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2026-05-25

桑江良健、純子さんに会いにゆく、出発の朝に思う五十鈴川だより。

 目が覚めたので起きた。沖縄へ出発するまで少し時間がある。妻は休んでいるので猫のように電気をつけず、暗いなか忍び足で台所におりて小さな電気をつけコーヒーを淹れた。

今は夜明けが早いのですぐに明るくなるが、冬は私が起きても暗い時間が長い。若い頃は暗い時間が怖く、苦手だったが、歳を重ねると共に、暗い時間への苦手意識が減ってきた。もっと言えば、闇を大切な時間だと感じるようになってきた。なんといっても泣く子も黙る真っ暗闇は静かである。

非戦争それだけである。

ものを想う、考えるには私にはよい時間なのである。私にとって、寝る前の体と、充分に寝て起きた体は、別の体のようにおもえる。だからよしなしごとが臆面もなく打てるのである。

もう十分に老人の私は、電気もつけずに暗い家の中を歩くのに、細心の注意でもって歩く、言わば闇の中を目に頼らず、爪先に意識を集中し手すりを掴み、一歩一歩二階から台所まであるく。訓練である。

老人になって危ないのは転倒だとこころえるからだ。転ばぬ先の杖、積み重ね、心かけ次第で、この年齢でも体は日々変化する。下り坂の変化を、可能なら前向きに、と考えて安易に電気の明るさに、頼らない面白さを見つけたい、のだ。

話はかわる。4ヶ月ぶりに桑江良健、純子さんに会えるのが嬉しい。未だわくわくする。私とはまったくといってもいいくらい、異なる人生時間を歩まれたご夫妻と出会うことができて、30年、感無量のおもいである。

ご夫妻は私がやって来るのを楽しみにしておられる。もうただそれだけで嬉しい私である。何故にこういう感情が湧くのか自分でもわからない。めったにはあえずとも、絶えず心の中では話しをしているかのような関係性を、一方的に私は良健さんに感じる。

それは日本人である私が抱く、沖縄の心という日本人とは異なるアイデンティティーを、その素晴らしさを、感じるからである。そのような人に出会えなくば、きっと私は物事を、真剣に考えると言うことを、まったくしないままに、沖縄の地を踏む、その他多くの日本人の一人に過ぎずに人生をおえたかもしれない。

そのような事を想うとき、今更ながら、今回桑江良健、純子さん、そしてGさんご夫妻に会えるのが楽しみなのである。沖縄の地の歴史に、謙虚に耳を傾ける。元気な間は沖縄に詣で、現地で物事を思考したい、 のである。

2026-05-24

昨日書斎の整理、処分をしていたら初めてのインドへの旅行記が出てきた、そして想う今朝の五十鈴川だより。

 午前中町内の溝掃除がある。時間まで打つ。昨日、普段は入らない書斎の本の整理、処分(手紙、写真、チラシポスター、アンケートなども)をお昼まで、書斎にとじ込もって進めた。この整理処分は、意を決して今年から始めたのだが、なかなか捗らないのだが、それでもかなり進んでいる。

10ページ綴られている。

自分でも部屋に入る気がしないほど、放置されていた部屋である。思いきれたのかは、いまやらなければ出来なくなるからである。思いでは心に遺し、忘れるものは忘れ、そうでもしないと、想い出に耽る自分でも嫌な老人になる。過去とは思い切って決別(そうはとんやがおろせないのだが)する。ギリギリまで身軽になりたいのである。

まあ、そのような気持ちなのだが、これまでの歩みの整理処分は、その年代、その年代の取り組み、試行錯誤の上に現在の自分が在るのだということを、あらためて思い知らされる。

ガラスの扉のある本棚から1997年、1月20日(月曜)から30日(木曜)まで10日間、東インドのカルカッタ(今のコルカタ)から西インドのアメダバードを旅した、旅日記が出てきた。

もし、整理処分をしなかったら、書棚の奥で眠り続けていたであろうこの旅日記を、再び手にすることはなかったかも知れない。そのようなことを思うとき、あらためて思い切って処分を始めて良かったと、心からいま思っている。そして書いておいてよかった、と。

この始めてのインドへの旅、カルカッタまで、今も交友が持続している瀬政さんが同行している。瀬政さんとはカルカッタで別れ(先に氏は帰国した)私は、ガンジス川、聖地ベナレスまで汽車で一晩かけて行き詣で、そこから飛行機でアメダバードに向かった、のである。

45歳、29年前の旅行記録である。やはり書いておいてよかったと、今更ながら思う。単なる自己満足であれ、自分自身が一番一番嬉しい。45歳の時の見聞、感動が新鮮に綴られている。今日瀬政さんに、この旅行記を見つけたことを、知らせようとおもう。

妻丹精の薔薇🌹(8種類が春を彩る)

話は変わる。昨日、明日から3泊4日桑江良健夫妻を訪ねる旅に行くことは触れた。一月末、長崎でのチョンダラー、お二人の最後の人形劇公演の裏方で参加して以来の再会である。おおよそ4ヶ月ぶりの再会となる。その際の出来事の感動は五十鈴川だよりに縷々綴っている。

綴り打った五十鈴川だよりは、打ち始めて、初めて200以上のかたが五十鈴川だよりを読んでくださった。如何に桑江良健、純子さんのファンが全国におられるかということを私に知らしめた。

また、桑江さんご夫妻の熱烈なファンであられるGさんご夫妻とも長崎でお会いし、Gさんが長周新聞沖縄支局で働いておられるご縁で、長周新聞を購読している、のだ。

そんなこんな、わずか4日の旅なれど、インドへの旅のように、五十鈴川だよりで桑江良健夫妻を訪ねる旅を綴り打ちたいと願う、老人の私がいる。老いてみて初めて覚る下り坂、の喜び。交友歴30年の結びの縁、旅日記が打てれば、との思いがいちだんど湧くのは、インドへの旅行記のせいである。

徒然なるままに、その日暮らし的五十鈴川老人日記に変貌流れてゆきたいのである。そして後は野となれ、山となれ、灰になって五十鈴川から日向灘へと流れ、宇宙に帰依したい、私である。  



2026-05-23

5月23日に打つ、死に向かいあう覚悟が、芽生えつつある今朝の五十鈴川だより。

 いつにもまして早く目が覚め、もう一寝入りしようかと思ったが、仕事はお休みなので起きて、朝湯を浴び、気分が上向いたので、ちょっと五十鈴川だよりという訳である。そばには淹れたばかりのコーヒーがある。

ただ、ボーッと、タブレットの画面を眺め、コーヒーをのみ、夜明け前の、この一時が堪らなく好きである。いまだ暗い静寂の一時、よしなし事が浮かんでくる。まだ生きている、のだなあ、何てことを暢気におもえる気儘さを、老人の私はこよなく愛す。夜が明けてきた。(ボーッとしていると、ただ時が流れる)

ところで、私には絶対矛盾、不真面目な自分と真面目な自分が不足不離で同居している。時折、出口の見えない世界の混沌、不条理の情報にウンザリし、精神の加減、バランスを失いそうになる。

下記に記します

五十鈴川だよりを打たなかったら、と思うとゾッとする。還暦を過ぎ61歳から、いまに至る74歳まで、五十鈴川だよりを打ち続けて(週に1、2回にせよ)きたからこそ、今も生きられているという自覚がある。

前回何を打ったのかなあ、と読み返すくらいで、昔の五十鈴川だよりを読み返すことを私は全くしていない。

それよりも今を、今日をいかにその日暮らしするか、にしか頭が働かない。赤ちゃんの日々が目まぐるしく変化してゆくように、老いゆく晩年時間もまた、一年前とは明らかに異なる、目には見えない変化が忍びよっているのを、とくに今年は感じている。

だからといって、その事をマイナスには捉えていない。当たり前なのだと、至極当然に受けとめている。

もっと言えば誤解されてもいいが、そういった心境に至れた自分をどこか、ことほいでもいる。今現在もなお日々肉体労働がやれる幸福は、老いたればこその功徳と言うほかない。

何度も打っていると思うが、老いは病気ではない。加齢をいかに受け入れ、過ごしてゆくのか、いかないのかに、各々のこれまでの人生の、言わば蓄積が露呈、顕現化するのだと、考えている。だからこそ、一日一日の積み重ねが大事なのである。世の中に出て66年、古希を過ぎて、ようやくこれまでの歩みの上に今がある。

話を変える。明後日から桑江良健、純子さん夫妻を訪ねる。良健さんの画業の回顧展にゆくのである。良健さんは私より4歳年上である。インターネットもしないし、スマホも持っていない。先日もお葉書を頂いた。最後まで絵を描くと文字にあった。全人生の全てを絵を描くことに費やし、捧げて来られた。奇しくも猪風来さんも4歳年上である。猪風来さんもスマホを持っていない。猪風来さんも縄文一途、一筋である。

ながくなるのではしょるが、現世で、時代を超越してあまりある作品群を産み出し続けている、この両名に出会えた(ご夫妻に)ことの在りがたさは筆舌に尽くし難い。その事を一行五十鈴川だより記しておきたい。(孫たちに伝えておきたい)

このような悠久の歴史的時間を見据えた、手仕事、創作者、芸術家、強者(つわもの)二人は、愚者の私にエネルギーを降り注ぐ。草とりしながら、体動かし考え、老いの企画を夢見る。(よしんば企画がならずとも、希望を内にもつ気骨を、お二人から学びたい、何か産まれそうな予感がする)

PS 今日の写真は小堀鴎一郎先生のご本です。先生の本を手にするのは二冊めです。先生は1938年のお生まれなので、私よりも14歳年上である。本の副題、訪問診療医がみた709人の生老病死、とあります。養老孟司先生との対談で、小堀先生のことを知りました。沖縄への桑江良健、純子さんを訪ねる旅に持参することにしました。ちなみに先生は、文豪森鴎外のお孫さんです。

2026-05-20

5月中旬でこの紫外線を伴う気温に思う、今朝の五十鈴川だより。

 旅を含め、外の空気に触れるのが好きなのは、ほぼ10歳くらいまで、天然の空間と場所のなかだけでで成長したからである。ということがよく府に落ちる。道が舗装される以前、まだ手で田植えをしていた、あの幼少期の原風景、原体験の記憶の大きさを老いゆくにしたがって痛感する。

したがって最近の私は、記憶の中の(あまりにも急激に変わった、世の中に体が置いてきぼりをくっている)珠玉の想いでを繰り返し反芻することで、エネルギーをいただきながら、今を生きていると言っても過言ではない。私の娘たち夫婦は大都会に暮らしているが、私には無理である。

私の部屋で自由自在に過ごす花

40歳で中世夢が原に職を得たとき、あらためてそのことが身に染みて染みてよく分かった。

都会でモヤシのように、ほとんど死んでいたかのような我が体は、夢が原でまるで水を得た魚のように息を回復し、あらゆる体を動かす四季の労働のお陰でミルミル元気を取り戻していったのである。

以来、今も基本老いた体を天地に解き放ち、四季、季節の変化に耳を澄ませ、折々の変化に寄り添う暮らしを続けている。

だが、古希を過ぎてのこの四年間の夏の暑さは言葉もない、尋常ではない。5月中旬、すでに真夏を思わせる日差しが、この数日私の体に降り注いでいる。このような熱波が今後数ヶ月以上続いたら、わが体はいったい全体どのようになるのか、いささかの不安をもつ。

体は自然そのもの、直結しているので、気候変動の影響をもろに受ける。我が体を通して思うことは、養老先生が一貫して憂えておられるように、人類の行き過ぎた、都市化便利快適至上生活のつけが、気候変動に影響を及ぼしていると、私は感じる。

自然が駄目になるというのは、自然の一部である人類そのものが、駄目煮なってゆくのは道理である。気づかないうちに快適便利さのスパイラルから逃れられないような構造、仕組みのなかで、私を含めた都市型ライフスタイルを享受しているひとたちに、自然が警告を発している、と私は受けとめている。

ではどうしたらいいのか、個人的に各々が考えて生活、行動するしかない。大きなスパイラルの渦には出来るだけ近づかず、シンプルな生活を心かけるくらいしかないのだが、クーラーによる冷暖房を私はよほどのことがないかぎり使用しない。木陰をわたる自然の風のきもちよさは例えようもない。

ギリギリまで耐える(やせ我慢を面白がる)生活を心がけている、といったらカッコつけすぎか。人は人、自分は自分の体調を見極めながら、人工的なものに頼らず、自分の体で考えて、自分の体が気持ちよくなる熱中症対策を、古希以後続けている。

だが、年々からだは下り坂なので、自分なりの対策を、と今年はいつにもまして考えている。基本は毎度のことだが、一日一日やり過ごす。栄養、水分、そしてよく寝る。昼寝をする。頻繁に水を浴びる。などなどでこの5年凌いできたが、来年はいよいよ後期高齢者になるので、なんとか無事にこの夏を乗りきりたい、とまあ、酷暑がやって来る前に思案している。


なるようにしかならない、とはいえこの熱波対策、私には死活問題なので、努々考え過ぎるくらいの対策で持って乗り切る覚悟なのである。

酷暑をしのいだ、我が体を慈しみながら、オーバーではなくギリギリのアウトドア労働が出来るか、できないか、そのような思いなのである。

今のところ、五十鈴川だよりを打てる。打つことが出来なくなるその日まで、アウトドア労働者で在りたい、と思う。

PS 上の写真は白血病のキャリアを持ちながら10年以上生きている猫の花。老いては猫と共に。まったく自由自在にただ存在している。余分な欲望がない。あやかりたい。

下の写真は千住真理子さんのCD。本当に久しぶりにCDを買い(生で音楽を聴く以外、家ではユーチューブもほとんど見ない、聴かない)時折家で、休日の朝聴いている。従って今も聴きながら打っている。この方の演奏だけは体が許す限り聴きたい。

CDの下に映っている雑誌は、1979年から1987年まで8年間発行された、広告批評大全である。先日書棚の奥から出てきた。ずいぶん若いときに影響を受けた方々の発言や文章が掲載されている。淀川長治さん、山田太一さん、谷川俊太郎さん、橋本治さん、永六輔さん、久米宏さん、はお亡くなりになったが、ほかの方々は、タモリはじめ今も現役で都会に居住ししぶとく活躍している。貴重極まる、まさにあの時代を彷彿とさせる記録である。想いでののなかの私の昭和。

私は都落ちし生き返り、お陰さまでいまも生きている。あの時代の渦から逸脱出来たのは、ひとえにふるさとの大自然のお陰である。


2026-05-17

数年ぶり、長周新聞の記事を一日費やして切り抜いた翌朝の朝に思う、五十鈴川だより。

 よもやまさか、この年齢で新聞記事を切り抜くことを再開しようとは思わなかった。何故再び切り抜くことを始めたのかをくどくどと打つことは控えるが、自分の心がざわついたり、知らなかったことを教えられたりしたことを、読み流すのではなく、個人的記録として、遺したい、と考えたからである。

瀬政さんから送られてきました

長周新聞は月曜、水曜、金曜週に3日郵送されてくる。すでに3ヶ月半、40部以上新聞が届いている。そのうちの30部、昨日夕刻までかけて、妻にもらった不要な紙に切り抜いた記事を糊で張り付けた。その数30(表と裏に)となった。残り10部も今日中にやるつもりである。

わずか四ページの紙面の、一面二ページはそのまま残し、残り二ページの主に文化欄の、私が読みたい本などの、紹介記事など、心が動いた記事を主に切り抜きはりつけたのだが、目処がついた今朝思うことは、思いきって切り抜きを始めてよかった、ただそれだけである。

大新聞を手放した後、このまま長周新聞に出会わず、ずるずる老いゆく時間を自分の好きなことにのみ費やしていたら、視野狭窄の、片寄った思考に陥っていたかも、と改めてかんじいっている。切り抜くとき、嫌でもじっくりと文字を追う。(集中力持続時間が老いと共に弱くなる、全く肉体労働も同じである)

一度眼にした記事を再び読む。これが大事だと改めて知る。老い往く体と脳に刺激が伝わる。その気持ちよさが在るから出来る。日本に限らず、世界の無数の民、見知らぬどなたかと対話、繋がっているかのような安堵感を覚えるのである。


