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2026-05-23

5月23日に打つ、死に向かいあう覚悟が、芽生えつつある今朝の五十鈴川だより。

 いつにもまして早く目が覚め、もう一寝入りしようかと思ったが、仕事はお休みなので起きて、朝湯を浴び、気分が上向いたので、ちょっと五十鈴川だよりという訳である。そばには淹れたばかりのコーヒーがある。

ただ、ボーッと、タブレットの画面を眺め、コーヒーをのみ、夜明け前の、この一時が堪らなく好きである。いまだ暗い静寂の一時、よしなし事が浮かんでくる。まだ生きている、のだなあ、何てことを暢気におもえる気儘さを、老人の私はこよなく愛す。夜が明けてきた。(ボーッとしていると、ただ時が流れる)

ところで、私には絶対矛盾、不真面目な自分と真面目な自分が不足不離で同居している。時折、出口の見えない世界の混沌、不条理の情報にウンザリし、精神の加減、バランスを失いそうになる。

下記に記します

五十鈴川だよりを打たなかったら、と思うとゾッとする。還暦を過ぎ61歳から、いまに至る74歳まで、五十鈴川だよりを打ち続けて(週に1、2回にせよ)きたからこそ、今も生きられているという自覚がある。

前回何を打ったのかなあ、と読み返すくらいで、昔の五十鈴川だよりを読み返すことを私は全くしていない。

それよりも今を、今日をいかにその日暮らしするか、にしか頭が働かない。赤ちゃんの日々が目まぐるしく変化してゆくように、老いゆく晩年時間もまた、一年前とは明らかに異なる、目には見えない変化が忍びよっているのを、とくに今年は感じている。

だからといって、その事をマイナスには捉えていない。当たり前なのだと、至極当然に受けとめている。

もっと言えば誤解されてもいいが、そういった心境に至れた自分をどこか、ことほいでもいる。今現在もなお日々肉体労働がやれる幸福は、老いたればこその功徳と言うほかない。

何度も打っていると思うが、老いは病気ではない。加齢をいかに受け入れ、過ごしてゆくのか、いかないのかに、各々のこれまでの人生の、言わば蓄積が露呈、顕現化するのだと、考えている。だからこそ、一日一日の積み重ねが大事なのである。世の中に出て66年、古希を過ぎて、ようやくこれまでの歩みの上に今がある。

話を変える。明後日から桑江良健、純子さん夫妻を訪ねる。良健さんの画業の回顧展にゆくのである。良健さんは私より4歳年上である。インターネットもしないし、スマホも持っていない。先日もお葉書を頂いた。最後まで絵を描くと文字にあった。全人生の全てを絵を描くことに費やし、捧げて来られた。奇しくも猪風来さんも4歳年上である。猪風来さんもスマホを持っていない。猪風来さんも縄文一途、一筋である。

ながくなるのではしょるが、現世で、時代を超越してあまりある作品群を産み出し続けている、この両名に出会えた(ご夫妻に)ことの在りがたさは筆舌に尽くし難い。その事を一行五十鈴川だより記しておきたい。(孫たちに伝えておきたい)

このような悠久の歴史的時間を見据えた、手仕事、創作者、芸術家、強者(つわもの)二人は、愚者の私にエネルギーを降り注ぐ。草とりしながら、体動かし考え、老いの企画を夢見る。(よしんば企画がならずとも、希望を内にもつ気骨を、お二人から学びたい、何か産まれそうな予感がする)

PS 今日の写真は小堀鴎一郎先生のご本です。先生の本を手にするのは二冊めです。先生は1938年のお生まれなので、私よりも14歳年上である。本の副題、訪問診療医がみた709人の生老病死、とあります。養老孟司先生との対談で、小堀先生のことを知りました。沖縄への桑江良健、純子さんを訪ねる旅に持参することにしました。ちなみに先生は、文豪森鴎外のお孫さんです。

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