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2026-04-03

4月3日、ノアと[超危険生物展]にゆき戻って寸暇打つ五十鈴川だより。

 昨日午前10時前の新幹線で東京へ。(車中佐藤愛子さんの、90歳何がめでたい読む。ほぼ読み終える。ご高齢での頭のしなやかさに感服する。)午後一時過ぎ東京に着き、中央線で三鷹へ。次女のところに寄って渡すものを渡し、風香の顔を見て、ハッサクを剥いて、少しやすんで、4時のバスで調布にでて、そこから稲城へ。午後5時に長女のマンションへ。

ミアを保育園に迎えにゆき、(ミアははにかみながら喜んでくれた)仕事でおそくなるレイさん抜きで、四人で夕食。長女が仕事の合間に夕食の準備をしていてくれた。(パスタほか)夕食後いちばん先にお風呂を頂き、ノアのベッドで横になって本を読んでいると、レイさんが帰ってきた。私は挨拶もそこここに、ノアと共に二段ベッドの上の段で午後9時過ぎ床についた。

またもやノアとの思い出が

ここからは3日の朝。6時半過ぎ起きると、全員が起きていて、すぐ朝食。食後少しお掃除を手伝い、8時過ぎレイさん、ノア、私はミアを保育園に送ってゆく。レイさんと娘はお仕事に。私はこれからノアと上野の博物館にゆく。お天気がいいので、気持ちがいい。ブログは一旦中断する。

ここからは、ノアと二人で上野の国立科学博物館で開催中の[超危険生物展]に出掛けて戻って来てから打っている。長女とレイさんはリモートで仕事中、ノアはそばで危険生物の写生をしている。だから私も五十鈴川だより、というわけである。

つい先日までは人の少ない我がふるさとで、人っけのない地方で遊んでいたのに、今日はノアと大都会の東京の上野を往復して、まあ同じ日本エリアの別世界を動き廻っている。なにか体が正直ついてゆけない。ではあれ、ノアについてゆくと、思わぬ場所にゆくことになるので、老いのみなれど引率を引き受け、上野まで出掛けてきた。

もう最高のお天気で、上野は動物園、博物館、音楽堂、などなどが密集しているので、春休みの陽気に国内外からの観光客で引きも切らない、人、人、人でごったがえしていた着いたのが10時過ぎチケットを買って並び、中にはいるまで30分くらいかかった。入ったら入ったで、芋を洗うような人混み、展示物をゆっくり見ている余裕は全くないのは、前回来た昆虫展の時と同じ。

ノアが行方不明にならないように、じっとその動き回る後ろ姿をウオッチし続けた。約一時間以上、ノアは展示物の写真を撮り続けた。正直、ノアが行きたいと言わなかったら絶対に私がゆくことはなかった。

結局お昼過ぎまで展示物を見て、お昼は上野駅のそばのライオン(ビールが有名)でノアの好きなハンバーグランチを二人で食べた。お昼を済ませ、ノアがもう稲城に帰って休みたいというので、ノアの言う通りかえってきた。宮崎から帰って、いきなり上野の人混みをうろついたら、それはくたびれないほうがおかしい。と言うわけで、私もしばし夕刻までのんびり過ごすことにする。

2026-04-02

東京は稲城に望晃、(のあ)を送ってゆく前の五十鈴川だより。

 ちょっと時間があるので、五十鈴川だよりを打つ。宮崎の旅から一昨日戻り、昨日家と図書館でゆっくり過ごしたので旅の疲れはいくぶんはとれた。とはいえ、心のなかにはあの旅でのあれやこれやが、老いゆく体にもあもあしている。

当たり前だがすべて、やがては忘却の彼方へとなる。だが私はそれが摂理受け入れる。だが拙い一文であれ、わずかでも残しておけば、ノアが大きくなったときに、読んでくれるかもしれない。

ともあれ、そんなことよりも意外な旅が実現したことの喜びから抜けきっていないのである。そのような案配のなか、今日ノアを東京に送ってゆき、先ずは長女ののところ、それから次女のところにも2日ずつ滞在するので、私は老体ながら忙しい。

