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2025-07-13

朝一番、菜園場で、日照りのなか、いくばくかの実をつけてくれた野菜を収穫して想う、今朝の五十鈴川だより。

 朝一番菜園場にいって、乾いた大地にかろうじて実をつけた重宝極まる、ミニトマト、枝豆、なす、シシトウ、ピーマンを収穫してきた。この物価高ご時世老夫婦にはとてもありがたい。

義理の母が、土に触れるのが大好きで、多種類の野菜を育てるのが、上手であった。私のような無精ものが、家庭菜園を継続してやれるなんて、思いもしなかったが、気がつけば、もう6年も、菜園場で野菜を育てている。(昨日はわずかだが、じゃがいもも収穫した)

種類は少ないのだが、充分に食べられる分量を、時には娘たちや友人たちに送って、喜ばれるくらいの玉葱も収穫できるようになってきている。どんなに苦手なことでも、続けているうちに、学習する(している)というのが人間なのである。

日照りで茄子は萎びているが、有難い

始めた頃、妻にお父さんにやれるかなあ、とどこか半信半疑であった。自分でもとてもではないが、母のようには無理、出来ないとは思っていた。だが、手をかければ、それなりに実をつけてくれるということが、経験をとおしてわかってきてからは、楽しさが年々増している。

まして、野菜の高騰が続いたりすると、正に天と地の恵みを実感するし、何より安心で旨い。日本列島は豊かな水、海と山と川の邦である。

一極集中、はあらゆる意味で、人間の心を蝕むように思える。日本の田舎の里山は、恵みの土の宝である。ちょっと大地をお借りして、特に我々のような高齢者世代が、菜園場での楽しみを見つければ、年金生活者にとっては、色々な意味での豊かな晩年ライフが送れるのではないかと思う。

何よりもお金で野菜を買うのではない悦びが見つかるのは、この6年継続してやってみて間違いない。

話が脱線するが、一回こっきりの人生、ただ消費者として、大部分をいきるのではなく、ほんのわずかでもいいから、物を自分で作る。自分の体を、動かして何かを成す悦びを体得してゆく、という喜びを見つけられれば、老いもまた輝くと愚考する。

先ずは何はともあれ、イキイキ健康ライフ。食と生は直結している。喰うということ、喰えるということの、有り難さ、食い物の一部、わずかを自分で育てる喜びを、私はもっと見つけたい。そういう仲間と、飲み食い語り、その上で面白い企画がやれたらと夢見る。お金という概念の無かった一万年以上の、生を受けた環境風土での縄文人(びと)世界の穏やかさに、老人の私は、限り無く憧れる。

水の惑星、この地球に空き缶や、プラスチックのゴミがまったくなく、生と死が穏やかに繰り返され、それはそれは万物生命がかがやいていて、美しかったに違いない。命が経済活動、お金に汚染されず、時間という観念も文字もなく、狩猟採集、住居を創り、人間は歌い、踊り、祈りの土器をそれぞれの環境で創り、ただ存在していたのだろう。(現在、水の惑星は悲鳴をあげている、その上で生活している大多数の人類が、酷暑の夏悲鳴をあげている)

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