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2026-07-11

あの日のウカマウ集団の、自主上映の出来事が、西大寺にもどっても心を占める今朝の五十鈴川だより、

 東京から西大寺に戻った翌日から働き、土曜日の朝が来た。例年より早く梅雨明けし、いきなり夏がやってきた。そのなか昨日までなんとか労働した。古希を過ぎてからの四年間の酷暑の夏を我が体は良く持ちこたえている。先のことはともかく、一年一年しのいでいるだけである。だから今年の夏も、凌ぐだけの心づもりでいる。私の体の塩梅は、私のみが知る、と言ったところである。

しゃくとりむしのように早朝読み学ぶ。

先の上京で、ウカマウ映画集団のフィルムの(4作品)を見ることができた。74歳で、このような未知のフィルムをたまたま見る機会に恵まれ、その事をわずかではあれ、五十鈴川だよりを読んでくださっている方々に、お伝えできることが嬉しい。私が感動したり、知って心が揺さぶられたりしたことを、折々五十鈴川だよりでは書いて、打ってきたつもりである。

その事が、古希を過ぎてからの企画にも繋がっている。今朝は、この歳でまたもやの根元的な無知を、ウマカウン集団のフィルムを観たことで、心がざわついている、その事をとどめる、程度にしたい。のだが、その未だざわつく我が心のうちが花、その事実に素直に反応する、したいという心持ちが、五十鈴川だよりを打たせる。

7月4日、74歳、小平は学園坂スタジオでウカマウ集団のフィルムを観たことは、(後何年我が命があり、五十鈴川だよりが打てるのかは分からないが)おそらく、ラテンアメリカに関する、無知の扉を開く契機になる、そのことだけは間違いない。

私は理屈で動くタイプではない。ほとんど本能と直感でこの年齢まで生きてきた、来れた、平凡な一庶民である。そのような私なのだが、何故か長周新聞の記事に、熱く反応する自分がいたことで、ウカマウ集団のフィルムに出会えたことの幸運を、あれから一週間未だに噛みしめている。

あの日から、チビリチビリ、太田昌国先生のご本、[ボリビア.ウカマウ映画伴走50年]を読んでいる、労働の前、朝の涼しい時間に。あだやおろそかに読める本ではない。心血を注いでのウマカウ集団との交流[監督のホルへ.サンヒネス、プロデューサーのベアトリス.パラシオスとの交流には胸を打たれる]には奇跡的な出会いを感じる。人類の未来をも照らす、黙示録的な出会い、とでも言うしかない、ほどの出会いである。

このようなフィルムに巡りあった、幸運をとりあえず五十鈴川だよりにきちんと打っておく。一昨年の猪風来さんとのイベントを通じての再会、あじくーたー、桑江さんとの再会、沖縄、長周新聞Gさんとの出会い無くして、ウカマウ集団のフィルムを観ることは、決してなかったであろう。その事を思うとき、不思議な感慨に打たれる。

ゴーヤの花、夏がきた。

元気に動き回れる、私の人生時間は有限である。その事に思いを馳せるとき、直感力にすがり、ささやかに岡山でウカマウ集団のフィルム作品を、チビリチビリ、だが確実に自主上映したい、という気持ちを押さえることはできない自分がいる。時間的に思う。学びつつ、自主上映する。思いを箇条書きに書き留めながら、あくまでも冷静にことをすすめる。(信頼できる、私の仲間数人に相談したい、そこからゆっくり真夏の暑さのなか考えたい)

9月に東京、学園坂スタジオで二回めの上映会があるのでなんとか都合をつけゆくつもりである。できれば太田昌国先生ともその際に、再会、お話する時間を持ちたいと考えている。

先日の上映会で、先生のお話を、肉声を聴いたさいに、何かが蠢いたのである。先生は1943年の北海道、釧路のお生まれである。言うに言えぬ修羅場をくぐり抜けてこられた稀な方で在る。だが、その笑顔と、ユーモアに私は引き付けられた。(のである)。時間が無かったが、上映会後、先生の本を求め、著書にサインをして頂いた。未だミーハー老人を自覚している。

2026-07-06

岡山に帰る朝、寸暇打つ五十鈴川だより。

 8泊9日の上京旅は、切れ目なく有意義な時間を過ごすことができ、岡山に帰る日をむかえた。朝食、全員の朝食をレイさんが6時過ぎに起きて、手早く用意してくれたのを済ませ、ノアの国語の音読をちょっと見てあげた。月曜日は一週間の始まり、長女は主婦の役割を、レイさんはもっぱらミアのお相手に余念がない。用意の整ったノアは本を読んでいる。私はリビングで、五十鈴川だよりを打っている。

今朝の朝食後の二人

静かな場所ではない。寸暇打つ癖のようなスキルを身につけたいという老いの心かけである。

昨日のことを少し打っておく。昨日は午前中、全員で多摩センターに行き、娘とノアと私は買い物ほか(書店にも行った)、レイさんとミアは別行動。お昼は全員で、ファミリーレストランで済ませる。

昼食を済ませ、娘とノアはドレスデンでの夏休みに必要な物を買うために、引き続き買い物、私、レイさんノアはマンションにもどった。稲城の駅からマンションまでの道を、ミアは何度も寄り道しながら歩く。レイさんが辛抱強く面倒をみながら同行する。その姿にお爺の私は見いった。

またもやすごい本に巡り会えた

もどって、ミアはお昼寝、レイさんが寝かしつける。私は二階にある図書館で午後4時まで、昨日の上映会で求めた、太田昌国先生の本を読む。正直、この年齢でこのような本を読みたくなる自分に驚いている。

老いつつなりの速度で、好奇心を満たし、無知の扉を開く勇気を、一日でも長く太田昌国先生のご本から学びたい。(帰りの新幹線で読むのが楽しみである)

夕刻、お風呂を洗い、一番先に入り、5時過ぎに長女に頼まれ、餃子40個を包む。包むとすぐに長女が焼いて、夕飯のメインに。ほかにも長女がナムルや、ゆで野菜等々の副食を並べ、最後の夕飯を全員でいただく。

レイさんがハイボールをたくさん買ってきてくれていた。サントリーの白州のハイボールが沁みた。

夕食を終え、ノアと娘私は、ダーウィンが来た、を見る。沖縄の珊瑚の現状のリポートと生態についての知見に驚かされた。ノアがこの番組を気にいっていることが嬉しい。続いて珍しく起きていて、またまた、養老孟司先生88歳のNHKスペシャルを見る。先生は私よりも14歳上である。

14年後、私も生きていればあの年齢になる。画面にみいりながら、これからの未知の年齢ゾーンをいかにすごせばいいのか、答えはない、しかし考えなければと、考える私がいる。レイさんが最後昨日の出してくれた、美味しい国産のウイスキーを出してくれたことを打っておく。


2026-07-05

上京8日目の朝、寸暇打つ長女のマンションの図書館で打つ、あさの五十鈴川だより。

 一昨日金曜日のことと、昨日のことを記録しておこう。一昨日はノンビリ過ごした。午前中五十鈴川だよりを打ってから、家の掃除をし、長女に頼まれたもの、食料を買いにいつものヤオコーにゆく。(物価高、記録しておく4750円買った)。もどって3人分ラーメンを私が作った。リモートワークの娘とレイさん美味しいといってくれた。

かき氷を頬張る未彩

午後2時半学校にノアを迎えにゆく。午後4時過ぎ、ノアとレイさんの菜園場に収穫にゆく。往復二キロはゆうにある。アップダウンの道を孫と歩いた。着いた日にも収穫したのだが、その時はきゅーりがたくさん、今回はミニトマトがわんさか採れた。

たまたまお隣の菜園場で収穫されていた方と、きゅーり二本と枝豆を一束交換した。楽しかった。帰り汗をかいて、ノアが道案内ほか、私をしっかりサポートしてくれたので、コンビニでアイスを買ってあげた。もどって二人ともすぐお風呂、何時ものように夕飯、午後9時過ぎに、ノアとともに床についた。

ここからは昨日の事を時系列に。土曜日なのでいつもより全員遅く7時すぎに起床。朝食後9時前歩いて10分のスイミングプールにレイさんと未彩がゆくのについて行き、しばし保護者席から眺める。

10時からは、プールの近くで、望晃がプログラミング教室に通っているのを少し眺め、一度家にもどって長女が入れてくれたコーヒーブレイク。10時半長女はジムに出掛け、前後して、私は今回の上京の旅の目的である、ウカマウ集団全作品の上映会に出掛ける。

マンションから稲城長沼駅まで二キロ歩く。そこから立川に出て、中央線に乗り換え国分寺へ。再び乗り換え(多摩湖線)最初の駅一橋学園でおり、歩いて3分の所に学園坂スタジオがあった。場所を確認、近くの小さな韓国の家庭料理のお店でビビンバでのランチを済ませ、1時過ぎ開場と共に中にはった。椅子席が30くらい、座布団席が8くらい。ほぼ満席だった。

今回はウカマウ全作品の一部、午後一時半から、革命(10分)、ウカマウ(75分)。午後三時15分から落盤(20分)、コンドルの血(75分)が上映された。私は身じろぎもせず一切の先入観なく作品に見いった。商業ペースにのらない。採算が合わないので自主上映でしかみることができない作品をみることができた。その事実の重さだけを今朝の五十鈴川だより打つに止めたい。高齢ではあるが、岡山から駆けつけてきてよかった、という思いが上映後の私を包んだ。

何事も知ることから始まる

上映後、太田昌国さん(先生)のお話を聞くことができたことも実に私には有意義であった。すべて終了後、先生の本を購入、サインしていただき、次回の上映会にも参加し、ウカマウ集団の映画作品について、少しでもまなびたいとおもう。再会を約束した。

6時過ぎ会場を後にし、逆コースで家に、稲城でお蕎麦での遅い夕飯を済ませ、歩いてマンションへ。午後8時着いた。お風呂を浴び娘たちと団欒タイム、レイさんが、ハイボール、ビールでもてなしてくれる。最後に国産のスモーキィなウイスキーがとても美味しかった。

飲みつつ、娘が夏休みのドイツ里帰り旅行に、私も行くことにしたのだが、ついでにロンドンにも行くことにした。娘がロンドンに同行してくれる(最初の三日間)ことになり、二人が泊まるホテルを、娘とレイさんが遅くまで、私が先に寝んだ後も検討詰めてくれていたことを打っておく。きっと半世紀近く前のロンドンとは様変わり、娘レイさんのサポートがなければ、今の私では、一人旅は家族が許してくれないだろう。老いたら子に従うのである。

2026-07-03

上京旅6日目の朝、長女の住む稲城のマンションで寸暇打つ、日録五十鈴川だより。

 昨日の出来事を時系列で打っておこう。午前中次女のマンションの図書館で五十鈴川だよりを打ち、お昼前病院に行っていた、次女、葉と吉祥寺駅で待ち合わせて、3人で家庭料理のお店でランチを済ませ、駅の本屋に行って、まもなく5歳になる葉に本を買ってプレゼントする。

レイさんの菜園場の花が食卓に。

雨に煙る井の頭公園のなかにある、水生生物、淡水魚の博物館にゆく。平日の雨でほとんど来館者がおらず、ゆっくりと3人で見ることができた。

(デンマークから父親と中学生、高校生くらいの年齢の3人が来ていて、ちょっと言葉を交わした、インターネット時代、人は行きたい所にでかける、ホモサピエンスは移動する)

葉は保育園に行けなかった代わりに、娘といつもとは違う時間を共に過ごせご機嫌だった。ことのほか淡水魚の生態の不思議にみいっていた。淡水魚博物館の中にはタンチョウや多種類の水辺で小魚やミミズなどの生き物を食べる水鳥も多数飼育されていて見ることができた。私もとても楽しかった。

いろいろな生き物の生態を直に見ることができる、大都市の中にオアシスのように存在する井の頭公園は、甚だもって貴重な公園であることを再認識した。老若男女を包み込む、この豊かな公園が次女たち家族のすぐそばに在ることの幸せをおもった。

小雨が降るなか、葉がなんと家まで歩くという。お爺は感動した。娘と3人30分近く歩いてマンションにもどった。最短距離、思い出の雨の散歩となった。着いたとき雨はほとんどあがっていた。娘のマンションで、葉と日本列島のピースを埋めたり、帽子投げ遊びをしたりしていると、あっという間に、時間は午後3時半、娘と葉と3人で保育園に風香を迎えにゆく。

その足で、バスで私は長女の稲城へ。バスを追いかけて走る葉の姿が脳裏にやきついた。ジーンとした。楽しい記憶の時間を、孫たちと持てることの平凡な幸せを、五十鈴川だよりに記しながらかみしめている。

淡水魚に見いる葉と娘

稲城には5時過ぎについた。レイさんはリモートワークではなく今日はお仕事で不在、長女は仕事していたので、すぐにノアとミアを保育園に迎えにゆく。娘ではなく私のお迎えにも自然に対応してくれホッとする。3歳になったばかりのミアは元気ハツラツ、すでに強烈な個性を発揮し、時おり娘をヤキモキさせたりしている。

