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2025-06-07

梅雨入り目前、この夏熱中症を乗り切る対策に思いを馳せる五十鈴川だより。

 梅雨入り間近を思わせる土曜日の朝の五十鈴川だより。あっという間に6月も7日である。今週も5日無事に働いて、土曜日五十鈴川だよりを打てる。無事これ名馬、私は名馬でも何でもない、無名の今をいきる老人である。五十鈴川だよりを打ち始めて、幾年月が流れている。

極めて個人的な日録、一筋の流れのように、右往左往しながら、ささやかな思考を思い巡らし、あくまでも一庶民生活者の老人だより、でありたいと、今日もまた打ち綴る。さて、昨日午後家でお昼を済ませ、新見の猪風来さんを訪ねた。用件は後援名義の申請用紙を書いてもらい判子をもらうためである。

縄文スパイラルアート展のポスター

よし子さんが書いてくださり、用件はすんなりと終わった。猪風来さんは創作時間であったので、すぐに戻ろうかと思っていたら、午後4時、創作を終えた猪風来さんがやって来た。ちょっとお話をしているとそこへ猪風来美術館の開館20周年記念、縄文スパイラルアート展(7月1日から10月31日)の出来上がったばかりのフライヤーを那須さんが届けにきた。

4人で寸暇語らいコーヒータイム。出来立ての素晴らしいフライヤーとポスターを預かる。もう一度フライヤーをとりにゆく手間が省けた。無用の用、思わぬ出来事が重なる。4人での笑顔のスパイラル。

ミーティングは勿論大切ではあるのだが、普段の生活のなかでたまたま生まれてくる何てことのないおしゃべりの中にこそ、神は細部に宿りたまうなんて言うが、私は日々の細部を慈しみたいと古稀を過ぎてからは、体が発するサインに従うようになってきている。6月22日のことや、10月12日に向けての事など、寸暇ではあったがお話が出来て良かった。

毎回思うことなのだが、企画者の端くれとしては動くことで、人と会って話を対面で直接するということが、私の場合は不可欠である。(それしかできないと言ってもいい)

廃校跡が美術館になっている。ゆく度に、老いた体に新鮮な息吹が吹き込まれる。居心地がいいのである。それは言葉ではあらわせられない、目には見えない何かである。

さて、話を変える。この数日一気に夏の暑さを感じさせる。この数年毎年のように思うことは、過酷な夏を働きながら乗り越えられるか、ということである。とくにこれからの3ヶ月半を。72才までは乗り切ったが、今年の未知の夏はいかに。夏は五十鈴川だよりを打つ気にならないくらい消耗する。

だが、おそらく私の場合好きなアウトドアがやれなくなったら、一気にもっと精神的に駄目になってしまうような気がする。今おもうことは、一日一日やり過ごし、週末は五十鈴川だよりを綴って、のらりくらりやり過ごすというのが、私の熱中症対策である。動と静のバランス、栄養をとり、夜はひたすら体を休める。

だが、昨日も元気に働き、午後新見を往復運転し、朝の早い私はぐったり疲れたが、ぐっすりと眠り五十鈴川だよりを打ちたくなるほどに回復するのは、猪風来さんご夫妻の目には見えない縄文のエネルギーを浴びているからに違いない。


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