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2025-05-18

手島龍一さんと佐藤優さんの新書版の本を読み、いまさらながら世界の複雑さを知らされ、想う。

 休日、よほどの予定がない限り、打つことで(気持ちは書いているつもり)私の一日は始まる。今日は妻のお供で、妻の好きな薔薇(手では書けない文字である)を見に熊山のガーデンにゆく前の五十鈴川だよりである。

先ずは朝一番打つことで、今日の始まりを整えるのが、日課となりつつある。古稀をすぎてからの五十鈴川だよりは、まったくといっていいほどに、いい加減で、自然体で、我が儘である。じっと画面を眺め、ただ静かに内なる何かに耳を澄ませていると、ゆっくりと何かが動き出す。この静かな時間がますます好きになりつつある。


静かに過ごす時間と、動く時間の兼ね合い、往還が私には大事なのである。おおよそ半年の間、抱え込んでいた、スパイラルアームズ公演を終えて3週間近く経つ。引き受け、抱えた者のみが体感するあれやこれやの解放感、安堵感はたとえようもない。今この年齢でやれることはやりきったので、ただ静かに日々の生活を送りたいのである。(ゆっくりと猪風来さんの秋の企画にシフトしてゆきたい) さて、いつものように話を変える。昨日伊豆大島の谷口さんに、万年筆でお便りを思い付くまま一気に書いて、自転車で近所の郵便局まで行き、ポストに投函した。便箋に2枚以上のお便りを書いて投函したのは、いったいいつ以来のことで、あるのかさえわからないくらい、お便りを書いていない自分の生活のあまりの、デジタル丸投げライフに、どこかデジタルに、心が乗っ取られているかのような、暗然たる思いにとらわれてしまったことを、五十鈴川だよりに打っておく。 体を使い、五感、第六感での直接情報を、基本に据えて、この世を生きてゆく術のような感覚を、私自身が無くしつつあることの恐ろしさを、感じてしまったのである。もし、谷口さんとの再会がなければ、相手がいなければ、私はデジタルの海の中で溺れてしまっていたのに違いないような恐怖である。話は飛ぶが、無人機やドローン兵器、生物兵器、小型核爆弾などなど、押すだけで相手に壊滅的打撃を与えてしまう、おびただしい、兵器の開発競争は、やがて人類を破滅へと導く確信である。 ささやかな一庶民の綴るお爺五十鈴川だよりだが、世界の素晴らしさ、この世に生を受けた者の喜びを、せめて我が孫たちにだけでも、伝える努力を惜しまず、手が動く間は、孫たちにも手で書いたお便りを書こうと思う。人間のなすおぞましきが、惹き起こす悲惨極まる映像の編集された一部分が、この半世紀以上、私が高校生の時初めて見たベトナム戦争の映像から、今現在も止むことなく、打つのも嫌になるくらい続いている。 だからといって、一庶民の私には、何をどうしたらいいのかの方策があるわけでは毛頭ない。だがうすらぼんやりと、今のままではとてつもない悪夢が、ある日突然、起こってしまうのでは、との恐怖感がつのるのである。あくまで楽天的に考え、いたずらに悲観的に考えるのは私の性格的に合わないのだが、歴史は繰り返す、仕方がない、と訳知り顔に物言う愚だけは避けたいと思う。我こととして感じる、他者に対する、考える想像力をなくしたら、(人類は太古から繋がっている)おそらくとんでもない未来がまっている気がしてならない。私の悲観的なおもいが杞憂に終ることを、心から願う。 手で書く、裸足で歩く、花の臭いを直接嗅ぐ、土に触れる、料理をする、などなど、編集された映像間接体験ではなく、直に世界に触れる、直接体感するよろこびを生活の中に取り戻さないと、あまりにもバランスの悪い世界がやって来るような気がする。

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