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2025-10-28

上京旅3回目、次女のマンションのリヴィングルームで打つ五十鈴川だより。

 


次女のところで打っている。慌ただしき朝の時間を終えたひとときである。6時に起きて、朝食、洗濯、掃除を終え、周さんが葉を保育園に送って行き、まもなく次女がお医者さんに行くので、その間私が(周さんは仕事なので)風香のケアをすることになっているので、ちょっとお昼、娘が帰ってくるまで、お爺が面倒をみることになっている。

と、ここからは10時40分過ぎ娘が戻ってきてから打っている。約二時間の風香の子守り時間は格別な時間となった。時おりリモート仕事の周さんが、私たちの様子を伺いに覗いてくる。私が抱っこしていると、気を使って抱っこ紐を持ってきてくれた。ちょっと愚図った風香を私が立て抱っこ(お腹に紐で抱っこする)すると、何ともはや私の両手は解放され、風香はスヤスヤと眠りに落ちた。その後娘が戻って来るまでの約一時間起きることはなかった。娘の帰宅のチャイムがなったっときの安堵感は例えようもない。いま側で風香は娘にあやされミルクタイムを終えご機嫌である。今午前11時が過ぎたところ、続きは又時間を見つけて打つことにする。

と、ここからは娘が昼食に、キムチ焼き飯トンカツ付きを食べ、お昼寝を少しして洗濯物を取り入れ、午後3時に葉を保育園に迎えにゆく。(午後2時過ぎに打つ)

二ノ宮金次郎の私です。

今これを打っているのは28日の朝、朝食を終え葉を周さんが保育園に送っていき、側で次女が風香をあやしているそばで打っている。昨日のざっとあれからの流れを時系列で綴っておく。

3時に葉を保育園に、次女と風香と私で迎えにゆき、その足でコンビニでおやつを買い、井の頭公園にお散歩、ついておやつを食べようとしたら、蚊がたくさんいて早々に家に戻る。戻ってすぐに、次女と風香、葉、続いて私もお風呂をいただく。

夕飯前、葉のドリルをみてあげる。葉はドリルの問題があまりに簡単すぎて、おふざけがすぎるのだが、4歳のときの自分がどのようであったのかまるで記憶にないので、まあこのような感じであったのだろうと、受け止める。

夕食時、久しぶりに 少しだけニュースを見る。いきなり天皇陛下とトランプ大統領が画面にでる。そうだ、トランプ大統領が訪日しているのだ。目まぐるしく世界情勢は動いている。が、そのような大きなニュースをしりめに、私は次女夫婦のもとで、つかの間の滞在のお役にたつべく、ささやか、おだやかな時間を過ごしている。子育て真っ最中の、娘夫婦の大変さを少しでもの緩和、お役にたてることの有り難さを噛みしめる。

夕食後は、各自自由にすごし(とはいっても娘と周さんは次から次にやるべきことが)私も与えられた部屋で暫し読書、寝る前に、葉と周さんと3人でトランプをし、葉の寝る前の絵本の読み聞かせは、周さんがしてくれた。寝る前に、トランプ大統領がきたからというわけではないが、珍しく政治情勢の動画を探して見たのだが、老人の耳には、一家言ある方々の忙しない発言がやたら耳障りで、もうほとんど木偶の坊老人を自覚している私としては、早々に情報を遮断して眠りに落ちた。

もう老人なので、世界の行く末は、若いこれからを生きて行く世代に、私はお任せしたい。私は老人、超保守的にしか生きられない。娘たち家族の行く末をそっと 見守るお役にたてることの有り難さを、自覚するだけで十分である。昨日長女の旦那、レイさんから、有りがたいお礼のメールを貰った。予期しないメール立ったので嬉しかった。心のなかで、私のわずか二日間の滞在のお礼が綴られていた。そのようなメールをもらうと、老人の私がどれほど嬉しく有難活性化することか。

老いの下り坂、子守り他、何でもいいのだが、誰かのお役にたて、言葉で有難うの一言をもらえることの喜びを、長女家族、次女家族から今回もいただき感じる。明日は那須塩原の友人を訪ねる。東京滞在今日が最後である。打ち終えたら 娘が買い物に行ってきて欲しいという。お安いご用である。難しい事は無理だが、単純な事は、ひとえに得意である。一つでも取り柄のようなものを人生でみつけられたら、めっけものである。