が、私はほとんど心配していない。どのように4人が成長してゆくのかを、ボケるまで(誰でも最後はそうなるのが自然である)一年でも長く見届けたい。願わくは後10ねん。(叶わなくとも悔いはないことを打っておく)

話を戻す。夕飯前、ノアとお風呂。夕飯は娘がハンバーグほかを手際良く準備してくれたのを頂き、午後9時にはノアと共に、床についた。

2026-07-02

雨の朝、次女のマンションの図書館で打つ五十鈴川だより。

 上京5日目、木曜日の朝である。かなりの雨が降っている。五時半に起きると、葉が続いて起きてきて、さっそくオセロを一勝負、またもや葉に負ける。葉もノアも強い。風香と娘、周さんも起きてきて、娘が風香の面倒を見ながら用意しているのを、手伝う。全員揃って美味しくいただく。

今日は葉がお医者さんにゆく日なので、娘は仕事を休み、葉も保育園はお休み。風香は周さんがいつものように保育園に連れてゆく。娘と葉は9時前に出掛けた。周さんはリモートワーク、私は一階の図書館へ移動し、五十鈴川だよりタイムである。

もうすぐ5歳になる葉


昨日のことを忘れないうちに記録しておく。午前中娘に頼まれていた餃子40個包んで、一人吉祥寺散歩をする。マンションから往復一時間歩いた。吉祥寺では二軒の古本屋さんで一時間くらいただ本を眺めて過ごす。本の背表紙を眺めて過ごすのが、私は好きである。

本は重いし、もうなるべく本は買わないようにしているのだが、2009年に出版された佐藤優さんの功利主義者の読書術を求めた。文庫本として一昨年文庫で復刊されている。パラパラと捲り、ゆっくりよみたくなったのである。極めて新しい本がわずか220円。これだから上京すると私はどうしても神田の古書街を散策したくなる。

これからの数年、元気なうちは、労働、読書、散歩が日常生活の主流、お休みや、今回のような短い非日常旅でも、読書と散歩はかかせない。本を読むと嫌でも何らかの思考を迫られる。知的欠乏症、無知蒙昧を自認している。トラウマといってもいい。

だがこの年齢まで生きると、そのトラウマも消えてゆくかのような塩梅の日々である。自分らしく在りたい、ただそれだけである。(もうないものねだりはしない、諦めた)

話を戻す。本を求め、お昼を(ハンバーグランチ、美味しくいただいた)賑やかな市街地の洒落たお店ですませ、腹ごなし次女のマンションまで歩いた。それから夕刻の葉のお迎え時間まで、求めたばかりの功利主義者の読書術を読む(買って正解)。10年前までだったら、すらすら読めなかったかもしれないほど濃密に読みごたえがある。が今は、知的興奮を覚える。何事も、特に私のようなぼんくらは、書かれている内容の多岐にわたる、あまりの読解力の深さに、驚かされる。老いても本を読める体力を限界までキープしたい。

夕刻四時半、葉と風香を仕事を終えた娘(娘は職場までバスで通っている)と迎えにゆく。もどって何時ものように洗濯物を入れたり畳んだり、お風呂他を済ませる。お仕事で遅くなる周さんは不在、四人での夕飯。餃子がメインでとーもろこしの茹でたの、スープ、ほかの副菜付き。私だけハイボール。食事中岡山の妻に電話を入れる。風香と葉の姿を画面で確認しながら、妻の声が聴こえてくる。喜んでいる。

読書の凄さを知らされる

午後八時、絵本リーディングタイム。鈴木のりたけさんの布団の絵本や、パディントンのおはなしなどを繰り返し読む。絵本のリーディングを終えると、葉が花火が見えると私を呼びに来る。思ったよりも立派な花火が、遠くに次々にうち上がるのを葉と次女の3人で見いった。

葉の喜びようはひとしおで、遠くの花火をスマホで撮っていた。最後の日の夜、思わぬ時間を葉や娘と共有でき、またひとつ五十鈴川だよりに打つことできる事が嬉しい。何気なく同じような生活のなか、時おりきらりと思わぬいいことが起こる。

もちろんいいことばかりではなく、辛いことも起こるのだが、糾える縄、交互を行き交いながら、鍛えられ家族は成長する。その事を雨が上がるのを願っている。肯定的に考えられる側にいたい、とおもう。

今日のお昼は病院へ行った次女からの連絡をまって、葉と次女私の3人で吉祥寺で待ち合わせてお昼をし、しばし葉と最後の時間を過ごしてから長女の住む稲城へ移動する。

2026-07-01

さあ、これからお迎えまで何をしようか、東京旅4日目、6月最後の五十鈴川だより。

 東京旅4日目の朝である。早く寝たのでいちばん早く起き、朝に強い私が乾いている(乾燥機がついている)洗濯物を畳んでいると、葉が六時すぎ起きてきた。すぐにオセロを一勝負、47対27で葉の勝ち。終えていつものように朝食前、葉はドリルを三枚、周さんが見る。朝食はしらす干しをのっけたチーズトースト、スイカとヨーグルトと私は珈琲。

午前8時、周さん(今日はリモートではなく会社へ)、萌は仕事、葉と風香は保育園へ。エレベーターの所まで見送った。私は急に一人に。簡単に部屋の掃除をして、五十鈴川だよりタイムである。

昨日の、ささやかだが、楽しい一日をスケッチしておこう。昨日五十鈴川だよりを打った後、周さんと私のお昼を作った。マンションの一階にスーパーがあるので、生の麺と山形のスープを二種類買い作った。野菜、肉ラーメン。野菜はいんげん豆、モロヘイヤ、小松菜、と白ネギ、肉は冷蔵庫にあった細切れを使った。

周さんが完食して、美味しいといってくれた。簡単男料理は麺類には数種類の野菜、お肉を入れると、俄然美味しくなる。ちょっと一手間かけ、野菜は硬い野菜から時間差をおき茹で、肉は火が通るくらいで茹ですぎないくらい、しかやってない。

6月30日のお迎え風景

お昼を済ませた少し昼寝の後、周さんから電動自転車をかり、三鷹の図書館へ15冊の絵本を返し、新たに15冊の絵本を借りた。15冊選ぶのに二時間(駐輪場が無料)近くかけた。

おかげでずいぶんたくさんの絵本を私も読むことができ、素敵な午後時間が過ごせた。15冊、重いのだが自転車なので問題なし。井の頭エリアを自転車散歩し、マンションに戻って本をおき、その足でマンションの図書館へ。午後四時半まで本を読む。

次女からメールが来て、葉と風香を昨日と同じように娘とお迎えにゆく。戻って少しやすんで、夕刻夕飯前、お風呂をすませる。葉が虫の居所が悪かったのか、お風呂にはいるときちょっとぐずった。私が先に入り待っていると、周さんが衣類を脱がせお風呂につれてきた。

少し泣いたが、観念し静かになり、体を洗っていると泣き止んでご機嫌になった。次女は風香をあやし、私だとぐずるので、抱っこしながら、お魚を焼き、きゅーりの三盃酢などの料理を手早く作る。リモートワークの周さんも時折手伝う。家族である。

すっかりご機嫌になった葉に私も安堵、この年齢の子供の微妙な心理の綾は、いずこの家庭でも避けては通れないのだろう。ともあれ、全員で美味しく夕食をいただいた。風香は静かによく食べ、葉は賑やかに良く食べている。安心食べていれば問題ない。夕食後膝が痛いというので、膝を冷やしてやる。私は偶さかやってくるお爺の努めをやるだけである。

昨日私が作った塩ラーメン

午後7時すぎには風香がお休みし、葉は8時すぎには就寝時間がやって来る。午後八時、私が部屋にいると、葉が鈴木のりたけさん(今日鈴木さんの絵本を6冊借りてきたので)の本を持ってやって来る。

繰り返し読んで聞かせる。真剣に聞いているので、いい加減には読めない。老いた私の音読を真剣に聞いている葉。

もうこの時間は二度とはやってこない。私もエネルギーを使うので、ぐっすり眠りに落ちる。そして思う、死とは永遠の眠りに落ちることだと。だが、いまはまだ眠りから覚め孫に音読できる。役にたつお爺の、これが至福なのである。

2026-06-30

ワールドカップ、日本がブラジルに惜敗した日の朝、次女のマンションのリビングルームで打つ五十鈴川だより。

 日本がブラジルに惜敗したが、その事については触れない。覚めているわけではない、もうまったく別次元のどこかを揺蕩っている老人の私がいて、現世的、世間の常識のような世界には、当の昔おさらばした境地を生きているので、やはりどこか覚めた目で浮き世を眺めながめている。その事がどこか楽しい。そのようなことを臆面もなく打つ、老人の私がいる。

繰り返し4回読んだ絵本

思春期の頃、いかにこの世を生きていったらいいのか、皆目見当がつかず、途方にくれながらも、なんとかこの年齢まで生きてきて思うのは、何はともあれ、生きてきてよかったと思える自分がいる。

そのように思えるのは、おそらく自分が、とりあえず今は幸福感に浸ることができる日々を送れているからだと思える。

さて、東京旅3日目である。昨日お昼は、リモートワークの周さんが外に食べに行ってもいいと言ってくれたのだが、時間があったので、私がニンニク、ズッキーニ、玉葱、豚肉で炒め、即席レトルトスパゲッティを作って、男二人で済ませた。

義理の息子は優しい。あれやこれや私に気を使ってくれるので、意気に感じる古い、時代遅れの九州男子としては、偶さかの時間、ボケ防止もかねて、(このところ我が家でも簡単男料理を作っている、意外や意外楽しい)作っている。段取り力がすべて、後片付けまで。本を読むのと同様時間のかかる男料理だが、幸い働いてない日は、時間はたっぷりある。

老いては食べる楽しみを、作る時間も含めて楽しむように心がけることにしている。妻もそのような殊勝な私を見守ってくれ、手伝ってくれる。彼女のお手伝いが加われば、あっという間に、簡単な一品が出来上がる。

昼食後、少し昼寝、午後二時すぎ三鷹駅方面を約一時間散歩し、三時半戻りロビーで本を読む。午後4時半娘が仕事先から戻り葉を迎えに行くのに合わせ、私もゆく。マンションから葉、風香の保育園まで五分もかからない。戻って、少し休んで周さん以外お風呂に入る。次女が手早く、しゃぶしゃぶでの夕飯、次女が私にだけ、ハイボールを用意してくれている。全員で美味しくいただく。

ちびりちびり学んでいます

食後(真夜中の日本対ブラジル)早めに床につくと葉が約束の絵本を持ってくる。同じ絵本を繰り返し4回読み、最後動物が登山をする絵本で締めとした。葉は本当に聞き分けが良くなってきた。成長している。(爺馬鹿まるだし)夜中、日本対ブラジル戦を静かに見届け再び横に。

今朝、葉に起こされ、朝食(なんと朝食はカレーでした、バナナとヨーグルト付き)前、葉のドリルを見る。爺馬鹿、全部100点、まもなく5歳の葉には簡単すぎるようだが、お父さんは基本を繰り返しやらせている。キャッ、キャッ、ガハハハ、いっときもじっとせず、心と体が躍動し、絶好調。そのような葉にエネルギーを頂く。時折いたずら小僧をしかりながら。

8時すぎ、慌ただしい朝の時間(洗濯物を干したり、お風呂あらいなどなど)がすぎ、次女は仕事、周さんは孫たちを保育園へ。周さんは保育園に孫たちを送ってから、毎朝井の頭公園エリアを30分以上散歩している。

周さんが帰ってくるまでに、頼まれていた雨戸の埃落としを済ませる。私が五十鈴川だよりに向かうと、周さんが冷たいアイスコーヒーを入れてくれた。

2026-06-29

東京は三鷹下連雀、午前中次女のマンションのリビングで打つ五十鈴川だより。

 昨日午後一時過ぎ長女の住む稲城のマンションに着いた。次女家族が長女家族を訪ねていたので、渡す物もあったので、先ずは稲城へ向かったのである。

長女の娘未彩と、次女の娘風香はお昼寝中、私は昼食のお蕎麦を娘のところで済ませ、レイさん、周さん、ノア、葉、私の5人でレイさんの菜園場にきゅーりの収穫に行った。驚いた。面積はわずかな畑に見事なきゅーりや、ミニトマトが実をつけていた。あいにくの雨ではあったが、ノアや葉がハサミで収穫する姿にみいった。

収穫を終え、そこから車で10分の所にある稲城の天然温泉に男5人でゆき、しばし、露天風呂で梅雨の雨に打たれての温泉を、孫たちといきなり過ごすことができて、お爺としてはいうことなし。楽しかった。マンションに戻ると

風香も未彩も起きていて、全員で歓談ティータイムをして、娘たちは買い物へ。夕方四時過ぎ、周さんの車に、収穫した野菜、買い物の品々ほか沢山の荷物を積んで、長女のマンションを後にし、三鷹の次女のマンションに5時過ぎに帰った。私は前半は次女の所にやっかいになるので同乗した。あれやこれや全部で10位ある荷物をカートに積んで七階まで運んだ。カートに積めない荷物は、手や背中に。周さんは車を返しに行ったので、次女と私と葉の3人で運んだ。

