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2026-05-31

2月から長周新聞を購読して、今日で4ヶ月、大変有り難い新聞にめぐりあえました。

2月、74歳になったときから長周新聞を購読している。今年一月末、長崎で沖縄の宝とも言える、人形劇団かじまやぁの最後の公演チョンダラーを見にいった際、かじまやぁの大ファンである長周新聞沖縄支局の、Gさんも来られており、かじまやぁの桑江良健さんから紹介され、いきなりGさんから手渡されたのが、長周新聞との出会いである。

私は数十年にわたって購読していた大新聞を、数年前にやめていた。見開き四ページの、下関地方発の小さな新聞に、大きな志、本来のジャーナリズムの役割、本質を見極めて、分かりやすく報道する姿勢におどろいた。

長崎でGさんにお会いしなかったら、一生涯長周新聞の存在を知ることなく、我が人生を終えたかもしれない。Gさんの、今時このような人がいるのかと思えるほどに、真摯な物腰、語り口にやわな、私は、なにか微かにピーンとくるただならぬ意志、情熱を感じ購読を決めた。

野田秀樹さん本物の知識人演劇人である。

あれから4ヶ月、今では、長周新聞が週に3日届くのが楽しみである。新聞が届いたらざっと眼を通し、週末お休みの日に、じっくり読んでいる。その上、もう二度と新聞記事を切り抜くことはないと思っていたのだが、先日3ヶ月分の新聞の私の目にとまった記事や、書評、を切り抜いて妻にもらった不要の紙に糊で張り付けることも再開した。

切り抜き、紙に貼るのは手間がかかるが、眼も耳も疲れるテレビ他の映像は極力避けて、老いゆく体が喜ぶような、読み書きをはじめとする一人でやれることに重きを置いた生活を心かけているので、長周新聞切り抜き作業は、今をいきる楽しみのひとつになってきている。

また、最近私自身が驚いた記事やコラム、書評は時折、友人諸賢にスマホで、転送したりしてもしている。結果、思わぬ友人の反応に新たな関係性がうまれたりもしている。長周新聞を購読しなかったら、このようなアクションは決してしなかっただろう。

いきなり一面トップに、引き揚げ者の個人体験記が、ドーンと掲載されたりする、大新聞ではあり得ない編集のユニークさに驚く。地方発の小さな新聞だが、国際面も視野が広く、文化面も充実している。

11世紀のペルシャの詩人 オマル.ハイヤーム、のこと。ユネスコの文化遺産、[キュロスの円筒碑文]世界初の人権宣言のことも初めて知った。知る喜び、逆にあまりにもの悲しいガザに生きる女性の本の紹介、イラン、ミナブの子供たちのジェノサイド、、、。大きな大都市メディアが掘り下げて伝えないことを、意を決して伝えている。ホルムズ海峡冬景色、清水ミチコさんの替え歌動画も、狙撃欄のコラムで知った。

弱者の視点に軸足を置いて、理不尽、不条理な真実にペンで迫る。本質的に平和に全世界の人々が飢えず、争いを避け穏やかに生活、暮らす事を願う新聞なのだという事を、4ヶ月購読し私は感じる。志が普通で当たり前なのが嬉しい。絶望老人になるには早すぎる。東北、山形に住むOさんの投稿など、購読者の知的レベルの高さに蒙がひらかれ教えられる。学び、投稿者と連帯したい。

最後に、劇作家の野田秀樹さんが東京大学の入学式で述べた言葉、

[肉体を持つ人間は、必ずしも効率的に生きているようにはみえない。肉体はたくさんの不便をかかえている。それこそが人間の人間たるゆえんで、人は人を愛おしく思う。不便さの最たるものは、老いであり、究極は死だ。だが、AIには死はない。そこには人が感じるような身体を通しての、恐怖、絶望、達観はない。]と。

長周新聞、4月20日月曜日のAIにない心伴う脳味噌を、という記事の抜粋です。

2026-05-30

[あじくーたーの世界]への旅。

 沖縄の名護市済井出、屋我地に住んでいる桑江良健、純子さんご夫妻を訪ねて、3泊4日の旅をしてきた。ご夫妻の家から歩いて10分のところに、ハンセン病施設沖縄愛楽園がある。その施設にある愛楽園交流会館で、4月4日から5月31日まで、らい予防法廃止三十年企画、桑江良健の絵画と沖縄愛楽園の証言集.文芸作品❲あじくーたーの世界❳が開かれており、その企画展を見に出掛けたのである。

