ページ

2024-12-30

12月29から30日、長女家族と次女が里帰り、寸暇打つ五十鈴川打より。

 昨日午後長女家族と次女が里帰りして、一挙に5人増え、にわかに我が家はお正月モードに突入し、老婦婦生活から一転孫中心の生活へとシフトチェンジした。次女の旦那さんと子供の葉君は明日、我が家へとやって来て共に年を越すことになるが、それまでは兵庫の実家にステイしている。

前の旅でふるさと宇納間神社の階段を登る私
これからお正月まで共に過ごすことになる。すでに昨日の夕食、今朝と2度の食事を済ませたのだが私たちにとっては十分な広さの家が、狭く感じるほどに荷物が何やかにやと増え、6才の望晃と1才の未彩の存在がで家がまるで生き返ったかのような賑やかさである。これで明日周さんと葉君が加わったら、と思うと、きっとてんやわんやの、だがこれこそが我が家のお正月になる。そのことを私は、宿命の福としてありがたく受け止めている。

と、ここまで少しでも記録として、わずかでも打っておきたいのだが、望晃が庭の八朔の収穫をしたいので、お爺も手伝えとというので、暫し中断する。

約20分ほど中断し、八朔を20個暗い収穫した。望晃に剪定ばさみの持ち方を教え枝の切り方を伝えた。もうこれで年齢を重ねるにしたがって、ハサミの使い方がうまくなり、八朔の収穫もますます上手になるだろう。私の願いはたくましい男として成長してほしいということだけである。したがって、東京での都市型ライフと、田舎でしか体験できないことの両方ライフを自在に行き来できる、楽しめる人間になってほしいのだ。だから今朝の八朔の収穫を嬉々として楽しんで収穫していた望晃の姿に、お爺は安堵し嬉しかった。

お墓の掃除をする望晃君

脚立の上でバランスをとるのも、体感訓練んになる。寒い中での八朔の収穫は手がかじかんだりもするし、いずれにせよ寒中での師走の思いでがつかの間できたこと、とてもよかった。お父さんのレイさんも、高いところに実をつけた柚子の収穫を上手にしてくれ、お爺の苦手なことを、しっかりとやってくれ、寒中での男3世代揃い踏みで、柑橘類の収穫の思い出ができたこと、五十鈴川だよりに打っておく。

(さて今日はこれから全員でお墓のお掃除にゆくので、続きは時間を見つけてまた、寸暇打ちたい)

ここからは、30日の朝食後リビングで打っている。そばでは家族の声が飛び交っている。レイさんと孫たちは、寒い中お散歩に出掛けている。娘たちは洗濯物を干したり、畳んだりしている。打っていると皆が帰ってきてとてもではないが、ブログを打つ気分にはならないのだが打つのである。

さて、昨日はあれから、全員でお墓のお掃除に行き、その後は娘たちはお買い物、私はちょっと友人のところに、ちょっと粗品を届けに行ったりして過ごした。お昼は全員🍝スパゲッティ。午後みんなノンビリ過ごし、私は二階の片隅でおひるね.

夕刻、近所をレイさんノア、ミアの4人でお散歩。小さな公園でノアとかくれんぼをしたのだが、柚木のしたに隠れたノアの手に、柚子のとげが刺さり暫し中断、いたかったのだろう涙を流しはしたが、声には出さずに耐えていた。痛みが引いたらあっという間に普段のノアに戻り、再びメルの散歩に私と長女の3人で出掛ける。すれ違いでレイさんとミアもちょっと長めの寒中散歩から戻ってきた。

日がとっぷりと暮れ、私が一番最初にお風呂をいただき、続いてみんな順次お風呂に入りながらそれぞれの役割分担をこなしながら、一緒の空間で家族時間を過ごす。夕食はお鍋なので、妻と長女が忙しくしているので、私も野菜の皮を向いたりして手伝う。夕飯の鍋が完成、みんなで美味しくいただく。夕食後孫たちが次々お風呂に入り、午後7時半ミアはレイさんと就寝。午後八時半、レイさんとノアが長女と共に就寝。孫たちが寝入って、暫し大人の時間をすごし私も10時過ぎには横になった。

さて今日は、10時半には周さんと葉が帰ってくる。間もなく迎えに行くのだが、スケッチ、寸暇我が家の師走家族時間をうつ。

2024-12-24

年の瀬帰省旅、K京ちゃんとの一期一会二人旅、五十鈴川だより2。

 今日は午前中仕事をしてきたので、いくぶん普段の生活に戻ったのだが、帰省旅の続きを打っておきたい。

上野原遺跡の近くから眺めた日没

さて22日土曜日、我が友K京ちゃんは、ぴったりに午後3時に兄の家にやってきた。午前10時に鹿児島の隼人を出て、一般道や高速を走っておおよそ5時間かけてわざわざやって来てくれた。今年の初夏、兄と二人で京ちゃんを訪ねたことで、京ちゃんもわずか一回しかあったことがない兄の家に、一泊泊まりがけで来てくれたのである。その折のことは五十鈴川だよりに書いている。

その時の楽しい思い出がなかったら、このような年に二度もの会瀬は実現しなかったであろう。兄のある種自然体の雰囲気が、京ちゃんも自然体快男児なので、きっとうまがあったのかもしれない。ともあれ京ちゃんは遠路やってきた。冬の日は早く沈む。

挨拶もそこそこに、兄の運転で、門川および日向を駆け足でドライブ。細島の米山頂上から、日向市門川、遠く延岡まで見渡せるところまでゆく。少し雲があったがよき眺めを3人で見ることができた。なんと延岡には虹が雲間から覗いていて、辛うじて記念撮影に収まることができた。日が沈む前、五十鈴川のほとりも案内することができて、私は満足であった。

飫肥の服部屋敷での京ちゃん

戻って隣にすむ姉にも京ちゃんを紹介することができた。京ちゃんは、たくさんのお土産を持参してくれてきていて、姉にもおすそわけをしたら、姉がことのほか喜んでくれたのが私には嬉しかった。友遠方より来る。兄が懐かしい七輪で火を起こし外で手羽を焼く。

外は寒いので充分に火が起こったところで、七輪を家のなかの廊下にいれ、車座になってバーベキュー。

乾杯の後、ひとしきり焼いた手羽や野菜をいただき、バーベキューを終え、椅子とテーブル席で登紀子さんがお刺身その他の家庭料理で京ちゃんをもてなした。京ちゃんはなにもかも美味しい美味しいと頬張り、もてなした兄と登紀子さんも、普段の生活ではお目にかかれないキャラである京さんの来訪を楽しんでいた風であった。

ひとしきり夕食が終わってからも、京ちゃんと登紀子さんが台所で話し込んでいたのには、ちょっと驚いたが、これもまた京さんの人柄だろう。午後10時、私はすっかり眠くなって早々に寝んだが、京ちゃんと兄は遅くまで起きて話していた、(らしい)。事実をだけを順に書いておくだけでも、細部を書きたくなるほどである。

翌22日、最後の朝食は純和風、登紀子さんの納豆お味噌汁海苔他、美味しくいただき、朝9時兄夫婦が見送ってくれるなか、京ちゃんとの二人旅に出発。私の先祖の宇納間の神社を目指す。門川から35キロ五十鈴川を源流に向かって遡ったところである。

狭い蛇行した道をひたすら走った突き当たりに宇納間神社はあり、10時前人っ気は全くなく、私と京ちゃんは正面から300段はある階段を登って、お参りした。そこからの収穫を終えた冬の棚だのご先祖の風景を眺められただけで、もうこれで今回の帰省旅言うことはなし。お墓参りとご先祖の神社参り。言うことなし、新年が迎えられる。

宇納間から日向に出てそこから高速、途中都農辺りのサービスエリアでコーヒーブレイク。一路帰省してもあまりゆくことのない日南市の私の好きな飫肥という城下町を訪ねる。着いたのが午後一時近く、服部屋敷、豪商がすんでいたお屋敷を京ちゃんが見つけたところでランチ。これが大当たり、建物の雰囲気といい、部屋から眺めるお庭の景色が抜群で、まさに日本建築の粋が凝縮したような建物での初老男の再会ランチ。一時を回っていたのですぐに我々二人きりになり、ゆっくりといただいた。デザート、締めの抹茶が格別においしかった。

食後、飫肥城跡を少し散策して、一路志布志を抜け鹿児島へ。上野原の縄文遺跡を駆け足で、京さんの説明を聞き、そこから歩いて夕闇迫る、桜島を望む絶景ポイントへ。日が沈む直前間に合った。錦江湾に浮かぶ桜島はまさに雄大そのもの。火山の爆発の灰で上野原の縄文遺跡は埋まったのだ。人は移動する。旅をする。何故かわからないから旅をして、暫し自分自身と対話を大昔からしてきたのだろう。

旅の締め括り、上野原の縄文遺跡から眺めた桜島の雄大な風景、決して忘れることはないだろう、NavigatorK京ちゃんとの一期一会二人旅、宇納間、飫肥、そして上野原縄文遺跡。書いていると、何か大いなるものかが、ルートを決めてくれたのではないこと思えるほど鮮やかな一日の終わり。冷えたからだを暖める。

夏の旅でも行った岩戸温泉に直行。ここの湯は源泉かけ流しで、なんと400円、すっかり暖まり、京さんの家で荷をおろし、マンションから歩いて3分のところにある、前回もお世話になった京さん行きつけのお店で、最後の夕食。京さんはそのお店で知り合った3人の女性(自分の娘さんたちよりも、年上年下の)たちにも慕われていた。人徳である。なんと12時近くまで楽しい語らい時間をすごし、戻って忽ちのうちに横になった。

この日、昼夜、京さんはおおもてなししてくれた。私はお言葉に甘えた。お互い30代半ば、岐阜県郡上八幡に1984年、桃山晴衣さんと土取利行さんが創った(建てた)芸能堂、立光学舎のワークショップで出会って以来、関係性が続いている希な友人である。(ありがとう、多謝)

2024-12-23

2024年の瀬、帰省旅五十鈴川だより1。

 4泊5日のふるさと帰省旅を終え、帰ってきました。体は家に戻ってきたとはいえ、私は人間、心と体は今だふるさとおよび、友人京ちゃんと土曜朝から日曜日夕刻までの、旅の中の旅のなかで目にした様々な風景が体を包んでいます。が、できる限り、新鮮な打ちに少しでも五十鈴川だよりに記録としての旅の徒然を打っておかねばと思う私です。

お墓の前での兄78歳

19日九時に岡山を発ち、小倉で日豊線に乗り換え、午後2時半日向市駅に着いた。腎臓癌を宣告されたのが丸3年前、しかもステージ4、が兄は、その後もしぶとく生きていて私を迎えに来ていた。お昼がまだだったので、夕飯前ではあったが、懐かしの天領うどん(380円)を軽くいただき兄の家に。いつものように登紀子さんが暖かく迎えてくれた。荷物をおろし着かえ門川の温泉がお休みだったので、延岡まで兄と二人でお湯に浸かりにゆく。戻って義理の姉が用意してくれた手料理での夕食をいつものように美味しくいただく。毎回同じようなことを帰省する度に書いているように思うがご勘弁、いいのである。

次兄が大分の海まで行って釣ってきたというミズイカのお刺身、煮付けが絶品で、これぞふるさとの味、というほかはなく、いつも帰省の度にこのような心尽くしの手料理をいただける我が身の幸運を今回も噛み締める。

翌日、20日金曜日朝食後少しお休みして兄と二人でお墓参りとお墓の掃除にゆく。うちのお墓には屋根がついているので、お部屋のなかを丁寧に掃いてから雑巾で拭いた。お墓の回りのごみもきれいに掃いて一応きれいにはなったのだが、長年の間に少しずつよそから土が流れ込みコンクリートにこびりついていて掃いてもとれない。水道はそばにあるのだがホースが短いので、明日もう一度来てやることにした。戻って姉の家に実っているレモンを収穫、岡山のお土産にいただいたた。お天気が良かったので義理の兄も外に出てきて日を浴び、庭で楽しい雑談ができて私は嬉しかった。

義理の姉のおもてなし

お昼は門川で兄や姉がよく利用しているお寿司屋さんに姉夫婦、兄夫婦私高齢者5人で出掛けた。義理の兄は84才、姉はまもなく81才、もう年齢的に、この面々での外での昼食は貴重なので、私はきちっと写真を撮った。兄夫婦姉夫婦がご馳走してくれた。午後は兄の家でノンビリ持参した本を読む。

夕刻門川の心の杜温泉に兄と行く。温泉から子供の頃よく行った門川湾に浮かぶ乙島の夕日を眺める。寂れ寂れた我がふるさとではあるが、私の人生のすべて、人間がつくったもの以外、自然はかなり手つかずで残っている。だから私は還るのである。夕飯はいつものように登紀子さんのお世話になった。

21日、いいお天気が続いていて、この日も抜群のお天気で風もない。朝食後午前9時過ぎ、門川のK水産にお土産用の干物を買いに行き、そこから岡山の自宅に送った。戻って長靴に履き替え、昨日に続いてお墓に行き、長いホースで水を流しながらデッキブラシや草をこ削ぎ採る道具で土を削り、排水溝に流し込む。兄よりは6才若い私が主に動いたのだが、兄も要所要所をこまめに動いてくれた。

高齢者二人でのお墓掃除、普段から肉体労働に従事している強み、なんなくやれた。業者に頼まずにやれたこと、兄と二人でやれたことが、意味もなく楽しく嬉しかった。お墓を守るのは田舎では長男の仕事である。兄の手伝いをしたので、義理の姉がさりげなく喜んでくれたのも嬉しかった。美味しい手料理を毎回いただいているのだから、これくらいしないとバチが当たる。見違えるほどお墓はきれいになった。これで新しい年が迎えられる。気分さっぱりお墓をあとにした。

お昼前、姉がやって来て暫し兄の家の芝生の庭に椅子を持ち出して日光浴、暫し歓談し、お昼は兄と私の二人で門川の小さな店で、チャンポンを食べた。私はチャンポンが大好きである。午後少しお昼ね。午後3時、鹿児島に仕事で赴任している出会って37年の我が友人K、京ちゃんが、車でわざわざ兄の家まで私に会いに来てくれた。(この続きは次回の五十鈴川だよりで打ちます、本日はこれまで)


2024-12-19

我がふるさとへ還る(帰る)日の朝の、寸暇五十鈴川だより。

 今日から4泊5日、門川に帰る日の朝である。五十鈴川だよりを書きはじめて、折々の帰省旅を徒然打っているはずだから、もうずいぶん毎回打っているはずだとおもうけれど、読み返したことはない。ただ確実に、私も姉兄も確実に年を重ねてはいるから、この数年は縁起が悪くても、悔いのない時間を兄や姉と過ごしたい。

今原文を書写している

昔のように、ふるさとのあちらこちらを訪ねたりということは少なくなってきて、ただお茶をのみ、幼かりしの思い出を語り合ったりすることの方が多くなってきた。その為だけに、心から会いたいとおもう姉や兄の存在、またこのようなことを臆面もなく綴れる自分の能天気さにも、どこか照れてしまうが、もう古稀を十二分に過ぎたお爺さんなのであるから、と自らに言い聞かせる。

たった一度限りの人生なのである。悔いなく人生を、できることなら全うしたい。まっとうにいきるとはとは、どういうことなのか判然としないし、まああまり深くは理解してはいない私だが、物欲にとらわれず、この世で出会えたわずかな(家族を含め)ご縁のあったかたたちと、気持ちのいい時間を過ごす、といったことくらいである。

それとやはりこれは決定的に老いたからこそ深まる、目に見えないものにこそ耳を澄ませられるというような感覚である。養老孟司先生がおっしゃっていたと記憶するが、子供が何故自殺してはいけないのと訊ねたとき、それは君の体は君が創ったものではないからだよ、と答えられていた。

まさに自分がこの世に、何故か五十鈴川のほとりに生を受けたのは、きっとおおいなるもののが、風のように運んで来たからだと、理解しているからなのである。命が授かり、いま何はともあれ穏やかに生き動いて原点帰り、五十鈴川のそばの門川の姉や兄の家に(となり同士)、旅人感覚でお墓参りがてら、帰れる、ということの幸運さを噛み締める。

人は親を選べず、時代も選べない。この世という修羅場にある日突然生を授かる。運気を強くするためには、やはり努力しないと、運気は授からないという厳しさを覚悟した、頃から私の場合、人生が上向いてきたように思える。思えば富良野塾を卒塾した34才頃から、ようやく生きていることが面白くなってきたように思える。

田舎から東京に出て、ふわふわと自信のない人生をおくっていた私が、何とかこの年齢までいきることができたのは、あのふるさとの両親のお陰、姉や兄たちのお陰なのであると、ようやくにして思い知る。孝行したいときには親はなしという。ならば一番上の姉(9才年上)や長男(二人とも北朝鮮からの引き上げ者)が元気な打ちに少しでも孝行を少しでもしておきたいとおもう。

20代、腰の定まらない生き方をしていた私に、姉は当時よくお小遣いをくれたものである。姉のあのおおらかさは、もって生まれた気質。大陸生まれの感性だとおもう。いずれにせよ、年の瀬、姉や兄、義理の姉の顔を見に本能のままに帰る。老いた弟は一時少年に還る。