下記に記します

部屋の入り口に荷物をおろし、カートは返した。玄関から台所に荷物を運ぶのを、テキパキと葉が手伝うのには驚いた。あと一月もすれば葉は五歳になる。わずかな数ヶ月逢わない間にぐんぐん葉は成長している。

風香はちょっと警戒心が強く、すっかり私のことを忘れていて、近づくと泣くのも成長の証、と受け止め、居るあいだに抱っこできるか出来ないかが楽しみである。

夕飯は次女が手際よく、あっという間に海鮮丼を作った。午後7時前夕飯を終えると、風香は娘と就寝に入り、私は葉とトランプゲームをしたりした後、絵本を数冊読んでやり、私も横になった。た。明らかに数ヶ月前とは異なる。一言でいえ、聞き分けができるようになってきている。この年齢の成長の微妙さは、お爺いさんの私にはなんとももどかしいほどに言葉にはならない。

今朝は六時半に起きるとすでに娘と風香、葉は起きていて、葉がすぐにパズルをやろうという。仕方なし、うろんな頭で付き合う。なついてくれているのがわかる。バーチャルではなく、いつもは画面のなかのお爺がそばにいる。

すぐに朝食タイム。卵かけご飯をいただく。旨い。葉はブドウパントースト(美味しいといってパクパク食べる、バターが好きである)目の前でご飯を食べているお爺が居る。ただそれだけで葉は面白がっている様子である。老人がただそこにいるだけで、髭にふれ、髪の毛の少ない丸い私の頭にやたらさわりたがる。役にたつ頭。そんなこんなたわいもないことが、子供は面白いのである。

あっという間に保育園に行く時間がやって来る。(出掛ける直前までユーチューブで好きな番組を見ている)娘は仕事に、周さんが風香と葉を送ってゆく。一気に静かになる。娘から掃除を頼まれたので、役にたつ老人に変身する。それをまず済ませたそののち、寸暇記録スケッチの五十鈴川だよりを打つ、爺である。

PS 昨日雨のなか、レイさんの菜園場できゅーりとミニトマトを収穫している男の孫二人、8歳になったばかりと、もうすぐ5歳になる。この二人との男時間が愉楽である。二人が中学生になるまでの時間をなるべく多く過ごしたい。


2026-06-28

8泊9日の上京旅に出掛ける前に寸暇打つ、早朝五十鈴川だより。

 朝、上京出発まで少し時間があるので新聞(以後、新聞は長周新聞の事です)を読む。6月22日と6月24日の郵送されてきたのを。配達の人の世界の責任ではないのだが、降り続く雨で、2日分はぐっしょり濡れていたので乾かし、ようやく読めるようになったのである。

紙面ページが少なく、庶民目線のこの新聞を隅々まで読むのが、最近の私の密やかなたのしみである。読みごたえがあるので、新幹線の中でもじっくり読もうとおもう。後期高齢者なのだが、有難いことに、文字を追う集中力は、今もさほどの衰えを感じない。

新聞を読む楽しみがこの年齢でまたもや訪れていることがいちばん嬉しい。好奇心は高貴心とはシェイクスピアの言葉である。何かに心がわくわく、どんなに個人的ささやかであれ、心が揺さぶられたりすることがないと、五十鈴川だよりはうてない。

読書の幅を広げたい。見つけた凄い本。

ほぼ9割は午前中の、よく休んだ体で静かな時間帯に打っている。打っていると、打ちたいこと、言葉が湧いてくる。

話は変わるが、長女、次女のマンションには住んでいる人たちがいつでも利用できる図書館がある。上京する度に利用している。そこでも五十鈴川だよりを打っている。新潟の旅でも、沖縄の旅でも、その場で打つ。お供はタブレットと数冊の本である。持参した本を読み終えると、私の好きな神田や吉祥寺の行きつけの古本屋や東京堂書店で、本を求める。

東京は20年以上暮らした街、大都会だが地図が頭に入っているので、高齢者になっても今のところ、まったく問題なく過ごせる。渋谷のスクランブル交差点や、若者が集う下北沢などの変化には、正直ビックリする。青年時代の思い出がぎっしり詰まっているからである。無常迅速(大監督小津安次郎が好んだ言葉である)という言葉我が体に染み入る。だが抗っても致し方ない、諸行無常の移ろいを受け入れながら、五十鈴川だよりを打ちながら流れてゆく。(のだ)

時折、普段の生活場所とは異なる、新幹線の中とか、娘たちのところで本を読んだり、五十鈴川だよりを打つのが、実はとても楽しい。日常の延長のような、ささやか極致の高齢者旅旅、お金のかからない、有意義な旅が私はやりたい。8泊9日の上京旅、楽しみである。

2026-06-27

台風のために、上京を1日延期した朝に思う五十鈴川だより。

 起きると雨が止んでいた。この数日の雨続きで散歩が叶わなかったので、早朝の運動公園に行き、裸足で芝の上を歩く、鉄棒にぶら下がる、懸垂をする(最低一回は試みる)決まったルーティンワークをやると、有難い、74歳の体の細胞が動き出す。

やる前と後では、気分がまるで異なる。体は不思議である。老いてゆく日々、体を前向きに、上向かせるためには、わたしの場合我が体に刺激を与えることが不可欠である。続けるコツは、決して無理をせず楽しくやる。これだけである。

大先輩の遺言に耳を傾ける

わずか30分程度の時間、ルーティンワークを終えると、運動公園の雨にうたれた樹木を眺め、一番気に入っているヒマラヤ杉に触れる。

無数の針の枯れ葉が足にチクチク絡む。洗って靴下をはく。足の裏にはたくさんのツボがあるというが、大地にあんましてもらった我が足は、今も足の裏がじんじんしていて気持ちがいい。

さて、よほどのことがない限り、労働をしていない日は、五十鈴川だよりを打つことで、休日が始まる。朝の体動かし散歩で気分を上げて五十鈴川だよりを打つ。自分を乗せてゆく。集中しないと五十鈴川だよりは打てない。

(とここまで打っていたら、長女家族、次女家族から続けて電話あり。しばし文章を打つのを中断し、再びうち始める)

一日上京するのが延びたら、次女の息子の葉が、私が来るのを楽しみにしていたらしく、残念がっていたのを知って、お爺としてはちょっと嬉しい。この五年の間に、次々と孫に恵まれたお陰で、ほんのわずかでも孫たちや、娘夫婦のお役に立てるのが、老いの努めだと私達夫婦は考えている。お役にたつことが楽しく面白いのである。嫌でもお役に立てなくなるのだから、体が動くうちにと、考えているだけである。

ことさらな理由なんてない。手があれば、と思うことが子育て真っ最中にはひっきりなしにある。買い物、掃除、洗濯、子守り、お迎え、などなど休みなく連続しての終わりのない日々から逃れられない。

梅雨の日々、花一輪で、気がはれる

平凡な思い出を刻みたい。有難いことに、娘夫婦両家族、我々が交代で上京するのを喜んでくれる。だから安心して、この8年間上京している。親子であれ、友人であれ、風通しの良い関係性を持続キープしてゆくには、それ相応の配慮というものが必須である。

話を変える。今年ももうすぐ半年が過ぎる。世界の混沌の行き先は、庶民凡人の私には霧に包まれて、ようとして先の見えない、とらえどころのない時代である。が、私はそのような時代であるからこそ、シンプルisベスト,私にできる当たり前の普通の家族の生活をやりたい、見つけたい、というおもいがある。

当たり前、我が家族は世界に一つである。孫たちと過ごせる時間は限られている。そばで同じ時間を過ごしたい。ただそれだけである。ことさらな旅行とか、高価な食事など不要。一緒に買い物に行き、ご飯を作り、お風呂に入り、掃除をし、洗濯物を干したたむ。お話しをする。散歩をする。共に生活する。これがいちばん素敵なことなのである。

娘夫婦は日々忙しいので、孫たちの様子を含む、生活のスケッチを、五十鈴川だよりに綴るのも脳トレで寸暇打ちしたい。孫たちの今は、かけがえがない。わずかであれ、写真だけではなく言葉で記録したいのである。こればかりはお爺の特権である。10年後、私は五十鈴川だよりはうてないかもしれない。だから今打つのである。






2026-06-26

瀬政さんから思わぬメールをいただいて思う、降り続く雨の朝の五十鈴川だより。

 二日前、盟友と言ってもいい瀬政さんから、有難いメールを頂いた。嬉しかったので瀬政さんからお許しを得て、瀬政さんの実名で、瀬政さんを知る家族や、兄などにメールを転送した。

瀬政さんとは、この激動の時代、人心が絶えず揺れ動くなかにおいて、すれすれのところでの交友が、あうんの呼吸で続いている。先日のようなメールをもらうと、普段の生活のなかでの交友時間が少なくても、きちんと五十鈴川だよりを読んでくれている、のだと感じ入る。

大なり小なり、私などは自分のことに精一杯で、他者のことに思いを(五十鈴川だよりをきちんと読んで、コメントするのはよほどのことである)馳せることが至難である。だから有り難く嬉しい。しかもありきたりなメールではなく、それも面映ゆいほどの文面である。

25年位前、南インドカルカッタでの瀬政氏

ほとんど人に誉められたり、評価されない、思い返せばお恥ずかしいほどの人生を、よたよた(今もでである)なりふり構わず生きてきたので、後期高齢者の今、このようなメールを頂くと、じわっと老いの体に血が駆け巡る。だれかがどこかで見ていてくださっているのだと。

凡人なりの五十鈴川だより、折々綴り打って来なければ、このような有難いメールはいただけなかったのでは、と思う。

素直に自分の体と心が気持ちのいい方向に流れて行きたい、という感じは、老いるにつれてますます深まる。この年齢になると、ぶっちゃけ、現世での、世間の価値観などどうでもよろしい。

マイノリティであるからこその、オリジナルあふるる時代に流されない、棹さして発言する人に私は限りなく惹かれる。それと体を張って生きている人間に。職業は関係ない。ただ一寸の虫の良心、心意気、誇りを持ち、戦争だけは忌避する志を持ち続けるヒトと繋がり、連帯したい。

やむにやまれぬ事情で一時撤退しても、じんわりやりすごし、再び時期が来たらアクションを、あくまでも平和的に思考実践する。そのような個人的行動、私の文面を、面識を得て30年以上、瀬政さんは私が岡山に移住して、間近で私のあれやこれやを、いつも側面的に支え、見守ってくださる得難い方である。

一口に30年、生まれたばかりの赤ちゃんが30歳である。しかもこのような御時世に関係性が持続してきたことの(良き思い出ばかりではない)不可思議をおもう。その不思議な事実を私は五十鈴川だよりに打たずにはいられない。人の心は移り行くのが摂理、自然であるからだ。

長きの間、付かず離れずの交友で、氏から何度か長いお手紙も戴いている。今年からあらゆる処分をしているが、決して処分できないお手紙は、私とともにあの世に行くことになる。現世で稀な交友が持てた幸福を頭がしっかりしているうちにきちんと打っておく。でないときっと後悔する。


2026-06-25

降り続く、梅雨の雨の午前中に思う五十鈴川だより。

 雨が降っている。我がふるさとを始め、各地で大雨が降りそそいでいる。2018年(だったと思う)すぐそばの砂川の上流が決壊し、一日ボランティアをしにいったことがあった。以後梅雨の最中に、各地での浸水によって家が水浸しになったり、道路が土砂崩れになったりする映像を毎年のように見る。(天変地異には言葉がない)

つくづく、いろいろな意味で生と死、悲惨な出来事は、他人事ではなく、何時なんどき我が身にも起こっても不思議ではない、のだと想い至る。これまで無事に生きてこられた事、アクシデントを寸暇の手前でしのぎ、生き延び、平凡健康で存在していることの有り難さを、雨音を聞きつつおもう。

言葉を失う本である。

さて、昨日雨の中何とか労働し、今月はもう今日からお休みである。妻は雨の中での労働を、心配する。確かに年齢を考えると無謀な行為に見えるのも無理はない。現代人にとって雨の中での労働、第一次産業、力仕事などの労働は、どこかスマートさにかける趣があるように見える。が私は意にかいさない。私に合っている、のだ。

(もっと打てば、食い物、米、野菜、肉、魚、宇宙の摂理ゆえに、戴ける、もっとも生物にとっての命の元素、そこを一番大切にせず、金儲けの手段を最優先し、第一次産業を大切にしない国をわたしは信じない)

私のアウトドア大好きは、自分でいうのもなんだが筋金入りなのである。小学校から中学生までのほとんどを(学校以外で勉強をした記憶があまりない)アウトドアで過ごし、富良野、築地、中世夢が原、そして九年目に入ったいまの労働をいれると、7割位アウトドアでの人生時間を歩んでいる。だから、お日様が出ている時間、インドア生活は私には無理、できないのである。

環境のなか、生物体としての私は、水を得た魚のように、外の空気、光が体に直接はいらないと酸欠状態になる。(のだ)、労働の前、夜明けの空気と光に包まれて、しばし一人時間を倉庫で過ごすのが、この八年、いまもわたしの無上の楽しみの時間である。

