今年から労働する時間を減らし、水曜日は余程の事がない限り、お休みすることに決めた。したがって今日はお休みである。可能なら週に2日程度、五十鈴川だよりを打ちながら、いい意味で、健康で有る限り、その日暮らしの喜びを妻と送りたいと考えている。
さて、そのような私の日々の移ろいの中で、古希を過ぎて、折々シェイクスピアの長台詞の書写などをやったりしていたのだが、今年からいよいよ本腰を入れて、好きな文章や、歌、詩、などの書写をやることにした。(老いの楽しみ千住真理子さんの音楽を生で聴くことを今年も続けたい)
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| 来月にでも歌碑を訪ねたい |
それと、この丸七年労働に従事しいて、以前は好きとまでは言えなかった雑草採りが、古希を過ぎて、苦手意識が遠退いてゆくかのような(老いても体の使い方で、楽に感じるようになってきている)感じで、つまりは草と戯れるかのような一人時間作業の喜びを見つけたのである。
そのような塩梅で、草取り手仕事は、炊事、掃除、買い物、調理、洗濯あらゆる家事全般、生きて行う雑事の基本ともいえる忍耐を養える。それを克服する方法を体得してからというもの、臆面もなく打つが、一日がとても楽しいのである。だから能天気に五十鈴川だよりが打てるのである。
還暦を迎え、五十鈴川だよりを打ち始め、できるだけやりたいことしかやらない、愚直、正直に気持ちのいいことしかやらないとときめた。(古希を過ぎて言葉を交わしていない方には、益々不義理をすることになります。どうかご寛恕ください)
あれから丸13年の歳月がながれ、その願望(おもい)のほとんどは満たされ、益々そのおもいは深まる。そして、ありがたいことに、一人でもやれる、やりたいことが人生の持ち時間が見えてくる(感じる)にしたがって、絞れてきたのである。
老いのかけがえのなさ、日々自在感を受け入れ、その日暮らしに徹する。前回の五十鈴川だよりで触れたが、父の遺した歌碑の写真が忽然と次兄から送られてきて、いよいよもって思う。私は日々、両親を含め、あの世に召された、無数の死者と触れあえるかのような、その日暮らし考、を第一義に生きたいのである。私が元気に過ごせるのは死者のお蔭である。







