東京やその他の地域では、集中したゲリラ豪雨の映像が頻繁に報じられているが、私の暮らしているエリアでは、余りの雨の降らなさに、我が体まで干上がりそうである。気候変動。識者がいくら訳知り顔に、それらしいご託宣を述べても、どこか釈然としない。
経済格差は降水量にまで、二極化しているのかと、余りのバランスの悪い雨の降りかたに、ぼやきのひとつもでようというものだ。事実としての我が生活エリアの日照りつづきは、やはり自然の一部としての人間の内面にまで悪影響を、与えてしまいかねない。いやすでに度重なる地震報道などで、古さとを一時的に避難しなければならなくなった、トカラ列島の方などの心中を思うと、なんともやりきれなさが、つのる夏である。
![]() |
今朝の我が家のカボチャの花 |
充分に高齢な私、このような夏、肉体労働なんかに勤しむ私のことを、妻はしきりに心配する。が所詮なるようにしかならないと、私は何処かで腹を括っている。体があかんという信号を発したら、すぐ休むようにしている。バイト先にも伝えているのだが、早朝や日没前に労働するようにして、お昼前から夕刻までの時間はできるだけ避けるようにして働いている。
五十鈴川だよりを打ちながら、いかにして一日一日、妻との二人暮らし老夫婦生活を慎ましくも、充実感をもって生きられるのか、生きられないのか。
お迎えまで、知恵を絞って考えないと、やすきにながされてしまう。別に流されたっていいのだが、そこが小者の情けなさ、往生際の悪さを生きるのである。
凡人の私でも、このようなことを考える。この閉塞感極まる、いかに老いるか超難時代を、逆転の発想で生き生きとしのいでおられる年長者がいる。そういう方々が、私のお手本支えである。私は非常に横着で、怠け者である。もうこの年齢、人間としての勤めのほとんどの役割を終え、静かにできるだけ好きなことにのみエネルギーを注ぎ、余分なことはせず、猫のようにくらしたい、とただ願っている。
この年齢で今のところ熱中症にもならず労働し、時折五十鈴川だよりを打ち、がまのあぶらのような汗をかきつつ、本を読む。私の暑さ対策、集中力の持続、集中した時間をできるだけ持つ。栄養を摂る。よく寝る。頭で考えない。体が喜ぶことだけ考える。
明後日から大好きな相撲が始まる。相撲だけは見る時間をお惜しまない。もうその他の観ることに時間がとられるスポーツや映像コンテンツは、よほどのことがない限り、人生の残り時間を考えると、手放している。遊行期、日々滋養を頂けるのは、やはり書物である。今日も松岡正剛先生の本を読む。(私には、自分がかってに先生と思うかたがいる、松岡正剛さんはその1人)読書は、著者との対話、教わること限りなし。遅読だが面白い。
ワクワク面白がる精神、好奇心がないと先ず、企画は出来ない。この世とあの世、hereとther,アンパンマンんは言う、何のために生きるのかと。それがわからないと、いやだという。愛と勇気だけが友達だと。すごい歌詞である。やなせたかしさんの言葉を噛み締める夏にしたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