レイさんが稲城の菜園場で育てた見事なきゅーり

冷蔵庫があり、コーヒーが飲め、朝食も採れる。誰にも邪魔されずに、沈思黙考(おしゃべりな私だが一人なのだから、当たり前誰ともはなさない、自分と話すのみ)できる、今や私にとって必要不可欠な場と空間なのである。

とここまで打って、話を戻す。もちろん毎日が雨であれば嫌気もさすだろうが、月に数回なら何て事はない。積み重ねてきた経験値が体に染み付いているので、もうアカンと思えたところで止めるだけ、それ以上やるのは愚である。諦めるのである。

子供の頃、雨の中で泥んこになって遊んだ記憶が未だ残っている。濡れた体を拭いて、母が用意してくれた衣類に着かえた時の気持ちよさを、私は忘れてはいない。(宝の想いでである)

作業ズボン他、肌着から一切合切常に車に積んである。だからこの程度の雨ならしのげる目処を、体が知っている。雨が上がり、日がさして来て、草むらから靄が立ち込めてくる様は、幻想的でしばし幼年期の原風景が甦る。記憶のなかの幼年期の自分と現在の自分が交差する。誰もいない。草刈り機の音が響く。

終えてお昼、家で温かい麺類をいただく。労働の後のお昼は、この歳でも格別にうまい。お恥ずかしながら、美味しく頂くために、わたしの場合労働している面もある。歳をとり食事が美味しく頂けるのは、果福である。


2026-06-21

菅原文太さんの対談集、[ほとんど人力]を読みつつ、勇気を頂く今朝の五十鈴川だより。

 曇りと雨の予報であったが、部屋に陽射しが、青空も見える。老い楽の綴りかた、五十鈴川だよりは日録としても、不可欠になりつつある。

昨日は終日雨であったので、ほとんど部屋で過ごした。このところ休日はちびりちびり、本の整理処分を進めている事はすでに何度も触れている。手元に最後まで置いて起きたい本と(将来孫たちが手にしそうな本は彼らに選んで貰おうと思う)、不要な本を選別している。


遅々として進まないのだが、それでもこのアクションを起こしたことで思わぬ、これまでの人生を振り返る貴重な時間がすごせている。とくに東北原発津波大震災以後に求めた、私が還暦以降に買った本は、今を生きる私に限りなく勇気をもたらしている。

今から11年前の、2015年、私が63歳の時に求めた、菅原文太さんが17人のその道の達人たちと対談した[ほとんど人力]という本を昨日から読んでいる。

年齢を重ね、買った当時よりも、はるかに身に染みて読めるのは、きっと物事を深く感じる力がついてきてきているからだと、いい方に勝手に考えている。縁あって求められた幸運に感謝である。この本は2013年に、お亡くなりになって間もない頃、菅原文太さんを追悼、出版されている。

当時、すでに五十鈴川だよりを打っている。打ち続けているからこそ、再び本棚の整理で読む機会が持てた。本の帯に菅原文太の魂ここにあり、とある。それまで有名な映画俳優と云うくらいの認識しかなかったのだが、何がここまで菅原文太さんを駆り立てるのか、死を賭してまで日本の時代の行く末を憂える魂の心意気に、私は打たれる。


梅雨の時期、高齢者は体調管理が老いと共に難しくなる。文太さんの見かけの豪放磊落さとは全く異なる、思いやりが半端ではなく、ユーモアがあり、繊細で真面目な勉強家であられたことを知った。

晩年は山梨でお百姓生活をされていた事もこの本で知った。何よりも真っ正直である。(このような昭和の快男児が本当に居なくなった。私は寂寥感に佇む)

また対談相手が多士済々、17人の強者を相手に、恥も外聞もなく、素直な疑問を真っ向勝負挑む。修羅場を潜ってきたもののみが成せる、まさに正真正銘の遺言とも言える対談集である。

そんじょそこらのインテリには逆立ちしてもできない。芸人魂、人間力が香りたつ。一言カッコイイ。(憧れる)相手が菅原文太であるからこそ、第一線の達人が集結、金ではなく馳せ参じたのだとおもう。

(このような昭和の芸能者が居たことを五十鈴川だよりを打つものとして、打っておく。ニュースをきちんと見なくなって久しいので、佐藤愛子さんがお亡くなりになったことも、図書館で知った。刻一刻私の脳裏に浮かぶ、時代が生んだ稀人、小説家や芸能者が冥界に召される。一行でもしっかと五十鈴川だよりに刻んでおきたい)

外見や俳優としての役柄などで、菅原文太という存在を全くといっていいほど知らなかったが、人間としての魅力は、とてつもない。菅原文太であるからこそ、17人のその道の強者が胸襟を開いて、明け透けに語っている。17人のうち6人は私も知らなかったし、未分やの方である。

対談者、中村哲、西部まん(漢字の読みが間違っていたらすみません)、大田昌秀、金子兜人、丹羽宇一郎、の方々はすでにこの世にない。(私が知らないだけでもう他界されているかもしれない)。菅原文太さんの遺言対談を常に側に置いて、見えない文太先輩と交信したい。

PS 上の写真は、昨日午前中三時間くらいかけて、土を落とし、根を切り、塩で何度も揉み、洗い、赤トウガラシを入れ、3キロ浸けた今年のラッキョウです。ラッキョウや梅酒を浸けるのは還暦以降に始めたのだが、今年もできた。日々の生活の、老いてもゆっくりとできる嗜み、喜び、妙味を見つけたい。


2026-06-20

一つの記事が、アクションを起こす、梅雨の朝の五十鈴川だより。

 6月12日の長周新聞で、ボリビア.ウカマウ集団の全映画作品が7月4日、東京都小平市、学園坂スタジオで連続上映されることを知った。


もし長周新聞を購読していなかったら、ラテンアメリカ先住民の生き方を、記録に収めた映画を観ることは永久になかったかもしれない。この記事を読んで、ちょうどひさかた孫たちに会っていないし、時折、最近孫たちから電話がかかってくるので、お爺としては何かにかこつけて、叶うものなら、意味もなく孫たちとの時間が過ごせれば、とのおもいなのである。

だから、来週26日から7月5日まで、急遽上京する事にした。というわけで我が高齢者生活は何かと忙しい。老いを受けいれながら、体が自然に反応する記事や本からの刺激に、素直で有りたいだけである。次女の住む三鷹から小平市は近いし、長女家族にも会いたい。

何度も打っているが、娘たちに恵まれ家族を持て、その上次々と孫に恵まれ、お陰で元気に労働するエネルギーを個性豊かな孫たちから頂いている。爺バカを自認している。我が年齢を冷静に考えると、3ヶ月に一度位の頻度での孫との時間は、老いの悦楽、こればかりは老いたからこその果報である。(これからの数年はとくに大切なのだ)

もしこれが、年金生活だけであれば、悲しいかな三月に一度の、孫たちとの逢瀬は、ちょっぴり寂しい。丸八年以上、元気に労働出来ていることの幸堪を想うとき、じわり込み上げてくるものがある。動く体と少々のお金は絶対的に不可欠である。だから、働くのである。

一昔前だったら、とうにあの世に召されている年齢である。が幸か不幸か、もちろん若い頃とは比すべきもないが、個人的日常生活のなかで、いまのところ殊更に老いを実感する頻度は多くはない。連続一時間以上草を刈れる体力があるし、本を読む、読める集中力も(深く味わう想像力、知的感受性は増しているようにさえ思える、臆面もなく)かわらない。

梅雨の朝、紫陽花眺め、五十鈴川。

一つの記事に体が反応する。多分これが無くなったときに、老いをただ静かに受け入れたい。多分その時には孫たちとも遊べなくなる。それでいいのである。それが自然なのである。会えるときに会っておく。喰えるときにくっておく。刹那、刹那、一日一日を大事に生活したい。これが信条になりつつある。

こういう心持ちになれたのは、桑江良健、純子さんの住む、隣にある近さの愛楽園で、これまでの人生を振り返る時間が持てたことが起因している。(そこで考えたことはちょっとやそっとでは打てない)それから長周新聞(新聞を直接手渡しされたこと)沖縄支局のGさんとの出偶いが、大きい。

ややもすると、岡山での足りた生活の中で、埋没しかかっていたかのようなわが高齢者生活に、Gさんは日本人の一人としての私に、根源的に物事を考えてほしいとの願いを直接伝えてくださったのである。正直、沖縄の歴史についてのあまりの無知蒙昧さに内心忸怩たるおもいを、抱えている。

が、私はGさん、桑江良健さんに出会えたことで、目には見えない変化が、起こっているのを感じる。その感じは、これからGさんや桑江さんとの関係性を深めてゆくなかで、自分がどのように変化するのか、しないのかを見つめたい。



2026-06-17

前川喜平さんと佐高信さんの対談、新書版の本を読み終えた午前中の朝に思う五十鈴川だより。

 サッカーwカップ、日本代表がオランダと引き分けたことで、メディアの報道は過熱している。国民が熱狂している映像がこれでもかというくらい流されると、老人である私はうかれるのもほどほどにという気分になる。

だが誤解なきように打っておくが、森安監督始め、躍動する若き日本人選手の堂々たる戦い、先制されても、冷静に反撃し大方の予想を覆す、意外性の極みみたいな戦いかたに、日本人のひとつの特性というか国民性のような(これが他の面に利用されると怖い)ものを、私は感じてしまった。


これが野球やサッカーであることの日本のよさチームワークの賜物の、ひとつの閉塞感を破る明るいニュースであることを、素直に喜んでいるが、そうそう浮かれていられないほどの、世界の混迷カオスに関して、ここはひとつ冷静に私のような老人にも、分かりやすく今の世界の状況を冷静に分析し、府に落ちる形で伝えてくれる、人が現れることを私は望んでいる。

私のように生活に追われ、物事の本質を思考する訓練をせずに長年、この戦後のほとんどを生きてきて思うことは、努々戦前の教育体制と戦後の教育体制の相違を、しっかと把握しておかないと、危ないというに認識をかろうじてもっている。

もっと打てば、このような認識がなかったらとてもではないが万座に恥をさらす五十鈴川だよりなど打てるものではない。

と、ここまで打って思うのは、明らかに私自身が老化の渦中を生きていいて、その事をどこかで自覚しながらも、このままではあまりにも情けない日本人の一人として、生を閉じるのは、アカンと思うからである。フェイクの時代、SNSがさらに拍車をかける時代の奇妙さを生きているが、老人である私は、ほとんどデジタルSNSには手を出さないで、アナログ時代を、未だ生きている。

正直、今の世の中ウンザリしているし、なにも余計な情報など不要、だが老人なりにしっかと生きて生活出来ている。そのような生活を持続している友人諸賢も多数存在している。しっかと地に足をつけて思考生活を持続している友人知人と連帯したい。それが老人の希望である。

佐高信、前川喜平、両氏の対談は読みごたえがあった。とくに、80歳にして、歯にきぬきせず自分の考えを述べる佐高さん、前川喜平さんの弱者の視点を揺るがせにしない、生き方に打たれた。一気に読み終えたが、つくづく長いもの巻かれやすい時代の到来を、個人的に感じている。危ない。自分も含めて疑う、これが胆である。



2026-06-14

本の整理や処分をしなが身軽になり、捨てられない本から、今を生きる糧を頂く五十鈴川だより。

 どんよりとした曇り空の朝、静かである。書斎というほどではないが、乱雑に積みおかれた、入るのが億劫になる部屋の整理、私がこの世から消えたら、娘が困るような品物を順次ちびりちびり処分している。いまだ肉体労働もやり、五十鈴川だよりを打てるほどに元気な私なのだが、明らかに老いが忍び寄っているのは自覚している。だから、勇をこしてやっている。


蒙が開かれます

あまりの無知の自覚を、18歳で体感してからというもの、ようやっと私の人生は始まったのだと言うことを本棚を眺めていると分かる。これらの本のおかげで、何とか今現在まで生きてこられたのである。

そう思うと、簡単にはお別れができない。お別れしても良いものと、お別れできないものとの、区別整理を年内には終えたいという願望はあるが、そうは問屋がおろさないだろう。

話は変わる。古希を過ぎて老眼が進んでいるが、本を読むという楽しみには今のところ支障はない。老いても、最後の心の拠り所としての本を、大事にしなくては、と思いつつ整理を進めている。

整理していると、読んでいない本、再読したくなる本などが次々と顕れる。そうなるともういけない。遅読の私の時間はすぐに過ぎてゆく。でももういいのである。気分の赴くままに二つの部屋(寝室にも本棚がある)をいったり来たりして過ごすのが、このところの休日の楽しみなのである。