2024-12-15

体で書写をし、日本語を味合う。友に便りを書き、冬の生活の今を慈しむ五十鈴川だより。

 12月に入って先週から休日の朝、夜明け前の朝食前に、約一時間程度書写を始めている。夏場は早朝の裸足散歩であるが、冬場は今のところ書写である。書写というほどたいしたものではない、と本人は自覚している。まだコロナ以前シェイクスピア作品の音読にかなりのエネルギーを割いていたとき、リア王の長い台詞を書写したのが始まりだから、もう7年前くらいから折々、ぽっと時間が空いたときとか、空虚感が訪れたりしたときに、意味もなく紫式部が源氏物語のなかで詠んだ和歌とか、気に入った台詞とか、つまり日本語に愛着をもつ私は、意味もなくただ書写をして時間を過ごす。これが今現在の労働生活とはまた全く異なる、老い楽冬時間の休日の楽しみなのである。

世の中に出て一番読んでいる作家

70代に入り一年一年をできる限り大切に生きるように心かけてはいる。が、長年身に付いた癖や慣習、また私個人のもって生まれた飽きっぽい性格、面倒くさがり等は、治しようもないとは想うものの、ようやくにして死者の世界への旅立ちを、いやでも真剣に考えておかないと、まずいし、悔いが残るのだけは避けたいという、殊勝な煩悩が新しく湧いてきているからである。

一日は一定、ならばこれまでにすでに経験したり、堪能したことは控え、独り部屋で静かにできる未知のやったことがないことをやりたいのである。私の好きな日本語を手が動くうちにただ書きたいのである。文字は好きな安い万年筆で書いている。

行のように、一行一行の書写、その事がいまとても新鮮で面白いのである。にわか思い付き程度だが、私は真面目に今のところ取り組んでいる。まだ肉体労働生活に重きをおきながらではあるし、来年は土取さん、猪風来さんとの大事な仕事があるので、来年の門松があけるまでのこれから一月の時の間、いわば私にとっての冬眠時間を、有意義に過ごすために必須なのである。

若い頃から、落ち着いてしっかりと学んだりしてこなかったそのつけを、この年齢になって思いしる。少年老いやすく学なり難し、とはいいふるされて、今時そのようなことを、のたまっているご仁などとんとお目にもかからないが、かくゆう私の実感である。ただただ18才からの窮乏生活に追われて、ながらも何とか生きてきて、今ようやく老いて学びたしと念う私である。

だが、天の邪鬼の私は想う、学問、学ぶとはどういうことか、と。学校など出てはいなくても、立派に子供を育て、よいお顔をした私よりもずっとご年配の御老人夫婦などを私は知っている。方や大学をでて本などもたくさん読んでいるのに、人間としての魅力がとんと薄い人など、数多く私は見てきたし、知ってもいる。

私は自分に問う。自分なりに、老いをいかに過ごしたらいいのか、いけないのか。考えることに終わりなし、冬の部屋に差し込む陽射しを背に受けながら、青年は荒野を目指し、きっと老人もまた永遠の荒野を目指す。生まれてきたのだからとぼとぼと、しかし大地を踏みしめ、確実に歩を進められる間を、人それぞれに想い歩むしかない、、、今朝の五十鈴川だよりである。

2024-12-14

来週末からお墓参りがてら小さな旅、ふるさと、門川に帰省ことにしました。そして想う。

 師走も半ばすっかり日の出が遅くなっているが、目が覚めラジオを聴きながら、床から出る時間が5時、まだ暗い。昔若い頃は暗いのが苦手だった。だが今は違う、暗闇のなかでゆっくりと老人は目覚める。そしてゆっくりと一日をはじめる。もうそのような生活を確実に66才からは続けている。古稀を過ぎてからは、自分で言うのもなんだが、一日を慈しんでの生活を心かけている。

旅のお供はこの本である

体を使うパートタイム労働を72才の今も続けている。コロナで人との対話が制限されたときにも、人とは話をしない草を刈ったり、剪定したりり相手が自然であったので、ただただ体を動かしていれば時は過ぎ、人とは話せないが、空を眺め植物を眺め、日々移り変わる四季のなかでの、老い労働を私はひたすら面白がることだけ考えながら過ごしていた。体を動かせる仕事にどれ程身も心も救われたかわからない。

そうこうするうち、コロナは下火となり、今ではほとんどニュースにもならない。ことほどさように、日々生きるのに精一杯、私などもすぐに忘れがちの、まさに老人生活を生きている。あの夏の狂おしいほどの暑さなども、今は冬、実感にはほど遠い。

夜9時以降は、ニュースほかほとんど見ないので、ますます時代、世相、流行、つまりは世間とのずれはいかんともしがたい。がほとんど生きてゆく上でなんの問題もない。新しい情報よりも古い情報、大昔に書かれた本や、昔のことについて書かれた本等を読んでいる時間の方が、今の私にとっては有益かつ新しい。労働し生活し、ほかにもやりたいことがあるので、あっという間に週末がやってくる。主に土曜日曜日に、今週はこのように過ごしていたのだという、生活日録的な徒然を五十鈴川だよりに打つ、といった案配。

話を変える。来週金曜日からお墓参りに帰省することにした。偶さかの充電お墓参り帰省旅をしないと、やはりなにかが落ち着かない。五十鈴川のほとりの寂れた、幼少期の思いでの、自分のすべてとも言ってもいい感性を育んでくれた山里の場と空間に身を浸したい。人工的なものがなにもない自然だけの物言わぬ、五十鈴川のほとりを散策したいだけである。

幼少期をともに過ごした姉や兄との、折々の再会時間も、この数年毎回一期一会悔いなくとの想いでいる。しかし幸い兄も姉も、しぶとく生きていてその事が、私にはかけがえがなく嬉しく喜ばしいことなのである。理屈抜き門川弁で語り合える一時、私は素っ裸になる。

家族は諸悪の根元とか、兄弟は他人の始まりとか、世間には悲惨この上ない家族があまた存在する。が私にとっては幼少期をともに苦楽した、特に上の姉兄は、私が18才から世の中に出て全く別世界を旅した人生とは異なる、門川でほとんどの時間をすごし、いわゆるごく普通の庶民的な人生を全うして現在を穏やかに生活している。私とは対照的な人生ではあったのに、毎回暖かく迎えてくれる。年に数回、安心して帰ってゆく場所、帰れる場所があるということのありがたさは、例えようもない。



2024-12-08

昨日、またもや師走の山里木の葉舞う猪風来美術館を訪ね、再び猪風来さん、タピストリー、絵本作家である奥さまのよし子さんとお話ができました。そして想う。

 6日夜猪風来さんからお電話があり、昨日私の足は、猪風来美術館を目指した。先日かなりの時間話し合ったのに、何故再び猪風来美術館を訪ねたのかを綴るのはうまく言葉を紡げないので割愛する。意味もなく猪風来夫妻に会わねばと、ただ企画者の感が働いたのである。結果、やはり行ってよかったと、つくづく五十鈴川だよりを打ちながら思っている。

猪風来さんは新作に挑んでいる



一言打つなら、スパイラル・アームズのライブを体感したことが、やはり大きく作用したことは間違いない。猪風来さんご夫婦にとっては、様々な念い、(今もだが)人生50年を縄文土器探究とその製作、創作に心血を注いでこられ、新見に移住して20年間の節目の集大成のイベントに、関わるものとして、意味もなくただお会いする。企画を受けるというのは、甚だ非効率な世界に身を置く覚悟が絶対的に、私の場合不可欠である。必要とされるありがたさ、お役に立つ労を惜しむべきではないと考えたからである。

朝8時過ぎ家を出て、給油お昼の巻き寿司を買い、ゆっくりと岡山から賀陽を抜け高梁を抜け、新見にの猪風来美術館に10時過ぎについた。約束をしていなかったので、ご夫婦はいきなり現れた私に驚かれた様子であったが、幸い招かれざる客ではなかったので、暖かく迎えてくれ、それから午後2時半過ぎ、美術館を後にするまで、真剣でかつ楽しい語らいのひとときが持てたことを、五十鈴川だよりに打っておきたい。

今の時代、人間がさしで向かい合い、和気あいあい語り合うなんてことは、ほとんど消えつつあるこの世において、人里離れ自然にだけ抱かれて気持ちよく語り合える人(もう仲間である)がいる。詫びさびの美。すぎゆく世のうつろい、はかなさ、諸行無常を語り合え、しかし希望の土(織物)を失わず縄文土器創りに精魂を込めるご夫婦の姿に、俗界を浮遊する私は、お話を聞きつつ改めてうたれた。

ご子息を亡くされ5年以上の時が流れ、猪風来さんご夫妻はようやく再び新しい地平へと、出発されようとしている。北海道縄文原野に生まれた命の始まり、比類のない原野さんという才能(新しい縄文土器創作、小説、絵、これから大輪の花を咲かせる、根本に縄文精神世界の争わない豊かさを具現できる稀有な才能の持ち主であったのだと、遅まきながら知らされている)

ご子息の念いを形にするべく取り組んでいる新しい作品のレリーフを見せてもらった。姿は見えなくなったが、猪風来さんは原野さんの魂をレリーフに込めておられた。私は何度も氏の気を受けた。その気が私に五十鈴川だよりを打たせる。

世界現代IT人工知能時代、世界のパラダイムが行き詰まっている。あらゆる困難、戦争はじめ出口が見えない。プラスチック、金属、超微粒子水質汚染、生物を含めた全人類の前途はあまりにも険しい。オーバーではなく、ヒタヒタと多くの生物の命の危機が知らず知らずのうちに脅かされているのをどこかで気持ち悪く感じているのは私だけではあるまい。

多くのむこの民は、訳もわからず悲惨この上ない世界へと漂流押しやられる。いったい何故なのか。私は娘や孫をなくしていない。もしも自分が、との想像力を失いたくはない。狂おしいほどの世界の無数の民の慟哭、悲惨、うめき、痛みに無縁な生活を、今も送れている。だからこそ、見えない世界への想像力を磨かないと。明日はなんびとたりと我が身である、との不安が私を襲う。

私は土取さんを界して、本質的に猪風来さんに出会ってしまったようにおもう。お会いする度に何か縄文的な感覚が私を心地よくさせてくださる。それは常に自然、大いなるものにだけ感覚が開かれ、駆け引きの人間社会の闇から遠い地平で呼吸されているからなのだとおもう。私の霊的な感覚にはほど遠いとの自己認識が覆され、幼少の頃の原初記憶が呼び覚まされる。経済原理主義に汚染される前の世界。なにもないのではなく、すべてはあったのだと。

おそらくこの感覚が、土取さんと、猪風来さんと、僭越を承知で結びつけている、というような気が最近する。縄文の音世界、縄文の土器世界、未来への希望である。土取さんのスパイラル・アームズ、土取さんと猪風来さんのコラボレーション、この大きな企画に関われる幸運、なんとしても実現したい。

2024-12-07

6日前の12月1日夜、名古屋のライブハウス徳三でおこなわれた、【土取利行&スパイラル・アームズ】のライブに想う。

 12月1日午後6時から名古屋のライブハウス徳三でおこなわれた土取利行&スパイラル・アームズのライブを体感して帰ってきて、体が、感動が新鮮なうちにわずかでも、記録としてきちんと打っておきたい、と思いつつ6日もたってしまった。

土取さんとの出会いから、たぶんこれまでの交遊年月46年間を想えば、ピーター・ブルックの舞台での音楽や、ソロライブ、ミルフォード・グレイブズとのコラボ、エリック・マリアとのコラボ、古武道とのコラコラボ、等ずいぶん体感し聴いてきた。

夢が原で私が企画した韓国の舞踊家、金梅子(キムメジャ)さんとのコラボ、同じ韓国のヴァン・スンファンプンムルダン(サムルノリ)とのコラボ、また添田唖蟬坊・知道の明治大正演歌、もう書かないが、ほかにレクチャートークも企画してしてきた。 だが、私があの夜体感した、土取利行&スパイラル・アームズのライブは、なんといっていいのか、今も言葉にならない、が何か打っておかねば。

これまでの土取さんの歩み(おおよそ55年)が、主にアジア、韓国、南インドやア西フリカの打楽器で、(多岐にわたり挑戦し続けて体得した異文化のその国の歴史を背景に存在する、文化遺産ともいえる打楽器の数々)演奏された。 現在、日本の音への探究が言葉となって溢れ、何故今パーカッショントリオ、スパイラル・アームズを20年ぶりに結成したのかにも言及された。のだが、だが、あの夜のライブの衝撃体験を言葉で記すのは私には到底不可能である。(だがわずかでも、五十鈴川だよりに遺しておきたい)

旅立ちは、フリージャズ、20代はじめニューヨークにわたってからの50数年の歩みが、演奏とともに、言葉でもって語られる。常識をぶち破る空前絶後のライブを、私は目撃体感した。土取さんの時に命をも顧みず、あの時代に異文化、アフリカ、インド、中近東の国々に飛び込み体得した未知の国の太鼓との出会い。武者修行、熱い思い出が奔流となって語られる。(終演後、ニューヨークに渡ってわずか3ヶ月の間に、生涯続いたミルフォード・グレイブズやピーター・ブルックほか、との奇跡的出会いが語られた) 私は土取さんのお話を聴きながら、自分のなかに湧いてくる言い知れぬ思いを押さえることができなかった。普通の一生活者として、今も限りなく学び、痩せた企画者として、時に折々背負いきれない思いも抱えながら、企画が続けられたことの幸運、我が人生に想いを巡らせ、今更ながらこのようにすごい真の意味でのアーティストであったのだという、唯一無二、前人未到の荒野を(未だ)黙々と歩む存在の神々しさに感銘を受けたのである。 一期一会のライブを体感できたことの幸運を、(この年齢だからこそ感じた、老いたなんて言っていられない)ただ五十鈴川だよりに打ちたいのである。

震撼するという言葉がある。雷に打たれるという言葉もある。年齢を超越するという言葉もある。まさに12月1日のライブは、そのような言葉がピッタリとでも言うしかない空前絶後のライブだった。老いるということを根底から覆すライブ、全身全霊、土取さんは輝いていた。 土取さんのドラミング、最後の久方ぶりのドラムセットでの演奏姿には、目頭が熱くなった。(悩み多き青春時代を生きていたある日、初めて土取さんのソロのドラミングを聴いた日の感動、からだと心の奥深くが揺さぶられた体験が甦った。若い私には衝撃的としか言えない、ドラミングの常識を打ち破る、パーカッションだったからである。私に限りない勇気を与えてくれたドラミングだった。遅まきながら私も世界に飛び出した) 未だ燃え盛る、老いつつも老いない、老いられない、何かが土取さんを突き動かしている姿を、私は眼底にしっかりと焼き付けた。なにゆえこのようなアーティストが生まれたのか。

お話も含め休憩なし、午後6時過ぎに始まり2時間半のライブ、メンバーの紹介が終わって、土取さんは再び語りはじめた。終わらないライブ。結局、新幹線に間にあわなくなるので、最後まで土取さんお話を聞くことが叶わず9時15分ライブハウスを後にし岡山までは戻れたものの、赤穂線最終には間に合わず、タクシーで我が家についたのが午前0時。タクシーで我が家についた。

PS 11月13日高松、14日岡山での打ち合わせの際に、来年春の企画、スパイラル・アームズのライブが2月1日名古屋であるとのことで、私はとにかく行ってきた。行って本当によかった。その日から今日まで、ただ私は生活労働者になり働いていたのだが、頭のなかではスパイラル・アームズのあの夜のライブが、渦を巻いて繰り返されている。10代、20代の若いかたに一人でも多く足を運んでもらいたい。そして老いてなお生きのいい方たちにも足を運んでほしい。そのための何ができるのか、何をしたらいいのか、師走じっくりと考える時間を大切にしたい。

2024-12-01

昨日、吉永町の八塔寺ふるさと村まで妻とドライブ、そして想う、12月最初の五十鈴川だより。

 今日から師走、月が変わる昨日今日と連続して五十鈴川だよりを打つのは珍しい。どんな日も一日には変わりはなし、24時間の、悠久の永遠の一日を人間は生きる。そのような極めて当たり前のことを、極めて個人的な徒然なる想いを、ただ記録的に打っておきたい。

お蕎麦やさんの紅葉が見事だった

昨日、妻と二人で吉永町の八塔寺ふるさと村まで、忙中閑ありドライブした。ほとんどは日帰り近場でのドライブ小さな旅なのだが、今年は今までの人生でもっとも二人だけで出掛けている。土日に仕事が多い妻とは、なかなか一緒に過ごす時間がとれないのだ。お互いに適度な距離感をもって過ごし、我々はその事を大切にしている。

が、海を見に行ったり、お花を愛でたり、歩いて散策したり、庭仕事、ストーブの薪作り、DVDを観たり等々、ともに共通して好きなこともかなりある。妻はまだ高齢者ではないが、ようやっと、枯れつつの老い楽時間を共有、過ごしている。それもこれも、お互い健康であるがゆえの晩節夫婦時間である。

さて話を戻すが、お互い人混みのなかは苦手なので、何度か二人で訪れている、私の好きな八塔寺ふるさと村に行ってきた。家を出たのが10時半過ぎ、戻ってきたのが午後2時、ちょうどいい加減の、小さな夫婦旅ができたことを打てばもうよしなのである。

だけどもう少し打つ。家を出て吉井川を遡り、和気町へ。そこから佐伯町の山間を走り12時前についた。その間わずかな車に偶さかすれ違うくらい。紅葉もほとんど盛りを過ぎて、山間部は道路に散り行く多種類の木の葉が舞い、物悲しいがこの風情がたまらない。万物は流転する。一時宇宙の地球で授かった恵みを生きる。私好みの絶好のドライブを堪能ができた。

できたのはいいのだが、着いたらお昼、以前やっていた観光施設が閉じていて無人、お昼をここですまそうと思っていたので宛が外れ、空腹を我慢して備前の方に帰ろうかと思ったのだが、草を刈っていた村人に尋ねると一軒のお蕎麦やさんがありやっていると教えてくれた。