小倉が浜でのノアと妻

孫の(孫たちの)生命力が、我が体にエネルギーを注いでくれているから元気なのだ。その反動がきっとやってくるだろうが、その時はまたそのとき、摂理に従う覚悟である。

ノアはまだ下の部屋で寝んでいる。(起きた、声がする)お昼寝はしない。起きるのは7時頃、寝るのは午後9時前、その間エネルギーを放出しながら、あらゆることを吸収し続ける。今は昔、かっての自分もそのような時間を過ごしていたのだと想像する。

まさにノアは幼少期から少年期へと向かう、真っ只中の渦中を生きている。そのような孫と偶さか夢のような故郷旅が実現した喜びは、極めて個人的な感慨であれ、打たずにはいられない私の性である。

話は変わる。いつもはほとんど一人で(とくにコロナの数年間は)帰省する我が故郷、これからは孫たちが成長するにつれ、一人での帰省は減る可能性がある。いまはまだギリギリのところで兄や姉が元気なので、和気あいあい我々を受け入れてくれるが、摂理、何人も寄る年波の中では、そうもゆかなくなる。その冷厳な事実の前のすれすれの、今、今回の旅が叶ったこと、身内の全員が温かく迎え、ノアの存在を祝福してくれたことの喜びを、墓前に感謝した。

世の中、殺伐としたニュースにことかかない。清々しいニュースや報道に接するチャンスは、私の場合甚だ少ない。もっと打てば、家庭が崩壊しているのではとも言えるようなニュースが引きも切らない。成長期のノアには聞かせたくないようなニュースが溢れている。私の場合テレビが来たのが10歳くらいであったから、その点よけいな情報に体が汚染されることもなく、限りなく天然、自然界からの直接情報のなかで生活できたことの幸福は、筆舌に尽くしがたい。

自然は手強く、恐ろしい。油断すると波に拐われてしまう。その冷厳な事実を、10歳くらいまでに理屈ではなく体で覚えることの大切さを、私は孫に伝えたいのである。自分の命は自分で守る。つまりは生き抜いてゆく、知力体力の基礎を10歳くらいまでに 身につけて欲しいのだ。

臆面もなく打つが、私が何とかこの年齢まで生きてこれたのは、幼少期、とくに10歳くらいまで、五十鈴川や小倉が浜で、ただただ体を動かして遊んだ中で 身につけた、体得した下地のお陰でなのだと、はっきり分かる。名前は知らなくても、虫、魚、樹木、植物、動物、雨音、風音、雲、夜明け、夕闇、漆黒の闇、森羅万象に感性を育てて頂いたお陰なのである。

知識などは10歳以降、いくらでもその気になれば取り戻せるが、あの幼少期のかけがえのない環境幼少期時代はいくらお金を積んでもえられないのである。その感性を育むためには圧倒的な大いなる大自然を幼少期に体験しておかないと、まずい。畏怖する感覚、その大切さを我が孫には、(すべての子供に)理屈ではなく体感して欲しい、のだ。私が元気な間は、年に数回は大自然のなかに放り出す、宇宙、自然界のなかの自分も一部なのだと頭を垂れる感覚を体得して欲しい。これは私の遺言である。

2026-04-01

望晃(のあ、3月で8歳になったばかり)と妻と3人で故郷への旅を終え、(新鮮なうちに記録を打っておく)戻ってきて思う五十鈴川だより。

 物のプレゼントではなく、思い出に残る長女の息子に、春休みお爺の故郷へ一緒に行かないかとノアに誘ったところ、行きたいとのことで、このまったく予期していなかった思わぬ旅が実現した。

私が嬉しかったのは、ノアと共に妻も行きたいと言ってくれたことである。細かいことに気がつき、移動計画ほかあれやこれや、私よりはずっとデジタルに強い妻の参加で、一気に旅の計画が具体化した。

熊本往復は新幹線、熊本でレンタカーを(3泊4日)かり、出発の28日土曜日は阿蘇をドライブ、ぞの日は高千穂のホテルに泊まり、翌日高千穂を観光、29,30日は長兄の家に泊まり、五十鈴川、小倉が浜他、私の故郷で遊び廻る予定をたてた。


タイトな計画を避けての旅、あくまでもノアのやりたいことを優先した。初日の阿蘇では動物にふれ合える元気の森がことのほかお気に召したようであった。夕刻高千穂のホテルに早めにチェックイン。