したがって、よほどのことがない限り休日、私は外出しなくなってきた。私なりの気持ちのよいよい老人生活の日々が送れている。(臆面もなく打ちます)お金や物、華美な欲望に足をすくわれない、目には見えない心地良さを見つけたいのである。自分がこれまで執着していたこと、やってきたことを、手放せるものは限りなく手ばなし、手放せないものを大事に、囲まれて生活したいのである。先ずは、数年前までは存在していなかった孫たちとの時間を最優先に生活したいのである。私の元気な時間は、有限である。そのような気持ちになったのは、先日の沖縄、桑江良健さんのあじくーたーの世界へ、旅をしたからである。それと、良寛の言葉に偶々触れ、短いのだが書写したことによる。私ごとき煩悩者には程遠い感覚とはいえ、生きている間に、少しでも自由と慈悲いう、奥深い人間としての最低倫理、哲理を一ミリでも学びたい、のである。PS  したの写真も上の写真も整理していて手にした本。赤坂真理さんの本は12年前の本ですが、素直な疑問が、こうまで戦後の不可解さをあぶり出すという意味で画期的な今も十分に読みごたえがあり、老人の私は教えられ学んでいる。石川九楊先生の本、書写をしたい私には必読の本である。 


した




2026-06-13

長周新聞沖縄支局の、Gさんとの出偶いで、沖縄の幾多の言語を絶する苦難の歴史を虚心に学びたい、今朝の五十鈴川だより。

 五十鈴川だよりが打てる朝が来た。日中は暑いが朝夕はまだ涼しいので、後期高齢労働者である私は、真夏、夜熱帯夜で睡眠がとれないのがいちばん辛い。が、今のところ眠れないことがない。ぐっすり眠れている。良く眠れない体ではまず働けないし、五十鈴川だよりも打てない。

下記に記します。ちょ

もうこの年齢になると、一日誰にも迷惑をかけず、身近かな手の届く範囲での生活を大事に生きたいとの念は強まるばかりである。

自分の力ではどうにもならない、例えばコロナで音読ができなくなったり、手術で弓が引けなくなったりして、執着打ち込んでいたことが叶わぬような状況になったとき、思えばあっさりと手放してきた。

これまでの人生で、アカン、もはやこれ以上続けても、よきことにはならないと直覚したら、私はあっさりと手放してきた。

61歳で中世夢が原を辞した際も、嘱託で65歳まで働けたのだが、往復の通勤時間、あらゆることを勘案し辞した。安定生活よりも、もっと違う生活を志向する自分がいたからである。

あれからもう13年の時が流れ、音読塾を閉じて6年が経つ、すべては光陰矢のごとしである。長くなるので簡潔に、事実のみを打つ。古希を過ぎて4年と4ヶ月、折々五十鈴川だよりを打っているので、この間私が何をしていたのかの記録は幾ばくか残っている。打ち込んでいたこを手放しても、次々と他力の力で今現在も、何かと新しい充実した日々が続いている。何よりも、この6年の間に、新しい命、三人の孫に恵まれ私の生活は一変した。

そして思う。無駄なことは何一つなく、昨日、今日、明日と連めんとながれ、宇宙空間を地球は公転自転する。だが死は遅かれ早かれやってくる。古希直前の手術でその事を体感した。手術のおかげで私はあれからずいぶん丁寧に(性格は直らないが)生活している。何よりも体をいたわるようになり、決して無理をしなくなった。

下記に記します。

死をオーバーではなく、絶えず身近に感じながら、自分にとっての気持ちのよい一日を心かけ生活している。

デジタル音痴、時代についてゆきたくもない、アナログじいさんだが、楽しんで生活をしている。少数だが五十鈴川だよりを読んでくださる方をはじめ、このような私をそっと見離さない奇特なご仁が私のまわりにはいてくださる。感謝しかない。

今、あらゆることを順次手離しながら、どうしても手離せない大切な存在(本も含む)とのこの世を、いかにいきるのか、活きないのか、と老いて尚ハムレットのように、世界が牢獄化(支配、被支配、貧富超二極化、あらゆる分断、孤絶化、AI化、 人間の良心の弱体化、思考停止か、などなど)してゆくかのように思える、いまを感じる。思考停止したくない。

何度も打っている。他人にされて嫌なことは、他人にもしない、それらいしか、私には大層な思想信条はない。爆撃される人間の側のあまりの悲惨に、想像も及ばないような鈍感な老人にだけはなりたくはない。

爆撃する側の世界観を暗黙のうちに(思考停止)支持してしまう人とだけはお近づきにはなれないし、なりたくはない。そのような私が、今年一月、長周新聞沖縄支局のGさんと出偶ってしまったのも、何か運命を感じる。

時折、岡山という地場を離れ、沖縄にもうでGさんを媒介にして、元気なうちにいろいろなことを学ばねば、という気持ちになる自分がまだいる。その方向にながれてゆきたい、私がいる。

PS  上の写真は私が心から尊敬する女性、昭和の大女優高峰秀子さんの夫であった松山善三さんについて、養女の斎藤明美さんが2012年12月に出された大切な本。もう14年前の本、何度読んでもジーンとなる私がいる。高峰秀子さんが書かれた(自伝、私の渡世日記)はあまりにも素晴らしい。何度も生きる勇気を今も頂いている。

下の写真は一月にお目にかかった際、Gさんから手渡されたた、41ページの小冊子です。私自身が直視するためにアップします。(平和の有り難さが沁みてきます)

2026-06-10

雨のなか、猪風来美術館のまわりの草刈りを、Kさんと共にやれたことの幸堪を五十鈴川だよりに打つ朝。

 いかにも梅雨らしい天気が続いていたが、今日は梅雨の晴れ間が拝めるらしい。さて、3日前の日曜日、猪風来美術館で午後トークイベントがあり、ゆく機会が限られているので共に働いているKさんと午前中雨のなか草刈りをした。春の野焼き以来のコンビでの草刈り。

まさか雨のなかでの草刈りをすることになろうとは思いもしなかった。そもそもそも、Kさんは晴れていたら(農家なので、麦の収穫)行けないとのことで、私も一人では危ないし、当初草刈りをする予定ではなかったのだが、予報では雨なので、Kさんが雨なら行って草刈りをしようと、彼の方から申したのである。

彼の方からの申し出に、私も一気に草刈りをやる気になった。まさか彼の方から、草刈りをやりましょうと言われるとは思いもしなかったので、一言でいえば感動したのである。斜面のきつい同じ場所を二人で刈ったのだが、この場所は一人では危険である。Kさんとでなければ私は決してやらない。

自然の神秘に打たれる。

Kさんとは、今私が働いているところで丸四年共に働いている。普段の付き合いはほとんどない。がこの四年、私の企画を含め、いろいろ煩雑な私の手では余る雑事の一切合切を、嫌な顔ひとつせず、引き受けてくださる、寡黙だが要所要所抜かりがない。時折キラリユーモアもある。得難い方である。

当日の二人の行動記録を五十鈴川だよりに打っておく。朝6時半Kさんが我が家に(彼の家から20分)、荷物を彼の車に積みこみ出発、2号線バイパスから岡山空港のほうに、吉備中央町から高梁を抜け(高梁で蕎麦屋の営業時間を確認)、法曽に9時前についた。雨の中、即草刈りに。二度めとはいえ雨なので、足元を確認しながら慎重に刈った。

とはいえ、春に一度刈った場所なので、想像したよりもさほど草、笹が伸びておらず順調に作業をすることができた。ほぼ一時間やると燃料がきれる。補充休憩する。その時、猪風来さんから、生まれて初めてモリ青ガエルの巣を教えて貰った。感動した。猛烈に孫のノアに見せてやりたくなった。

続いて第二ラウンド開始、二人でほぼ斜面を刈り終えることができた。濡れた衣類を全て着かえ、サッパリしてふたりで高梁の蕎麦屋でお昼(Kさんの言葉に甘え、運転をしない私はビールの中瓶を飲んだ。その美味しさは格別だった)をして、午後一時半からのトークイベントに参加、午後三時前猪風来美術館をあとにした。午後五時我が家に着いた。

春と先日、職場以外、猪風来美術館でKさんと共に草刈りをしようとは思いもしなかった。嬉しいという以外ない、想定外のサプライズである。歳を重ね、元気に動ける体の、有り難さはこればかりは歳を重ねたものでないと、実感としてはわからないであろう。その時間を普段週に二回、職場で共有し、仕事以外、何よりも猪風来美術館の斜面を二人して刈れたことの、雨の日の思い出は、水滴のようにきらきらと私の内面で輝く。

翌日月曜日、(Kさんは火曜日と木曜日、私は月、火、木、金)一人で働いていた。午後から雨が降ってきた。倉庫から離れた場所にいたので、そのまま一時間雨のなかで、このところはまっている草取り作業を続けた。二人での斜面草刈りを何度も思い出した。K氏と、この時代の片隅で、このような滅多にない人間草刈りを、共に気持ちよくやれた事の幸堪を(共にケガもせず)、五十鈴川だよりに打たずにはいられない。

そして思う、猪風来美術館の草刈りを、K氏と共にこれからもやれることを、私は願っている。そしてKさんと、一年でも長く共に体を動かし働き、草刈りが出来なくなるまでの時間を共有したいと願っている。


2026-06-06

梅雨入り、曇り空、6月最初の朝の五十鈴川だより。

 昨日午後、名護、屋我地に住む、桑江良健さんからお葉書が届いていた。じっくり何度も何度も読み返している。直筆の文字の、良健さんの文章を読んでいると、わずか3泊4日過ごした、屋我地の風景が忽然とよみがえり、未だに、出掛けて本当に良かったという思いが、老人の体を駆け巡る。

下記に記します。

台風の雨で休んだ日以外は働いていたので、6月最初の五十鈴川だよりである。もう今年も5ヶ月が過ぎたのだが、自分でも、充実した日々が送れていることの幸堪を、のうのうと綴る自分がいる。

沖縄から戻って来てすぐに、長周新聞への依頼された原稿を何とか書き上げ、Gさんに送ったのだが、お礼のメールをいただいた。また、あじくーたーの世界への旅、桑江純子さんから心のこもったメールを頂き、拙文を現すことができた喜びに寸暇ひたった。

充分に、縮んで来つつあるなあと思える、現在の我が体だが、辛うじてなんとか一文が紡ぎだされてくる。停滞すると我が体の水は流れない。桑江夫妻、猪風来ご夫妻に共通するのは、純粋性の極致といっても過言ではない。ひるがえっておのれはいかに。汝自身を知れ、とはなんと深く、哲学的言葉であることかと、いまさらながら駿巡する。

復讐するは我にある、という言葉が聖書のなかにある、ことを知ったのは還暦を過ぎの頃である。(間違っているかも知れない)、小説のタイトルにもなっている。いずれにせよ、ふかい、深い哲学的な全人類の叡知が、今もって思考を続けるテーマである。とてもではないが、私のようなノータリンには、畏れをなして近づきたくはないテーマである。

小さい花が部屋のあちらこちらに。

だからいつものように、話題を変える。またか、と思われても最近は厚顔なのでとんと気にしない。見開き四ページの、小さいが志の大きな長周新聞を愛読している。老人の私をかくも活性化させるのは何故なのか。それは自分のなかで何か訳のわからない、名状しがたい変化、変動が起きている、からである。それを言葉にするのは不可能である。だから、日々の生活の中で行動、実践し続ける、ということぐらいしか今はいえない。桑江さんを入口に、沖縄への旅を続けたい。

長周新聞は、精神のビタミンである。縮みゆく肉体を引きずりながらも、どっこい生きているおのれの肉体の今を、対象化、日々を刻む為の切り抜きが、最近の私の楽しみである。渾身の記事や、連載(太平洋の波間から、パプアニューギニアの原生林の伐採、日本企業の横暴、現地の人々の苦悩を伝えて余りある、詩人金子みすゞの下関、デジタル教科書の是非、などなど、読みごたえ充分である、)投書にもそのかたの人生が浮かび上がり、想像力がいたく刺激される。思わず、紙面を通じて、お近づきになりたい、と思わせるほどに。

ところで、先日私の体の定期検診に行ったのだが、身長が一センチ縮んでいた。あらためての老いを実感したが、縮んだものは仕方がない。数値化された我が体の一覧表をみる。手術退院後、この5年ほとんど変化なし。今日の体でいかにいきるか、がいちばん大切なのである。

PS 昨日夕刻切り抜いた記事の一部を読めないとおもいますがアップしました。切り抜いたがために切り抜けないものは、文字でかすかであれ文字で記録することにしました。平日はまず労働第一、休日は五十鈴川第一で、優先順位で一日をずごす。あっという間に一日が終ります。

2026-05-31

2月から長周新聞を購読して、今日で4ヶ月、大変有り難い新聞にめぐりあえました。

2月、74歳になったときから長周新聞を購読している。今年一月末、長崎で沖縄の宝とも言える、人形劇団かじまやぁの最後の公演チョンダラーを見にいった際、かじまやぁの大ファンである長周新聞沖縄支局の、Gさんも来られており、かじまやぁの桑江良健さんから紹介され、いきなりGさんから手渡されたのが、長周新聞との出会いである。

私は数十年にわたって購読していた大新聞を、数年前にやめていた。見開き四ページの、下関地方発の小さな新聞に、大きな志、本来のジャーナリズムの役割、本質を見極めて、分かりやすく報道する姿勢におどろいた。

