兄の家で土曜日に朝を迎え、姉の登紀子さんの美味しい朝食を済ませ、門川にはワイハイの飛ぶところがないので、以前帰省したときに利用したことのある、日向市の入口にあるマクドナルドにきて五十鈴川だよりを打っている。
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姉と私の五十鈴川遊び |
ざっと昨日の過ごし方を打っておく。五十鈴川だよりを打った後持参した本、すぐに読める河合祥一郎先生のシェイクスピア名言集を兄の家で読み、お昼を兄と義理の姉と私の3人で、延岡のおぐらという店まで食べに行った。チキン南蛮が有名なお店で、3人ともそれをいただき、私だけトッピングでハンバーグを頂いた。兄はノンアルコールビール、私は朝日の中瓶をのんだ。満足した。
戻ってお昼寝を3時過ぎまでして、それから姉を誘って二人で念願の五十鈴川に遊びに行った。姉はまもなく82歳、数年前長いこと足首の痛みに悩まされていたが、数年前思いきって手術をしてそれが成功し、いまでは痛みがなく、スムースではないものの、生活には不自由しない程度まで歩けるようになった。私が五十鈴川に誘うと、予期していなかったからか、ゆくゆくととても嬉しそうであった。
兄の家から車でものの10分もしないで五十鈴川に4時過ぎに着いた。長い夏の日の夕刻だが、充分に明るい。我々のほかには誰もいない。老人の私と、老婆の姉の二人である。鴬の鳴き声が聴こえると、姉は童心に還ってきゃっきゃっとはしゃぐ。いくつになっても三つ子の魂の持ち主である。わけいってもわけいっても山野の緑が眼前に広がり、私と姉を慈しむかのように包み込む。
私は登紀子さんが用意してくれた水着に着かえ、五十鈴川に入る。全然冷たくない。深くないところを対岸まで歩いた。姉も日傘をさして足を水に浸けて、メダカが足をつつくと騒いでいた。よもやこのようなひとときを姉と過ごせるとは、予定しなかったので、誘ってよかったと、私は満たされた。だからこのような老いた弟と姉のつかの間のひとときを五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。
最後私は泳いだ。まだ泳げることを確認した。来年の夏は泳げるかはわからないが、今年は泳げた。人の体力は千差万別、私のモットーはヒトとは比較をしない。自分は自分の人生を、ただひたすら肯定的に生きる。この頑固なまでのポジティブさ、人様に披露することはないのだが、こういうもののみかた、考え方は、ひとえにシェイクスピアの聳え立つ作品群のなかの登場人物の台詞、言葉からまなんできたことである。
話がそれた。短い時間ではあったが、姉と五十鈴川で水遊びに興じることができ、その事を五十鈴川だよりにきちんと打つことができて、ただ私は嬉しい。この30年でデジタルライフにまるで置いてきぼりになっているかのような、暮らしぶりではあるが、少なくともこの数十年、毎年のように、私は時折帰省しては、姉とのささやかな再会を慈しみ楽しんでいる。姉もまた私の愚弟ぶりを俳句に詠んだりしてくれる。
戦争の爪痕が、微かに残る戦後昭和の、田舎の幼少期を、共有生きた姉や兄たちは、今となっては、かけがえのない人たちであると歳をふるごとに思い知るのである。赤ちゃんの一年ばかりがすごいのではなく、老いゆく一年もまた、時間は同じ、素晴らしいのであるとの認識を私はもつ。
戻ったのが5時。午後6時神田川と言う名の門川では唯一の人気のお寿司屋さんに二人の姉、兄、私の4人でゆき楽しい夕食時間を過ごした。もどってすぐわたしは横になった。そして今朝まで約10時間私は夜中トイレに一回起きただけで、ひたすら寝た。この半年間の岡山での疲れが緩やかに吹き飛んでいった。
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