たどり着き、中にはいると薪ストーブが赤々と燃えていてた。妻も私も一気に来てよかったと安堵、人心地ついた。窓からはほぼ最後といっていい鮮やかな紅葉が望め言うことなし、その上鴨南蛮やおこわのご飯がとても美味しく、手頃な庶民的値段で大満足した。

ふるさと村は、我が家のような平地とはやはり比較にならないほど肌寒く、くつろげる薪ストーブの暖かい空間から、紅葉を愛でながらの昼食、慎ましくも静かで幸福感が全身に満ちた。よき休日となった。

家に戻って少し横になり暫し本を読んで過ごす。夕刻我が家の薪ストーブに灯をともす。夫婦二人での夕食も娘たちが巣立ち、10年近くなる。


2024-11-30

11月最後の日の、朝に想う五十鈴川だより。

 今日で11月も終わりである。明日からは師走。取り立ててあえて打ちたいということもない。だがなにか一日一日を、できることならきちんと生きて、日々の整理確認をせねば、いわば煩悩がいまだ健在なのだと、いい方向に考える、かってな自分がいる。

ようやく学ぶのが楽しい

土取さんという、自分にとっては得難い交遊歴の蓄積の果てに、高齢者感を暫し蹴散らしてしまうほどの、ざわつきを、この3週間過ごしていたので、有り難き疲れが体を包んでいる。がしかし、心はどこか軽やか感に包まれている。でなければ、私は五十鈴川だよりは打てない体質である。

さて、くどくどは打たないが、ありがたいことに3週間じたばたしたお陰で、とりあえず私なりに来年に向けての肚というか、覚悟はよりふかまった。それはやはり想いがけない支援や応援の声に(これまでとは異なる新しい声が)、私自身が老いを暫し忘れ、漕ぎだしたからこそ出会えたからだと想う。冒険できる仲間と。

年齢はうっちゃっといて、新しい地平へと向かう勇気がなくなったら、私の場合決していいことにはならない。どなたかがいっていたと記憶する。仕事は楽しく、遊びは真剣に、が、モットーである。なにかを手放さないと、新しい地平は見えてこない。現状維持では企画者としては堕落である。

それなりのリスクを抱えないイベントは、私の老いをよけいに加速させ無惨にする。(気がする)その事の方を私は恐れる。何度も書いているが、音読レッスンとちがって企画は仲間が絶対に必要である。今回の企画に乗船してくれるチームの数は少ないが、強力なメンバーがこんなに短時間で見えてきたことが嬉しいのだ。すべてはハムレットが言うように、覚悟がすべてである。

土取さんとのワーク、猪風来さんとのワーク、話を受けてから3週間、老いの身で大きな企画を背負えるのか、幾ばくかの不安があったのは事実だが、次々と現れる応援のお陰で、いよいよ私の覚悟は深まる。黒澤明監督の言葉を爪のアカでも見習いあやかりたい。悪魔のように細心に天使のように大胆に。

この企画の始まりのメールを受けたとき、正直全盛期を過ぎている私に、この未来へ向けてのあまりにも大きな企画の趣旨、意図の輪に加わっての仕事が共有できるのか、できないのか、不安を覚えなかった、といえば嘘になる。が、内なる声が私に言った。その声を打つのは気恥ずかしいのだが、明日はない、今やれることに集中しろ、無我で現在の自分で勇気をもってやれ、というような内なる声を聞いたのである。

来年のことを言うと、鬼が笑うという。だが今の私には笑われても怖いものはない。健康であれば実現できる。仲間と実現に向けて一歩一歩前進するだけである。

2024-11-29

ハレノワのプロデューサーW氏が、来年4月30日ハレノワでの土取さんの自主企画ライブに仲間として参加、そして想う。

 11月14日午後、奉還町のカフェで行われた、土取さんのスパイラル・アームズ、来年春のライブに向けて第一回の打ち合わせがおこなわれたことは、記録として五十鈴川だよりに書いている。

じかに作品と対峙してほしい
その前日、13日高松で土取さんにお会いしたとき、たまたまハレノワのWプロデューサーのことを話すと、よく知っているとのこと。

私は東京で暮らしていた頃、もうゆうに30年以上も前、ひょんな経緯でWプロデューサーとは面識があり、そのW氏がハレノワのプロデューサーになり、とある岡山のライブハウスでばったり偶然の奇縁の再会をしたのが昨年のこと。以来、私が演劇をやっていた頃の先輩と、Wさんが友人であることがわかり、一気にライン繋がりとなっている。(ベタベタしないつかずはなれずの関係)

まあ、そのようなことがあって、14日の打ち合わせに、よかったらとお声かけしていたら、W氏は自転車で、土取さんに久しぶりにご挨拶したいと、駆けつけてくださったのである。

わずかな時間ではあったが、土取さんとの旧交を暖めたうえ、その段階ではスパイラル・アームズの公演会場はまだ決まっていなかったのだが、思わぬW氏の参加で一気に流れがハレノワの小劇場でやる方向に向かい、その場で後は日程、小屋に空きがあるかのかの確認を早急に、W氏がしてくれることになり、後日4月30日での公演が決まったのである。

そして昨日午後、サヌカイトをはじめ土取さんの大きな仕事を、この10年以上真摯に支え、今回の企画(4ヶ所、名古屋、京都、香川、岡山)の呼び掛け人である大鹿さんが高松からこられ、岡山での裏方を引き受けた私の3人での2回目の打ち合わせが、劇場の下見もかねておこなわれた。

ほぼ打ち合わせが終わる頃、意外な思いもかけない言葉がW氏から発せられたのである。それはハレノワの小劇場施設費用費を全額個人として負担したいとの申し出である。これには私も、大鹿氏も全くといっていいほどの予期せぬ言葉であったので、正直に驚いた。そして私も、大鹿氏もさりげないW氏の、施設使用費の欄を両手で隠すようなしぐさ、照れた表情に打たれた。有り難く嬉しく、お申し出を受けることにした。

W氏は言った。他ならぬ土取さんなので、なにかしら個人としてお役にたちたい、と静かにおっしゃったのである。これはよいしょではまったくない、長きにわたって劇場でお仕事をし、百戦錬磨の、プロデューサーとしての慧眼に、これはと感じる芸術家をおもう心情が伝わってきた。プロデューサーとしての矜持、肝心なときにそれぞれの立場で動く。見事である。これ以上は言わぬが花である。

いきなり強力な仲間が加わることになった。ベタベタしない自立した7人くらい自分の頭で考えて動ける仲間がいれば、事は動く。来年春のスパイラル・アームズのライブ、そして秋の、猪風来さんと、土取さんの縄文コラボレーション、何やらがぜんいいながれではある。が、若い未来の企画者、プロデューサーへとバトンタッチ。自主企画するイベンターが岡山で生まれてきてほしい。この二つのやりがいのある企画をなんとしても老人力で成功させ、時代の閉塞感に風穴を開け、若い方々に夢や刺激をあたえたい。(と夢見る)

PS これから来年の土取さんと猪風来さんのイベント実現に向けての推移についての折々の動きは、日々の生活の合間に、五十鈴川だよりに記録として打ち続けたい。

2024-11-27

スマホを持たない猪風来さんから、一昨日夜、夕食後突然お電話をいただいた。そして想う。

 今月はこのところの五十鈴川だよりのタイトルを見ただけで、まるで老人生活がどこかにいってしまったのではないかと、思えるような塩梅である。しかし、今月もその合間、実によく働いた。今月は残すところ30日の午前中のみとなり、今日明日は労働はオフである。だが打ち合わせや、我が家でのシェイクスピアのリーディング音読レッスン等の予定があり、お陰さまで充実した日々、外見は老人だが、内面は萌える晩秋生活といった体である。

素晴らしい、ミニ上映会をやりたい。

さて話を変える。一昨日夜、夕食後固定電話がなり、ひょっとしたらという思いがして、受話器をとると、案の定猪風来さんからのお電話であった。なにか、切羽詰まった感が伝わってきたので、暫しお話の内容、用件に耳を傾けた。その用件は記さないが、夜の夕食後の私の体は何度も書いているように、まるで老人そのものである。しかし、他ならぬ猪風来さんからの頼みである。受諾した。依頼の用件を26日夕方までに、ファックスかメールで送ってほしいと。

受話器をおいて、夜の疲れた老人の私の体は、一気にどこかにいってしまった。2階の部屋に直行、まずざっと鉛筆で下書きし、タブレットで打ち、一時間もかからずメールで送った。いつもは9時半過ぎには床につくのに、体は疲れているが頭が冴えて、いつもよりずっと遅く11時近くまで、ボーッと過ごした。

昨日午前中で仕事を終え、家に戻るとすぐスマホが鳴った。猪風来さんからのお礼の電話だった。その時、謙遜ではなく、お役にたてたことがまずは何より嬉しかった。何せ猪風来さんはスマホも持っていないし、メールも打たない。現代人ではあるが、限りなく文明の利器にはほど遠い、縄文人的仙人生活を送っている、現代の稀人である。

私など、限りなくこの現代消費文明生活に毒されている俗物であると、どこかで自覚しながら生きている。お金が心も体も全身を多い尽くしているかのような、現代都市型、消費文明生活に、できるだけ毒されないような生活を心がけている。(つもりである)

猪風来さんの40年以上にわたる、全身全霊で、家族全員で実践してきた現代文明からの脱皮を貫いてこられた、縄文人的生き方、その血のにじむ生活のなかで、土と水と炎で生成された縄文土器の偉業とでも言うしかない作品を前にして、私は言葉を失う。スマホなどのインターネット文明利器を、猪風来さんの縄文土器は凌駕してあまりある。

親子二代で成された縄文土器の結晶はこの行き詰まり(つまり人間が人間らしく生きてゆけないような構造のなかに放り込まれているつまり、お金に洗脳されて、心とからだが蝕まれているという現実)現代人生活からの、エクソダス、脱出の道を(未知)照らす。

今猪風来さんが、1986年北海道浜益に家族で移住、そこでの10年間を綴った家族生活の記録、【縄文回帰】という本を読んでいる。150ページまで読み進めたところだが、北の國から何てものではない。いきなり挑戦する自給自足生活の実践記録は、すさまじいものである。だが、痛快で清々しい。本人の嘘のない文章が余すところなく、まるで子供がおもちゃでキャキャような表現で綴られている。動植物の名前も実によく知っていて驚く。(私も富良野で2年10ヶ月をすごし、3度越冬した体験があるので、あの寒さが吹雪が、どのようなものであるのかがわかる。体験したものだけしかわからない)

長くなるのではしょるが、この本のなかには、現代都市型文明生活で失った、家族の根元的な愛の生活とでも言うしかない、細やかな野性動物や植物との共生讃歌が綴られていて胸を打つ。生命を喰う、いただくという厳粛な感覚。猪風来さんが自力で竪穴式住居を建て、そこで一人で煮炊きして、縄文の心をつかむために生活する。ある日立派な木製ベッドを作り、そこに浜益村で生まれ、4才になった原野君が一緒に寝るとお母さんにつれられてやって来る。

絵本が大好きな原野くんのために、ランプを増やして明るくして猪風来さんは彼が寝息をたてるまで本を読んでやる。竪穴式住居は分厚い雪におおわれていて暖かい。静寂と闇が支配する宇宙。絵本、他にはなにもない。愛があるだけである。自力で生きる力がないものは滅びるのである。宇宙の摂理、自然界の掟はかくも厳しい。(はじめてお米を収穫したときの歓喜、文章が弾んでいる)真の意味、全身で生きたものだけが体得できる喜び。

土取さんとの出会いなければ本も読まず、企画者の端くれにもなれなかったし、安易な都市型住民堕落生活で、きっと私は生を終えたに違いない。あらゆる執着を手放し、静かな生活を目指していた矢先での、12年ぶりの土取さんと企画者として再会、猪風来さんとも表面的な関係性から脱皮して、本質的に出会いたい。氏にとって役に立つ企画者でありたい。


2024-11-24

晩秋、お日様の日差しを浴びて、町内の溝掃除をした後、五十鈴川だよりを打つ。

 人の体、心は日々移ろい、生まれ変わり、生き返る。40才で岡山に移住して、心からやりたい仕事として、まさにやりたいことができる場所として、我が人生で巡り会えたのが【中世夢が原】である。そこで22年間も働けたことが、来年の土取さんへ向かえる、大きな支えである。

原野さんが10才で創った絵本、凄い

61才で中世夢が原を辞して丸12年、土取さんから私にとっては、身に余るお声かけをいただき、無知蒙昧であり、現世をいきる俗人の私が想うことは、40歳から企画者として一から中世夢が原で働き始め、なんとか22年、毎年様々な企画を実現してきたことの、下支えが、やはりあるからだと想う。自分が心からやりたいと思った企画は叶ってきたという、言わば根拠のない自信である。


だがあれから12年、時代の表層は全く異なっている。人工知能と人類の共生、狂気のボタン、核兵器がいっぽ間違えば発射されかねない状況があまりに不気味である。無人戦争兵器の開発競争、でくの坊の私にはあまりにも複雑怪奇な狂気をあおっているとしか思えないような、多国、地域での続く終わりの見えない戦争。

私自身の体も平和ボケしている認識がある。(だが私は戦争で他者を殺すよりもボケる平和、自由をこそ私は望む)そのような現代世界のなか、土取さんのスパイラル・アームズ、土取さん猪風来さんのコラボレーションは、まさに一瞬の閃光のように時代の閉塞感に風穴をあけ、なんとも言えない嫌な感じを照射すると確信する。その事が私を熱くする。

気候変動による、地震、火災、ゴミ、食料、人工、あらゆる人類問題山積課題、出口が見えない閉塞感の高まりが、おそらく全人類の心あるあまたの人々の心をおおっているのでは、とでくの坊は想像する。目も耳も塞ぎたくなるような、映像をいやでも瞬間瞬間見せられ続け一方的な報道を聞かされ続ける、私を含めた多くの庶民生活者の心が思考する回路が麻痺、いたずらにただ大きな流れに流されてゆく。このままでいいのか、いけないのか、何よりも自分自身が問われている。

絶望的閉塞感、出口なし時代、老人の私にとっての救いは、私より年長の孤高の芸術家、土取さんと猪風来さん、お二人との仕事を共有できるありがたさである。時代遅れ、時代についてゆく気もないでくの坊老人ではあるが、この私にとっての大きな企画が、来年無事に終わるまでは、健康で元気第一で望まねばとの思いである。

孤高の芸術家にほど遠い、孤低の俗人である私がやれることは、まず原点に帰る。夢が原で培ったことから始める。次に若い世代から学びながら、若い人たちにバトンタッチしながら、想像力を拡げ、これまでの方法とは異なる、多世代でのタッグを私は夢見る。

話は変わるが。私は夢が原で働き始めてから、夜眠れなかったことがほとんどない。70才、古稀を過ぎてからいまも、ありがたいことによく眠れる。お昼寝も入れ、ほぼ平均8時間寝ている。寝ないと私はダメである。日が沈んだらもう私の体は、まるで老人である。思考がほとんど働かない。だが不思議と一晩ぐっすりと眠れば、お日様が出ている間、特に午前中は五十鈴川だよりも打てるし、何よりも労働ができる。午前中、晩秋、初冬の日差しを浴びての労働時間は、私にとっては至福の思考時間である。動き働ける間は、土取さんと、猪風来さんとの関係性をより深め、何よりももっ謙虚に学ばねと、自省する。

今年は、11月に予定していた韓国への旅を断念することにしたのだが、12月半ば頃までには、両親のお墓参りだけはしたい。

2024-11-23

晩秋、来春土取さんの、スパイラルアームズ(ハレノワ)の公演、秋の猪風来美術館でのイベントに想いをはせる五十鈴川だより。

 休日だが、ほぼいつもどおりに起きる。五十鈴川だよりと銘打ち13年目に入っているかと思う。その間なん十回と打っているかと思うが、夜明けの、晩秋のこのなんとも言えない静かな一時、一人時間が私は好きである。部屋に差し込む光を浴びる。

静かに、珈琲をのみながら、どのような一文がつむぎだされてくるのかを、待つひととき、ささやか、いまここに存在している、生きていることのありがたき嬉しさに、でくの坊は想いを巡らせる。

猪風来美術館を是非訪れてほしい

もう大きな企画は打たない、打てない自分を自覚していたはずであるのに、精神的自給自足生活を過ごしたい、という老人ライフに軸足を移したタイミングに、よもやまさかの土取さんからのメールで、言葉にならないような日々を過ごすことになろうとは、私自身想いもしなかった。自分のいいかげんさにどこかあきれてもいる。

18才から世の中に出て幾年月、寄り道人生を、よたよたととぼとぼと歩み続け、いささかくたびれ、もう十分やり尽くした、このいまわの際の決意を、土取さんと猪風来さんはあっという間に覆してしまった。それはなぜなのであろうか。とてもではないが、言葉でもっては語りきれない。

確実に言えることは、土取さんとの出会いからの、関係性での蓄積と、猪風来さんとの、ご子息が召されてから後の、数度の関係性の深まりが、この未曾有の企画だけはなんとしても、という念に駆り立てられる。

お話をいただいて、十分老人を自覚している私のなかに、自分で言うのも気恥ずかしいが、タッグを組む相手次第で、時おり年齢を忘れたかのようなエネルギーが、どこからかわいてくるのが救いである。先日、五十鈴川だよりにコメントをいただいた松田さんが、私の行動にある種の執念を感じるとの指摘を受けたのだが、過分な言葉である。ハムレットが言うように、友人に頼まれたからである。