長崎でGさんにお会いしなかったら、一生涯長周新聞の存在を知ることなく、我が人生を終えたかもしれない。Gさんの、今時このような人がいるのかと思えるほどに、真摯な物腰、語り口にやわな、私は、なにか微かにピーンとくるただならぬ意志、情熱を感じ購読を決めた。

野田秀樹さん本物の知識人演劇人である。

あれから4ヶ月、今では、長周新聞が週に3日届くのが楽しみである。新聞が届いたらざっと眼を通し、週末お休みの日に、じっくり読んでいる。その上、もう二度と新聞記事を切り抜くことはないと思っていたのだが、先日3ヶ月分の新聞の私の目にとまった記事や、書評、を切り抜いて妻にもらった不要の紙に糊で張り付けることも再開した。

切り抜き、紙に貼るのは手間がかかるが、眼も耳も疲れるテレビ他の映像は極力避けて、老いゆく体が喜ぶような、読み書きをはじめとする一人でやれることに重きを置いた生活を心かけているので、長周新聞切り抜き作業は、今をいきる楽しみのひとつになってきている。

また、最近私自身が驚いた記事やコラム、書評は時折、友人諸賢にスマホで、転送したりしてもしている。結果、思わぬ友人の反応に新たな関係性がうまれたりもしている。長周新聞を購読しなかったら、このようなアクションは決してしなかっただろう。

いきなり一面トップに、引き揚げ者の個人体験記が、ドーンと掲載されたりする、大新聞ではあり得ない編集のユニークさに驚く。地方発の小さな新聞だが、国際面も視野が広く、文化面も充実している。

11世紀のペルシャの詩人 オマル.ハイヤーム、のこと。ユネスコの文化遺産、[キュロスの円筒碑文]世界初の人権宣言のことも初めて知った。知る喜び、逆にあまりにもの悲しいガザに生きる女性の本の紹介、イラン、ミナブの子供たちのジェノサイド、、、。大きな大都市メディアが掘り下げて伝えないことを、意を決して伝えている。ホルムズ海峡冬景色、清水ミチコさんの替え歌動画も、狙撃欄のコラムで知った。

弱者の視点に軸足を置いて、理不尽、不条理な真実にペンで迫る。本質的に平和に全世界の人々が飢えず、争いを避け穏やかに生活、暮らす事を願う新聞なのだという事を、4ヶ月購読し私は感じる。志が普通で当たり前なのが嬉しい。絶望老人になるには早すぎる。東北、山形に住むOさんの投稿など、購読者の知的レベルの高さに蒙がひらかれ教えられる。学び、投稿者と連帯したい。

最後に、劇作家の野田秀樹さんが東京大学の入学式で述べた言葉、

[肉体を持つ人間は、必ずしも効率的に生きているようにはみえない。肉体はたくさんの不便をかかえている。それこそが人間の人間たるゆえんで、人は人を愛おしく思う。不便さの最たるものは、老いであり、究極は死だ。だが、AIには死はない。そこには人が感じるような身体を通しての、恐怖、絶望、達観はない。]と。

長周新聞、4月20日月曜日のAIにない心伴う脳味噌を、という記事の抜粋です。

2026-05-30

[あじくーたーの世界]への旅。

 沖縄の名護市済井出、屋我地に住んでいる桑江良健、純子さんご夫妻を訪ねて、3泊4日の旅をしてきた。ご夫妻の家から歩いて10分のところに、ハンセン病施設沖縄愛楽園がある。その施設にある愛楽園交流会館で、4月4日から5月31日まで、らい予防法廃止三十年企画、桑江良健の絵画と沖縄愛楽園の証言集.文芸作品❲あじくーたーの世界❳が開かれており、その企画展を見に出掛けたのである。

桑江良健、純子さん夫妻は、純子さんが始めた、かじまやぁ(風車という意味)という人形劇団を二人で運営、沖縄の民話をモチーフに物語を創り、人形(素晴らしい必見の価値あり)を創作、沖縄の離島、多くの島はもとより日本各地でも巡業活動を、お声かけがあれば出掛けて公演、その活動にに心血をそそいでこられた。純子さんは台湾の師匠、人間国宝の方に30歳を過ぎて弟子入りし、厳しい修行をへて指人形の全てを伝授された屈指の人である。

今年の一月末の長崎でのチョンダラー公演をもって、その長いかじまやぁの活動に終止符をうたれた。その歩みの真摯な生き方に心服する。良健さんは運転手兼、相方、裏方として純子さんの世界を支え、同志として活動を共にしてきた。良健さんは、空いた時間は全ての時間を絵の神にささげ、純子さんは人形の神さまに全てをささげて人生を歩んできた。支え、支え合う稀人夫婦である。

かじまやぁの活動を終え、現在良健さんは絵に専念、指が動く限り絵筆を持つと宣言している。純子さんは住居のなかの、かじまやぁ美術館(人形の神様が奉ってある)を運営し、来館者に対応しながら、傍ら良健さんのプロデューサーも兼ねている。かじまやぁ美術館、多くの方に訪れてほしい、と願わずにはいられない。

お二人とは、沖縄の森に住む妖精キジムナーの公演を岡山で引き受けたことがご縁の始まり、以来君子の淡い交友が30年以上続いている。長崎での最後の公演、念願のチョンダラーも見届けることができた。その際に、春、沖縄愛楽園でのおよそ2ヶ月にわたる企画展、あじくーたーの世界の事を知らされたのである。あじくーたー、という沖縄の言葉を初めて知った。

着いた翌日、開館と同時に愛楽園交流会館にでかけ、あじくーたーの世界の展示に見いった。入口に、純子さんが創ったまんたー婆さんの人形が在った。私のサト婆あちゃんを思い出した。50年にわたる創作絵画が交流会館の大きな部屋の壁に隙間なく展示されていた。ハンセン病の施設内の一室に良健さんの絵画の現時点での集大成が展示されていて、部屋の中央エリアには良健さんの新聞記事や批評、案内葉書など、これまでの歩みも展示されている。

その全てに目を通したが、改めてその歩みの壮絶さに打たれた。また、愛楽園入所者の証言集、文芸作品も置かれ、手にすることができる。このような絵画展、コラボレーションを思い立った良健さんの心の由来に、想像力が及び私は脱帽した。大きな作品、小さな作品が対照的に空間に展示されていて、会場の大きな絵のタイトルの随所にあじくーたー、とあった。

愛楽園交流会館は施設の一番奥、入口からゆうに500メートルくらいのところに在った。交流会館から数十メートル歩くと珊瑚礁のビーチに接していて、梅雨の晴れ間の初夏の陽光が降り注ぎ、誰もいないそのビーチの美しさ、対岸の景観の素晴らしさに驚いてしまった。もし愛楽園であじくーたー世界がおこなわれなかったら、一生みることは叶わなかったであろう景観を私はみることができた。年齢を忘れて、海に入りたいと思ったほどである。愛楽園の敷地は、ゆっくり歩いて一回り散策するだけでも一時間近くはかかるほどの広さがあり、岡山の私が住む環境とは別世界であった。

不思議な安らぎを覚えたのは私が高齢者であったからかもしれない。鳥がいる以外、静けさが施設の敷地内をおおっていた。そこかしこにハイビスカスをはじめとする南の国の植物、樹木、花が咲き乱れ、香りが敷地に漂っていて浄土を思わせた。

お腹が空いたので、交流会館のスタッフの方にお昼を食べるところがあるか訊いたところ、職員のかたをはじめ誰でも利用できる食堂を教えてもらった。結局、私は愛楽園に3日間、ほぼ半日以上通いつめることになり、お昼を三回この食堂ですませ、美味しいザクロのジュースを飲んだ。あじくーたーの世界、会場の入口にたくさんの書籍を閲覧するスペースがあり、ほとんど見たこともないような本、沖縄の歴史やハンセン病の歴史、写真集があったので、3日連続ほとんどの時間を宿と交流会館を往復、愛楽園の敷地内で過ごした。無知を知らされた。

今回のあじくーたーへの旅は、長周新聞沖縄支局のGさんとも有意義な再会が叶った。長崎でのチョンダラー公演で、良健さんに紹介していただき、知己を得て、その場で長周新聞を手渡され、即購読を決めた。桑江ご夫妻からGさんご夫妻が私に会いに来てくださることを聞き、とても楽しみにしていた。2日目の夜宿でGさんと再会、お話でき話が転び、ラインのやりとりを私が望んだ。一文を寄せる約束をした。

あじくーたー、日本語にそのニュアンスを翻訳するのは不可能に近い。沖縄の友人に、桑江良健、純子さん、新たにGさんご夫妻が加わったことで、あじくーたー未知の沖縄世界の扉が拓かれ、その事が今いちばん私は嬉しい。




2026-05-28

岡山に帰る日の朝、寸暇愛楽園の交流館の二階の図書閲覧ルームで打つ、五十鈴川だより。

 午前中3日連続愛楽園にきている。午後四時半までに那覇に戻るまで、午前中は愛楽園でぼーっと過ごすことにした。


昨日の続きを記録しておく。2日連続愛楽園の食堂でしょうが焼き定食とザクロのジュースを飲み、昼食を済ませて、そこから車で40分くらいの所にある、百安司墓(あんの字には手偏がつく)を訪ねる。純子さんに一ヵ所お墓にお参りしたいとお願いしたら、近くのここを薦めてくれたのである。

また後日、お墓の写真をアップするつもりだが、迷路のような場所に遺骨を納めたお墓があり、もう一度行けといわれても、年齢的に無理だと思うので、行くことができたこと、の有り難さを五十鈴川だよりにきちんと打っておく。

帰り道、畑の細道で迷って、途方にくれていたら、たまたま親切な女性が、おおきな道まで先導してくださり無事に午後3時でんハウスに帰れた。こういうまさに一期一会の無名のかたのご親切に、何故か私は救われる。今回もまた。

大きな道に出て、左右に別れる際の、そのかたの笑顔。沖縄の方の親切が染みた。

純子さんが創られたまんたーお婆さん

でんハウスでシャワーを浴び少し休んで、再び愛楽園で閉館前まですごして、午後5時桑江さんの家に。最後の夜、ご夫妻が私を名護市内にある居酒屋チョンダラーで、又もやおもてなししてくださった。

家から名護市内まで車で30分、良健さんが運転してくれた。したがって良健さんはお酒を飲まず、もっぱら私が酔いにまかせてしゃべった。(お二人とも根気よく駄弁を聞いてくださったこと、この場で感謝します)

私は旅が好きな移動人間である。が良健大人(たいじん)の旅は次元が異なる。良健さんの旅は、まさに地を這う筆舌に尽くしがたい移動の旅である。その時間のなかで独自の色彩空間絵画を創造された。

その成果、なのだとしかおもえない画業の達成、展覧会である。絵のことは私には分からない。ただひとつ分かるのは沖縄に生を受けた良健さんの全人生がこれでもかというくらい詰まっている、としかいえない。

その迷宮のような謎にひかれて、これからも元気な間、桑江ご夫妻に会いに私は会いに行くのは間違いない。そのようなお二人に可愛がられて、私は幸福である。

あじくーたーの世界、その会場の入り口で五十鈴川だよりを打つなんて思いもしなかった。


2026-05-27

沖縄愛楽園の交流館で寸暇打つ、記録スケッチ五十鈴川だより。

 25日午後3時に那覇から、軽のレンタカーで名護市済井出屋我地に住む桑江ご夫妻の家に無事に着き、隣接するでんハウス(2DKのゆったり空間)にチェックインした。桑江ご夫妻の家でお茶をいただき、少しでんハウスで休んで、5時半から純子さん手づくりのおもてなしのお料理(里芋、海藻の寒天、豚の内蔵が三種類入った具だくさんスープ、ゴーヤチャンプルーなど)をいただきながら歓談した。

愛楽園は浄土を思わせる地にある。

人形の神様が奉られ、多種類の人形、良健さんの絵に囲まれて、楽しく歓談のひとときが途切れず流れた。お酒も美味しく、私は幸福を堪能した。

お料理に心がこもっていて、全てを完食した。純子さんは一月末長崎でお会いしたときより、お元気そうで安堵した。

夜10自前、おもてなしの宴を終え、梅雨の小雨のなか良健さんが小さな懐中電灯ででんハウスまで道案内してくれた。暗いなかにハブを避けるため、短い距離なのに足元を照らしてくれたのである。

翌日昨日はゆっくり起きてシャワーを浴び、うって変わっての快晴を確認、一気に気分がよくなり、でんハウスは自炊生活が出来るので、純子さんにもらった、コーヒーを淹れ飲んでから、やく10分このところにあるコンビニまでドライブをかねて買い物、パン、バナナ、プリン、トマト、ハイボールなどを買って、戻って二杯目のコーヒーを淹れ朝食をゆったりすませた。

食後、すぐに車で3分の愛楽園の交流館まで行き、らい予防30周年記念、あじくーたーの世界(桑江良健の絵画と沖縄愛楽園の証言集、文芸作品)を見る。愛楽園入所者のかたがたとの、この地、場所でのコラボレーション。来て良かった、一言凄い。見終えて、愛楽園の敷地を散歩する。いきなり海に出る。その遠浅の砂浜と海水の美しさに感動し写真をとる。

