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2026-11-03

ふるさと帰省旅を終え、文化の日の朝に想う五十鈴川だより。

 一昨日夕刻六時半に家に戻り、昨日働いて、11月最初の五十鈴川だよりである。門川に3日泊まり、31日(結婚記念日)は、先月から、福岡県の飯塚で働いている、遠友Kちゃんのところに泊まった。

その前に30日のことを少し触れておく。30日は登紀子さんの、朝食を済ませ、午前中マクドナルドで五十鈴川だよりを打ち、門川の港を散策、お昼を83歳の姉と二人でお寿司をたべた。姉には、高校生の頃から可愛がって貰っている。後期高齢者になっても愚弟の私が帰省すると、なにやかにやと声をかけてくれる。いくつになっても弟は弟なのである。その事が有り難く、ただ嬉しい。

我が心の小倉が浜

姉や兄がいなくなったら、おそらく私はもうふるさとに還ることはないだろう。その様なことを打つとなにやらもの悲しいが、厳粛に受けとめ、摂理に従う勇気を養いたい。侘しく寂しいのが日本の文化だと想う。

姉にランチをご馳走になり、私は一人兄の車でこのところ帰省の度に、ゆきたくなる小倉が浜に向かった。あいにくの雲り空だったが、サーフィンをしている人たちがいるのは変わらない。引き潮で広い砂浜を約一時間以上歩いた。歩いている人は誰もいない。私はガンジーの自伝、文庫本を二宮金次郎のように読みながらあるいた。

午後四時兄の家に戻り、門川の温泉に行き戻ると、日向市の庶民的な中華の店に兄夫婦が連れていってくれた。美味しい餃子と野菜炒め他を、ビールと焼酎と共に頂きご馳走になた。義理の姉の運転で戻って荷造りをし、横になる。

31日、午前6時に起き、登紀子さんの純和風の美味しい朝食を頂き、姉にお昼用の鯖寿司を頂きお別れした。兄が日向まで送ってくれた。7時44分の日輪に乗り、Kちゃんのいる飯塚に向かう。午前11時半行橋で降りる。飯塚から約一時間、車でKちゃんが迎えに来てくれた。行橋から飯塚まで小さな川沿いの道を走る。土手のすすきが私の琴線を揺さぶる。土手には桜並木が続いている。葉は全て落ちているが春の景色を想像する。

途中山本作兵衛さんの絵が展示されている。炭鉱博物館に立ち寄る。二人でゆっくり見いる。見終え館のそとのベンチで、姉の鯖寿司を食べる。美味しかった。遅めのお昼を終えKちゃんのマンションに向かう。Kちゃんの住まいは飯塚駅のすぐ近くにあった。荷をほどき洗濯をさせてもらった。(一晩乾いていた)

午後3時過ぎ、散策に出る。寂れた市内の商店街を歩き、遠賀川に出て沈下橋を(上には立派な橋があるのだが)2つ渡って対岸に出て、午後三時からやっているという海鮮居酒屋で、Kちゃんと再会の祝杯を上げる。天ぷらやお刺身がとても美味しく、普段は控えているビールをKちゃんと杯を重ねた。

何せほぼ40年近い交友である。性格がまったく異なるのもあるかもしれない。深入りしなくも切れぬ交友の持続に嫌でも祝杯を上げたくなる。この年齢になると、今こそが全てなのである。

一期一会、君子の交友は続く。

全てKちゃんが主導する。再び遠賀川を(今度は大きな橋)渡る。河原ではたくさんの手作りの明かりが灯り、ハロウィーンのイベントが行われていた。マンションの近く、二件目のお店に入る。おばあちゃんが一人でやっていて、昭和男二人にふさわしいお店であった。

二件目で十分であったのに、なんとそこから三軒目、ワインバーにKちゃんは向かった。そこに行った事は覚えているが、その後のマンションまでの記憶がない。気がついたら、1日の朝であった。(74歳でこんなに飲むとは、Kちゃんは私よりも2歳とししただが、その健啖家ぶりには驚かされる)不思議意外やさっぱりと目覚めた。Kちゃんがコーヒーを入れてくれ、椅子をだしてベランダで飲む。