ともあれ、賽は自分に向かって投げられた、というようなおもいにとらわれながら、平日は普段どおりに労働しながら、できるだけ血の巡りをよくするように心かけ、思い付くことを昔夢が原でやっていたように、ノートに書き付けることから始めている。日本人のほとんどは、12月には入ると師走モードになるので、その間に私なりに時間を無駄にせず、有効に動こうと思っている。

音読は一人でもできるが、企画は仲間が絶対に必要である。突然の私のアクションに、縄文、えっそれ何?と。これまで私の企画や活動を応援してくださった方々も、正直に色々な反応をいただいている。無反応な方もおられる。それでいいのである。

中世夢が原を退職した後、土取さんからの依頼で2012年に、私の住む西大寺の観音院と、玉島の円通寺で企画した【添田唖蝉坊・知道】親子2代、明治大正演歌を歌う(あのフリージャズのパーカッショニスト土取利行さんが、おなくなりになったパートナーの桃山晴衣さんの三味線を弾き歌ったのである、心底驚いた)は、それまでアフリカ他、私が企画したイベントに足を運んでくださった人たちの、ほとんどきてはもらえなかった。

あのときはほとんど協力者がおらず、受け付け他、妻と長女が手伝ってくれ、なんとか乗りきったが、いまとなっては、個人でよく引き受け実現できたものである。でも今回は違う。反応が思いの外多く、その事が私には、意外といったら失礼だが、真摯にわがこととして受け止め、何が出来るのかわからないけれど、と、控えめながらも熱を感じる。鳥取在住のMさんは直感で身に余るコメントもいただき、応援カンパも身に余る。祈り、念じれば伝わるのだ。

来年は2025年である。土取さんと13年の時が流れ再び共に仕事がやれるとは、青天の霹靂思いもしなかった。土取さんはフリージャズから出発し、古代サヌカイト、縄文鼓、弥生の銅鐸、ピーター・ブルックの国際演劇センターの音楽監督を40年以上、一口では語れないほどの多面的な音の探求者である。来年春4月3人でのパーカッションユニット【スパイラルアームズ】、秋は10月、猪風来さんとの縄文でのコラボレーション。お声かけしてもらって、正直呆然とするが、もう後には引けない、のだ。

土取さんは前人未到の分野を黙々と歩む、音の旅を続ける現在の稀人、異能の人である。猪風来さんも唯一無二の縄文一筋50年、現役の世界最初の縄文土器造形作家である。お二人とも芸術家、音の放つ神秘的力、縄文土器の燃え立つ美に全生涯を打ち込んいる。私にできることは、一人でも多くの未来を切り開拓(ひら)いてゆく、生きてゆく(ゆかねばならない)若いか方に一人でも多く告知し、足を運んでもらいたい。年寄りだが資料持参で動くつもりである。

PS  11月からの五十鈴川だより、一人でも多くの方にお声かけ、拡散をお願いします。



2024-11-20

匿名の五十鈴川だよりへのコメントに答え、労働仲間Kさんのの応援に感謝する今朝の五十鈴川だより。

 11月4日、香川の大鹿さんから突然のメールをいただき、私のなかでは時間がまさに一気に流れて、ようやくちょっと落ち着いて五十鈴川だよりを打てるところまでは、きたという感じがからだをつつんでいる。

脱帽する猪風来坊美術館の活動記録

今朝の五十鈴川だよりは、先日猪風来美術館を訪ねた際のことを打った五十鈴川だよりに、ひさかたなかった匿名のコメントに対する、返信を兼ねている。私は生まれて初めて多いときには、ラインで繋がっている(ラインでは繋がってはいないが、大切な方もいる)20名以上の方々に、失礼も省みず、一斉送信なるものを試みたのだが、いまやってよかったという思いである。

一行であれ、絵文字だけであれ、20名に近い方々から、何らかのリスポンスが寄せられている。五十鈴川だよりにコメントをいただいた方を含め、私の想いや声かけに、反応してくださっている方がたにたいしての、これは私からの現時点でのお礼の五十鈴川だよりである。

企画者の端くれとして、なぜ高齢者のいま企画を打ち続けているのか。すでに打ったが、話が土取さんからのお話であり、そのご縁で猪風来家族の壮絶な歩み、まさに人生をかけて取り組まれた縄文世界探求の旅を、まさに時空を越えて、縄文人が蘇ったかのような人間に出会えたことの幸運が、企画を打たせる。一言、土取さんの企画、猪風来さんの企画を、我が事として共有し、その企画の輪に加わわりたい。(加われる幸運)

タイミングというものがある。体が脳が反応するタイミング。この年齢ならばこその反応と言い換えてもいい。もう私には何も怖いものがないのである。いまなら間に合う。全勢力で取り組める。体は高齢者ではある、がお金のことは(企画には時に家庭生活を脅かすほどの決断を強いられることがある。個人で企画するのだから)ともかく、いまの私は働いている(パートタイマーではあるが)これまでの人生でもっとも心と体が自由なのである。余裕があるといってもいい。

その私の 念いの輪を汲んでいただけるような仲間、メンバーがこのようにたくさんいてくださることが、とにかく私は心強い。老いのワクワク。これらのの仲間と共に、高い山に登る。私の肝は決まっているが、企画は一人ではできない。緩やかにこれらの仲間と、肝胆相てらしながら、様々なアイデアを持ち寄り実践し、関わるすべての仲間の情動がお互いが出会うことで、活性化する事がなんとしても大事。

肩書きや、経歴はまったく関係ない。この輪のなかに入り、何よりも自分が楽しいと思える感覚を共有できる仲間と(旧知の仲間ともきっと新しい関係性がより深く築ける予感がする)新しく私は出会いたい。

ここでいきなり話は変わる。長くなるから簡単に。共に労働して2年8ヶ月、仲間のKさんがいる。ウクライナの音楽を聴きに来てくれ、翌年の沖縄の音楽家、そして今年のマルセを生きるでは裏方として私を支えてくださったかたである。(その上チケットつきのカンパまでしてくださった)そのかたから何をしたらいいですか、とのメールをもらった。私は返信を打った。

そして昨日、私が猪風来さんからいただいた資料の数々を職場で見せると、パンフと猪風来さんのおなくなりになったご子息、村上原野さんが10才の時に書いた絵本(絵も文章も直筆、とにかく現代文明を根底から照射する、スゴい)を読みたいから貸してくださいと、持ち帰ったのである。

企画をなぜするのか。その答えの一部が私に返ってきた瞬間である。正直、今回の企画に彼が反応をするとは思わなかったし、私も無理して誘おうとは思わなかったのだが、意外といっては失礼に当たるが、本当に嬉しかった。

仕事ではなく企画に関わる一番の醍醐味は、やはり思っても見ない出来事が出会いによって生ずる、その事が私をしてきっと活性化する。この年齢でもにわかに、意外なことがわきおこる。それをして私の活性化、高齢者の贅沢時間とする。

来年の土取さん、猪風来さんの企画に向けて、県内の仲間、県外の仲間いずれも7~8人と連携、関係性を深めながらゆっくり進めてゆきたい。

2024-11-17

晩秋、猪風来美術館を訪ね、猪風来さんと語り合う、そして想う五十鈴川だより。

 年齢的な、たぶん疲労が体の奥から聞こえてくるが、何やらの打ちたい、打たずには余計に体が、変な疲れがたまってゆくように思え、今朝も打つ。

このような本を出されていたとは

さて、昨日五十鈴川だよりを打ち、朝食を済ませ、ひさかた訪ねていなかった、新見の法曽にある猪風来美術館を訪ねた。9時半すぎ家を出てちょうどお昼過ぎに、猪風来坊美術館につくと、猪風来さんが広い敷地の中央でたたずんで待っていた。そのたたずまいに、氏のこれまでの人生が凝縮されていた。

それから私は美術館を辞するまで、ほぼ3時間半、初めて膝を交え、猪風来さんのお話に耳を傾け、猪風来さんが、満を持して来年の秋にやる企画イベントに耳を傾けた。成り行き、あらましは土取さんから、伺ってはいたが、私としては何はともあれ、猪風来さんから、直接お話を聞きたかったからである。

(お昼、美味しい茹で玉子、美子さんお手製ののお結びをいただきながら、時おり合いの手をいれながら、ただ私は猪風来さんの念いに耳を傾けた)午後3時半過ぎ猪風来美術館を後にし家に6時についた。往復5時間の運転、現在の自分の体力も確認できた。

結果、昨日猪風来美術館を訪ねて本当によかったというおもいが、今朝私に五十鈴川だよりを打たせる。語らったことの、わずかでも打たずにはいられないが、それはまず無理だというおもいの方が先立つ。とは言うもののやはりその歯がゆさ、自分の能力のなさをいいわけにはしたくはない。

猪風来さんとの語らいの最後に、氏の造形縄文土器作品、奥さま美子さんのいま展示されている(11月1日から来年2月末まで)タペストリー作品、そして5年前あまりの若さで他界されたご子息原野さんの作品を猪風来さんに説明していただきながら、あらためて見いったのだが、その作品の放つ純粋な魂の息吹、に圧倒された、ことを一行五十鈴川だよりに打っておく。

そのひとつひとつの作品に込められた親子の縄文土器作品、美子さんのタペストリー、分けても、原野さんの遺作となった(完成してすぐ倒れられたとのこと)縄文のヴィーナスは私などの素人が見ても、あまりの造形美に、まさに時空を越えて縄文人がよみがえってきて、創ったのではないかと、思わせられた。(すべての作品に命への讃歌がねりめられている)現代人が失いつつある、命への畏敬の念の消失。

話は変わるが。猪風来さんから土取さんへ、来年秋のイベントのお話があり、そのお話が、私に伝えられるということがなければ、まず猪風来さんのお話を、何はともあれ聞くことから始めたいという、私の直感は正鵠を得たものとなったことを痛感している。

企画者の端くれとして、ささやかに可能な限りいつも続けていることは、アフリカでも、インドでも、沖縄でも、とにかく現地の臭いを嗅ぐ、土の臭いを、風を感じる。頭ではなく体で感じることから私の場合始める。

長くなるのではしょるが、年が明け、話が具体化する前に、現地で猪風来さんとお話ができたことは、有意義というしかないひとときとなった。もう大きな企画は無理だと思っていた私に、私より年長者である土取さんや、猪風来さんが、まさに命がけで生涯取り組んでこられている(こられてきた)いま現在の企画に声をかけていただいたありがたさが、今朝の体を包んでいる。

命の時間は有限である。土取さんや、猪風来さんの仕事に、少しでもお役にたつために、何ができるのかを、虚心に自分に問いながら、微力を尽くす覚悟である。

PS 企画者として、いただいた、猪風来さんのご本、原野さんの小説、資料、じっくり読み込みたい。

2024-11-16

11月13日、14日、土取利行さんと二日連続して、語り合える時間が持て、そして想う。

 土曜日、お休みの朝である。13日夕刻高松の駅のそばのカフェで、14日午後一時から、岡山は奉還町のカフェで土取さんとの打ち合わせ、そして何よりも旧交をあたためる貴重な時間を持つことができた。

1999年の出版、時代の先駆け

高松は私だけであったが、奉還町での打ち合わせには、香川からOさん、瀬政さんと義理の息子さんのSさん、それにハレノワのWさんが(私がお声かけした)急遽土取さんにご挨拶したいということで、計5名での、打ち合わせをかねた実りの多いカフェ時間を過ごすことができた、旨五十鈴川だよりに記録として残しておきたい。

細々、長くなるからはしょるが、来年春、土取さんが再結成したパーカッショングループ、スパイラルアームの公演場所を、先ずは岡山のどこでやるのかということと、日時を決めるということが話し合われた。

その件、予定していなかったハレノワのWさんが急遽短時間ではあったが、参加され、Wさんがまだ東京のセゾン劇場でお仕事をされていたときに、土取さんとは面識があり、他ならぬ土取さんなので、一肌脱ぐことになり、ハレノワの小劇場に春空きがあれば、ハレノワでやることに、話がすんなりと決まったのである。私としては、年内に場所と日時を決めるということからスタートだと考えていたので、思わぬ展開に幸先良し、と安堵した。

来年春のスパイラルアームの公演は、名古屋、京都、岡山、香川での4ヶ所でやることが決まった。そのひとつ岡山での公演を私が引き受けることに。後は名古屋から始まるツアーとの日程調整である。全体のマネイジメントは(共通フライヤー他)香川のOさんがする。

来年秋の、猪風来縄文美術館での公演に関しては、猪風来縄文美術館が来年オープン20周年を迎えるので、その記念イベントとして土取さんと何かやりたい、と猪風来さんからの依頼企画なのである。猪風来さんの思いを新見市が日時他まったく現段階では決まっていないとのことが、土取さんから聞くことができた。春のスパイラルアームの公演はあくまで土取さんの企画、縄文は猪風来さんの企画である。

猪風来さんの企画の思いを、新見市が先ずはクリアーした後、動き出すとのことで、現時点では来年の秋の日時もまだまったく決まっていないとのことなので、現時点ではそれ以上の展開にはならなかった。いずれにせよ、土取さんからO氏を通じてスパイラルアーム岡山での公演依頼メールがきたのが、11月4日、その日からまさにあっという間に、今日がきている。

もう大きな企画をやることはないと打った矢先の、我がいい加減人生の急展開、それもこれも土取利行という稀有な人間との出会い、交友(交遊)の蓄積の上に降ってきた、ありがたい出来事として受け止め、土取さんが活動するかぎり、私も土取さんとの仕事だけは引き受ける腹を決めたのである。

土取さんが何に突き動かされて、次から次に多面的創造活動を持続する能力には、時に畏怖しおののきもするが、ありがたき事と受け止める腹を決めたときに、私らしく引き受けるしかないとかたの力が抜けたのである。

それにしても、外見は年相応なのだが、話し出すと演奏するように淀みなく言葉が溢れる。そのエネルギーの根元は謎である。芸術への見果てぬ夢、限りない愛とでも言うしかない、と言葉にしてもせんないが、言葉にして五十鈴川だよりに打たずにはいられない。ひさかた、土取さんの変わらぬ言葉のつぶてを浴びて、前向きにたたずむ私がいる。



2024-11-13

辰年私の干支、残り一月半の朝に想う、五十鈴川打より。

 還暦から12年、考えてみると私の干支は辰年である。あまり験担ぎとかはしない私なのであるが、やはり年なのか、そういえば辰年、なのだなあ、とある種感慨深くなるのは、土取さんとは、やはりこういう巡り合わせなのかもしれないとの、タイミングの奇縁にある種の自分にしかわからない、想いが沸き上がるからである。

3月23日からマエストロに聞けが始まり、平行してマルセを生きるの企画を進め、合間4月土取さんの香川でのサヌカイトの演奏会を聴きに行き(その事は4月19日の五十鈴川だよりに書いている。是非読んでもらえると嬉しい)、長くなるのではしょるが、共演したチェロ奏者(これまたすごいというしかないない演奏者)エリック・マリアと土取さんと、私の3人で、一枚記念写真を撮った。 その一枚の写真は、土取さんが幼少期を過ごした多度津に近い空海ゆかりのお寺で、サヌカイトの演奏会の翌日、チェロのエリック・マリアが、空海に奉納する演奏会(関係者のみが聞き入った)おこなわれた後、私と土取さん、エリック・マリアとの3人で記念の写真を撮った際に、(なぜか私が真ん中)なにかまた企画をすることになるかもしれないと思ったからである。土取さんからの依頼を受けたときに,何故かそのことが思い出されたのである。 話は変わるが、69才になって一月後、私は人生ではじめて大小併せて一度に3回の手術を体験し、無事に3月23日生還、退院しあれから3年、まもなく3年8ヶ月になる。退院後、3ヶ月に一度の定期検診を続けているが、今日は午前中その検診日である。(というわけで五十鈴川だよりが打てている) あのとき、手術を受けた際に感じたこと(悲しいかなヒトは自分のことして体験しなと何事もわからないのかもとの苦い認識)、命について以前にもまして、ずっと深く考えるようになったことは間違いない。生きているだけで、とにかくありがたい、という感覚を3ヶ月事におもい出すのだが、その事を私はありがたく想う。 コロナのもっとも大変な時期に、よき先生に恵まれず、手術が遅れ、タイミングが悪かったら、きっと私は今ごろこのように五十鈴川だよりを打ってはいない。退院後、本当に私は以前にもまして(自分で言うのは気恥ずかしいのだが)、年齢的に、一日一日を大切に過ごすようになった。70才でウクライナの音楽家、71才で沖縄の音楽家、今年はマルセを生きる、古稀を迎え3年連続企画をすることが叶ったのは、私にとってのはじめての大きな手術体験がなかったら、まず実現しなかったに違いない。 また、この間新たにふたりの孫が私に与えた命の精妙さの(今も)不思議、命のはかなさ、フラジャイルさ、だからこその尊さを、老いの身に知らしめる。だがよきにつけあしきにつけ、ヒトは忘れる。私もまたそうである。また忘れることもまた重要である。その絶対矛盾の狭間を私はたゆたっている、という認識から逃れられずにいる。(自己正当化だとも想う)だがヒトは己の運命を受け入れ時に抗い、いやでも生きてゆく他はない。 話を戻す。そこで降ってきた土取さんからの依頼、正直私の今の生活のなかで、何が可能か、創造的に関わるには、、、。これまで何回か土取さんを企画してきたが、あの頃とは時代はまったくといっていいほどの、変容ぶり、私ごときに何が可能か。単なるお手伝いではなく、老いのみだからこその役割を想うとき、孫たちがそっと私の背中を押してくれるような気がしてならない。それは私の孫たち、という狭義の意味では毛頭ない。 未来の人たちのことを想うとき、私の理解や想像を越えた未来を感知しているかのような、単なる音楽家という範疇を、ずっと昔から真の意味で逸脱するアーティストとしての歩みの集大成的な、土取さんからのアクションに(それは猪風来さんも同じである)私もまた心から参加したい、かかわりたいとの意気を見つけたのである。正直、第一報メールをいただいたときは、ハムレットのように揺れたのである。 だが、いま私の心はゆれていない。これは仕事ではない。生活者としてずっと企画してきたというささやかな自負がある。小さな企画であれ何であれ、腹落ちしないと私の場合エネルギーはわいてこない。明日土取さんが岡山にやって来る。すべてはそこからである。

