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2026-04-15

富良野塾時代に苦楽を共にした、スタッフM氏から忽然と届いた一枚の写真に思う、今朝の五十鈴川だより。

 先日上京した際に、なんと私のラインに突然富良野塾時代のスタッフ、年月的には同期であるM氏から、メールと二人で映っている一枚の写真が送られてきた。まだ私が塾に入って一年後あたりだとおもう。32歳、雪景色の一枚である。42年前の写真、インターネット以前、青春期の写真が極めて少ない私には、貴重な写真である。今日の五十鈴川だよりのなかで、M氏には心からの感謝をお伝えする。

この年齢になると、つくづく若気のいたり、(だからこそ出来たとも言える)苦楽を、あの富良野塾での最初の数年間を共に生活した面々は、理屈抜きで貴重である。よしんば、波長、波動、相性が遠い面々であれ、あの記憶のままなので、皆若い。M氏のメールが届かなかったら、私のなかでの、貴重極まる最後の青春期の思い出の宝として封印していたかもしれない。

花は散り.旧(ふるき)仲間の.声届く

だが、インターネットは運命さえ変えてしまう。一枚の写真は一気にあの時代へとワープさせる。M氏はスタッフだったので塾生とはちょっとスタンスが違っていたし、何よりも田舎育ちの私とは異なり、生粋の東京育ちで、年齢も私が最年長だったので、すべてにおいて異なるところが、お互いを結び付けたのかもしれない。よく酒を飲んで語り合ったものである。

打っていると、あの富良野の大地の風景が忽然と甦る。あの青春の終わりの富良野のでのすべての体験が、その後の我が人生大きく変えたことは間違いない。五十鈴川だよりはブログなので、簡略に記しておくが、卒塾してから、今もだが体を使って働く世界に大きくシフトした。

世の中の流れから逸脱し敢えて逆行、人生の後半は下ってゆきながら思考する。アウトドアで生きる道を選んだことで、現在まで歩を進めて来れたのだと思える。体が喜ぶ事に従事し、お金に振り回されない生活を心がける。その思いが叶った。40歳で中世夢が原で働く事になる。

アウトドア仕事の傍ら、時折企画の仕事をする。だれに教わったわけでもない、自然に企画が産まれた。18歳からの、都会生活での溜まりにたまったエネルギーが(東京生活、 又ロンドン遊学生活でのあらゆるジャンルでの感動体験が)中世夢が原で無駄なくいかされた、と思う。

話を戻す。もうお念仏のように唱える五十鈴川だよりになってきているが、馬耳東風流れるままに、その日暮らしの私に、届いた写真は(氏に会いたいくなっている)、無性に私を北海道に誘う。可能なら、なんとか年内雪が降る前に、運転できる間に数日間時間を見つけ、M氏や一期生の何人かにあえたら、幸せである。

もうすでに他界しているかたも(言葉をほとんど交わしたこともないかたもいる)おられる。M氏のようにわざわざ私の存在を探してくださるかたもいる。私が入塾したのが31歳、何しろ43年前に出会え、苦楽を共にした貴重な仲間である。会える時に会っておかないと後悔する。

そして想う。お互いに元気だから会える、のだ。そのことにおもいを馳せるとき、我が生涯の今に感謝せずにはいられない。

2026-04-12

昨日、猪風来さんご夫妻に会いに法曽に行ってきました。そして想う。(ゆく度にあらたまる原初感覚)

 起きてすぐ少し散歩をし、五十鈴川だよりタイム。今月26日は、猪風来美術館の春の縄文野焼き祭りである。昨日ほぼ一月ぶりに、新見の法曽にある猪風来美術館まで行ってきた。春の縄文野焼き祭りが近づいてきたし、新芽の萌えいずる春のドライブを楽しみながら、猪風来さんとよし子さん会いにいったのである。