地に足を付け、踏ん張り、普段の私の生活圏では聞くことのでできない、話をすることが不可能な人たちと紙面を通じて、言わば繋がる共有感覚が生まれ、そのことが私に切り抜きのエネルギーを与える。

話は変わるが、長周新聞のコラムで芸人の清水ミチコさんが津軽海峡冬景色の替え歌動画、ホルムズ海峡冬景色のことを知った。直ぐに妻に話したら(私は世ほどのことがないかぎりユーチューブほかの動画サイトは極力避けている、簡単に見れるものは簡単に忘れるからだ)すぐにつまがアップしてくれた。

そのことを十数人の友人に伝えたら、Kさんがすぐに動画を送ってくれたので、その動画をすかさず友人にまたもや転送(それくらいは私も出来る)したところ、5名の方からリスポンスをもらった。どっこい皆反応がいい。そのような関係性の友の不在はあまりにも切ない。(バーチャルの良さも最近とみに感じている)

全然無反応なかたもいるが、それはそれで良いのである。ただ私は共有感覚、ものの見方、世界への問題意識、世界の痛みへの想像力を見失わない営為を、ささやかであれ続ける人たちと連帯したい。それだけである。

とまあ、今朝はこのような五十鈴川だよりになった。




PS 上の写真は盟友瀬政さんから送られてきた。山陽新聞を購読していないので知らなかった。だが伝えてくれる友人がいる、その事が一番大事なのである。本音で語り合える、バーチャルであれリアルであれ、深みのある関係性の(滅多に会えなくても)友、ここぞと言うときに会いたくなる人をこそ、ますます大切にこれから人生を歩みたい。下の写真は、つまりこのように切り抜いたのです。

2026-05-16

長周新聞購読で、無数の民の今を生きる声に耳を澄ます、今朝の五十鈴川だより。

 一月末、桑江純子さん、良健さんの主宰する、人形劇かじまやあの最後の公演にスタッフとして参加した際、Gさんという方と出会い、そのご縁で長周新聞(沖縄支局で働いておられる)を購読し、3ヶ月半になる。


わずか四ページ、良心的なわずかな広告と購読者のみによって支えられている新聞である。コンパクト読みやすい。老人の私を活性化する記事で紙面が埋められている。購読料も安く、年金と肉体労働で、好奇心を失わず、なるべく気持ちの上向く生活を心かけている私にとって、いまや欠かせない、ビタミン新聞となっている。

よくぞ書いてくださった、という一般市民の(知的レベルの高さに驚かされる)投稿や、レアアースとい鉱物に関する連載ほか、世の中に出て、50年以上朝日をはじめとする大新聞しか購読していなかった私には、週末まとめて、新聞を読むのが、いわば私の老人生活の楽しみとなっている。

いわば大新聞を手放したら、小さいけれども、良心と志の高い地方発の新聞に出会った、その幸運を記さずにはいられない、今朝の五十鈴川だよりである。思えば我が人生、手放すと新しい出会いがまっている、とでも言うしかない幸運に支えられて、今も生きている。

執着しない、ギリギリまで事を進め、頃合いを見て諦め、次なる道を歩んできた。そのことに全く悔いはない。私の場合、人生は選択と決断、判断の繰り返しである。今現在もそのような本能的感覚優先でその日暮らし老人生活をしている。


カッコつければ、演劇のレッスンで教わった、虚実皮膜の間を(いい加減)生きる方法を未だに実践し、多くの偉大な先人たちが歩んできた、大きな渦の外にいて、少数者の側からの視点を揺るがせにしないということである。

其のような歩みの結果、つくづく有り難いのは、その都度擬態というか、変身生活、脱皮しながら一貫しての我が歩みに共感してくださる方たちが、存在していることである。利害関係がない。我が交友関係性はお互いが、時代のなかで、その都度の年齢を移ろいゆきながらも、移ろわない思考を持続している方たちとだけ交友が続いている。

その筆頭桑江さんご夫婦とのご縁無くば、長周新聞にも出会わなかっただろう。老いと共に出会いは減ってゆくのは道理だが、一回こっきりの人生で繰り返し、問題意識を共有する、思考錯誤、日々生きなおす友人(数は少なくとも)を持てていることに対する、感謝、幸福感は例えようもない。

話を戻す。そのような関係性を持続するのはやぶさかではないが、よしんば関係性が間遠くなっても、それはそれで良いのである。人それぞれの生きる場所は異なり、皆それぞれの日々を必死で生きているのは当たり前だからである。私は私の体を運ぶだけである。

PS  今朝の写真は一番新しい5月13日の長周新聞の一面、上下です。読みにくいのは承知でアップします。このところ、近しく感じている友人面々にラインで(ほんの少しですが)私の体に届いた記事ほかを、転送している。反応に人間味、人間性が垣間見えます。嬉しい意外な一面が。

五十鈴川だよりを打てる間は、大都市に本拠を置く、大メディアではなく、地方発、もっといえば、世界の果たて、辺境の地から中村哲先生のように、たった一人で発信しつづけた人の声に耳を傾け対と私は思う。








2026-05-13

朝一番、10日に植えたさつま芋の水やりに行ってきた後に打つ、今朝の五十鈴川だより。

 5月の朝の気持ち良さは格別である。夜は加齢に従い、エネルギーが切れるが、一晩ぐっすり眠れば、さあ今日も体を動かすエネルギーが充たされていて、別の体になっている。10日に植えた(30本の苗を)ばかりのさつま芋に水やりに行ってきて、今度は自分の体に水をやるように五十鈴川だより、というわけである。


ところで、先日図書館でたまたま、ボクは日本一かっこいいトイレ清掃員、という本を読んで感動した。その内容については割愛する。読みにくい本、読みやすい本、種々あれど、本を読まない生活はまず私にはあり得ない。(読書の枠を取っ払い自由自在にてにする)、基本、今を生きる私にとって栄養になる本をよむ。

古稀以前の読書とはずいぶん手にする本が違ってきている。かなり片寄った本を読んできた反省から今まで手にしてこなかった、例えば料理に関する本なども。

何度か打っているが、記憶の幼少気期の我が家には、子供が手にする類いの本、絵本など皆無であった。

我が姉兄弟は、全員保育園も幼稚園もいっていない。その当時の門川ではそれが普通であったのである。調べてはいないが、保育園や幼稚園に通えるのは、経済的にゆたかな家庭の子供に限られていた、と思う。小学校に入学し、いきなりわんさかの同世代男女と出会った時の驚きは、まさに衝撃的であった。

話を戻す。そのような私が、原体験をどのように克服し、今では活字中毒(心身をゆたかにする)、と言える人間になってしまったのかを記すのは長くなるが、少し記すと、本を読むことで、想像力がうんと刺激されたからだとおもう。知的刺激の面白さ、本を読まなかったら、翻訳のシェイクスピアをよむこともなく、英国に遊学することも、アフリカ、インド、アジアを旅することも無かった。(想像力と感動力だけが我が取り柄である。)

青春期から持続的に本を読み続けてきたお陰だとおもうが、中世夢が原に職を得、企画をするようになって、生まれて初めて原稿の依頼をうけたのだが、自然と一文が成せたのも、本を読んできたからだと思う。読み書き語る。

この3つでかろうじて、この基本が有って、そのお陰で我が体もだんだん丈夫になり、いまもこうして動けているのだと自己認識している。読書はだから我が体の根幹を司どっているのだ。

妻丹精のキングローズが咲き始めました

再び話を戻す。感動した、ボクは日本一かっこいいトイレ清掃員は、岩波ジュニア新書である。以前だったら図書館でも素通りしていたかも知れない。孫たちのお陰で、絵本、子供の本のコーナーにゆく頻度が増え、そのことが私の読書に新たな彩りを、豊かさを与えてくれている。

幼少季、(教科書が読書だった、多分それだけはよく読んだのだ)手にすることがなかった、定番の本例えば、赤毛のアンなどの本も孫が読む前に、自分でもにわかに読みたくなっている。そんなこんな、未だ生活しながらなので、ようよう読書時間も限られてくるのだが、ジュニア版なら難なく読めるのが有り難い。絵本も目が疲れず(とても眼にやさしい)

老いてからいよいよ、大きな文字で内容のある、古くならない、珠玉の古今東西の物語を読める幸福を最近とみに感じている。

2026-05-10

五月晴れ、玉葱収穫し、我が庭でランチをし、お茶を飲み、昼寝をし、本を読み、音楽を聴き、休日をすごす。

 休日は、ほとんどなんの意味もなく、五十鈴川だよりを打つことから始まるようになってきている、最近のわたしである。

24年前の本、戦争だけは非である。

昨日も打ったのに、今朝も打つのはもはや老いのコンディションづくり、体の機能調節というほかはない。とはいっても、取り立ててて打つに値する一文を、などという気も、能力も持ち合わせてはいないことを、私は自覚している。

が私は、徒然なるままに、紡ぎだされる、ようよう湧いてくる言葉に励まされ、自分で自分と対話しながら打っている体なのである。従ってほとんど毎回予期しない一文がしだいに生じてくる。そのことがやはり好きなのだと思う。

さて、過ぎ去った月日に求めた本の類いを処分しているのだが、そのことで10年、20年以上前に出版された本をこのところ、改めて再読している。本だけではなく、今となっては貴重な雑誌の類いも、休日の午後、遅読している。

老いやすく学成り難しという言葉を痛切に感じる。が、致し方ない。老いても読みたい、知りたいという気持ちがある、そのことが大事だと、静かな我が生活を慈しむ。そして五十鈴川だよりを打つ。我が慎ましき循環生活、自分が気持ちのいい方向に流れてゆくことこそが大事なのである。

とはいっても、頭でっかちの口先人間にはなりたくない。インプットとアウトプットのバランス感覚を正直に生きたい。頑迷古老の(いずれはそうなるにしても)老人になるのはいましばらく先にしたい。

18歳で、漫然と漠たる不安を抱えつつ世の中に出て、何はともあれ、生活することを第一義に(生きるためには喰わねばならない)56年よく生きてきたものだ。感謝しかない。今もごく普通の生活者という視点を忘れたくはない。そのようなおもいが持続している。だから元気に五十鈴川だよりを打ちつつ生活が成っている、のだとかんがえている。

理屈はともかく、70代の充実、未知の世界をいかに、その日暮らしして過ごせるのか否か、五十鈴川だよりを打ちながら、考え、実践したい。

昨日午前中妻と玉葱を収穫した。土に触れていると実に気持ちがよく心身がリフレッシュする。肉魚野菜、山川海の命を頂いて我が体も生きている、土に触れるとその実感が伝わってくる。命の循環。

その実感、感覚が、スマホ中心都市型バーチャルライフスタイルの人々(私も含めて)には希薄になっている。だから私はあくまでも見えない微生物のすむ、土と(命と)繋がりたい。それを土台にして、共有感覚を有する他者と繋がりたい、のである。



2026-05-09

長周新聞購読丸三ヶ月以上経つ、そして思う、今朝の五十鈴川だより。

 春の朝は老人の私でも眠い。老犬メルの声で目が覚めた。つくづく有り難いことだと想うのだが、古稀を過ぎてからも眠れないということがない。早寝早起きであることは岡山に移住した40歳の頃からだ。

労働する日は、今だと四時過ぎには起きて、休日は五時過ぎには起きている。従って夜は早い。もうほとんど午後9時過ぎには自室に入る。今年から週に3回から4回、平均するとだが、20分程度、就眠体操を今のところ続けている。

言葉がない。

これは以前もちょっと触れたが、千住真理子さんがおやりになっていることを、勝手に真似てやっているだけである。
我流体操。電気を消して漆黒のなかでやる。一日動いてくれた体を労る体操である。効果てきめん、頗る体調がいい。(けっして無理せず体が気持ちよくなるだらだら体操である)

私の場合もの心つく頃から、全て我流を今も(必然的にそういう面白さのようなもの)続けている。無理しても続かないし、好きなことだけは今も続けられている。この年齢でも草刈り他の肉体労働ができるのは、ひとえに体が動いてくれるからである。我が体に感謝する体操である。

養老孟司先生の受け売りだが、人生さんぶんの一は無意識、寝ている。が脳ほか内臓は一瞬の休みもなく動き、働いている。睡眠の奇跡はいまだ深くは解明されていない。従って、いつか人はすべての事を忘れつつ、だからこそ新しい日々を、どこか新鮮に生きている、のだ。

臆面もなく、万座に恥をさらしつつ五十鈴川だよりを打つのは、季節の移ろいの儚さと我が肉体が移ろいゆく様を、点描したいと言う名状しがたい(すぎゆく万物流転の)、いわば煩悩が消えないからだろう。

話は変わる。M新聞購読を2年前から止めたことは何度も打っているが、今年2月から縁有って長周新聞を購読している。庶民目線の地方発の新聞なのだが、今更ながらの我が無知蒙昧さを知らされている。

長くなるので割愛するが、ちょっとだけ打つ。この新聞が折々取り上げる本棚欄は私を打つ。またイラン、ササーン朝、ペルシャの文化大国の歴史も教えてもらっている。ほとんどNHKのニュースでは取り上げることのない国際情勢の多面的な動静が、小さな紙面に写真入りで伝えられる。

アメリカの退役軍人数十人がイランとの戦争を止めるべく抗議声明をだしたこと、先のメーデーで全米500箇所でトランプの起こした戦争にデモを行っていること等、枚挙に暇がないくらいの志の高さでもって知らされる。老人であることは重々承知しているが、思考停止になるには早すぎる。

私はインターネット情報をほとんど見ない、信じない昔人間である。時代遅れを自認している。もっといえば直接情報しか信じない。それでも生活上ほとんど困っていない。気の塞ぐような志を持たないジャーナリズム(中身のない表面的な映像の繰り返しに終始する報道には呆れる)ニュースは見ない。

オープンソース情報、長周新聞(オシントという言葉は佐藤優さんから学んだ)だけでこれだけの世界の情報が、我が体に知らされる。ネット情報には痛みがない。無所属、五十鈴川だよりを打てる間は、地を這うように、庶民感覚目線で、報道の真贋を見究めるアンテナを磨かないと、危ない。(大いに反省する)

血を流すのは、戦争する両国の底辺庶民である。AI無人兵器には心がない。殺傷兵器が炸裂すればおびただしい人間の血が流れる。命ずる権力者たちは痛みがない。それがわたしには気持ち悪く恐ろしい。(嫌なことを他者に命じる人間をわたしは唾棄する)

主義主張は持たない私だが、自分の家族の誰かが戦地で倒れる想像力だけは、戦後民主主義教育を受けたものとしてなくしたくはない。

ある日突然何か得たいの知れないことが、勃発するのではとの危惧を覚える。人類初の原子爆弾は多くの民が戦争遂行に疑問を持たなかった日本の頭上に落ちた。あまりの想像力の無さに沈黙したくなる。お互いの国の生成AI、核兵器が使用されないことを五十鈴川だよりを打つ者として祈る。


2026-05-06

20代の頃に読んでいた本をかなり処分して想う、今朝の五十鈴川だより。

 昨日も午前中は庭木の剪定、草取り、金柑の収穫(半分ほど収穫し、妻が夕刻ジャムのしていた)を二人でやった。さっぱりし、風通しがよくなり、我が心もにわかにスッキリした。我が家の御神木とも言える八朔の木陰でお茶を飲み、しばしジャスミンの香りと薫風に身を置いていると、憂き世のニュースを遠くに感じる。

孫写真.眺めて過ごす.老いの春。

(アメリカのわがまま覇権主義は眼に余る、心なしか老いの翳り、八方塞がりをトランプに感じる、世界の民は報道以外の見えない世界を感知している)

手の届く範囲を耕し、満ち足りる喜び。要らぬ情報に振り回されずに、目の前の庭先で展開される春の息吹を老夫婦二人で愛でられることの慶賀を、五十鈴川だよりに打たずにはいられない。

混雑時の外出は今後もう出掛けたくない。お金も出かける時間も不要、我が家の内と外で過ごすGW時間を夫婦で大切にしたい。

巨万の富をいくら積んでも買えない。春の息吹、風、空、薔薇の蕾が開く、崇高さは例えようもない。

一杯のお茶を、いただける有り難さ、その喜びをシェアできる人が、身近にひとり存在すれば、幸福である。そういう意味で、臆面もなく打っておく、今年のGWはとてもよき時間がすごせたことを。

