回私はスタッフとして最後の公演に参加した。岡山からはそのスタッフに、長年かじまやあの公演を引き受けておられたHさんもいた。

スタッフ、参加者紹介を兼ねた夕食会を終え、裏方5人での本番当日の流れを舞台監督のYさんを中心に打合せをして、早めに宿に引き揚げた。

一昨日、本番当日朝八時半にホテルでに集合、そこからマイクロバスで約10分、公演が行われる長崎市平和会館ホールに。静かな緊張感、すぐに舞台の仕込みに入る。私とHさんの岡山二人組も年齢をしばし忘れて、かじまやぁ組の裏方に専心した。手慣れた舞台監督のYさんの指示で10時半には舞台が見事に組あがった。(10時過ぎ長野の飯田からGさんも裏方として駆けつけてきた)

組上がったら、もう私のやることはなく、舞台稽古をただただ見守り、純子さんの体調、無事の公演を願った。


この公演の主催は、宗教法人大谷派の九州教区長崎組、青少幼年部門❲こども報恩講実行委員会❳。原爆80年 非核非戦こどものつどいである。

13時30から始まり、人形劇は14時30開演。純子さんはスタスタと歩いて颯爽と登場した。芸人魂の塊となって、希望の声で250人位の親子に向かって、沖縄の言葉でハイサーいと語りかけた。始まった。チョンダラーの世界へと導いてゆく。

私は一部始終を眼底に焼き付けた。かじまやぁ、チョンダラー最後の公演はあっという間に無事に終った。子供たちは手を叩き、体を揺らして、チョンダラーの冒険活劇に釘づけ、全身でみいっていた。

一時間10分動きっぱなしである。純子さんは私より年上、夫の良健さんは今年78歳になる。なんと言う肉体の動かしかたか。長年培った蓄積の上に、人形と桑江ご夫妻、Yさんが一体化、寸部の乱れもなく、舞台が進行してゆく。素晴らしいと言う言葉しかない、最後の公演に立ち会えた幸運を五十鈴川だよりに刻んでおく。

16時終演後、すぐにスタッフとなり、解体、梱包のお手伝い。久し振り全身体を動かした。老いの体から汗が流れた。全てを終え、ホテルへ移動。小休憩の後、主催者主催の打ち上げ、居酒屋に。(移動は全てワンボックスカー)。午後7時過ぎから10時まで、楽しい交流の宴が盛会で行われた。

そして桑江ご夫妻、裏方全員、10名での二次会が、ホテルのGさんご夫妻の部屋で(一番広い)その後午前一時まで行われた。このワンチームの、それぞれの方のお話が素晴らしかった。その事のいちいちは私の筆力では不可能である。裏方として、スタッフとして参加したからこそ、二次会に参加出来た。宿が違うし、一次会で引き上げようかと思ったのだが、良健さんが声をかけてくれた。

沖縄を背負って、(凄まじいまでの覚悟に)人形劇に打ち込んで来られた純子さんの純真な一途さ、夫良健さんの画業もしかり。52年の歩みの確かな重みを、二次会に参加された各人各様のお話に私は教えて貰った。

かじまやぁに対する、思いの丈の深さ、この二次会に参加したことで沖縄の事を、この日出逢えた若い面面と共に学びたくなった。桑江さんご夫妻との新たな交遊が始まる。沖縄詣でを体が動く限り続けたい。(と念じている) かじまやぁ美術館は沖縄の宝である。


2026-01-30

30日午後、長崎に着いて小ぢんまりとしたアットホームなやどのロビーで寸暇打つ五十鈴川だより。

 長崎についた。日向市駅を午前7時45分に発ち、大分小倉回りで博多から特急、武雄温泉で初めて新幹線カモメに乗り換え、午後2時半に長崎駅に。そこから宿まで徒歩10分ですんなり宿についた。NHK長崎放送局のすぐそばの、ちょっと昔若い頃の旅を彷彿とさせるドミトリーの宿で、狭いながらもスタッフの対応が素晴らしく、疲れもなんのその、桑江さんたちとの待ち合わせ時刻まで、寸暇五十鈴川だよりというわけだ。

犬を連れた女性が撮ってくれた

坂之上にあるこの宿は、いろんな由緒ある長崎の史跡がすぐそばにある、いかにも長崎と言う景観雰囲気が漂っていて、すでに旅人気分である。

さて、ふるさとに門川でのわずか2日の滞在ではあったが密度の濃い、姉や二人の兄、義理の長兄の姉と、老いて健康に今を活きている幸せを確認できる語らいが持てた幸福を、そっと五十鈴川だよりに打っておきたい。何せ私が一番若く、まもなく74歳。最高齢は義兄の84歳、体は年相応だが、私との会話が全員十分にできた、そのよろこびは老いてこそである。