猪風来美術館に魅せられる

いつまでも、ロングドライブができる年齢ではないことを、わたしは自覚している。だが今はまだできる。過信せず、体調を最優先しながら運転を心がけている。先の故郷帰省で久しぶりに熊本でレンタカーを借りたのだが、70歳以上は借りるのが難しい事を知った。結果妻が借りて、私が返すまで運転したのだが、あらためて社会的に充分に高齢者であることを認識した。

昨年二度めの高齢者運転講習を受けた。3年毎に講習を受けねばならないが、二人の兄もいまだに運転している。個人的には講習で不可能と言われるまでは、運転したいと思っている。

だが先ほど打ったが、過信せず、猪風来美術館までの日帰り旅のようなゆくのがたのしみなドライブは、過密な時間をなるべく避けて、田舎道の日本の山野の風風景を楽しみたい。

さて、昨日高梁から新見に入って、美術館までの細い道沿いの棚だのほとんどは、耕作放棄地なっている。最後の独りといわれているかたが、棚田を守っており、その水田には水が引かれていた。しばしみいった。私にとって棚田はもとより、水田に水が引かれ、稲が植えられる前、天が写る季節の到来は私がもっとも好きな季節である。

今は無き記憶のなかの幼少気の原風景、生家の玄関の硝子戸を開けると目の前は一面の水田であった。日本はお米の国、アジアはお米の国文化圏である。その日本の山間地域の特に急勾配の棚田を守ってきた零細農家の後継者はもう風前の灯火である。言葉にならないくらいに物悲しい。

先の旅で、現代日本の超過疎地と超過密地、両極端を行き来して、ますます痛く胸に染みたのは、そのあまりの極端さである。一方は人混みで満杯、我が故郷は若い人がほとんど人っ気がない。限界集落である。私の文章力ではそのあまりの極端差を上手く表現できないが、お金も含めて、持つもの持たない者の差がこの十数年で、開きに開いたのは、間違いない。

この世、宇宙、大自然、無数の微生物の恩恵で我々は命をいただき、生きながられている、その事への心からの感謝(私も含め)畏怖する感覚を、(とくに殺戮兵器産業に従事し、大怪我などもしたことのない、政治家や経済人、俗に権力に取りつかれているような人たち、他者の命に対する畏敬の念のなさ)、とっくに忘れてしまっている、としか思えない。

老いても、五十鈴川だよりを打てる間は、個人無所属者として発言したい。日本の文化の基層は比類のない縄文時代からこの日本列島の環境のなかで暮らし、生活してきた人々が紡いいでいできたのものである。その事を、猪風来さん、よし子さんから、いまも教わっている。

細長い日本列島、無数の島、四季の移り変わり、多種多様な無数の生き物、山、川、海(にかこまれ)その大いなる恵みを、一万五千年以上、循環する四季の環境のなかで、暮らし、生活して命を紡いできた縄文時代の人々が創造(想像)した比類のない世界に冠たる縄文土器に、心底みいられたのが、猪風来さん、よし子さん、ご子息の原野さんである。

長くなるが、もう少し。五十鈴川だよりを読んでくださっておられるかたはご存知だと思うが、この一年半、私は猪風来美術館に足繁く通っている。行く度に大いなるものへの感謝、恵みへの感謝は深まる。自分でいうのも(ちょっと気恥ずかしいが)なんだが、猪風来さん御家族の歩み、凄い作品をまえにすると、心身が浄化されるのである。

だから足が向かう。満足という文字は満ち足りるである。水田に水が満ち足り、大地がまさにいっせいに蠢きだす。その大地、土に生命力を祈りを籠めた人々が縄文土器を産み出した。一万五千年の長きにわたって連面と続いてきた命の文化が途絶えて後、数千年、猪風来さん、原野さん、よし子さんは縄文じんの生まれ変わりように、私には思える。



