私の父が書き残してくれた一文がある。北朝鮮からロシア軍に追われながら引き揚げて来た体験記である。タイトルは【私は生きている】。当時3才の姉と生後半年の兄を連れて、4人での命からがらの書ける範囲での極限記である。
無事に引き揚げてきて、両親が生き延びたからこそ、私を含めたその後3人の男子が存在している。もし両親が引き揚げてこれなかったら、私は存在していない。このようなことをいきなり書き始めたのは、8月5日次女の代2子、女の子風香が、暑い夏の日の午後2時過ぎ無事に産まれたからである。あれから11日母子共に健康に育っている。
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命は現れ、命はみえなくなる。 |
妻は12日から次女のお世話で上京している。戻ってくるのは21日、この間私は独り暮らし、既に4日が過ぎた。今週も何とか午前中は働き、こうやって五十鈴川だよりが落ち着いて打てる土曜日の朝を迎えている。
家事身の回りの、生活を妻なしで全てこなすのは、7年前最初の孫が授かってから、折々年に数回やって来たので、今では慣れて、炊事、洗濯、掃除買い物、などなど苦もなくやれている。
想えば、世の中に出た18才から、今に至るもギリギリ生活を(はためにはともかく)ずっと続けているような感覚がある私である。縁あって生活を共にして39年、夫婦といえども、やがてはお別れの時がやって来る。このようなことを書くと、縁起でもないと言われるのは必定である。が私は、敢えてまだこうやって、かろうじての思考が出来るうちに、現在の私の思いを打っておかないと、思うのである。(ボケてからでは悔いが残る)
それはやはり、私は生きている、という無き父の一文を、特に古稀を過ぎて繰り返し読み、その事が私に五十鈴川だよりを打たせているからである。命というものの無常を物心つく頃から、今に至るも考え続けて来たからこそ、(長くなるからはしょる)いまも企画が時折なせているという自負、自覚がある。
ささやかな庶民生活者の一人として、ようやくこの年齢になって身に染みて沁みて思うことは、与えられた命を全うすることがいかに困難であるか、という冷厳な定め、事実である。生命は儚く、人生は理不尽、不条理である。幸い私は、今を生きて、家族に恵まれ、新しい孫にも恵まれる、という人生を今は送れている。新しい命は、老いた私に訳のわからないエネルギーをくれる。何故なのか。(わからないが、眺めていると元気がわいてくる)
一度の人生、何かのお導き、直感に従って、いまも葦のように揺れて生きている私である。妻、娘、孫、友に恵まれ思うことは、縁あって巡り会えたかけ換えのない存在達の役に立ちたい、という殊勝な心構えの成長感である。
老人ではある。が、私なりに何かのお役に立てる老人で在るためには、何をなして日々を送ればいいのか、いけないのかを、老いたハムレットのように、考え続ける持続力をみつけたい。(正解や、正義などというものは、いまやない時代である。そのような時代に猪風来さんご夫妻に巡り会えたのは、啓示である)お盆、敗戦記念日、妻が帰ってくるまで、一人時間を大切に過ごしたい。
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