6月19日の夕刻、ちょっと時間があるし、五十鈴川だよりタイム。今瀬政さんが秋の猪風来美術館の20周年記念イベントの後援名義の申請の件で、わざわざ家まで来てくれて、ちょっとお話をして、帰られたばかりである。
正直あまりの暑さのために、思考がほとんどおぼつかないし、何をするきもおきない。が、瀬政さんとちょっとお話が出来たことで、五十鈴川だよりが打ちたくなるのだから、われながらいい加減もここに極まりとでもいったような案配である。
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内実が伝わる。有り難き幸せである |
インターネットを利用しながら、五十鈴川だよりをうちながら、絶対矛盾を生きている私として、発信ししながら、内心まったく時折嫌になるときがあることを、正直に告白する。やはり私は骨の髄までアナロ人間である。だからといってデジタルワールドの世界を否定するのではまったくない。いや、あえて言えば、もうインターネットののない世界には私はおそらく存在できないだろう。
そんなこんな、なにを打っているのだろうかと、自分でも嫌になるが、昨日手書きの思いもよらぬかたから、お葉書を頂いたからである。この今の時代に、手書きのお葉書をいただける、もらうことの、ある種の贅沢、稀少価値に私の老いた体は悦びにうち震えるのである。
インスタントラーメンの、ある種の美味しさ、またときおりいただく我が身としてはその事実を否定するものではないが、自筆のお葉書をいただく嬉しさは、自分で育てた野菜をいただく嬉しさに例えれば、ご理解いただけるのでは、と思える。
今週日曜日、岡山県立図書館で、猪風来さんの縄文世界に半生をかけたトークを、発作的に企画した私であるが、反応は少ない。だが本番目前、私の心は穏やかである。企画するときにいつも想うことは、自分のなかで企画をしたいことがあるから企画しているのであって、他にはなにもこと更な理由はないからである。
猪風来さんのお話に耳を傾けてくださるかたが、一人でも多く来てほしいとはおもうが、誤解を恐れずにあえて打つが、参加人数の多い少ないではなく、猪風来さんという稀有な縄文造形アーティストの存在をひとりでも多くの人が知ってもらえればと、私としては企画をしたことに、どこか安堵するのである。
話の論旨がまとまらなくなってきたので、これ以上打つのは控えるが、言えることは、U氏のお葉書をいただくことがなければ、きっと五十鈴川だよりを打つことは無かった。この世に今存在する老人の私にとって、肉声、肉筆ほど、心を震わせるものはないのである。そのような、家族、友人に恵まれた私は、野暮を承知で打つ。企画をすることは愛する存在を確認するためなのである。お前には愛する存在がいるのかいないのか、それが大問題なのである。
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