さて、昨日も午後二時間位、書斎の本棚の整理処分をした。何事も後回し、先伸ばしにしておくと、つけが自分自身に回ってくる。一昨日処分第一回が成せたことで、徐々に気持ちが落ち着き、暑くなる前に前期の整理処分、後期は秋にやろうと考えている。

つくづく平和の尊さを想う春

80代半ばの頃、中村メイコさんが大事な写真から思いきって処分した旨のエッセイを読んだことが大きい。

女性の平均寿命は男性よりも高いので、男の私がこの年齢で、蔵書(大したことはない)やお手紙や葉書、写真を処分するのは時宜に叶っている、とわたしは思っている。やれる時にやっておく。つまりはそれに尽きる。うじうじするのは苦手である。

悩んだら飛ぶ。身を捨ててこそ、新たな体が生まれる、そのような人生を歩んで来たので、本や、お手紙、パンフレット、チラシ、写真とう(絶対捨てられないものだけを残しつつ)還暦までに溜まっていた物は(娘たちには無縁の物)手を合わせ、処分することにした。

不思議なことに、行方不明になって探していた本が本棚の奥から出てきたり、やはりこの本は元気なうちに読んでおかねばと思える本にも新たに出合え、思い切ることの大事を今さらながら知る。やらずに悔いを残すよりやっておく、のだ。

雑巾で本棚の溜まりに溜まっていた、埃を拭き取るだけでも気持ちがよい。縁有って巡り会えた書物、手を合わせ紐で縛る。時代は流れる。目まぐるしく変容する。感傷にひたってはいられない。

PS 今日の写真は上が長女と次女の息子、望晃(ノアは3月で8歳になったばかり)、と葉(7月で4歳になる)ノアは葉を弟のように可愛がっている。下の写真は5月2日に3歳になったばかりの未彩(みあ)と葉。GWの写真である。可能なら2ヶ月に一度くらいは孫たちに会って、それぞれの成長に立ち会いたい、と考えている。一番新しい生命、風香は次女の許可をもらって、五十鈴川だよりに折々、掲載したい。いましばらく爺バカを満喫したい。

2026-05-05

GW、妻と庭木の剪定そのほかの体動かし手入れ作業、午後はお互い自由気ままに過ごし、夜はお互い早々に眠りに落ちる。

 GWも今日も含めてあと二日である。あたりまえだが一日は、不変である。前回も打ったが、普段手が及ばない、繁った月桂樹やスダチその他の枝木の剪定や片付けなどを妻と二人でやっていると、一日は穏やかに過ぎてゆく。有り難いよきGWを過ごしている。

この年齢になると、休日は妻とやれることを一日に一つでもやれる時間を大切に過ごしたいと、私は考えている。70代になって、(手術したことが大きい)年ねんその思いは深まっている。

不滅のジャスミン

わずかな庭木なのだが、キンモクセイの枝木も数年しないでいると、まるで自分の体の手入れをしていないかのように、なってくる。体の手入れのように、我が家のささやかな庭の手入れ、妻の手だけでは及ばないあれやこれやを、共にやれる時間を大切にしたい、のだ。

久しく剪定していなかった月桂樹(生命力の塊)の枝木を剪定しただけで、すっきり、ずいぶん風通しがよくなった。月桂樹の枝木で見えなかったが、妻が長いこと大切にしていたジャスミン、昨年ほとんど剪定したはずなのに、一部分がしたたかに残っていて、香りとともに見事に咲き誇っていた。早速妻が家の中のあちらこちらに活けたら、なんとも言えない香りが家中に充ちる。

老いゆく二人の春の時間の過ごし方、ささやかに庭木や妻が丹精している数本の蔓薔薇や季節毎に植え替える花ばなの処し方の手伝いも、我が喜びである。妻は明日仕事なので、妻とのGWは今日までなので、今日は午前中庭の草取りと金柑の収穫などをする予定である。

ところでこの二日間、午後もう今となっては、手にする事もない数十年本棚に鎮座していた主に20代から30代のころに買って読んだ本、(重たい写真集なども)50冊位処分した。折をみて、少しずつ処分し、どうしても手放せない本、(もうおそらく読むことはなくても、背表紙を眺めるだけでもおいておきたい本)はいましばらくおいておくことにした。

GW、思いきって幾ばくかではあれ、我がこれまでの人生で手にしてきた本を手放せたことは大きい。演劇雑誌など東京の神田の古書街であれば引き取ってもらえたかもしれないが、ここは岡山、処分した。若い頃の思い出のつまった青春時代の本や雑誌、残しておいても娘や孫たちにはきっと無縁だと思うので、決心がついた。

最初の処分が出来たことで身軽になってきた感がある。思い出、思い入れは大切であるが、娘や孫たちには全く関係ない。あくまでも私のなかでの出来事なので、自分の中で昇華できれば事足りる、そのような心境にようやくなったのである。

この世のお別れまで、囲まれていたい本は、据えおく(処分費用は残しておく)ことにし、今日の午後も本を、少しずつ処分し、可能なら年内に、今の本棚の本を半分位にしたい。そして身軽になりたい。

執着することをやめたい、のである。もっといえば手放したい思いと、手放したくない思いの間をいましばらく揺蕩いたいのである。まことにもって、自分と言う器はやっかい、矛盾そのものの総体である。

そんなこんな、五十鈴川だよりを打ちながら、揺蕩いたいながら、私の5月初旬の今は流れてゆく。

2026-05-02

薫風に誘われ、布団を干し、我が部屋、トイレ、ほか雑巾掛けをした後打つ、今の五十鈴川だより。

 昨日は春の嵐かと思いきや、狐の嫁入りの晴れ間、そして雷を伴うにわか雨、そのようなお天気の中、合間合間なんとかカッパをきて働くことが出来た。

そして今日は一転の五月晴れである。。お隣の家の五月の花が満開である。明日は雨の予報なので晴れの一日を大事に過ごしたいとおもう。

今朝気付いたのだが、郵便受けに今は山形に住むKさんからお葉書が届いていた。2012年東北岩手県の大槌町で未曾有の震災のボランティアを、たった一日ボランティアしただけなのに、淡い交友が続いている。

Kさんからのお葉書、嬉しく有り難い。

今回の山火事で私のことを思い出された様子でのお葉書だった。お葉書にはお葉書で、私もまた近況のお便りを書くつもりである。私には数回しかあったらことがない方なのだが、強い縁を感じる方が何人かいる。

共通するのは、地に足をつけて大人(おとな)しくきちんと生活をされていて、浮わついたところが微塵感じられない、ということである。

私はそういう知人、友人から特にコロナ以後、学びながら生きているといっても過言ではない。コロナ以後、友人知人の関係性が大きく変わったことはまちがいない。体が変われば世界も変わる、との言葉を文字で知らしめたのは養老孟司先生である。人間は不確かな実在で、病気になったり、大切な人を失なったり、孫がうまれたり、との経験、未知の世界をくぐり抜ける度に、流転しながら昨日の自分とは異なる自分になって存在し続けている。

話を戻す。数回しか会っていないKさんにも、お葉書を眺めているうちに、あの日瓦礫の撤去を共にしたあの地区の風景が甦ってきた。元気なうちに会いたくなった。富良野塾の縁切れない仲間もそうだが、体を動かし共に苦楽を経験した間柄は、ただ楽しいことだけの縁とは、やはり異なる。

さて、今日からごGW、五連休である。が、私も妻も何の予定もない。ほとんど家で過ごすつもりである。庭木の剪定、ほかふだんはやれない家の中、外のKとをやってほしいと妻に頼まれている。老いてはよほどのことがない限り、妻優先で事を進める。もう10年以上夫婦二人暮らしである。

今日は、長女の娘未彩(みあ)の3歳のお誕生日である。昨日は長女の旦那さん、レイさんの40歳のお誕生日であった。私が岡山に移住した歳である。あれから34年、まさに光陰矢のごとしである。レイさんにお祝いのメッセージを送ったら、感動的なお返事メールをもらった。

親バカ、爺バカを自認している。このような能天気さは老いてますます顕著であることも自覚している。でももう自然に流れる自由自在五十鈴川は、ある日突然、決壊(うてなくなるまで)するまで、指に任せて打つのである。

PS GW、打つのではなく、久しく会っていない友にお便りが書きたくなった。紛れもなくKさんからのお葉書の影響である。手書き文字の力はやはり凄い。私もKさんにあやかる。



2026-04-30

4月30日、雨の朝、静かに体と心の調節機能のための五十鈴川だより。

私は養老先生のファンである。

 私の好きな静かな朝が来た。自己満足、金太郎飴的なお爺さんだよりにすでになっている。だが当たり前、昨日と今日は、私の体は微妙に異なっている。だから昨日とは異なる五十鈴川だよりになる。

本人は気持ち良く動いているつもりではあるのだが、ひょっとしたときに、歳を感じるときがある。昨日午前中ほっといて気になっていた菜園場の草取りの後、最低の撹拌をし(できるだけ耕さない、だから草がぐんぐん伸びる、でも私はそれでいいのある)2列畝を作り、ピーマン、ナス、トマト、トウモロコシ(三本初めて植えてみた)を、お昼前までやった。

その事も含め、お正月からこの4ヶ月の疲れが、やはり出たのか夕刻お風呂の後、ちょっと外に出て湯冷めしたのか体が重く、夕飯(タケノコご飯と野菜の天ぷら)をそれでも美味しくいただき、早々に床に着いて、午前5時に起きた。

8時間以上睡眠をとったら体が軽く、気持ち良く起きることが出来たので、こうやって五十鈴川だよりが打っている。(なんと有り難いことか、良く食べ、良く動き、良く寝る)

旬のタケノコ満喫しました

精神の調節機能として、私は五十鈴川だよりを打っている(日々の行動生活記録としても)、体調が悪いと、当たり前絶対に打てない。そういう意味で、61歳から打ち始めた、思いつき五十鈴川だよりで、私が私自身にどれほど、(いまもだが)日々の調節がやれているかがわかる。

心身、体と心が連動しないとどのような一文も私は成せない。体が重い、気分がのらない、気分がすぐれない、食欲がないなど、体が発するサインを見逃さないことが大事である。

そういえばこの数年熱を出していない。還暦までは必ずといっていいほど、年に数回は発熱していたのに、古希目前の大手術以降、熱を出した記憶がない。

昨日ひさかたぶりに、体が重かった我が体、これから暑い夏を迎える前に、このGWはゆっくりお休みしろとのサインだと受け止めている。体の声を聞きだらだらすごすことにする。

平生つい夢中になりがちな我が性格はいかんともし難いが、年相応の過ごし方を、五十鈴川だよりを打ちながら見つけたい。

気分がすぐれない時の特効薬は、養老孟司先生の読みやすい本を(中身は濃い)読むことにしている。読む薬として重宝している。要は虫のように存在し、できるだけ静かに、気持ちのいい場所で、気持ちのいい人たちとの関係性を大事に、キープした時間をすごせればもう私は充分なのである。

2026-04-29

4月26日、42回目の春の縄文野焼き祭り無事に終え、スタッフとして参加出来た喜びを打つ、今朝の五十鈴川だより。

 去年の春、秋、今年の春と3回参加して、ようやく自然に当日あの空間に居合わせた人たちの一員の一人になれたかのような安堵感が今も私の体にのこっている。


天候も最後まで見守ってくれ、70点もの縄文造形作品が無事に焼き上がり、その一部始終を見届けることが出来た喜びを、五十鈴川だよりに打つ。

私の猪風来さんご夫妻との関係性の深まりは、一年七ヶ月前の一本の電話から始まった。その折々の事は長くなるので割愛するが、昨年秋の20周年記念イベントにスタッフとして関わったことが起因している。

もし一本の電話がなかったら、きっとここまでの関係性の深まりはありえなかったかもしれない。今となっては有り難い、生涯忘れることのない電話であった。古希を過ぎコロナ渦中から次々と孫が授かり、娘夫婦の役に立つべく静かに暮らすだけで、充分満ち足りていた矢先の一本の電話の声は、私の老いゆく下り坂時間を逆流させた。

有無を言わせない真剣そのものの、猪風来さんの声は静かに私の内部におりて、スタッフになろうと(やれることで役に立つ覚悟)肝をきめた。あれからの時間の私生活の充実は、臆面もなく打つが、猪風来さんご夫妻と関わることで、全てが以前にも増してよき方向に向かい始めたように感じている。

縄文の心と技の修得に全人生を捧げた猪風来さんに、スタッフとしてお声かけしてもらえたことの有り難さは、例えようもない。スタッフとして関わることを決めた後日、よし子さんから、猪風来さんの書籍、原野さんの写真集ほか一切がお手紙とともに届いた。私は感動した。

世の中に出て、右往左往、あたふたと生きてきて、40歳で中世夢が原で落ち着き、自分なりに活動、生きてきたが、猪風来さんご夫妻に信頼された喜びは、老いつつも私の体を復活させたのである。以来言葉には出来ない、縄文的な感覚、感性が少しずつ私の中にしみてくる、のだ。

焼き上がった70点の作品

スタッフとして自分なりにベストを尽くし、20周年記念イベントを終えてから、明らかに私は縄文に誘われる心地よさに身をゆだねたくなっている。現世の、世間の、この世からの逸脱を想像力を駆使して、遊びたくなっている。

先日、猪風来さんからお借りした本のなかに、縄文考古学の大家小林達雄先生が、我々の生活の中に縄文的な視座を取り戻したいと、おっしゃっていた。その言葉の意味する奥深さを、考え続けるその日暮らし、をしたい。

話は変わる。縄文野焼き祭りを20年以上の間、裏方として一貫して支えて来られたkさん(最高に格好いい人である。)から全ての片付けを終え(午後2時前)帰ろうとしたとき、たくさんのタケノコをいただいた。それとビールを。

(タケノコなんと20本以上頂いてご近所、妻の友人ほかに配ったのだが、皆さん笑顔、その日早速妻が手早く湯がいてくれ、口にいれた。最高の春の味覚、kさんにこの場を借りてお礼をお伝えする)

猪風来さんご夫妻との関係性の深まり、そしてこのkさんや、Yさんとの生まれ落ちたところは全く異なるちょっと歳上の先輩方との、縁の深まりは、この情愛の希薄な(体を動かし合える中で、自然に育まれる気付きの関係性の気持ちよさ)現代日本社会の私がこれまで経験してきた、消費イベントの対局に位置する。縄文世界は老いゆくなかでの我が体に喜びを、輝きをもたらす。




2026-04-25

明日の猪風来美術館の春の縄文野焼き祭りの、前の日の朝に想う五十鈴川だより。

 目が覚めたので起きた。この数日、明日の縄文野焼き祭りのお天気が気になっていた。明日のお天気が今日のような予報なら、心配はないのだが、あすは下り坂の雨マーク予報なのでちょっと明日のスタッフとしては不安なのである。

だがこの野焼き祭りを、20年間継続されてきた猪風来さんご夫妻であるから、きっと対策は万全だとは想うけれど、スタッフの一員としてはやはり心を配らねばとおもうのである。

草から学び我が体をしる。凄い本。

夜明け前、まだ暗い。この静けきひとときの休日の朝がたまらなく私は好きである。さあ今日は、どのようなその日暮らしになるのか、しようかと老いた体で思いを巡らせるのが幸せなのである。

平日労働でも、今日はどのエリアを何ラウンドやろうかと、年間通しておおよその予定を立てこなしてゆくのである。同じ事ばかりやるのではなく、エリアによってやることが異なる。

草刈りばかりやるのではなく、分かりやすく言えば、体の動きがことなる労働を継続する。

体に負担を感じたら、直ぐに辞める。一昨日はかなりの雨の中での草刈りをやったのだが、お昼前には切り上げた。決して無理はしなくなった。

だが手前味噌でも何でもなく、先日仲間のkさんと猪風来美術館の裏の斜面の草刈りをやったことはすでに打ったが、この草刈りはこの8年草刈をしたなかで、最も危険で厳しい草刈りであった事を打っておく。(猪風来美術館の草刈りでなければしなかった、ご夫妻の役に立つのが嬉しいのである)