翌日はサクラを眺めながら美味しい朝食をすませ、午前中は高千穂渓谷や高千穂神社、天岩戸神社を詣で、ちょうどお昼門川について、高校生の頃に良く食べていた懐かしい天領うどんでお昼を食べた。

その後、門川から小倉が浜に直行、天気が最高でたくさんのサーファーが波と戯れていた。海で遊ぶ用意をノアは何もしているなかったのだが、誰に似たのか、いきなり繰り返し打ち寄せる波と戯れ夢中で遊び始めた。(インドア、ゲーム、漫画、本、ユーチューブ何でも、好奇心たっぷり)

広い小倉が浜、見渡してもノアいがいはすべて大人、春休み子供の姿はなかった。子供はノア一人。すぐにずぶ濡れになった。大きな自分の背丈位の波をかぶり、恐れながらも子供らしい声をあげながら、遊ぶ姿を私と妻は、スマホで何枚も撮った。

私の勝手なおもい。いつの日にかここで孫たちを存分に遊ばせたいとの思いは、故郷への旅二日目にして、実現した。春がきたとはいえ、海水はまだ冷たい、だがノアはそのようなことは気にもとめず、30分以上波遊びに興じていた。その姿を、老夫婦と孫と海をまるごと、味わえ至福感を覚えた。思い立って来て良かった。

左が次兄77歳 右が長兄80歳

午後3時過ぎ、着いてすぐ先ず姉の家に3人そろって挨拶に行き(姉夫婦大変喜んで、5人で記念撮影をし)隣の長兄の家についた。ノアは初めての我が兄夫婦や姉夫婦との邂逅、すんなり物怖じせずうちとけていた。

妻はすぐに海水に浸かった衣類他を洗濯させて貰った。義理の姉登紀子さんと妻はずいぶん久しぶりの再会であったのだが、あっというまにうちとけて、和気あいあい時間が流れ始めた。早速、二人で夕飯の買い物に出掛けた。

夕刻ノア、妻、私の3人で門川の心の杜温泉へ行った。戻ると登紀子さんお手製の刺身や、ノアの好きなハンバーグ、イチゴなどの心づくしの夕飯が用意されていた。私は登紀子さんが用意してくれた夕飯のやはりお刺身を、いちばんたくさん頂いた。この味こそが家庭の味、兄嫁の手料理をたべると(姉の手料理も)と故郷に帰って来て気がする、のだ。

翌日、ぐっすり寝て目覚め、美味しい朝食の後、3人でお墓参りをすませた。ノアは丁寧にお参りし、お水を沢山上げてお祈りをした。お墓参りのあとすぐ近くに住む次兄の家に挨拶に行った。次兄夫婦ともノアと妻の来訪をことのほか喜んでくれ、兄は植物が好きな妻にあれこれ自分が丹精込めた50年以上は手間隙込めた庭の植物について、説明してくれた。

傍らで私も聞き入った。(次兄夫婦は子供がいない、庭の植物が子供なのである)次兄が説明している間、ノアは庭のあちこちをリスのように徘徊していた。縁側でお茶を頂き、ノアに沢山のお菓子を頂き次兄の家を辞した。

その後、再び我々3人は昨日に続いて、ノアが行きたいという小倉が浜に再び向かった。午前9時半に着いた。平日の朝なのに駐車場の7割くらいが埋まっていて、すでにたくさんのサーファーが波に乗っていた。昨日と同じ、子供の姿は見えない。そこにまたもやノアが天真爛漫に波遊びに興じる。二日連続の波遊びに満足していた。お天気が心配だったのだがもった。

お昼は簡単、3人で小倉が浜の近くのマクドナルドですませ、その後、次兄の勧めた遠見山の展望台から我が町を一望に眺め、最後に小学生のときに最も遊んだ五十鈴川へ。ノアと石を投げをし、妻も共に楽しい時間を3人で過ごした。遊んでいると雨がポツポツ落ちて来たので兄の家に。

故郷で、砂と戯る、春休み

海、山、川を堪能。楽しいことはエネルギーを放出するので疲れる。雨音を聞きながらお昼寝をし、起きて兄夫婦と珈琲たいむ。しばし歓談、タケノコとフキの煮付けた初物をいただく。雨のお陰でよき時間が流れた。