桑江良健、純子さん夫妻は、純子さんが始めた、かじまやぁ(風車という意味)という人形劇団を二人で運営、沖縄の民話をモチーフに物語を創り、人形(素晴らしい必見の価値あり)を創作、沖縄の離島、多くの島はもとより日本各地でも巡業活動を、お声かけがあれば出掛けて公演、その活動にに心血をそそいでこられた。純子さんは台湾の師匠、人間国宝の方に30歳を過ぎて弟子入りし、厳しい修行をへて指人形の全てを伝授された屈指の人である。

今年の一月末の長崎でのチョンダラー公演をもって、その長いかじまやぁの活動に終止符をうたれた。その歩みの真摯な生き方に心服する。良健さんは運転手兼、相方、裏方として純子さんの世界を支え、同志として活動を共にしてきた。良健さんは、空いた時間は全ての時間を絵の神にささげ、純子さんは人形の神さまに全てをささげて人生を歩んできた。支え、支え合う稀人夫婦である。

かじまやぁの活動を終え、現在良健さんは絵に専念、指が動く限り絵筆を持つと宣言している。純子さんは住居のなかの、かじまやぁ美術館(人形の神様が奉ってある)を運営し、来館者に対応しながら、傍ら良健さんのプロデューサーも兼ねている。かじまやぁ美術館、多くの方に訪れてほしい、と願わずにはいられない。

お二人とは、沖縄の森に住む妖精キジムナーの公演を岡山で引き受けたことがご縁の始まり、以来君子の淡い交友が30年以上続いている。長崎での最後の公演、念願のチョンダラーも見届けることができた。その際に、春、沖縄愛楽園でのおよそ2ヶ月にわたる企画展、あじくーたーの世界の事を知らされたのである。あじくーたー、という沖縄の言葉を初めて知った。

着いた翌日、開館と同時に愛楽園交流会館にでかけ、あじくーたーの世界の展示に見いった。入口に、純子さんが創ったまんたー婆さんの人形が在った。私のサト婆あちゃんを思い出した。50年にわたる創作絵画が交流会館の大きな部屋の壁に隙間なく展示されていた。ハンセン病の施設内の一室に良健さんの絵画の現時点での集大成が展示されていて、部屋の中央エリアには良健さんの新聞記事や批評、案内葉書など、これまでの歩みも展示されている。

その全てに目を通したが、改めてその歩みの壮絶さに打たれた。また、愛楽園入所者の証言集、文芸作品も置かれ、手にすることができる。このような絵画展、コラボレーションを思い立った良健さんの心の由来に、想像力が及び私は脱帽した。大きな作品、小さな作品が対照的に空間に展示されていて、会場の大きな絵のタイトルの随所にあじくーたー、とあった。

愛楽園交流会館は施設の一番奥、入口からゆうに500メートルくらいのところに在った。交流会館から数十メートル歩くと珊瑚礁のビーチに接していて、梅雨の晴れ間の初夏の陽光が降り注ぎ、誰もいないそのビーチの美しさ、対岸の景観の素晴らしさに驚いてしまった。もし愛楽園であじくーたー世界がおこなわれなかったら、一生みることは叶わなかったであろう景観を私はみることができた。年齢を忘れて、海に入りたいと思ったほどである。愛楽園の敷地は、ゆっくり歩いて一回り散策するだけでも一時間近くはかかるほどの広さがあり、岡山の私が住む環境とは別世界であった。

不思議な安らぎを覚えたのは私が高齢者であったからかもしれない。鳥がいる以外、静けさが施設の敷地内をおおっていた。そこかしこにハイビスカスをはじめとする南の国の植物、樹木、花が咲き乱れ、香りが敷地に漂っていて浄土を思わせた。

お腹が空いたので、交流会館のスタッフの方にお昼を食べるところがあるか訊いたところ、職員のかたをはじめ誰でも利用できる食堂を教えてもらった。結局、私は愛楽園に3日間、ほぼ半日以上通いつめることになり、お昼を三回この食堂ですませ、美味しいザクロのジュースを飲んだ。あじくーたーの世界、会場の入口にたくさんの書籍を閲覧するスペースがあり、ほとんど見たこともないような本、沖縄の歴史やハンセン病の歴史、写真集があったので、3日連続ほとんどの時間を宿と交流会館を往復、愛楽園の敷地内で過ごした。無知を知らされた。