なんと愛楽園には食堂があり、そこで黒酢ジュースをのみ(130円の安さでこれが喉にしみた)昼食にトンカツライス、サラダお味噌汁付きを食べた。700円安くて上手くて大満足した。はんせん病施設愛楽園の上に梅雨の晴れ間の陽光が降り注ぎ、さわやかなお天気のもと、私は施設内を、観光気分で散策した。散策しながら何度も来て良かったと思った。

私をおもてなししてくれたお部屋の絵の雰囲気

午後一時半でんハウスに戻り少しお昼寝をして、午後3時すぎ再び愛楽園交流館にへ。行くと良健さんがいて、今回の企画展示を共に進めたS女史を紹介され、ご挨拶ししばし3人で立ち話時間が持て、話していると、長周新聞沖縄支局のGさんご夫妻がこられた。

(長崎でお会いして、一月末以来の再会。あのときの出会い無くば、長周新聞を購読することも、愛楽園に来ることもひょっとしたらなかったかも知れない)

午後5時閉館、でんハウスに移動。昨夜Gさんご夫妻は2階、私は3階。午後5時半過ぎから、桑江ご夫妻、Gご夫妻と私の5人で2階のリビングルームに集合し、Gさんが持参した奥様の手作りのお庭で採れた野菜の和え物、トマトサラダ、ちじみ、ソーメンの炒めもの、お寿司、数種類のお酒での賑やかな高齢者の宴がなんと夜中まで続いたことを五十鈴川だよりに記しておく。今日もい天気がいい。打っていると良健さんが団体27人と共にやってきた。お昼になったので、中断、続きは時間を見つけて明日またうつことにずる。


2026-05-25

桑江良健、純子さんに会いにゆく、出発の朝に思う五十鈴川だより。

 目が覚めたので起きた。沖縄へ出発するまで少し時間がある。妻は休んでいるので猫のように電気をつけず、暗いなか忍び足で台所におりて小さな電気をつけコーヒーを淹れた。

今は夜明けが早いのですぐに明るくなるが、冬は私が起きても暗い時間が長い。若い頃は暗い時間が怖く、苦手だったが、歳を重ねると共に、暗い時間への苦手意識が減ってきた。もっと言えば、闇を大切な時間だと感じるようになってきた。なんといっても泣く子も黙る真っ暗闇は静かである。

非戦争それだけである。

ものを想う、考えるには私にはよい時間なのである。私にとって、寝る前の体と、充分に寝て起きた体は、別の体のようにおもえる。だからよしなしごとが臆面もなく打てるのである。

もう十分に老人の私は、電気もつけずに暗い家の中を歩くのに、細心の注意でもって歩く、言わば闇の中を目に頼らず、爪先に意識を集中し手すりを掴み、一歩一歩二階から台所まであるく。訓練である。

老人になって危ないのは転倒だとこころえるからだ。転ばぬ先の杖、積み重ね、心かけ次第で、この年齢でも体は日々変化する。下り坂の変化を、可能なら前向きに、と考えて安易に電気の明るさに、頼らない面白さを見つけたい、のだ。

話はかわる。4ヶ月ぶりに桑江良健、純子さんに会えるのが嬉しい。未だわくわくする。私とはまったくといってもいいくらい、異なる人生時間を歩まれたご夫妻と出会うことができて、30年、感無量のおもいである。

ご夫妻は私がやって来るのを楽しみにしておられる。もうただそれだけで嬉しい私である。何故にこういう感情が湧くのか自分でもわからない。めったにはあえずとも、絶えず心の中では話しをしているかのような関係性を、一方的に私は良健さんに感じる。

それは日本人である私が抱く、沖縄の心という日本人とは異なるアイデンティティーを、その素晴らしさを、感じるからである。そのような人に出会えなくば、きっと私は物事を、真剣に考えると言うことを、まったくしないままに、沖縄の地を踏む、その他多くの日本人の一人に過ぎずに人生をおえたかもしれない。

そのような事を想うとき、今更ながら、今回桑江良健、純子さん、そしてGさんご夫妻に会えるのが楽しみなのである。沖縄の地の歴史に、謙虚に耳を傾ける。元気な間は沖縄に詣で、現地で物事を思考したい、 のである。

2026-05-24

昨日書斎の整理、処分をしていたら初めてのインドへの旅行記が出てきた、そして想う今朝の五十鈴川だより。

 午前中町内の溝掃除がある。時間まで打つ。昨日、普段は入らない書斎の本の整理、処分(手紙、写真、チラシポスター、アンケートなども)をお昼まで、書斎にとじ込もって進めた。この整理処分は、意を決して今年から始めたのだが、なかなか捗らないのだが、それでもかなり進んでいる。

10ページ綴られている。

自分でも部屋に入る気がしないほど、放置されていた部屋である。思いきれたのかは、いまやらなければ出来なくなるからである。思いでは心に遺し、忘れるものは忘れ、そうでもしないと、想い出に耽る自分でも嫌な老人になる。過去とは思い切って決別(そうはとんやがおろせないのだが)する。ギリギリまで身軽になりたいのである。

まあ、そのような気持ちなのだが、これまでの歩みの整理処分は、その年代、その年代の取り組み、試行錯誤の上に現在の自分が在るのだということを、あらためて思い知らされる。

ガラスの扉のある本棚から1997年、1月20日(月曜)から30日(木曜)まで10日間、東インドのカルカッタ(今のコルカタ)から西インドのアメダバードを旅した、旅日記が出てきた。

もし、整理処分をしなかったら、書棚の奥で眠り続けていたであろうこの旅日記を、再び手にすることはなかったかも知れない。そのようなことを思うとき、あらためて思い切って処分を始めて良かったと、心からいま思っている。そして書いておいてよかった、と。

この始めてのインドへの旅、カルカッタまで、今も交友が持続している瀬政さんが同行している。瀬政さんとはカルカッタで別れ(先に氏は帰国した)私は、ガンジス川、聖地ベナレスまで汽車で一晩かけて行き詣で、そこから飛行機でアメダバードに向かった、のである。

45歳、29年前の旅行記録である。やはり書いておいてよかったと、今更ながら思う。単なる自己満足であれ、自分自身が一番一番嬉しい。45歳の時の見聞、感動が新鮮に綴られている。今日瀬政さんに、この旅行記を見つけたことを、知らせようとおもう。

妻丹精の薔薇🌹(8種類が春を彩る)

話は変わる。昨日、明日から3泊4日桑江良健夫妻を訪ねる旅に行くことは触れた。一月末、長崎でのチョンダラー、お二人の最後の人形劇公演の裏方で参加して以来の再会である。おおよそ4ヶ月ぶりの再会となる。その際の出来事の感動は五十鈴川だよりに縷々綴っている。

綴り打った五十鈴川だよりは、打ち始めて、初めて200以上のかたが五十鈴川だよりを読んでくださった。如何に桑江良健、純子さんのファンが全国におられるかということを私に知らしめた。

また、桑江さんご夫妻の熱烈なファンであられるGさんご夫妻とも長崎でお会いし、Gさんが長周新聞沖縄支局で働いておられるご縁で、長周新聞を購読している、のだ。

そんなこんな、わずか4日の旅なれど、インドへの旅のように、五十鈴川だよりで桑江良健夫妻を訪ねる旅を綴り打ちたいと願う、老人の私がいる。老いてみて初めて覚る下り坂、の喜び。交友歴30年の結びの縁、旅日記が打てれば、との思いがいちだんど湧くのは、インドへの旅行記のせいである。

徒然なるままに、その日暮らし的五十鈴川老人日記に変貌流れてゆきたいのである。そして後は野となれ、山となれ、灰になって五十鈴川から日向灘へと流れ、宇宙に帰依したい、私である。  



2026-05-23

5月23日に打つ、死に向かいあう覚悟が、芽生えつつある今朝の五十鈴川だより。

 いつにもまして早く目が覚め、もう一寝入りしようかと思ったが、仕事はお休みなので起きて、朝湯を浴び、気分が上向いたので、ちょっと五十鈴川だよりという訳である。そばには淹れたばかりのコーヒーがある。

ただ、ボーッと、タブレットの画面を眺め、コーヒーをのみ、夜明け前の、この一時が堪らなく好きである。いまだ暗い静寂の一時、よしなし事が浮かんでくる。まだ生きている、のだなあ、何てことを暢気におもえる気儘さを、老人の私はこよなく愛す。夜が明けてきた。(ボーッとしていると、ただ時が流れる)

ところで、私には絶対矛盾、不真面目な自分と真面目な自分が不足不離で同居している。時折、出口の見えない世界の混沌、不条理の情報にウンザリし、精神の加減、バランスを失いそうになる。

下記に記します

五十鈴川だよりを打たなかったら、と思うとゾッとする。還暦を過ぎ61歳から、いまに至る74歳まで、五十鈴川だよりを打ち続けて(週に1、2回にせよ)きたからこそ、今も生きられているという自覚がある。

前回何を打ったのかなあ、と読み返すくらいで、昔の五十鈴川だよりを読み返すことを私は全くしていない。

それよりも今を、今日をいかにその日暮らしするか、にしか頭が働かない。赤ちゃんの日々が目まぐるしく変化してゆくように、老いゆく晩年時間もまた、一年前とは明らかに異なる、目には見えない変化が忍びよっているのを、とくに今年は感じている。

だからといって、その事をマイナスには捉えていない。当たり前なのだと、至極当然に受けとめている。

もっと言えば誤解されてもいいが、そういった心境に至れた自分をどこか、ことほいでもいる。今現在もなお日々肉体労働がやれる幸福は、老いたればこその功徳と言うほかない。

何度も打っていると思うが、老いは病気ではない。加齢をいかに受け入れ、過ごしてゆくのか、いかないのかに、各々のこれまでの人生の、言わば蓄積が露呈、顕現化するのだと、考えている。だからこそ、一日一日の積み重ねが大事なのである。世の中に出て66年、古希を過ぎて、ようやくこれまでの歩みの上に今がある。

話を変える。明後日から桑江良健、純子さん夫妻を訪ねる。良健さんの画業の回顧展にゆくのである。良健さんは私より4歳年上である。インターネットもしないし、スマホも持っていない。先日もお葉書を頂いた。最後まで絵を描くと文字にあった。全人生の全てを絵を描くことに費やし、捧げて来られた。奇しくも猪風来さんも4歳年上である。猪風来さんもスマホを持っていない。猪風来さんも縄文一途、一筋である。

ながくなるのではしょるが、現世で、時代を超越してあまりある作品群を産み出し続けている、この両名に出会えた(ご夫妻に)ことの在りがたさは筆舌に尽くし難い。その事を一行五十鈴川だより記しておきたい。(孫たちに伝えておきたい)

このような悠久の歴史的時間を見据えた、手仕事、創作者、芸術家、強者(つわもの)二人は、愚者の私にエネルギーを降り注ぐ。草とりしながら、体動かし考え、老いの企画を夢見る。(よしんば企画がならずとも、希望を内にもつ気骨を、お二人から学びたい、何か産まれそうな予感がする)

PS 今日の写真は小堀鴎一郎先生のご本です。先生の本を手にするのは二冊めです。先生は1938年のお生まれなので、私よりも14歳年上である。本の副題、訪問診療医がみた709人の生老病死、とあります。養老孟司先生との対談で、小堀先生のことを知りました。沖縄への桑江良健、純子さんを訪ねる旅に持参することにしました。ちなみに先生は、文豪森鴎外のお孫さんです。

2026-05-20

5月中旬でこの紫外線を伴う気温に思う、今朝の五十鈴川だより。

 旅を含め、外の空気に触れるのが好きなのは、ほぼ10歳くらいまで、天然の空間と場所のなかだけでで成長したからである。ということがよく府に落ちる。道が舗装される以前、まだ手で田植えをしていた、あの幼少期の原風景、原体験の記憶の大きさを老いゆくにしたがって痛感する。

したがって最近の私は、記憶の中の(あまりにも急激に変わった、世の中に体が置いてきぼりをくっている)珠玉の想いでを繰り返し反芻することで、エネルギーをいただきながら、今を生きていると言っても過言ではない。私の娘たち夫婦は大都会に暮らしているが、私には無理である。

私の部屋で自由自在に過ごす花

40歳で中世夢が原に職を得たとき、あらためてそのことが身に染みて染みてよく分かった。

都会でモヤシのように、ほとんど死んでいたかのような我が体は、夢が原でまるで水を得た魚のように息を回復し、あらゆる体を動かす四季の労働のお陰でミルミル元気を取り戻していったのである。

以来、今も基本老いた体を天地に解き放ち、四季、季節の変化に耳を澄ませ、折々の変化に寄り添う暮らしを続けている。

だが、古希を過ぎてのこの四年間の夏の暑さは言葉もない、尋常ではない。5月中旬、すでに真夏を思わせる日差しが、この数日私の体に降り注いでいる。このような熱波が今後数ヶ月以上続いたら、わが体はいったい全体どのようになるのか、いささかの不安をもつ。

