18歳から、いわゆる知的労働とは無縁の、どちらかと言えば肉体労働に従事してきた私は、お休みの日の朝、特に午前中は意味もなく嬉しい。木曜日から来週水曜日まで、妻が娘たちのところに上京しているので、猫の花との生活である。娘たちが家庭を持ち、とくに両家庭に孫が生まれてからは、犬のメルがいたので二人での上京は叶わなかった。
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| メルの遺影、夜妻は蝋燭を灯す |
9月20日メルが召され、妻としては久しぶりの上京である。妻のことを五十鈴川だよりに打つことを、妻は嫌がる。
だからほとんど妻のこと、とくにメルが5月体調をくずしてから召されるまでの、私がそばにいて感じたことを打つことは控える。が、一行どうしても打っておきたいのは、メルに対しての、その愛情の深さである。一言、私は感動した。
共に暮らして40年、メルの最後を二人で見送る事が出来て、本当に良かったと想っている。妻は私の不在の間(夏休みの旅もウカマウフィルム作品を見るための上京も許してくれた)もメルの介護に献身した。共に暮らした生き物を看とる崇高さを私は目撃した。
猫の花も相当に老いているが、今も元気である。メルほどには手がかからない。だから、そんなに長い旅でなければ、これから二人での旅を、生活の範囲でやりたいと私は考えている。が、妻は動き回るのが好きではないので、どうなるかは彼女次第にゆだねたい。別行動をしてはいても、どこか信頼感で繋がっている。それが私には自然である。
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| 夜、いつも側にいる花 |
さて、話を変える。あくまでも生活をしながら、この秋、まさに読書をして過ごす時間が増えている。7月4日、ウカマウフィルム作品に初めて接して、50年以上ウカマウフィルム作品に伴走して来られた、太田昌国先生と面識をえたことで、30年以上前に書かれた先生の本をちびりちびり読んでいる。先生の本はあだやおろそかに読める類いの本ではない。
この年齢で、あらためての無知を知らされ、どこか愕然とする自分がいる。高齢ではあれ、愕然とする自分にすがり、ちびりちびり読み進む。私の貧しい知的な胆力では、時に読み進むのが険しさがを増すのだが、先生の文章は私を撃つ。
(知らない名前の政治家、文学者、人類学者、宗教家、そして中南米の未知の邦の地名が随分出てくる)自分のあまりの無知にどこかたじろぐ、このような視点での論考を今まで読んでいなかった、こなかった自分が時に恥ずかしくなる。(先生の論考は際立って鋭い、安全な居場所で高所から発言する識者には容赦がない、ストイックなまでに自分にも厳しい)ノンポリの私を撃つ。
が、高齢遅まきではあるが、先生の文章に引き込まれる自分がいる、のが救いである。その感情は何処から湧いてくるのかは謎にしておく。視座を変えれば、かくも世界は相貌を変えるのである。長くなるので控えるが、先住民アイヌの歴史、北米インディアンの歴史、中南米の歴史、パレスチナの作家、ガッサン、カナファニーのこと、などなど、眼からうろこの論考に驚かされる。学ばねばと想う。企画をすることは未知の世界に謙虚に耳を傾ける勇気を養い、現在の自分の総体を問い直すことである。










