昨日も打ったが、やせ我慢の夏である。高温多湿の日本の夏、しかも、気候変動の渦中、オーバーではなく、人類の行く末さえもいやでも視野に入れ、案じるほどの不安を抱え込んでおられる方も多いのではないかと、私などは感じている。
先の参議院選挙で急遽にわかに議席数を伸ばした政党の、党首のアジテーションなどを画面で斜め見すると、直感的に得たいの知れない薄気味悪さを感じてしまう。まさに時代の芻勢は、のんきに構えてはいられないほどに、ひたひたと邪悪な勢力にのみ込まれてしまう危うさを、暫し老人を忘れて感じる。
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バッタと共に過ごす夏 |
この事に関して、今朝はこれ以上打つことは控えるが、あまりにもの熱狂的な、付和雷同する民衆の姿には、一抹の気持ちの悪さを覚える事だけは、五十鈴川だよりに打っておく。
さて、話を変える。6月も猛暑が続いていたが、蝉の鳴き声はあまり聴かなかったのに、私の感じでは7月の19日くらいから、俄然蝉時雨の夏がやってきた、と感じている。日本列島に蝉時雨が一斉にシャワーのように降り注ぐ夏が来ないと、日本の夏ではない。
蝉時雨を聴くと、老人の私はいまだに、少年期の思いでと共に、五十鈴川で毎日(あめや台風で行けなかった日を除いて)泳いで過ごした我が人生の黄金の日々を思い出す。お金や物質的には恵まれてはいなかったものの、いやというほど遊んで飽きるということが、まるでなかった日々を、老人の私は心から懐かしい。遊べる体こそが宝である、と知ったあの頃が。
あまりにも遊ぶことに熱中し、勉学そっちのけで、学校での成績は振るわず、その付けが、いまだに尾をひいていることを、どこかで感じてはいる。が、なんとかこの年齢まで、身すぎ世すぎ生きてこられて、蝉時雨を聴きつつ、五十鈴川だよりを打てることの平凡な有り難さを噛み締めている。
話のまとまりが、なくなりそうなので、これ以上打つことは控える。が、これは極論かもしれないが、いま自分の人生を振り返り想うことは、10才くらいまで、海山川でいやというほどに遊ぶことに熱中した時間が持てたことに限りのない感謝をもつ。(家に全く本がなかった。かえってこれが良かったとさえ今は思える)
遊ぶことに夢中で、勉強しなかったので学校での勉強はできなかったが、小学高学年頃から、気が付くとふつうの成績はとれるようになっていた。成績は他者に委ねられるものではなく、結局は、自分自身に委ねられてゆくしかないという、厳しい自然の掟を、少年期にかすかに感じたことが、なんとかこの年齢まで生きてこられた原点(原因)である。独学の面白さ、自分の成績は自分でつける。(つけたい)
生まれてくる時代、場所、環境を選べない掟をヒトはいきる。蝉時雨はすべての人に訪れる。日本の夏の大自然のプレゼントである。蝉の地上での命は短くも儚い。老いの夏、蝉時雨、聴きつつ念う、有り難さ。
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