今回のあじくーたーへの旅は、長周新聞沖縄支局のGさんとも有意義な再会が叶った。長崎でのチョンダラー公演で、良健さんに紹介していただき、知己を得て、その場で長周新聞を手渡され、即購読を決めた。桑江ご夫妻からGさんご夫妻が私に会いに来てくださることを聞き、とても楽しみにしていた。2日目の夜宿でGさんと再会、お話でき話が転び、ラインのやりとりを私が望んだ。一文を寄せる約束をした。

あじくーたー、日本語にそのニュアンスを翻訳するのは不可能に近い。沖縄の友人に、桑江良健、純子さん、新たにGさんご夫妻が加わったことで、あじくーたー未知の沖縄世界の扉が拓かれ、その事が今いちばん私は嬉しい。




2026-05-28

岡山に帰る日の朝、寸暇愛楽園の交流館の二階の図書閲覧ルームで打つ、五十鈴川だより。

 午前中3日連続愛楽園にきている。午後四時半までに那覇に戻るまで、午前中は愛楽園でぼーっと過ごすことにした。


昨日の続きを記録しておく。2日連続愛楽園の食堂でしょうが焼き定食とザクロのジュースを飲み、昼食を済ませて、そこから車で40分くらいの所にある、百安司墓(あんの字には手偏がつく)を訪ねる。純子さんに一ヵ所お墓にお参りしたいとお願いしたら、近くのここを薦めてくれたのである。

また後日、お墓の写真をアップするつもりだが、迷路のような場所に遺骨を納めたお墓があり、もう一度行けといわれても、年齢的に無理だと思うので、行くことができたこと、の有り難さを五十鈴川だよりにきちんと打っておく。

帰り道、畑の細道で迷って、途方にくれていたら、たまたま親切な女性が、おおきな道まで先導してくださり無事に午後3時でんハウスに帰れた。こういうまさに一期一会の無名のかたのご親切に、何故か私は救われる。今回もまた。

大きな道に出て、左右に別れる際の、そのかたの笑顔。沖縄の方の親切が染みた。

純子さんが創られたまんたーお婆さん

でんハウスでシャワーを浴び少し休んで、再び愛楽園で閉館前まですごして、午後5時桑江さんの家に。最後の夜、ご夫妻が私を名護市内にある居酒屋チョンダラーで、又もやおもてなししてくださった。

家から名護市内まで車で30分、良健さんが運転してくれた。したがって良健さんはお酒を飲まず、もっぱら私が酔いにまかせてしゃべった。(お二人とも根気よく駄弁を聞いてくださったこと、この場で感謝します)

私は旅が好きな移動人間である。が良健大人(たいじん)の旅は次元が異なる。良健さんの旅は、まさに地を這う筆舌に尽くしがたい移動の旅である。その時間のなかで独自の色彩空間絵画を創造された。

その成果、なのだとしかおもえない画業の達成、展覧会である。絵のことは私には分からない。ただひとつ分かるのは沖縄に生を受けた良健さんの全人生がこれでもかというくらい詰まっている、としかいえない。

その迷宮のような謎にひかれて、これからも元気な間、桑江ご夫妻に会いに私は会いに行くのは間違いない。そのようなお二人に可愛がられて、私は幸福である。

あじくーたーの世界、その会場の入り口で五十鈴川だよりを打つなんて思いもしなかった。


2026-05-27

沖縄愛楽園の交流館で寸暇打つ、記録スケッチ五十鈴川だより。

 25日午後3時に那覇から、軽のレンタカーで名護市済井出屋我地に住む桑江ご夫妻の家に無事に着き、隣接するでんハウス(2DKのゆったり空間)にチェックインした。桑江ご夫妻の家でお茶をいただき、少しでんハウスで休んで、5時半から純子さん手づくりのおもてなしのお料理(里芋、海藻の寒天、豚の内蔵が三種類入った具だくさんスープ、ゴーヤチャンプルーなど)をいただきながら歓談した。

