今の年齢で、大災害にあったら私はどういう心境になるであろうか。悲しいかな人間は当事者にならないとわからない。2012年わずか一日、東北の大槌町に瓦礫の撤去作業ボランティアに(生まれて初めて)出掛けたことがある。また我が家の側を流れる砂川の上流が決壊し、浸かった家の片付けにも、2018年7月、一日暑いなか出掛けたことがある。最初の孫が授かった年でもある。
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| ありがたや.ありがたやでの.老いの夏 |
この度の熊本地震は故郷の隣の県でもあり、若かったらきっと出掛けていたと思う。熊本には何度も訪れている。今年3月孫のノアと、私妻の3人で泊まりはしなかったがそこでレンタカーを借りて3泊4日旅をしたし、かなり復旧がなった熊本城も車のなかから眺め、市内をドライブした。
何年か前には長兄と、いつかは行かねばと思っていた、水俣病の展示施設を訪ねたこともあり、いずれにせよ、胸が痛む。
この酷暑のなか、被災されたかたがたの生活を想うと、言葉がない。だからただ黙って、自分の生活をするしかない。
この年齢になると、嫌でも死を、より身近に感じながら生活するようになる。若い頃よりも、体の諸機能が衰えてくると、眼にみえない世界への、想像力が、増して来るように思える。それは私個人の勝手な思い込みに過ぎないかもしれない。がその思い込みの深さを頼りに未知の世界に分けいってみたいという、老いのわがままを慈しみたい私がいる。
話は変わる。酷暑は続いているが、今日から8月である。明らかに季節は動いている。今週の金曜日には、ドイツ、ドレスデンに向かうので、思わぬ夏休みがすごせるのが楽しみである。今を生きる重要な仕事場をしばし離れ、まったくの精神の自由時間がいただける事の幸堪は、滅多には訪れないが故にしみいる。
物やお金、名声、出世などの現世的な執着や欲望(もともと生特的に少ない)には、古希前の手術以後、ほとんど無くなり、ただ存在している有り難さに、想いを馳せる牧歌的庶民で、ただ在りたい。ただそれだけで充分という、現世的価値とは真逆の過ごし方を楽しんでいる。
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| 下記に記します。 |
手前味噌だが、だからこそウカマウ集団のフィルムに、この年齢で自分でも驚くほど反応しているのだと想う。
ウカマウ集団のフィルムは、今の世をあまねく覆う、恐ろしく命を無慈悲にもて弄ぶ価値観の対極に位置し、私の身に付けたこれまでの価値観を根底から見直し、ひっくり返してしまうほどに、衝撃的なのである。(だからこそやりたいのだ)
もうこの未知のフィルムの上映会が元気なうちに企画できたら、もう他にやりたいことはない。7月4日、東京小平の小さなスタジオで、ウカマウ集団のフィルムに出会ってからというもの、以前と以後でまるで生活の時の流れが変わってしまった、と思える。(ほどに)
またもや変節してしまった。無知を照らす希望、中米、カリブ、南米、ラテンアメリカの国々のこの500年の歴史を、太田昌国先生のご本でほんの少し学んだだけで、何やら未知の世界に誘われ、老いてなおわくわくする。それもこれも、世の中に出て56年の歩みの上でたどり着いたのだと(たどり着けた)と思うと、感無量である。
PS 写真は次兄に、お前が持っていろと十数前帰省した際に預かった、亡き父が生前身に付けていた時計。動かないが捨てられない一品。整理していたら久しぶりに眼に止まり、これからは机の目に入る所に置いておく事にした。無言のエネルギーがいただける。私は引き揚げ者の末裔である。私が元気に生きていられるのは、父母をはじめとする死者と孫達をはじめとする生者のおかげである。
上の写真は長女が小さいころ植えたスダチの樹、すでに30数年今年も立派に実をつけている。












