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2024-11-20

匿名の五十鈴川だよりへのコメントに答え、労働仲間Kさんのの応援に感謝する今朝の五十鈴川だより。

 11月4日、香川の大鹿さんから突然のメールをいただき、私のなかでは時間がまさに一気に流れて、ようやくちょっと落ち着いて五十鈴川だよりを打てるところまでは、きたという感じがからだをつつんでいる。

脱帽する猪風来坊美術館の活動記録

今朝の五十鈴川だよりは、先日猪風来美術館を訪ねた際のことを打った五十鈴川だよりに、ひさかたなかった匿名のコメントに対する、返信を兼ねている。私は生まれて初めて多いときには、ラインで繋がっている(ラインでは繋がってはいないが、大切な方もいる)20名以上の方々に、失礼も省みず、一斉送信なるものを試みたのだが、いまやってよかったという思いである。

一行であれ、絵文字だけであれ、20名に近い方々から、何らかのリスポンスが寄せられている。五十鈴川だよりにコメントをいただいた方を含め、私の想いや声かけに、反応してくださっている方がたにたいしての、これは私からの現時点でのお礼の五十鈴川だよりである。

企画者の端くれとして、なぜ高齢者のいま企画を打ち続けているのか。すでに打ったが、話が土取さんからのお話であり、そのご縁で猪風来家族の壮絶な歩み、まさに人生をかけて取り組まれた縄文世界探求の旅を、まさに時空を越えて、縄文人が蘇ったかのような人間に出会えたことの幸運が、企画を打たせる。一言、土取さんの企画、猪風来さんの企画を、我が事として共有し、その企画の輪に加わわりたい。(加われる幸運)

タイミングというものがある。体が脳が反応するタイミング。この年齢ならばこその反応と言い換えてもいい。もう私には何も怖いものがないのである。いまなら間に合う。全勢力で取り組める。体は高齢者ではある、がお金のことは(企画には時に家庭生活を脅かすほどの決断を強いられることがある。個人で企画するのだから)ともかく、いまの私は働いている(パートタイマーではあるが)これまでの人生でもっとも心と体が自由なのである。余裕があるといってもいい。

その私の 念いの輪を汲んでいただけるような仲間、メンバーがこのようにたくさんいてくださることが、とにかく私は心強い。老いのワクワク。これらのの仲間と共に、高い山に登る。私の肝は決まっているが、企画は一人ではできない。緩やかにこれらの仲間と、肝胆相てらしながら、様々なアイデアを持ち寄り実践し、関わるすべての仲間の情動がお互いが出会うことで、活性化する事がなんとしても大事。

肩書きや、経歴はまったく関係ない。この輪のなかに入り、何よりも自分が楽しいと思える感覚を共有できる仲間と(旧知の仲間ともきっと新しい関係性がより深く築ける予感がする)新しく私は出会いたい。

ここでいきなり話は変わる。長くなるから簡単に。共に労働して2年8ヶ月、仲間のKさんがいる。ウクライナの音楽を聴きに来てくれ、翌年の沖縄の音楽家、そして今年のマルセを生きるでは裏方として私を支えてくださったかたである。(その上チケットつきのカンパまでしてくださった)そのかたから何をしたらいいですか、とのメールをもらった。私は返信を打った。

そして昨日、私が猪風来さんからいただいた資料の数々を職場で見せると、パンフと猪風来さんのおなくなりになったご子息、村上原野さんが10才の時に書いた絵本(絵も文章も直筆、とにかく現代文明を根底から照射する、スゴい)を読みたいから貸してくださいと、持ち帰ったのである。

企画をなぜするのか。その答えの一部が私に返ってきた瞬間である。正直、今回の企画に彼が反応をするとは思わなかったし、私も無理して誘おうとは思わなかったのだが、意外といっては失礼に当たるが、本当に嬉しかった。

仕事ではなく企画に関わる一番の醍醐味は、やはり思っても見ない出来事が出会いによって生ずる、その事が私をしてきっと活性化する。この年齢でもにわかに、意外なことがわきおこる。それをして私の活性化、高齢者の贅沢時間とする。

来年の土取さん、猪風来さんの企画に向けて、県内の仲間、県外の仲間いずれも7~8人と連携、関係性を深めながらゆっくり進めてゆきたい。

2024-11-17

晩秋、猪風来美術館を訪ね、猪風来さんと語り合う、そして想う五十鈴川だより。

 年齢的な、たぶん疲労が体の奥から聞こえてくるが、何やらの打ちたい、打たずには余計に体が、変な疲れがたまってゆくように思え、今朝も打つ。

このような本を出されていたとは

さて、昨日五十鈴川だよりを打ち、朝食を済ませ、ひさかた訪ねていなかった、新見の法曽にある猪風来美術館を訪ねた。9時半すぎ家を出てちょうどお昼過ぎに、猪風来坊美術館につくと、猪風来さんが広い敷地の中央でたたずんで待っていた。そのたたずまいに、氏のこれまでの人生が凝縮されていた。

それから私は美術館を辞するまで、ほぼ3時間半、初めて膝を交え、猪風来さんのお話に耳を傾け、猪風来さんが、満を持して来年の秋にやる企画イベントに耳を傾けた。成り行き、あらましは土取さんから、伺ってはいたが、私としては何はともあれ、猪風来さんから、直接お話を聞きたかったからである。

(お昼、美味しい茹で玉子、美子さんお手製ののお結びをいただきながら、時おり合いの手をいれながら、ただ私は猪風来さんの念いに耳を傾けた)午後3時半過ぎ猪風来美術館を後にし家に6時についた。往復5時間の運転、現在の自分の体力も確認できた。

結果、昨日猪風来美術館を訪ねて本当によかったというおもいが、今朝私に五十鈴川だよりを打たせる。語らったことの、わずかでも打たずにはいられないが、それはまず無理だというおもいの方が先立つ。とは言うもののやはりその歯がゆさ、自分の能力のなさをいいわけにはしたくはない。

猪風来さんとの語らいの最後に、氏の造形縄文土器作品、奥さま美子さんのいま展示されている(11月1日から来年2月末まで)タペストリー作品、そして5年前あまりの若さで他界されたご子息原野さんの作品を猪風来さんに説明していただきながら、あらためて見いったのだが、その作品の放つ純粋な魂の息吹、に圧倒された、ことを一行五十鈴川だよりに打っておく。

そのひとつひとつの作品に込められた親子の縄文土器作品、美子さんのタペストリー、分けても、原野さんの遺作となった(完成してすぐ倒れられたとのこと)縄文のヴィーナスは私などの素人が見ても、あまりの造形美に、まさに時空を越えて縄文人がよみがえってきて、創ったのではないかと、思わせられた。(すべての作品に命への讃歌がねりめられている)現代人が失いつつある、命への畏敬の念の消失。

話は変わるが。猪風来さんから土取さんへ、来年秋のイベントのお話があり、そのお話が、私に伝えられるということがなければ、まず猪風来さんのお話を、何はともあれ聞くことから始めたいという、私の直感は正鵠を得たものとなったことを痛感している。

企画者の端くれとして、ささやかに可能な限りいつも続けていることは、アフリカでも、インドでも、沖縄でも、とにかく現地の臭いを嗅ぐ、土の臭いを、風を感じる。頭ではなく体で感じることから私の場合始める。

長くなるのではしょるが、年が明け、話が具体化する前に、現地で猪風来さんとお話ができたことは、有意義というしかないひとときとなった。もう大きな企画は無理だと思っていた私に、私より年長者である土取さんや、猪風来さんが、まさに命がけで生涯取り組んでこられている(こられてきた)いま現在の企画に声をかけていただいたありがたさが、今朝の体を包んでいる。

命の時間は有限である。土取さんや、猪風来さんの仕事に、少しでもお役にたつために、何ができるのかを、虚心に自分に問いながら、微力を尽くす覚悟である。

PS 企画者として、いただいた、猪風来さんのご本、原野さんの小説、資料、じっくり読み込みたい。

2024-11-16

11月13日、14日、土取利行さんと二日連続して、語り合える時間が持て、そして想う。

 土曜日、お休みの朝である。13日夕刻高松の駅のそばのカフェで、14日午後一時から、岡山は奉還町のカフェで土取さんとの打ち合わせ、そして何よりも旧交をあたためる貴重な時間を持つことができた。

1999年の出版、時代の先駆け

高松は私だけであったが、奉還町での打ち合わせには、香川からOさん、瀬政さんと義理の息子さんのSさん、それにハレノワのWさんが(私がお声かけした)急遽土取さんにご挨拶したいということで、計5名での、打ち合わせをかねた実りの多いカフェ時間を過ごすことができた、旨五十鈴川だよりに記録として残しておきたい。

細々、長くなるからはしょるが、来年春、土取さんが再結成したパーカッショングループ、スパイラルアームの公演場所を、先ずは岡山のどこでやるのかということと、日時を決めるということが話し合われた。

その件、予定していなかったハレノワのWさんが急遽短時間ではあったが、参加され、Wさんがまだ東京のセゾン劇場でお仕事をされていたときに、土取さんとは面識があり、他ならぬ土取さんなので、一肌脱ぐことになり、ハレノワの小劇場に春空きがあれば、ハレノワでやることに、話がすんなりと決まったのである。私としては、年内に場所と日時を決めるということからスタートだと考えていたので、思わぬ展開に幸先良し、と安堵した。

来年春のスパイラルアームの公演は、名古屋、京都、岡山、香川での4ヶ所でやることが決まった。そのひとつ岡山での公演を私が引き受けることに。後は名古屋から始まるツアーとの日程調整である。全体のマネイジメントは(共通フライヤー他)香川のOさんがする。

来年秋の、猪風来縄文美術館での公演に関しては、猪風来縄文美術館が来年オープン20周年を迎えるので、その記念イベントとして土取さんと何かやりたい、と猪風来さんからの依頼企画なのである。猪風来さんの思いを新見市が日時他まったく現段階では決まっていないとのことが、土取さんから聞くことができた。春のスパイラルアームの公演はあくまで土取さんの企画、縄文は猪風来さんの企画である。

猪風来さんの企画の思いを、新見市が先ずはクリアーした後、動き出すとのことで、現時点では来年の秋の日時もまだまったく決まっていないとのことなので、現時点ではそれ以上の展開にはならなかった。いずれにせよ、土取さんからO氏を通じてスパイラルアーム岡山での公演依頼メールがきたのが、11月4日、その日からまさにあっという間に、今日がきている。

もう大きな企画をやることはないと打った矢先の、我がいい加減人生の急展開、それもこれも土取利行という稀有な人間との出会い、交友(交遊)の蓄積の上に降ってきた、ありがたい出来事として受け止め、土取さんが活動するかぎり、私も土取さんとの仕事だけは引き受ける腹を決めたのである。

土取さんが何に突き動かされて、次から次に多面的創造活動を持続する能力には、時に畏怖しおののきもするが、ありがたき事と受け止める腹を決めたときに、私らしく引き受けるしかないとかたの力が抜けたのである。

それにしても、外見は年相応なのだが、話し出すと演奏するように淀みなく言葉が溢れる。そのエネルギーの根元は謎である。芸術への見果てぬ夢、限りない愛とでも言うしかない、と言葉にしてもせんないが、言葉にして五十鈴川だよりに打たずにはいられない。ひさかた、土取さんの変わらぬ言葉のつぶてを浴びて、前向きにたたずむ私がいる。



2024-11-13

辰年私の干支、残り一月半の朝に想う、五十鈴川打より。

 還暦から12年、考えてみると私の干支は辰年である。あまり験担ぎとかはしない私なのであるが、やはり年なのか、そういえば辰年、なのだなあ、とある種感慨深くなるのは、土取さんとは、やはりこういう巡り合わせなのかもしれないとの、タイミングの奇縁にある種の自分にしかわからない、想いが沸き上がるからである。

3月23日からマエストロに聞けが始まり、平行してマルセを生きるの企画を進め、合間4月土取さんの香川でのサヌカイトの演奏会を聴きに行き(その事は4月19日の五十鈴川だよりに書いている。是非読んでもらえると嬉しい)、長くなるのではしょるが、共演したチェロ奏者(これまたすごいというしかないない演奏者)エリック・マリアと土取さんと、私の3人で、一枚記念写真を撮った。 その一枚の写真は、土取さんが幼少期を過ごした多度津に近い空海ゆかりのお寺で、サヌカイトの演奏会の翌日、チェロのエリック・マリアが、空海に奉納する演奏会(関係者のみが聞き入った)おこなわれた後、私と土取さん、エリック・マリアとの3人で記念の写真を撮った際に、(なぜか私が真ん中)なにかまた企画をすることになるかもしれないと思ったからである。土取さんからの依頼を受けたときに,何故かそのことが思い出されたのである。 話は変わるが、69才になって一月後、私は人生ではじめて大小併せて一度に3回の手術を体験し、無事に3月23日生還、退院しあれから3年、まもなく3年8ヶ月になる。退院後、3ヶ月に一度の定期検診を続けているが、今日は午前中その検診日である。(というわけで五十鈴川だよりが打てている) あのとき、手術を受けた際に感じたこと(悲しいかなヒトは自分のことして体験しなと何事もわからないのかもとの苦い認識)、命について以前にもまして、ずっと深く考えるようになったことは間違いない。生きているだけで、とにかくありがたい、という感覚を3ヶ月事におもい出すのだが、その事を私はありがたく想う。 コロナのもっとも大変な時期に、よき先生に恵まれず、手術が遅れ、タイミングが悪かったら、きっと私は今ごろこのように五十鈴川だよりを打ってはいない。退院後、本当に私は以前にもまして(自分で言うのは気恥ずかしいのだが)、年齢的に、一日一日を大切に過ごすようになった。70才でウクライナの音楽家、71才で沖縄の音楽家、今年はマルセを生きる、古稀を迎え3年連続企画をすることが叶ったのは、私にとってのはじめての大きな手術体験がなかったら、まず実現しなかったに違いない。 また、この間新たにふたりの孫が私に与えた命の精妙さの(今も)不思議、命のはかなさ、フラジャイルさ、だからこその尊さを、老いの身に知らしめる。だがよきにつけあしきにつけ、ヒトは忘れる。私もまたそうである。また忘れることもまた重要である。その絶対矛盾の狭間を私はたゆたっている、という認識から逃れられずにいる。(自己正当化だとも想う)だがヒトは己の運命を受け入れ時に抗い、いやでも生きてゆく他はない。 話を戻す。そこで降ってきた土取さんからの依頼、正直私の今の生活のなかで、何が可能か、創造的に関わるには、、、。これまで何回か土取さんを企画してきたが、あの頃とは時代はまったくといっていいほどの、変容ぶり、私ごときに何が可能か。単なるお手伝いではなく、老いのみだからこその役割を想うとき、孫たちがそっと私の背中を押してくれるような気がしてならない。それは私の孫たち、という狭義の意味では毛頭ない。 未来の人たちのことを想うとき、私の理解や想像を越えた未来を感知しているかのような、単なる音楽家という範疇を、ずっと昔から真の意味で逸脱するアーティストとしての歩みの集大成的な、土取さんからのアクションに(それは猪風来さんも同じである)私もまた心から参加したい、かかわりたいとの意気を見つけたのである。正直、第一報メールをいただいたときは、ハムレットのように揺れたのである。 だが、いま私の心はゆれていない。これは仕事ではない。生活者としてずっと企画してきたというささやかな自負がある。小さな企画であれ何であれ、腹落ちしないと私の場合エネルギーはわいてこない。明日土取さんが岡山にやって来る。すべてはそこからである。

2024-11-10

晩秋、老人は荒野を目指す、【マエストロに聞け】参加者からの予期せぬリスポンスに励まされる今朝の五十鈴川だより。

 すっかり日の出が遅くなった。晩秋のこの季節が私はことのほか好きで、分けても休日の朝の静かな時間帯をこよなく大事にしている私である。昨日、ちょっと土取さんとの出会いなどを、五十鈴川だよりに打ち、長くなりそうだったので、続きは明日打つことにしたら、あっという間に、今朝が来たという次第。(昨日午後玉ねぎの苗を300本植え、頭を冷やした)

岡山に移住する前の宝のポスター

昨日午前中、五十鈴川だよりをアップした後、ラインで3日連続ロングメールを打ったのだが、わずか一日で、新たに何人ものかたから、応援メールをいただき、それぞれのかたには、今日を含め、返信メールを打たねばとは思っている。

瀬政さん、河合さん、京さん、ヤナセさん、大場さん、Iさん、Yさん、Mさん、Gさん、Nさん、Wさん、Aさん、Hさん、娘二人を加えると、15名のかたから、励ましや、何らかのお手伝いを(皆さんそれぞれの生活を抱えながら、困難な時代のなか)したい、遠方だけれどなにか力になりたい等、メッセージが寄せられている。

ロングメールの度に、ショートリスポンスをくださるかたもいて、短長の文面ではあれ、その方のお人柄の現在感覚(人はそれぞれの場所で変容しながら生きている)が自ずと浮かび上がってきます。(五十鈴川だよりを打つものとして、応援メールをくださったかたに、この場を借りて心からお礼申し上げます)

すべてありがたく、アクションを発信しなかったら、決してこのようなリアクションはいただけなかったかと言うことを勘案すると、改めて私はなぜこのようなアクションを起こしているのだろうと考えなくもありません。仕事でもなんでもなく、ただ土取さんからの依頼だというだけで、この年齢で、なぜかくも心がざわめきたつのかは、やはり土取さんだから、というしかありません。