愛楽園は浄土を思わせる地にある。

人形の神様が奉られ、多種類の人形、良健さんの絵に囲まれて、楽しく歓談のひとときが途切れず流れた。お酒も美味しく、私は幸福を堪能した。

お料理に心がこもっていて、全てを完食した。純子さんは一月末長崎でお会いしたときより、お元気そうで安堵した。

夜10自前、おもてなしの宴を終え、梅雨の小雨のなか良健さんが小さな懐中電灯ででんハウスまで道案内してくれた。暗いなかにハブを避けるため、短い距離なのに足元を照らしてくれたのである。

翌日昨日はゆっくり起きてシャワーを浴び、うって変わっての快晴を確認、一気に気分がよくなり、でんハウスは自炊生活が出来るので、純子さんにもらった、コーヒーを淹れ飲んでから、やく10分このところにあるコンビニまでドライブをかねて買い物、パン、バナナ、プリン、トマト、ハイボールなどを買って、戻って二杯目のコーヒーを淹れ朝食をゆったりすませた。

食後、すぐに車で3分の愛楽園の交流館まで行き、らい予防30周年記念、あじくーたーの世界(桑江良健の絵画と沖縄愛楽園の証言集、文芸作品)を見る。愛楽園入所者のかたがたとの、この地、場所でのコラボレーション。来て良かった、一言凄い。見終えて、愛楽園の敷地を散歩する。いきなり海に出る。その遠浅の砂浜と海水の美しさに感動し写真をとる。

なんと愛楽園には食堂があり、そこで黒酢ジュースをのみ(130円の安さでこれが喉にしみた)昼食にトンカツライス、サラダお味噌汁付きを食べた。700円安くて上手くて大満足した。はんせん病施設愛楽園の上に梅雨の晴れ間の陽光が降り注ぎ、さわやかなお天気のもと、私は施設内を、観光気分で散策した。散策しながら何度も来て良かったと思った。

私をおもてなししてくれたお部屋の絵の雰囲気

午後一時半でんハウスに戻り少しお昼寝をして、午後3時すぎ再び愛楽園交流館にへ。行くと良健さんがいて、今回の企画展示を共に進めたS女史を紹介され、ご挨拶ししばし3人で立ち話時間が持て、話していると、長周新聞沖縄支局のGさんご夫妻がこられた。

(長崎でお会いして、一月末以来の再会。あのときの出会い無くば、長周新聞を購読することも、愛楽園に来ることもひょっとしたらなかったかも知れない)

午後5時閉館、でんハウスに移動。昨夜Gさんご夫妻は2階、私は3階。午後5時半過ぎから、桑江ご夫妻、Gご夫妻と私の5人で2階のリビングルームに集合し、Gさんが持参した奥様の手作りのお庭で採れた野菜の和え物、トマトサラダ、ちじみ、ソーメンの炒めもの、お寿司、数種類のお酒での賑やかな高齢者の宴がなんと夜中まで続いたことを五十鈴川だよりに記しておく。今日もい天気がいい。打っていると良健さんが団体27人と共にやってきた。お昼になったので、中断、続きは時間を見つけて明日またうつことにずる。


2026-05-25

桑江良健、純子さんに会いにゆく、出発の朝に思う五十鈴川だより。

 目が覚めたので起きた。沖縄へ出発するまで少し時間がある。妻は休んでいるので猫のように電気をつけず、暗いなか忍び足で台所におりて小さな電気をつけコーヒーを淹れた。

今は夜明けが早いのですぐに明るくなるが、冬は私が起きても暗い時間が長い。若い頃は暗い時間が怖く、苦手だったが、歳を重ねると共に、暗い時間への苦手意識が減ってきた。もっと言えば、闇を大切な時間だと感じるようになってきた。なんといっても泣く子も黙る真っ暗闇は静かである。

非戦争それだけである。

ものを想う、考えるには私にはよい時間なのである。私にとって、寝る前の体と、充分に寝て起きた体は、別の体のようにおもえる。だからよしなしごとが臆面もなく打てるのである。

もう十分に老人の私は、電気もつけずに暗い家の中を歩くのに、細心の注意でもって歩く、言わば闇の中を目に頼らず、爪先に意識を集中し手すりを掴み、一歩一歩二階から台所まであるく。訓練である。

老人になって危ないのは転倒だとこころえるからだ。転ばぬ先の杖、積み重ね、心かけ次第で、この年齢でも体は日々変化する。下り坂の変化を、可能なら前向きに、と考えて安易に電気の明るさに、頼らない面白さを見つけたい、のだ。

