還暦から12年、考えてみると私の干支は辰年である。あまり験担ぎとかはしない私なのであるが、やはり年なのか、そういえば辰年、なのだなあ、とある種感慨深くなるのは、土取さんとは、やはりこういう巡り合わせなのかもしれないとの、タイミングの奇縁にある種の自分にしかわからない、想いが沸き上がるからである。
3月23日からマエストロに聞けが始まり、平行してマルセを生きるの企画を進め、合間4月土取さんの香川でのサヌカイトの演奏会を聴きに行き(その事は4月19日の五十鈴川だよりに書いている。是非読んでもらえると嬉しい)、長くなるのではしょるが、共演したチェロ奏者(これまたすごいというしかないない演奏者)エリック・マリアと土取さんと、私の3人で、一枚記念写真を撮った。 その一枚の写真は、土取さんが幼少期を過ごした多度津に近い空海ゆかりのお寺で、サヌカイトの演奏会の翌日、チェロのエリック・マリアが、空海に奉納する演奏会(関係者のみが聞き入った)おこなわれた後、私と土取さん、エリック・マリアとの3人で記念の写真を撮った際に、(なぜか私が真ん中)なにかまた企画をすることになるかもしれないと思ったからである。土取さんからの依頼を受けたときに,何故かそのことが思い出されたのである。 話は変わるが、69才になって一月後、私は人生ではじめて大小併せて一度に3回の手術を体験し、無事に3月23日生還、退院しあれから3年、まもなく3年8ヶ月になる。退院後、3ヶ月に一度の定期検診を続けているが、今日は午前中その検診日である。(というわけで五十鈴川だよりが打てている) あのとき、手術を受けた際に感じたこと(悲しいかなヒトは自分のことして体験しなと何事もわからないのかもとの苦い認識)、命について以前にもまして、ずっと深く考えるようになったことは間違いない。生きているだけで、とにかくありがたい、という感覚を3ヶ月事におもい出すのだが、その事を私はありがたく想う。 コロナのもっとも大変な時期に、よき先生に恵まれず、手術が遅れ、タイミングが悪かったら、きっと私は今ごろこのように五十鈴川だよりを打ってはいない。退院後、本当に私は以前にもまして(自分で言うのは気恥ずかしいのだが)、年齢的に、一日一日を大切に過ごすようになった。70才でウクライナの音楽家、71才で沖縄の音楽家、今年はマルセを生きる、古稀を迎え3年連続企画をすることが叶ったのは、私にとってのはじめての大きな手術体験がなかったら、まず実現しなかったに違いない。 また、この間新たにふたりの孫が私に与えた命の精妙さの(今も)不思議、命のはかなさ、フラジャイルさ、だからこその尊さを、老いの身に知らしめる。だがよきにつけあしきにつけ、ヒトは忘れる。私もまたそうである。また忘れることもまた重要である。その絶対矛盾の狭間を私はたゆたっている、という認識から逃れられずにいる。(自己正当化だとも想う)だがヒトは己の運命を受け入れ時に抗い、いやでも生きてゆく他はない。 話を戻す。そこで降ってきた土取さんからの依頼、正直私の今の生活のなかで、何が可能か、創造的に関わるには、、、。これまで何回か土取さんを企画してきたが、あの頃とは時代はまったくといっていいほどの、変容ぶり、私ごときに何が可能か。単なるお手伝いではなく、老いのみだからこその役割を想うとき、孫たちがそっと私の背中を押してくれるような気がしてならない。それは私の孫たち、という狭義の意味では毛頭ない。 未来の人たちのことを想うとき、私の理解や想像を越えた未来を感知しているかのような、単なる音楽家という範疇を、ずっと昔から真の意味で逸脱するアーティストとしての歩みの集大成的な、土取さんからのアクションに(それは猪風来さんも同じである)私もまた心から参加したい、かかわりたいとの意気を見つけたのである。正直、第一報メールをいただいたときは、ハムレットのように揺れたのである。 だが、いま私の心はゆれていない。これは仕事ではない。生活者としてずっと企画してきたというささやかな自負がある。小さな企画であれ何であれ、腹落ちしないと私の場合エネルギーはわいてこない。明日土取さんが岡山にやって来る。すべてはそこからである。
0 件のコメント:
コメントを投稿