74歳であの斜面の草刈りが出来たことの事実としての喜びは、私の体だけが知っている。(中世夢が原での20年以上の敷地の草刈りが今の私を支えている、冬場の茅刈りを思い出した)今週も草刈り労働が多かったのだが、あの斜面を刈ったことで、現時点での我が体の技能力が良く自覚できた。老いつつも体の使い方の方法を、もっと前むきに(実現すべく究める)面白がる努力がまたやりたくなっている。

楽しく、面白がってやれば、まだまだ我が体は動くということの発見をあの斜面の草刈りは知らしめたのである。あの日美術館の斜面の草刈りをしなかったら、老いを後ろ向きに捉える思考に掬われていたかもしれない。

とはいっても、何人も老いる摂理には抗えず、受け入れるにしくはないのだが、絶対矛盾であれ、老いつつも新しい体の気付きは、ぬるま湯に浸かっている生活の中では、決して産まれてはこないだろう。私自身(いまもだが三つ子の魂がどこかに眠っていて)横着者を自覚している。

だが親元を離れ、社会にでて揉まれ思いつき、ささやかな個人的成功体験を積み重ね、おかげで今を生きられている。一日でも長く(出来なくなる日を見据え)踏ん張って草刈りをやれる体の使い方を追究したい。

2026-04-22

私とは入れ替わりで、上京していた妻が帰ってくる日の朝の五十鈴川だより。

 5泊6日、娘二家族のところに上京していた妻が午後3時過ぎには帰ってくる日の朝である。まもなく洗濯が終わるので、五十鈴川だよりを打ち終わったら洗濯ものを干し、お休みなのでゆっくりブランチをしようと思う。

最初の孫に恵まれてから、年に数回交代で娘たち家族のところに出掛ける生活が、この8年続いている。よほどの時にはペットシッターさんにお願いするが、我が家には妻が愛する、花とメルがいるので夫婦揃っての上京は難しい。

従って諸事万端家事一切を私がせねばならない。当初、メルと花のケアーほか、戸惑ったことも、8年も続けると手慣れてくる。今朝も先ずは洗濯とメル、花のケアーを終えての五十鈴川だよりタイムである。

そろそろ終わり、我が家のモッコウバラ

働いている日は、よほどのことがない限り、五十鈴川だよりを打つ気は起きない。私の好きな労働は肉体を消耗するので、労働した日はしっかりと体を休養する。若くはないのでとにかく8時間は寝る。平日は朝仕事前にしか本も読まなくなった。だから基本的に、休日しか五十鈴川だよりはうたない。(打てない)

話をもどす。古希以前は妻の事に触れるのは、どこか(ややもすると、自慢気に陥る、その愚は避けたい)控えていたのだが、もういつ五十鈴川だよりを打てなくなるやもしれないし、打てる時に、野暮を承知で、打てる気力があるときに、そっと事実のみ打っておこうと思う。

だからといって特段打つこともないのだが。年に数回、妻不在の時間を過ごすことが、この年齢になると、いかに普段妻の献身的家事労働に支えられているのかが、身に染みて分かる。

だから私は嫌でも自分を賄う料理を作らねばならない。お金を使っての外食は基本的にしない。外食は妻と共にする。今回も一度も外食はしていない。とにかく作る。手を動かしながら考える。

老いゆくなかでも状況が変われば体は変化する。8年前よりも台所に立つのが苦にならなくなった。炒める、煮る、焼く、茹でる、刻む、などなど体が食べたいと思う一品を作る。基本的に二品作れば、後は海苔やその他副菜で、年齢的にもう充分である。今の生活力をキープできれば、ありがたやである。凝った料理は一切しない。手間暇かけない。が、手抜きはしない。シンプル、とにかくお腹をすかす。だから何でも旨い。

話を変える。今年も暑い夏が続きそうである。四月下旬、先週辺りから、草がぐんぐん伸び始め、紫外線の量が一気に増してきているのを体で感じている。いくら肉体労働が好きとはいっても、古希を過ぎてからのこの数年の夏の暑さは尋常ではない。

従ってこの夏をいかにやり過ごすのかが、毎年の最重要課題である。秘策というものは取り立ててない。がなんとかこの数年熱中症にもならずしのいでいる。ひたすら体のコンディションを整え栄養をとり寝る、ってなことくらいしかやっていない。一日を凌ぐ、やり過ごす、だけである。オーバーではなく覚悟の夏、我が体は動くのか動かないのか私にもわからないのである。

今日は動いて凌げた。だから明日も動いて欲しい。その為にどう一日をやりくりするのか。私の高齢者生活は冗談ではなく甚だもってスリリングなのである。そのような日々を、私は有り難く面白がっている。出来なくなったらその時はその時、潔く諦めるのである。(摂理に抗わない)

敬愛する養老孟司先生は、死は100%、何人も平等、遅かれ早かれ訪れる。だから恐れてもしかたない、と。とまあ、そのようなことを日々思案しながら草刈りしていると、万物の息吹き、草原の輝き(というタイトルの映画が昔あった)がしみてくる。


2026-04-19

昨日、春爛漫雨上がり快晴のなか、猪風来美術館の草刈りを午前中3人で少しできました。そして思う朝の五十鈴川だより。

 昨日午前中猪風来美術館の草刈りをした。参加したのは瀬政さん、この4年共に働いているkさんの3人である。本当は今日19日だったのだが、強力助っ人のkさんの都合が悪く、急遽昨日に変更した。私、瀬政さん、kさんトリオでの草刈り。やはり3人である。男3人、饒舌な私も草を刈っている時は集中し寡黙に草をかる。瀬政さん、kさんは普段も寡黙である。

瀬政さんは、折々五十鈴川だよりにも実名で触れているので、今朝はkさんのことにちょっとふれたい。kさんとは今のパートタイム肉体労働で出会えた。共に汗を流して働く仲間である。もう丸4年、コンビで働いている。詳細は割愛するが、古希を過ぎてからの新しい仲間としての出会いは、この労働を始めて二人めである。


これまでの人生で出会った友人知人とは全くことなる。共に働くとは、働いている姿をさらけ出している。そのような場で、息が合う関係性が育まれたことの喜びを五十鈴川だよりに刻んでおきたい。

世の中に出て、私が出会ってきた一言で言えば文化系のかたたちが多い。だがこの労働に従事してまもなく丸8年、とくに手術後であったkさんとの、この4年は、仕事がとても楽しい。

相性というものは、男女に限らずある。寡黙なkさんとは体言葉で通じ合える、あうんの呼吸で動けるし、機械や電気系に強いkさんは一言で言えば私の右腕頼もしいかたである。

十数年ぶりに70歳で企画したウクライナの音楽会に、共に働きはじめたばかりのkさんは駆けつけてくれ、翌年の沖縄の音楽会からは、毎年カンパもしてくださり、なおかつ当日本番のスタッフとしても、応援、支えてくださっている。

昨年の、猪風来美術館開館20周年記念イベントにも裏方として参加してくれた。今や付かず離れずの程よき関係性が持続、失礼なく打つが、五歳年下、頼もしき弟分である。共に働いていると、その人の人柄が如実に出る。臆面もなく打つが、そのようなkさんにどこか信頼されているから、猪風来美術館の草刈りお願いした。結果、猪風来さんご夫妻がとても喜んでくださったことを記しておく。

Kさんと私は美術館の裏の急斜面、素人ではちょっと難儀な、足場が不安定、手強い笹や蔓の太いのが行く手を阻む場所を刈ったのだが、久しぶりに汗をかいた。最初kさんも私も、斜面の手強さに手こずったが、高齢者二人何とかノルマを果たせて、嬉しかった。心意気。

瀬政さんも美術館の入口の斜面他を草刈り、高齢者の役に立つ存在感を充分に発揮示した。高齢者トリオでの午前中草刈りは、雨も上がり、本当に楽しかった。その楽しさは参加した者のみが味わえる、いわば役得である。午前中の数時間あんなに真面目に集中しての草刈りは仕事でもしたことがない。

お昼、トリオでお弁当でのお昼、ご夫妻がお茶ほか、甲斐甲斐しくおもてなししてくれ、雑談しながら美味しくいただく。皆笑顔で、ご夫妻の猪風来美術館開館当初の、昔の草刈りの様子や、野焼きをするにも作品の数がすくなかったことなど、めったに聴けない歩みのお話しも、リラックスした雰囲気で拝聴した。

猪風来美術館での、文殊の知恵、高齢者トリオの草刈りは私を活性化させる。こんなに高齢者がわんさかいる現代、得手不得手は置いといて、ほんの少しでも草刈りや、片付け掃除などがやれる、やりたい元気な仲間にお声かけしたくなった。意味もなく幼児がお砂場で遊ぶように、高齢者も楽しく体を動かす。損得、利害一切なし。ただ楽しい、気持ちいい、お金不要。縄文の精霊たちと過ごす草刈りは、理屈抜は不要である。

お昼の後、猪風来美術館の周辺の山野の新緑を眺め、野鳥の声に耳を傾け、貴重な本を一冊借りて、kさんの運転で帰路についた。一晩ぐっすり寝た。昨日、記憶に残る一日となった。

PS 今朝の写真は、村上よし子さんの絵本の写真です。2013年、2015年、2026年に発行された絵本、文章も。いずれも頂いたご本です。サイン✒️をこないだ訪ねた際お願いしていたのですが、素晴らしい絵いりのサインをしていただきました。ありがとうございます。その時に、私のことを、日高さんも表現者だよ、とおっしゃってくださり、私はそう思っているよ、とのお言葉を頂きました。そのようなことは生まれて初めて言われたので、正直とても驚き嬉しかったことを打っておきます。


2026-04-15

富良野塾時代に苦楽を共にした、スタッフM氏から忽然と届いた一枚の写真に思う、今朝の五十鈴川だより。

 先日上京した際に、なんと私のラインに突然富良野塾時代のスタッフ、年月的には同期であるM氏から、メールと二人で映っている一枚の写真が送られてきた。まだ私が塾に入って一年後あたりだとおもう。32歳、雪景色の一枚である。42年前の写真、インターネット以前、青春期の写真が極めて少ない私には、貴重な写真である。今日の五十鈴川だよりのなかで、M氏には心からの感謝をお伝えする。

この年齢になると、つくづく若気のいたり、(だからこそ出来たとも言える)苦楽を、あの富良野塾での最初の数年間を共に生活した面々は、理屈抜きで貴重である。よしんば、波長、波動、相性が遠い面々であれ、あの記憶のままなので、皆若い。M氏のメールが届かなかったら、私のなかでの、貴重極まる最後の青春期の思い出の宝として封印していたかもしれない。

花は散り.旧(ふるき)仲間の.声届く

だが、インターネットは運命さえ変えてしまう。一枚の写真は一気にあの時代へとワープさせる。M氏はスタッフだったので塾生とはちょっとスタンスが違っていたし、何よりも田舎育ちの私とは異なり、生粋の東京育ちで、年齢も私が最年長だったので、すべてにおいて異なるところが、お互いを結び付けたのかもしれない。よく酒を飲んで語り合ったものである。

打っていると、あの富良野の大地の風景が忽然と甦る。あの青春の終わりの富良野のでのすべての体験が、その後の我が人生大きく変えたことは間違いない。五十鈴川だよりはブログなので、簡略に記しておくが、卒塾してから、今もだが体を使って働く世界に大きくシフトした。

世の中の流れから逸脱し敢えて逆行、人生の後半は下ってゆきながら思考する。アウトドアで生きる道を選んだことで、現在まで歩を進めて来れたのだと思える。体が喜ぶ事に従事し、お金に振り回されない生活を心がける。その思いが叶った。40歳で中世夢が原で働く事になる。

アウトドア仕事の傍ら、時折企画の仕事をする。だれに教わったわけでもない、自然に企画が産まれた。18歳からの、都会生活での溜まりにたまったエネルギーが(東京生活、 又ロンドン遊学生活でのあらゆるジャンルでの感動体験が)中世夢が原で無駄なくいかされた、と思う。

話を戻す。もうお念仏のように唱える五十鈴川だよりになってきているが、馬耳東風流れるままに、その日暮らしの私に、届いた写真は(氏に会いたいくなっている)、無性に私を北海道に誘う。可能なら、なんとか年内雪が降る前に、運転できる間に数日間時間を見つけ、M氏や一期生の何人かにあえたら、幸せである。

もうすでに他界しているかたも(言葉をほとんど交わしたこともないかたもいる)おられる。M氏のようにわざわざ私の存在を探してくださるかたもいる。私が入塾したのが31歳、何しろ43年前に出会え、苦楽を共にした貴重な仲間である。会える時に会っておかないと後悔する。

そして想う。お互いに元気だから会える、のだ。そのことにおもいを馳せるとき、我が生涯の今に感謝せずにはいられない。

2026-04-12

昨日、猪風来さんご夫妻に会いに法曽に行ってきました。そして想う。(ゆく度にあらたまる原初感覚)

 起きてすぐ少し散歩をし、五十鈴川だよりタイム。今月26日は、猪風来美術館の春の縄文野焼き祭りである。昨日ほぼ一月ぶりに、新見の法曽にある猪風来美術館まで行ってきた。春の縄文野焼き祭りが近づいてきたし、新芽の萌えいずる春のドライブを楽しみながら、猪風来さんとよし子さん会いにいったのである。

猪風来美術館に魅せられる

いつまでも、ロングドライブができる年齢ではないことを、わたしは自覚している。だが今はまだできる。過信せず、体調を最優先しながら運転を心がけている。先の故郷帰省で久しぶりに熊本でレンタカーを借りたのだが、70歳以上は借りるのが難しい事を知った。結果妻が借りて、私が返すまで運転したのだが、あらためて社会的に充分に高齢者であることを認識した。

昨年二度めの高齢者運転講習を受けた。3年毎に講習を受けねばならないが、二人の兄もいまだに運転している。個人的には講習で不可能と言われるまでは、運転したいと思っている。

だが先ほど打ったが、過信せず、猪風来美術館までの日帰り旅のようなゆくのがたのしみなドライブは、過密な時間をなるべく避けて、田舎道の日本の山野の風風景を楽しみたい。

さて、昨日高梁から新見に入って、美術館までの細い道沿いの棚だのほとんどは、耕作放棄地なっている。最後の独りといわれているかたが、棚田を守っており、その水田には水が引かれていた。しばしみいった。私にとって棚田はもとより、水田に水が引かれ、稲が植えられる前、天が写る季節の到来は私がもっとも好きな季節である。

今は無き記憶のなかの幼少気の原風景、生家の玄関の硝子戸を開けると目の前は一面の水田であった。日本はお米の国、アジアはお米の国文化圏である。その日本の山間地域の特に急勾配の棚田を守ってきた零細農家の後継者はもう風前の灯火である。言葉にならないくらいに物悲しい。

先の旅で、現代日本の超過疎地と超過密地、両極端を行き来して、ますます痛く胸に染みたのは、そのあまりの極端さである。一方は人混みで満杯、我が故郷は若い人がほとんど人っ気がない。限界集落である。私の文章力ではそのあまりの極端差を上手く表現できないが、お金も含めて、持つもの持たない者の差がこの十数年で、開きに開いたのは、間違いない。

この世、宇宙、大自然、無数の微生物の恩恵で我々は命をいただき、生きながられている、その事への心からの感謝(私も含め)畏怖する感覚を、(とくに殺戮兵器産業に従事し、大怪我などもしたことのない、政治家や経済人、俗に権力に取りつかれているような人たち、他者の命に対する畏敬の念のなさ)、とっくに忘れてしまっている、としか思えない。

老いても、五十鈴川だよりを打てる間は、個人無所属者として発言したい。日本の文化の基層は比類のない縄文時代からこの日本列島の環境のなかで暮らし、生活してきた人々が紡いいでいできたのものである。その事を、猪風来さん、よし子さんから、いまも教わっている。

細長い日本列島、無数の島、四季の移り変わり、多種多様な無数の生き物、山、川、海(にかこまれ)その大いなる恵みを、一万五千年以上、循環する四季の環境のなかで、暮らし、生活して命を紡いできた縄文時代の人々が創造(想像)した比類のない世界に冠たる縄文土器に、心底みいられたのが、猪風来さん、よし子さん、ご子息の原野さんである。

