一月末、桑江純子さん、良健さんの主宰する、人形劇かじまやあの最後の公演にスタッフとして参加した際、Gさんという方と出会い、そのご縁で長周新聞(沖縄支局で働いておられる)を購読し、3ヶ月半になる。
わずか四ページ、良心的なわずかな広告と購読者のみによって支えられている新聞である。コンパクト読みやすい。老人の私を活性化する記事で紙面が埋められている。購読料も安く、年金と肉体労働で、好奇心を失わず、なるべく気持ちの上向く生活を心かけている私にとって、いまや欠かせない、ビタミン新聞となっている。
よくぞ書いてくださった、という一般市民の(知的レベルの高さに驚かされる)投稿や、レアアースとい鉱物に関する連載ほか、世の中に出て、50年以上朝日をはじめとする大新聞しか購読していなかった私には、週末まとめて、新聞を読むのが、いわば私の老人生活の楽しみとなっている。
いわば大新聞を手放したら、小さいけれども、良心と志の高い地方発の新聞に出会った、その幸運を記さずにはいられない、今朝の五十鈴川だよりである。思えば我が人生、手放すと新しい出会いがまっている、とでも言うしかない幸運に支えられて、今も生きている。
執着しない、ギリギリまで事を進め、頃合いを見て諦め、次なる道を歩んできた。そのことに全く悔いはない。私の場合、人生は選択と決断、判断の繰り返しである。今現在もそのような本能的感覚優先でその日暮らし老人生活をしている。
カッコつければ、演劇のレッスンで教わった、虚実皮膜の間を(いい加減)生きる方法を未だに実践し、多くの偉大な先人たちが歩んできた、大きな渦の外にいて、少数者の側からの視点を揺るがせにしないということである。
其のような歩みの結果、つくづく有り難いのは、その都度擬態というか、変身生活、脱皮しながら一貫しての我が歩みに共感してくださる方たちが、存在していることである。利害関係がない。我が交友関係性はお互いが、時代のなかで、その都度の年齢を移ろいゆきながらも、移ろわない思考を持続している方たちとだけ交友が続いている。
その筆頭桑江さんご夫婦とのご縁無くば、長周新聞にも出会わなかっただろう。老いと共に出会いは減ってゆくのは道理だが、一回こっきりの人生で繰り返し、問題意識を共有する、思考錯誤、日々生きなおす友人(数は少なくとも)を持てていることに対する、感謝、幸福感は例えようもない。
話を戻す。そのような関係性を持続するのはやぶさかではないが、よしんば関係性が間遠くなっても、それはそれで良いのである。人それぞれの生きる場所は異なり、皆それぞれの日々を必死で生きているのは当たり前だからである。私は私の体を運ぶだけである。
PS 今朝の写真は一番新しい5月13日の長周新聞の一面、上下です。読みにくいのは承知でアップします。このところ、近しく感じている友人面々にラインで(ほんの少しですが)私の体に届いた記事ほかを、転送している。反応に人間味、人間性が垣間見えます。嬉しい意外な一面が。
五十鈴川だよりを打てる間は、大都市に本拠を置く、大メディアではなく、地方発、もっといえば、世界の果たて、辺境の地から中村哲先生のように、たった一人で発信しつづけた人の声に耳を傾け対と私は思う。