土取さんのことを知らない、知ってはいてもまったく関心のないかたには、脳が動かないのが当たり前、それが自然なのである。私としては、反応のある方々との裾野が拡がってゆく、見果てぬ夢を面白くいきる、ささやかでも粋のいいエネルギーを結集したい。金銭等の力もさることながら、私を含め、いっぱいいっぱいの日々の生活のなかでの、このようなリスポンスこそが、私にエネルギーをくれ、ある種の思いもかけないアイデアが浮かぶ、ぎりぎりをサーフィンする、面白がる。

リスポンスのなかでとても嬉しかったのは(全部嬉しいのですが)今年3月から、おおよそ4ヶ月、10回程度シェイクスピアのリーディング音読、【マエストロに聞け】に参加してくださったかた、(河合さん瀬政さん以外の参加者)3名からリスポンスがあったことである。

その中のひとりHさんからのリスポンスは、まったく意外で、これだから人間は面白いと言う他はない。このかたは、シェイクスピアのリーディング、カラオケの延長みたいに、とにかく声が出せればいい、ただ音読してみたいくらいの、のりで参加されており、私のようなシェイクスピアへの偏愛はまったくない方でした。その上お仕事の都合等で毎回の参加は非常に難しい方だったのですが、レッスンに参加された時は、つっかえつっかえしながらも、必死に声をだされていたのがとても印象に残っているかたなのである。その思いもかけないかたからの、わずか一行、いただいたメールは、私を感動させました。

私はイデオロギーも何もなく、根のある風のように生きて行ければそれでよし。ただし、これはという友達のためなら、ハムレットが言うように、例え藁しべ一本のためにも腹をくくって挑む(これはあくまで理想です)。という生き方に憧れる。(多分に父親の影響もある、誇りをもって人がやりたがらないことをやれという、言わば家訓のようなもの、私はとても古い人間なのである)

生来の感動するバネのおかげで(ありがたいことに)なんとかこの年齢までたどり着き、いまこのようなお話を土取さんからお声かけいただけているのだとの認識がある。Hさんからの一行のリスポンスが私に五十鈴川だよりを打たせる。Hさんとはお茶を飲んだこともなく、我が家に来ていただいたこともなく、お話をしたことさえありません。だけれども、きちんと生活されておられる方、というのが今も私のHさんに抱いている印象である。

マエストロに聞け、のレッスン、(今現在の私の中から湧いてくる情熱のすべてを出し切ったので、思い残すことはない)いただいたメールふたり目、Yさんは、うちの長女と同世代、二人のお子さんを抱え、お仕事子育て真っ最中なのに(いつの日にか時間がとれるようになったら再びレッスンしたいとのこと)私のレッスンに果敢に挑んでくれ、とてもよい印象、磨けば変身する可能性を感じさせる方でした。時間の許す範囲で当日スタッフとして、とありました。3人目男性Gさんから昨日いただいたメール、これまた前向きな応援メールでした。

【マエストロに聞け】全10回のレッスン参加者からいただいたメールを読み、想うことは、シェイクスピアのリーディング音読を通じて、なにがしかの私の存在意義のような思いが伝わったからこそいただいた応援メッセージだと、改めてレッスンをやってよかったと思う。

人と人との関係性の深い構築は、一朝一夕に叶うものではなく、お互いをさらけ出し、ぎりぎりのところで踏ん張る力をその人なりの力で、おりおりは致し方なくあきらめながらも、再び力を蓄え果敢に挑んでいくことを繰り返した仲間との共有関係のなかでしか育み得ないというのが、私の正直な認識である。

そういう意味で、今年マエストロに聞け、がなかったら出会えなかった方たちからの応援メールは、私の土取さんとのコラボ実現に向けて新しい風を運ぶ。当たり前だが、ドアを叩かないとドアは開かないし、ドアを開かないと新しい風は入ってこない。河合さん、瀬政さん含めマエストロに聞けから5名もの応援前向きメール。やはりシェイクスピアは守り神である。ワクワクときめかないイベントは、ごまめの歯軋り、私にはできない、(のである)。

2024-11-09

土取利行さんから、来年岡山での公演企画の依頼を受け想う、今朝の五十鈴川だより。

 わずか一週間もたたないうちに、というか、前回の五十鈴川だよりから5日後に、まったく心持ちが、こうも変わるかのような五十鈴川だよりを打つことになろうとは思いもしなかった。

というのがまったくオーバーには思えないほどに、一寸先まったく予期しないメールが、年の瀬というにはちょっと早いが届いて、何やら一気に私の中の老人気分がふっとんでしまって、さてもさてもどうしたらいいのか、老境のハムレットの心持ちで、思案のしどころ、いまも打ちながら、ありがたい気持ちを抱えながら、五十鈴川だよりをとにかく打っているところである。

8年前偶然見つけた本いつもそばにある


長くなるので要点だけを打つ。そのメールは、香川在住のこの数年、多度津出身の音楽家である土取利行さんの企画、浜辺のサヌカイトのライブ(映像に遺してあるが素晴らしい、岡山で上映したい)チェロのエリック・マリアとのサヌカイトのコラボ(今年の春そのライブをみる聴くことは叶ったが、言葉がないほど素晴らしかった。五十鈴川だよりに書いているので読んでもらえると嬉しい)などを全面的にサポートしている大鹿(実名です)さんからのものであった。

用件は、来年土取さんが、来年岡山で春にパーカッションのグループ、再結成したスパイラルアームの公演を、秋に縄文のイベントをやりたいので、是非協力してほしい、来週岡山にゆくので時間を明けてほしいとの依頼メールであった。

もう私のなかで、大きな企画はしないとのシフトチェンジしたおもいを、五十鈴川だよりに打って、まもなく届いたメールであったので、正直一晩私はない頭で思案にくれた。

土取さんとの衝撃的な出会いは26才、25歳初めての異国の地、ロンドン遊学の時である。数々の思いでの中の白眉である。今は亡き20世紀が生んだ偉大な演出家ピーター・ブルック国際劇団の舞台音楽(個人的な音楽活動とは別に、40年以上、最後まで続けた)、アルフレッド・ダリ作、ユビュ王である。

開演前一人ドラムセットに土取さんが座っている。土取さんの演奏で芝居が始まる。舞台は明るい。ピーター・ブルックの名著、何もない空間、そのままである。ドラムセットの周りには見たこともない楽器の数々(今ならわかる)笛や鈴などなど、アフリカはじめとする世界各地の民族伝統楽器が置いてあり、シーンシーンを即興で演奏するのである。演奏しないときは一観客になり笑ったり、自然に反応する。

(私はピーター・ブルックの夏の夜の夢を二十歳くらいの時、東京の日生劇場で観て、そのあまりの斬新さに、若かったしビックリし、そしてシェイクスピア作品だけを演出する演出家だと思っていたので、当時、その事にまずは驚いた。現代演劇としてのシェイクスピア、ピーター・ブルックの存在を知らなかったら、私は恐らく土取さんとのまさに演劇的な出会いはなかったであろう)

打っているとテムズ川の対岸のヤング・ヴック座、ありし日の若き土取さんの軽やかな、チベット僧のような姿で、ドラムスティックを常に右手にもちながらロンドンの街中を歩いていた姿を忘れない。

舞台から、しなやかというしかない、細身の体から放たれる宝石のような珠玉の音のつぶてを浴びた私は茫然自失し、あのピーター・ブルックの音楽を日本人がやっていることに、心底驚いたのである。終演後、怖いもの知らず、楽屋に土取さんを訪ねたのが、出会いである。

土取さんは夕食にピカデリーの菜食レストランに私を誘ってくれ、未知の国の音楽、分けてもアフリカやアジアの音楽、西洋音楽との相違をとうとうとわずかな時間私に語ってくれたのだが、その事が以後私に未知の国を訪ねる契機の種になったことは間違いない。

あれから、47年の歳月が流れ、ある種どこか感無量の思いが去来するのだが、とにもかくにも、我が人生で出会えた稀有な人間、そして言うまでもなく、私の人生にいまもって大きな影響を与え続けている存在である。

私はもう臆面もなく老人である。しかし土取さんは私より年長である。その方がお声をかけてくださるのは甚だの誉れではある。わたしに何が可能であろうか。謙虚に私は問う。そして大きな企画に関わるシフトチェンジを暫し延長することにしたのである。

ただ、土取利行さんでなかったら、多分これほどのエネルギーはわいてこないだろう。土取さんが全人生をかけて、今も果敢に挑戦している姿を前にしては、古いけれど男子として情けないのである。私の思い。情熱のある若い人たちにに土取利行という芸術家、私が大いに啓発され続けているアーティストの存在の多岐にわたる(それぞれの年代で取り組んだ)歩み、軌跡を知ってもらえたら、ということを思いついたとき、老人の私の体にスイッチ(オン)がはいったのである。

続きは、明日打つことにします。

2024-11-04

朝の秋の光を背中に浴びながら、3日連続打つ成りゆき五十鈴川だより。

 昨日午前10時過ぎから、午後2時までかかって妻と二人でサツマイモの収穫を終えた。思ったよりも立派な大きなサツマイモが多くて驚いた。大中小バランスよく成育していて、大満足であった。その事を打てばもう他にはあえて打つこともないのだが、小器晩成、老人の打つ楽しみ、五十鈴川だよりを育みたいという意気、生き甲斐は今しばらくは手放せない。

天の恵みサツマイモの収穫

秋真っ盛りのこの3連休、家の近所と図書館、それにお芋の収穫で過ごすことになりそうである。行楽地に妻は出掛けたいとは、ほとんど言わないし、繕い物をしたり、とにかく家のなかで過ごすことが、苦にならないタイプなので、すっかり私も彼女の生活ぶりに馴染むようになってきつつある最近である。だから以前の私では考えられないほど、行動範囲の狭い生活を、楽しむことが出来ている。

その一方、やはり私は旅好きであり、ちょっとフラり文庫本をもって風来坊になりたいという、生来の気質は多分体が動かなくなるまでは、やめないだろう。幸い妻はそういう私の行動にまで踏みいってはこないのでありがたい。(お互いが手放せない存在では在るが、自律した個人の領域までは干渉しない。そもそもまったく異なる人格なのであることを尊重し、共存するというのが、老夫婦の我が家の風通しのいい関係性である)

去年は近い外国、韓国のプサンを20年ぶりくらいに、つかの間ひとり旅をすることができて、実に有意義な旅となった。あの旅、当地の素晴らしい若者たちのサポートで、日々五十鈴川だよりに打ったので、読み返してはいないが記録として残っている。あのような気持ちのいい小さなひとり旅を、今年もしてみたいとは思うが、できるかどうかは未定である。

さて、昨日のサツマイモの収穫で思ったことだが、還暦を迎え、(そして中世夢が原を退職して)12年、よもやまさかこんなに土に親しむ生活を送るようになるとは思いもしなかった。そして、3人の孫に恵まれることももちろん思いもしなかった。

成り行きという言葉がある。18才からまるで成り行きという言葉しか浮かばないくらい、20代、30代転機の折々で、行動選択しながら、今に至っている私の人生である。なにか成り行きという言葉はよいイメージがともなわないような気がしていたのだが、いや私ばかりではなく、あの天才立川談志が、人生成りゆきという本を出されているし(読んではいない)、養老孟司先生も自分の人生は成りゆきだとおっしゃっておられたので、私としては大いに慰められている。

これから一回り12年後、私が生存しているかいないかはともかく、はっきりしていることは未知だからこそ人生は面白いのだし、先のことなど誰ひとりわからない。2023年が始まって10ヶ月が過ぎた。今年は私にとってずいぶん意外なことや、思いもしなかったことが次々と起こっている。その事を面白くいい方向にと。今年も残り2ヶ月しっかりと生活したいと思う私である。

PS 昨年秋プサンの場末の宿に近いところに市場があったので、何度もその市場で庶民のランチや夕食を一人でし、その市場で最後に買い物をしたのだが、その乾物やさんのお店の店番の40才くらいの(30代かもしれない)女性の人がとても感じがよく、あれこれ考える旅人のわたしに辛抱強く対応してくれ、商売っ気なくよい品を薦めてくれた。あの乾物やさんをもう一度訪ねたいという思いが私にはある。私の旅はガイドブックにはない。高齢者なのだから、異国への旅は春か秋にしたい。

2024-11-03

妻とアルバイト先に植えているサツマイモの収穫に出掛ける前の五十鈴川だより。

 昨日雨が上がったので、夕刻読み終えた本を返しに図書館に行き、新たに本を5冊ほど借り、ついでにいつも裸足散歩を(雨上がりで所々水がたまっていたが)暗くなる日没6時前までの数十分運動公園でした。裸足の老秋、清々しい気持ちになれる黄昏時の一時。

朝から夕刻まで部屋にこもっていたので、夕闇迫る天を眺めての、極楽とんぼ裸足散歩は今や私の生活のなかでは欠かすことができない。よほどの雨ではない限り、休日家にいるときは、この数年持続している。

佐藤優さんとの友情が素晴らしい

働くことも、すべてのことに言えるが、続けられるのはやり終えたときに、それなりの自分にしかわからない達成感と、(裸足散歩に達成感とはちとオーバーだが)喜びとある種の気持ちよさがあるから、続けられているのだと想う。あえてその事を敷衍して付け加えると、人間だから気持ちが上向かないこともあるし、本質的に私は怠惰であるとの自己認識がある。流されやすい。

だから、そういうときにはあえて、少々無理をしてでも、気持ちを押し上げるためにも、わずかであれ体を動かし続ける。そうすると体は不思議と動き始める。働くことも音読することも、旅をすることもすべては老いつつ体が喜ぶことしか、今の私には興趣がわかないのである。

(打っているこの部屋に、秋の朝の日差しが一気に差し込んできた。今日は文化の日であるが、アルバイト先に植えているサツマイモの収穫にゆく予定である、文化の日とは何か、改めて自分に問う)

生活のあらゆるシフトチェンジを、このところゆっくりと進めているが、分けても大きなリスクを背負う企画をするということからは、たぶんよほどのことがない限り、今後しないだろうと想う。(イベントのお誘いも古希を過ぎたので義理を欠くことに決めた、妻との時間を最優先する)

いつものように話を変える。この半世紀以上生活しながら、生きる糧として、少しでも無知蒙昧からの脱却と夢を育む読書、体が喜ぶ読書を現在も続けて来て、五十鈴川だよりではほとんど触れていない私が大好きな、人間として畏怖する、爪の垢でもあのようにいきられたらと憧れる人間に、女優であり作家に高峰秀子さんがおられる。

初めて読んだのはもう思い出せないが多分本が出てまもなくだから、私がまだ20代であったかと思う。タイトルは【私の渡世日記】読み出したら止められないほどに、波乱万丈、劇的な人生が綴られていた。とにかく自分のことではないから、読み物として存分に堪能した。以来高峰秀子という名前は、私のなかでは単なる女優ではなく、ひとりの人間、分けてもものを書く人、粋で無駄のない、つまりは文は人なりという言葉がもっともいい得ている作家として、私の胸のなかで今も生き続けている。(その上料理が抜群に上手い。そのすべての情熱は夫、松山善三氏のために作られる。なんという夫婦関係の出会いからの数奇な運命)

お亡くなりになって久しいが、松山家の養女の松山明美(養女に迎えられるいきさつがこれまた泣かせる)さんが、次々と高峰秀子さんの人間としての素晴らしさを伝えるご本を出版されている。足跡を展示する(写真展等で)イベントも定期的にやられている。(ようである)

なぜ、このようなことを突然打っているかというと、米原万里さんという作家がおられた。ロシア語の通訳者、翻訳家で、何冊か読んだことがあり、2006年の5月、ご病気で早逝されている。高峰秀子さん、米原万里さん生まれ落ちた時代も、お仕事もまったく異なるジャンルの方ではあるが、本となって遺された文章を、改めてゆっくり読むと、その素晴らしさに打たれるのだ。うまく言えないがお二人には共通する(質は違うが)独特の人間としての魅力がある。

高峰秀子さんの映画、二十四の瞳を小学生の頃田舎の映画館で見た記憶がある。亡き母が大好きな女優であった。多分同世代。高峰さんの代表作映画、浮き雲なども探して観たくなった。米原万里さんの本で、すでに17世紀にクリミアをめぐっての争い、ロシアとウクライナの複雑な歴史の一端も知らされた。

また庶民兵士にとって黒パンの重要さが、日本人の梅干しに相当するほど大切な主食であることなど、目から鱗のように知らされる。だから、老いても本が手放せない。老いてもの一番のありがたいことは、人生で出会えた、最後まで手放せない人や自分にとって大切な書物に囲まれて限られた時間を生きることである。


2024-11-02

読書の秋に、徒然想う五十鈴川だより。

今日から 3連休である。そして、早11月である。昨日から降り続いた雨が今は止んでいる。先程メル散歩から戻ってきてところ、空は一面どんよりと重い雲が垂れ込めている。とりたてて打ちたいことがある日も、打つことがない日も、調子がいいときも、調子の意気が上がらないときも、お休みの日は何かを綴り打ちたい、老人である。

教わることが染みる秋

さて、今年もあと2ヶ月となった。このところ佐藤愛子さん、高樹のぶ子さんの長編小説を立て続けに読んだ。いずれも(エッセイとうは読んだことがあるが)小説は初めて読んだ。そして宗教学の専門家であられる山折哲雄さんの【我が人生の三原則】という御本を読み終えたばかりである。この方の本もようやく初めて読んだ。

とりたてて打つことは思い浮かばないのだが、一言打ちたいのは、博学、博識のその道の専門家のご本、真摯な学識に裏打ちされた文章は、ぐいぐいと引き込まれて読み進むことができ、わずか二日で読み終えた。私にしては本当に早い。