2026-04-10

荒城の月、春高楼の花の宴、の歌がしみる。花盛りの日本、今朝の五十鈴川だより。

 お爺、五十鈴川だよりを打ちたくなる春の朝である。今日は終日雨の予想である。孫との春休み旅を終え、戻って3日連続働いて、我が体はようやく普段の日常生活の戻れた安堵感に満たされている。

今年は既に二度も、お正月から家族(先の上京で)、門川の兄3人、姉3人(義理の兄姉含む)と会え、嬉しい。

世界はアメリカの一方的な理不尽極まるイランへの、国際法無視戦争で、いよいよ事によったら、どのような未来が(考えたくはないが、考えないといけない)、と暗澹たる気持ちを老人の私は持っている。

当たり前の石油消費生活も、一旦有事が出来すれば、なにごとも立ちゆかなくなる。そのような今という、魑魅魍魎時代の最中、私はのほほんと孫との旅が叶った、喜びを五十鈴川だよりに打ち続けている。

凄いお仕事をされている。
この絶対矛盾感覚を、おそらく五十鈴川だよりを打てる間は抱え、生きるしかない。

世の中に出て、56年目の春、孫と妻と3人で父母の墓前に詣る事が出来た、極めて個人的感慨は、在りがたいの一言である。

丸13年以上、右往左往(現在も)五十鈴川だよりを打ち続けて来なかったら、きっとこのような今は迎えられなかったに違いない。八年前、最初の孫が授かってからの私の人生は、超保守老人我が儘、あるがまま、その日暮らし的思考にシフトしている。

年金生活に入ってから今の労働を始めて、今年の夏で丸8年になる。明らかに孫が授かって、年金生活だけでは身も心も貧しくなると直感したのである。だから私は自分の一番好きな(その上身も心も鍛えられる)肉体労働を探したのである。

結果、その後、その選択が効を奏した小さな至福感は、野暮を承知で打つが図りしれない。ささやかな収入を最大限有効に使う。目線を低く大地を見つめ、目的を持ち働く。しんどいときは、一日に何度も雲の動き、(今の季節は樹木の葉や花鳥風月に)に目を向け、つま先を意識し、深呼吸をする。(呼吸法を実践する)

朝から、お金の話になったが、世の中に出て経済的に余裕のない生活を余儀なくされ続ける中で身に付いたとしか思えないのだが、足る感覚、ある中で何とかする。無駄遣いしない。目的の為に有効に使う。お金に使われない、あくまでしたいことのために使う。年に数回、妻や家族、仲間との時間を、そして独り旅が出来れば、もう充分である。あとは心身の健康、ただそれだけである。(身軽であることのなん足る解放感、放出すれば入ってくる)

欲望のコントロール、耐えながら、ちょっと夢を見る。そこに喜びを見出だす、妙である。なんびとも老いてできなくなる。出来なくなる日を見据える。今日やれる事を尽くす。眼にみえる贅沢ではなく、ぼろ(古い衣服でも洗濯してさっぱり着る)見えない世界を感じる感覚(何度も打っているが死者との対話、想像力)を大事にいきる。私には贅沢は不要である。時が宝である。

2026-04-07

7日朝、(5日、6日の出来事も時系列で)西大寺の我が部屋で打つ五十鈴川だより。

 6日朝である。寸暇打つ。昨日午前中、ノア、葉私の3人で井の頭公園で少し遊び(一時間ほど)、次女夫婦、風香五人で、11時オープンのレストランで早めの昼食を済ませ、お昼前のバスで、ノアと私は次女家族とお別れした。お別れを嫌がる葉の気持ちが私には辛かったが、最後はまた来るからと約束、握手して別れた。

私とノアは下連雀からバスで調布にでて、京王線に乗り換え、飛田給へ。駅で12時45分に長女と待ち合わせ、落合って、女子バスケットの決勝戦を観にゆく。長女は小学生のときに(妻も次女も部活でバスケットをやっていたので、バスケットが好きなのである)バスケットをやっていたのでバスケットが好きなのである。