私は瀬政さんから借りている、ウカマウフィルム作品の[地下の民]を見る事が可能か訊くと、事務所で観れるとの返事、事務所の近くに美味しいパン屋さんがあるので、ブランチがてら見ることに決定。何とプロジェクター他全部そろっていて、二人だけでの上映会をすることが出来た。Kちゃんの所でひょっとしたら観れるかもと思ったので、持参して本当によかった。

結果、上映を終え、Kちゃんの事務所を後にして、飯塚から直方、折尾経由で小倉に出てそこからさくらに乗り岡山へ。帰省旅の最後、Kちゃんの事務所で地下の民を観ることが出来た事の有り難さを五十鈴川だよりに一行打っておく。

PS Kちゃんは退職後も、現役で働いている。頭も体も若い。ウカマウフィルム作品にも反応するセンス、感覚がある。年齢を重ねて輝く人徳、味がにじみ出る。このような友を持てたわが人生に言葉がない。

2026-10-30

30日午前中、ふるさとのマクドナルドで打つ五十鈴川だより。

 昨日と一昨日のkpと28日午前10時ぴったりに熊本駅で、次兄が私をピックアップし、高速を一路走り人吉で降り、宮崎に入り、えびので昼食(お蕎麦屋で)をとり、午後2時、私が中学校に3年間通った四家中学校に着いた。四家中学校はもうずいぶん前に廃校になっている。私が元気なうちにどうしても四家中学校に行きたかったのには理由がある。父は当時四家中学校の校長をしていた。父の歌碑があるのでどうしても見て、写真に収めたかったのである。次兄は生家の近くの中学校で四家中学校には縁がまるでないにもかかわらず、遠路私を四家中学校まで案内してくれた。

秋空に、ひっそりたたずむ、夢の跡。

13歳から15歳まで通った四家中学校はまさに廃墟、夢の跡地と化していた。いまから、57年から59年前まで私は確かにこの中学校で学んでいたのである。生徒数は一学年50人、一学年二クラスの、田舎は僻地の中学校であった。

私はこの3年間、父から剣道でみっちり鍛えられた。当時与えられた官舎から往復7キロを、父はバイク私は走って通った。思い起こせばこの成長期の3年間鍛えられたおかげで、今も元気に働けているのは間違いない気がする。一心不乱の3年間、まさに鉄は熱いうちに打てである。廃墟の校舎の周りを一周、校舎の入り口に父の歌碑が風雪に耐えて立っていた。ずいぶん苔に覆われていたが、文字は読めた。しばし佇み、無言で見いった。


歌碑と次兄
歌碑には、(大いなる、のぞみをもちて、ひたすらに、つらぬきとおせ、ひとすじのみち)と刻まれている。次兄は私より3歳上、元気である。めったにはない場での貴重な写真なので、その父の歌碑と共に五十鈴川だよりにその雄姿を載せておく。

念願を叶え、門川へ走る。途中木城にある温泉施設に立ち寄った。兄共に入る。さっぱりして日向灘を右に眺めながら、日向市の入り、夕刻、門川の手前にある江藤酒店に立ち寄る。ここに嫁いだT代さんはおさなかりし頃、共に遊んだ(向こうが5歳年上)思いでの女性なのである。現在もかくしゃくとして、ほとんど赤字のお店の暖簾を下ろさないで、高齢の身でありながらも、いたずら坊主であった私のことを覚えていて、なつかしがっておもてなししてくれた。次兄との3人での立ち話は尽きず、立ち寄って本当によかった。

(昨日午前中私は再びT代さんに会いにゆき、ドイツドレスデンのぺーターさんに送る焼酎を3本買かった。長いこと棚に置かれた焼酎は風合いが箱に現れていた)