長くなるが、もう少し。五十鈴川だよりを読んでくださっておられるかたはご存知だと思うが、この一年半、私は猪風来美術館に足繁く通っている。行く度に大いなるものへの感謝、恵みへの感謝は深まる。自分でいうのも(ちょっと気恥ずかしいが)なんだが、猪風来さん御家族の歩み、凄い作品をまえにすると、心身が浄化されるのである。

だから足が向かう。満足という文字は満ち足りるである。水田に水が満ち足り、大地がまさにいっせいに蠢きだす。その大地、土に生命力を祈りを籠めた人々が縄文土器を産み出した。一万五千年の長きにわたって連面と続いてきた命の文化が途絶えて後、数千年、猪風来さん、原野さん、よし子さんは縄文じんの生まれ変わりように、私には思える。



2026-04-10

荒城の月、春高楼の花の宴、の歌がしみる。花盛りの日本、今朝の五十鈴川だより。

 お爺、五十鈴川だよりを打ちたくなる春の朝である。今日は終日雨の予想である。孫との春休み旅を終え、戻って3日連続働いて、我が体はようやく普段の日常生活の戻れた安堵感に満たされている。

今年は既に二度も、お正月から家族(先の上京で)、門川の兄3人、姉3人(義理の兄姉含む)と会え、嬉しい。

世界はアメリカの一方的な理不尽極まるイランへの、国際法無視戦争で、いよいよ事によったら、どのような未来が(考えたくはないが、考えないといけない)、と暗澹たる気持ちを老人の私は持っている。

当たり前の石油消費生活も、一旦有事が出来すれば、なにごとも立ちゆかなくなる。そのような今という、魑魅魍魎時代の最中、私はのほほんと孫との旅が叶った、喜びを五十鈴川だよりに打ち続けている。

凄いお仕事をされている。
この絶対矛盾感覚を、おそらく五十鈴川だよりを打てる間は抱え、生きるしかない。

世の中に出て、56年目の春、孫と妻と3人で父母の墓前に詣る事が出来た、極めて個人的感慨は、在りがたいの一言である。

丸13年以上、右往左往(現在も)五十鈴川だよりを打ち続けて来なかったら、きっとこのような今は迎えられなかったに違いない。八年前、最初の孫が授かってからの私の人生は、超保守老人我が儘、あるがまま、その日暮らし的思考にシフトしている。

年金生活に入ってから今の労働を始めて、今年の夏で丸8年になる。明らかに孫が授かって、年金生活だけでは身も心も貧しくなると直感したのである。だから私は自分の一番好きな(その上身も心も鍛えられる)肉体労働を探したのである。

結果、その後、その選択が効を奏した小さな至福感は、野暮を承知で打つが図りしれない。ささやかな収入を最大限有効に使う。目線を低く大地を見つめ、目的を持ち働く。しんどいときは、一日に何度も雲の動き、(今の季節は樹木の葉や花鳥風月に)に目を向け、つま先を意識し、深呼吸をする。(呼吸法を実践する)

朝から、お金の話になったが、世の中に出て経済的に余裕のない生活を余儀なくされ続ける中で身に付いたとしか思えないのだが、足る感覚、ある中で何とかする。無駄遣いしない。目的の為に有効に使う。お金に使われない、あくまでしたいことのために使う。年に数回、妻や家族、仲間との時間を、そして独り旅が出来れば、もう充分である。あとは心身の健康、ただそれだけである。(身軽であることのなん足る解放感、放出すれば入ってくる)

欲望のコントロール、耐えながら、ちょっと夢を見る。そこに喜びを見出だす、妙である。なんびとも老いてできなくなる。出来なくなる日を見据える。今日やれる事を尽くす。眼にみえる贅沢ではなく、ぼろ(古い衣服でも洗濯してさっぱり着る)見えない世界を感じる感覚(何度も打っているが死者との対話、想像力)を大事にいきる。私には贅沢は不要である。時が宝である。

2026-04-07

7日朝、(5日、6日の出来事も時系列で)西大寺の我が部屋で打つ五十鈴川だより。

 6日朝である。寸暇打つ。昨日午前中、ノア、葉私の3人で井の頭公園で少し遊び(一時間ほど)、次女夫婦、風香五人で、11時オープンのレストランで早めの昼食を済ませ、お昼前のバスで、ノアと私は次女家族とお別れした。お別れを嫌がる葉の気持ちが私には辛かったが、最後はまた来るからと約束、握手して別れた。

私とノアは下連雀からバスで調布にでて、京王線に乗り換え、飛田給へ。駅で12時45分に長女と待ち合わせ、落合って、女子バスケットの決勝戦を観にゆく。長女は小学生のときに(妻も次女も部活でバスケットをやっていたので、バスケットが好きなのである)バスケットをやっていたのでバスケットが好きなのである。

私はスポーツは門外漢だが、長女のお供で付いていった。場所は味の素スタジアム、お隣では東京ヴェルディのサッカーの試合が行われており、日曜日の大都会のスポーツ観戦にどっと人々が押し寄せていた。場違いな場所に何故か忽然とゆくはめになった我が身、またもや修行と観念し、現代都市イベントをウオッチすることにした。開場が午後一時、試合開始は午後3時、それまでの間、トヨタ自動車とデンソウ両チームの選手の練習を眺めて、時間をすごしたが、退屈することはなく、滅多にない機会なので、ノアとバスケットを前半まで観戦し、ハーフタイムで、味の素スタジアムを後にし、一足先に稲城に帰った。

ここからは、7日岡山に戻って打っている。昨日もっと早く岡山に戻る予定であったのだが、ノアの春休みは昨日まであり、両親はもちろん仕事、ノアは最後プールに行きたいという。長女がノアとプールまで付き合ってくれないかという。私は娘が生まれて人生をやり返せたという経験を自覚している。従って娘の頼みには弱い。だが、老人の私は孫の頼みにはもっと弱い。

正直、寸暇考えたが孫との時間を優先した。6日夜、夕食後、娘がノアの同級生で仲の良いS君にお誘いのお電話をしたところ、S君も同道してくれ、ノアは一気に嬉しさがまし、頬が紅潮していた。少年時代の友達の大きさは計り知れない。そして昨日の出来事のあらましを、わずかでも五十鈴川だよりに打っておく。

今朝の我が家の金柑

朝食を済ませ、午前8時S君と稲城の駅で待ち合わせ(お母さんも駅まで来てくださっていた、S君はロングヘアーで一度見たら、忘れられないほどに個性的で、ノアのお友達らしかった)3人で京王永山駅に、そこから小田急線に乗り換えて唐木田駅でおり、多摩市の市民プールまで約10分あるいた。上野の博物館もそうだが、ノアとは意外な都会時間が過ごせる、ことをまたもやこの年で経験した。

そのプールは私の想像を超えた大きなプールで、老若男女それぞれの世代が、目的に応じて自由に過ごせる設備が整っていて、岡山にはない規模の巨大多目的プールだったのである。平日オープンの9時には既にかなりの常連と思わせられる、高齢者が行列していた。

当初付き添いのみで、私は水に入るつもりはなかったのだが、レイさんが私のために水着を用意してくれていたので、中を体感したくなり、二人の瑞々しい少年とともにオープンと共に、結果二時間ほどプール時間を過ごした。

この施設、お年よりには至れり尽くせりで、温水に浸ってリラックスしたりミストサウナに入ったりしているとあっという間に時間が過ぎ、上京の際には又もやノアや家族と訪れたい、と思うほど、すっかり気にいったことを告白する。

たくさんの高齢者が楽しそうに泳ぎ、歩き、温水で談笑している姿を私はウオッチした。私を含めた高齢者と共に、子供世代が時間を共有している。これが私には一番素敵なことに思えた。人は皆それぞれの今の時間を生きるしかない。なんびとも若返ることはない。

高齢者の一人一人全部異なる姿を、少年時代にたくさん目撃することは、子どもにとって、きっと後年なにがしかの意味のような想像力を養うことになる。とても良い施設を多摩市は設備していて感心した。

さて、今日から三年生、二人の好奇心のかたまりノアとSくんは、11時から始まるウオータースライダー(有料だがヨガ、太極拳なども習える)を二回ほどやって、この日のプールを終えた。終えて稲城に戻り、娘やレイさんと駅の近くのファミリーレストランで待ち合わせ、S君も一緒に昼食した。愉しい時間は瞬く間に過ぎ行く。

ノアとの思わぬ春休み、宮崎旅から始まって、最後はプール体験までの10日間、目まぐるしい移動旅ではあったが、何とか締めくくりの五十鈴川だよりも打てたし、終わりよければの心境である。最後の思わぬプールはノアのお友達S君が一緒だったので、付き添いお爺も実に楽しかった。二人が愉しそうにしていた姿が五十鈴川だよりを打たせる。

午後一時半、昼食を終えお別れ、ノアが春休み付き合ってくれてありがとうと、照れながら言ってくれた。お爺さんである私も照れた。これ以上打つと野暮になる。お爺にとってもよき春休みとなった。ノアありがとう。

2026-04-05

4月5日の朝、折々時系列にそって記録を、東京は三鷹下連雀の次女のマンションで寸暇打つ五十鈴川だより。

稲城の 長女のところから朝食後9時前に出て、調布に。そこから吉祥寺行きのバスに乗り換え、10時下連雀の次女のマンションに着いた。次女はお出かけしていたが、周さんと葉(4歳)と風香(8ヶ月)が迎えてくれた。葉は私の到着を待ち望んでくれていた様子で、早速約一時間風船で打ち合う遊びに興じ、今ちょっと、休憩、葉がポケモンを見ている寸暇、彼の横顔を見ながらわずかな時間打っている。風香はお休みに入り、周さんがお昼の準備をしている。

レイさんといい、周さんといい、そのかいがいしいという以外の言葉が見つからない。明らかに、私の世代とは異なる子育てをしている。いつも打っていることだが、嫌でもわたしも何かお役に立ちたい、言う気になる。と、ここまで打ったところで一旦中断する。

ここからは、周さんが作ってくれた、温かいネギタマゴうどん(コロッケつき)のお昼を済ませて打っている。お昼を終えて間もなく長女と娘の未彩(5月がくると3歳、しばらく前から始めたプール泳ぎ活動を終え)がやってくる。葉とミアとまたもや風船遊びに、隠れんぼのお相手をする。孫のお相手は正直一時間までが現在の私の体力の限界である。

それでも、きゃあきゃあ声を発し、無心で動き回るふたりのエネルギーを浴びながら、私はきゃつらの際限のないお相手にひーひーはーはー耐える。これも老いの身の修行と観念する。このようなことを打つと悟ったようであるが、この年になると、もう一日一日を無事に過ごす修行なのだと割りきっている。

やがて未彩のお昼寝の時間がきて、水入り。ちょうど外は雨がふってきてた。マンションへの一階にあるスーパーまで、お散歩がてら、周さんと、葉、風香、私の4人でアイスクリームを買いにいった。そのご、周さんが気を利かして、私にお休みくださいと一部屋当てがってくてた。だから寸暇打っている、のだ。

何気ない、日常のひとこまを、かくも打っておきたいという私の性は何故なのか、理屈ではない。とここまで打っていると次女が用を済ませて戻ってきた。再び打つのを、中断ずる。


ここからは5日の朝打つ。昨日次女が帰ってきたとこで中断していたので、その後を時系列にそって記録として打っておく。次女が餃子を包むだけに準備しておいてくれたので、私と長女と葉も加わって50個包む。次女と夫の周さんは風香の面倒を見ながら、家事のあれやこれやを。その間、いろんな他愛もない会話が寸断なく続く。ミアはその時はお昼寝していた。午後4時レイさんとノアがやってくる頃、私と娘二人葉の4人で一階のスーパーにお肉他の買い出し。次女がすべてを払った。戻るとレイさんノアがいて、ノアと葉はさっそく二人でゲームをして遊んでいた。私を入れて9名が次女夫婦のマンションにいると賑やかさが、半端ではない。大人の声と子どもの声が、途切れることなく部屋に充満する。年寄りの私は折を見て会話に闖入するが大半はただ会話に耳を傾けて、娘たち両家族の今の生活の様子を眺めている。次女がテキパキ指示し、長女二人で夕飯の準備が進む。その間に、私がまずお風呂を頂き、周さんが子どもたち全員をお風呂にいれ、5時過ぎからゆっくりと全員での美味しい夕飯をいただいた。焼き肉を野菜で巻いてたべる。ニンジンとモヤシのナムル、卵スープ、そして手作り餃子の豪華な家庭料理、私を含め全員が幸せな気分になった。昨夜結局ノアは上岡の家にとまることになり、長女、レイさん、ミアは午後7時前、稲城に帰っていった。私は午後8時過ぎ少し酔って、一番先に横になった。とここまで打ったら、次女、風香、ノアが起きて来た。

2026-04-03

4月3日、ノアと[超危険生物展]にゆき戻って寸暇打つ五十鈴川だより。

 昨日午前10時前の新幹線で東京へ。(車中佐藤愛子さんの、90歳何がめでたい読む。ほぼ読み終える。ご高齢での頭のしなやかさに感服する。)午後一時過ぎ東京に着き、中央線で三鷹へ。次女のところに寄って渡すものを渡し、風香の顔を見て、ハッサクを剥いて、少しやすんで、4時のバスで調布にでて、そこから稲城へ。午後5時に長女のマンションへ。

ミアを保育園に迎えにゆき、(ミアははにかみながら喜んでくれた)仕事でおそくなるレイさん抜きで、四人で夕食。長女が仕事の合間に夕食の準備をしていてくれた。(パスタほか)夕食後いちばん先にお風呂を頂き、ノアのベッドで横になって本を読んでいると、レイさんが帰ってきた。私は挨拶もそこここに、ノアと共に二段ベッドの上の段で午後9時過ぎ床についた。

またもやノアとの思い出が

ここからは3日の朝。6時半過ぎ起きると、全員が起きていて、すぐ朝食。食後少しお掃除を手伝い、8時過ぎレイさん、ノア、私はミアを保育園に送ってゆく。レイさんと娘はお仕事に。私はこれからノアと上野の博物館にゆく。お天気がいいので、気持ちがいい。ブログは一旦中断する。

ここからは、ノアと二人で上野の国立科学博物館で開催中の[超危険生物展]に出掛けて戻って来てから打っている。長女とレイさんはリモートで仕事中、ノアはそばで危険生物の写生をしている。だから私も五十鈴川だより、というわけである。

つい先日までは人の少ない我がふるさとで、人っけのない地方で遊んでいたのに、今日はノアと大都会の東京の上野を往復して、まあ同じ日本エリアの別世界を動き廻っている。なにか体が正直ついてゆけない。ではあれ、ノアについてゆくと、思わぬ場所にゆくことになるので、老いのみなれど引率を引き受け、上野まで出掛けてきた。

もう最高のお天気で、上野は動物園、博物館、音楽堂、などなどが密集しているので、春休みの陽気に国内外からの観光客で引きも切らない、人、人、人でごったがえしていた着いたのが10時過ぎチケットを買って並び、中にはいるまで30分くらいかかった。入ったら入ったで、芋を洗うような人混み、展示物をゆっくり見ている余裕は全くないのは、前回来た昆虫展の時と同じ。

ノアが行方不明にならないように、じっとその動き回る後ろ姿をウオッチし続けた。約一時間以上、ノアは展示物の写真を撮り続けた。正直、ノアが行きたいと言わなかったら絶対に私がゆくことはなかった。

結局お昼過ぎまで展示物を見て、お昼は上野駅のそばのライオン(ビールが有名)でノアの好きなハンバーグランチを二人で食べた。お昼を済ませ、ノアがもう稲城に帰って休みたいというので、ノアの言う通りかえってきた。宮崎から帰って、いきなり上野の人混みをうろついたら、それはくたびれないほうがおかしい。と言うわけで、私もしばし夕刻までのんびり過ごすことにする。

2026-04-02

東京は稲城に望晃、(のあ)を送ってゆく前の五十鈴川だより。

 ちょっと時間があるので、五十鈴川だよりを打つ。宮崎の旅から一昨日戻り、昨日家と図書館でゆっくり過ごしたので旅の疲れはいくぶんはとれた。とはいえ、心のなかにはあの旅でのあれやこれやが、老いゆく体にもあもあしている。