今思うことは、手にして、このような本に巡りあえて本当によかったという単純な思いである。私より年長者で若い頃から学徒として宗教学、思想史を学びながら、ご自身様々な病を体験され、生き返るかのように生還し、学ばれた成果が80才を過ぎてから出されたこの本にはつまっている。何よりも学者が書かれたとは思えないくらい文章がわかりやすく、簡潔、無駄がない。

お三方分野は異なるが、50年以上生き方が一筋、(佐藤愛子さんは90歳を目前の時の小説)人柄が浮かんでくるお仕事ぶりに深く頭を垂れ、静かに脱帽する。いちいちの内容には触れない。もし読んでみたいと思われるかたがいたら、ご自分で手にしてほしい。唯一の自分の現在の心と体で味わうのが一番である。

古典、シェイクスピア作品であろうが、今の高樹のぶ子さんの作品(高樹さんの古典への思い、日本語への思いがすごい)であろうが、一度で理解できるほど、やわではない。山折哲雄先生の本、佐藤愛子さんの本、共通するのはこれから私が明日を迎え、老い路を豊かに生きてゆくためのには欠かせない、心の栄養になるのは間違いないと、思わせられた本であるからこそ、五十鈴川だよりに打っておきたい、ただそれだけである。

老人と若者の違いは(突然のアクシデントがない限り)年よりは若者より確実に死が近いということである。歳を積むことは、死を年年歳歳身近に感じることが深まってゆくということだと思う。若いときにメメントモリとう言葉を知ったときには、食うことが精一杯でとてもではないが、死を身近に感じる(感じることは感じていたと想う)ことよりも、ひたすら現在を生きるしかなかった。だが今はまるで違う。いやでも死を意識する年齢に入ってきたし、考える余裕がある。その事を前向きにとらえ、生きて行きたいのである。

(歳をとったなどという暇もないくらい、佐藤愛子さんは別れた夫の借金を返すためにためにひたすら小説を書き続け借金を返済、あっぱれ。気がついたら歳を重ねていたというのは例外中の例外、だがこういう女傑が私は大好きである)

と、ここまで打ってきて、このまま打つとまるでまとまらない五十鈴川だよりになるのは避けたい。要は読書もシフトチェンジ、一度きりの人生は確かなので、夏目漱石の小説他、これまで題名だけしか知らなかったかたの代表作を中心に、他ジャンルの書物の海を泳ぎたいと、ささやかに思うのだ。一回限りの人生ではとても読みきれないことは承知している。あくまで休日の過ごし方の範囲の中での読書で思うことである。

なんといっても、今現在の生活のなかで私が一番大切にしていることは、私と妻、二人の娘たち家族の家庭の生活である。そして母が時おり言っていた言葉、本を読むばかりが人生ではないと。あくまで己が生きてゆくための読書である。

PS 明らかに・あきらめて往く・もくもくと・ひとり草刈り・秋風がしむ。


2024-10-31

37回目の結婚記念日と、瀬政さんとの二人だけのシェイクスピア作品のリーディングレッスンに思う、朝の五十鈴川だより。

 今日は37回目の結婚記念日である。だからといって特に書きたいことがあるわけではないのだが、何とはなしにこういったことを、臆面もなく、能天気に打つ、打ってしまう自分がいる。このような、おそらく他のヒトにはまったく関係のないことを、打っても多くのかたは、関係ないと、受け止めてしまうであろうことは、打っている私も自覚している。

日本語の奥深さ雅さにしびれる

わたしの両親の結婚記念日を私は知らないし、そもそも我が兄弟5人は誕生日を祝ってもらったこともない。時代と我が家の家庭環境が、そういう余裕がまったくなかったからであろうと思う。

が私はその事で、私自身を不幸だと思ったことは、幸いなことに一度もない。(そのような家庭環境の子供たちは、回りにたくさんいた。我が家よりも貧しい家庭を私はたくさん知っていたし、その現実を目撃していたからだ)その上我が姉兄弟5人は、保育園も幼稚園にも通っていない。現在、姉兄弟5人元気にいまも元気に暮らしている。その事に対する平凡な感謝の念はただ一言、ありがたいという言葉しかない。

(思い出せる幼少期や少年期のことも、記憶のあるうちに努めてこれから折々打ちたい)

話を戻すが、こうやって我が結婚記念日を、能天気に五十鈴川だよりに打てるいまを、ありがたいことだとただ思い、思うだけで特別なことをするわけでも何でもない。わたしの両親はただ生活に追われ、結婚記念日など思い出す余裕もなかったことに、ただ思いを馳せる。

歳を重ねると、思いでだけが何故か光を帯びて来るようになる、これまでは思い出すこともなかった記憶の奥底にしまいこまれていていた出来事のあれやこれやが不意に蘇ったりする。つまりはその事が老いるということなのだと、最近とみに実感する。

辛かったり、苦しかった出来事も、もうすでに過ぎさっているのだし、その事を通過乗り越えてきて、いまとなっては甘美な思いでではなく、事実のどうにもならない出来事であったにせよ、こうやって能天気に五十鈴川だよりを打てる生活が送れている現在を、在りがたしと思うだけである。

人生の達人であられる、五木寛之さんだったと思うが、歳をとったら思い出に生きる。思い出がたくさんあるのはとてもいいことだとおっしゃっていた。思い出に耽る健康法のような生き方を私はしたいと、さいきんにわかに思うようになってきている。このよなことを打つと何やら後ろ向きのように思えるが、思い出すことで、にわかに現在が生き生きしてくるような、思いで健康一日ライフの実践で、また新たな出来事が紡ぎ出されてくるようにも想えるのだ。

ところで、昨日午後、瀬政さんと二人だけのシェイクスピアのリーディングをした。ベニスの商人の4幕5幕を音読し、読み終えた。何度も打っているが、まったく一から、71才からシェイクスピア作品のリーディングに飛び込み、間違いの喜劇・ロミオとジュリエット・夏の夜の夢・ハムレット・ベニスの商人と、たぶん今年すでに5作品のリーディングを完了したはずである。黙読ではない、他者、私との音読である。

お世辞ではなく、たいした挑戦力であると思う。その勇気にちょっと打たれる。明らかに以前私が氏にたいして抱いていたある種のイメージを、氏は破ろうとしている、かに見える。殻を破る、破れるのは自分という不確かな器しかいないのである。

長くなるからはしょるが、秋の午後、二人だけでの、月に一度か二度のシェイクスピア作品のリーディングレッスン。このペースでのリーディングであれ、塵も積もればなのである。丸太を一本一本積み上げるように、確実にシェイクスピアの珠玉の作品をリーディングすることの喜びを改めて感じている。

もし、氏が私のリーディングに参加しなかったら、秋の午後、シェイクスピア作品の我が家でのリーディングは実現しなかったであろうし、なかなかベニスの商人のリーディングをしようとは思わなかったかもしれない。

改めてユダヤ人(つくづく私はユダヤ人の複雑な歴史を知らないと知らされる)シャイロック(このような人間の心理を描いている、人物を造形したところにシェイクスピアの偉大さを感じる)の複雑な台詞の言い回し、日本語による面白さを随所に発見、小さい秋を見つける喜び、好奇心を持続する志を噛み締める。

次回から、本当に久しぶりに【オセロ】をリーディングする。作品を循環リーディングすることで新鮮にシェイクスピア作品と対峙できる。一昔前老人力という本、言葉が流行ったが、今自分が古希を過ぎ思うことは、無理せず面白くいかに自分自身と遊べるか、ということにつきる。そういう意味ではいい秋を見つけている。(と思う)

2024-10-27

先の上京の小さな旅、最後の日に日比谷で観た映画【2度目のはなればなれ】に突き動かされました。そして思う。

 映画館で映画を観るということがわたしの生活ではほとんどなくなりつつある。ほとんど動画配信である。インターネットをほとんどしないし、ましてこの一年新聞購読をやめたせいで、ちょっとオーバーだが限りなく隠者的な様相をおびたかのような、世間の流行り廃りに限りなく疎い、誤解を招くような表現だが、すねものてきな心の狭い老人になりつつあるのを、自覚している。

最近いつもわたしのそばで過ごす花
(でも気持ちがいいのだから仕方がない)

だが、当の本人はその事を、こうやって五十鈴川だよりをうちながら、どこか韜晦している趣といったようなあんばいで、面白がっている。

さて、先の小さな上京旅での最後の日、銀座の裏通りの小さな小料理屋で美味しいランチを一人済ませ、その後歩いて日比谷に移動、何年ぶりかの(永井画廊で藤原新也さんの個展を見たあと)映画を日比谷東宝で観た。

その映画のことはNHKのラジオ、金曜日午後9時からの高橋源一郎さんがパーソナリティーの飛ぶ教室にゲスト出演していた映画の字幕翻訳家戸田奈津子さんがお話しされていたのを、たまたま聴いていてインプット、知っていた。

題名は【2度めのはなればなれ】。せっかく旅をしているのだし、もうよほどのことがない限り、日常生活のなかでは映画館に足を運ぶなんてことは、(何せ情報を限りなく遮断しているのだから)なかなかないし、なんといってもずっと先輩であられ、映画の字幕翻訳家として尊敬している戸田奈津子さんが(たぶん88歳であられる)素晴らしいとおっしゃっていたので、なんとしても映画館で見たかったのである。(旅に出たら、韓国にゆくと必ず私は当地の映画館にゆく)

歩いて銀座から程近い日比谷東宝で封切られていたことも幸いした。ついてほどなく映画が始まった。原題はザ・グレイエスケーパー、直訳すれば大いなる脱出者である。これが戸田さんが映画の内容で意訳、2度目のはなればなれ、とした。このセンスに脱帽する。このようなことを綴り打つと長くなるので、いつものようにはしょるが、ちょっとだけ。

スマホで関心のあるかたは、予告編だけでも見てほしい。(いささか矛盾するが、こういうてんではスマホは本当に役に立つ、要は何事も使う人次第である)主演俳優、老優は英国が誇るマイケル・ケインとグレンダ・ジャクソンである。マイケルケインはこの映画でもって引退するとある。妻を演じるグレンダジャクソンは映画か完成したあとお亡くなりになった、と知った。

この二人のあまりにもの、何十年も連れ添ったかのような夫婦の絆、本当の夫婦の情愛表現のなんと言う細やかさと自然な演技、誇り高き英国人魂が香り立つ名演技に、私は心底感動し打たれた。昨日西田敏行さんのことをちょっと書いたが、改めて思う。マイケルケインやグレンダジャクソンもまた不世出の俳優というしか私には言葉が出てこない。

それにしてもなんと言う見事な老方というしかない人生を歩まれたお二人の表現力に、爪の赤でも学ばねばと言う思いが、老いゆくわたしの秋を彩る。このような映画が生まれる、作れる。やはりシェイクスピアを生んだ国の言葉のやり取り、老優お二人に当て書きされたであろう脚本の言葉の粋、ウイット、洒落っけがたまらなく素晴らしい。かっこいいの一言につきる。目指すべきはあのような老人の姿である。

ところで、グレンダジャクソンという俳優を知ったのは、ピーターブルック監督の映画マラサドである。映画の内容も精神病院でえがかれる(記憶が曖昧で申し訳ない)人間の存在の闇に迫る、当時の(26才英国遊学中にみた)私には、少し難しい映画であったが、グレンダジャクソンという強烈な存在感の名前は記憶にはっきりときざまれた。

その上その年、シェイクスピアの生誕地にあるストラットフォードにあるRSCシェイクスピア記念劇場で上演された、これまたピーター・ブルック演出のシェイクスピア作品アントニーとクレオパトラの、クレオパトラをグレンダジャクソンが演じていたのを私はたまたま彼の地で観ることができた幸運を、なんとしても五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。

まさに目撃した、タイミング、若かったからの何も怖くなかったからこそ出会えたのだと、いまにして思う。(孫たちには悔いな自分の足で直接自分の体で一回限りの人生をゆっくりと体感してほしい、これはおじじからのお願い、もっと言えばあらゆる情報は懐疑してほしい。要は自分の体で考えるということ)

なんと、あれから46年の歳月の後、88才の、黄泉の国、宇宙の彼方に旅立たれる直前のグレンダジャクソンに、またもや私は二度の再会をしたことになる。往年の立ち姿の風格のあるクレオパトラの姿と、老いた皮膚をさらしながら、凛として台詞を放つ姿に涙が押し寄せ、あまりにもかっこいい生き方と演技力に圧倒されたのである。

映画の終わりの方、介護施設(介護施設の職員の黒人俳優の女性がこれまたいい。出てくる俳優出てくる俳優が皆いい)のベッドの上で、老いた妻が戻ってきた老いた夫にキスをするシーン、、、。これ以上は打たない。野暮である。いい映画に説明は不要である。わかる人にはわかり、感じる人は感じる。なにかに殉じる生き方ができる人はし合わせであると、この映画は私に静かに語りかけてきた。


2024-10-26

真夜中目覚め、西田敏行さんの2018年のNHKのインタビューを聴きました。そして思う。

 真夜中、目が覚めたのでお休みなのでNHKのラジオをつけると、先日お亡くなりになった西田敏行さんの2018年のインタビュー番組の声が聴こえてきて思わず耳をそばだてた。全部を聴いた訳ではないが、両親の思い出を語るときに、嗚咽してしまう声が、姿は見えないものの、なんともいえない人間性に思わず私もじーんとして、目が覚めてしまった。なぜ語るうちに、感情がコントロールできなくなったのかは、ご本人にしかわからない。

大人の対話、打たれました。

また、私は耳にしたその内容を打とうとは思わない。ただ深く心が揺り動かされたことだけは間違いないので、一行であれ五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。76才で逝かれたので、インタビュー当時70才である。福島県の生まれである。あのようなお人柄が生まれたのには、ご両親の偉大な普通の善良なお人柄があったからだということが、実によくわかった。

実は私はほとんど西田さんが、出演していたドラマや、映画を丹念にみていたわけでは、全くない。だが一度だけ西田さんがまだ無名で、記憶に間違いがなければ、青年座の、宮本研作、明治の柩(足尾鉱毒の勇、田中正造氏が主役の作品)という舞台に村の青年の一人で出演していたのを記憶している。なぜ記憶しているのか、突出して声がでかく、生き生きとした存在感が他の村の青年のなかで、ひときわ群を抜いていたからである。

その後あっという間に、多面的に活躍されてゆくようになられ、知らない人はほとんどいなくなってしまうほど、大衆に支持される国民的な俳優になられた。昭和を代表する俳優が、今また一人姿を消した。その寂寥感、私より4才年長ではあるが秋風と共に染みる。山田洋次監督もおっしゃっていたが、もうあのような俳優は出てこないだろうと。やはり俳優は特に時代によって、環境によって産み出されてくるのだと改めて思うし、知らされる。

このコロナ渦中での(もうほとんどコロナの報道は消えたかのようだが)この4年くらいの間に、同世代の70年代から80年代、90年代にに光輝いた、多分野の私が影響を受けた方々の訃報が耳に入らなかった年はない。その都度、なにがしかのことを打てる間は、五十鈴川だよりに打ってきた。(と思う)私だっていつ消えてもおかしくはない年齢に入っていることを、このところ痛感してはいる。だが、正直まだピンとは来ない感覚を生きられている。

だからそういう感覚があるときにこそ、五十鈴川だよりに、今思うことをきちんと打っておかねばと、自戒するのである。死が間近に迫ったら五十鈴川だよりなんか打てないに決まっている。打てるときに打つ。会いたいとき会いたい人にに会う。働けるときに働く。シンプルさの極限的な老人生活、ささやか気儘をつましく元気に送り、孫たちが育ってゆくのを遠くから眺められれば、という超保守的なおじいさんになりつつあるのを、どこか能天気に自覚している。

と、ここまで打って話を変える。山積して解決するのは気か遠くなるほどの、歴史的な糸がもつれにもつれている世界的な問題(ガザ、パレスチナ、ウクライナ、北朝鮮、他)を耳にしても、私は無力である)だが無関心ではないことを、きちんと五十鈴川だよりに打っておく。

詩人の石垣りんさんが書かれている(五十鈴川だよりに打った記憶がある)戦争やあらゆる世界的な困難に無関心になるときに、死はこちら側に近づいてくると。あくまでも当事者としての想像力の羽を広げて考えることに、私の場合はつきる。こちら側にいて安全で飢えもせず生きられる孫の姿の向こう側には、一瞬で命を失う地獄を生きるしかない不条理世界におかれゆく痛ましいというしかない状況がある。

もし、わたしの孫が不条理な状況、瀕死の状態に理不尽に放り込まれたら、私だってガザの人たちとおなじように、狂気の発作に襲われるだろう。いつ何が起きても、起こっても不思議ではない世界を綱渡りのように生きている。生きていられるのが砂上の楼閣的なデジタル現代社会生活なのではないかという、苦い認識が老人の私にはある。

だからといって、どうしたらいいのかは、何度も打っている気がするが、できるだけ余分な情報は入れず、体が喜ぶことに日々をすごし、大昔の人がやっていたようなことは端から無理だとはいえ、限りなく必要不可欠なものを日々大切に、生きる。これしか今のところわたしにはよき方法がない、というのが今日の五十鈴川だよりである。

いま100年時代といわれている。が私はお亡くなりになったときが寿命であると、たぶん養老孟司先生ではなかったかと思うが、さだかではない。長短ではない。虫のように居心地のいいところで私は存在したい。お星さまの寿命のスパンで考えれば、ヒトの寿命等ほとんど同じである。孫たちに老人の私は教えられる。無垢である。余分な情報が入っていない。笑顔がたまらない。自然である。大人が余計なことをしないで、できる限り海の音や、風のおとが聞こえるところにおいてあげたい。

話を戻す。西田敏行さん、あなたのように他者を思いやれる、いわゆる暖かい東北人は、ご両親しかり、災害が多いからこそ育まれてきたことを、インタビューから感じました。あなたのような存在と昭和を生きてこられて本当によかったと思う。慎んでご冥福を祈ります。

