私は生きている。亡き父が80歳をすぎ、ローカル新聞に26回、連載したときのタイトルである。思わず、このようなことを打つ五十鈴川だより、この年齢で、この暑さのなかの労働は体に堪える。だが私は堪えている。何故か。きっと希望、ガソリンのようなものが、一滴一滴、老いゆく体に、蓄積されてゆくかのような、いわく言いがたい自己暗示的満足感があるからである。
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| 下記に記します。 |
高校二年生から演劇部に所属、18歳から20代のほとんど(生活費を稼ぐ以外)を演劇を学ぶ事に費やした私は、自己劇化というのか、どう考えても一回生の人生を、いかに劇的に生きればいいのか、いけないのか、というような、永遠のハムレットの問いの謎に、いまだ取りつかれている。そのような気がする。
人は時代や環境を選べず、生まれ落ちた場所から生き始める。千差万別の、各々の生を生きるしかないという宿命を追っている。だからあたりまえなのだが、日々自分に与えられし、今の体でのベストを尽くすしかない。今日は今日の体で、おのれを運ぶしかない。宿命である。
話は変わる。長女と未彩と私は7日の夕刻に成田をドイツはベルリン(そこからドレスデンに向かう)へ発つが、レイさんと息子の望晃(ノア)は、24日から一足先に発って、すでにドレスデンでの夏休みを過ごしている。レイさんは、ドレスデンでリモートワークが出来るので、少しでも長く、ノアにドレスデンでの夏休み、お父さんやお母さんとの時間を、と考えている、のだ。
すでに向こうでのノアの様子が写真で送られてきている。ノアは8歳にして、ドレスデンを始め、宮崎の私の故郷など、すでに多様な世界を垣間見ながら成長している。井の中の蛙的な世界しか知らず、18歳まで過ごした私とは大違いである。最初の我が孫がどのような人生を歩んでゆくのかが楽しみな私である。
(後何年、私にノアとの健康時間がすごせるのかはわからないが、こうやって少しでも綴っておけば、後年、お爺の気持ちが遺せる)
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| 下記に記します。 |
話を酷暑の労働に戻す。雨が降らないので、草も成長が遅い。そのような今、私が炎熱のなか、ちびりちびり無理せず、集中力を持って勤しんでいるのが、屈んだ姿勢(時折這いつくばって)の草取りである。
正直数年前までは、苦手な作業(本格的にやろうともおもわなかった)だったのだが、達成感の喜びを体が覚えてからというもの、苦が楽に転じてしまったのである。(呼吸を整え、スクワット健康法くらいのつもりで取り組んでいる)
あくまでも無理せずなのだが、どこにどんな喜びが転がっているのか、わからない。退職された先輩、Tさんに特注で作ってもらった、特製の草取り道具が必需品、ワンラウンド50分位集中し、体調によって、4、5ラウンド、ラウンド毎に、休憩をたっぷりととる。季節によってやることは変わるのだが、ラウンドはほとんど変わらない。
この環境での労働が、よほど今の私に合っているのか、もうまる8年以上高齢者労働が続けられている。この熱暑もお盆を過ぎれば、と願う。熱射を避けての対策を講じながら、日々しのいでいる。
家では、昼寝と水浴びである。さっぱりした体で、ちびりちびり草取りのように本を読む。この繰り返しである。本読む集中力をキープするのには、草取りは特効薬である。
PS 上のの写真は10年前、レイさんが娘との結婚式のときに、西大寺の我が家のハッサクの種を持ち帰って植えたものである。10年後見事に育っている。家族が健やかに根をはるのも時間がかかる。レイさんは、ノアが昨年猪風来さんのところで作った縄文の小さな土偶も庭に置くと持ち帰りました。レイさんは、義理の息子であり、私の世代を越えた友達でもある。
下の写真は、太田昌国先生の現代企画室出版の、インディアス群書一巻、ドミティーラ.M.ヴィーゼル著、唐澤秀子訳、[私にも話させて](アンデスの鉱山に生きる人々の物語)です。岡山市の図書館にあったので、旅の空でじっくり読もうとおもう。
海堂尊著、[ゲバラ漂流]POLARSUTAR 491ページ、230ページを読み終えた所、無知を感じながら、読み進めている。著者が一冊の小説を顕現かするのに、どれ程勉強されているのかを、巻末に記されている参考図書群をみると、粛然とした思いになり、一行一行しっかりと読みたくなる。