当たり前だがすべて、やがては忘却の彼方へとなる。だが私はそれが摂理受け入れる。だが拙い一文であれ、わずかでも残しておけば、ノアが大きくなったときに、読んでくれるかもしれない。

ともあれ、そんなことよりも意外な旅が実現したことの喜びから抜けきっていないのである。そのような案配のなか、今日ノアを東京に送ってゆき、先ずは長女ののところ、それから次女のところにも2日ずつ滞在するので、私は老体ながら忙しい。

小倉が浜でのノアと妻

孫の(孫たちの)生命力が、我が体にエネルギーを注いでくれているから元気なのだ。その反動がきっとやってくるだろうが、その時はまたそのとき、摂理に従う覚悟である。

ノアはまだ下の部屋で寝んでいる。(起きた、声がする)お昼寝はしない。起きるのは7時頃、寝るのは午後9時前、その間エネルギーを放出しながら、あらゆることを吸収し続ける。今は昔、かっての自分もそのような時間を過ごしていたのだと想像する。

まさにノアは幼少期から少年期へと向かう、真っ只中の渦中を生きている。そのような孫と偶さか夢のような故郷旅が実現した喜びは、極めて個人的な感慨であれ、打たずにはいられない私の性である。

話は変わる。いつもはほとんど一人で(とくにコロナの数年間は)帰省する我が故郷、これからは孫たちが成長するにつれ、一人での帰省は減る可能性がある。いまはまだギリギリのところで兄や姉が元気なので、和気あいあい我々を受け入れてくれるが、摂理、何人も寄る年波の中では、そうもゆかなくなる。その冷厳な事実の前のすれすれの、今、今回の旅が叶ったこと、身内の全員が温かく迎え、ノアの存在を祝福してくれたことの喜びを、墓前に感謝した。

世の中、殺伐としたニュースにことかかない。清々しいニュースや報道に接するチャンスは、私の場合甚だ少ない。もっと打てば、家庭が崩壊しているのではとも言えるようなニュースが引きも切らない。成長期のノアには聞かせたくないようなニュースが溢れている。私の場合テレビが来たのが10歳くらいであったから、その点よけいな情報に体が汚染されることもなく、限りなく天然、自然界からの直接情報のなかで生活できたことの幸福は、筆舌に尽くしがたい。

自然は手強く、恐ろしい。油断すると波に拐われてしまう。その冷厳な事実を、10歳くらいまでに理屈ではなく体で覚えることの大切さを、私は孫に伝えたいのである。自分の命は自分で守る。つまりは生き抜いてゆく、知力体力の基礎を10歳くらいまでに 身につけて欲しいのだ。

臆面もなく打つが、私が何とかこの年齢まで生きてこれたのは、幼少期、とくに10歳くらいまで、五十鈴川や小倉が浜で、ただただ体を動かして遊んだ中で 身につけた、体得した下地のお陰でなのだと、はっきり分かる。名前は知らなくても、虫、魚、樹木、植物、動物、雨音、風音、雲、夜明け、夕闇、漆黒の闇、森羅万象に感性を育てて頂いたお陰なのである。

知識などは10歳以降、いくらでもその気になれば取り戻せるが、あの幼少期のかけがえのない環境幼少期時代はいくらお金を積んでもえられないのである。その感性を育むためには圧倒的な大いなる大自然を幼少期に体験しておかないと、まずい。畏怖する感覚、その大切さを我が孫には、(すべての子供に)理屈ではなく体感して欲しい、のだ。私が元気な間は、年に数回は大自然のなかに放り出す、宇宙、自然界のなかの自分も一部なのだと頭を垂れる感覚を体得して欲しい。これは私の遺言である。

2026-04-01

望晃(のあ、3月で8歳になったばかり)と妻と3人で故郷への旅を終え、(新鮮なうちに記録を打っておく)戻ってきて思う五十鈴川だより。

 物のプレゼントではなく、思い出に残る長女の息子に、春休みお爺の故郷へ一緒に行かないかとノアに誘ったところ、行きたいとのことで、このまったく予期していなかった思わぬ旅が実現した。

私が嬉しかったのは、ノアと共に妻も行きたいと言ってくれたことである。細かいことに気がつき、移動計画ほかあれやこれや、私よりはずっとデジタルに強い妻の参加で、一気に旅の計画が具体化した。

熊本往復は新幹線、熊本でレンタカーを(3泊4日)かり、出発の28日土曜日は阿蘇をドライブ、ぞの日は高千穂のホテルに泊まり、翌日高千穂を観光、29,30日は長兄の家に泊まり、五十鈴川、小倉が浜他、私の故郷で遊び廻る予定をたてた。


タイトな計画を避けての旅、あくまでもノアのやりたいことを優先した。初日の阿蘇では動物にふれ合える元気の森がことのほかお気に召したようであった。夕刻高千穂のホテルに早めにチェックイン。

翌日はサクラを眺めながら美味しい朝食をすませ、午前中は高千穂渓谷や高千穂神社、天岩戸神社を詣で、ちょうどお昼門川について、高校生の頃に良く食べていた懐かしい天領うどんでお昼を食べた。

その後、門川から小倉が浜に直行、天気が最高でたくさんのサーファーが波と戯れていた。海で遊ぶ用意をノアは何もしているなかったのだが、誰に似たのか、いきなり繰り返し打ち寄せる波と戯れ夢中で遊び始めた。(インドア、ゲーム、漫画、本、ユーチューブ何でも、好奇心たっぷり)

広い小倉が浜、見渡してもノアいがいはすべて大人、春休み子供の姿はなかった。子供はノア一人。すぐにずぶ濡れになった。大きな自分の背丈位の波をかぶり、恐れながらも子供らしい声をあげながら、遊ぶ姿を私と妻は、スマホで何枚も撮った。

私の勝手なおもい。いつの日にかここで孫たちを存分に遊ばせたいとの思いは、故郷への旅二日目にして、実現した。春がきたとはいえ、海水はまだ冷たい、だがノアはそのようなことは気にもとめず、30分以上波遊びに興じていた。その姿を、老夫婦と孫と海をまるごと、味わえ至福感を覚えた。思い立って来て良かった。

左が次兄77歳 右が長兄80歳

午後3時過ぎ、着いてすぐ先ず姉の家に3人そろって挨拶に行き(姉夫婦大変喜んで、5人で記念撮影をし)隣の長兄の家についた。ノアは初めての我が兄夫婦や姉夫婦との邂逅、すんなり物怖じせずうちとけていた。

妻はすぐに海水に浸かった衣類他を洗濯させて貰った。義理の姉登紀子さんと妻はずいぶん久しぶりの再会であったのだが、あっというまにうちとけて、和気あいあい時間が流れ始めた。早速、二人で夕飯の買い物に出掛けた。

夕刻ノア、妻、私の3人で門川の心の杜温泉へ行った。戻ると登紀子さんお手製の刺身や、ノアの好きなハンバーグ、イチゴなどの心づくしの夕飯が用意されていた。私は登紀子さんが用意してくれた夕飯のやはりお刺身を、いちばんたくさん頂いた。この味こそが家庭の味、兄嫁の手料理をたべると(姉の手料理も)と故郷に帰って来て気がする、のだ。

翌日、ぐっすり寝て目覚め、美味しい朝食の後、3人でお墓参りをすませた。ノアは丁寧にお参りし、お水を沢山上げてお祈りをした。お墓参りのあとすぐ近くに住む次兄の家に挨拶に行った。次兄夫婦ともノアと妻の来訪をことのほか喜んでくれ、兄は植物が好きな妻にあれこれ自分が丹精込めた50年以上は手間隙込めた庭の植物について、説明してくれた。

傍らで私も聞き入った。(次兄夫婦は子供がいない、庭の植物が子供なのである)次兄が説明している間、ノアは庭のあちこちをリスのように徘徊していた。縁側でお茶を頂き、ノアに沢山のお菓子を頂き次兄の家を辞した。

その後、再び我々3人は昨日に続いて、ノアが行きたいという小倉が浜に再び向かった。午前9時半に着いた。平日の朝なのに駐車場の7割くらいが埋まっていて、すでにたくさんのサーファーが波に乗っていた。昨日と同じ、子供の姿は見えない。そこにまたもやノアが天真爛漫に波遊びに興じる。二日連続の波遊びに満足していた。お天気が心配だったのだがもった。

お昼は簡単、3人で小倉が浜の近くのマクドナルドですませ、その後、次兄の勧めた遠見山の展望台から我が町を一望に眺め、最後に小学生のときに最も遊んだ五十鈴川へ。ノアと石を投げをし、妻も共に楽しい時間を3人で過ごした。遊んでいると雨がポツポツ落ちて来たので兄の家に。

故郷で、砂と戯る、春休み

海、山、川を堪能。楽しいことはエネルギーを放出するので疲れる。雨音を聞きながらお昼寝をし、起きて兄夫婦と珈琲たいむ。しばし歓談、タケノコとフキの煮付けた初物をいただく。雨のお陰でよき時間が流れた。

午後5時かなりの雨のなか、5人で神田川というお寿司やさんにゆく。あと二日で80歳を迎えるという兄のお誕生会もかねての楽しい晩餐会となった。登紀子さんが運転してくれたので、兄も妻も少し飲んだ。雨足が強いなか早々に神田川を後にした。戻ってお風呂を頂きすぐに床に着いた。夜中、春雷が轟くのを時折耳にした。

そして昨日である。あさ起きてすぐに妻と二人で、我が心の乙島が見える港まで早朝ドライブ。戻ると次兄がお土産をもってやってきた。朝食をしながら寸団欒、次兄はノアがとても気に入ったらしく、お小遣いをくれた。

ノアははにかみくねくね体をよじらせ、照れながら喜んでいた。久しぶり兄二人と記念撮影が出来た。ノアは老人の心も軽やかに包んでしまう。子供とはかくも不思議な存在である。最後に姉に挨拶に。82歳の姉もノアに春休み記念、お誕生日のお祝いをしてくれた。

帰路を簡略に記しておく。兄の家を8時前にでる。雨がすっかり上がり清々しい雨靄の故郷の山並みを愛でながら、ほぼ満開に近いそこかしこの山野のサクラを愛でながら、五ヶ瀬川を北上、高千穂から五ヶ瀬町、山都町を抜け、熊本に入った。ちょっとだけ熊本城を眺め、お昼前レンタカーを返し、12時42分のさくらに乗る。座れた。車中、買い置いたお弁当で昼食。午後3時15分岡山着、25分の赤穂線に。午後四時過ぎ我が家に着いた。

PS 今朝姉からなにもおもてなしできず申し訳ないとのメールがきた。とんでもないことで恐縮である。元気な顔が見れただけで充分である。ノアの心に我が兄たち、姉たちが残ったことが私にはただ嬉しく、もうそれだけで悔いはなく、妻が参加し大満足の旅となった。。五十鈴川だよりが打てて言うことなしである。(一気に打ったので誤字脱字ご容赦あれ)

2026-03-25

杉浦日向子さんの濁貧の生活、という言葉に我が意得たり、今朝の五十鈴川だより。

 今年から水曜日もOFFにしたので、以前より動と静の生活バランスが良くなってきた。年齢的に労働時間を抑え、思索、思考時間をもっと増やしたくなったのである。清貧の暮らしではなく、濁貧の暮らしと言ったほうがぴったしである。

ゆっくり学ばせて頂いてます。

18歳で世の中に出て、井の中の蛙を身に染みて後、なんとかみすぎよすぎ、この年まで生きて来れた事実に、言うに言えない感慨が時折おそう。

それを言葉にすることはかなわない。絶対矛盾を承知で、老いゆくその日暮らしを面白がり、五十鈴川だよりを打つ。

濁貧という言葉は、江戸学に造詣の深かった、故杉浦日向子さんの言葉である。(時代を間違えて生まれてきたかたである)生まれは私よりも若いのに48歳で他界されている。(姿は見えねど今も彼女は生きている気がする)

私は杉浦日向子さんの描いた漫画を数冊もっている。先日、たまたま図書館で彼女が遺した、今も読者に読まれ続けている、私を撃つ言葉に出合った。自省、反省する。

この年齢で出合得たからこその、彼女の言葉が老人の私に染み入ってきた。私は人生の折々にずいぶん痩せ我慢(特に40歳まで、岡山に移住するまで)をして生きてきた。ときに歯軋りを伴うほどに。

それが良かったのか、悪かったのかは、いまはまだ語らずといったところだが、ようやく(それにしてもあまりに遅いとはおもうものの)にして、いわゆる終着点(本当に弱ったら文章なんか打てないので元気なうちに打つ)の気配のような感覚が増すにつれ、あらゆることに我欲の執着心が限りなく薄くなってきたのである。(普通の人ならもっと早く気付いて然るべきところ私は遅い)

もっと打つならば、執着心を手放す解放感に向かいたい、浸りたい、一切合切から身軽になりたい(そんなことは不可能を承知で)なんてことを、忽然と想い、夢みるのである。手放したが故にこそ、新たな地平にたどり着けそうな気がする。そのようなときに杉浦日向子さんの言葉が、染み入ってきたのである。自由(自遊)、理由はなく、今の日々のこの世を慈しむ。

私のこれからの現世時間の中で、先人たちの遺した言葉、(生き方、死に方)に耳を傾け、心を澄ますことに重きをおいて生活をしたい(のだ)。人は生きてきたように死を迎える、と何百人者方たちを看とった、高名な堀鴎一郎先生(このようなお名前だったとおもう、間違えていたらすみません)がおっしゃっていた。

長くなるので割愛するが、杉浦日向子さんの言葉で、いよいよの後期高齢者老人生活をいかに送るのか、答はないと知りつつ、今後、益々ものを想う時間の過ごし方を大切に生活したい。

話は変わるが、金曜日8歳になったばかりの最初の孫、望晃(のあ)が春休み帰って来て、翌日の28日から3泊4日、私と妻と3人で故郷、門川へ旅する。ノアは私の故郷は初めてである。濁貧生活の中に、時折思いもしない出来事が起こる。一日一日の積み重ねのご褒美と勝手に思っている。私がこの世から不在になっても、孫の思い出に、我が故郷が記憶にのこるような旅がしたい。これ以上打つと野暮になる。


2026-03-21

草取り作業の、面白さにハマり、そしてもの想う、今朝の五十鈴川だより。

 昨日はお彼岸、春分の日であった。日の出が早くなり、今日もお天気が良さそうで、午前中義父のお墓参りに出掛けるまで時間がある。起きて数時間が、今の私の頭がもっともニュートラルですっきりしているので、ほとんどの五十鈴川だよりはこの時間帯に打っている。

中世夢が原から移植した水仙

さて、5年前のこの季節、私は病院に入院していた。いつ入院したのかは覚えていないが、退院した日は忘れることができない。23日である。69歳になってまもなくコロナ渦中の大変なときに、高熱が引かず緊急入院、運よく陰性で即手術となった。

簡潔に打つ。三回手術し、入院していたのはわずか3週間である。敗血症も併発していたので、生まれて初めて死が頭をよぎった、が幸運にも私は生き延びた。

退院した時の体重は53キロ、妻の迎えで、別人、弱々しい姿で家にもどった。退院後、先日退職されたTさんから、再三お電話をいただき、3週間もしないうちに肉体労働に復帰した。

Tさんから無理せず体を動かし、職場でリハビリせよとの言葉にしたがったのである。初日一時間、徐々に時間を増やし、一月後には元のように体が動いていた。あれから丸5年、極めて平凡な日々を、有り難き日々と感じ続けられている。退院後一年間お酒を絶っていたが、先生からビール、日本酒はだめだが、蒸留酒なら飲んでもいいとのお達し、すっかりハイボールが好きになった。

臆面もなく打つ。存在できているだけで足りている。この5年の間に、手術した時には一人だった孫が、4人になった。体重も61キロに。

さて話は昨日の続き、退院後の生活に生気を頂いた肉体労働、3年前から相棒が(それまでは一人でやっていた)加わった。すこし余裕ができたこともあるが、特に冬場、アスファルトの隙間から間断なく伸びてくる草を採る作業を、相棒と共に昨年の冬から、腰を入れて取り組んでいる。