2024-10-23

あきらかにあきらめる、秋の丸太小屋再訪の旅で、生活のシフトチェンジをすることに決めました。

 上京、妻と東京2家族全員、9人で千葉は上総湊にある丸太小屋、ギャラリーフクロウハウスを訪ねる小さな旅を終え、戻ってきてから一週間が経つ。肉体労働にも復帰している。大事なことは言葉にならないとは、養老孟司先生の言葉だが、その言葉が秋風と共に染みる。

老いては花のように在りたい。

そのようなおもいを言葉で打つことに、絶対的矛盾を抱えながら、五十鈴川だよりを12年以上打ち続けている。その事に、よく打ち続けてきたものだと我ながら感心する。なぜなら小さい頃の私は、何をするにも根気のない、楽なほうに流れる3日坊主の私だったからである。

そのような私の本質的なDNAは、おそらく完全に消えることはないだろうが、世の中に出て、あらゆる事が思い通りには成らない、いわゆる世間という社会に放り込まれ、幾年月54年、自分という不確かでいい加減な存在を、何とかしてちょっとはましな存在になりたいと、あがきにあがいてきて、ようやくなにか肩の荷が降りたというか、楽になれたかのような気がしている。

Hさんとの再会、(これからは一年に一度は会うことにする)実は昨年に続いて2どめ、共に丸太小屋を共に建てた河合さんも一緒だった。そのときに娘たち家族と共に全員でもう一度ここに来たいと強烈に思う自分がいた。なぜだかはわからない。娘たち夫婦家族がこんなにもすっきりと、私のおもいを受け入れてくれるとは(子供がまだ小さいし)想いもしなかったがが、実現したその事に対する言い尽くせない私の極めて個人的安堵感は例えようもない。

一言で言えば、間に合ったという、あらゆるこれまでの歩みの思いが満たされたのである。Hさんは私より10才年上、よくぞ丸太小屋を守っていてくださったものだとの、感謝の思いが私のなかで吹き上がったのである。なんとしても娘たち家族にフクロウハウスを見てもらいたかったし、私の恩人Hさんを娘たち家族に紹介したかったのである。

13日宿から眺めた東京湾の夕陽

丸太小屋を建てることがなかったら、いったいあれからの私はどのような人生を送ったのだろうか。妻とも巡り会えなかったように思えるし、岡山に移住することもなかった。

晩年こうやって五十鈴川だよりを打ち続けるような、現在をいきることもあり得なかった、と思える。不思議である。

あらゆる意味での後半の人生へと舵を切ることができた象徴的な丸太小屋が、Hさんのお陰で現存し、姿を変え、威風堂々今もあの頃と全く変わらず現存していることへの驚きは、これまた言葉かできない。なぜか出てくる言葉は、間に合った、よかった、と満たされる、である。

18才から、未熟、無知蒙昧(いまも)を何度も何度も思い知らされながら、ふがいない自分と向き合いながら、激変する時代に翻弄されながら、なんとかよたよたよろよろ、ときにごまめの歯軋りをしながら、あらゆる人や森羅万象に助けられながら歩を進め(一段一段細いちいさな丸太を積み上げてゆくように生きてきた)今を生きているという実感が私を包んでいる。

卒業という言葉がある。中世夢が原退職後の60代シェイクスピア作品の日本語音読を生活の基本にしてきておおよそ丸12年、特にコロナ渦中でのこの3年間、新しい孫二人の生誕は、決定的に私を次なるステージに誘う。それはシェイクスピアの音読中心の生活からの卒業である。中心からのシフトチェンジ、個人的に声が出る間は続けるが、もっとほかの事に時間を過ごしたくなったのである。

それはまだもわっとしているが、老いを見つめ続けながら、おいおい五十鈴川だよりを、これからも打ち続けながら、思索したい。


2024-10-19

丸太小屋再訪上京旅、【藤原新也さんの個展ー天国を下見する僕ー】岡山に帰る16日にもう一度ゆき、想う五十鈴川だより。

 やはり夏の疲れと、上京旅の疲れが出たのか、昨日は喉がいたく発熱しなにもする気が起きず、スダチのジュースをのみ栄養をとりひたすら安静にしていたら、今朝には喉の痛みも収まり熱も引いたので、16日のことや今回の家族揃っての丸太小屋訪問旅で徒然思ったことなどを、少しでも記しておきたい。

孫3人の後ろ姿、向こうに老夫婦

16日あの日、次女は珍しく出社していて、家にはレイさんだけがリモートワークをしていたのだが、10時前にレイさんにご挨拶し、その足で私は京王線、中央線と乗り継ぎ、東京駅に向かい、手荷物をコインロッカーに入れ、有楽町へから歩いて、着いた日に一寸覗いた藤原新也さんの個展会場永井画廊に向かった。

着いた日は落ちついてみることが叶わなかったので、もう一度みたいと思ったのである。一昨年北九州私立美術館で開催された集大成ともいえる【祈り・藤原新也】回顧展には行った。そのさいのことは、五十鈴川だよりに書いているはずである。ギャラリーでの絵画展は36年ぶりとのことである。

永井画廊での個展は、2011年の【藤原新也展ー死ぬな生きろー】四国巡礼88ヶ所の各写真とそれに添えた書88点が展示されていた。以来二回目とある。私はその最初の、死ぬな生きろ展の最終日に日帰りで岡山から駆けつけたのだが、すでに作品の87点は売れていて、残りは一作品だけであった。最後の作品を私は求め、その事で作品は完売となり、経費を除いた全額が東日本大震災被災地に寄附されたとある。その作品は私の部屋にある。

話は飛ぶが、1970年代、20代の半ば頃、私は藤原新也さんの著書、インド放浪や、東京漂流、メメントモリ、などなど主に書物から、大きな影響を受けその事が進路の変更をきめこのような寄り道多き人生になったのではないかと、今となっては思えるほどである。31歳になっていたのに富良野塾に飛び込んだのは、今だから言えるが藤原新也さんの言葉に触れなかったら、安易な道に逃げ込んだのではないかと言う気がしてならない。

仙人のデジタル絵画

富良野塾を卒塾して千葉の浜金谷に小さな丸太小屋を建てるきっかけ、動機のなかに、藤原新也さんが浜金谷の近くに小さな山荘をお持ちであることを、多分朝日新聞に毎週日曜、当時連載されていた丸亀日記を読んで知っていたからかもしれない。

丸太小屋が完成してから、突然バイクで山荘にお訪ねしたことも、今となっては懐かしい思い出である。(当時の私にとってはとにかくかっこいい憧れのひとであったのである)

打っていると、あれやこれやの、お恥ずかしき青春の終わり時代の出来事が思い出される。ようやくこの年齢まで生き延びて来て思う。その後岡山に移住してからは、ご縁が遠退いていた方々にも、悔いなく会えるときに会っておかねばと、思うのである。

この度娘たち家族と共に丸太小屋再訪の旅に向かう直前、永井画廊での個展の案内をいただいたとき、あまりものタイミングのよさと、嬉しさに即行くことにしたのである。

12日私が行った時間、藤原新也さんは画廊におられ、私のことを記憶しておられた。思わず明日丸太小屋に娘たち家族と共にゆきます、と話したら、えっ、丸太小屋まだ在るの、と驚かれたので、フクロウハウスというミニギャラリーになっていることを手短に伝えると、行ってみるとおっしゃってくださった(のである)。

我が家には藤原芸術作品が(よく私の自由になるお金で手にできたものである)2点ある。ささやかな我が人生の宝である。私は藤原芸術の多分野の領域の作品にこめられた奥深さを、ほとんど理解しているとはいえない。だが、でくの坊なりに引かれる。超細かいタッチ、と自由自在な線、色使いの変幻自在さ、とにかく他の誰もが描けない唯一無二の、一作一作に途方もない時間がかけられているのがわかる。

絶望的な状況を前にどこか軽やかな明るさと、ユーモアを感じる。猿やロバや、カラスや、犬猫への、独特な情愛と偏愛。氏の持つ弱者(市井の片隅でそっと暮らす)に向ける眼差しのやわらかさと、時代の闇の諸相の根源をカメラと言葉で切り取り照射する勇気と胆力には、脱帽する。

80才になられいくぶん穏やかさを身に付けてはおられるが、青春期からつい最近の香港の一連の暴挙というしかない出来事にも、ほぼ単独で異議抗議をされておられたが、そのどくとくというしかない、オリジナル表現活動力は他の怠惰な追随者を凌駕してやまない。(数多芸術か、評論家、知識人はいるが、体を張っての単独活動家を知らない。私が知らないだけなのかもしれないが)そのような方と我が人生で直接言葉を交わし会えた幸運を、一行であれきちんと五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。

今回の絵画展でまたもや脱帽するしかないのは、デジタル仙人となられ、新境地のデジタル絵画に、1983年からすでに挑戦されていたその事である。その足掛け40年にも及ぶ間になされた成果の作品をみて(ふれて)、72才の私が今思うことは、出掛けて本当によかった、その事だけである。


2024-10-17

娘たち家族と共に東京湾を横断し、フクロウハウスを訪ねる旅後半、岡山に帰って五十鈴川だよりに打つ。

 昨日朝、長女のリビングで打った続きを、頭が新鮮なうちにわずかでも打っておきたい。14日、フクロウハウスの近くの一軒家のリゾートハウスで目覚めた我々は、各々各自朝食を済ませ、すぐそばの海岸の砂浜散歩を済ませた後、孫たちの一番喜びそうなマザー牧場へと向かった。マザー牧場はじめて行ったが、山ノ上にあり敷地が広く、遠くに周辺の千葉の山並みや海も見渡せて解放感があり、要所要所には大木があり、歩くのに疲れたら木陰で休むことができて、単なる人工的なものばかりではなく、名前は忘れたが赤い花の絨毯には目を奪われた。

1才5ヶ月未彩の後ろ姿

我々老夫婦は、若い家族たちの付き添いという感じでお供したのだが、十分に楽しむことができた。連休最後の日で相当数の家族連れで賑わっていた。それぞれの家族が好きな動物にふれあい、乗り物に乗り楽しめた。お昼前に合流し施設内のレストランでお昼を済ませ、早めに各々帰路についた。妻は帰りは次女たちの車で三鷹へ。(妻は私より2日早く上京し、3日目、12日はノアの運動会を見るために稲城に移動、私は三鷹へ)は私は長女たちの車に。午後3時半に我々は稲城のマンションに着いた。

多くの荷物をマンションの10階の部屋まで、何回か往復したのだが、体がまだ動き役に立つ事のありがたさを思った。レイさんは途中コンビニで珈琲を飲んだくらいでずっと車を運転、大変疲れたであろうに、家族のためにたんたんと物事を進めて行く。荷物を運び終えその足で、長女とミア(ちょっと体調がわるかった)と3人で買い物に。私とノアは留守番。レイさんは買い物を終えレンタカーを返しに行った。レイさんタフである。

長女がすぐに夕飯の準備、ミアがグズるのでレイさんがほぼ付きっきりでケアーをする。夕飯ができて長女とレイさんが、なんとか少しでもミアに食べさせようとするのだが、具合の悪いミアはあまり受け付けずつぶらな瞳で泣き続ける。だが泣き続けながらも、ミアはどこか口が痛いのも我慢して好きなチーズだけは口にいれている。(その生命力に私は驚かされた)その時点では原因不明であったのでレイさんと長女は頭を抱え、じっと二人して耐えていた。

翌日15日、朝一番病院へゆき手足口病と判明する。原因がわかったので私もほっとした。重症ではなかったので、そのまま保育園に行くことができ、ひと安心。お昼もきちんと食べたとの報告をメールで受け、それを読んだ長女とレイさんの喜びようは親にしか感知できない、家族ならではのもの、その姿を見ていて、一部始終を目撃していたので私も嬉しく安堵した。

さて、15日平日両親は家でリモートワーク。ノアは運動会の振り替え休日、

レイさんがいつの間にか撮った

だが、ノアも14日夜から発熱し、これまたミア同様少し心配したのだが、15日朝には熱が平熱になっていてほっとした。だから遠出は控え、近場で私と午前中は稲城の図書館(ノアは本でもゲームでも空手でもレゴでも水泳でも好きなことには熱中する)に行った。お昼はノアとパンやさんに立ち寄りお昼用のパンを数種類買って帰り、4人で和気あいあいのパンランチ。昨夜の餃子やスープやレイさんの手作りピザの余り、キウイフルーツなどでとても美味しくいただいた。

午後、ノアと私はお昼寝のあと、お隣の若葉台まで文房具ノートを買いに行った。若葉台の大きな本屋のカフェでノアはアイスクリーム、私はコーヒーで小さな秋日和のデートを楽しみ午後4時半には戻った。

夕刻、仕事を終えたレイさんとマンションの近くにある保育園にミアを迎えに行った。本調子ではないが、すっかりご機嫌な昨日とは打って変わったミアがいた。夕暮れ、すすきの穂が揺れ🌖の月が瞬いていた。一番風呂をノアと済ませ、夕飯メインは秋の味覚秋刀魚の焼いたの、カボチャとチーズのサラダ等々、レイさんが私のためにハイボールを用意してくれていた。

夕食を済ませノアとミアが寝入ってから、レイさんがスコッチを連夜用意してくれた。レイさんは外国とのやり取り、時差があるので夕食後も2時間近く仕事をしていた。私は7時過ぎからサッカー日本対オーストラリア戦(引き分け)を観ていたのだが、最後のほう少しだけ3人でお話ししながら観た。床に着いたのは10時頃、こんなに遅くまで起きていることは最近まずほとんどない。とここまで書いて、16日昨日のことは明日の五十鈴川だよりに打つことにする。

2024-10-16

16日朝、長女の住む稲城のマンションで、岡山に帰る前、寸暇打つ五十鈴川打より。

 

東京に出掛ける前に剥いて干した

13日朝次女の住む三鷹のマンションのリビングで打っている。昨日朝起きてコスモスを摘み7時半の新幹線で東京へ。着いてすぐに、有楽町へ。コインロッカーがまんぱいで仕方なく荷物を抱え、銀座8丁目まで歩く。永井画廊での藤原新也さんの個展をちょっとだけのぞき、すでにしおれたコスモスとわが家のスダチを、藤原新也さんが居られたのでお渡しし、東京駅から次女の住む三鷹へ。懐かしいが、変わり果てた三鷹駅の近くの小さな韓国焼き肉のお店で、プルコギビビンバのランチを済ませ、バスでマンションへ。二時半頃に着くと、葉と周さんはお昼寝中、私もお昼寝にすぐ参加した。

16時半次女が仕事から帰ってくる。しばしのち、三台の自転車でちょっと遠くのスーパーまで食品の買い出しへ。終えてスーパーの近くのロイヤルホストで夕飯、なん十年ぶりかでロイヤルホストに入った。老人の私一人ではまずもって入ることはないだろうが、老いては子にしたがえである。葉が小さいので、まあ仕方がないのである。三連休お店は家族連れで混んでいた。私よりももっと年上のご老人夫婦も見受けられたが、私のように田舎から訪ねて来たのかも、と想像した。と、ここまで打ったら、葉が起きてきたので中断。これから葉と数字の勉強に付き合う。

姿を変えた丸太小屋、フクロウハウス

と、ここからは16日朝である。長女の住む稲城のマンションで今年から小学生になったノアを稲城南山小学校に散歩がてら送って行き戻ってから打っている。13日からの出来事を寸暇、時間までスケッチ風に打つことにする。

13日あれから、三鷹、稲城の2家族はそれぞれレンタカーを借り、私は次女家族の車に乗り、2日早く上京していた妻は長女の車に便乗し、東京湾を横断する道路アクワラインの入口に近い、川崎近くにあるコストコという大型スーパーで合流し、2家族の一泊2日の旅に必要な食料品を買い込む。おちびが3人いるので、とにかくあらゆることに時間がかかる。子育て真っ最中の2家族の日常に、老いた私は感心することしきりである。(その事は岡山に戻ってまた打ちたい)お昼はコストコの外で、買い求めたお寿司の多種類の詰め合わせをワイルドに、全9人で腹ごしらえをしてから、アクワラインに乗り込み対岸の千葉は木更津へと向かった。

3連休の2日目で相当の混雑渋滞を覚悟していたのだが、それほどの渋滞はなく、とろとろではあったが午後2時には木更津に入った。そこでちょっとアウトドア用品のお店に立ち寄り、15時半にHさんの待つ、今はギャラリーフクロウハウスとなっている我々が造った丸太小屋についた。あれからおおよそ37年、よもやまさかこのような形で、娘たち2家族含め計9名で姿を変えた丸太小屋と再会することになろうとは。私には感無量というおもいしかなかった。

私より10歳年長のHさんがしっかりと丸太小屋を守ってくれていた。その事が例えようもなく私を感動させた。いきなり私はHさんをハグした。いきなりこんなところに連れてこられた娘たち2家族はそのような私たちをどのように眺めたであろうか。

がしかし、やはり私の娘である。瞬時にあらゆることを受け止め、フクロウハウスに感じ入ってくれた様子であった。私は娘たち2家族をHさんに紹介することができただけでもう十分、他には言葉がなかった。娘たちはもちろん、夫もよく建てたねーっと感心してくれた。何より孫たち未来人が小さな丸太小屋ではあるが、十分に魅力的なフクロウハウスを気に入ってくれて、私は満たされた。Hさんシワが写るから写真は嫌だといいながら、全員での記念撮影もできて何度も私の胸中には熱いものが込み上げて来た。