午後5時かなりの雨のなか、5人で神田川というお寿司やさんにゆく。あと二日で80歳を迎えるという兄のお誕生会もかねての楽しい晩餐会となった。登紀子さんが運転してくれたので、兄も妻も少し飲んだ。雨足が強いなか早々に神田川を後にした。戻ってお風呂を頂きすぐに床に着いた。夜中、春雷が轟くのを時折耳にした。

そして昨日である。あさ起きてすぐに妻と二人で、我が心の乙島が見える港まで早朝ドライブ。戻ると次兄がお土産をもってやってきた。朝食をしながら寸団欒、次兄はノアがとても気に入ったらしく、お小遣いをくれた。

ノアははにかみくねくね体をよじらせ、照れながら喜んでいた。久しぶり兄二人と記念撮影が出来た。ノアは老人の心も軽やかに包んでしまう。子供とはかくも不思議な存在である。最後に姉に挨拶に。82歳の姉もノアに春休み記念、お誕生日のお祝いをしてくれた。

帰路を簡略に記しておく。兄の家を8時前にでる。雨がすっかり上がり清々しい雨靄の故郷の山並みを愛でながら、ほぼ満開に近いそこかしこの山野のサクラを愛でながら、五ヶ瀬川を北上、高千穂から五ヶ瀬町、山都町を抜け、熊本に入った。ちょっとだけ熊本城を眺め、お昼前レンタカーを返し、12時42分のさくらに乗る。座れた。車中、買い置いたお弁当で昼食。午後3時15分岡山着、25分の赤穂線に。午後四時過ぎ我が家に着いた。

PS 今朝姉からなにもおもてなしできず申し訳ないとのメールがきた。とんでもないことで恐縮である。元気な顔が見れただけで充分である。ノアの心に我が兄たち、姉たちが残ったことが私にはただ嬉しく、もうそれだけで悔いはなく、妻が参加し大満足の旅となった。。五十鈴川だよりが打てて言うことなしである。(一気に打ったので誤字脱字ご容赦あれ)

2026-03-25

杉浦日向子さんの濁貧の生活、という言葉に我が意得たり、今朝の五十鈴川だより。

 今年から水曜日もOFFにしたので、以前より動と静の生活バランスが良くなってきた。年齢的に労働時間を抑え、思索、思考時間をもっと増やしたくなったのである。清貧の暮らしではなく、濁貧の暮らしと言ったほうがぴったしである。

ゆっくり学ばせて頂いてます。

18歳で世の中に出て、井の中の蛙を身に染みて後、なんとかみすぎよすぎ、この年まで生きて来れた事実に、言うに言えない感慨が時折おそう。

それを言葉にすることはかなわない。絶対矛盾を承知で、老いゆくその日暮らしを面白がり、五十鈴川だよりを打つ。

濁貧という言葉は、江戸学に造詣の深かった、故杉浦日向子さんの言葉である。(時代を間違えて生まれてきたかたである)生まれは私よりも若いのに48歳で他界されている。(姿は見えねど今も彼女は生きている気がする)

私は杉浦日向子さんの描いた漫画を数冊もっている。先日、たまたま図書館で彼女が遺した、今も読者に読まれ続けている、私を撃つ言葉に出合った。自省、反省する。

この年齢で出合得たからこその、彼女の言葉が老人の私に染み入ってきた。私は人生の折々にずいぶん痩せ我慢(特に40歳まで、岡山に移住するまで)をして生きてきた。ときに歯軋りを伴うほどに。

それが良かったのか、悪かったのかは、いまはまだ語らずといったところだが、ようやく(それにしてもあまりに遅いとはおもうものの)にして、いわゆる終着点(本当に弱ったら文章なんか打てないので元気なうちに打つ)の気配のような感覚が増すにつれ、あらゆることに我欲の執着心が限りなく薄くなってきたのである。(普通の人ならもっと早く気付いて然るべきところ私は遅い)

もっと打つならば、執着心を手放す解放感に向かいたい、浸りたい、一切合切から身軽になりたい(そんなことは不可能を承知で)なんてことを、忽然と想い、夢みるのである。手放したが故にこそ、新たな地平にたどり着けそうな気がする。そのようなときに杉浦日向子さんの言葉が、染み入ってきたのである。自由(自遊)、理由はなく、今の日々のこの世を慈しむ。