正直、このような難儀な姿勢での根気のいる作業に、年齢的にも自分の体が喜びを覚えるなどとは想いもしなかったのだが、今私はこの地道な作業をどこかで楽しみ面白がっている。単なる目の錯覚で(草は決定的にまた生えてくる)あるにもせよ、採取.before.after ではまったく様相がことなる。

手入れがゆきとどいている、という自己満足感に浸れる、のだ。だが決して無理はしない。尺取り虫の要領、休んでは動きを繰り返すだけである。

この難儀作業、よもや相棒も加わるとは、期待も思いもしなかったのだが、相棒も根気よく従事している。お互いあうんの呼吸、だから必然的に関係性も深まる。何事も続けていると、体が自然とコツを知らせてくれる。

日本語には座る以外にも、しゃがむ、這いつくばる、という言葉がある。目線は大地に根をはる草に集中する。雨の翌日はTさんにお願いして特注で作ってもらった、草かき棒がことのほか役にたつ。作業が捗る。この面白さは、薪割りを体得した面白さと同じである。

重機や草刈り機がない昔、人々は腰を屈め、稲、根菜類の収穫など、直立歩行人間には難儀な姿勢での労働に、なん百年も従事していたはずである。もちろん私のご先祖も例にもれない。

富良野で初めて大地に這いつくばり、中世夢が原でも薪割り等の普段現代生活ではやらない体の動きを、何十年も続け、66歳から今に至るも、体を動かし続けて来なかったら、きっとこの草取り作業の面白さを、体得することはなかったともう。

そして想うのである。昔から人は苦しい生活や、労働のなかにも、なにがしかの喜びを見つけていたのに違いないと、私はおもいいたったのである。一見単調な動きの繰り返し、だが体は老いても、未だつつうらうらまで活性化する。気付くとずいぶん捗っている。老人の私には、安全でぴったしの仕事、何より天ノ下で思い通りに春の訪れのなか、地中のミミズが動くように、大差かわらず、私も動く。

夜、日中動いてくれた体を休め、就寝前体の手入れ、20分程度の体操を電気をつけず闇の中でする。暗いなか、これもはまっている。今年から始めた。千住真理子さんがやられていることを、私も真似している。おかげで以前にもまして、ぐっすり眠れる。寝て起きて働いて、合間合間に好きな時間をすごす。限りなく昔人にあやかりたい、というのが今の私の元気の元である。


2026-03-20

古い落丁のある、ボブ・ディランの詞を(詩集)の書写を(全部ではない八割程度)終えて思う、春の朝の五十鈴川だより。

 ちらほら桜の開花が告げられる季節の到来、等しく万人に春はやってくる。ウキウキ嬉しい。今日から三連休である。五十鈴川だよりを打つ気はなかったのだが、休日でも、ほぼいつもの時間に目が覚めたので、ゆっくりとコーヒーを飲み、ボーッとしていたら、なにやら綴り打ちたくなった。

私のことだから、いつまで続くかはわからないが、今年は年明けから、真面目に気に入った文章や、歌などを書写している。2月の中頃図書館でボブ・ディランの歌詞集を見つけた。長くなるので、簡潔に打つ。私はボブ・ディランの熱いファンではまったくない。

だが、思春期にライク、ア、ローリングストーン、風に吹かれて、時代は変わる等の、ハーモニカをぶら下げ、あの独特の声と歌いかたに、直感的に引かれ、影響を受けたことは間違いない。見果てぬ世界への誘い、とでも言うしかないなにかに、田舎者の私は連れ去られたのである。

学ばせていただきました

あれから55年以上の時が流れ、まさに時代は代わり、あの当時の生活にはなかった品物(武器を始め、世はまさに隔世の感)が溢れ、音楽も、小説もAIが(まったく私はその方面に疎いが)作れる、私には理解の及ばない、奇異な時代を、お爺さんになった私は生きている。

そのようなときに、たまたまボブ・ディランの詩集にであったのである。52年前、1974年に出版された本で、かなり落丁がある本であったのだが、書写をしたくなったのである。一月位かかると踏んで始めたのだが、結果3週間とちょっとで終えることができた。(ノート一冊とちょっと)

ボブ・ディランの詞を、翻訳日本語で読むことは、限りなく別な作品を読むことなのだと思いながら、書写を続けた。終えて思うことはやって良かったということである。

(今の日本にボブ・ディランのようなソングライターがいるのかいないのか、浮世離れの老人の私は、寡聞にしてしらないが、多くの名もなき弱き人々の声を、救いとる歌人の不在が、時代の不幸なのだと思える)

そして、岩波から出版されている新しい翻訳を手元に欲しくなったこと、この年齢で再びボブ・ディランを聴きたくなったことである。(千住真理子さんをきっかけに、何十年ぶりにわたしは好きな音楽を再び聴きたくなっている)

話は変わる。私は好事家的に本を読んだりはしない。あくまでも本を読むのは生きるためであり書写を始めたのも、そうなのである。五十鈴川だよりを打っていると自己満足の安寧がやってくる。書写もそうなので続けられる。もっと打てば、日本語の文字を手で書いていると、この老いゆく体が言霊に癒され安らぎ、気持ちが良くなるのである。

昔の人が詠んだ、俳句や和歌なども書写していると、なにやら昔人と交信しているかのような心持ちになる。枯れつつも微かな想像力の翼にたゆたい、荒涼とした潤いのない現世から逸脱時間が過ごせる(のだ)。

自己満足以外の何物でもない。しかもまったくといって良いほど自己完結、他者に迷惑をかけない。お金が不要、ノート、紙、インク代位である。書写以外に最近私がはまっていることがもうひとつある。それは明日打つことにする。

2026-03-18

84歳、草刈を終え颯爽と軽トラで帰ってゆくIさんの後ろ姿に打たれた、今朝の五十鈴川だより。

 昨日ちょっと嬉しいことがあった。私のバイト先は広いので、私と相棒の二人では手が及ばないエリアを、年に4回、シルバー人材センターの方たちが5~6人位やってきて(今回は数週間、高く伸びた枯れたすすきや葦を刈っていた、大変骨の折れる労働である)草を刈っている。その中の一人のかたが午後突然私のところにやってきて、今回は今日で終わりだと、わざわざご挨拶に見えたのである。

今日の五十鈴川だよりはkさんとの共作

何故ご挨拶にみえたのかはわからない。その方があまりにしゃきっとされていたので、思わずおいくつですかと訊いたら昭和17年生まれだという。私よりも10歳年上84歳である。

小柄だが背筋がしゃんとしていて、かっこよかった。久々、私よりも歳上で、草刈仲間で、話し方も含め、気持ちの良い老人に、昨日私はであった。笑顔が素敵でまた会いたいと思ったので、お名前を伺ったら、向こうも私の名前を訊いたので応えて、再会を約束した。

五十鈴川だよりは、その日暮らし、年寄り通信になっている。老いゆく一日をいかに気持ちよく過ごせるかに、重きをおいた生活を心掛けている。が正直、日々の生活の中で、爽やかで清々しい老人に出会うことは、私の場合稀である。

そのような日々の中で、出会えたIさん、今も打ちながら先輩の笑顔が浮かぶ。果たして10年後、Iさんのように草刈ができるだろうかと、自分に問う。私の答は、比較はしないで自分なりに一日を積み重ねてゆくしかない、という結論になった。ただ限りなく積み重ねてゆく希望を私はIさんの後ろ姿にみた。

これからの年齢を刻むお手本を、身近に見つけることができた喜びはひとしおで、そのことが私に五十鈴川だよりを打たせる。80歳を機に退職されたTさんしかり、今私が日々の足元生活で生き甲斐ともなっている労働仲間は、バーチャルなお付き合いではない。体を動かし、ともに寒さ暑さ、苦楽を共有するかけがえのない仲間である。

そのような仲間と、気持ちよくアウトドアで、バカな冗談を交わし晩年過ごせるなんて、私は至福である。皆、紆余曲折それなりに人生を歩んできた高齢者なので、都合の悪い時には支えあえる。(家庭の事情や長期のお休みなどで)

前回の五十鈴川だよりで打ったが、音楽会などの企画を止めるというのではなく、老いゆく仲間と、愉快に過ごす、少人数での終を見据えた(よしんば実現しなくとも)、自分でも思いもつかなかった、ようなひとときを演出する企画が、可能かもと夢みる。私ごとき、この世はつかの間の、夢のまた夢、だからこそ現実我が体を動かし、思いを共有できる仲間を大切に生活したい。私はすべての今を生きるすべての仲間と存在しているのである。

PS 今朝の写真は山梨に住む、女性の友達kさんから昨日送られてきた写真(昨年、数十年ぶりに再会を果たすことができた、73歳で企画しなかったら再会はかなわなかったかも、あれやこれや物語かしたくなるほどに、偶然を必然かしたくなる)

Kさんへ。妻同様私も富士山が歳と共に好きになり、老い先をみつめるとあらゆる生き物、つまりは森羅万象がいとおしく、慈しみたたくなる。よい写真ありがとう。(日本に生まれてよかった)上京した折、タイミングが合えば、ハイボールを飲みましょう。また写真送ってください、写真友達でいてください。(富士山の、写真いただき、春がきた)


2026-03-15

岡山の奥座敷、猪風来美術館、吹屋探訪、高齢者3人日帰り和気あいあい旅、翌日の五十鈴川だより。

 五十鈴川だよりを打てる朝がきた。昨日、共に働いているkさんに運転してもらって新見の猪風来美術館、吹屋を訪ねるワンデイトリップに出掛けてきた。

元仲田邸の離れの風雅な2階のお部屋での3人

[私は66歳から、今に至る(この夏で丸8年)この間パートタイム肉体労働を続けている。当初こんなにも長く働けるとは思いもしなかった。

今では単なる労働という概念を超えて、動ける喜び、働けることの在りがたさのような感覚が、大きな手術の後、古希を過ぎてますますふかまっている]

その労働環境で出会った、私より6歳年上のTさんが80歳を機にこの春、退職(週に3日来られていた)することになり、ご苦労様昼食会ワンデイ日帰り旅をしてきた。私をいれて3人での気まま旅を記録として、五十鈴川だよりに打っておく。

朝8時、kさんが私をピックアップ、続いてTさんを乗っけて、そのまま2号線バイパスに入り、岡山を抜け、総社から高梁川沿いを走り、猪風来美術館に10時半頃到着した。

紅やの主大場氏と。

約一時間村上よし子さんの解説付きで、館内展示作品を観賞した。村上よし子さんの新作タペストリーも展示されていて、作者のお話も聞くことができた。

(新作タペストリー、原野さんへの祈りが余すところなく、織り込められていて打たれた、新作の絵本も頂いた。これまでにも絵本を頂いた、近々ご本人のサインを頂きたいと思っている)

齢80歳で、いきなり異次元縄文、猪風来、村上原野作品を体感したTさんは、子供のようにあれこれよし子さんに質問をされていた。嬉しかった。年齢関係なく感じる人は感じる。案内して本当によかった。

あっという間に時間がたち、短い時間だったが猪風来さんよし子さん含めて、五人でお茶を頂き、そこから宇治の元仲田邸へ。12時20分着。地元のおばあちゃんの手作りお弁当を、趣のある江戸時代に建てられた家の和室で3人で頂いた。美味しくてあっという間に平らげた。Tさんもkさんも笑顔であった。

元仲田邸の管理人であるO氏は、中世夢が原で私が働いていた頃からの知り合いで、私の企画のほとんどに足を運んでくださっている。その彼に予約を入れておいたのだが、昼食後離れの風雅な趣のある建物(カフェで)で庭と宇治の山、田園風景を眺めながら、1950年代のレトロなアメリカ音楽を聴きながらしばし珈琲たいむ。

O氏が心込めて淹れてくれた。サイコーのおもてなしビスケット🍪付き(大きめのこれまたレトロのカップに)なみなみコーヒー。つかの間の至福感に浸った。kさんはこんなところで昼寝したいといっていた。しかりである。

O氏のカフェ、元仲田邸の建物の熱い説明に、Tさんもkさんも聞きいりつつ、二階からの眺めにいたく感動していた。桜がいい季節に、妻を伴いまた行きたい。珈琲タイムの後、Oさんが経営するカフェ、紅やがある吹屋に移動(元仲田邸から6キロ)し、ベンガラの里をしばし3人で散策した。紅やのすぐ近くで札幌から移住し、釜戸ご飯店を営む女性とも談笑できてほんわかした。(このような場所で富良野の話をするとは、まさに小説より奇なりである。)

Oさん含め、最後は70代男カルテットで、和気あいあい写真を撮り、愉快なひとときが過ごせ、小さな幸福感に包まれた。午後3時過ぎ、再会を約束し吹屋を後にした。復路は高梁から賀陽を抜け、岡山市内を迂回、2号線バイパスに入り側道をおり、朝とは逆Tさんをおろし、6時前に我が家へ。その後、kさんから無事に着いたと連絡があった。

おおよそ10時間の、岡山奥座敷探訪、高齢者男3人での日帰り旅、音楽会とかのイベントを、企画することばかりが企画ではない、その事を私自身が思い知らせれた、日帰り和気あいあい旅となった。今現在を共に生活し多くの時間を共有している、身近な仲間との交友をこそ大事にしたい。(大事な仲間との数人での和気あいあい旅は、私にとって老いゆくなかで、新たな気付きの啓示の予感、滅多にないからこそ素晴らしく思える)

2026-03-11

昨日は母の命日、東京大空襲、今日は東日本大震災の日に思う、五十鈴川だより。

 水曜日は労働OFFにしたので、五十鈴川だよりを打てるのが嬉しい。昨日は母の命日、そして東京大空襲の日、そして今日は東日本東北大津波、原発事故大災害の日である。あれから15年の時間が流れた。五十鈴川だよりを打てる間は、この日のことは忘れない。すべての死者の冥福を祈る。(やがて私も死者になる)

桑江さんご夫妻に出会え幸福である。

個人的に1月、2月、3月は両親、義父の命日が続く。また家族のだれかの誕生日が続くので、例年いやでも死者を悼んだり、生きてこの世に在り、穏やかに健康に平凡に生活出来ていることにたいする感謝の念は、私の場合老いとともに深まる。

近年、私にとって春が来るまでの冬の季節は、五十鈴川だよりをうち始めて以後、死者へのおもいを深める時間であり、またこの間に授かった孫たちとの出会いで、あらためて命の摩訶不思議さに気づかされ続けている時間でもある。

人生の持ち時間は有限である、ということを、今年からかすかに実感しつつある。還暦までは、頭では理解はしていても、限りなく実感がともなわなかったのだが、元気に思考、動ける時間は有限である。

とはいえ、ありがたいことに、いまだに肉体労働がパートタイムでできる体力が在り、五十鈴川だよりも打てる。だからこそ時間を大切に生きたい。何人も歳を重ね、程度の差こそあれ老いる。厳粛な自然の摂理に私は抗いたくはない。老いは哲理、病気ではない。体力が無くなってきたら、きっと気力も萎える。だからこそ今が、一日が大切になる。

世の中、人生100年時代とのたまうが、あくまでもその人らしく、生をまっとう出来ることをこそ、私は望む。自然に抗うのは不自然である。生まれたばかりの赤ちゃんがなにもできずお母さんの手を借りるように、何人も最後はどなたかの手を借りるのである。その自然哲理に私はあやかりたい。でもギリギリまでは命を(思考する楽しみ)みつめられたら、言うことなしである。

話は変わる。私が生の有限をかすかに実感し始めたのは、やたらと昔のことを懐かしがる、というか、その懐旧の念の深まりが、日に日に濃くなってきているのを感じるからである。現世に生きている喜びもさることながら、昔の思い出(善きことばかりではない)によって、(故郷回帰願望はその最たるものである。)再び生き直しをしているかのような感覚(錯覚であれいいのである)を感じるからである。

その事で打てる(書ける)打てないは別にして、打てる範囲で打てるうちに、孫たちにお爺の思い出を残しておきたいという気持ちが湧いてきている。今はまだ、生きるのに忙しいけれど、五十鈴川だより(のなかで、タイトルは未定だが、孫たちへ)、なにがしかの文章を遺したい。明らかなことは体力がなくなったらうてない、からだ。