私はスポーツは門外漢だが、長女のお供で付いていった。場所は味の素スタジアム、お隣では東京ヴェルディのサッカーの試合が行われており、日曜日の大都会のスポーツ観戦にどっと人々が押し寄せていた。場違いな場所に何故か忽然とゆくはめになった我が身、またもや修行と観念し、現代都市イベントをウオッチすることにした。開場が午後一時、試合開始は午後3時、それまでの間、トヨタ自動車とデンソウ両チームの選手の練習を眺めて、時間をすごしたが、退屈することはなく、滅多にない機会なので、ノアとバスケットを前半まで観戦し、ハーフタイムで、味の素スタジアムを後にし、一足先に稲城に帰った。

ここからは、7日岡山に戻って打っている。昨日もっと早く岡山に戻る予定であったのだが、ノアの春休みは昨日まであり、両親はもちろん仕事、ノアは最後プールに行きたいという。長女がノアとプールまで付き合ってくれないかという。私は娘が生まれて人生をやり返せたという経験を自覚している。従って娘の頼みには弱い。だが、老人の私は孫の頼みにはもっと弱い。

正直、寸暇考えたが孫との時間を優先した。6日夜、夕食後、娘がノアの同級生で仲の良いS君にお誘いのお電話をしたところ、S君も同道してくれ、ノアは一気に嬉しさがまし、頬が紅潮していた。少年時代の友達の大きさは計り知れない。そして昨日の出来事のあらましを、わずかでも五十鈴川だよりに打っておく。

今朝の我が家の金柑

朝食を済ませ、午前8時S君と稲城の駅で待ち合わせ(お母さんも駅まで来てくださっていた、S君はロングヘアーで一度見たら、忘れられないほどに個性的で、ノアのお友達らしかった)3人で京王永山駅に、そこから小田急線に乗り換えて唐木田駅でおり、多摩市の市民プールまで約10分あるいた。上野の博物館もそうだが、ノアとは意外な都会時間が過ごせる、ことをまたもやこの年で経験した。

そのプールは私の想像を超えた大きなプールで、老若男女それぞれの世代が、目的に応じて自由に過ごせる設備が整っていて、岡山にはない規模の巨大多目的プールだったのである。平日オープンの9時には既にかなりの常連と思わせられる、高齢者が行列していた。

当初付き添いのみで、私は水に入るつもりはなかったのだが、レイさんが私のために水着を用意してくれていたので、中を体感したくなり、二人の瑞々しい少年とともにオープンと共に、結果二時間ほどプール時間を過ごした。

この施設、お年よりには至れり尽くせりで、温水に浸ってリラックスしたりミストサウナに入ったりしているとあっという間に時間が過ぎ、上京の際には又もやノアや家族と訪れたい、と思うほど、すっかり気にいったことを告白する。

たくさんの高齢者が楽しそうに泳ぎ、歩き、温水で談笑している姿を私はウオッチした。私を含めた高齢者と共に、子供世代が時間を共有している。これが私には一番素敵なことに思えた。人は皆それぞれの今の時間を生きるしかない。なんびとも若返ることはない。

高齢者の一人一人全部異なる姿を、少年時代にたくさん目撃することは、子どもにとって、きっと後年なにがしかの意味のような想像力を養うことになる。とても良い施設を多摩市は設備していて感心した。

さて、今日から三年生、二人の好奇心のかたまりノアとSくんは、11時から始まるウオータースライダー(有料だがヨガ、太極拳なども習える)を二回ほどやって、この日のプールを終えた。終えて稲城に戻り、娘やレイさんと駅の近くのファミリーレストランで待ち合わせ、S君も一緒に昼食した。愉しい時間は瞬く間に過ぎ行く。