話はかわる。4ヶ月ぶりに桑江良健、純子さんに会えるのが嬉しい。未だわくわくする。私とはまったくといってもいいくらい、異なる人生時間を歩まれたご夫妻と出会うことができて、30年、感無量のおもいである。

ご夫妻は私がやって来るのを楽しみにしておられる。もうただそれだけで嬉しい私である。何故にこういう感情が湧くのか自分でもわからない。めったにはあえずとも、絶えず心の中では話しをしているかのような関係性を、一方的に私は良健さんに感じる。

それは日本人である私が抱く、沖縄の心という日本人とは異なるアイデンティティーを、その素晴らしさを、感じるからである。そのような人に出会えなくば、きっと私は物事を、真剣に考えると言うことを、まったくしないままに、沖縄の地を踏む、その他多くの日本人の一人に過ぎずに人生をおえたかもしれない。

そのような事を想うとき、今更ながら、今回桑江良健、純子さん、そしてGさんご夫妻に会えるのが楽しみなのである。沖縄の地の歴史に、謙虚に耳を傾ける。元気な間は沖縄に詣で、現地で物事を思考したい、 のである。

2026-05-24

昨日書斎の整理、処分をしていたら初めてのインドへの旅行記が出てきた、そして想う今朝の五十鈴川だより。

 午前中町内の溝掃除がある。時間まで打つ。昨日、普段は入らない書斎の本の整理、処分(手紙、写真、チラシポスター、アンケートなども)をお昼まで、書斎にとじ込もって進めた。この整理処分は、意を決して今年から始めたのだが、なかなか捗らないのだが、それでもかなり進んでいる。

10ページ綴られている。

自分でも部屋に入る気がしないほど、放置されていた部屋である。思いきれたのかは、いまやらなければ出来なくなるからである。思いでは心に遺し、忘れるものは忘れ、そうでもしないと、想い出に耽る自分でも嫌な老人になる。過去とは思い切って決別(そうはとんやがおろせないのだが)する。ギリギリまで身軽になりたいのである。

まあ、そのような気持ちなのだが、これまでの歩みの整理処分は、その年代、その年代の取り組み、試行錯誤の上に現在の自分が在るのだということを、あらためて思い知らされる。

ガラスの扉のある本棚から1997年、1月20日(月曜)から30日(木曜)まで10日間、東インドのカルカッタ(今のコルカタ)から西インドのアメダバードを旅した、旅日記が出てきた。

もし、整理処分をしなかったら、書棚の奥で眠り続けていたであろうこの旅日記を、再び手にすることはなかったかも知れない。そのようなことを思うとき、あらためて思い切って処分を始めて良かったと、心からいま思っている。そして書いておいてよかった、と。

この始めてのインドへの旅、カルカッタまで、今も交友が持続している瀬政さんが同行している。瀬政さんとはカルカッタで別れ(先に氏は帰国した)私は、ガンジス川、聖地ベナレスまで汽車で一晩かけて行き詣で、そこから飛行機でアメダバードに向かった、のである。

45歳、29年前の旅行記録である。やはり書いておいてよかったと、今更ながら思う。単なる自己満足であれ、自分自身が一番一番嬉しい。45歳の時の見聞、感動が新鮮に綴られている。今日瀬政さんに、この旅行記を見つけたことを、知らせようとおもう。

妻丹精の薔薇🌹(8種類が春を彩る)

話は変わる。昨日、明日から3泊4日桑江良健夫妻を訪ねる旅に行くことは触れた。一月末、長崎でのチョンダラー、お二人の最後の人形劇公演の裏方で参加して以来の再会である。おおよそ4ヶ月ぶりの再会となる。その際の出来事の感動は五十鈴川だよりに縷々綴っている。

綴り打った五十鈴川だよりは、打ち始めて、初めて200以上のかたが五十鈴川だよりを読んでくださった。如何に桑江良健、純子さんのファンが全国におられるかということを私に知らしめた。

また、桑江さんご夫妻の熱烈なファンであられるGさんご夫妻とも長崎でお会いし、Gさんが長周新聞沖縄支局で働いておられるご縁で、長周新聞を購読している、のだ。

そんなこんな、わずか4日の旅なれど、インドへの旅のように、五十鈴川だよりで桑江良健夫妻を訪ねる旅を綴り打ちたいと願う、老人の私がいる。老いてみて初めて覚る下り坂、の喜び。交友歴30年の結びの縁、旅日記が打てれば、との思いがいちだんど湧くのは、インドへの旅行記のせいである。