私のこれからの現世時間の中で、先人たちの遺した言葉、(生き方、死に方)に耳を傾け、心を澄ますことに重きをおいて生活をしたい(のだ)。人は生きてきたように死を迎える、と何百人者方たちを看とった、高名な堀鴎一郎先生(このようなお名前だったとおもう、間違えていたらすみません)がおっしゃっていた。

長くなるので割愛するが、杉浦日向子さんの言葉で、いよいよの後期高齢者老人生活をいかに送るのか、答はないと知りつつ、今後、益々ものを想う時間の過ごし方を大切に生活したい。

話は変わるが、金曜日8歳になったばかりの最初の孫、望晃(のあ)が春休み帰って来て、翌日の28日から3泊4日、私と妻と3人で故郷、門川へ旅する。ノアは私の故郷は初めてである。濁貧生活の中に、時折思いもしない出来事が起こる。一日一日の積み重ねのご褒美と勝手に思っている。私がこの世から不在になっても、孫の思い出に、我が故郷が記憶にのこるような旅がしたい。これ以上打つと野暮になる。


2026-03-21

草取り作業の、面白さにハマり、そしてもの想う、今朝の五十鈴川だより。

 昨日はお彼岸、春分の日であった。日の出が早くなり、今日もお天気が良さそうで、午前中義父のお墓参りに出掛けるまで時間がある。起きて数時間が、今の私の頭がもっともニュートラルですっきりしているので、ほとんどの五十鈴川だよりはこの時間帯に打っている。

中世夢が原から移植した水仙

さて、5年前のこの季節、私は病院に入院していた。いつ入院したのかは覚えていないが、退院した日は忘れることができない。23日である。69歳になってまもなくコロナ渦中の大変なときに、高熱が引かず緊急入院、運よく陰性で即手術となった。

簡潔に打つ。三回手術し、入院していたのはわずか3週間である。敗血症も併発していたので、生まれて初めて死が頭をよぎった、が幸運にも私は生き延びた。

退院した時の体重は53キロ、妻の迎えで、別人、弱々しい姿で家にもどった。退院後、先日退職されたTさんから、再三お電話をいただき、3週間もしないうちに肉体労働に復帰した。

Tさんから無理せず体を動かし、職場でリハビリせよとの言葉にしたがったのである。初日一時間、徐々に時間を増やし、一月後には元のように体が動いていた。あれから丸5年、極めて平凡な日々を、有り難き日々と感じ続けられている。退院後一年間お酒を絶っていたが、先生からビール、日本酒はだめだが、蒸留酒なら飲んでもいいとのお達し、すっかりハイボールが好きになった。

臆面もなく打つ。存在できているだけで足りている。この5年の間に、手術した時には一人だった孫が、4人になった。体重も61キロに。

さて話は昨日の続き、退院後の生活に生気を頂いた肉体労働、3年前から相棒が(それまでは一人でやっていた)加わった。すこし余裕ができたこともあるが、特に冬場、アスファルトの隙間から間断なく伸びてくる草を採る作業を、相棒と共に昨年の冬から、腰を入れて取り組んでいる。

正直、このような難儀な姿勢での根気のいる作業に、年齢的にも自分の体が喜びを覚えるなどとは想いもしなかったのだが、今私はこの地道な作業をどこかで楽しみ面白がっている。単なる目の錯覚で(草は決定的にまた生えてくる)あるにもせよ、採取.before.after ではまったく様相がことなる。

手入れがゆきとどいている、という自己満足感に浸れる、のだ。だが決して無理はしない。尺取り虫の要領、休んでは動きを繰り返すだけである。

この難儀作業、よもや相棒も加わるとは、期待も思いもしなかったのだが、相棒も根気よく従事している。お互いあうんの呼吸、だから必然的に関係性も深まる。何事も続けていると、体が自然とコツを知らせてくれる。

日本語には座る以外にも、しゃがむ、這いつくばる、という言葉がある。目線は大地に根をはる草に集中する。雨の翌日はTさんにお願いして特注で作ってもらった、草かき棒がことのほか役にたつ。作業が捗る。この面白さは、薪割りを体得した面白さと同じである。

