休日は、ほとんどなんの意味もなく、五十鈴川だよりを打つことから始まるようになってきている、最近のわたしである。
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| 24年前の本、戦争だけは非である。 |
昨日も打ったのに、今朝も打つのはもはや老いのコンディションづくり、体の機能調節というほかはない。とはいっても、取り立ててて打つに値する一文を、などという気も、能力も持ち合わせてはいないことを、私は自覚している。
が私は、徒然なるままに、紡ぎだされる、ようよう湧いてくる言葉に励まされ、自分で自分と対話しながら打っている体なのである。従ってほとんど毎回予期しない一文がしだいに生じてくる。そのことがやはり好きなのだと思う。
さて、過ぎ去った月日に求めた本の類いを処分しているのだが、そのことで10年、20年以上前に出版された本をこのところ、改めて再読している。本だけではなく、今となっては貴重な雑誌の類いも、休日の午後、遅読している。
老いやすく学成り難しという言葉を痛切に感じる。が、致し方ない。老いても読みたい、知りたいという気持ちがある、そのことが大事だと、静かな我が生活を慈しむ。そして五十鈴川だよりを打つ。我が慎ましき循環生活、自分が気持ちのいい方向に流れてゆくことこそが大事なのである。
とはいっても、頭でっかちの口先人間にはなりたくない。インプットとアウトプットのバランス感覚を正直に生きたい。頑迷古老の(いずれはそうなるにしても)老人になるのはいましばらく先にしたい。
18歳で、漫然と漠たる不安を抱えつつ世の中に出て、何はともあれ、生活することを第一義に(生きるためには喰わねばならない)56年よく生きてきたものだ。感謝しかない。今もごく普通の生活者という視点を忘れたくはない。そのようなおもいが持続している。だから元気に五十鈴川だよりを打ちつつ生活が成っている、のだとかんがえている。
理屈はともかく、70代の充実、未知の世界をいかに、その日暮らしして過ごせるのか否か、五十鈴川だよりを打ちながら、考え、実践したい。
昨日午前中妻と玉葱を収穫した。土に触れていると実に気持ちがよく心身がリフレッシュする。肉魚野菜、山川海の命を頂いて我が体も生きている、土に触れるとその実感が伝わってくる。命の循環。
その実感、感覚が、スマホ中心都市型バーチャルライフスタイルの人々(私も含めて)には希薄になっている。だから私はあくまでも見えない微生物のすむ、土と(命と)繋がりたい。それを土台にして、共有感覚を有する他者と繋がりたい、のである。








