梅雨入り早々、我がふるさとエリアでは大雨が続いている。肉体労働、雨は正直この年齢では辛いものがある。だけれども今週も4日ほど働くことができた。昨日は雨が終日降らなかったので、このときとばかり植え込みの剪定刈り込みの作業を、ゆっくりと行った。
この仕事を始めて8回目の刈り込み作業である。最初はおそるおそるではあったが、今では楽しみな仕事のひとつである。初夏と晩秋2度行うのであるが、延びた枝が刈り込まれると、見違える。ヒトに例えると散髪をしたような感じである。
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静に反省する |
大げさだがやりおえると気持ちがいい。刈り込んだ枝を片付けたあとの爽快感は私だけが感じる気持ちのよさである。梅雨、重く垂れ込めた雲は嫌でも気持ちを萎えさせてしまうが、そのような季節の剪定、刈り込み作業は今の私にはうってつけの労働である。
人間気分が重いときは誰にだってあるとおもうが、ゆっくりゆっくり体を動かし、作業を続けていると、はかどるに従って、気持ちも上向いてくる。誠にもって人間の体は動かすことが先ずは大事であると、我が体に知らされる。
すでにかいた記憶があるが、20年から23年にかけて、コロナ渦でヒトとの接触を避けることを、余儀なくされる生活にいきなり放り込まれたときに、人と接触せずただただ体を動かすこの仕事で私がどれだけ救われたかは、計り知れない。
この年齢で、いまさらのように健康にからだが動き、苦にならない仕事があり、生活が営め、その間に二人の孫、新しい命と巡り遇えたことの、有り難いという気付きの深まりは、何度書いても例えようがない。私の今の生活に孫たちの存在が、生きるエネルギーをくれる。
あらためて健やかな命の有り難さを想う。かたや絶望的に想えるほどの命の軽さが、国内はもとより、世界のあちらこちらから伝えられ、今のこの世を覆っている。鈍麻しそうになる。(アラブ世界のあまりの不条理は老人の想像力を萎えさせる)
話を変える。孫たちの存在が、私がこれまで手にしなかったような本を読むようになってきた。とくに先の大東亜戦争について。その渦中を生きてこられ、高齢になられ、その思いを伝えようとされて(それぞれの立場で)おられる方々の。(私がそのような理不尽な経験をしたならばとおもうと、言葉が虚しい)
孫たちの存在が、他者の命の尊さ、かけがえのなさにまで、知らねばとのとの思いが(反省が)本を捲らせる。今読んでいるのは梯久美子著【戦争ミュージアム】ー記憶の回路をつうなぐ_である。新書版の本で梯さんは国内14の戦争ミュージアムを紹介している。そのなかで私が行ったことがある戦争ミュージアムは都立第五福竜丸展示館だけである。
元気なうちに、おもいたったが吉日、この本で知らされた戦争ミュージアムを訪ねたくなっている。私の両親は北朝鮮からの引き揚げ者である。(長男と長女も)舞鶴引き揚げ記念館、岡山からさほど遠くはない。近々時間を見つけて行こうとおもう。
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