おととい、水曜日着いたのが午後2時半、迎えに来てくれた兄の車で、日向市駅から小倉が浜に向かった。娘達が小さい頃連れてきたことがあり、わたしが高校生にときには何度も来ていた、最高の思いでの場所である。歳と共に染み入って来る思いでの場所、そのような老いてもなお血が騒ぐ行きたい場所が在ることのなん足るうれしさよ。

厳冬季わずかな人しかいなかったが、数人サーファーが冬の海にいた。たまたまおられたそのサーファーのご家族の2匹の犬を連れた女性が写真を撮ってくれた。(なんと五十鈴川だよりにコメントしてくださった、岡山に帰ってらゆっくりお礼の返信を打つつもり)、これだから私は老いても旅に出るのである。(だってまだゆきたくなるのだから、今ようやく行けるのだから)裸足で砂浜にたつ老いた弟を兄は呆れていた。

いきなり、ふるさと小倉が浜でよき時間を過ごして兄の家に、すぐお風呂をいただき、いつものように義理の姉登紀子さんが、美味しいお鍋(鳥とお魚の)での夕食を用意してくれていた。すべてが美味しく幸福感に浸った。

姉と登紀子さんが作ってくれたお昼のおむすび🍙

昨日は起きてすぐ夜明けを眺め、お墓参りを済ませ、次兄を訪ねコーヒーをいただき、お互い元気での再会の時間を過ごし、兄の家に戻って朝食。

朝食後、姉の旦那さんとしばし歓談の後、まもなく80歳になる兄が、私を都城にちかい青井岳温泉まで私を連れていってくれた。素晴らしい温泉であった。お湯がとろとろの。

往五時間(二人でゆっくりおいしい夕食して午後6時帰路についた)も運転してくれた。その事への感謝も五十鈴川だよりにキチンと打っておく。もう十分に我が姉兄弟は全員高齢者なのである。一期一会、全員健康にしぶとく生活していた。その事がたまらなく嬉しかった。幼き日共に苦楽したかけがえのない我が姉兄弟よ。有り難うございます。

だが、年明けそうそう縁起でもないということなかれ、摂理、遠からず、この世のお別れがやって来る。その日に備えて、いざというとき冷静に明るくお別れができるように、、、。今回もよき時間が持てた幸運、幸福を感謝する。

とここまで打ったら、桑江純子さんからメールが来たので五十鈴川だよりは中断する。



2026-01-28

昨年夏以来、ふるさとに還る前、寸暇打つ今朝の五十鈴川だより。

 早起きは三文のとく。(あくまでも私にはである)今日からふるさとに久し振りに帰省し、お墓参りをし、しばしぼーっと彷徨し、桑江さんご夫妻の最後の公演にゆく。少し時間がある。

そとはまだ夜明け前、まだ暗い。もう覚えていないくらい打ったが、私は夜明け前の一時が大好きである。どのように疲れていても、いまだ有り難いことに、我が体は一晩熟睡すると、まるで生き返った(死んだことはないのだが、眠っていた時間が魔法のように思えるほどに)かのような案配である。

今回の旅のお伴の一冊

昨日の自分と今日の自分は、明らかに微かに異なっているかのように思える。だからこそ、飽きもせず、五十鈴川だよりを打つという、敢えて言葉にするなら今を活きている幻想、一文を綴るのだとおもっている。

さて、来月私は74歳になる。我が姉兄弟は3歳見事に3歳違いである。なかなか会えないが、タイで生活している弟もおそらく今年71歳になる。迎えに来てくれる長兄は80歳、次兄は77歳、姉は83歳になる。

私は兄弟の誕生日を知らない。帰ったら、いまさらだが訊いてみようとおもっている。わが家のお誕生日はお正月元日に家族全員で祝う習わしであったので、今風のイメージのお誕生日、極めて西洋風にお祝いをすることはなかった。父は全員の子供に、新しい服を与えてくれた。その事がとてもうれしかったことをおぼえている。

がその事も、父の仕事で小学六年生になるとき、私と弟は両親と共に転校し、祖父母、姉兄たちとの全員一緒のお正月はなくなってしまった。その時一年間を過ごした美々地小学校は延岡を流れる五ヶ瀬川の上流に位置し、銅を産出する山の中に忽然と現れた炭鉱町であった。当時生活に必要な物はすべてが揃っていて、大きな商店、テニスコートから映画館までがあった。

春からわずか一年間しか過ごさなかったのに、この六年生の炭鉱町での記憶はいまだに私の中に大きな出来事として消えない。翌年、中学一年から都城に近い、僻地の四家中学校にまたもや転校した。(今は廃校である)中学校の2年生の夏休み一人美々地小学校を訪ねた。様子は廃墟一変していた。

やがて廃坑になるという噂は聞いていたが、あまりの様変わりに、茫然自失した。思春期の真っ只中、あの凄まじい様変わりが、私に与えた最初の無常感である。この年齢になっていよいよ思い出したくはない記憶も含め、過去の思い出が甦る。打っていると、きりがない。だけれども、自分という不確かで絶えず移ろう存在のほとんどの礎は、五十鈴川を含めた、18歳までの体験、記憶で(言語、方言が大きい)成り立っている。