2024-11-10

晩秋、老人は荒野を目指す、【マエストロに聞け】参加者からの予期せぬリスポンスに励まされる今朝の五十鈴川だより。

 すっかり日の出が遅くなった。晩秋のこの季節が私はことのほか好きで、分けても休日の朝の静かな時間帯をこよなく大事にしている私である。昨日、ちょっと土取さんとの出会いなどを、五十鈴川だよりに打ち、長くなりそうだったので、続きは明日打つことにしたら、あっという間に、今朝が来たという次第。(昨日午後玉ねぎの苗を300本植え、頭を冷やした)

岡山に移住する前の宝のポスター

昨日午前中、五十鈴川だよりをアップした後、ラインで3日連続ロングメールを打ったのだが、わずか一日で、新たに何人ものかたから、応援メールをいただき、それぞれのかたには、今日を含め、返信メールを打たねばとは思っている。

瀬政さん、河合さん、京さん、ヤナセさん、大場さん、Iさん、Yさん、Mさん、Gさん、Nさん、Wさん、Aさん、Hさん、娘二人を加えると、15名のかたから、励ましや、何らかのお手伝いを(皆さんそれぞれの生活を抱えながら、困難な時代のなか)したい、遠方だけれどなにか力になりたい等、メッセージが寄せられている。

ロングメールの度に、ショートリスポンスをくださるかたもいて、短長の文面ではあれ、その方のお人柄の現在感覚(人はそれぞれの場所で変容しながら生きている)が自ずと浮かび上がってきます。(五十鈴川だよりを打つものとして、応援メールをくださったかたに、この場を借りて心からお礼申し上げます)

すべてありがたく、アクションを発信しなかったら、決してこのようなリアクションはいただけなかったかと言うことを勘案すると、改めて私はなぜこのようなアクションを起こしているのだろうと考えなくもありません。仕事でもなんでもなく、ただ土取さんからの依頼だというだけで、この年齢で、なぜかくも心がざわめきたつのかは、やはり土取さんだから、というしかありません。

土取さんのことを知らない、知ってはいてもまったく関心のないかたには、脳が動かないのが当たり前、それが自然なのである。私としては、反応のある方々との裾野が拡がってゆく、見果てぬ夢を面白くいきる、ささやかでも粋のいいエネルギーを結集したい。金銭等の力もさることながら、私を含め、いっぱいいっぱいの日々の生活のなかでの、このようなリスポンスこそが、私にエネルギーをくれ、ある種の思いもかけないアイデアが浮かぶ、ぎりぎりをサーフィンする、面白がる。

リスポンスのなかでとても嬉しかったのは(全部嬉しいのですが)今年3月から、おおよそ4ヶ月、10回程度シェイクスピアのリーディング音読、【マエストロに聞け】に参加してくださったかた、(河合さん瀬政さん以外の参加者)3名からリスポンスがあったことである。

その中のひとりHさんからのリスポンスは、まったく意外で、これだから人間は面白いと言う他はない。このかたは、シェイクスピアのリーディング、カラオケの延長みたいに、とにかく声が出せればいい、ただ音読してみたいくらいの、のりで参加されており、私のようなシェイクスピアへの偏愛はまったくない方でした。その上お仕事の都合等で毎回の参加は非常に難しい方だったのですが、レッスンに参加された時は、つっかえつっかえしながらも、必死に声をだされていたのがとても印象に残っているかたなのである。その思いもかけないかたからの、わずか一行、いただいたメールは、私を感動させました。

私はイデオロギーも何もなく、根のある風のように生きて行ければそれでよし。ただし、これはという友達のためなら、ハムレットが言うように、例え藁しべ一本のためにも腹をくくって挑む(これはあくまで理想です)。という生き方に憧れる。(多分に父親の影響もある、誇りをもって人がやりたがらないことをやれという、言わば家訓のようなもの、私はとても古い人間なのである)

生来の感動するバネのおかげで(ありがたいことに)なんとかこの年齢までたどり着き、いまこのようなお話を土取さんからお声かけいただけているのだとの認識がある。Hさんからの一行のリスポンスが私に五十鈴川だよりを打たせる。Hさんとはお茶を飲んだこともなく、我が家に来ていただいたこともなく、お話をしたことさえありません。だけれども、きちんと生活されておられる方、というのが今も私のHさんに抱いている印象である。

マエストロに聞け、のレッスン、(今現在の私の中から湧いてくる情熱のすべてを出し切ったので、思い残すことはない)いただいたメールふたり目、Yさんは、うちの長女と同世代、二人のお子さんを抱え、お仕事子育て真っ最中なのに(いつの日にか時間がとれるようになったら再びレッスンしたいとのこと)私のレッスンに果敢に挑んでくれ、とてもよい印象、磨けば変身する可能性を感じさせる方でした。時間の許す範囲で当日スタッフとして、とありました。3人目男性Gさんから昨日いただいたメール、これまた前向きな応援メールでした。

【マエストロに聞け】全10回のレッスン参加者からいただいたメールを読み、想うことは、シェイクスピアのリーディング音読を通じて、なにがしかの私の存在意義のような思いが伝わったからこそいただいた応援メッセージだと、改めてレッスンをやってよかったと思う。

人と人との関係性の深い構築は、一朝一夕に叶うものではなく、お互いをさらけ出し、ぎりぎりのところで踏ん張る力をその人なりの力で、おりおりは致し方なくあきらめながらも、再び力を蓄え果敢に挑んでいくことを繰り返した仲間との共有関係のなかでしか育み得ないというのが、私の正直な認識である。

そういう意味で、今年マエストロに聞け、がなかったら出会えなかった方たちからの応援メールは、私の土取さんとのコラボ実現に向けて新しい風を運ぶ。当たり前だが、ドアを叩かないとドアは開かないし、ドアを開かないと新しい風は入ってこない。河合さん、瀬政さん含めマエストロに聞けから5名もの応援前向きメール。やはりシェイクスピアは守り神である。ワクワクときめかないイベントは、ごまめの歯軋り、私にはできない、(のである)。

2024-11-09

土取利行さんから、来年岡山での公演企画の依頼を受け想う、今朝の五十鈴川だより。

 わずか一週間もたたないうちに、というか、前回の五十鈴川だよりから5日後に、まったく心持ちが、こうも変わるかのような五十鈴川だよりを打つことになろうとは思いもしなかった。

というのがまったくオーバーには思えないほどに、一寸先まったく予期しないメールが、年の瀬というにはちょっと早いが届いて、何やら一気に私の中の老人気分がふっとんでしまって、さてもさてもどうしたらいいのか、老境のハムレットの心持ちで、思案のしどころ、いまも打ちながら、ありがたい気持ちを抱えながら、五十鈴川だよりをとにかく打っているところである。

8年前偶然見つけた本いつもそばにある


長くなるので要点だけを打つ。そのメールは、香川在住のこの数年、多度津出身の音楽家である土取利行さんの企画、浜辺のサヌカイトのライブ(映像に遺してあるが素晴らしい、岡山で上映したい)チェロのエリック・マリアとのサヌカイトのコラボ(今年の春そのライブをみる聴くことは叶ったが、言葉がないほど素晴らしかった。五十鈴川だよりに書いているので読んでもらえると嬉しい)などを全面的にサポートしている大鹿(実名です)さんからのものであった。

用件は、来年土取さんが、来年岡山で春にパーカッションのグループ、再結成したスパイラルアームの公演を、秋に縄文のイベントをやりたいので、是非協力してほしい、来週岡山にゆくので時間を明けてほしいとの依頼メールであった。

もう私のなかで、大きな企画はしないとのシフトチェンジしたおもいを、五十鈴川だよりに打って、まもなく届いたメールであったので、正直一晩私はない頭で思案にくれた。

土取さんとの衝撃的な出会いは26才、25歳初めての異国の地、ロンドン遊学の時である。数々の思いでの中の白眉である。今は亡き20世紀が生んだ偉大な演出家ピーター・ブルック国際劇団の舞台音楽(個人的な音楽活動とは別に、40年以上、最後まで続けた)、アルフレッド・ダリ作、ユビュ王である。

開演前一人ドラムセットに土取さんが座っている。土取さんの演奏で芝居が始まる。舞台は明るい。ピーター・ブルックの名著、何もない空間、そのままである。ドラムセットの周りには見たこともない楽器の数々(今ならわかる)笛や鈴などなど、アフリカはじめとする世界各地の民族伝統楽器が置いてあり、シーンシーンを即興で演奏するのである。演奏しないときは一観客になり笑ったり、自然に反応する。

(私はピーター・ブルックの夏の夜の夢を二十歳くらいの時、東京の日生劇場で観て、そのあまりの斬新さに、若かったしビックリし、そしてシェイクスピア作品だけを演出する演出家だと思っていたので、当時、その事にまずは驚いた。現代演劇としてのシェイクスピア、ピーター・ブルックの存在を知らなかったら、私は恐らく土取さんとのまさに演劇的な出会いはなかったであろう)

打っているとテムズ川の対岸のヤング・ヴック座、ありし日の若き土取さんの軽やかな、チベット僧のような姿で、ドラムスティックを常に右手にもちながらロンドンの街中を歩いていた姿を忘れない。

舞台から、しなやかというしかない、細身の体から放たれる宝石のような珠玉の音のつぶてを浴びた私は茫然自失し、あのピーター・ブルックの音楽を日本人がやっていることに、心底驚いたのである。終演後、怖いもの知らず、楽屋に土取さんを訪ねたのが、出会いである。

土取さんは夕食にピカデリーの菜食レストランに私を誘ってくれ、未知の国の音楽、分けてもアフリカやアジアの音楽、西洋音楽との相違をとうとうとわずかな時間私に語ってくれたのだが、その事が以後私に未知の国を訪ねる契機の種になったことは間違いない。

あれから、47年の歳月が流れ、ある種どこか感無量の思いが去来するのだが、とにもかくにも、我が人生で出会えた稀有な人間、そして言うまでもなく、私の人生にいまもって大きな影響を与え続けている存在である。

私はもう臆面もなく老人である。しかし土取さんは私より年長である。その方がお声をかけてくださるのは甚だの誉れではある。わたしに何が可能であろうか。謙虚に私は問う。そして大きな企画に関わるシフトチェンジを暫し延長することにしたのである。

ただ、土取利行さんでなかったら、多分これほどのエネルギーはわいてこないだろう。土取さんが全人生をかけて、今も果敢に挑戦している姿を前にしては、古いけれど男子として情けないのである。私の思い。情熱のある若い人たちにに土取利行という芸術家、私が大いに啓発され続けているアーティストの存在の多岐にわたる(それぞれの年代で取り組んだ)歩み、軌跡を知ってもらえたら、ということを思いついたとき、老人の私の体にスイッチ(オン)がはいったのである。

続きは、明日打つことにします。

2024-11-04

朝の秋の光を背中に浴びながら、3日連続打つ成りゆき五十鈴川だより。

 昨日午前10時過ぎから、午後2時までかかって妻と二人でサツマイモの収穫を終えた。思ったよりも立派な大きなサツマイモが多くて驚いた。大中小バランスよく成育していて、大満足であった。その事を打てばもう他にはあえて打つこともないのだが、小器晩成、老人の打つ楽しみ、五十鈴川だよりを育みたいという意気、生き甲斐は今しばらくは手放せない。

天の恵みサツマイモの収穫

秋真っ盛りのこの3連休、家の近所と図書館、それにお芋の収穫で過ごすことになりそうである。行楽地に妻は出掛けたいとは、ほとんど言わないし、繕い物をしたり、とにかく家のなかで過ごすことが、苦にならないタイプなので、すっかり私も彼女の生活ぶりに馴染むようになってきつつある最近である。だから以前の私では考えられないほど、行動範囲の狭い生活を、楽しむことが出来ている。

その一方、やはり私は旅好きであり、ちょっとフラり文庫本をもって風来坊になりたいという、生来の気質は多分体が動かなくなるまでは、やめないだろう。幸い妻はそういう私の行動にまで踏みいってはこないのでありがたい。(お互いが手放せない存在では在るが、自律した個人の領域までは干渉しない。そもそもまったく異なる人格なのであることを尊重し、共存するというのが、老夫婦の我が家の風通しのいい関係性である)

去年は近い外国、韓国のプサンを20年ぶりくらいに、つかの間ひとり旅をすることができて、実に有意義な旅となった。あの旅、当地の素晴らしい若者たちのサポートで、日々五十鈴川だよりに打ったので、読み返してはいないが記録として残っている。あのような気持ちのいい小さなひとり旅を、今年もしてみたいとは思うが、できるかどうかは未定である。

さて、昨日のサツマイモの収穫で思ったことだが、還暦を迎え、(そして中世夢が原を退職して)12年、よもやまさかこんなに土に親しむ生活を送るようになるとは思いもしなかった。そして、3人の孫に恵まれることももちろん思いもしなかった。

成り行きという言葉がある。18才からまるで成り行きという言葉しか浮かばないくらい、20代、30代転機の折々で、行動選択しながら、今に至っている私の人生である。なにか成り行きという言葉はよいイメージがともなわないような気がしていたのだが、いや私ばかりではなく、あの天才立川談志が、人生成りゆきという本を出されているし(読んではいない)、養老孟司先生も自分の人生は成りゆきだとおっしゃっておられたので、私としては大いに慰められている。

これから一回り12年後、私が生存しているかいないかはともかく、はっきりしていることは未知だからこそ人生は面白いのだし、先のことなど誰ひとりわからない。2023年が始まって10ヶ月が過ぎた。今年は私にとってずいぶん意外なことや、思いもしなかったことが次々と起こっている。その事を面白くいい方向にと。今年も残り2ヶ月しっかりと生活したいと思う私である。

PS 昨年秋プサンの場末の宿に近いところに市場があったので、何度もその市場で庶民のランチや夕食を一人でし、その市場で最後に買い物をしたのだが、その乾物やさんのお店の店番の40才くらいの(30代かもしれない)女性の人がとても感じがよく、あれこれ考える旅人のわたしに辛抱強く対応してくれ、商売っ気なくよい品を薦めてくれた。あの乾物やさんをもう一度訪ねたいという思いが私にはある。私の旅はガイドブックにはない。高齢者なのだから、異国への旅は春か秋にしたい。

2024-11-03

妻とアルバイト先に植えているサツマイモの収穫に出掛ける前の五十鈴川だより。

 昨日雨が上がったので、夕刻読み終えた本を返しに図書館に行き、新たに本を5冊ほど借り、ついでにいつも裸足散歩を(雨上がりで所々水がたまっていたが)暗くなる日没6時前までの数十分運動公園でした。裸足の老秋、清々しい気持ちになれる黄昏時の一時。

朝から夕刻まで部屋にこもっていたので、夕闇迫る天を眺めての、極楽とんぼ裸足散歩は今や私の生活のなかでは欠かすことができない。よほどの雨ではない限り、休日家にいるときは、この数年持続している。

佐藤優さんとの友情が素晴らしい

働くことも、すべてのことに言えるが、続けられるのはやり終えたときに、それなりの自分にしかわからない達成感と、(裸足散歩に達成感とはちとオーバーだが)喜びとある種の気持ちよさがあるから、続けられているのだと想う。あえてその事を敷衍して付け加えると、人間だから気持ちが上向かないこともあるし、本質的に私は怠惰であるとの自己認識がある。流されやすい。

だから、そういうときにはあえて、少々無理をしてでも、気持ちを押し上げるためにも、わずかであれ体を動かし続ける。そうすると体は不思議と動き始める。働くことも音読することも、旅をすることもすべては老いつつ体が喜ぶことしか、今の私には興趣がわかないのである。

(打っているこの部屋に、秋の朝の日差しが一気に差し込んできた。今日は文化の日であるが、アルバイト先に植えているサツマイモの収穫にゆく予定である、文化の日とは何か、改めて自分に問う)

生活のあらゆるシフトチェンジを、このところゆっくりと進めているが、分けても大きなリスクを背負う企画をするということからは、たぶんよほどのことがない限り、今後しないだろうと想う。(イベントのお誘いも古希を過ぎたので義理を欠くことに決めた、妻との時間を最優先する)

いつものように話を変える。この半世紀以上生活しながら、生きる糧として、少しでも無知蒙昧からの脱却と夢を育む読書、体が喜ぶ読書を現在も続けて来て、五十鈴川だよりではほとんど触れていない私が大好きな、人間として畏怖する、爪の垢でもあのようにいきられたらと憧れる人間に、女優であり作家に高峰秀子さんがおられる。

初めて読んだのはもう思い出せないが多分本が出てまもなくだから、私がまだ20代であったかと思う。タイトルは【私の渡世日記】読み出したら止められないほどに、波乱万丈、劇的な人生が綴られていた。とにかく自分のことではないから、読み物として存分に堪能した。以来高峰秀子という名前は、私のなかでは単なる女優ではなく、ひとりの人間、分けてもものを書く人、粋で無駄のない、つまりは文は人なりという言葉がもっともいい得ている作家として、私の胸のなかで今も生き続けている。(その上料理が抜群に上手い。そのすべての情熱は夫、松山善三氏のために作られる。なんという夫婦関係の出会いからの数奇な運命)