午後五時過ぎ長兄の家についた。当たり前、帰省の度にみんな歳を重ねている。が義理の姉と共に穏やかに迎えてくれた。手作り、心づくしの夕飯を頂き、3人での会話もそここに、午後9時に私はふるさとの匂い、空気に包まれてよこになった。



2026-10-28

お墓参りに帰省する朝、寸暇打つ五十鈴川だより。

 夏休みの異国旅から戻った翌日から労働に復帰、それから何かと忙しくしていたので、お墓参りに帰ることにした。夏の大きな地震で大変な思いをしている人びとの住む熊本、駅まで、何と次兄が愚弟の私を迎えに来てくれる。その事が今回の帰省で一番嬉しい。その事が打てれば、もう今朝の五十鈴川だよりは打つことがない、のである。


熊本駅まで、岡山から新幹線でおおよそ三時間、(門川から熊本駅までもそれくらいの時間がかかる、が次兄は迎えに来てくれる)予定では10時には着く。出発まで少し時間があるので打っている。外は夜明け前まだ暗いが、この何とも言えない起きたての静かな時間帯が、こよなく私は好きである。

夜明けの太陽をこのところ雨の日以外、毎日眺めている。毎日日は昇る。お正月の初日の出を詣でることはなくなった。日々詣でるのである。昨日は西の空に満月がぽっかり浮かんでいて、思わず写真を撮った。

情報漏洩に関する報道、イスラエルの選挙、などなど、重要なニュースにのみ、そっと耳を傾ける。それ以外はほとんどテレビを見ない生活である。が、私の生活には支障がない。ただひたすらの、超シンプル老夫婦生活が送れている、平和とは心が穏やかに過ごせることである。

月の明かりは、人を穏やかな気持ちにさせる。だから古びとの歌人たちは月に心情を託し、歌を詠んだのであろう。根気のいる労働からのお墓参り帰省旅は、この十数年のルーティンである。五人姉兄弟未だ健在である、その事が嬉しくめでたい。がやがて嫌でもお別れが、、、。だからこそ、帰れるときにかえるのである。

PS  今朝の一句、起きたての.体に沁みる.月あかり。親ありて.兄弟ありて.今がある。

2026-10-24

妻から村上龍の訃報を、昨日知らされる。そして想う、土曜日の朝の五十鈴川だより。

 妻から聞いて知ったのだが、村上龍が(同じ年齢なので敬称略します)亡くなった。会ったこともきちんと読んだこともない作家なのである。が、氏が24歳で、限りなく透明に近いブルーという作品で芥川賞をとり、一躍時の人となったときの事はよく記憶している。

当時私は、水道橋にかってあって今はない、旭屋書店で昼働きながら英国に自費留学費用を貯めるために、夜は小さな出版社の宿直を週に3日、ただ働いていた。書店で働いていたのは4年近い。

(この4年間の日本脱出の為の貯金引きこもり生活がその後の人生を変えたことは間違いない)村上龍の芥川賞文壇フィーバーは同じ歳の私にはまぶしいというしかない、ほどのもので、生活するだけで必死の私は、ただ対岸の別世界の出来事だ、くらいの認識しかなかった。

すでに何度か打っているかとは思うが、私がある程度落ち着いて本を読む、てばなせない生活のなかでの時間が持てるようになったのは、40歳で岡山に移住してからである。が、例外時間がある。25歳から26歳にかけての一年4ヶ月の英国自費遊学である。この時間のおかげで私は日本語に目覚めたというか、本を読むようになったのは間違いない。異国で、あの遊学時間日本の文字を読む、書く(お恥ずかしくも拙い語彙で)時間を過ごさなかったらと想うとゾッとする。

話を村上龍氏の訃報に戻すと、2005年の半島を出よ以後書き下ろし長編を書かれていたのかどうかを、私は知らない。だが分野はことなっても、またどのようなお仕事をされてはいても同世代、まして同じ年齢の人の訃報はズシンとくる。