その後5時過ぎまで、すぐそばのHさんのお宅に移動、これまた魅力的なお家で住居件アトリエの2階のお部屋からからは東京湾が見張らせる絶景で、娘たち家族全員歓声をあげていた。短い時間ではあったが、私とHさんはワインを開け再会の乾杯。これからは私はもとより娘たち家族がやって来ても、もてなしてくれるようにお願いし、また河合さんとやって来ることを約束してHさんとお別れした。

そこから車で約10分、今日の我々の宿、家一軒をまるごと借りている、リゾートハウスに着いた。海のすぐそばで小高いデッキからは東京湾が一望、お風呂も広く、寝室も3へやあり言うことなし、早速お風呂に順次入り、買い込んだ食料品で夕食を、わいわいガヤガヤいただいた。中天には🌓が浮かんでいて、我々を見下ろしていた。

午後9時前、大人では一番先に私が沈没、満たされたおもいをしっかりと抱いて、あっという間に、先に寝ていたノアのとなりで眠りに落ちた。(とここまで打って続きは岡山に帰って打つことにする)

2024-10-09

青春の終わり、仲間と千葉に建てた丸太小屋に、Hさんを娘たち家族と訪ねる(13日、14日一泊二日で)前の五十鈴川だより。

 今週末から来週にかけて5泊6日の予定で、(先月も上京したばかりなのであるが)どうしても私が元気なうちに行かなければならない、娘たちに紹介しておかねばならない人がいるので、上京する。私が娘たち家族に紹介したいHさんは、千葉県の上総湊(上総湊)に今は住んでいる。

長女の子供望晃6才と未彩1才の後ろ姿

Hさんとの出会い。人生のこれまでを振り返る時、いよいよこれから私が年を重ねるにしたがって、折々思いだし会いたくなる大切な人なのである。この年齢になるまで、私は絵に書いたかのような不思議というしかない出会いによって助けられ、現在までを辛うじて生きてこられたのだという深い認識がある。

感謝という言葉しかない。Hさんは私の長きに渡って続いている少ない交遊人のなかで、頭抜けて異色の希な人、芸術家(女性)である。

私はこのHさんと34才、富良野塾を率塾した年に、まるでお告げのように出会った。神奈川の三浦と千葉の浜金谷を結ぶフェリーで、親友の河合さんと浜金谷に渡り、そこから鋸山に登り、この辺りに小さい丸太小屋を建てたいねーと、能天気丸出しの思いを河合さんに語ったのである。

26才の時ロンドンで出会い、今に至るも交遊関係が切れず続く河合氏は、そのような奇想天外な私の思いを、真摯に受け止めてくれた。受け止めてくれなかったら、まず丸太小屋は夢で終わり、建てることはかなわなかったと断言できる。

あの時、河合さんが途方もない私の思いを夢物語と一笑に付さなかったことが、今思えばやはり凄いことであるというしかない。私と河合氏はぶらぶらと、浜金谷に当時住んでおられたHさんの家へと続く、軽自動車が一台やっと通る曲がりくねった細い道を散策しながら歩いていて、たまたまHさん芸術家、ご夫婦と出遭ったのである。この出会いが事の始まり。すべてなのである。

私はこの辺りに小さな丸太小屋を建てたいという熱い思いを、路上でいきなりHさんご夫婦に吐露したところ、とにかく家においでと、いきなり見も知らぬ我々を招いてくださり、(木造で中二階のある生活感のない芸術家のアトリエのよう、しゃれた家で手作りの四谷シモン風の人形がおいてあった)庭にたわわに実った夏みかんの焼酎割り(水で割っていない、素晴らしく美味しかった)で歓待してくださり、ご馳走になり、すっかり酔っぱらい、その上なんと結局泊めていただいたのである。

こんなことが我が人生でとにかく起きたのである。今振り返るとやはり奇跡的な出来事という他はない。Hさんご夫婦はとにかくすっとんで異次元世界に棲んでいた。あなたたちが本気なら我々は全面的に協力すると言ってくれたのである。

当時私は富良野塾は率塾はしたものの、さて、これからいかに何をして生きてゆくのかの方途はまったく見えていなかったのだが、足掛け3年近く、富良野で3度越冬し四季を過ごした体験で、どんな仕事をしてでも生きてゆくという自信、手応えのようなものが、ようやくにして備わっていたので、後半の人生に向かう記念碑、シンボル的な丸太小屋を作り、青春と決別する覚悟に、私は燃えていたのである。(と、今にして想う)

次女の子供、葉3才

長くなるのではしょるが、富良野でなにもないところから先乗り隊スタッフ(5人)の一人として塾の管理棟建設のために、もらってきた廃材の釘抜きからスタートした体験から、私には当時のお金で100万円あれば小さな丸太小屋を造れる(材料費だけあとは人力で作る)という確信があったのである。私の夢のような思いを、河合さんとHさんご夫婦が受け止めてくれたのである。

4人で大まかな計画を立て、一人10万円出す。残り60万円、仲間を6人(素敵な面々が集まった)募り毎週末東京湾を横断し(丸太の調達、図面、土地を借りる手配他、一切をHさんご夫婦がしてくださったのである)基礎から丸太を組み立て、おおよそ一年後に完成したのである。(わずか3行ですませましたが人間が本気になったらやはり凄いことが実現します)

丸太小屋作りに没頭しているときに、現在の妻と巡り会えた。それから岡山に移住する40才まで、カサ・デ・マルターラ(という名前だった)には何度となく通い、秘密の小さな隠れ家として重宝した。そして、娘が生まれたのである。(長女は記憶にないが丸太小屋に行ったことがある)

長女が3才になり岡山に移住する。その後新しい生活に追われ、すっかり丸太小屋は記憶のなかの秘密のかけがえのない出来事として、私の中にしまい込まれ、Hさんとはお年賀の関係性とかしていたのだが(一度岡山に来ていただいたことがある)、娘たちが巣立ち、それぞれが家族を持ち、孫たちも成長し、最初の孫が小学生になり、一年ほど前から家族全員で丸太小屋を訪ねる計画を立ててくれた。娘たち夫婦が私の思いを汲んでくれ、念願の私の家族との再開が実現する。

人生の折り返し地点で恵建てた丸太小屋は、妻と私を結びつけ、結果私は妻のふるさと岡山へ。中世夢が原という願ってもない職場にも巡り会えたことを、いまあらためて想うとき、あのとき、なぜか丸太小屋を建てたことですべての運がよき方へと、18才からの前半とはうって変わって流れ始めたのである。

Hさんご夫婦との奇跡的な奇縁、不思議である。あれから37年の歳月が流れたが、Hさんのお陰で丸太小屋は、浜金谷から近くの上総湊になんと移築され、ミニギャラリーとなり、いまは亡きご主人(哲夫、てっぷちゃんのことはいつの日にかきちんと書きたい)が愛した梟にちなみ、フクロウハウスとなり、立派に存在している。娘たち家族、孫たち全員9名で、Hさんへのお礼の秋の小さな旅ができるなんてまさに夢とでもいうしかない。でも夢ではない。

ハムレットは言う。あの世に旅だったものは二度と戻ってきたためしはないと。人間は死ぬ。だが、新しい生命(いのち)は生まれてくる。死は宇宙へと還るだけである。孫たちは命の輝きを知らしめてくれる。大事な人とは元気なうちに、しっかりと悔いなく会えるときにあっておこうと想う。

2024-10-06

秋の朝の日差しが、五十鈴川だよりを打たせる。

 あまりにも気持ちのいい秋日和、昨日保育園に通う孫たちの運動会の動画や写真が送られてきて、お爺の私はゆっくりとみいっているうちに五十鈴川だよりが打ちたくなった。

老夫婦・スダチをもいで・語り合う

夏にはまったくやる気が起きなかった家の庭木の剪定作業などを、このところの週末妻がお休みの日に、二人でやっている。まったくといっていいほど私と妻とは異なる性格ではあるが、共同でやらねばならないことのあれやこれやは、生活を共にするもの同士として相談しながら進めている。

昨日は長女が生まれた頃に植えたスダチの樹が、今年もたくさんの実をつけたので収穫し、ついでに剪定し、枝を綺麗に片付け、ついでに妻がモッコウバラの枝も剪定してほしいと言うので、お安いご用(私は仕事でも剪定をするので何てことはない)お昼前の秋の2時間を妻と二人で過ごした。

収穫したスダチ、遠方の友人たち何人かに、久しぶりにお手紙を書き、午後郵便局で送った。お手紙と言えば、もう絶滅危惧種にますますなるであろう私もその一人である。硯で墨を擦り宛名だけでもとおもい小筆で書き、一筆は万年筆で書いた。もうメールでのやり取りがほとんどになりつつあるが、私の場合、ここいちばんはやはり一番しっくりとくる手書きである。

理屈ではないのである。とは言うものの、五十鈴川だより、今となってはこのスタイルが一番しっくりくるのだから、それぞれの加減でバランスをとって併用するのが私には相応しい。昨日と重複するが、年をとるとゆっくり草を抜くように、ゆっくりと手書きで筆や万年筆でも文字を書く時間が、これから先増えてゆく気がしている。そしてその時間を限りなく大切に楽しみたいと想うのである。

一年生になった孫の望晃には、ひらがなでの葉書を出せるのがこれからのちょっとした老いの楽しみである。もうほとんどがメールでのやり取りではあるが、娘たちからお誕生日他に手書きでもらった文章は、大事にとってある。私は文字が乱雑である。うまいと感じる文字には縁がないが、それが私の文字である。

企画者となって、何十年も宛名書きで筆ペンを使い続けてきたせいだと想うが、手でも字を書くという行為がすっかりと身に付いてしまったのである。手で草を抜くように、集中して文字を書くことは実に、私の場合精神の安定になる。日本語を音読することと、日本語を手で書くことは、限りなく私のなかでは大事な事なのである。

なぜなら難しいことは置いといて、私は日本人なのであるから、理屈抜きで日本語を大事にした、基本的な生活を送りたいだけである。先日からゆっくりと高樹のぶ子著、小説小野小町【百夜】ももよを読んでいるのだが昔の日本語の語彙にしびれる。素晴らしい。

るびがふっていないと容易には読めない古語がたくさんある。昔だったら敬遠したかもしれないが、幸いである。今ならゆっくりと味わいながら、筆写(難しい字は)しながら読めるのが楽しい。私がシェイクスピアやチェーホフ作品が好きなのも日本語の翻訳が素晴らしいからである。

2024-10-05

2024年10月最初の(秋がきたと感じるうれしい)五十鈴川だより。

涼しくなってきたので気持ちよく労働ができる。気持ちよく寝て肉体労働者なのでご飯が美味しい。その慎ましきシンプル極まる喜びは例えようもない。その日暮らし、というと物悲しさ感が漂うが、私の場合はちょっとニュアンスが異なる。それを言葉で顕すのは限りなく不可能である。言い換えればその日、自分なりの一日をきちんと丁寧に活きることに、尽きる。



さて、私の生活には本が手放せない。が、読書家であるとはつゆほども思っていない。ただ、ゆっくり、ゆっくりと本を読む生活が、年を重ねるにしたがって好きになってきただけである。もう何度も書いていることだが、本を読むことも、文章を綴ることも、私は30歳くらいまでは、どちらかと言えば読むことはともかく、書くことは大の苦手だったのである。

だが40才で中世夢が原で働くようになり、依頼された原稿が新聞で活字になったころから、何とはなしに書くことが、苦楽しながらだが、白紙に文字を埋めてゆくことが面白くなってきたのである。(振り返ると音読もそうである。長くなるのではしょるが、いつの日にかは書きたい)

読書の秋。私は本を読むことが、以前の自分と比して、ますます好きになってきた来つつある。古稀を過ぎると、好奇心が以前のようには働かなくなるのではないかという、(からだの衰えが進むのではないかとの)老爺心があったが、ありがたいことに今のところ好奇心の衰えは感じていない。誤解を恐れず打てば、好奇心ののびしろは60代より拡がっているようにさえ、感じている。

話は変わる。肉体労働といってもいろんな作業があるが、腰に負担がかかる雑草の根を抜いてゆく労働が私は大の苦手であった。広い敷地を管理するこの仕事に巡りあって丸6年になる。好きであるとまではいかないまでも、いまではほとんど苦になら無い。(私はひとつの作業を2時間以上はやらない。循環作業を繰り返すだけである)

このような感覚にたどりつくまでずいぶん時間がたったとも言える。どのようにしてそのような感覚をこの年齢で体得したのかを記すのも不可能に近い。一言で言えば自分なりにギリギリのところで諦めず面白おかしく、草を抜く単調作業を楽しむ工夫を積み重ねてきたからだろうと想う。

その事実を言葉で説明することはなかなか難しい。ただ確実に言えることは、腰に負担のかからないからだの動かしかた、呼吸を整え、休んでは続け休んでは続けるただそれだけのことを実践しただけである。抜いた草が山になり振り返ると綺麗になっている。(雑草にしたら迷惑であるが、うれしいことに雑草は見えなくなっただけで死んではいない)

苦手であったことが、ある瞬間から喜びに変わる。このような経験を積み重ねてきた結果、最初は手強く感じたことでも、やり方他をギリギリ全身で踏ん張って続けていると、からだの方が教えてくれるとでも言うか、楽になるのである。ランニングハイという言葉があるが、草取りハイとでも言うしかない。だがすべては体が動く健康であるからこそできる、感謝しかない。

さて、再び読書に戻ろう。昨年秋大長編小説レ・ミゼラブルを読んでから日本語の長編小説を限られた生活時間のなかで、草を抜く感覚で読めるようになってきた感じがある。この間佐藤愛子さんの【晩鐘】という小説をチビりチビり読んだのだが、この年齢の今だからこそ深く感動できたのだと思える。(佐藤愛子さんの小説を初めて読んだ。このような方が存在することは限りなく愉快で、人間の存在を肯定的に描き、ご自身がまずもって実践して生きる。ここが凄い、惚れ惚れする)

そして老いゆきながら、自分のなかでなにか自分がこだわってきた、執着していたもののけからの解放のような感覚、殻が弾けるかのような自由感覚があるのだが、これがよいことなのか、ただ単に老いてきただけなのであるのかが、判然とはしない。だがそんなこんな、よしなしことを綴り打ち、72歳の初めての私の秋を見つけたい。

PS 上記の写真の本、難しいことを丁寧に、わずか一週間で教えてくださる。生命の神秘、宇宙の神秘、人類はどこからきたのか。植物とはなにか、動物とはなにか、人類の行く末は。本を読むことは、想像の旅に想いを解き放す、小さき老いゆく自分を慈しみたくなる。


 

2024-09-29

ようやくの秋、瀬政氏とヴェニスの商人の1幕2幕を我が家のリヴィングで音読、そして想う。

朝夕涼しくなり日の出が遅くなる秋、この季節が私は好きである。あの猛暑の夏が嘘のようにすごかったので、なにはとおもあれすすきの穂が揺れ、赤とんぼが舞う季節が訪れたことに、どこか安堵感を覚える。そしてあの暑さに耐えたことで、私の希望の秋がささやかに燃えそうである。

カマキリが・フロントガラス・秋来る

昨日午後瀬政氏がシェイクスピアの音読の個人レッスンに久しぶりにやってきた。私はもうほとんど達観したような、来るものは拒まずといったあんばいで、以前のようにチラシ配布、募集をかけて生徒さんというか、レッスン参加者を呼び掛けることに情熱がわかなくなってきた。(だが矛盾するがシェイクスピア作品が好きな人に巡り会いたいという願望は消えてはいない)

長い交遊関係でシェイクスピア作品の魅力に気づかれた大切な方とのレッスンをまずは最優先したい、のだ。そしてこれからは、まず何より自分自身のためのふだんのレッスン時間を大切に生きることにしたのである。

その思いをつらつら綴ることは控えるが、これからの私の人生時間を、あだやおろそかには生きたくはないといった思いが、一段と強くなってきたからである。

61才からもう一度シェイクスピアの日本語による音読を続けておおよそ12年、一区切りつけ、新たな老いのレッスン、枯れゆく己の体に日本語の粋を染み込ませるような静かなレッスンを、自分自身のためにやりたくなってきたのである。

そのような私の中の変容に合致するかのように、瀬政氏が時おり個人レッスンに来られる。わざわざ我が家まで来て、私とのレッスンを所望されるかたがいれば、真摯にやるつもりではいる。基本的に上手下手ではなく、あくまでシェイクスピア作品が好きなかたとのレッスンを、その一点においての情熱を共有できるかたとのレッスンを私はやりたい。

さて、瀬政さんとの我が家での個人レッスン、瀬政さんからヴェニスの商人を音読したいという意外な提案、といったら失礼に当たるかもしれないが、昨日はヴェニスの商人の1幕と2幕を二人で2時間近く交互に音読した。何度音読しても厭きない。二人だけの豊かなリーディング時間が流れた。

思えばこれまで度々、わずか二人だけのレッスンを私は積み重ねてきた。二人だけのレッスンに、限りなく私は慣れているのである。これに神奈川に住む河合さんが時おり参加すれば、もっと楽しいレッスン時間が持てる。そのような友人に巡り会えた我が人生の幸運に想いをはせる時、もう十分なのである。

そして想う。いよいよあらし他シェイクスピア晩年の作品を限りなく丁寧に音読、老いゆくからだで読み込んでゆきたいとの思いが深まるのである。そして今年はチェーホフ作品の登場人物の音読も、声のでる間はリーディングしたいとの一念が確認できた事がとてもうれしい。

2024-09-27

老人は身近充実生活をこそ大事にし、蟻のように歩みたいと、秋の雲を眺めながら想う。

 東京から火曜日の夜帰ってきて、翌日から昨日まで肉体労働をし、昨日で今月の労働バイトを終え、今日から4連休の朝である。俗にメリハリ何て言うが、主に私は月の全般は午後も働くように(涼しくなってからは特に)して月の後半はまとまったお休みをとって、小さな旅ができるように努めている。だから己の裁量で時間調節が可能な、この老いバイトをことのほか私は気に入っている。

