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2025-07-19

蝉時雨を聴きつつ秋を見据えて打つ、今朝の五十鈴川だより。

 暑い夏が続いている。老いた体が悲鳴をあげている。が、今のところなんとか労働しながらしのいでいる。今日から貴重な3連休である。先ずは、五十鈴川だよりを打って、この私にとっての短い夏休みを有意義に過ごしたいと、思案している。

暑さ対策のことは、何度か記している。この暑さの、特に数日前、雨が降るまでの、雨を待ちわびたまでの日々は、このまま雨が降らなかったら、と思うとぞっとした。だから雨が降った日は、慈雨と言う言葉が沁みた。昨日も午前中9時頃までは雨だったが、激しい雨ではなかったので、雨のなか一人草を刈った。

松岡正剛さんは私の先生である

暑さのなか、来る日も来る日も同じような仕事を繰り返している私だが、いつも想うことは、今日が自分にとっては一番新しい日である、ということである。亡き母が、若き日の私が先の見えない人生に焦りにもにた弱音をはくと、今が一番若いと思いなさいと、エールをおくってくれたことを、この年齢になっても臆面もなくありがたく思い出す。

さて、小学2年の孫は夏休みにはいる。セミもようやく本格的に鳴き始めた。私は夏が好きである。幼少期の貧しくも、姉兄弟、両親、私が小学5年生まで全員で共に暮らした愉快な夏休みの、おだやかな記憶の黄金時代が俄に、未だ鮮烈に甦るからである。郷愁である。(井上陽水の少年時代という夏の名曲を聴くと、充分に老人ではあるのに、未だ心がうずく。あの家族の原風景。時代が余りにも急激に変わり果てたとはいえ、孫たちには夏休みの思い出を、と願わずにはいられない)

その事のいちいちを記す事は、今はしないが、肉体労働が不可能になり、企画がやれなくなっても、意識がしっかりとしていれば書いておきたいことだけは書いておこうと念っている。

さて、この暑さのなか、あぶらあせを垂らしながらの読書を、ちびりちびりと続けている。草刈りをするように、続けている。五十鈴川だよりを読まれている方は、また同じ話だと思われるかもしれない。読んでいる本は同じ本であっても、読んでいる私は、変化しているので、昔読んだ本であっても、全く新しい本なのである。

昔は歯が立たなかったなかったわけではないのだが、より深く読める、感じる自分が育って来ている。(のだ)いわば、面白いのである。草刈りだって、未だ面白いから、何処かに充実感を感じるから続けられるのである。草刈り職人、音読職人、企画職人、何かに夢中になる、成れる、そのような悦びが、いまだ私を活性化させる。動くからだのお陰である。

話は変わる。4月30日、スパイラルアームズを岡山で企画したことで、名状し難い老いの喜び感覚が深まっている。それは友人たちとの関係性、コミュニケーションの変化である。(長くなるので、割愛するが、60代までとはまたことなった充実感を、70代になって感じられる喜びである。積み重ねのなかで、脳の神経細胞シナプスが伸びてゆくかのような)

年齢を重ねても、お互いいい感じで再会でき、いきなり阿吽の呼吸で企画チームが組めることの喜び、醍醐味をあの日、4月30日に私は体感したのである。あの喜びを、いまだに私は草を刈りながら反芻する。7月末には猪風来美術館20周年を祝うビッグイベントのフライヤーが完成する。

暑い夏は今しばらく続くが、やがて終わる。草刈りしながら、汗をかきながら、一日一日しのいで秋を見据えて生活したい。

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