昨日午後、名護、屋我地に住む、桑江良健さんからお葉書が届いていた。じっくり何度も何度も読み返している。直筆の文字の、良健さんの文章を読んでいると、わずか3泊4日過ごした、屋我地の風景が忽然とよみがえり、未だに、出掛けて本当に良かったという思いが、老人の体を駆け巡る。
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| 下記に記します。 |
台風の雨で休んだ日以外は働いていたので、6月最初の五十鈴川だよりである。もう今年も5ヶ月が過ぎたのだが、自分でも、充実した日々が送れていることの幸堪を、のうのうと綴る自分がいる。
沖縄から戻って来てすぐに、長周新聞への依頼された原稿を何とか書き上げ、Gさんに送ったのだが、お礼のメールをいただいた。また、あじくーたーの世界への旅、桑江純子さんから心のこもったメールを頂き、拙文を現すことができた喜びに寸暇ひたった。
充分に、縮んで来つつあるなあと思える、現在の我が体だが、辛うじてなんとか一文が紡ぎだされてくる。停滞すると我が体の水は流れない。桑江夫妻、猪風来ご夫妻に共通するのは、純粋性の極致といっても過言ではない。ひるがえっておのれはいかに。汝自身を知れ、とはなんと深く、哲学的言葉であることかと、いまさらながら駿巡する。
復讐するは我にある、という言葉が聖書のなかにある、ことを知ったのは還暦を過ぎの頃である。(間違っているかも知れない)、小説のタイトルにもなっている。いずれにせよ、ふかい、深い哲学的な全人類の叡知が、今もって思考を続けるテーマである。とてもではないが、私のようなノータリンには、畏れをなして近づきたくはないテーマである。
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| 小さい花が部屋のあちらこちらに。 |
だからいつものように、話題を変える。またか、と思われても最近は厚顔なのでとんと気にしない。見開き四ページの、小さいが志の大きな長周新聞を愛読している。老人の私をかくも活性化させるのは何故なのか。それは自分のなかで何か訳のわからない、名状しがたい変化、変動が起きている、からである。それを言葉にするのは不可能である。だから、日々の生活の中で行動、実践し続ける、ということぐらいしか今はいえない。桑江さんを入口に、沖縄への旅を続けたい。
長周新聞は、精神のビタミンである。縮みゆく肉体を引きずりながらも、どっこい生きているおのれの肉体の今を、対象化、日々を刻む為の切り抜きが、最近の私の楽しみである。渾身の記事や、連載(太平洋の波間から、パプアニューギニアの原生林の伐採、日本企業の横暴、現地の人々の苦悩を伝えて余りある、詩人金子みすゞの下関、デジタル教科書の是非、などなど、読みごたえ充分である、)投書にもそのかたの人生が浮かび上がり、想像力がいたく刺激される。思わず、紙面を通じて、お近づきになりたい、と思わせるほどに。
ところで、先日私の体の定期検診に行ったのだが、身長が一センチ縮んでいた。あらためての老いを実感したが、縮んだものは仕方がない。数値化された我が体の一覧表をみる。手術退院後、この5年ほとんど変化なし。今日の体でいかにいきるか、がいちばん大切なのである。
PS 昨日夕刻切り抜いた記事の一部を読めないとおもいますがアップしました。切り抜いたがために切り抜けないものは、文字でかすかであれ文字で記録することにしました。平日はまず労働第一、休日は五十鈴川第一で、優先順位で一日をずごす。あっという間に一日が終ります。