体は自然そのもの、直結しているので、気候変動の影響をもろに受ける。我が体を通して思うことは、養老先生が一貫して憂えておられるように、人類の行き過ぎた、都市化便利快適至上生活のつけが、気候変動に影響を及ぼしていると、私は感じる。

自然が駄目になるというのは、自然の一部である人類そのものが、駄目煮なってゆくのは道理である。気づかないうちに快適便利さのスパイラルから逃れられないような構造、仕組みのなかで、私を含めた都市型ライフスタイルを享受しているひとたちに、自然が警告を発している、と私は受けとめている。

ではどうしたらいいのか、個人的に各々が考えて生活、行動するしかない。大きなスパイラルの渦には出来るだけ近づかず、シンプルな生活を心かけるくらいしかないのだが、クーラーによる冷暖房を私はよほどのことがないかぎり使用しない。木陰をわたる自然の風のきもちよさは例えようもない。

ギリギリまで耐える(やせ我慢を面白がる)生活を心がけている、といったらカッコつけすぎか。人は人、自分は自分の体調を見極めながら、人工的なものに頼らず、自分の体で考えて、自分の体が気持ちよくなる熱中症対策を、古希以後続けている。

だが、年々からだは下り坂なので、自分なりの対策を、と今年はいつにもまして考えている。基本は毎度のことだが、一日一日やり過ごす。栄養、水分、そしてよく寝る。昼寝をする。頻繁に水を浴びる。などなどでこの5年凌いできたが、来年はいよいよ後期高齢者になるので、なんとか無事にこの夏を乗りきりたい、とまあ、酷暑がやって来る前に思案している。


なるようにしかならない、とはいえこの熱波対策、私には死活問題なので、努々考え過ぎるくらいの対策で持って乗り切る覚悟なのである。

酷暑をしのいだ、我が体を慈しみながら、オーバーではなくギリギリのアウトドア労働が出来るか、できないか、そのような思いなのである。

今のところ、五十鈴川だよりを打てる。打つことが出来なくなるその日まで、アウトドア労働者で在りたい、と思う。

PS 上の写真は白血病のキャリアを持ちながら10年以上生きている猫の花。老いては猫と共に。まったく自由自在にただ存在している。余分な欲望がない。あやかりたい。

下の写真は千住真理子さんのCD。本当に久しぶりにCDを買い(生で音楽を聴く以外、家ではユーチューブもほとんど見ない、聴かない)時折家で、休日の朝聴いている。従って今も聴きながら打っている。この方の演奏だけは体が許す限り聴きたい。

CDの下に映っている雑誌は、1979年から1987年まで8年間発行された、広告批評大全である。先日書棚の奥から出てきた。ずいぶん若いときに影響を受けた方々の発言や文章が掲載されている。淀川長治さん、山田太一さん、谷川俊太郎さん、橋本治さん、永六輔さん、久米宏さん、はお亡くなりになったが、ほかの方々は、タモリはじめ今も現役で都会に居住ししぶとく活躍している。貴重極まる、まさにあの時代を彷彿とさせる記録である。想いでののなかの私の昭和。

私は都落ちし生き返り、お陰さまでいまも生きている。あの時代の渦から逸脱出来たのは、ひとえにふるさとの大自然のお陰である。


2026-05-17

数年ぶり、長周新聞の記事を一日費やして切り抜いた翌朝の朝に思う、五十鈴川だより。

 よもやまさか、この年齢で新聞記事を切り抜くことを再開しようとは思わなかった。何故再び切り抜くことを始めたのかをくどくどと打つことは控えるが、自分の心がざわついたり、知らなかったことを教えられたりしたことを、読み流すのではなく、個人的記録として、遺したい、と考えたからである。

瀬政さんから送られてきました

長周新聞は月曜、水曜、金曜週に3日郵送されてくる。すでに3ヶ月半、40部以上新聞が届いている。そのうちの30部、昨日夕刻までかけて、妻にもらった不要な紙に切り抜いた記事を糊で張り付けた。その数30(表と裏に)となった。残り10部も今日中にやるつもりである。

わずか四ページの紙面の、一面二ページはそのまま残し、残り二ページの主に文化欄の、私が読みたい本などの、紹介記事など、心が動いた記事を主に切り抜きはりつけたのだが、目処がついた今朝思うことは、思いきって切り抜きを始めてよかった、ただそれだけである。

大新聞を手放した後、このまま長周新聞に出会わず、ずるずる老いゆく時間を自分の好きなことにのみ費やしていたら、視野狭窄の、片寄った思考に陥っていたかも、と改めてかんじいっている。切り抜くとき、嫌でもじっくりと文字を追う。(集中力持続時間が老いと共に弱くなる、全く肉体労働も同じである)

一度眼にした記事を再び読む。これが大事だと改めて知る。老い往く体と脳に刺激が伝わる。その気持ちよさが在るから出来る。日本に限らず、世界の無数の民、見知らぬどなたかと対話、繋がっているかのような安堵感を覚えるのである。


地に足を付け、踏ん張り、普段の私の生活圏では聞くことのでできない、話をすることが不可能な人たちと紙面を通じて、言わば繋がる共有感覚が生まれ、そのことが私に切り抜きのエネルギーを与える。

話は変わるが、長周新聞のコラムで芸人の清水ミチコさんが津軽海峡冬景色の替え歌動画、ホルムズ海峡冬景色のことを知った。直ぐに妻に話したら(私は世ほどのことがないかぎりユーチューブほかの動画サイトは極力避けている、簡単に見れるものは簡単に忘れるからだ)すぐにつまがアップしてくれた。

そのことを十数人の友人に伝えたら、Kさんがすぐに動画を送ってくれたので、その動画をすかさず友人にまたもや転送(それくらいは私も出来る)したところ、5名の方からリスポンスをもらった。どっこい皆反応がいい。そのような関係性の友の不在はあまりにも切ない。(バーチャルの良さも最近とみに感じている)

全然無反応なかたもいるが、それはそれで良いのである。ただ私は共有感覚、ものの見方、世界への問題意識、世界の痛みへの想像力を見失わない営為を、ささやかであれ続ける人たちと連帯したい。それだけである。

とまあ、今朝はこのような五十鈴川だよりになった。




PS 上の写真は盟友瀬政さんから送られてきた。山陽新聞を購読していないので知らなかった。だが伝えてくれる友人がいる、その事が一番大事なのである。本音で語り合える、バーチャルであれリアルであれ、深みのある関係性の(滅多に会えなくても)友、ここぞと言うときに会いたくなる人をこそ、ますます大切にこれから人生を歩みたい。下の写真は、つまりこのように切り抜いたのです。

2026-05-16

長周新聞購読で、無数の民の今を生きる声に耳を澄ます、今朝の五十鈴川だより。

 一月末、桑江純子さん、良健さんの主宰する、人形劇かじまやあの最後の公演にスタッフとして参加した際、Gさんという方と出会い、そのご縁で長周新聞(沖縄支局で働いておられる)を購読し、3ヶ月半になる。


わずか四ページ、良心的なわずかな広告と購読者のみによって支えられている新聞である。コンパクト読みやすい。老人の私を活性化する記事で紙面が埋められている。購読料も安く、年金と肉体労働で、好奇心を失わず、なるべく気持ちの上向く生活を心かけている私にとって、いまや欠かせない、ビタミン新聞となっている。

よくぞ書いてくださった、という一般市民の(知的レベルの高さに驚かされる)投稿や、レアアースとい鉱物に関する連載ほか、世の中に出て、50年以上朝日をはじめとする大新聞しか購読していなかった私には、週末まとめて、新聞を読むのが、いわば私の老人生活の楽しみとなっている。

いわば大新聞を手放したら、小さいけれども、良心と志の高い地方発の新聞に出会った、その幸運を記さずにはいられない、今朝の五十鈴川だよりである。思えば我が人生、手放すと新しい出会いがまっている、とでも言うしかない幸運に支えられて、今も生きている。

執着しない、ギリギリまで事を進め、頃合いを見て諦め、次なる道を歩んできた。そのことに全く悔いはない。私の場合、人生は選択と決断、判断の繰り返しである。今現在もそのような本能的感覚優先でその日暮らし老人生活をしている。


カッコつければ、演劇のレッスンで教わった、虚実皮膜の間を(いい加減)生きる方法を未だに実践し、多くの偉大な先人たちが歩んできた、大きな渦の外にいて、少数者の側からの視点を揺るがせにしないということである。

其のような歩みの結果、つくづく有り難いのは、その都度擬態というか、変身生活、脱皮しながら一貫しての我が歩みに共感してくださる方たちが、存在していることである。利害関係がない。我が交友関係性はお互いが、時代のなかで、その都度の年齢を移ろいゆきながらも、移ろわない思考を持続している方たちとだけ交友が続いている。

その筆頭桑江さんご夫婦とのご縁無くば、長周新聞にも出会わなかっただろう。老いと共に出会いは減ってゆくのは道理だが、一回こっきりの人生で繰り返し、問題意識を共有する、思考錯誤、日々生きなおす友人(数は少なくとも)を持てていることに対する、感謝、幸福感は例えようもない。

話を戻す。そのような関係性を持続するのはやぶさかではないが、よしんば関係性が間遠くなっても、それはそれで良いのである。人それぞれの生きる場所は異なり、皆それぞれの日々を必死で生きているのは当たり前だからである。私は私の体を運ぶだけである。

PS  今朝の写真は一番新しい5月13日の長周新聞の一面、上下です。読みにくいのは承知でアップします。このところ、近しく感じている友人面々にラインで(ほんの少しですが)私の体に届いた記事ほかを、転送している。反応に人間味、人間性が垣間見えます。嬉しい意外な一面が。

五十鈴川だよりを打てる間は、大都市に本拠を置く、大メディアではなく、地方発、もっといえば、世界の果たて、辺境の地から中村哲先生のように、たった一人で発信しつづけた人の声に耳を傾け対と私は思う。








2026-05-13

朝一番、10日に植えたさつま芋の水やりに行ってきた後に打つ、今朝の五十鈴川だより。

 5月の朝の気持ち良さは格別である。夜は加齢に従い、エネルギーが切れるが、一晩ぐっすり眠れば、さあ今日も体を動かすエネルギーが充たされていて、別の体になっている。10日に植えた(30本の苗を)ばかりのさつま芋に水やりに行ってきて、今度は自分の体に水をやるように五十鈴川だより、というわけである。


ところで、先日図書館でたまたま、ボクは日本一かっこいいトイレ清掃員、という本を読んで感動した。その内容については割愛する。読みにくい本、読みやすい本、種々あれど、本を読まない生活はまず私にはあり得ない。(読書の枠を取っ払い自由自在にてにする)、基本、今を生きる私にとって栄養になる本をよむ。

古稀以前の読書とはずいぶん手にする本が違ってきている。かなり片寄った本を読んできた反省から今まで手にしてこなかった、例えば料理に関する本なども。

何度か打っているが、記憶の幼少気期の我が家には、子供が手にする類いの本、絵本など皆無であった。

我が姉兄弟は、全員保育園も幼稚園もいっていない。その当時の門川ではそれが普通であったのである。調べてはいないが、保育園や幼稚園に通えるのは、経済的にゆたかな家庭の子供に限られていた、と思う。小学校に入学し、いきなりわんさかの同世代男女と出会った時の驚きは、まさに衝撃的であった。

話を戻す。そのような私が、原体験をどのように克服し、今では活字中毒(心身をゆたかにする)、と言える人間になってしまったのかを記すのは長くなるが、少し記すと、本を読むことで、想像力がうんと刺激されたからだとおもう。知的刺激の面白さ、本を読まなかったら、翻訳のシェイクスピアをよむこともなく、英国に遊学することも、アフリカ、インド、アジアを旅することも無かった。(想像力と感動力だけが我が取り柄である。)

青春期から持続的に本を読み続けてきたお陰だとおもうが、中世夢が原に職を得、企画をするようになって、生まれて初めて原稿の依頼をうけたのだが、自然と一文が成せたのも、本を読んできたからだと思う。読み書き語る。

この3つでかろうじて、この基本が有って、そのお陰で我が体もだんだん丈夫になり、いまもこうして動けているのだと自己認識している。読書はだから我が体の根幹を司どっているのだ。

妻丹精のキングローズが咲き始めました

再び話を戻す。感動した、ボクは日本一かっこいいトイレ清掃員は、岩波ジュニア新書である。以前だったら図書館でも素通りしていたかも知れない。孫たちのお陰で、絵本、子供の本のコーナーにゆく頻度が増え、そのことが私の読書に新たな彩りを、豊かさを与えてくれている。

幼少季、(教科書が読書だった、多分それだけはよく読んだのだ)手にすることがなかった、定番の本例えば、赤毛のアンなどの本も孫が読む前に、自分でもにわかに読みたくなっている。そんなこんな、未だ生活しながらなので、ようよう読書時間も限られてくるのだが、ジュニア版なら難なく読めるのが有り難い。絵本も目が疲れず(とても眼にやさしい)

老いてからいよいよ、大きな文字で内容のある、古くならない、珠玉の古今東西の物語を読める幸福を最近とみに感じている。