下記に記します

私も来年早々には後期高齢者である。一寸先の命運等は予測無しにやってくる。その事に思いを馳せる。

人生100年時代などとメディアはかまびすしいが、私を含めた日本の高齢者が、内実いかほどに充実した晩年を生活されておられるのかは、一切数値で計れるものではない。

私は想う、生老病死の中でも、老いて病を抱えながら充実した生活を送ることは極めて難しい、との認識が私にはある。世相、世の流れは、長生きを奨励しているが、臥せっての長生きは、臥せってもいない身での発言は控えたいが、

(本音、思考もままならい寝たきり老人になったら、私は静かにあの世へ旅立ちたい、死はあの世、宇宙への回帰である。進んだ現代の医療での延命措置は不要である。その事をきちんと五十鈴川だよりに打っておく。来年後期高齢者を迎えたら最低の遺書は長女に文章で伝えるつもりである。あくまでも思考、意思伝達ができ手足が動く間は寿命を全うしたい、と現時点では考えている)

いずれにせよ、同世代の訃報は、過ぎし来しかたを嫌でも考えさせずにはおかない。その事に思いを馳せる時、これからの未知の老いの領域をいかに一日一日過ごし、生きてゆくのかをこそ大切にしたい。

PS 村上龍氏の2005年の書き下ろし本、本棚にあった。時間を見つけて読もうとおもう。心から冥福を祈る。

2026-10-21

ガブリエル.ガルシア.マルケスの講演録を読んで想う、老いの伸び代、今朝の五十鈴川だより。

 起きてコーヒーを淹れようかとおもったらコーヒーが切れていた。そこで夏ロンドンで買ってきた紅茶を淹れ飲みつつ、五十鈴川だよりタイムなのだが、いつものようにはすんなり一文が紡ぎ出せない。

五十鈴川だよりを打ち出して、15年になるが、打つだけで、だんだん文字が書けなくなってきつつある、ような気が最近とみにする。頃合い、潮時というものが何事にもある。ものぐさな私だが、毎日ではないにせよ、よく15年も五十鈴川だよりを打ち続けてきたものである。

そろそろもう、ここらで一区切りを、という内なる声がしてきている。手で文字を書きたいというおもいが一段とましてきている。どちらもバランスをとって続ければいい、とも考える。が、もう現段階では、五十鈴川だよりは充分に打ち尽くしたというおもいが私にはある。

先日、次兄と電話でちょっと長い話をしたさい、親父が残した書があるので、私にくれるという。次兄には子供がいないので、子供のいる私に手渡したいらしい。次兄とは私が小学校六年生から(父の転勤で)転校し、高校2年生で実家にもどるまで別の生活を余儀なくされていたし、性格もまるで異なるので、会話の接点がすれ違い、要するに、あまり密な関係性は築いていなかったので、ちょっと驚いている。


だが、その事、亡き父の書が契機になり、次兄との関係性が、互いに古稀をすぎて意外な展開になりそうな気がしてきている、のだ。長くなるので簡潔に打つ。五十鈴川だよりを打つ時間を手放し(完全には無理だが)、来年後期高齢者になるのを機に、手で文字を書く、わけても筆で文字を書く、老いゆく時間が過ごしたくなったのである。

上手いとか下手であるという次元ではなく、ただ手で自分の感触、他のだれのものでもない自分の筆跡の文字で、お便りを書いたりするひとときをこよなく大切にしたい、のである。だからこれから、五十鈴川だよりを打つ回数は減ってゆくことは間違いない。

書を始めることと、ウカマウフィルム作品を上映会を企画することは、まったく私のなかでは矛盾せず、どちらかと言えば繋がっている。もう何度も打っているので控えるが、一冊の本を読む、一回のフィルムを見る、前と後で、老いゆきながらも何かが自分のなかで変化している、のだ。老いの伸び代、とよいほうに考えたい自分がいる、のだ。

確かにあらゆる事が(生来のものぐさ)、億劫になりつつある自覚があるのだが、今まで関心が無かった領域への読書の幅の広がりや、書をやりたいという情熱が湧いてきたりもしている。その事にただ正直に生きたい、ただそれだけなのである。猪風来美術館の土手の草刈りなどの情熱も、老いゆくなかでの変化なのである。