大先輩の本、人間への好奇心が凄い

一日の時間の使い方、大まかな一月の予定、そして年に4回から5回程度の小さな旅、(韓国への旅も入る)を古稀以後持続的に続けている。今年もあと3ヶ月であるが、今のところ個人的にこれ以上は望むべくもない感じで生活が送れている。それもこれもすべては健康にからだが動いてくれているおかげである。

新聞の購読を止めておおよそ一年になる。テレビの報道やニュース、スポーツやドラマもほとんど以前のようには見ることはなく、早く言えばあらゆることに覚めた老人生活にいよいよ入ってきているのを自覚している。自分の老人免疫が下がるような映像やニュースの声には、目も耳も閉ざす傾向が深まっている。(集中豪雨、災害等の無力感、自分があのようなめにあったらとおもうと言葉がない)

だからといって無関心というのではもうとうない。老いてゆくなかで、内的な免疫力をキープしてゆくためには、私の場合どこかで間接的な情報を遮断し、生で五感をフルに使っての直接情報、免疫力をあげる明るい話題をこそ大事にし、本能的感覚を優先して生活したいのである。情報を疑い、ファクトチェックを自分に課さないと危うい気がする。

それが私にとっての気持ちのいい老人ライフなのである。木偶の坊生活に憧れるということを古稀を過ぎて度々打っていると思うが、その傾向はますます深まることはあっても弱まることはないだろう。新聞を止めても特段困ったことはほとんどない。観劇ほかのこれまでの人生でかなり時間を費やしてきた営為(ただしネット配信は観ている、面白く感じるものだけ、エログロ暴力ホラーは見ない)も特別のことがない限り、卒業したくなってきた。

それより見たことがないものや、読んだこともない作家の本を読んだり、行ったことがことがない場所をふらり訪ねたり、要するにこれまで体験をしたことがないことに好奇心を失わないような、手間隙を惜しまない(例えばゆっくりと調理するとか)身近生活充実ライフに重きをおきたいのである。もっと言えばそこにドラマを見つけたいのである。

こういう感覚は老いてみないとわいてこなかった感覚なので、私は自分のこういう感覚に正直でありたいだけなのである。したがって、だから五十鈴川だよりはこれからますます私小説的な、身辺雑記的な、小さな生活記録的なブログになってくる気がする。小さな気付きの深まる秋を面白く生きるのである。

チェーホフは言っている。雨が降ったら雨が降ったとお書きなさいと。次元が異なる例えではあるが、無い袖は振れずあるがまま、思い付くよしなしごとを打ちつつ、一日一日を気持ちよくしっかと生活するしか私にはほかに方法が無いし、それで満足なのである。

2024-09-24

小さな旅6日目、岡山に帰る日9月24日の朝の五十鈴川だより。

 あっという間に岡山に帰る日がやって来た。毎回想うことだが、今回もまた上京してきてよかったと、心から思えることが嬉しい。その最たる嬉しさはそれぞれの孫たちの成長を直にこの目で体感できることに尽きる。春夏秋冬の折々、年に4回孫たちとの時間を持てれば、きっとこの先の私の人生、実りの多き黄金の黄昏の時間が訪れてくれるように思える。

無私(虫)になり・孫とのデート・昆虫展

さて、昨日は小学一年生の孫の望晃君と、上野の科学博物館で開催されている昆虫・特別展(マニアックな研究者によるマニアックな昆虫展)に行ってきた。もうとにかくすごい人人人で、芋の子を洗うような混雑のなか、見たこともない昆虫の標本に圧倒されながら、とにかく望晃を見失わないことだけに集中していた私は、落ち着いて昆虫展を楽しむことは叶わなかったけれど、望晃君はちゃっかりしっかりと楽しんでいた。

上野は桜の名所、広い野外公園の中に動物園、美術館、音楽ホール、神社ほかが点在してあり、休日ともなるととにかく人が集う場所、その一角にある科学博物館ででのマニアックな昆虫展、時間があったら人の少ない平日、一人でゆっくりと見たいと思わずにはいられないほどの、ビックリな度肝を抜かれるとはこの事かと、思わずにはいられないほどの、標本展示の充実に目を見張った。30万種の昆虫の豪華絢爛というほかはない標本展示に。それらを採集展示した人間のすごさにも改めてかんどうした。

この歳になるまで、一度にこれほどの多種類大中小、極小の昆虫を見たことがなかったので、正直ビックリし、圧倒されたというのが正直な気持ちである。孫のノア君が昆虫に関心がなかったら、恐らく私は一生このようなマニアックな昆虫の展示などには触れることもなく、人生を終えたかもしれない。その事を想うとき、いまだ私の胸は微かにざわめく。

孫たちは、日々スポンジのように新しい日々を夢中のうちに過ごしながら生きている。老人の私はそのような孫たちとのふれあいの時間のなかで、そのあまりの無邪気な天衣無縫さに、驚かされる。老人が活性化するのに一番に大事なことは、私の場合はだが、孫と接することである。3人の孫それぞれが10才くらいになるまで、きっと孫が私をあちらこちら見たこともない世界に連れていってくれそうに思える。

引率は私であるかもしれないが、実際は孫が私を昆虫展に誘ってくれているのである。逆転現象とでも言うしかない。その事が実に面白い。孫たちは私をまっさらな世界へとリセットしてくれる。私がこれまで執着していたあれやこれやを軽やかに静まらせ、新たな老人世界へと導いてくれる。その事を昨日のノア君とのデートはエポックメイキングなまでに私に知らしめたように感じている。孫たちは私に五十鈴川だよりを打たせる。

最後に爺ばか承知で打つ。次女のところに2泊、長女のところに3泊した今回の上京旅、孫たちが成長しているのに伴い、夫婦それぞれが成長し、家族がいい雰囲気で生活している。だから私は安心してそれぞれの家庭にステイできる。その事の嬉しさありがたさを打たずにはいられない。特にそれぞれの夫が気持ちよく私を迎えてくれる、その事のありがたさ、居心地のよさ。一日でも長く彼らのお役にたてる老人でありたい。

2024-09-23

上京5日目、長女のマンションのリビングで打つ朝の五十鈴川だより。9月23日の朝である。今日はノア君とこれから上野に行きそこで開催されている昆虫展に出掛ける。その前に寸暇うつ。

この写真は3才2ヶ月葉君の左手

昨日お昼は娘のパスタで済ませ、その後稲城の図書館でやっていた秋の文化祭りに、娘と私とノア君の3人で出掛けた。そこで思わぬ出来事に巡りあったので、その事をちょっとだけ記しておきたい。ノア君はまだ複雑な感じが読めないのだが、保育園時代何回か将棋を打ったことがあるのだが、その文化祭りの行われている4階の部屋で稲城の将棋連盟の会長(とにかく一度に何人もの相手とさせるすごい棋士)とお手合わせをすることになり対戦、私の筆力ではその模様を記すことは叶わぬが、高齢の人生経験を十分に積まれたすごい棋士に教わりながら、対戦できたことは(なかなかふだんこのような時間をは持てないから)きっと記憶に残る小学一年生の記憶に残るであろうし、娘や私にとっても、そばでおおよそ50分くらいの密度の濃い時間を過ごせたことは3人の良き思い出になったことを、五十鈴川だよりに打っておきたい。

帰って父親のレイさんに意外なハプニング的事の展開のあれやこれやを報告。レイさんも嬉しそうだった。この催しはレイさんが見つけてきて、我々に行ってみたらと薦めてくれたので出掛けたのだが、出掛けなかったらこのような意外性の極み的な出会いはなかったであろうから、物事はやはり動いてみるものである。散歩という言葉の多義性に私は改めて感じ入った。そして孫とのデートはきっとこれからの私の老い人さまよい時間を豊かに彩ってくれるのに違いない、と私は今確信している。そういう意味で、今日これからノアくんと出掛ける上野の昆虫展お出掛けデートが楽しみである。

2024-09-22

上京旅4日目の朝、稲城長女のマンションのリヴィングで朝食後打つ五十鈴川だより。


 昨日午前10時半、葉君とのお別れでお爺はちょっと胸がきゅんとなったが、でもまた会える。その足で吉祥寺へ。井の頭線、JRと乗り継いで恵比寿に。荷物を東京都写真美術館の無料のコインロッカーに預け、金子兜太さんのドキュメンタリーフィルムのチケットを先ず求め、再び恵比寿駅界隈に戻り昼食に手頃なお店を探す。すぐにピーンと来るお店を発見、名前は鶴亀、手作り餃子がメインのお店。私が二人目のお客、メニューをみると目移りしそうな品々の数々が目に入ったが、とりあえず餃子大中小の定食の中から、大きさ中の餃子定食を頼んだ。

暫し待つこと10分、定食が運ばれてきた。観て驚いた、なんと餃子が14個ものっている。スープもこってり中華風がお湯のみにいっぱい。漬物大根の醤油漬けも手作り。ご飯もキラキラ輝いている。大当たりのお店であった。餃子もサイコーに美味しかった。今回は餃子のみであったが、私は必ず恵比寿に来たらこのお店に来ることに決めた。

昨夜マンションから眺めた調布の花火

映画は3日連続午後1時20分から。俳句に生涯を生きた金子兜太(98才で逝去)氏のドキュメント、清々しい生き方というしかない、豪放磊落さに打たれた。3日連続、陳腐な言葉しか浮かばないが、来て観ることができたことことの幸運を、私はしっかりと確認した。

今回の小さな旅は、これから後の私の人生時間の過ごし方に、決定的な影響を与えてくれそうである。この3本のドキュメンタリーは折々私の脳裏に住み着いて、気力を注入し勇気を与えてくれるに違いない。観終えて河村厚徳監督にお目にかかることができ、共に写真をとることができた。

東京都写真美術館を後にし荷物を抱え、山手線で新宿に京王線に乗り換え、午後4時過ぎに長女の稲城のマンションに着いた。夕飯前、娘と孫の未彩とわずかな時間お散歩。好奇心満々の未彩は一時も目が話せない。爺ばか、女の子変身する未来が楽しみ。(望晃、葉はもちろん)

午後7時、長女家族全員と私で(ノアはちょっと熱があって早めに休んだ)夕食、レイさんがどこかで買ってきた大きいメインのホッケの塩焼きが抜群に美味しく、私が実をほぐしたら、一歳の未彩もガシガシとほうばっていた。大きな魚をみんなでいただくという、慎ましくも豊かな団らん夕食風景を次女、長女二組の家族と共に私はこの小さな旅で堪能している。

そして想う。幸福とは平凡な生活のなかに非凡を見つけられるか、感じられるのかの中にこそあるのだと。夕食後子供たちが床につき、午後8時過ぎからレイさん娘と3人でよもやま話をする。言葉、方言についてのお話、私の若い頃の失敗談、演劇学校に夢を抱いて入ってはみたものの、自分の言葉、方言でいやという苦労を味わい、自分のアイデンティティーの危機におちいり、自分とは何かを嫌でも考えざるを得なかったことなど、ふだんあまりお話ししない話題を長女夫婦とできて、私としては嬉しかった。

それにしても娘が異国の言葉、母語が異なる男性をパートナーに選んだことで、嫌でも実存的に、言葉をあやつってお互いの関係性を深め、その尊厳を日々確認しながら生活することの、できることの苦楽をいきることは、きっと素晴らしいことだと私は教えられている。

2024-09-21

上京小さな旅3日目の朝次女のマンションで打つ五十鈴川だより。

 今日は、午後3本目の映画を観に行きその後、稲城にすむ長女のマンションに移動する。そばでおやすみのお父さんと葉君は遊んでいる。娘は半日お仕事で先程でかけた。母を見送る葉君が、行ってらっしゃい気を付けて、といっているのを耳にして、ちょっと感動した。

ヴェランダのレモンが実をつけていた

私は父と息子のそばで寸暇五十鈴川だよりを打つ。昨日は辰巳芳子先生のいのちのスープのドキュメンタリーを観て心が洗われた。これから生きてゆくために繰り返し思いを出すであろう珠玉の言葉の数々、先生の人生の軌跡が自然につむぎだされて、静かに深く私の心に届いた。

昨日に続いて来てよかったと一人呟いた。観終えて外に出ると彼岸の入りとは到底思えない暑さ、その暑さのなか一人恵比寿から渋谷まで歩いた。歩きたかったからである。途中渋谷の駅近くで、ひっそりとたたずむ、見逃してしまいそうな趣のある、年季を感じさせる小さなお団子やさんがあったので、娘たちの手土産に少し求めた。

渋谷から井の頭線で吉祥寺へ出て、30数年ぶりに私にとっての面影の界隈を散策した。吉祥寺は妻とであった街なので私にとっては、忘れられない思いでの縁深き街なのであるが、非情というしかないほどの変貌を遂げていて、あらためて浮き世の移り変わり、人心の移り変わりに老人の私はどぎまぎたじろぐしかなかった。

夕刻6時次女夫婦と待ち合わせ、とある居酒屋に夫のSさんが案内してくれ、まだ小さい葉君もともに夕飯、ごちそうしてくれた。楽しい団らんはあっという間にすぎて、バスで下連雀のマンションに帰った。戻ってすぐお風呂、葉君はお父さんと入った。私はお風呂のあと糖質0のビールをいただき、あっという間に床に着いた。

さて、今日の午後観る予定の3本目の映画がとても楽しみである。素敵に老いて輝き、まさに理想的に老いを受け入れ、見事にいきられてきた方々を見つめたドキュメンタリー。これから本当の意味での老いを受け入れ、老いゆく先に向かい合わないといけない私にとって、これ以上ない多義的な示唆に満ちたお手本にしたいドキュメンタリーとの出会いになった。

与えられた3人の小さな命輝く孫の存在が、嫌でも私を活性化させている。老いゆく命、輝く孫たちの命、循環する命の妙。生まれ老い朽ちる。葉君が父と遊びながら発する輝く言葉を、そばで耳にしながら、老人の私はなんとか今日の五十鈴川だよりを打ちおえることができた。

2024-09-20

朝一番、三鷹の次女夫婦のマンションで打つ五十鈴川だより。

新幹線のなかで読む

 朝一番、三鷹の次女のマンションのリヴィングで打っている。昨日の出来事のあれやこれやも、忘れないうちにスケッチふうに打っておこう。昨日朝西大寺を7時に出て岡山から新幹線で品川についたのが、11時半。そこから山手線に乗り換えて恵比寿へ。12時に東京都写真美術館に着いた。映画は1時20分から。平日なのですいていた。チケットをまず求めて荷物をコインロッカーに預け、身軽になって恵比寿でお昼。駅の近くでカレーのランチを済ませ、時間の余裕があったので、写真美術館の4階にある図書館(素晴らしい図書館)で過ごした。

映画はタイトル【勇気をくれる伝説の人間記録】(天のしずく 辰巳芳子・いのちのスープ)(笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ)(天地悠々 兜太・俳句の一本道) 河村厚徳監督による3作品が上映スケジュールを変えながら9月10日から23日まで東京都写真美術館のホールで上映されている。

私が昨日観たのは【笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ】である。今日は昨日と同じ時間帯で【天のしずく 辰巳芳子 いのちのスープ】をみる。昨日観たドキュメンタリーは、日本初の女性報道写真家笹本恒子と伝説のジャーナリストむのたけじ、101才同士、女と男のお見事というしかない不屈の生き方をされたお二人の映像、語りを追い続け編集した作品である。

観終えて最初に思ったことは、たまたまラジオでこの上映会のことを知り、急遽駆けつけてきて観ることができた幸運である。日本初の報道写真家である笹本恒子さんのことは全く知らなかったし、むのたけじという名前は聞いたことがあったがこのような気骨のあるジャーナリストがいたこと、に心から驚かされた。来てよかったと、今五十鈴川だよりをうちながらあらためて思う。

今日も観にゆくのが心から楽しみである。一日に一作品をゆっくりと堪能する。これが今現在の私にはもっとも似つかわしい。いまはまだ感想を打つのは控える、3作品を観終え、いずれ岡山に帰って後、ゆっくりと記したくなれば記したい。よしんば記せなくても問題はない。まだ一作品を観たばかりだが、人間の神々しさを感じさせてあまりあるドキュメンタリーで(昨日の作品に)に出会えた喜びに、今はただ浸りたい。

来週火曜日までには3作品を観ることができればもういうことなし。こんななにゆったりとと過ごせるお爺気まま東京気まま旅、娘夫婦のお陰である。昨日夕刻映画を身終え、恵比寿から新宿経由で三鷹へ出て、バスで次女がすむマンションへ。夕方5時仕事帰りの娘と保育園へ孫の葉君を迎えに行き、帰って葉君と少し遊び、夕飯前葉君と一緒にお風呂。いつもは父と入るのだが私と一緒に入ってくれた。私は葉君の3才の体をピカピカに磨いた。

夫のSさんは家でお仕事、夕飯、娘がてきぱきと用意してくれた。家族全員、葉君中心に楽しくお話ししながらいただいた。食後横になって休んでいたら知らぬ間にそのまま寝入っていた。

  


2024-09-19

夏の労働を乗り切り、東京家族に会いに出掛ける、夜明け前の五十鈴川だより

 起きたばかりである。西の空には中秋の十六夜の月がまだ浮かんでいる。まあるい月を眺めていると、夜明け前自分も浮かんでいるような、いわゆる浮世離れした気分になる。小さな頃からこの世とあまりうまく馴染めず、結果このような人生を歩むはめに成ったのではないかと、今にして想う私である。