老いると昨日できていたことが、突然できなくなる。なき父が26回連載していた新聞記事を遺してくれていたことで、今、私がどれほど日々生きるエネルギーをもらっているか計り知れない。また、母が晩年病をかかえ、病床からの葉書が手元にある、宝である。

PS 今日の写真は昨日送られてきた、桑江良健さんの回顧展のお知らせ。最後の個展になるとのことである。出会えて30年の関係性。このような人物と出会えて言葉がない。幸福である。

2026-03-08

2月から、長周新聞の購読を始めました、そして思う、3月最初の五十鈴川だより。

 3月最初の五十鈴川だより。国際法無視、アメリカ、イスラエルによるイランへの空爆ほかの報道映像、ガザ、ウクライナ、終わりの見えない戦争地獄エリアの映像に、老人の私の感覚は麻痺している。想像を絶する。編集され切り取られた映像をいくら流されても、ごく普通に生活している民衆の痛み、苦しみ、慟哭は、哀しいかな実感できない。そして深い深い世界の真実は巧妙に隠蔽されているようにしか思えない。


だが、80年前のこの日本で3月10日、何百機の(正確な数はわからない)B29による焼夷弾の一晩の空爆で、東京都内の死者はなんと10万人に及んでいる。一晩でである。

そのあまりのすさまじさを、作家の永井荷風や谷崎潤一郎、半藤一利、太宰治、向田邦子、山田風太郎、北杜夫などなど、また芸人の徳川夢声、古市ロッパ、などが日記に残している。

西川清史著、[荷風たちの東京大空襲]を読むと、そのあまりの生き地獄、阿鼻叫喚の、まさに言語を絶する様子が、赤裸々に綴られている。齢74歳の私がいま読んでも、この世の地獄絵が彷彿と想像できる。人は極限状況におかれたら、豹変することでしか生きられない。誰がその事を非難できるであろうか。ただあの極限のなかでも、自ずとそのひとらしさは 文章から浮かびあがってくる。自問、自分が極限状況におかれたら。やりきれないが、きっと豹変する。だからこそ、平和で生きられる今をこそ大事にしたい、のだ。

この歳になって、というのは、老い先が短くなって思うことは、孫たちや未来の日本を担う人たちにも平和。穏やかな日常生活が送れる平凡な日々を、と願わずにはいられないからである。

私を含めた、戦後生まれ、平成生まれの娘たちには、皆目そのような艱難辛苦世界は想像だに出来ないことである。が、80年前、とくに東京ほか日本の大都市は空爆され、今のイランやウクライナやガザでの悲惨極まる阿鼻叫喚地獄絵を、都会にすむ人びとは経験したのである。

戦争エリアの人々の、想像を絶する苛酷な生活状況の理不尽さに、老人の私など思考停止に陥りそうになるのだが、老いてはいても無関心だけは勉めて避けたい、という気持ちが五十鈴川だよりを打たせる。

話は変わるが、2月から購読を始めた地方発、下関の長周新聞(一週間に数回郵送され、見開き四ページ、読みやすい)、老人の私には読みやすい。大都市の新聞社とは全くといっていいほどスタンスが異なる。庶民生活者の視点が揺るがない。そこがいい。じっくり目が通せる。

ほとんどが世界の大都市(政治、経済、文化、メディア、テレビ、ネットフリックス等の娯楽番組含め)からの、映像情報に対して、活字好きの私には長周新聞は新鮮である。軽重浮薄な人生歩んできた私には、教えていただくことが多い。

先の大戦で知らされた日本人の、大きな流れに染まり易い体質(私などご多分にもれない)は、ゆめゆめ油断してはならない。幸い言論の自由が国是として憲法で保証されているので、五十鈴川だよりを打ちながら、一人のお爺さんとして、何よりも穏やかで平凡な、マイナー日常生活の有り難さを金太郎飴のように打ち続けたいと、念う。

PS 私の両親は、北朝鮮からの引き揚げ者なので、一面の記事、すぐに読ませていただきました。あまりにも読むのが辛い。


2026-02-28

2月最後の土曜日の朝、千住真理子さんの(続ける力)という本にエネルギーをもらい、ボブ.ディランの詞の書写を始め、思う五十鈴川だより。

 土曜日、もう2月が過ぎる。今年は、その日暮らし老人生活を、今のところいい感じで過ごせている実感がある。打てる時に打っておく五十鈴川だより、日々感謝、ただそれだけである。当たり前、ある日突然五十鈴川だよりは終わる。だがその日までは打ちたい。打ち続けたいという願望が消えない。


さて、いまだ労働者として、副業で日々の生活の幾ばくかの糧を得ている身としては、健康こそが全て、そのコンディション調整こそが、今を生きるその日暮らし生活者としては、第一義である。健康が損なわれたら、五十鈴川だよりは打てなくなる。

統計というものによれば、いま男性の健康寿命は73歳あたりであるとのことである。私はすでにその年齢を過ぎている。そういう意味ではありがたき日々を私は送っている。

ところで、昨年秋千住真理子さんの、続ける力(その事は書いている)という本を読んで、痛く感動した。(今も手元にある)

長くなるので簡略に打つ。真理子さん(と呼ばせていただく)は私よりも10歳年下である。生まれ落ちた時代も環境も、すべてのことがあまりにも異なる。私はヴァイオリンに触れたこともない。だが事実打たれた。別世界を生きておられる方の本を読んで、何故私が感動するのか、を縷々説明するきはおきない。

本を読んだことで生まれて初めて、千住真理子さんの演奏を、昨年11月8日東京の八王子で聴いたときの私の驚きは、すでに五十鈴川だよりに打ったので割愛する。日々謙虚に修練する、続ける、続けられるその泉のようなエネルギーの源を、続ける力のご本のなかで、赤裸々に吐露されている。

私は若い頃から、持続力が、限りなく乏しく、世の中に出て飽きっぽい性格の自分を時にもて余し、苦く暗い青春の日々を送っていて、20代の終わり、このままでは駄目になるという、言うに言えない感情におそわれたことをいまだに私は忘れない。割愛するが、自信が湧いてきたのは富良野での労働体験以後、30歳を過ぎてからである。

ところで、千住真理子さんは一度ヴァイオリンを二十歳の頃手放されたことをご本で知った。天性のヴァイオリニストにしても数々の試練、挫折を乗り越えて現在がある、のである。

今現在も智力、体力を研ぎ澄まし、鍛えておられ、プロの水面下での日常がユーモアをもって綴られている。真理子さんのご本は、今を生きるすべての人に開かれている。その日暮らしの老人にも、限りなく勇気を与える。

その日暮らしの充実を図るために、一日でも長く肉体労働従事者で在りたい、との覚悟が深められたのは、千住真理子さんの本を繰り返し読んでいるからである。その本に触発され、この数年、折々続けていた、好きな言葉や文章の書写を、本格的に2月16日から始めた。

2月20日から時間を見つけて、ボブ.ディランの詩、歌詞を書写している。200以上はある歌詞を書写するのにはかなりの時間がかかる。だがもう決めて、手は動き、すでに全360ページの130ページまで進んでいる。わくわくすることは続けられる。

全く未知の、別世界の方のご本から、このような刺激を受けるとは思いもしなかった。そのような体、いまだどこかわくわくする心を老いてますます大事にしたい。さて、思い付いて始めたボブ.ディランの書写、いまの時代を予見するかのような、歌詞の内容のそのすごさは時代を鋭く撃つ。そして時代をこえる。書写しなかったらボブ.ディランの詩にも出会うことはなかった。

PS 今朝の写真は三鷹の娘のマンションの入り口に聳えるヒマラヤ杉の写真です。撮影者は長女の旦那さんのレイさん。彼は写真のセンスがいいので、時折五十鈴川だよりに載せたいとおもいます。

2026-02-25

ひさかたの雨の日に思う、午前中五十鈴川だより。

 ひさかたぶりの雨である。我が家の妻が丹精しているわずかな野菜、花などはきっと喜んでいるはずである。今年から水曜日も労働はオフにしたので、やはり余裕というてんで正解である。自在に気の赴くまま好きなことに静かに専心できる。

東京大空襲3月10日は母の命日である。

父の命日、2月5日を過ぎてから、ゆっくりと書写の時間が増えてきた。まず以前からやろうとおもっていた百人一首の書写を(万年筆で)終え、いまボブ.ディランの詩集に取り組んでいる。

何故、ボブ.ディランの書写をするのかの長い説明は省くが、ディランは今年85歳だという。18歳で世の中に出た頃、意味は深くはわからないのに、直感的にやるせなさとともに、あの声とハーモニカが、島国の田舎の少年の心に染みたのである。

時代は変わる。風に吹かれて、を聴くことがなかったら、まず広いこの地球のわずかではあれ、異国への旅をしようとは思わなかっただろう。あれから半世紀以上の歳月がながれ、お爺になって、あの吟遊詩人、歌人の詞の内容を、翻訳であれ、少しでも知りたい、解りたい、でないと、悔いが残る、と思ったのである。

この三日間、今朝も二時間ほどやったのだが、当たり前、時間がかかる。疲れる。でも楽しい。刺激がある。良くはわからない箇所が随分とある。が、想像力が刺激される。だから楽しい。そして続けられる。ウディー.ガスリーに捧げる詞など大変長い。肩が凝る。一時間やったら、少し我流体操をして、体のコンディションを整える。

私が好きな労働も根気、持続力がいる。いつまで出来るのかは神のみぞしる。いま私が一日一日の生活で、重きの時間を費やしているのは、根気のいることばかりである。集中力が伴わないと、何事も叶えられない。

敢えて根気のいることがこの年齢で、いまは好きなのは、自分でも良くはわからない。が、敢えて打てば、全く世の中に出るまで、怠惰の極みみたいな自分であったからだと、思える。世の中の荒波にもまれ、(基本的に私は今も怠惰である)あまりにも遅きに失したとはいえ、努力しないと大変なことになるという自覚が生まれて、半世紀、ようやっと少しは、普通になれたかのような、自覚を持つ私である。

お爺さんになって、人生の持ち時間を想像する。孫たちのことを想う時間増えてきたようにおもう。まるで遺言のようである。いいのである。その日思いつくことを打てる幸福が贅沢なのである。妻が仕事から帰ってくるまで、一人の雨の日を、いとおかしく過ごしたい。

2026-02-22

三連休の中日の朝に思う、五十鈴川だより。来月末ノア(最初の孫)の春休み、妻と私の3人で門川に帰ることに決めました。

 来月、私の最初の孫、望晃(のあ)が8歳になる。4月から小学三年生である。で、春休み私のふるさと門川に行かないかと誘ってみた。すると行ってみたいという。コロナの渦中、その後次々と長女に子供が授かり、私も何かと慌ただしい生活を余儀なくされていて、長女、次女家族共に帰省が未だ叶わずにいる。だが私一人でのふるさと帰省は折々続けていた。よもやの急展開で、ノアを連れてふるさとに帰ることに、なった。

下記に。
私は心底嬉しい。

そこで、私は妻も誘って、爺、婆、ノアの3人旅をすることにした。私の場合思い付いたら吉日なので、おおよそのスケジュールを妻に話したところ、妻も大乗気であっという間に予定が立った。

3月28日から30日まで、3泊4日の旅である。熊本までは新幹線、駅でレンタカーを借りて阿蘇を周遊し、28日は私が3歳まで過ごした高千穂に泊まる。翌日高千穂を散策、午後兄の家に。

29,30日は兄の家にステイ。お墓参り、五十鈴川、小倉が浜など我がふるさと探訪。31日熊本へ。熊本城を見て午後の新幹線で岡山へという、ラフな予定である。

先の帰省で、我が姉兄兄弟は(義兄、姉も)全員後期高齢者なので、ノアの記憶にとどめたく、私としては、ことの予定がすんなりと決まったことに嬉しさひとしおである。何よりもノアが行きたいと言ってくれたこと、そして妻もまたノアとの帰省旅に大乗気であることが、私に五十鈴川だよりを打たせる。

古希を過ぎてからの、ふるさと帰省旅、毎回これで最後、悔いなくとの思いなのである。年に数回帰る度に、当たりまえ、私も含めた全員が老いてゆくので、まさに一期一会の貴重な旅となる。(予定)

昨日、妻が作ったラフなスケジュールを義姉、登紀子さんに送り、妻が確認の電話をいれると、私たち3人を心良く受け入れてくれるとのことで、私はともかく、妻は大変喜んでいた。兄弟とはいえ、妻は義姉との久しぶりの会話、弾んだ声にとにかく安心していた。いつぞやも打ったが、私が安心して帰省できるのは兄のお嫁さん、登紀子姉の存在が大きいのは言うまでもない。ノアとの帰省旅、何よりも妻が想像以上に、綿密に無理なく予定を立て、楽しみにしている様子。

話は変わる。2月26日は義理の父の名日なので、天気も良く、昨日午前中、お墓の草取りに妻と出掛けた。義父が亡くなった時私は49歳であった。娘たちは小学生。あれから25年の歳月がながれ、世界、世相、世間の移り変わりはいかんともし難く、我が家族、一庶民生活者の私にもにも容赦なく影響がおよび続けている。

が、何とかこのような一寸先のよめない時代を、家族全員、身すぎ世すぎ出来ていることのありがたさは例えようもない。我が両親、妻の両親への感謝は私の老いとともに益々深まる。老いてゆくお手本が身近にあるというのは幸福である。子供は親を選べない(違う説もあるが)けれど、精一杯のことを、思い付くかぎりのことをする。娘ふたりはスクスク育ち、自立している。

今しばらく、激変する時代の中、孫たちに、私と妻に何が出来るのかは判然とはしないけれど、お金では買えない楽しい思い出の記憶時間が残ればと念う。

PS 今日の写真は1974年に出版された、片桐ユズル、中山容、翻訳のボブ.ディランんの全詩集です。全358ページ、昨日から書写を始めました。時間を見つけてコツコツ進め、一月くらいでと、思案している。ノアとの旅の前までには終えたい。無事に終えたら、また五十鈴川だよりを打ちたい。


2026-02-18

今年から水曜日は労働OFFに決め、静かな一人時間を、もっと大切にしたくなりました。

 今年から労働する時間を減らし、水曜日は余程の事がない限り、お休みすることに決めた。したがって今日はお休みである。可能なら週に2日程度、五十鈴川だよりを打ちながら、いい意味で、健康で有る限り、その日暮らしの喜びを妻と送りたいと考えている。

さて、そのような私の日々の移ろいの中で、古希を過ぎて、折々シェイクスピアの長台詞の書写などをやったりしていたのだが、今年からいよいよ本腰を入れて、好きな文章や、歌、詩、などの書写をやることにした。(老いの楽しみ千住真理子さんの音楽を生で聴くことを今年も続けたい)

来月にでも歌碑を訪ねたい

それと、この丸七年労働に従事しいて、以前は好きとまでは言えなかった雑草採りが、古希を過ぎて、苦手意識が遠退いてゆくかのような(老いても体の使い方で、楽に感じるようになってきている)感じで、つまりは草と戯れるかのような一人時間作業の喜びを見つけたのである。

そのような塩梅で、草取り手仕事は、炊事、掃除、買い物、調理、洗濯あらゆる家事全般、生きて行う雑事の基本ともいえる忍耐を養える。それを克服する方法を体得してからというもの、臆面もなく打つが、一日がとても楽しいのである。だから能天気に五十鈴川だよりが打てるのである。

還暦を迎え、五十鈴川だよりを打ち始め、できるだけやりたいことしかやらない、愚直、正直に気持ちのいいことしかやらないとときめた。(古希を過ぎて言葉を交わしていない方には、益々不義理をすることになります。どうかご寛恕ください)

あれから丸13年の歳月がながれ、その願望(おもい)のほとんどは満たされ、益々そのおもいは深まる。そして、ありがたいことに、一人でもやれる、やりたいことが人生の持ち時間が見えてくる(感じる)にしたがって、絞れてきたのである。

老いのかけがえのなさ、日々自在感を受け入れ、その日暮らしに徹する。前回の五十鈴川だよりで触れたが、父の遺した歌碑の写真が忽然と次兄から送られてきて、いよいよもって思う。私は日々、両親を含め、あの世に召された、無数の死者と触れあえるかのような、その日暮らし考、を第一義に生きたいのである。私が元気に過ごせるのは死者のお蔭である。