重機や草刈り機がない昔、人々は腰を屈め、稲、根菜類の収穫など、直立歩行人間には難儀な姿勢での労働に、なん百年も従事していたはずである。もちろん私のご先祖も例にもれない。

富良野で初めて大地に這いつくばり、中世夢が原でも薪割り等の普段現代生活ではやらない体の動きを、何十年も続け、66歳から今に至るも、体を動かし続けて来なかったら、きっとこの草取り作業の面白さを、体得することはなかったともう。

そして想うのである。昔から人は苦しい生活や、労働のなかにも、なにがしかの喜びを見つけていたのに違いないと、私はおもいいたったのである。一見単調な動きの繰り返し、だが体は老いても、未だつつうらうらまで活性化する。気付くとずいぶん捗っている。老人の私には、安全でぴったしの仕事、何より天ノ下で思い通りに春の訪れのなか、地中のミミズが動くように、大差かわらず、私も動く。

夜、日中動いてくれた体を休め、就寝前体の手入れ、20分程度の体操を電気をつけず闇の中でする。暗いなか、これもはまっている。今年から始めた。千住真理子さんがやられていることを、私も真似している。おかげで以前にもまして、ぐっすり眠れる。寝て起きて働いて、合間合間に好きな時間をすごす。限りなく昔人にあやかりたい、というのが今の私の元気の元である。


2026-03-20

古い落丁のある、ボブ・ディランの詞を(詩集)の書写を(全部ではない八割程度)終えて思う、春の朝の五十鈴川だより。

 ちらほら桜の開花が告げられる季節の到来、等しく万人に春はやってくる。ウキウキ嬉しい。今日から三連休である。五十鈴川だよりを打つ気はなかったのだが、休日でも、ほぼいつもの時間に目が覚めたので、ゆっくりとコーヒーを飲み、ボーッとしていたら、なにやら綴り打ちたくなった。

私のことだから、いつまで続くかはわからないが、今年は年明けから、真面目に気に入った文章や、歌などを書写している。2月の中頃図書館でボブ・ディランの歌詞集を見つけた。長くなるので、簡潔に打つ。私はボブ・ディランの熱いファンではまったくない。

だが、思春期にライク、ア、ローリングストーン、風に吹かれて、時代は変わる等の、ハーモニカをぶら下げ、あの独特の声と歌いかたに、直感的に引かれ、影響を受けたことは間違いない。見果てぬ世界への誘い、とでも言うしかないなにかに、田舎者の私は連れ去られたのである。

学ばせていただきました

あれから55年以上の時が流れ、まさに時代は代わり、あの当時の生活にはなかった品物(武器を始め、世はまさに隔世の感)が溢れ、音楽も、小説もAIが(まったく私はその方面に疎いが)作れる、私には理解の及ばない、奇異な時代を、お爺さんになった私は生きている。

そのようなときに、たまたまボブ・ディランの詩集にであったのである。52年前、1974年に出版された本で、かなり落丁がある本であったのだが、書写をしたくなったのである。一月位かかると踏んで始めたのだが、結果3週間とちょっとで終えることができた。(ノート一冊とちょっと)

ボブ・ディランの詞を、翻訳日本語で読むことは、限りなく別な作品を読むことなのだと思いながら、書写を続けた。終えて思うことはやって良かったということである。

(今の日本にボブ・ディランのようなソングライターがいるのかいないのか、浮世離れの老人の私は、寡聞にしてしらないが、多くの名もなき弱き人々の声を、救いとる歌人の不在が、時代の不幸なのだと思える)

そして、岩波から出版されている新しい翻訳を手元に欲しくなったこと、この年齢で再びボブ・ディランを聴きたくなったことである。(千住真理子さんをきっかけに、何十年ぶりにわたしは好きな音楽を再び聴きたくなっている)

話は変わる。私は好事家的に本を読んだりはしない。あくまでも本を読むのは生きるためであり書写を始めたのも、そうなのである。五十鈴川だよりを打っていると自己満足の安寧がやってくる。書写もそうなので続けられる。もっと打てば、日本語の文字を手で書いていると、この老いゆく体が言霊に癒され安らぎ、気持ちが良くなるのである。