西の空に浮かぶ十六夜の月

さて、二人の娘家族のところに半々、5拍6日の予定で上京する前の五十鈴川だよりである。したがって時間にあまり余裕がないのだが、余裕がなくてもなにかうち綴りたいという煩悩が在るということをいいほうに考え打つ。

今回の上京の目的は、滅多に見る機会がないドキュメンタリーフィルムを東京都写真美術館でみることと、数ヵ月ぶりに、3人の孫の成長ぶりに接するのが目的である。もう口に出すのも嫌になるくらいの此の夏の暑さをほぼ乗りきった、自分に対するご褒美の小さな旅でもある。

9月になったら孫たちに会いにゆこうと想うだけで、どこかこの狂ったかのような夏を乗り切れたのは間違いない。単細胞の爺ばか承知で打たせていただく。

人間にはというより、私には幻想とでも呼ぶしかないような、どんなに小さな喜びであれ、希望のニンジンのようなものがぶら下がっていないと、頑張れないあまのじゃく的な体質があるのをどこか自覚している。その事がこれまたこのような人生を歩ませているのだというどうしようもない自覚である。

そしてそのような思いを抱えたまま、老いてゆく覚悟のようなものが、よきにつけあしきにつけ深まりつつある今を生きている。孫が小さいうちに共に遊べる時間をこよなく私は大切にしたい。それと平行していよいよ風に吹かれて、体が動くうちに小さな旅を(家族に会いにゆくのも含め)続けたい、のだ。。(お世話になった方々への訪問行脚旅もしたい)

旅先で、五十鈴川だよりを打つ。一日でも長く草刈りをしながら、体のコンディションを整え、限りなくお金に頼らず、自分に与えられた体(命)の発露の旅を一年でも長く続けたいという希望が膨らんで来たのは、此の夏の暑さのなかの労働のお陰である。

この年齢まで元気に生きられて想う。6年前まではこの世に存在していなかった孫たちの出現が、老いゆく私の命の日々の現在をいかに照らしていることか。そして真摯に私は考えずにはいられない。青二才の思春期から、そして今にいたるも、ヒトはいかに生きてゆくのかという、言わば答えのない問いを、問い続けるなかでしか生きている実感が持てなかった私である。(問い続けたお陰で辛うじて生き延びられて気がする)

養老孟司先生がおっしゃっていたが、生きてゆくことは日々断崖絶壁の上を歩んでいるようなものだと。とてもではないが、そのような境地にはほど遠い私だが、黄昏、孫たちが私を導いているのは幻想に近いとはいえ事実である。5泊6日の旅が楽しみである。



2024-09-16

整理整頓、青春期に観た映画の宝のパンフレットがたくさん出てきた、なかでもロミオとジュリエット。そして想う。

 3連休三日目、今朝も朝のルーティン裸足散歩ほかをすませて、静かに五十鈴川だよりを打てる喜びの時間帯である。3日連続五十鈴川だよりを打つなんてことは、ほとんどないのだが、たまにはこういうことがあるのもまた、私らしいと勝手にいいほうに考える。

監督フランコ・ゼフィレリ音楽二ーノ・ロータ

さて、整理整頓を今日も少しずつ進めようと思っている。ちびりちびり進んでいる。基本的におやすみの時にしかやらない。

一応年内を目標にしている。さてどうなるのかは自分でもわからない。未来はオーバーではなく未知との遭遇なのだから、何が起こるかはわからない。でもまあ、穏やかな生活が続けば、片付くと思う。

細かな写真の仕分け作業に大分の時間がかかるのを除けば、かなり部屋がスッキリとしてきた。もうそれだけでもこの暑さのなかやれたことに、私としてはかなり満足なのである。

衣類の整理も始め、もうほとんど被ることのなくなった帽子等も、別れが忍びなかったが、この際思いきって処分した。甘い感傷にお別れし老い路を新たに旅ゆきたい。

思いきっての整理整頓を始めたことで、どこにいったかわからなくなっていたパンフレット等が大量に出てきたりして、思わぬ喜びに身を震わせたりもしている。やはり思いきって、整理整頓を始めたことは吉である。特に18才から25才頃までの、(我が人生でもっとも苦しかった頃)多感な時期に観た記憶の宝の映画のパンフレットは、捨てられないし、きちんと整理して、家族に残しておきたい。(数えてはいないが200冊くらい)

アンティークとして壁に季節ごとに飾ってもいい感じになるし、かけがえのない青春の宝の(辛い記憶も含め)の記憶が甦るので脳が活性化する。(気がする)パンフレットのなかでも一番のお宝は【ロミオとジュリエット】のパンフレットである。田舎で高校生で観たときにはお金がなく買えなかったのだが、18歳の時に上京して再び観たときに買ったのだろう。昭和45年6月21日テアトルの日付がある。テアトル銀座かテアトル新宿で観たのだと思う。

つくづく感受性が柔らかい時に見ることができた幸運に、今となっては感謝するほかはない。そして想うのだ、今見ても古びていない私が心を奪われた名作を、これから再びゆっくりあらためて元気な内にチャンスをつくって観てみたいと想う。(チャップリンのライムライトが神田の古本屋で、なんとDVD100円で買えた、ビックリである。この年齢で見ると一段と感動する)

話は変わる。若いとき、壮年期を経ないことには、いきなり老齢期はやってこない。そして老齢期もやはり経験してみることでしかわかりようがない、そのことを、私は今はっきりと実感している。これから5年後、10年後、私は息をしているのかどうか。だがそのようなことに想いを巡らす気持ちはナンセンス、私には毛頭ない。一日一日のその日暮らしをこそ、私は大切に生きるその事しか、ほとんどもうなにも考えていないし、もっと言えばそこにこそ老人生活を面白く生きる極意のようなものがあるように思える。

特にこの夏をなんとか乗り切り、夜毎丸くなる秋の月を愛でながら、健やかに在る我が身の一日の終わりを、裸足で大地を踏みしめながら想うのである。もうほとんど出家感覚を私は生きている。夢の残滓を整理しながら想う。これだけの宝の思い出に彩られた我が人生のこれまでであったのだという事実が確認ができたことは、幸せという以外にない。安心して老いてゆけそうである。

PS 一本の映画、一冊の本、一本の演劇、一人の人との、思春期の多種多様な千差万別の出会い、タイミングはほとんどその後の人生の行く末を決めてしまうほどに大きいのだ。

2024-09-15

書斎の整理整頓、企画したフライヤーや記事文章、写真やお手紙お葉書ほかの整理整頓を始め、そして想う。

 先週末から、少しずつ主に写真の整理やその他、ある日忽然と私が存在しなくなったときに、残された家族が、少しでも途方にくれないように、私のからだが元気な内に、できるだけのことをしておこうという殊勝な気持ちが芽生えている。

椎名誠さんを招いての夢が原の野外映画

だが、本質的に整理整頓が苦手な私である。ひとつの写真に見いってしまうと、次々に思いでの記憶の扉がひらいてしまい、手が止まる。インターネット時代以前にいただいた手紙や、お葉書など目にするともういけない。遅々として進まない。でも決めたのであるからやらねば。見かねた妻が、もう少し涼しくなったら手伝ってあげるといってくれたのが心強い。

反省はしても、この年齢まで我が人生、ほとんど振り返らず、心の内の押さえられない、自分でもよくはわからない衝動の赴くままに企画や、旅を繰り返してきたその夢の残滓が写真に残っている。十代、二十代の写真は多くはないが、三十代、特に企画者になってからの四十代の写真がたくさん残っている。我ながらよく動いた。ガムシャラという言葉しか浮かばない。よくもまあ企画が成った事実に運の強さを実感する。才能とは実現することである、というしかない。

話を戻す。これまでの終わった人生に一区切りつけたいのだ。まずは整理である。片をつけたいのである。この区切りの目処をつければ、老いゆく、(カッコつければ)未知の成熟ゾーンを迎える覚悟が深まるきがする。甘い考えなのかもしれないが。経験したことのない未知の老いの領域をこれから日々嫌でも経験しなければならない。その事をまずは厳粛に受け止め、その事から逃げず、老いを真剣に受け止め覚悟の養生を生きたいのである。

このままうっちゃっておくと、必ず残された家族が処分するにも難儀する。喜びのあとには必ず悲しみが訪れる。(喜びも悲しみも含めてそれがこの世、人生である)悲哀、苦楽この当たり前の宇宙の摂理を厳粛に受け止める勇気、覚悟を今のうちに養っておかないと、私のような弱い心の持ち主は、きっと機を逃してしまう恐れがある。それを私は望まない。

ある程度の一区切りスッキリしてからの老境、遊行期へと向かう身支度を準備しておきたい。ヶセラセラと言えるうちに。

PS 椎名誠さんの作品上映のあとのトークタイムの写真、今となっては宝の写真である。このような宝の写真の整理、アフリカの旅の写真、インドの旅の写真、家族との写真、友人との写真、ほか元気な内に整理しておきたい。

2024-09-14

その日暮らし考、老人はガマノ油をしたたらせ、爪先を意識し歩き草を刈る。

 週末おやすみの朝がこんなに嬉しいのは、当たり前だが、この未曾有うの夏のきちがいじみた暑さのなかを、なんとか労働をこなして、元気に五十鈴川だよりを打てるからである。

母の写真、この数年いつも私のそばに在る

もうすぐお彼岸だというのに、日中のこの暑さは異常気象という他はない。だがぼやいていても暑さは容赦ない。ならばどうすればいい。

生き甲斐といってもいい今の労働アルバイトを、一日でも長く続けたい私としては、私なりの対策を日々我が身に向かって施しながら、やり過ごしている。そのいちいちを綴り打つことは控えるが、その対策のお陰で、こうやって五十鈴川だよりを打つ元気をキープしている。何事も継続の上での知恵の恵みである。

家族、分けても妻がこの酷暑の夏の私の労働をいたわってくれるのがありがたく身にしみる。このようなことを打つと、やすきに流れやすい私としては妻への感謝の気持ちを縷々綴り打ちたくなるのだが、野暮なことは一切打つ気がしない。

そのようなことを打ち出したら、もうそろそろ、五十鈴川だよりはお開きにしなくてはならない。どこかに抑制のような感覚がなくなったら、お恥ずかしい限りという他はない。

話を戻す。今も続く暑さのなか、何はともあれ9月の半ばまでを乗りきった我が体に、感謝、そしてなにがしかのご褒美を与えたいという気持ちがある。今のバイト先は、中世夢が原とはまったく異なるが、広い原野での労働がいかに私にとって適材適所というしかない。私にとって誤解を恐れずに言えば、遊ぶようにフィールドを自由自在に駆け巡りながら、春夏秋冬を過ごせるという意味で、私にとってはまたとないフリーターからだ動かしバイトである。

年金生活者になると、どうしても守りに入りがちになるが、66才で巡り遇えたこのバイト先は、富良野塾と中世夢が原で体得した肉体労働の経験がすべて無駄なくいかせる、まとない晩年時間を過ごす場所としては、理想の居場所なのである。

丸6年働いているがそのありがたさへの思いは、歳を重ねるにしたがって深まっている。ましてや働き始めてから夏の暑さは年々酷くなってきているなかで、なんとかこの夏を乗りきれそうな予感がするからこそ、年よりの嬉しさは格別なのである。

何はともあれ家族は私が労働し、元気で五十鈴川だよりを打つことを影ながら応援してくれている。究極、やはり私は動くことが好きなのだと確信した。ゆっくり元気で労働ができ、家族を含めた身の回りの人が喜び、役に立てればもう十分なのである。(自分の個人的な欲望はもう十分に燃焼し尽くした感がある)

音読は個人レッスンにとどめ、あくまで自分自身のためのレッスンをこそ静かに続けたいという気持ちが沸き起こってきている。此の夏の長い労働体験は根本的にいかに生きるのかをあらためて考えさせ、酷暑のなか滴る老いの汗、命の水を補給する度に、私は生きて在ることの素晴らしさを心から堪能している。そのとき3人の孫たちの顔が時おり浮かぶ。元気になる。

その日暮らし、というものに限りなく最近憧れる、もうそれこそが願ってもない喜びなのである。それを老いというのであれば、今の私は静かにその老いゆく時間を大切に過ごしたい。古希を過ぎNHKのラジオ深夜便(特に朝4時からの明日への言葉)をこよなく愛聴しているが、世界にはなんと素晴らしき人間が存在しているか、毎回蒙が拓かれるように聞き入る。

聞き耳を立てる。老人のアンテナを立てる。その気持ちがある間は奥の細道の扉が開いてくれるかもとの、淡い幻想に浸る。汗をかける老人で在りたい。


2024-09-08

椎名誠さんの最新刊、さらば友よ編【続 失踪願望】を読み、深く打たれ、そして想う。

 今朝もなにか打ちたくなる自分がいる。この事を私は老いの煩悩の発露として、精神の調節機能としてこよなく大切な一時を偏愛する。五十鈴川だより依存症と言い換えてもいいくらいの最近である。

さて、今朝も運動公園でやく30分裸足散歩(足裏じんじん気持ちいい、大地にあんましてもらう)他のルーティンをやり朝食をすませ、なにがしかの五十鈴川だよりを打ち、日が沈むまでの一人(妻は仕事)時間を静かにすごす予定である。

ところで、今年はなん十年ぶりとかの再会が多い年にあたっている。そのような人生時間なのであることを痛感する。シーナさん、久しく直接お会いしてはいないものの、おそらく十数年椎名誠さんの本をてにしていなかったのだが、此のところ立て続けに、椎名誠さんの新しい本を手にしている。間接的に一方的にお会いできた喜びが満ちる。

偶然(必然とも思える)の成り行きで【続 失踪願望】、を今読んでいる。親友とのお別れ、さらば友よ、の文章に打たれる。私よりずっと先輩、何よりも男気がある。(私にはない)自分のことを、よたよた作家であるとのたまい、要するにバカなのであるとのたまう椎名誠さんは、やはりどこまでも私にはかっこいい兄貴とでも呼ぶしかない存在である。

私が40才の時、中世夢が原新天地で企画者として人生再出発、無我夢中、最初に企画したのが椎名誠さんの映画【うみ・そら・さんごのいいつたえ】である。その後アヒルの歌がきこえてくるよ。白い馬。ガクの冒険。4本野外で上映した。今となっては夢、幻だが、私にとっては宝というしかない思いでである。

すでにバブルがはじけ、世の中はその後長きの失われた30年といわれる低成長が続き、今現在も経済的混迷の軛は続いている。が私個人は、40代本当に仕事が楽しかった記憶しかない。あれからいく年月が流れ、あたりまえ私はもちろんシーナさんも歳を重ねた。そして今つくづく思う。無謀きわまりない野外映画の上映を実現できたことの幸福を思う。

そして年齢と共に、苦楽を共にしてきた方々とのお別れがいやでもやって来る。戦友の突然の死を知らされた時の慟哭に、胸が締め付けられる。此のような男同士の熱き情愛に裏打ちされた関係性に打たれる。そして想う、

私も限りなく失踪願望がある

私も此のような関係性を一人でも二人でも持てればと。

そして、今現在の椎名誠さんの文章に触れるながらあらためて感じ入った。これからいかに老いてゆけばいいのか、シーナさんの一文は、私のこれからに大いなる勇気、墓標を示す。シーナさんと同時代を生きられた幸運を、なんとしても五十鈴川だよりに打っておかねばならない。

要はあくまでも自然体がいいのである。一気に明るい煩悩とでも言うしかないほどの、お気軽さで私らしい在りようで、天と地の間をさ迷い歩くのがいいのである。この12年音読にかなりエネルギーを注いできたが、シーナさんとの間接的再会は、おおいなるシフトチェンジをする勇気を与えてくれる。

企画や音読に固執せず、あくまで個人的な好事家としての内にとどめ(個人レッスンと、自分自身のレッスンは続け)これからは旅、そして家族、妻や孫、大事な友と費やす時間を大事にしたいと、考えるようになってきたのである。

2024-09-07

9月になり気持ち涼しくなり夏が終わり、空気感秋を感じ、物想う五十鈴川だより。

 嬉しい土曜日である。起きて一仕事をしての五十鈴川だよりタイム。もうすっかりおじいさんの気まま五十鈴川だよりと化しているのを、私はどこかで自覚している。ままよこのままのひびの老い先だよりを、のらりくらりと打ち綴りたいとの煩悩を、自分らしく(何が自分らしいのかは置いといておく)在りつつ老いてゆきたい。

ところで9月になっても激暑は続いている。だが夜半から朝にかけては、寝苦しいことは私の場合はなくなってきた。ちょっとホットしている。それにしても7月8月の暑さは異常としか思えないほどの暑さで、72歳のこの体が良く持ちこたえたもんだと、我ながら驚いている。五十鈴川だよりを打つ気力も萎えておらず、秋を迎えられそうであることに、例えようのない、安堵を覚えている。

年齢が年齢なのだから、くれぐれも自重しなければならないのはやまやまなれど、あの暑さをしのぎ、なおかつあの暑さのなか、ずいぶん此の夏はよい本に恵まれ、よき読書体験ができたことが、逆にあのきちがい夏を乗り越えられた要因かも知れない。そしていま、遅読ではあれ、いよいよ本を手にする孤独(孤立ではない)時間が愉しみな私である。何度も打っているが狭い分野の本しか手にしてこなかったという反省があるので、秘密の扉を開く喜び、と打つと何やら妖しげではあるが、もうこれからは怪しき老人になりたい位である。怪人なん面相くらいに。

とはいっても、人間もって生まれた性がそうは変わらないのはあたりまえ、あくまでも言葉上の遊びが大半であるのは言うまでもない。が、老人の気ままな願望ではある。さて、此の夏の読書体験でもっとも嬉しかったのは(何一つ無駄な本はなく今の私にとって必要不可欠な本ばかりであった)チェーホフの作品がしみるように読めたことである。