お亡くなりになって久しいが、松山家の養女の松山明美(養女に迎えられるいきさつがこれまた泣かせる)さんが、次々と高峰秀子さんの人間としての素晴らしさを伝えるご本を出版されている。足跡を展示する(写真展等で)イベントも定期的にやられている。(ようである)

なぜ、このようなことを突然打っているかというと、米原万里さんという作家がおられた。ロシア語の通訳者、翻訳家で、何冊か読んだことがあり、2006年の5月、ご病気で早逝されている。高峰秀子さん、米原万里さん生まれ落ちた時代も、お仕事もまったく異なるジャンルの方ではあるが、本となって遺された文章を、改めてゆっくり読むと、その素晴らしさに打たれるのだ。うまく言えないがお二人には共通する(質は違うが)独特の人間としての魅力がある。

高峰秀子さんの映画、二十四の瞳を小学生の頃田舎の映画館で見た記憶がある。亡き母が大好きな女優であった。多分同世代。高峰さんの代表作映画、浮き雲なども探して観たくなった。米原万里さんの本で、すでに17世紀にクリミアをめぐっての争い、ロシアとウクライナの複雑な歴史の一端も知らされた。

また庶民兵士にとって黒パンの重要さが、日本人の梅干しに相当するほど大切な主食であることなど、目から鱗のように知らされる。だから、老いても本が手放せない。老いてもの一番のありがたいことは、人生で出会えた、最後まで手放せない人や自分にとって大切な書物に囲まれて限られた時間を生きることである。


2024-11-02

読書の秋に、徒然想う五十鈴川だより。

今日から 3連休である。そして、早11月である。昨日から降り続いた雨が今は止んでいる。先程メル散歩から戻ってきてところ、空は一面どんよりと重い雲が垂れ込めている。とりたてて打ちたいことがある日も、打つことがない日も、調子がいいときも、調子の意気が上がらないときも、お休みの日は何かを綴り打ちたい、老人である。

教わることが染みる秋

さて、今年もあと2ヶ月となった。このところ佐藤愛子さん、高樹のぶ子さんの長編小説を立て続けに読んだ。いずれも(エッセイとうは読んだことがあるが)小説は初めて読んだ。そして宗教学の専門家であられる山折哲雄さんの【我が人生の三原則】という御本を読み終えたばかりである。この方の本もようやく初めて読んだ。

とりたてて打つことは思い浮かばないのだが、一言打ちたいのは、博学、博識のその道の専門家のご本、真摯な学識に裏打ちされた文章は、ぐいぐいと引き込まれて読み進むことができ、わずか二日で読み終えた。私にしては本当に早い。

今思うことは、手にして、このような本に巡りあえて本当によかったという単純な思いである。私より年長者で若い頃から学徒として宗教学、思想史を学びながら、ご自身様々な病を体験され、生き返るかのように生還し、学ばれた成果が80才を過ぎてから出されたこの本にはつまっている。何よりも学者が書かれたとは思えないくらい文章がわかりやすく、簡潔、無駄がない。

お三方分野は異なるが、50年以上生き方が一筋、(佐藤愛子さんは90歳を目前の時の小説)人柄が浮かんでくるお仕事ぶりに深く頭を垂れ、静かに脱帽する。いちいちの内容には触れない。もし読んでみたいと思われるかたがいたら、ご自分で手にしてほしい。唯一の自分の現在の心と体で味わうのが一番である。

古典、シェイクスピア作品であろうが、今の高樹のぶ子さんの作品(高樹さんの古典への思い、日本語への思いがすごい)であろうが、一度で理解できるほど、やわではない。山折哲雄先生の本、佐藤愛子さんの本、共通するのはこれから私が明日を迎え、老い路を豊かに生きてゆくためのには欠かせない、心の栄養になるのは間違いないと、思わせられた本であるからこそ、五十鈴川だよりに打っておきたい、ただそれだけである。

老人と若者の違いは(突然のアクシデントがない限り)年よりは若者より確実に死が近いということである。歳を積むことは、死を年年歳歳身近に感じることが深まってゆくということだと思う。若いときにメメントモリとう言葉を知ったときには、食うことが精一杯でとてもではないが、死を身近に感じる(感じることは感じていたと想う)ことよりも、ひたすら現在を生きるしかなかった。だが今はまるで違う。いやでも死を意識する年齢に入ってきたし、考える余裕がある。その事を前向きにとらえ、生きて行きたいのである。

(歳をとったなどという暇もないくらい、佐藤愛子さんは別れた夫の借金を返すためにためにひたすら小説を書き続け借金を返済、あっぱれ。気がついたら歳を重ねていたというのは例外中の例外、だがこういう女傑が私は大好きである)

と、ここまで打ってきて、このまま打つとまるでまとまらない五十鈴川だよりになるのは避けたい。要は読書もシフトチェンジ、一度きりの人生は確かなので、夏目漱石の小説他、これまで題名だけしか知らなかったかたの代表作を中心に、他ジャンルの書物の海を泳ぎたいと、ささやかに思うのだ。一回限りの人生ではとても読みきれないことは承知している。あくまで休日の過ごし方の範囲の中での読書で思うことである。

なんといっても、今現在の生活のなかで私が一番大切にしていることは、私と妻、二人の娘たち家族の家庭の生活である。そして母が時おり言っていた言葉、本を読むばかりが人生ではないと。あくまで己が生きてゆくための読書である。

PS 明らかに・あきらめて往く・もくもくと・ひとり草刈り・秋風がしむ。


2024-10-31

37回目の結婚記念日と、瀬政さんとの二人だけのシェイクスピア作品のリーディングレッスンに思う、朝の五十鈴川だより。

 今日は37回目の結婚記念日である。だからといって特に書きたいことがあるわけではないのだが、何とはなしにこういったことを、臆面もなく、能天気に打つ、打ってしまう自分がいる。このような、おそらく他のヒトにはまったく関係のないことを、打っても多くのかたは、関係ないと、受け止めてしまうであろうことは、打っている私も自覚している。

日本語の奥深さ雅さにしびれる

わたしの両親の結婚記念日を私は知らないし、そもそも我が兄弟5人は誕生日を祝ってもらったこともない。時代と我が家の家庭環境が、そういう余裕がまったくなかったからであろうと思う。

が私はその事で、私自身を不幸だと思ったことは、幸いなことに一度もない。(そのような家庭環境の子供たちは、回りにたくさんいた。我が家よりも貧しい家庭を私はたくさん知っていたし、その現実を目撃していたからだ)その上我が姉兄弟5人は、保育園も幼稚園にも通っていない。現在、姉兄弟5人元気にいまも元気に暮らしている。その事に対する平凡な感謝の念はただ一言、ありがたいという言葉しかない。

(思い出せる幼少期や少年期のことも、記憶のあるうちに努めてこれから折々打ちたい)

話を戻すが、こうやって我が結婚記念日を、能天気に五十鈴川だよりに打てるいまを、ありがたいことだとただ思い、思うだけで特別なことをするわけでも何でもない。わたしの両親はただ生活に追われ、結婚記念日など思い出す余裕もなかったことに、ただ思いを馳せる。

歳を重ねると、思いでだけが何故か光を帯びて来るようになる、これまでは思い出すこともなかった記憶の奥底にしまいこまれていていた出来事のあれやこれやが不意に蘇ったりする。つまりはその事が老いるということなのだと、最近とみに実感する。

辛かったり、苦しかった出来事も、もうすでに過ぎさっているのだし、その事を通過乗り越えてきて、いまとなっては甘美な思いでではなく、事実のどうにもならない出来事であったにせよ、こうやって能天気に五十鈴川だよりを打てる生活が送れている現在を、在りがたしと思うだけである。

人生の達人であられる、五木寛之さんだったと思うが、歳をとったら思い出に生きる。思い出がたくさんあるのはとてもいいことだとおっしゃっていた。思い出に耽る健康法のような生き方を私はしたいと、さいきんにわかに思うようになってきている。このよなことを打つと何やら後ろ向きのように思えるが、思い出すことで、にわかに現在が生き生きしてくるような、思いで健康一日ライフの実践で、また新たな出来事が紡ぎ出されてくるようにも想えるのだ。

ところで、昨日午後、瀬政さんと二人だけのシェイクスピアのリーディングをした。ベニスの商人の4幕5幕を音読し、読み終えた。何度も打っているが、まったく一から、71才からシェイクスピア作品のリーディングに飛び込み、間違いの喜劇・ロミオとジュリエット・夏の夜の夢・ハムレット・ベニスの商人と、たぶん今年すでに5作品のリーディングを完了したはずである。黙読ではない、他者、私との音読である。

お世辞ではなく、たいした挑戦力であると思う。その勇気にちょっと打たれる。明らかに以前私が氏にたいして抱いていたある種のイメージを、氏は破ろうとしている、かに見える。殻を破る、破れるのは自分という不確かな器しかいないのである。

長くなるからはしょるが、秋の午後、二人だけでの、月に一度か二度のシェイクスピア作品のリーディングレッスン。このペースでのリーディングであれ、塵も積もればなのである。丸太を一本一本積み上げるように、確実にシェイクスピアの珠玉の作品をリーディングすることの喜びを改めて感じている。

もし、氏が私のリーディングに参加しなかったら、秋の午後、シェイクスピア作品の我が家でのリーディングは実現しなかったであろうし、なかなかベニスの商人のリーディングをしようとは思わなかったかもしれない。

改めてユダヤ人(つくづく私はユダヤ人の複雑な歴史を知らないと知らされる)シャイロック(このような人間の心理を描いている、人物を造形したところにシェイクスピアの偉大さを感じる)の複雑な台詞の言い回し、日本語による面白さを随所に発見、小さい秋を見つける喜び、好奇心を持続する志を噛み締める。

次回から、本当に久しぶりに【オセロ】をリーディングする。作品を循環リーディングすることで新鮮にシェイクスピア作品と対峙できる。一昔前老人力という本、言葉が流行ったが、今自分が古希を過ぎ思うことは、無理せず面白くいかに自分自身と遊べるか、ということにつきる。そういう意味ではいい秋を見つけている。(と思う)

2024-10-27

先の上京の小さな旅、最後の日に日比谷で観た映画【2度目のはなればなれ】に突き動かされました。そして思う。

 映画館で映画を観るということがわたしの生活ではほとんどなくなりつつある。ほとんど動画配信である。インターネットをほとんどしないし、ましてこの一年新聞購読をやめたせいで、ちょっとオーバーだが限りなく隠者的な様相をおびたかのような、世間の流行り廃りに限りなく疎い、誤解を招くような表現だが、すねものてきな心の狭い老人になりつつあるのを、自覚している。

最近いつもわたしのそばで過ごす花
(でも気持ちがいいのだから仕方がない)

だが、当の本人はその事を、こうやって五十鈴川だよりをうちながら、どこか韜晦している趣といったようなあんばいで、面白がっている。

さて、先の小さな上京旅での最後の日、銀座の裏通りの小さな小料理屋で美味しいランチを一人済ませ、その後歩いて日比谷に移動、何年ぶりかの(永井画廊で藤原新也さんの個展を見たあと)映画を日比谷東宝で観た。

その映画のことはNHKのラジオ、金曜日午後9時からの高橋源一郎さんがパーソナリティーの飛ぶ教室にゲスト出演していた映画の字幕翻訳家戸田奈津子さんがお話しされていたのを、たまたま聴いていてインプット、知っていた。

題名は【2度めのはなればなれ】。せっかく旅をしているのだし、もうよほどのことがない限り、日常生活のなかでは映画館に足を運ぶなんてことは、(何せ情報を限りなく遮断しているのだから)なかなかないし、なんといってもずっと先輩であられ、映画の字幕翻訳家として尊敬している戸田奈津子さんが(たぶん88歳であられる)素晴らしいとおっしゃっていたので、なんとしても映画館で見たかったのである。(旅に出たら、韓国にゆくと必ず私は当地の映画館にゆく)

歩いて銀座から程近い日比谷東宝で封切られていたことも幸いした。ついてほどなく映画が始まった。原題はザ・グレイエスケーパー、直訳すれば大いなる脱出者である。これが戸田さんが映画の内容で意訳、2度目のはなればなれ、とした。このセンスに脱帽する。このようなことを綴り打つと長くなるので、いつものようにはしょるが、ちょっとだけ。

スマホで関心のあるかたは、予告編だけでも見てほしい。(いささか矛盾するが、こういうてんではスマホは本当に役に立つ、要は何事も使う人次第である)主演俳優、老優は英国が誇るマイケル・ケインとグレンダ・ジャクソンである。マイケルケインはこの映画でもって引退するとある。妻を演じるグレンダジャクソンは映画か完成したあとお亡くなりになった、と知った。

この二人のあまりにもの、何十年も連れ添ったかのような夫婦の絆、本当の夫婦の情愛表現のなんと言う細やかさと自然な演技、誇り高き英国人魂が香り立つ名演技に、私は心底感動し打たれた。昨日西田敏行さんのことをちょっと書いたが、改めて思う。マイケルケインやグレンダジャクソンもまた不世出の俳優というしか私には言葉が出てこない。

それにしてもなんと言う見事な老方というしかない人生を歩まれたお二人の表現力に、爪の赤でも学ばねばと言う思いが、老いゆくわたしの秋を彩る。このような映画が生まれる、作れる。やはりシェイクスピアを生んだ国の言葉のやり取り、老優お二人に当て書きされたであろう脚本の言葉の粋、ウイット、洒落っけがたまらなく素晴らしい。かっこいいの一言につきる。目指すべきはあのような老人の姿である。

ところで、グレンダジャクソンという俳優を知ったのは、ピーターブルック監督の映画マラサドである。映画の内容も精神病院でえがかれる(記憶が曖昧で申し訳ない)人間の存在の闇に迫る、当時の(26才英国遊学中にみた)私には、少し難しい映画であったが、グレンダジャクソンという強烈な存在感の名前は記憶にはっきりときざまれた。

その上その年、シェイクスピアの生誕地にあるストラットフォードにあるRSCシェイクスピア記念劇場で上演された、これまたピーター・ブルック演出のシェイクスピア作品アントニーとクレオパトラの、クレオパトラをグレンダジャクソンが演じていたのを私はたまたま彼の地で観ることができた幸運を、なんとしても五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。

まさに目撃した、タイミング、若かったからの何も怖くなかったからこそ出会えたのだと、いまにして思う。(孫たちには悔いな自分の足で直接自分の体で一回限りの人生をゆっくりと体感してほしい、これはおじじからのお願い、もっと言えばあらゆる情報は懐疑してほしい。要は自分の体で考えるということ)

なんと、あれから46年の歳月の後、88才の、黄泉の国、宇宙の彼方に旅立たれる直前のグレンダジャクソンに、またもや私は二度の再会をしたことになる。往年の立ち姿の風格のあるクレオパトラの姿と、老いた皮膚をさらしながら、凛として台詞を放つ姿に涙が押し寄せ、あまりにもかっこいい生き方と演技力に圧倒されたのである。

映画の終わりの方、介護施設(介護施設の職員の黒人俳優の女性がこれまたいい。出てくる俳優出てくる俳優が皆いい)のベッドの上で、老いた妻が戻ってきた老いた夫にキスをするシーン、、、。これ以上は打たない。野暮である。いい映画に説明は不要である。わかる人にはわかり、感じる人は感じる。なにかに殉じる生き方ができる人はし合わせであると、この映画は私に静かに語りかけてきた。


2024-10-26

真夜中目覚め、西田敏行さんの2018年のNHKのインタビューを聴きました。そして思う。

 真夜中、目が覚めたのでお休みなのでNHKのラジオをつけると、先日お亡くなりになった西田敏行さんの2018年のインタビュー番組の声が聴こえてきて思わず耳をそばだてた。全部を聴いた訳ではないが、両親の思い出を語るときに、嗚咽してしまう声が、姿は見えないものの、なんともいえない人間性に思わず私もじーんとして、目が覚めてしまった。なぜ語るうちに、感情がコントロールできなくなったのかは、ご本人にしかわからない。

大人の対話、打たれました。

また、私は耳にしたその内容を打とうとは思わない。ただ深く心が揺り動かされたことだけは間違いないので、一行であれ五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。76才で逝かれたので、インタビュー当時70才である。福島県の生まれである。あのようなお人柄が生まれたのには、ご両親の偉大な普通の善良なお人柄があったからだということが、実によくわかった。

実は私はほとんど西田さんが、出演していたドラマや、映画を丹念にみていたわけでは、全くない。だが一度だけ西田さんがまだ無名で、記憶に間違いがなければ、青年座の、宮本研作、明治の柩(足尾鉱毒の勇、田中正造氏が主役の作品)という舞台に村の青年の一人で出演していたのを記憶している。なぜ記憶しているのか、突出して声がでかく、生き生きとした存在感が他の村の青年のなかで、ひときわ群を抜いていたからである。

その後あっという間に、多面的に活躍されてゆくようになられ、知らない人はほとんどいなくなってしまうほど、大衆に支持される国民的な俳優になられた。昭和を代表する俳優が、今また一人姿を消した。その寂寥感、私より4才年長ではあるが秋風と共に染みる。山田洋次監督もおっしゃっていたが、もうあのような俳優は出てこないだろうと。やはり俳優は特に時代によって、環境によって産み出されてくるのだと改めて思うし、知らされる。

