あっという間に、またもやの土曜日がやって来た。この実人生では、ほとんど体感したことのない暑さを、すでに2ヶ月近く過ごして、なんとか五十鈴川だよりを打つ程度の、元気さをキープしていられるのが、我ながら有難いと、ただ念仏を唱えている私である。
その暑さのなかで、草刈り他の肉体労働がやれていることの有り難さ、やる気がいまだ失せていないことへの、我が体への感謝はいくら綴り打っても足りない。決して無理をしているわけではない。10月12日の猪風来さんの、縄文祈りのイベントを終えるまでは、なんとしてでも、我が体をいい状態でキープしてゆくゆくべく、この未曾有のあまりの過酷な夏を、いい感じでしのがなければならない、のだ。
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ノートを録りつつ読む、凄い。 |
年齢を忘れているわけではないのだが、体年齢は、人それぞれである。私は唯一無二の我が体を過信せず、猪風来さんからのお声かけに、わずかでもお役に立てるように、この夏を有意義に生活するべく、知恵をしぼらねばならない。
すでに書いたが、企画をするのには年金生活だけでは、まずもって無理である。だから私はこれまでの人生で身につけた、かなり得意な肉体労働で、我が体を活性化させ、我が体にすがるのである。もっと打てば、それが高齢者のわたしにとって一番の健康法であり、あえて打てば生き甲斐なのである。
遊行期の私のこれからの時間を、枯れつつもいかにいかに生きてゆくのかを考えたときに、想うことは、誰かの(家族を含めた、友人知人すべてので会えた人たちの)お役に立ちたいということである。
話は変わるが、まもなく次女に代2子が誕生する予定である。わたしにとって、4番目の孫である。この7年、我が家族に新しい命が、次々に生まれ、その事が、私を活性化させ続けている。理屈ではなく命の輝きのお役に立つためにも、老いゆく体の健康寿命をキープするためにも、老いの存在理由を正当化、カッコつけるためにも、私は限界まで働きたいのである。もっとカッコつけるなら、その延長で生を閉じられたらと、祈るのである。言うは易しである、が。
さても、また話は変わる。リベラルアーツ、教養、知的レベルのあまりの足りなさを、痛感する游行期を私は生きている。この酷暑をやり過ごすために、私は繰り返し読むに足りる本を、ちびりちびり読んでいる。へーっ、と教えられる度に暑さを暫し忘れる。水風呂に下半身を浸しての読書である。ごぜんちゅうは労働、午後は水浴び読書で猛暑を耐える。やせ我慢の夏である。
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