寝苦しい夜がないだけで、私がどれだけ嬉しいかは私だけが分かる喜びである。予断を許さないとはいえ、いくらなんでもあの炎暑はやって来ないであろう。その事を思うとき、この年齢で労働しながら(夏休みがあったとはいえ)今年も夏を乗り越えた安堵感は例えようもない。
何とはなしに、これから来年の夏までは、(寒さは衣服を着れば凌げる)ぐっすり眠れる。その有り難さは、これまた自分にしかわからない。要するに、高齢者の私がいまいちばん欲するのは、昨日も打ったように平凡な自分の時間だからである。
こうやって、ぼんやりよしなし事を綴り打つ時間が、仕合わせなのである。老人は繰り返し、お念仏のように、同じこと(ような)を綴り打つ。が、これまた何度も打っているとは想うが、昨日と今日は違うのである。だからこそ臆面もなく、似たような一文を綴り打てる厚顔無恥の私なのである。
非日常の、旅をしているときの自分と、日常生活をしている時の自分では同じ肉体ではあるが、全く異なる。それは自由な体と不自由な体といってもいい。その往還が私にとっての今を生きるということなのだと認識している。ではそのような生活のなかで、企画をするという、自分にとっては甚だエネルギーのいることを、この年齢になってまでやりたいのは、一体全体何ゆえなのか、としばし考えてしまうのは、多分涼しくなって体が喜んでいるからである。
話を変える。さて昨日午前中いっぱい、貯まっていた長周新聞を集中して読み、自己満足切り抜きを(切り抜きは脳の活性化と記録の為に敢えてやっている)して過ごした。切り抜くとじっくり読むことができる。
高齢者になると、仕方がない事とはいえ、あらゆる動作が緩慢になる。思い立ったら即行動していた自分はもういない。だが、ゆっくりとであれ夢中になる。老いの可能性、淡き念いの扉を閉じたくはない。
過信せず、謙虚にただやりたい。今朝の写真は昨日切り抜いた長周新聞本棚の記事とモンロー主義を風刺していた記事だが、このような記事に反応する私がいる。ウカマウフィルム作品も記事を見つけ、リスポンスする体があったから行動出来た。余りの理不尽、不条理に対して、何も発言、発信しないのは企画する者として恥ずかしい。
高齢者であれ、まだ私は生きて動いて働いている。老いの一滴、企画を実現したい。表現の自由が脅かされそうな気配を感じる。感じる者としては企画するしか方法がない。元気なうちに。
PS 9月24日、午後長島愛生園の学芸員の方にアポを取ることが出来た。自主上映会に向けてゆっくり歩を進めたい。