ノアとの思わぬ春休み、宮崎旅から始まって、最後はプール体験までの10日間、目まぐるしい移動旅ではあったが、何とか締めくくりの五十鈴川だよりも打てたし、終わりよければの心境である。最後の思わぬプールはノアのお友達S君が一緒だったので、付き添いお爺も実に楽しかった。二人が愉しそうにしていた姿が五十鈴川だよりを打たせる。

午後一時半、昼食を終えお別れ、ノアが春休み付き合ってくれてありがとうと、照れながら言ってくれた。お爺さんである私も照れた。これ以上打つと野暮になる。お爺にとってもよき春休みとなった。ノアありがとう。

2026-04-05

4月5日の朝、折々時系列にそって記録を、東京は三鷹下連雀の次女のマンションで寸暇打つ五十鈴川だより。

稲城の 長女のところから朝食後9時前に出て、調布に。そこから吉祥寺行きのバスに乗り換え、10時下連雀の次女のマンションに着いた。次女はお出かけしていたが、周さんと葉(4歳)と風香(8ヶ月)が迎えてくれた。葉は私の到着を待ち望んでくれていた様子で、早速約一時間風船で打ち合う遊びに興じ、今ちょっと、休憩、葉がポケモンを見ている寸暇、彼の横顔を見ながらわずかな時間打っている。風香はお休みに入り、周さんがお昼の準備をしている。

レイさんといい、周さんといい、そのかいがいしいという以外の言葉が見つからない。明らかに、私の世代とは異なる子育てをしている。いつも打っていることだが、嫌でもわたしも何かお役に立ちたい、言う気になる。と、ここまで打ったところで一旦中断する。

ここからは、周さんが作ってくれた、温かいネギタマゴうどん(コロッケつき)のお昼を済ませて打っている。お昼を終えて間もなく長女と娘の未彩(5月がくると3歳、しばらく前から始めたプール泳ぎ活動を終え)がやってくる。葉とミアとまたもや風船遊びに、隠れんぼのお相手をする。孫のお相手は正直一時間までが現在の私の体力の限界である。

それでも、きゃあきゃあ声を発し、無心で動き回るふたりのエネルギーを浴びながら、私はきゃつらの際限のないお相手にひーひーはーはー耐える。これも老いの身の修行と観念する。このようなことを打つと悟ったようであるが、この年になると、もう一日一日を無事に過ごす修行なのだと割りきっている。

やがて未彩のお昼寝の時間がきて、水入り。ちょうど外は雨がふってきてた。マンションへの一階にあるスーパーまで、お散歩がてら、周さんと、葉、風香、私の4人でアイスクリームを買いにいった。そのご、周さんが気を利かして、私にお休みくださいと一部屋当てがってくてた。だから寸暇打っている、のだ。

何気ない、日常のひとこまを、かくも打っておきたいという私の性は何故なのか、理屈ではない。とここまで打っていると次女が用を済ませて戻ってきた。再び打つのを、中断ずる。


ここからは5日の朝打つ。昨日次女が帰ってきたとこで中断していたので、その後を時系列にそって記録として打っておく。次女が餃子を包むだけに準備しておいてくれたので、私と長女と葉も加わって50個包む。次女と夫の周さんは風香の面倒を見ながら、家事のあれやこれやを。その間、いろんな他愛もない会話が寸断なく続く。ミアはその時はお昼寝していた。午後4時レイさんとノアがやってくる頃、私と娘二人葉の4人で一階のスーパーにお肉他の買い出し。次女がすべてを払った。戻るとレイさんノアがいて、ノアと葉はさっそく二人でゲームをして遊んでいた。私を入れて9名が次女夫婦のマンションにいると賑やかさが、半端ではない。大人の声と子どもの声が、途切れることなく部屋に充満する。年寄りの私は折を見て会話に闖入するが大半はただ会話に耳を傾けて、娘たち両家族の今の生活の様子を眺めている。次女がテキパキ指示し、長女二人で夕飯の準備が進む。その間に、私がまずお風呂を頂き、周さんが子どもたち全員をお風呂にいれ、5時過ぎからゆっくりと全員での美味しい夕飯をいただいた。焼き肉を野菜で巻いてたべる。ニンジンとモヤシのナムル、卵スープ、そして手作り餃子の豪華な家庭料理、私を含め全員が幸せな気分になった。昨夜結局ノアは上岡の家にとまることになり、長女、レイさん、ミアは午後7時前、稲城に帰っていった。私は午後8時過ぎ少し酔って、一番先に横になった。とここまで打ったら、次女、風香、ノアが起きて来た。