このコロナ渦中での(もうほとんどコロナの報道は消えたかのようだが)この4年くらいの間に、同世代の70年代から80年代、90年代にに光輝いた、多分野の私が影響を受けた方々の訃報が耳に入らなかった年はない。その都度、なにがしかのことを打てる間は、五十鈴川だよりに打ってきた。(と思う)私だっていつ消えてもおかしくはない年齢に入っていることを、このところ痛感してはいる。だが、正直まだピンとは来ない感覚を生きられている。

だからそういう感覚があるときにこそ、五十鈴川だよりに、今思うことをきちんと打っておかねばと、自戒するのである。死が間近に迫ったら五十鈴川だよりなんか打てないに決まっている。打てるときに打つ。会いたいとき会いたい人にに会う。働けるときに働く。シンプルさの極限的な老人生活、ささやか気儘をつましく元気に送り、孫たちが育ってゆくのを遠くから眺められれば、という超保守的なおじいさんになりつつあるのを、どこか能天気に自覚している。

と、ここまで打って話を変える。山積して解決するのは気か遠くなるほどの、歴史的な糸がもつれにもつれている世界的な問題(ガザ、パレスチナ、ウクライナ、北朝鮮、他)を耳にしても、私は無力である)だが無関心ではないことを、きちんと五十鈴川だよりに打っておく。

詩人の石垣りんさんが書かれている(五十鈴川だよりに打った記憶がある)戦争やあらゆる世界的な困難に無関心になるときに、死はこちら側に近づいてくると。あくまでも当事者としての想像力の羽を広げて考えることに、私の場合はつきる。こちら側にいて安全で飢えもせず生きられる孫の姿の向こう側には、一瞬で命を失う地獄を生きるしかない不条理世界におかれゆく痛ましいというしかない状況がある。

もし、わたしの孫が不条理な状況、瀕死の状態に理不尽に放り込まれたら、私だってガザの人たちとおなじように、狂気の発作に襲われるだろう。いつ何が起きても、起こっても不思議ではない世界を綱渡りのように生きている。生きていられるのが砂上の楼閣的なデジタル現代社会生活なのではないかという、苦い認識が老人の私にはある。

だからといって、どうしたらいいのかは、何度も打っている気がするが、できるだけ余分な情報は入れず、体が喜ぶことに日々をすごし、大昔の人がやっていたようなことは端から無理だとはいえ、限りなく必要不可欠なものを日々大切に、生きる。これしか今のところわたしにはよき方法がない、というのが今日の五十鈴川だよりである。

いま100年時代といわれている。が私はお亡くなりになったときが寿命であると、たぶん養老孟司先生ではなかったかと思うが、さだかではない。長短ではない。虫のように居心地のいいところで私は存在したい。お星さまの寿命のスパンで考えれば、ヒトの寿命等ほとんど同じである。孫たちに老人の私は教えられる。無垢である。余分な情報が入っていない。笑顔がたまらない。自然である。大人が余計なことをしないで、できる限り海の音や、風のおとが聞こえるところにおいてあげたい。

話を戻す。西田敏行さん、あなたのように他者を思いやれる、いわゆる暖かい東北人は、ご両親しかり、災害が多いからこそ育まれてきたことを、インタビューから感じました。あなたのような存在と昭和を生きてこられて本当によかったと思う。慎んでご冥福を祈ります。

2024-10-23

あきらかにあきらめる、秋の丸太小屋再訪の旅で、生活のシフトチェンジをすることに決めました。

 上京、妻と東京2家族全員、9人で千葉は上総湊にある丸太小屋、ギャラリーフクロウハウスを訪ねる小さな旅を終え、戻ってきてから一週間が経つ。肉体労働にも復帰している。大事なことは言葉にならないとは、養老孟司先生の言葉だが、その言葉が秋風と共に染みる。

老いては花のように在りたい。

そのようなおもいを言葉で打つことに、絶対的矛盾を抱えながら、五十鈴川だよりを12年以上打ち続けている。その事に、よく打ち続けてきたものだと我ながら感心する。なぜなら小さい頃の私は、何をするにも根気のない、楽なほうに流れる3日坊主の私だったからである。

そのような私の本質的なDNAは、おそらく完全に消えることはないだろうが、世の中に出て、あらゆる事が思い通りには成らない、いわゆる世間という社会に放り込まれ、幾年月54年、自分という不確かでいい加減な存在を、何とかしてちょっとはましな存在になりたいと、あがきにあがいてきて、ようやくなにか肩の荷が降りたというか、楽になれたかのような気がしている。

Hさんとの再会、(これからは一年に一度は会うことにする)実は昨年に続いて2どめ、共に丸太小屋を共に建てた河合さんも一緒だった。そのときに娘たち家族と共に全員でもう一度ここに来たいと強烈に思う自分がいた。なぜだかはわからない。娘たち夫婦家族がこんなにもすっきりと、私のおもいを受け入れてくれるとは(子供がまだ小さいし)想いもしなかったがが、実現したその事に対する言い尽くせない私の極めて個人的安堵感は例えようもない。

一言で言えば、間に合ったという、あらゆるこれまでの歩みの思いが満たされたのである。Hさんは私より10才年上、よくぞ丸太小屋を守っていてくださったものだとの、感謝の思いが私のなかで吹き上がったのである。なんとしても娘たち家族にフクロウハウスを見てもらいたかったし、私の恩人Hさんを娘たち家族に紹介したかったのである。

13日宿から眺めた東京湾の夕陽

丸太小屋を建てることがなかったら、いったいあれからの私はどのような人生を送ったのだろうか。妻とも巡り会えなかったように思えるし、岡山に移住することもなかった。

晩年こうやって五十鈴川だよりを打ち続けるような、現在をいきることもあり得なかった、と思える。不思議である。

あらゆる意味での後半の人生へと舵を切ることができた象徴的な丸太小屋が、Hさんのお陰で現存し、姿を変え、威風堂々今もあの頃と全く変わらず現存していることへの驚きは、これまた言葉かできない。なぜか出てくる言葉は、間に合った、よかった、と満たされる、である。

18才から、未熟、無知蒙昧(いまも)を何度も何度も思い知らされながら、ふがいない自分と向き合いながら、激変する時代に翻弄されながら、なんとかよたよたよろよろ、ときにごまめの歯軋りをしながら、あらゆる人や森羅万象に助けられながら歩を進め(一段一段細いちいさな丸太を積み上げてゆくように生きてきた)今を生きているという実感が私を包んでいる。

卒業という言葉がある。中世夢が原退職後の60代シェイクスピア作品の日本語音読を生活の基本にしてきておおよそ丸12年、特にコロナ渦中でのこの3年間、新しい孫二人の生誕は、決定的に私を次なるステージに誘う。それはシェイクスピアの音読中心の生活からの卒業である。中心からのシフトチェンジ、個人的に声が出る間は続けるが、もっとほかの事に時間を過ごしたくなったのである。

それはまだもわっとしているが、老いを見つめ続けながら、おいおい五十鈴川だよりを、これからも打ち続けながら、思索したい。


2024-10-19

丸太小屋再訪上京旅、【藤原新也さんの個展ー天国を下見する僕ー】岡山に帰る16日にもう一度ゆき、想う五十鈴川だより。

 やはり夏の疲れと、上京旅の疲れが出たのか、昨日は喉がいたく発熱しなにもする気が起きず、スダチのジュースをのみ栄養をとりひたすら安静にしていたら、今朝には喉の痛みも収まり熱も引いたので、16日のことや今回の家族揃っての丸太小屋訪問旅で徒然思ったことなどを、少しでも記しておきたい。

孫3人の後ろ姿、向こうに老夫婦

16日あの日、次女は珍しく出社していて、家にはレイさんだけがリモートワークをしていたのだが、10時前にレイさんにご挨拶し、その足で私は京王線、中央線と乗り継ぎ、東京駅に向かい、手荷物をコインロッカーに入れ、有楽町へから歩いて、着いた日に一寸覗いた藤原新也さんの個展会場永井画廊に向かった。

着いた日は落ちついてみることが叶わなかったので、もう一度みたいと思ったのである。一昨年北九州私立美術館で開催された集大成ともいえる【祈り・藤原新也】回顧展には行った。そのさいのことは、五十鈴川だよりに書いているはずである。ギャラリーでの絵画展は36年ぶりとのことである。

永井画廊での個展は、2011年の【藤原新也展ー死ぬな生きろー】四国巡礼88ヶ所の各写真とそれに添えた書88点が展示されていた。以来二回目とある。私はその最初の、死ぬな生きろ展の最終日に日帰りで岡山から駆けつけたのだが、すでに作品の87点は売れていて、残りは一作品だけであった。最後の作品を私は求め、その事で作品は完売となり、経費を除いた全額が東日本大震災被災地に寄附されたとある。その作品は私の部屋にある。

話は飛ぶが、1970年代、20代の半ば頃、私は藤原新也さんの著書、インド放浪や、東京漂流、メメントモリ、などなど主に書物から、大きな影響を受けその事が進路の変更をきめこのような寄り道多き人生になったのではないかと、今となっては思えるほどである。31歳になっていたのに富良野塾に飛び込んだのは、今だから言えるが藤原新也さんの言葉に触れなかったら、安易な道に逃げ込んだのではないかと言う気がしてならない。

仙人のデジタル絵画

富良野塾を卒塾して千葉の浜金谷に小さな丸太小屋を建てるきっかけ、動機のなかに、藤原新也さんが浜金谷の近くに小さな山荘をお持ちであることを、多分朝日新聞に毎週日曜、当時連載されていた丸亀日記を読んで知っていたからかもしれない。

丸太小屋が完成してから、突然バイクで山荘にお訪ねしたことも、今となっては懐かしい思い出である。(当時の私にとってはとにかくかっこいい憧れのひとであったのである)

打っていると、あれやこれやの、お恥ずかしき青春の終わり時代の出来事が思い出される。ようやくこの年齢まで生き延びて来て思う。その後岡山に移住してからは、ご縁が遠退いていた方々にも、悔いなく会えるときに会っておかねばと、思うのである。

この度娘たち家族と共に丸太小屋再訪の旅に向かう直前、永井画廊での個展の案内をいただいたとき、あまりものタイミングのよさと、嬉しさに即行くことにしたのである。

12日私が行った時間、藤原新也さんは画廊におられ、私のことを記憶しておられた。思わず明日丸太小屋に娘たち家族と共にゆきます、と話したら、えっ、丸太小屋まだ在るの、と驚かれたので、フクロウハウスというミニギャラリーになっていることを手短に伝えると、行ってみるとおっしゃってくださった(のである)。

我が家には藤原芸術作品が(よく私の自由になるお金で手にできたものである)2点ある。ささやかな我が人生の宝である。私は藤原芸術の多分野の領域の作品にこめられた奥深さを、ほとんど理解しているとはいえない。だが、でくの坊なりに引かれる。超細かいタッチ、と自由自在な線、色使いの変幻自在さ、とにかく他の誰もが描けない唯一無二の、一作一作に途方もない時間がかけられているのがわかる。

絶望的な状況を前にどこか軽やかな明るさと、ユーモアを感じる。猿やロバや、カラスや、犬猫への、独特な情愛と偏愛。氏の持つ弱者(市井の片隅でそっと暮らす)に向ける眼差しのやわらかさと、時代の闇の諸相の根源をカメラと言葉で切り取り照射する勇気と胆力には、脱帽する。

80才になられいくぶん穏やかさを身に付けてはおられるが、青春期からつい最近の香港の一連の暴挙というしかない出来事にも、ほぼ単独で異議抗議をされておられたが、そのどくとくというしかない、オリジナル表現活動力は他の怠惰な追随者を凌駕してやまない。(数多芸術か、評論家、知識人はいるが、体を張っての単独活動家を知らない。私が知らないだけなのかもしれないが)そのような方と我が人生で直接言葉を交わし会えた幸運を、一行であれきちんと五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。

今回の絵画展でまたもや脱帽するしかないのは、デジタル仙人となられ、新境地のデジタル絵画に、1983年からすでに挑戦されていたその事である。その足掛け40年にも及ぶ間になされた成果の作品をみて(ふれて)、72才の私が今思うことは、出掛けて本当によかった、その事だけである。


2024-10-17

娘たち家族と共に東京湾を横断し、フクロウハウスを訪ねる旅後半、岡山に帰って五十鈴川だよりに打つ。

 昨日朝、長女のリビングで打った続きを、頭が新鮮なうちにわずかでも打っておきたい。14日、フクロウハウスの近くの一軒家のリゾートハウスで目覚めた我々は、各々各自朝食を済ませ、すぐそばの海岸の砂浜散歩を済ませた後、孫たちの一番喜びそうなマザー牧場へと向かった。マザー牧場はじめて行ったが、山ノ上にあり敷地が広く、遠くに周辺の千葉の山並みや海も見渡せて解放感があり、要所要所には大木があり、歩くのに疲れたら木陰で休むことができて、単なる人工的なものばかりではなく、名前は忘れたが赤い花の絨毯には目を奪われた。

1才5ヶ月未彩の後ろ姿

我々老夫婦は、若い家族たちの付き添いという感じでお供したのだが、十分に楽しむことができた。連休最後の日で相当数の家族連れで賑わっていた。それぞれの家族が好きな動物にふれあい、乗り物に乗り楽しめた。お昼前に合流し施設内のレストランでお昼を済ませ、早めに各々帰路についた。妻は帰りは次女たちの車で三鷹へ。(妻は私より2日早く上京し、3日目、12日はノアの運動会を見るために稲城に移動、私は三鷹へ)は私は長女たちの車に。午後3時半に我々は稲城のマンションに着いた。

多くの荷物をマンションの10階の部屋まで、何回か往復したのだが、体がまだ動き役に立つ事のありがたさを思った。レイさんは途中コンビニで珈琲を飲んだくらいでずっと車を運転、大変疲れたであろうに、家族のためにたんたんと物事を進めて行く。荷物を運び終えその足で、長女とミア(ちょっと体調がわるかった)と3人で買い物に。私とノアは留守番。レイさんは買い物を終えレンタカーを返しに行った。レイさんタフである。

長女がすぐに夕飯の準備、ミアがグズるのでレイさんがほぼ付きっきりでケアーをする。夕飯ができて長女とレイさんが、なんとか少しでもミアに食べさせようとするのだが、具合の悪いミアはあまり受け付けずつぶらな瞳で泣き続ける。だが泣き続けながらも、ミアはどこか口が痛いのも我慢して好きなチーズだけは口にいれている。(その生命力に私は驚かされた)その時点では原因不明であったのでレイさんと長女は頭を抱え、じっと二人して耐えていた。

翌日15日、朝一番病院へゆき手足口病と判明する。原因がわかったので私もほっとした。重症ではなかったので、そのまま保育園に行くことができ、ひと安心。お昼もきちんと食べたとの報告をメールで受け、それを読んだ長女とレイさんの喜びようは親にしか感知できない、家族ならではのもの、その姿を見ていて、一部始終を目撃していたので私も嬉しく安堵した。

さて、15日平日両親は家でリモートワーク。ノアは運動会の振り替え休日、

レイさんがいつの間にか撮った

だが、ノアも14日夜から発熱し、これまたミア同様少し心配したのだが、15日朝には熱が平熱になっていてほっとした。だから遠出は控え、近場で私と午前中は稲城の図書館(ノアは本でもゲームでも空手でもレゴでも水泳でも好きなことには熱中する)に行った。お昼はノアとパンやさんに立ち寄りお昼用のパンを数種類買って帰り、4人で和気あいあいのパンランチ。昨夜の餃子やスープやレイさんの手作りピザの余り、キウイフルーツなどでとても美味しくいただいた。

午後、ノアと私はお昼寝のあと、お隣の若葉台まで文房具ノートを買いに行った。若葉台の大きな本屋のカフェでノアはアイスクリーム、私はコーヒーで小さな秋日和のデートを楽しみ午後4時半には戻った。

夕刻、仕事を終えたレイさんとマンションの近くにある保育園にミアを迎えに行った。本調子ではないが、すっかりご機嫌な昨日とは打って変わったミアがいた。夕暮れ、すすきの穂が揺れ🌖の月が瞬いていた。一番風呂をノアと済ませ、夕飯メインは秋の味覚秋刀魚の焼いたの、カボチャとチーズのサラダ等々、レイさんが私のためにハイボールを用意してくれていた。

夕食を済ませノアとミアが寝入ってから、レイさんがスコッチを連夜用意してくれた。レイさんは外国とのやり取り、時差があるので夕食後も2時間近く仕事をしていた。私は7時過ぎからサッカー日本対オーストラリア戦(引き分け)を観ていたのだが、最後のほう少しだけ3人でお話ししながら観た。床に着いたのは10時頃、こんなに遅くまで起きていることは最近まずほとんどない。とここまで書いて、16日昨日のことは明日の五十鈴川だよりに打つことにする。

2024-10-16

16日朝、長女の住む稲城のマンションで、岡山に帰る前、寸暇打つ五十鈴川打より。

 

東京に出掛ける前に剥いて干した

13日朝次女の住む三鷹のマンションのリビングで打っている。昨日朝起きてコスモスを摘み7時半の新幹線で東京へ。着いてすぐに、有楽町へ。コインロッカーがまんぱいで仕方なく荷物を抱え、銀座8丁目まで歩く。永井画廊での藤原新也さんの個展をちょっとだけのぞき、すでにしおれたコスモスとわが家のスダチを、藤原新也さんが居られたのでお渡しし、東京駅から次女の住む三鷹へ。懐かしいが、変わり果てた三鷹駅の近くの小さな韓国焼き肉のお店で、プルコギビビンバのランチを済ませ、バスでマンションへ。二時半頃に着くと、葉と周さんはお昼寝中、私もお昼寝にすぐ参加した。