徒然なるままに、その日暮らし的五十鈴川老人日記に変貌流れてゆきたいのである。そして後は野となれ、山となれ、灰になって五十鈴川から日向灘へと流れ、宇宙に帰依したい、私である。  



2026-05-23

5月23日に打つ、死に向かいあう覚悟が、芽生えつつある今朝の五十鈴川だより。

 いつにもまして早く目が覚め、もう一寝入りしようかと思ったが、仕事はお休みなので起きて、朝湯を浴び、気分が上向いたので、ちょっと五十鈴川だよりという訳である。そばには淹れたばかりのコーヒーがある。

ただ、ボーッと、タブレットの画面を眺め、コーヒーをのみ、夜明け前の、この一時が堪らなく好きである。いまだ暗い静寂の一時、よしなし事が浮かんでくる。まだ生きている、のだなあ、何てことを暢気におもえる気儘さを、老人の私はこよなく愛す。夜が明けてきた。(ボーッとしていると、ただ時が流れる)

ところで、私には絶対矛盾、不真面目な自分と真面目な自分が不足不離で同居している。時折、出口の見えない世界の混沌、不条理の情報にウンザリし、精神の加減、バランスを失いそうになる。

下記に記します

五十鈴川だよりを打たなかったら、と思うとゾッとする。還暦を過ぎ61歳から、いまに至る74歳まで、五十鈴川だよりを打ち続けて(週に1、2回にせよ)きたからこそ、今も生きられているという自覚がある。

前回何を打ったのかなあ、と読み返すくらいで、昔の五十鈴川だよりを読み返すことを私は全くしていない。

それよりも今を、今日をいかにその日暮らしするか、にしか頭が働かない。赤ちゃんの日々が目まぐるしく変化してゆくように、老いゆく晩年時間もまた、一年前とは明らかに異なる、目には見えない変化が忍びよっているのを、とくに今年は感じている。

だからといって、その事をマイナスには捉えていない。当たり前なのだと、至極当然に受けとめている。

もっと言えば誤解されてもいいが、そういった心境に至れた自分をどこか、ことほいでもいる。今現在もなお日々肉体労働がやれる幸福は、老いたればこその功徳と言うほかない。

何度も打っていると思うが、老いは病気ではない。加齢をいかに受け入れ、過ごしてゆくのか、いかないのかに、各々のこれまでの人生の、言わば蓄積が露呈、顕現化するのだと、考えている。だからこそ、一日一日の積み重ねが大事なのである。世の中に出て66年、古希を過ぎて、ようやくこれまでの歩みの上に今がある。

話を変える。明後日から桑江良健、純子さん夫妻を訪ねる。良健さんの画業の回顧展にゆくのである。良健さんは私より4歳年上である。インターネットもしないし、スマホも持っていない。先日もお葉書を頂いた。最後まで絵を描くと文字にあった。全人生の全てを絵を描くことに費やし、捧げて来られた。奇しくも猪風来さんも4歳年上である。猪風来さんもスマホを持っていない。猪風来さんも縄文一途、一筋である。

ながくなるのではしょるが、現世で、時代を超越してあまりある作品群を産み出し続けている、この両名に出会えた(ご夫妻に)ことの在りがたさは筆舌に尽くし難い。その事を一行五十鈴川だより記しておきたい。(孫たちに伝えておきたい)

このような悠久の歴史的時間を見据えた、手仕事、創作者、芸術家、強者(つわもの)二人は、愚者の私にエネルギーを降り注ぐ。草とりしながら、体動かし考え、老いの企画を夢見る。(よしんば企画がならずとも、希望を内にもつ気骨を、お二人から学びたい、何か産まれそうな予感がする)

PS 今日の写真は小堀鴎一郎先生のご本です。先生の本を手にするのは二冊めです。先生は1938年のお生まれなので、私よりも14歳年上である。本の副題、訪問診療医がみた709人の生老病死、とあります。養老孟司先生との対談で、小堀先生のことを知りました。沖縄への桑江良健、純子さんを訪ねる旅に持参することにしました。ちなみに先生は、文豪森鴎外のお孫さんです。