おそらく、シェイクスピアとチェーホフは、いよいよこれから、繰り返し読み続ける、続けたい。読むたびに今の私の生活に新しい刺激やエネルギーをいただける作家に我が生涯で巡り会えたこと、例えようもなく嬉しい。息も絶え絶えの、ながいながい夏の間、次々の読書体験が私を(今もだが)支え続けたことは間違いない。だから待ち望んだ秋の到来が、たまらなく私は嬉しいのである。

年齢を重ねるごとに読書体験が血肉化してゆくかのような気さえする。それもこれも健康に動くからだのお陰である。幼少期から(家に本がなく)読書体験の極端に少ない環境に育ち、社会に出てからも生きるのに精一杯であまりにも本を手にしてこなかったという反省、いい意味でのコンプレックスが、今となっても強烈に残っている、(それが私を支えている)。

知的好奇心といえばカッコつけすぎではあるけれど、知る、学ぶ喜びは老人足りて尚、私を活性化させる。以前、労働と音読はセットであると打ったが、労働が終われば本が読みたくなり、本を読むと労働、音読がしたくなり、定期便、年に数回の旅のお供は本であり、老いゆく私の循環ライフは充実、健康であるからこそのありがたさである。

いきなり話は変わる。朝書斎の古いたまったイベントのチラシやアンケート、いろんながらくたの数々等、衣類、その他その他、一度には無理なので週末ごとに一時間程度整理整頓することにし、先週から始めた。目標は年内に済ませることである。流行りの断捨離ではない。残しておきたいものと、不必要なものとを仕分けしあくまでスッキリ整頓整頓することである。

整理整頓が苦手な私なのだが、椎名誠さんの遺言未満を読んで一念発起したのである。一冊の読書体験が私を突き動かしたのである。動くからだ、

没頭する世界をお持ちのお二人学びたい。

意識が健康体であるうちに努めて娘たちに厄介を極力(最後はお世話になるとしても)おさえておかないと、不味いと思うのである。

本以外、ほとんどなにも持っていない私であるが、私の後始末にかかる必要経費だけはきちんとしておきたいし、遺言未満(い言えて妙)最低言葉にして、とは考えている。

2024-09-02

妻と出会って37年目の記念日、椎名誠さんの【遺言未満】という本を読んだ。そして想う。

 ちょっと時間がないが、少し打ちたい。昨日は私が妻とで会って37年の記念日だった。だから今日はお休みだし、妻と二人で瀬戸内海の三原まで在来線で小さな旅にでかける前の朝である。9月になったばかりだが、此の夏3度目の小さな旅である。


還暦の時だったかいつだったか、出会ったときのことをいずれ五十鈴川だよりに打ちたいのだが、いまはまだ気恥ずかしくて、とてもではないが打てないと打った記憶がある。そして今なら打てそうではあるが、やはりまだ今は打たないでおこうと思う。いずれゆったりと時間があるときにきちんと打っておきたいとは思っている。

妻との出会いなくして、その後の人生はまったく成り立たなかったし、子供たちがそれぞれ巣立ち、晩年時間の今も妻がいない生活というものが、私にはまったくといっていいほど成り立たないということが、身に染みてわかってきている。

だからこそ、面と向かってはなかなか言えないが、五十鈴川だよりでもって、間接的ではあれ打てるときに感謝の気持ちをきちんと打っておかねばと思うし、妻との時間を大切に過ごしたいと思う私である。

野暮を承知で打つのは、椎名誠さんの【遺言未満】という本を読んだばかりだからである。此の夏、知識人として尊敬畏怖していた松岡正剛氏が80歳でなくなられた。椎名さんも今年80歳になられているはずである。

同世代の訃報を頻繁に耳にするようになり、椎名誠さんが新聞の訃報欄を意識して読むようになり、自分もまたいつ死んでもおかしくはない年齢であり、(私だってそうである)人生の仕舞い仕度としての、葬儀に関してのあれやこれや、お墓のことなどのルポルタージュ。

そして椎名さんが世界各地で自分が体を張って体感した稀な貴重な体験や、見聞したことのあれやこれや、そして様々な本を読んでの知見、その考察がのべられている。シーナ・ワールド、80歳にして健在で(嬉しく驚く)、死について、自分の始末について真剣に考察、書かれた本である。

いずれにせよ、椎名さんの本を読んで、私もまた真剣に死と向かい合う勇気を、日々養って行かないと年齢の今なのであることを痛感した。(というわけである)

ところで、ここからは9月朝2日の夜明け前の時間に打っている。昨日あれから妻と在来線で小さな旅をしてきた。家を出発したのが朝の8時前、広島の三原から船で約30分、10時半に着き、瀬戸田にある平山郁夫美術館にいった。約3時間半滞在し、瀬戸田でお昼をして、夕方5時半には帰ってきた。

日帰りののんびり夫婦在来線旅はいったいいつ以来か。五十鈴川だよりをひもとけばわかるとは思うが、ひもとかない。過去よりは今である。くどくど打たず一言出掛けてよかったことを、きちんと五十鈴川だよりに打っておきたい。

そして妻の体調のいいときには(妻が出掛けたいというときには)先ずは妻とのこれからの時間を最優先、大切に過ごすことに私は決めたのである。古稀を過ぎてからそういう思いはどこかにうすらぼんやりとは深まって来てはいたのだが、椎名誠さんの遺言未満を読んで、私もまた元気なうちに、あれやこれやの整理整頓を始め、いい意味での前向きな仕舞い仕度をやりながら、(あれやこれや考え続け老いのアクションも大事にしたい)一日一日を過ごさないと、という改めての覚悟と言うと大げさに過ぎるかもしれないが、思うのである。

それにしても、椎名誠さんの本を読んだのは10数年ぶりだと思うが、本当によきタイミングで身につまされながら読んだ。私にとってはまさにどこか憧れのような、兄貴的な身近に感じる存在の作家である。40代、企画者として再出発、椎名誠さんの映画の野外上映会and講演会を中世夢が原で何度も企画ができたこと、振り返ると夢のようである。思い付き実行して本当によかった。

企画しなかったら、シーナさんとお会いすることもなかった。そしていま、【遺言未満】を読み、本質的にいいタイミングで椎名誠さんに再会できたように、一方的に感じている。


2024-08-30

昨日台風余波の最中、我が家で瀬政さんと、ハムレット5幕とハムレットの長台詞ほかを音読レッスン、そして想う。

今日の 降水確率は80%だが雨は落ちていない。風もほとんどなく本当に台風が近づいているとは思えないほどの朝である。我がふるさとの兄や姉に連絡をとったのだが、被害もなく過ごしているようで安心した。が、同じ宮崎でも竜巻やその他の被害が多発している様子なのを報道で知ると、土地勘があるだけに、やはり胸が痛む。

8年前、2016年に求めた本

ところで昨日午後、瀬政さんと二人で、音読のレッスンを我が家でやった。テキストはハムレット。5幕をまず読み、その後、3幕一場のハムレットの有名な長台詞を繰り返し音読したのち2幕2場の最後のハムレットの長台詞やほかの長台詞を音読した。

瀬政さんが音読したい作品にヴェニスの商人の希望があったので、二人でおもにシャイロックが出てくるシーンも、急遽音読、お昼から3時過ぎまで正味2時間、二人でのリーディング稽古をした。

瀬政さんとの個人レッスンは、マイスターに聞け以後3回目だが、今五十鈴川だよりをうちながら想うことは、71才からまったく読んだこともないシェイクスピア作品を、いきなり音読することの何たる大変さを想像勘案すると、瀬政さんの挑戦に私はまさに脱帽せずにはいられない。

山にも登ったことのない高齢者が、いきなり高峰の険しい山に挑むようなことに例えたら理解の想像が及ぶかも知れない。が、しかし氏はゆっくりゆっくりと、私の言葉に耳を傾け、楽しそうに音読を続けている。高齢者同士が、シェイクスピア作品の登場人物を、二人きりで暫し声を出し会う。

静かな、充実した一時が流れる。ハムレットの言葉、此の天と地の間には哲学などでは及ばぬ世界があると。想像を絶する思いもよらぬ悪い出来事も、意外なよき出来事もこの世ではありうるという真実を知らされる。

私は想う、私にもいつなんどき立ち上がれぬほどの出来事や災難が降りかかるかもしれない、その事を想う時、昨日台風余波の最中、二人だけの偶さか音読時間が、限りなくいとおしく貴重な時間であるとの認識を深め、(明日はできないかも知れないのだ)そのことを五十鈴川だよりに打ちたくなるのである。

昔一緒に企画したりした仲ではあるが、晩年、よもやまさかヒトとしての成熟期に再会、一緒にシェイクスピア作品を音読したりするような時間を、二人して過ごすことになろうとは。我が運命の神は、思いもよらないプレゼント、粋な計らいをしてくれるものである。そしてやはり私はシェイクスピアに感謝せずにはいられない。

シェイクスピア作品の、あまりある魅力的な登場人物の言葉が、私を支えている。悪人も善人もまるごと人間としての言葉を紡いでいる。絶対矛盾をいきる登場人物。得たいの知れない自分に振り回される。何度音読しても飽きることがない。昨日打ったチェーホフの作品の登場人物もそうだが他人とは思えないのである。此の10年以上多くの時間音読した、魅力的な登場人物が私のなかに住み着いているかのような気配なのである。

気のおけない仲間との音読は、限りなく楽しい。もうあと一人でも二人でも仲間が増えれば、もう充分である。私はシェイクスピア作品の面白さを伝えたいがために、広報活動をやりたいのは山々だが、過剰なことはもうあまりやりたくはない。

老いゆくなかでの夢がまたひとつ生まれた、河合さんと瀬政さんと3人でロンドンにシェイクスピア観劇の旅に元気なうちに行きたいと言う夢が。夢見る頃を過ぎても、かって青春の最中自転車で徘徊したロンドン、ウエストエンド劇場街を、歩けるうちに歩きたい。(のだ)

2024-08-29

狂ったかのような夏の午後、30数年ぶりにチェーホフ作品を汗を書きつつ読み頭を冷やす。そして想う。

 台風が近づいている。私のふるさと宮崎も心配である。こればかりは静かに過ぎ去るのを待つ以外にないが、あまりにもの台風の進む速度が遅く、長時間に及ぶ雨の量がものすごいので、さすがに心配である。少しでも被害が最小限ですむように祈るしかない。私のすむ岡山はいまのところ、風もなくさほど雨も強くはないが、夜半から雨が降り続いている。

翻訳家によって日本語が楽しめる

ところで、8月は昨日で労働バイトを終え、今日から4連休である。9月になれば酷暑もいくぶん和らぐのを祈るしかないが、この2ヶ月よくも老体の我が体が、悲鳴をあげながらも、なんとかこうやって五十鈴川だよりをうちながら元気に生きていることについて、今更ながら有り難いというほかはない。

暑さに我が体が絶えず反応し、汗がふきでる。自分でもよくもまあ、我が体がこの異常な暑さに耐えていることに、驚いている。正直いつまでこの暑さのなか、いまの労働バイトができるのか、まったくわからない。まるで念仏を唱えるように、一日一日、乗りきってきているだけである。

思考がままならないときは、ままならぬなりに五十鈴川だよりを打ち続け、労働した日は五十鈴川だよりは打たないようにはしている。自分なりのいま現在をしっかといきる、それ以外もうほとんど思考の及ばないような夏を、老人の私は苦行のように耐えている。

働く自分の姿を、俯瞰的に傍観者のように、カッコつけて打てば、修行僧のようにも思えるほどだ。汗が吹き出る我が体をどこかで労りながら(我がバイト先隠れ家には冷蔵庫がある)数種類のドリンクを飲む。そのうまさは汗を流したもののみが、味わえる特権である。命の水そのもの、冷えた水がやはりいちばん美味しい。生き物としての元感覚が研ぎ澄まされる。

人間だから気の進まない日もあるのだが、そこは若いときから様々な経験を積んできた過去の自分が、あらゆる知恵を現在の自分に伝授してくれる。過去の自分がどうやって乗り越えてきたのかを教えてくれるのである。私の場合生きているという感覚は、体を動かしているときがもっとも研ぎ澄まされる。そういう意味では限りなく動物に近い。

草刈り機のエンジンがかかり、無理なくのらりくらり体をゆっくり動かしていると、やがて体が動き始める。体とは不思議な器である。続けているとずいぶんはかどっている。音読ほかあらゆることに通じると想うが、好きなことであればやれるのである。多分このような酷暑の夏を乗りきることができれば、新たな老いのフェーズへとゆけるかもしれないとの、淡い個人的な希望のようなものの芽生えを感じる夏でもある。

ところでいきなり話が変わるが、この酷暑のなか、先日、30年以上読んだことがなかったチェーホフのワーニャ伯父さんと3人姉妹を浦雅春氏の新訳で読んだ。若いときにはさっぱり理解の及ばなかった作品だが、染み入ってくるように読める自分がいた。昼寝のあと、クーラーをつけず、風のない暑い部屋で窓を開け放し扇風機だけで、水分補給しながら、汗をかきながら読んだのだが集中して読めた。一言面白かった。

シェイクスピアとチェーホフ、よその国の作家である。シェイクスピアは400年以上前、チェーホフは150年以上も昔の作家である。いま、翻訳で読んでもなぜかくも染み入ってくるのであろうか。こまごまとした分析は控えるが、登場人物が他人とは思えないからである。まるでこれは自分のことである、とでも言うしかないほどに、登場人物の言葉が昔の人の言葉ではなく、現代人が抱え込んでいる魑魅魍魎複雑怪奇な切なさ、やるせなさ、出口の見えなさが、圧倒的詩情でもって、残酷なまでに描かれている。(と思える)人間の不条理、不毛さ、不可解さが。

だがしかし、私はチェーホフの作品に愛を(ほかに言葉がない)を感じる。1860年に生まれ1904年、わずか44才、肺炎で亡くなっている。私には到底想像の及ばないロシアの広大な大地が生んだというしかない天才作家。作品はすでに1917年のロシア革命を予感させる。その後の社会主義連邦国家となるも、1991年社会主義連邦国家は崩壊ロシアとなり、資本主義国家となる。あれから、33年の歳月が流れ、かっての同胞ロシアとウクライナとの間の戦争は泥沼化している。

老いてゆく体をどこかで慈しみながら、チェーホフ作品を読める間は、汗をかき、働き動き、読み続けたい。


2024-08-25

第56回、筑前琵琶全国演奏大会にゆきました。そして想う。

 昨日大阪、高槻で行われた、筑前琵琶の全国演奏大会日帰りで聴きにいってきた。はじめて筑前琵琶を聴いてから6年になる。きっかけは新聞記事で筑前琵琶の人間国宝、奥村旭翠さんを知ったことに起因する。(6年前の3月、私ははじめての孫に恵まれ、コロナ渦中の3年前二人目の孫、昨年は3人目、はじめての女の子の孫が授かった、生きていることはただそれだけでありがたく、奇跡的なまでに充分である)

祈りの筑前琵琶で生き返る猛暑の夏

6年前と言えばまだコロナ前で、秋、リア王の発表会を終えて、煩悩多く暫し放心状態の時、たまたま奥村旭翠先生の会が大阪であるのを知り、これまで観たことも聴いたこともない伝統芸能筑前琵琶を急に聞いてみたくなって出掛けたのが、きっかけであった。

あれから6年コロナ渦で聴けなかったとき以外、よほどのことがない限り、案内状が届いたら何はともあれ出掛けるようにしている。今年は春にも出掛け2回目である。なんだかとりとめのない一文であるが、ままよこのまま打ち続ける。

猛暑続きの狂ったかのような夏の最中、ちょっと出掛けるには正直躊躇したのだが、結果は出掛けて大正解という以外にない奥村旭翠先生にしか醸し出し得ない芸の真髄のような演奏世界を堪能できたことの幸福感を一行であれ五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

筑前琵琶 橘流の全国演奏大会 第56回とある。第一部10名、第二部9名(ひとり欠席)。10時半開演、終演は午後4時。途中始めの頃、あまりの気持ちよさに何度かうとうとしたが、演者の生の力量と迫力が私を覚醒させ、長いとはつゆ感じることもなく終演までききいった。

北は東京、南は福岡までの参加者19名の方が、何十年にも及ぶ修練の成果を披露してくださるのをはじめて生で体感できたことの幸運を、いまはただ疲れている、この夏の老いたからだにムチ打ってきちんと打たずには入られない。

とりはもちろん、筑前琵琶ただ一人の人間国宝奥村旭翠先生である。もちろん直接お目にかかったことはないのだが、間接的になんどもお目にかかっているので近しい思いを一方的に抱いている。最後の一曲先生が語り演奏されたのは【茨木】という作品、素晴らしかった。

先生の素晴らしさは一言では到底語り得ぬ、すべていまの私をふくめた人間がなくしたというしかない、日本のうたかたの夢幻の世界がいまだこの世に残っているという現実に喜びに打たれるからである。人工知能AIインターネット世界の片隅で、体ひとつでこのような先人たちが芸術、自国の筑前琵琶の文化を守り伝え、その伝承に心血を注いでおられる、先生の菩薩のようなお姿をしっかと眼底に焼き付けた。

話し方、たたずまい、しぐさ他唯一無二、つま弾き語る。老いてなお、その醸し出す独特さは比類なく美しく、気品が香り、自然で優美、私は暫し釘付けになった。一言いいものに触れた、観ることができた幸福感が私を包んだ。その事さえ打てればもう五十鈴川だよりは充分である。暫し、年齢も猛暑も何もかもが消えたというしかない世界を堪能した。