16時半次女が仕事から帰ってくる。しばしのち、三台の自転車でちょっと遠くのスーパーまで食品の買い出しへ。終えてスーパーの近くのロイヤルホストで夕飯、なん十年ぶりかでロイヤルホストに入った。老人の私一人ではまずもって入ることはないだろうが、老いては子にしたがえである。葉が小さいので、まあ仕方がないのである。三連休お店は家族連れで混んでいた。私よりももっと年上のご老人夫婦も見受けられたが、私のように田舎から訪ねて来たのかも、と想像した。と、ここまで打ったら、葉が起きてきたので中断。これから葉と数字の勉強に付き合う。

姿を変えた丸太小屋、フクロウハウス

と、ここからは16日朝である。長女の住む稲城のマンションで今年から小学生になったノアを稲城南山小学校に散歩がてら送って行き戻ってから打っている。13日からの出来事を寸暇、時間までスケッチ風に打つことにする。

13日あれから、三鷹、稲城の2家族はそれぞれレンタカーを借り、私は次女家族の車に乗り、2日早く上京していた妻は長女の車に便乗し、東京湾を横断する道路アクワラインの入口に近い、川崎近くにあるコストコという大型スーパーで合流し、2家族の一泊2日の旅に必要な食料品を買い込む。おちびが3人いるので、とにかくあらゆることに時間がかかる。子育て真っ最中の2家族の日常に、老いた私は感心することしきりである。(その事は岡山に戻ってまた打ちたい)お昼はコストコの外で、買い求めたお寿司の多種類の詰め合わせをワイルドに、全9人で腹ごしらえをしてから、アクワラインに乗り込み対岸の千葉は木更津へと向かった。

3連休の2日目で相当の混雑渋滞を覚悟していたのだが、それほどの渋滞はなく、とろとろではあったが午後2時には木更津に入った。そこでちょっとアウトドア用品のお店に立ち寄り、15時半にHさんの待つ、今はギャラリーフクロウハウスとなっている我々が造った丸太小屋についた。あれからおおよそ37年、よもやまさかこのような形で、娘たち2家族含め計9名で姿を変えた丸太小屋と再会することになろうとは。私には感無量というおもいしかなかった。

私より10歳年長のHさんがしっかりと丸太小屋を守ってくれていた。その事が例えようもなく私を感動させた。いきなり私はHさんをハグした。いきなりこんなところに連れてこられた娘たち2家族はそのような私たちをどのように眺めたであろうか。

がしかし、やはり私の娘である。瞬時にあらゆることを受け止め、フクロウハウスに感じ入ってくれた様子であった。私は娘たち2家族をHさんに紹介することができただけでもう十分、他には言葉がなかった。娘たちはもちろん、夫もよく建てたねーっと感心してくれた。何より孫たち未来人が小さな丸太小屋ではあるが、十分に魅力的なフクロウハウスを気に入ってくれて、私は満たされた。Hさんシワが写るから写真は嫌だといいながら、全員での記念撮影もできて何度も私の胸中には熱いものが込み上げて来た。

その後5時過ぎまで、すぐそばのHさんのお宅に移動、これまた魅力的なお家で住居件アトリエの2階のお部屋からからは東京湾が見張らせる絶景で、娘たち家族全員歓声をあげていた。短い時間ではあったが、私とHさんはワインを開け再会の乾杯。これからは私はもとより娘たち家族がやって来ても、もてなしてくれるようにお願いし、また河合さんとやって来ることを約束してHさんとお別れした。

そこから車で約10分、今日の我々の宿、家一軒をまるごと借りている、リゾートハウスに着いた。海のすぐそばで小高いデッキからは東京湾が一望、お風呂も広く、寝室も3へやあり言うことなし、早速お風呂に順次入り、買い込んだ食料品で夕食を、わいわいガヤガヤいただいた。中天には🌓が浮かんでいて、我々を見下ろしていた。

午後9時前、大人では一番先に私が沈没、満たされたおもいをしっかりと抱いて、あっという間に、先に寝ていたノアのとなりで眠りに落ちた。(とここまで打って続きは岡山に帰って打つことにする)

2024-10-09

青春の終わり、仲間と千葉に建てた丸太小屋に、Hさんを娘たち家族と訪ねる(13日、14日一泊二日で)前の五十鈴川だより。

 今週末から来週にかけて5泊6日の予定で、(先月も上京したばかりなのであるが)どうしても私が元気なうちに行かなければならない、娘たちに紹介しておかねばならない人がいるので、上京する。私が娘たち家族に紹介したいHさんは、千葉県の上総湊(上総湊)に今は住んでいる。

長女の子供望晃6才と未彩1才の後ろ姿

Hさんとの出会い。人生のこれまでを振り返る時、いよいよこれから私が年を重ねるにしたがって、折々思いだし会いたくなる大切な人なのである。この年齢になるまで、私は絵に書いたかのような不思議というしかない出会いによって助けられ、現在までを辛うじて生きてこられたのだという深い認識がある。

感謝という言葉しかない。Hさんは私の長きに渡って続いている少ない交遊人のなかで、頭抜けて異色の希な人、芸術家(女性)である。

私はこのHさんと34才、富良野塾を率塾した年に、まるでお告げのように出会った。神奈川の三浦と千葉の浜金谷を結ぶフェリーで、親友の河合さんと浜金谷に渡り、そこから鋸山に登り、この辺りに小さい丸太小屋を建てたいねーと、能天気丸出しの思いを河合さんに語ったのである。

26才の時ロンドンで出会い、今に至るも交遊関係が切れず続く河合氏は、そのような奇想天外な私の思いを、真摯に受け止めてくれた。受け止めてくれなかったら、まず丸太小屋は夢で終わり、建てることはかなわなかったと断言できる。

あの時、河合さんが途方もない私の思いを夢物語と一笑に付さなかったことが、今思えばやはり凄いことであるというしかない。私と河合氏はぶらぶらと、浜金谷に当時住んでおられたHさんの家へと続く、軽自動車が一台やっと通る曲がりくねった細い道を散策しながら歩いていて、たまたまHさん芸術家、ご夫婦と出遭ったのである。この出会いが事の始まり。すべてなのである。

私はこの辺りに小さな丸太小屋を建てたいという熱い思いを、路上でいきなりHさんご夫婦に吐露したところ、とにかく家においでと、いきなり見も知らぬ我々を招いてくださり、(木造で中二階のある生活感のない芸術家のアトリエのよう、しゃれた家で手作りの四谷シモン風の人形がおいてあった)庭にたわわに実った夏みかんの焼酎割り(水で割っていない、素晴らしく美味しかった)で歓待してくださり、ご馳走になり、すっかり酔っぱらい、その上なんと結局泊めていただいたのである。

こんなことが我が人生でとにかく起きたのである。今振り返るとやはり奇跡的な出来事という他はない。Hさんご夫婦はとにかくすっとんで異次元世界に棲んでいた。あなたたちが本気なら我々は全面的に協力すると言ってくれたのである。

当時私は富良野塾は率塾はしたものの、さて、これからいかに何をして生きてゆくのかの方途はまったく見えていなかったのだが、足掛け3年近く、富良野で3度越冬し四季を過ごした体験で、どんな仕事をしてでも生きてゆくという自信、手応えのようなものが、ようやくにして備わっていたので、後半の人生に向かう記念碑、シンボル的な丸太小屋を作り、青春と決別する覚悟に、私は燃えていたのである。(と、今にして想う)

次女の子供、葉3才

長くなるのではしょるが、富良野でなにもないところから先乗り隊スタッフ(5人)の一人として塾の管理棟建設のために、もらってきた廃材の釘抜きからスタートした体験から、私には当時のお金で100万円あれば小さな丸太小屋を造れる(材料費だけあとは人力で作る)という確信があったのである。私の夢のような思いを、河合さんとHさんご夫婦が受け止めてくれたのである。

4人で大まかな計画を立て、一人10万円出す。残り60万円、仲間を6人(素敵な面々が集まった)募り毎週末東京湾を横断し(丸太の調達、図面、土地を借りる手配他、一切をHさんご夫婦がしてくださったのである)基礎から丸太を組み立て、おおよそ一年後に完成したのである。(わずか3行ですませましたが人間が本気になったらやはり凄いことが実現します)

丸太小屋作りに没頭しているときに、現在の妻と巡り会えた。それから岡山に移住する40才まで、カサ・デ・マルターラ(という名前だった)には何度となく通い、秘密の小さな隠れ家として重宝した。そして、娘が生まれたのである。(長女は記憶にないが丸太小屋に行ったことがある)

長女が3才になり岡山に移住する。その後新しい生活に追われ、すっかり丸太小屋は記憶のなかの秘密のかけがえのない出来事として、私の中にしまい込まれ、Hさんとはお年賀の関係性とかしていたのだが(一度岡山に来ていただいたことがある)、娘たちが巣立ち、それぞれが家族を持ち、孫たちも成長し、最初の孫が小学生になり、一年ほど前から家族全員で丸太小屋を訪ねる計画を立ててくれた。娘たち夫婦が私の思いを汲んでくれ、念願の私の家族との再開が実現する。

人生の折り返し地点で恵建てた丸太小屋は、妻と私を結びつけ、結果私は妻のふるさと岡山へ。中世夢が原という願ってもない職場にも巡り会えたことを、いまあらためて想うとき、あのとき、なぜか丸太小屋を建てたことですべての運がよき方へと、18才からの前半とはうって変わって流れ始めたのである。

Hさんご夫婦との奇跡的な奇縁、不思議である。あれから37年の歳月が流れたが、Hさんのお陰で丸太小屋は、浜金谷から近くの上総湊になんと移築され、ミニギャラリーとなり、いまは亡きご主人(哲夫、てっぷちゃんのことはいつの日にかきちんと書きたい)が愛した梟にちなみ、フクロウハウスとなり、立派に存在している。娘たち家族、孫たち全員9名で、Hさんへのお礼の秋の小さな旅ができるなんてまさに夢とでもいうしかない。でも夢ではない。

ハムレットは言う。あの世に旅だったものは二度と戻ってきたためしはないと。人間は死ぬ。だが、新しい生命(いのち)は生まれてくる。死は宇宙へと還るだけである。孫たちは命の輝きを知らしめてくれる。大事な人とは元気なうちに、しっかりと悔いなく会えるときにあっておこうと想う。

2024-10-06

秋の朝の日差しが、五十鈴川だよりを打たせる。

 あまりにも気持ちのいい秋日和、昨日保育園に通う孫たちの運動会の動画や写真が送られてきて、お爺の私はゆっくりとみいっているうちに五十鈴川だよりが打ちたくなった。

老夫婦・スダチをもいで・語り合う

夏にはまったくやる気が起きなかった家の庭木の剪定作業などを、このところの週末妻がお休みの日に、二人でやっている。まったくといっていいほど私と妻とは異なる性格ではあるが、共同でやらねばならないことのあれやこれやは、生活を共にするもの同士として相談しながら進めている。

昨日は長女が生まれた頃に植えたスダチの樹が、今年もたくさんの実をつけたので収穫し、ついでに剪定し、枝を綺麗に片付け、ついでに妻がモッコウバラの枝も剪定してほしいと言うので、お安いご用(私は仕事でも剪定をするので何てことはない)お昼前の秋の2時間を妻と二人で過ごした。

収穫したスダチ、遠方の友人たち何人かに、久しぶりにお手紙を書き、午後郵便局で送った。お手紙と言えば、もう絶滅危惧種にますますなるであろう私もその一人である。硯で墨を擦り宛名だけでもとおもい小筆で書き、一筆は万年筆で書いた。もうメールでのやり取りがほとんどになりつつあるが、私の場合、ここいちばんはやはり一番しっくりとくる手書きである。

理屈ではないのである。とは言うものの、五十鈴川だより、今となってはこのスタイルが一番しっくりくるのだから、それぞれの加減でバランスをとって併用するのが私には相応しい。昨日と重複するが、年をとるとゆっくり草を抜くように、ゆっくりと手書きで筆や万年筆でも文字を書く時間が、これから先増えてゆく気がしている。そしてその時間を限りなく大切に楽しみたいと想うのである。

一年生になった孫の望晃には、ひらがなでの葉書を出せるのがこれからのちょっとした老いの楽しみである。もうほとんどがメールでのやり取りではあるが、娘たちからお誕生日他に手書きでもらった文章は、大事にとってある。私は文字が乱雑である。うまいと感じる文字には縁がないが、それが私の文字である。

企画者となって、何十年も宛名書きで筆ペンを使い続けてきたせいだと想うが、手でも字を書くという行為がすっかりと身に付いてしまったのである。手で草を抜くように、集中して文字を書くことは実に、私の場合精神の安定になる。日本語を音読することと、日本語を手で書くことは、限りなく私のなかでは大事な事なのである。

なぜなら難しいことは置いといて、私は日本人なのであるから、理屈抜きで日本語を大事にした、基本的な生活を送りたいだけである。先日からゆっくりと高樹のぶ子著、小説小野小町【百夜】ももよを読んでいるのだが昔の日本語の語彙にしびれる。素晴らしい。

るびがふっていないと容易には読めない古語がたくさんある。昔だったら敬遠したかもしれないが、幸いである。今ならゆっくりと味わいながら、筆写(難しい字は)しながら読めるのが楽しい。私がシェイクスピアやチェーホフ作品が好きなのも日本語の翻訳が素晴らしいからである。

2024-10-05

2024年10月最初の(秋がきたと感じるうれしい)五十鈴川だより。

涼しくなってきたので気持ちよく労働ができる。気持ちよく寝て肉体労働者なのでご飯が美味しい。その慎ましきシンプル極まる喜びは例えようもない。その日暮らし、というと物悲しさ感が漂うが、私の場合はちょっとニュアンスが異なる。それを言葉で顕すのは限りなく不可能である。言い換えればその日、自分なりの一日をきちんと丁寧に活きることに、尽きる。



さて、私の生活には本が手放せない。が、読書家であるとはつゆほども思っていない。ただ、ゆっくり、ゆっくりと本を読む生活が、年を重ねるにしたがって好きになってきただけである。もう何度も書いていることだが、本を読むことも、文章を綴ることも、私は30歳くらいまでは、どちらかと言えば読むことはともかく、書くことは大の苦手だったのである。

だが40才で中世夢が原で働くようになり、依頼された原稿が新聞で活字になったころから、何とはなしに書くことが、苦楽しながらだが、白紙に文字を埋めてゆくことが面白くなってきたのである。(振り返ると音読もそうである。長くなるのではしょるが、いつの日にかは書きたい)

読書の秋。私は本を読むことが、以前の自分と比して、ますます好きになってきた来つつある。古稀を過ぎると、好奇心が以前のようには働かなくなるのではないかという、(からだの衰えが進むのではないかとの)老爺心があったが、ありがたいことに今のところ好奇心の衰えは感じていない。誤解を恐れず打てば、好奇心ののびしろは60代より拡がっているようにさえ、感じている。

話は変わる。肉体労働といってもいろんな作業があるが、腰に負担がかかる雑草の根を抜いてゆく労働が私は大の苦手であった。広い敷地を管理するこの仕事に巡りあって丸6年になる。好きであるとまではいかないまでも、いまではほとんど苦になら無い。(私はひとつの作業を2時間以上はやらない。循環作業を繰り返すだけである)

このような感覚にたどりつくまでずいぶん時間がたったとも言える。どのようにしてそのような感覚をこの年齢で体得したのかを記すのも不可能に近い。一言で言えば自分なりにギリギリのところで諦めず面白おかしく、草を抜く単調作業を楽しむ工夫を積み重ねてきたからだろうと想う。

その事実を言葉で説明することはなかなか難しい。ただ確実に言えることは、腰に負担のかからないからだの動かしかた、呼吸を整え、休んでは続け休んでは続けるただそれだけのことを実践しただけである。抜いた草が山になり振り返ると綺麗になっている。(雑草にしたら迷惑であるが、うれしいことに雑草は見えなくなっただけで死んではいない)

苦手であったことが、ある瞬間から喜びに変わる。このような経験を積み重ねてきた結果、最初は手強く感じたことでも、やり方他をギリギリ全身で踏ん張って続けていると、からだの方が教えてくれるとでも言うか、楽になるのである。ランニングハイという言葉があるが、草取りハイとでも言うしかない。だがすべては体が動く健康であるからこそできる、感謝しかない。

さて、再び読書に戻ろう。昨年秋大長編小説レ・ミゼラブルを読んでから日本語の長編小説を限られた生活時間のなかで、草を抜く感覚で読めるようになってきた感じがある。この間佐藤愛子さんの【晩鐘】という小説をチビりチビり読んだのだが、この年齢の今だからこそ深く感動できたのだと思える。(佐藤愛子さんの小説を初めて読んだ。このような方が存在することは限りなく愉快で、人間の存在を肯定的に描き、ご自身がまずもって実践して生きる。ここが凄い、惚れ惚れする)

そして老いゆきながら、自分のなかでなにか自分がこだわってきた、執着していたもののけからの解放のような感覚、殻が弾けるかのような自由感覚があるのだが、これがよいことなのか、ただ単に老いてきただけなのであるのかが、判然とはしない。だがそんなこんな、よしなしことを綴り打ち、72歳の初めての私の秋を見つけたい。

PS 上記の写真の本、難しいことを丁寧に、わずか一週間で教えてくださる。生命の神秘、宇宙の神秘、人類はどこからきたのか。植物とはなにか、動物とはなにか、人類の行く末は。本を読むことは、想像の旅に想いを解き放す、小さき老いゆく自分を慈しみたくなる。