2026-04-03

4月3日、ノアと[超危険生物展]にゆき戻って寸暇打つ五十鈴川だより。

 昨日午前10時前の新幹線で東京へ。(車中佐藤愛子さんの、90歳何がめでたい読む。ほぼ読み終える。ご高齢での頭のしなやかさに感服する。)午後一時過ぎ東京に着き、中央線で三鷹へ。次女のところに寄って渡すものを渡し、風香の顔を見て、ハッサクを剥いて、少しやすんで、4時のバスで調布にでて、そこから稲城へ。午後5時に長女のマンションへ。

ミアを保育園に迎えにゆき、(ミアははにかみながら喜んでくれた)仕事でおそくなるレイさん抜きで、四人で夕食。長女が仕事の合間に夕食の準備をしていてくれた。(パスタほか)夕食後いちばん先にお風呂を頂き、ノアのベッドで横になって本を読んでいると、レイさんが帰ってきた。私は挨拶もそこここに、ノアと共に二段ベッドの上の段で午後9時過ぎ床についた。

またもやノアとの思い出が

ここからは3日の朝。6時半過ぎ起きると、全員が起きていて、すぐ朝食。食後少しお掃除を手伝い、8時過ぎレイさん、ノア、私はミアを保育園に送ってゆく。レイさんと娘はお仕事に。私はこれからノアと上野の博物館にゆく。お天気がいいので、気持ちがいい。ブログは一旦中断する。

ここからは、ノアと二人で上野の国立科学博物館で開催中の[超危険生物展]に出掛けて戻って来てから打っている。長女とレイさんはリモートで仕事中、ノアはそばで危険生物の写生をしている。だから私も五十鈴川だより、というわけである。

つい先日までは人の少ない我がふるさとで、人っけのない地方で遊んでいたのに、今日はノアと大都会の東京の上野を往復して、まあ同じ日本エリアの別世界を動き廻っている。なにか体が正直ついてゆけない。ではあれ、ノアについてゆくと、思わぬ場所にゆくことになるので、老いのみなれど引率を引き受け、上野まで出掛けてきた。

もう最高のお天気で、上野は動物園、博物館、音楽堂、などなどが密集しているので、春休みの陽気に国内外からの観光客で引きも切らない、人、人、人でごったがえしていた着いたのが10時過ぎチケットを買って並び、中にはいるまで30分くらいかかった。入ったら入ったで、芋を洗うような人混み、展示物をゆっくり見ている余裕は全くないのは、前回来た昆虫展の時と同じ。

ノアが行方不明にならないように、じっとその動き回る後ろ姿をウオッチし続けた。約一時間以上、ノアは展示物の写真を撮り続けた。正直、ノアが行きたいと言わなかったら絶対に私がゆくことはなかった。

結局お昼過ぎまで展示物を見て、お昼は上野駅のそばのライオン(ビールが有名)でノアの好きなハンバーグランチを二人で食べた。お昼を済ませ、ノアがもう稲城に帰って休みたいというので、ノアの言う通りかえってきた。宮崎から帰って、いきなり上野の人混みをうろついたら、それはくたびれないほうがおかしい。と言うわけで、私もしばし夕刻までのんびり過ごすことにする。