昔の人が詠んだ、俳句や和歌なども書写していると、なにやら昔人と交信しているかのような心持ちになる。枯れつつも微かな想像力の翼にたゆたい、荒涼とした潤いのない現世から逸脱時間が過ごせる(のだ)。

自己満足以外の何物でもない。しかもまったくといって良いほど自己完結、他者に迷惑をかけない。お金が不要、ノート、紙、インク代位である。書写以外に最近私がはまっていることがもうひとつある。それは明日打つことにする。

2026-03-18

84歳、草刈を終え颯爽と軽トラで帰ってゆくIさんの後ろ姿に打たれた、今朝の五十鈴川だより。

 昨日ちょっと嬉しいことがあった。私のバイト先は広いので、私と相棒の二人では手が及ばないエリアを、年に4回、シルバー人材センターの方たちが5~6人位やってきて(今回は数週間、高く伸びた枯れたすすきや葦を刈っていた、大変骨の折れる労働である)草を刈っている。その中の一人のかたが午後突然私のところにやってきて、今回は今日で終わりだと、わざわざご挨拶に見えたのである。

今日の五十鈴川だよりはkさんとの共作

何故ご挨拶にみえたのかはわからない。その方があまりにしゃきっとされていたので、思わずおいくつですかと訊いたら昭和17年生まれだという。私よりも10歳年上84歳である。

小柄だが背筋がしゃんとしていて、かっこよかった。久々、私よりも歳上で、草刈仲間で、話し方も含め、気持ちの良い老人に、昨日私はであった。笑顔が素敵でまた会いたいと思ったので、お名前を伺ったら、向こうも私の名前を訊いたので応えて、再会を約束した。

五十鈴川だよりは、その日暮らし、年寄り通信になっている。老いゆく一日をいかに気持ちよく過ごせるかに、重きをおいた生活を心掛けている。が正直、日々の生活の中で、爽やかで清々しい老人に出会うことは、私の場合稀である。

そのような日々の中で、出会えたIさん、今も打ちながら先輩の笑顔が浮かぶ。果たして10年後、Iさんのように草刈ができるだろうかと、自分に問う。私の答は、比較はしないで自分なりに一日を積み重ねてゆくしかない、という結論になった。ただ限りなく積み重ねてゆく希望を私はIさんの後ろ姿にみた。

これからの年齢を刻むお手本を、身近に見つけることができた喜びはひとしおで、そのことが私に五十鈴川だよりを打たせる。80歳を機に退職されたTさんしかり、今私が日々の足元生活で生き甲斐ともなっている労働仲間は、バーチャルなお付き合いではない。体を動かし、ともに寒さ暑さ、苦楽を共有するかけがえのない仲間である。

そのような仲間と、気持ちよくアウトドアで、バカな冗談を交わし晩年過ごせるなんて、私は至福である。皆、紆余曲折それなりに人生を歩んできた高齢者なので、都合の悪い時には支えあえる。(家庭の事情や長期のお休みなどで)

前回の五十鈴川だよりで打ったが、音楽会などの企画を止めるというのではなく、老いゆく仲間と、愉快に過ごす、少人数での終を見据えた(よしんば実現しなくとも)、自分でも思いもつかなかった、ようなひとときを演出する企画が、可能かもと夢みる。私ごとき、この世はつかの間の、夢のまた夢、だからこそ現実我が体を動かし、思いを共有できる仲間を大切に生活したい。私はすべての今を生きるすべての仲間と存在しているのである。

PS 今朝の写真は山梨に住む、女性の友達kさんから昨日送られてきた写真(昨年、数十年ぶりに再会を果たすことができた、73歳で企画しなかったら再会はかなわなかったかも、あれやこれや物語かしたくなるほどに、偶然を必然かしたくなる)

Kさんへ。妻同様私も富士山が歳と共に好きになり、老い先をみつめるとあらゆる生き物、つまりは森羅万象がいとおしく、慈しみたたくなる。よい写真ありがとう。(日本に生まれてよかった)上京した折、タイミングが合えば、ハイボールを飲みましょう。また写真送ってください、写真友達でいてください。(富士山の、写真いただき、春がきた)