話に脈絡がなくなるので、ここいらで止すが、今日の夕刻レディオモモに出演する。74歳にもなって、ラジオ出演への依頼があるなんて、面映ゆいが、何と20分おしゃべりする時間があるという、身から出た錆びだと引き受けたが、多分最後になるだろう。

話は変わる。昨日、ガブリエル.ガルシア.マルケスの(講演が苦手だったという)貴重な講演記録の本を読み終えた。百年の孤独を始め、ラテンアメリカの作家の本を私はこれまでの人生で手にした事がない。心から手にしてよかった。本物の文学者の声は異国の老人の私にも、翻訳日本語で届くのである。本物の文学者の希望の声は国家、国境を自由に越え届くのである。

2026-10-18

妻不在の週末、家事の合間、未知の国に関する本を読み、想像力を拓き考える五十鈴川だより。

 時折の妻の不在は、私から一切の甘えを許さなくなる。当たり前のことだが、買い物掃除選択、花のケア、生活のすべてを一人でやらねばならない。だから時折の妻の不在は私を嫌でも活性化させる。今朝はいつにもまして早く起きて、普段は妻がやってくれている細々とした雑事を片付け、洗濯機のスイッチを入れた後、五十鈴川だよりに向かっている。(うち終えたら干す)

昨日も打った。だから特段に打つことはないのだが、年齢的に一日一日をきちんと過ごしたいという、老人願望が、(いいことなのかどうなのかと言うことは一先ずおいといて)きっと私をして、五十鈴川だよりに向かわせる。(のだ)

若い頃、演劇を学んだことが大きいのだなあ、と、時おりこの年齢で感じる。演劇の素晴らしさは、根源的にその一回生が全てである。生ではなく、録画や映画は繰り返し視聴が出来る。(もちろんその素晴らしさはある)が、今日という一日は今日だけである。その事を、老いつつ、ますます有難いことだと感じる私がいる。

想像力を鍛えたい

世相や世間のニュース報道などとは無縁の時間を意識的に過ごしている。無関心ではもちろんない、今の報道はあまりにも世界の真実には程遠いと想うからである。もっと言えば、聞こえてこない、見えない、未だ知らない、真実の叫びを伝えている、映画、ルポルタージュ、文学、論考、新聞などなど、を読み、見て過ごしたいのだ。

昨日も、夕刻の散歩以外は、終日部屋で本を読み、合間家事仕事をこなして妻不在の一日を過ごした。無痛、無感覚ではいられない。世界の至るところ特にパレスチナをはじめとする辺境の地で、(打つのがむなしいほどに)理不尽な特に宗教的な大義のもとにに信じられないくらい多くの人びとが、現代ハイテク無人機や弾道ミサイルで殺されている。

このようなことが続いて良いわけがない。それくらいの心情(信条)しか私にはない。一人一人が自分の事として考え、発言行動するしかない。突然の明日は我が身になってしまうくらいの想像力は持ちたいものだ。

夕刻の散歩、空には三日月🌛涼しくなった。行くところは運動公園がほとんどである。せいぜい30分もいない。泰山木の樹の近くのベンチで靴を脱ぎ、裸足で15分くらい歩く。その間二回、鉄棒にぶら下がる。本を読むと背中が丸くなるので、努めて背筋を伸ばす。懸垂も試みる。できなくてもいいのである。ただ意味もなくぶら下がり試みる。

無理はしない。一回の懸垂を続けたいという願望が湧いてくる。裸足散歩は真冬と真夏以外の季節の良いときに、手術以後継続している。他にも書いてはいないが手術以後、ささやかに老いゆく体に負担のない範囲で続けていることがある。健康に老いてゆきたいという願望は、やはり孫の存在が大きい。


昨日上京している妻から、三年生、ノアの運動会の動画が送られてきた。成長してゆく孫たちの姿は、老いてゆく者の眼福である。が、一方では理不尽極まる環境、第三世界という言葉でくくられる世界を、生きている子供たちのことが、時おり脳裏をかすめる。

