日本列島に暮らすすべての人々が、経験したことのない長い暑い夏を過ごしている。私もその一人である。だが、嘆いていても酷暑はいっこうに収まる気配はない。一日でも早く、秋の気配が訪れてくることを祈りながら、何はともあれ、一日一日を今日もしのいで過ごそうと言うくらいにしか、私の頭は働かない。でもまあ、五十鈴川だよりを打とうと言う元気は、まだ我が体に残っているので、そこのところに耳を傾け、この夏を乗りきりたい、私である。
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今日は頂いた本を読みます。 |
今年は春のスパイラルアームズと、秋の猪風来さんの縄文野焼き祭り特別企画に関わることで、充実この上ない生活を、いまのところ送っているという実感がある。そのような日々をこの年齢で送れていることの多幸感は、私、家族友人が健康であることと、生活上の心配がないというところに起因している。
何度か、年金生活だけでは企画はできないという事実を、臆面もなく五十鈴川だよりに私は打っている。70歳、古稀を迎えてから企画を再開、考えた末、これまでの人生で遭遇(であ)え、数十年にわたって、交遊関係が持続し、私の性格(善し悪しまるごと)をかなり理解してくれているとおもえる方々に、なりふり構わず、企画応援カンパを募ることで、企画実現が叶っている。
そういう利害のない奇特な方々の存在があるからこそ、私の企画が、すれすれのところで成立している。特に今年感じる嬉しさは格別である。私の企画を一貫して応援してくださって揺るがない方々の有り難さである。
臆面もなく打つ。私の企画はかなり集客が難しい。生来のあまのじゃく企画者(仕事ではなく、企画したいアーティストしか企画できない)としては、他のだれもが企画をしない、やりたがらない、しかし本物のコマーシャルにはのらないマイナーなアーティストしか私は情熱が沸いてこないのである。何故なのかは説明できないし、したくもない。
さて、そのようなあまのじゃく企画者に、寄せられるカンパを、私のセンス、感覚で大切に(自分で労働して得られたお金を大切に使うように)使用している。信頼され、信用されるには責任が伴う。私の企画に寄せられる(カンパしてくださる)心ある方々のお気持ちだけは決して裏切らないようにするためには、どうすればいいのか、いけないのかを、考え続けている。
だが、やはり年だからとは思いたくないのだが、やはり年なのである。カンパを募ることに、どこか鈍感になりつつあるのである。一回こっきりのカンパ要請に応えてくださるかたのカンパでと、チケット収入で予算を組むだけ、いたってシンプルなのである。若いときは広告や協賛回りに動いていたが、それはもう止めた。それを私は勝手に年の功だと思っている。
寄せられたお金で企画を成立させるだけである。寄せられた信頼に応えるためにやるだけのことをやる。その一点の覚悟が決まればやるだけである。寄せられた財源、貴重なお金で知恵を絞り企画を実現してゆくことの醍醐味感覚を、(老いの花)体で感じ始めたのである。(アーティストにも、払える額で納めていただく)
潤沢にお金があっても、私の企画は生まれない。寄せられた人の面子、おもいが、が私を鼓舞するのである。汗を流して得た仲間の応援、お金の重みを老いの体で受けとめられる老人力企画者でありたい。何よりも私の心に火がつかなければ動けないし、企画は出来ないのだ。
話は変わる。一昨日金曜日お昼頃、Iさんがわざわざ出来立ての縄文フライヤーを我が家まで、取りに来られた。読んでほしいという坂口恭平さんの本【土になる】と雨宮国広さんの【ばくは縄文大工】、高木恭造さんの津軽弁の詩集【まるめろ】を玄関で慌ただしく受け取った。ゆっくりした時間が持てなかったのは、私が縄文のフライヤー配布に出かける直前だったからである。
驚いたのは本に【寸志】の封筒が納められてあったからである。お別れして寸志のお気持ちにびっくりした。長年、企画する度に応援依頼文章を送り、、チケット付きのカンパ他募ってしのいできたが、フライヤー配布を手伝って頂き、本まで頂き、なおかつ多額のカンパを直接(本に挟んであったのが奥ゆかしい)手渡されたのには心底、今も驚かされている。
企画を成すには、何よりも動かねばならない。現代生活ではガソリン代始め、あらゆる必要経費が必須である。貧すれば鈍す、お金の面だけでのことではなく、どこか心に余裕を持って企画を実現するためには、Iさんのような無私の応援者、存在ががつくづく私に勇気とエネルギーをくれるのである。信頼に応える。だからだとおもう、暑い夏、動けるのは。
PS いつの日にか、カンパを募らず、観客のチケット収入だけで企画が成せることを夢見る。
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