2026-04-02

東京は稲城に望晃、(のあ)を送ってゆく前の五十鈴川だより。

 ちょっと時間があるので、五十鈴川だよりを打つ。宮崎の旅から一昨日戻り、昨日家と図書館でゆっくり過ごしたので旅の疲れはいくぶんはとれた。とはいえ、心のなかにはあの旅でのあれやこれやが、老いゆく体にもあもあしている。

当たり前だがすべて、やがては忘却の彼方へとなる。だが私はそれが摂理受け入れる。だが拙い一文であれ、わずかでも残しておけば、ノアが大きくなったときに、読んでくれるかもしれない。

ともあれ、そんなことよりも意外な旅が実現したことの喜びから抜けきっていないのである。そのような案配のなか、今日ノアを東京に送ってゆき、先ずは長女ののところ、それから次女のところにも2日ずつ滞在するので、私は老体ながら忙しい。

小倉が浜でのノアと妻

孫の(孫たちの)生命力が、我が体にエネルギーを注いでくれているから元気なのだ。その反動がきっとやってくるだろうが、その時はまたそのとき、摂理に従う覚悟である。

ノアはまだ下の部屋で寝んでいる。(起きた、声がする)お昼寝はしない。起きるのは7時頃、寝るのは午後9時前、その間エネルギーを放出しながら、あらゆることを吸収し続ける。今は昔、かっての自分もそのような時間を過ごしていたのだと想像する。

まさにノアは幼少期から少年期へと向かう、真っ只中の渦中を生きている。そのような孫と偶さか夢のような故郷旅が実現した喜びは、極めて個人的な感慨であれ、打たずにはいられない私の性である。

話は変わる。いつもはほとんど一人で(とくにコロナの数年間は)帰省する我が故郷、これからは孫たちが成長するにつれ、一人での帰省は減る可能性がある。いまはまだギリギリのところで兄や姉が元気なので、和気あいあい我々を受け入れてくれるが、摂理、何人も寄る年波の中では、そうもゆかなくなる。その冷厳な事実の前のすれすれの、今、今回の旅が叶ったこと、身内の全員が温かく迎え、ノアの存在を祝福してくれたことの喜びを、墓前に感謝した。

世の中、殺伐としたニュースにことかかない。清々しいニュースや報道に接するチャンスは、私の場合甚だ少ない。もっと打てば、家庭が崩壊しているのではとも言えるようなニュースが引きも切らない。成長期のノアには聞かせたくないようなニュースが溢れている。私の場合テレビが来たのが10歳くらいであったから、その点よけいな情報に体が汚染されることもなく、限りなく天然、自然界からの直接情報のなかで生活できたことの幸福は、筆舌に尽くしがたい。

自然は手強く、恐ろしい。油断すると波に拐われてしまう。その冷厳な事実を、10歳くらいまでに理屈ではなく体で覚えることの大切さを、私は孫に伝えたいのである。自分の命は自分で守る。つまりは生き抜いてゆく、知力体力の基礎を10歳くらいまでに 身につけて欲しいのだ。

臆面もなく打つが、私が何とかこの年齢まで生きてこれたのは、幼少期、とくに10歳くらいまで、五十鈴川や小倉が浜で、ただただ体を動かして遊んだ中で 身につけた、体得した下地のお陰でなのだと、はっきり分かる。名前は知らなくても、虫、魚、樹木、植物、動物、雨音、風音、雲、夜明け、夕闇、漆黒の闇、森羅万象に感性を育てて頂いたお陰なのである。

知識などは10歳以降、いくらでもその気になれば取り戻せるが、あの幼少期のかけがえのない環境幼少期時代はいくらお金を積んでもえられないのである。その感性を育むためには圧倒的な大いなる大自然を幼少期に体験しておかないと、まずい。畏怖する感覚、その大切さを我が孫には、(すべての子供に)理屈ではなく体感して欲しい、のだ。私が元気な間は、年に数回は大自然のなかに放り出す、宇宙、自然界のなかの自分も一部なのだと頭を垂れる感覚を体得して欲しい。これは私の遺言である。