脳裏をかすめる体が健在である間は、何か企画したい私がいる。絶対矛盾を抱えながら、ウカマウフィルム作品を企画自主上映したい。

PS 右の写真の本、ガブリエル.ガルシア.マルケスの評伝今年出たばかりの本である。元気な間、一冊でも、未知の国の特にラテンアメリカの作家の本を読みたくなったのは、ウカマウフィルム作品の伴走者、太田昌国先生の本を読んだからである。

コロンブスがアメリカ大陸に上陸して後、500数十年の世界の歴史を先生の本でほんのわずか知っただけで慄然とする私がいる。


2026-10-17

太田昌国先生の本を、早朝と夕刻、ちびりちびり読み進む、そして想う秋真っ盛り、朝の五十鈴川だより。

 18歳から、いわゆる知的労働とは無縁の、どちらかと言えば肉体労働に従事してきた私は、お休みの日の朝、特に午前中は意味もなく嬉しい。木曜日から来週水曜日まで、妻が娘たちのところに上京しているので、猫の花との生活である。娘たちが家庭を持ち、とくに両家庭に孫が生まれてからは、犬のメルがいたので二人での上京は叶わなかった。

メルの遺影、夜妻は蝋燭を灯す

9月20日メルが召され、妻としては久しぶりの上京である。妻のことを五十鈴川だよりに打つことを、妻は嫌がる。

だからほとんど妻のこと、とくにメルが5月体調をくずしてから召されるまでの、私がそばにいて感じたことを打つことは控える。が、一行どうしても打っておきたいのは、メルに対しての、その愛情の深さである。一言、私は感動した。

共に暮らして40年、メルの最後を二人で見送る事が出来て、本当に良かったと想っている。妻は私の不在の間(夏休みの旅もウカマウフィルム作品を見るための上京も許してくれた)もメルの介護に献身した。共に暮らした生き物を看とる崇高さを私は目撃した。

猫の花も相当に老いているが、今も元気である。メルほどには手がかからない。だから、そんなに長い旅でなければ、これから二人での旅を、生活の範囲でやりたいと私は考えている。が、妻は動き回るのが好きではないので、どうなるかは彼女次第にゆだねたい。別行動をしてはいても、どこか信頼感で繋がっている。それが私には自然である。

夜、いつも側にいる花

さて、話を変える。あくまでも生活をしながら、この秋、まさに読書をして過ごす時間が増えている。7月4日、ウカマウフィルム作品に初めて接して、50年以上ウカマウフィルム作品に伴走して来られた、太田昌国先生と面識をえたことで、30年以上前に書かれた先生の本をちびりちびり読んでいる。先生の本はあだやおろそかに読める類いの本ではない。

この年齢で、あらためての無知を知らされ、どこか愕然とする自分がいる。高齢ではあれ、愕然とする自分にすがり、ちびりちびり読み進む。私の貧しい知的な胆力では、時に読み進むのが険しさがを増すのだが、先生の文章は私を撃つ。

(知らない名前の政治家、文学者、人類学者、宗教家、そして中南米の未知の邦の地名が随分出てくる)自分のあまりの無知にどこかたじろぐ、このような視点での論考を今まで読んでいなかった、こなかった自分が時に恥ずかしくなる。(先生の論考は際立って鋭い、安全な居場所で高所から発言する識者には容赦がない、ストイックなまでに自分にも厳しい)ノンポリの私を撃つ。

が、高齢遅まきではあるが、先生の文章に引き込まれる自分がいる、のが救いである。その感情は何処から湧いてくるのかは謎にしておく。視座を変えれば、かくも世界は相貌を変えるのである。長くなるので控えるが、先住民アイヌの歴史、北米インディアンの歴史、中南米の歴史、パレスチナの作家、ガッサン、カナファニーのこと、などなど、眼からうろこの論考に驚かされる。学ばねばと想う。企画をすることは未知の世界に謙虚に耳を傾ける勇気を養い、現在の自分の総体を問い直すことである。