その記憶の跡地を特に還暦以後、五十鈴川だよりを打ち始めてから繰り返し、ふるさとに還る度に訪ねているが、やがては帰ることも叶わぬようになる。お別れが来る。だから、一期一会、体が動くうちは帰る。とくに一番上の大陸引き揚げの邦子姉には直接御礼を伝えるつもり。小さいころから、世の中に出て、フラフラと腰の定まらない私を、姉は天真爛漫ずいぶんと支えてくれた。このような姉と出会えて幸せである。

おかげで私は、現時点でいまが一番幸福感に包まれている。だから、のうのうと五十鈴川だよりが打てる。有史以来の人類の歩みを想うとき、何と有り難い時代に生を受けたことかと、感じ入り、痛み入るのである。祖父母しかり、両親しかり、おもい叶わず倒れていった数多の途方もない死者たちの日本各地の慰霊を訪ねたくなっている。長崎の地で桑江さんご夫妻の最後の公演が行われるのも、どこかお導きのようにおもえる。老いてこそ、沖縄のことも桑江さんご夫妻から学びたい。

2026-01-27

立花隆著、[天皇と東大、下巻]を読み終えた朝に思う五十鈴川だより。

 昨年暮れから読み始めた、立花隆著、天皇と東大上下巻を年明けから、尺取り虫のように、主に朝、頭がすっきりしている時間帯に読み進め、ようやっと読み終えた。読み終えたばかりである。

昨年は戦後80年であった。[天皇と東大上下]は2005年に刊行されている。20年前である。20年前と言えば、私が53歳である。まだ中世夢が原でバリバリ働いていて、娘達は中高生であった。が乏しいお小遣いの中から本は買っていて、長いこと本棚の中に眠っていた。

学べる体を養生したい

が、何時かはきちんと読まねばという思いは消えることがなく、ようやく機が熟して、ようよう読み終えて思うことは、つくづく読んで良かった、という言葉しかない。その思いを長々と綴ることは控える。五十鈴川だよりに読み終えた事を、まずはキチンと打っておきたい。その上でもう少し打つ。

立花隆さんが逝かれて5年が経つが、このようなお仕事、ご本を著されたことに新ためて畏敬の念を覚える。求めて後20年後この本を読み終えて、私はすっかり老人の今、さていよいよこれからをいかに人生を降りてゆくかの、細き路をさ迷っている。

が、天皇と東大を読み終えたことで、一念発起、近現代史、分けても戦前までの昭和史を学び、自分なりに知りたくなった。新た老いを生きる目的が拡がっている。

その自分にとっての、第一の入り口として出会った本、選んだ本が[天皇と東大]になったという事、感謝の念しかない。割愛するが私の両親は大正時代の生まれ、軍国主義教育を受け育ち、戦前北朝鮮で二人共に教師をしていたが、敗戦で一切の財産を無くし、塗炭の苦しみを体験、3歳の姉と、生後半年の兄と共に、今の韓国の大空港仁川から(当時はしなびた港町であった)命からがら引き揚げてきたのである。私を含めた3人は戦後生まれである。

(同じ昭和、戦前と戦後の教育の歴然とした相違に愕然とする。そして教育というものの恐ろしさ、この本は一筋縄では答が出ない日本民族の出自、国体、いかに日本民族のアイデンティティーを確立して未来に向かうのかの重い問いを内包していて多義的に照射する)

重い重い避けたくなるテーマ。平和国家とは何か。今も過酷な国状況下や戦禍の中で難民となり、国を否応なく脱出、漂流するニュースが途切れることはない。難民キャンプの映像、もうそのようなニュースに、老人の私はリスポンスするのが、萎びているのを、どこか自覚している。二人称の困難や困窮、死にはかくも敏感に反応するのに、三人称の死にはかくも鈍感な私なのである。

しかし、私には両親のおかげで、どこかに微かに、ほんとうに消え入るかのようにかすかなのだが、難民の両親の末裔だという自覚がある。だからといって、どうともならない。またいうこともとりたててない。だがときおり何かが心の奥深くで蠢き囁くのである。その蠢きは、古稀を過ぎて、消えるのではなく、より蠢くのである。その内的な消えない老いの揺らめきが、[天皇と東大]を読ませたのだと思う。

そして思う。いよいよこれから、あの戦前の昭和(もちろん大政奉還、明治からも)、天皇、軍人、知識人、学者、学生、一般大衆、日本人、(全部)民族がどのように生きて、決断し、選択し、戦後を迎え生きてきたのかを、まずは知らないといけないのだということを、立花隆さんが心血を注いで著してくださった本を読み終えて、いま私がおもうことである。

このような内的な老いの変化移ろいを、五十鈴川だよりを打ち、どこか孫たちにお爺の思いを伝えたいのである。