2024-11-13

辰年私の干支、残り一月半の朝に想う、五十鈴川打より。

 還暦から12年、考えてみると私の干支は辰年である。あまり験担ぎとかはしない私なのであるが、やはり年なのか、そういえば辰年、なのだなあ、とある種感慨深くなるのは、土取さんとは、やはりこういう巡り合わせなのかもしれないとの、タイミングの奇縁にある種の自分にしかわからない、想いが沸き上がるからである。

3月23日からマエストロに聞けが始まり、平行してマルセを生きるの企画を進め、合間4月土取さんの香川でのサヌカイトの演奏会を聴きに行き(その事は4月19日の五十鈴川だよりに書いている。是非読んでもらえると嬉しい)、長くなるのではしょるが、共演したチェロ奏者(これまたすごいというしかないない演奏者)エリック・マリアと土取さんと、私の3人で、一枚記念写真を撮った。 その一枚の写真は、土取さんが幼少期を過ごした多度津に近い空海ゆかりのお寺で、サヌカイトの演奏会の翌日、チェロのエリック・マリアが、空海に奉納する演奏会(関係者のみが聞き入った)おこなわれた後、私と土取さん、エリック・マリアとの3人で記念の写真を撮った際に、(なぜか私が真ん中)なにかまた企画をすることになるかもしれないと思ったからである。土取さんからの依頼を受けたときに,何故かそのことが思い出されたのである。 話は変わるが、69才になって一月後、私は人生ではじめて大小併せて一度に3回の手術を体験し、無事に3月23日生還、退院しあれから3年、まもなく3年8ヶ月になる。退院後、3ヶ月に一度の定期検診を続けているが、今日は午前中その検診日である。(というわけで五十鈴川だよりが打てている) あのとき、手術を受けた際に感じたこと(悲しいかなヒトは自分のことして体験しなと何事もわからないのかもとの苦い認識)、命について以前にもまして、ずっと深く考えるようになったことは間違いない。生きているだけで、とにかくありがたい、という感覚を3ヶ月事におもい出すのだが、その事を私はありがたく想う。 コロナのもっとも大変な時期に、よき先生に恵まれず、手術が遅れ、タイミングが悪かったら、きっと私は今ごろこのように五十鈴川だよりを打ってはいない。退院後、本当に私は以前にもまして(自分で言うのは気恥ずかしいのだが)、年齢的に、一日一日を大切に過ごすようになった。70才でウクライナの音楽家、71才で沖縄の音楽家、今年はマルセを生きる、古稀を迎え3年連続企画をすることが叶ったのは、私にとってのはじめての大きな手術体験がなかったら、まず実現しなかったに違いない。 また、この間新たにふたりの孫が私に与えた命の精妙さの(今も)不思議、命のはかなさ、フラジャイルさ、だからこその尊さを、老いの身に知らしめる。だがよきにつけあしきにつけ、ヒトは忘れる。私もまたそうである。また忘れることもまた重要である。その絶対矛盾の狭間を私はたゆたっている、という認識から逃れられずにいる。(自己正当化だとも想う)だがヒトは己の運命を受け入れ時に抗い、いやでも生きてゆく他はない。 話を戻す。そこで降ってきた土取さんからの依頼、正直私の今の生活のなかで、何が可能か、創造的に関わるには、、、。これまで何回か土取さんを企画してきたが、あの頃とは時代はまったくといっていいほどの、変容ぶり、私ごときに何が可能か。単なるお手伝いではなく、老いのみだからこその役割を想うとき、孫たちがそっと私の背中を押してくれるような気がしてならない。それは私の孫たち、という狭義の意味では毛頭ない。 未来の人たちのことを想うとき、私の理解や想像を越えた未来を感知しているかのような、単なる音楽家という範疇を、ずっと昔から真の意味で逸脱するアーティストとしての歩みの集大成的な、土取さんからのアクションに(それは猪風来さんも同じである)私もまた心から参加したい、かかわりたいとの意気を見つけたのである。正直、第一報メールをいただいたときは、ハムレットのように揺れたのである。 だが、いま私の心はゆれていない。これは仕事ではない。生活者としてずっと企画してきたというささやかな自負がある。小さな企画であれ何であれ、腹落ちしないと私の場合エネルギーはわいてこない。明日土取さんが岡山にやって来る。すべてはそこからである。

2024-11-09

土取利行さんから、来年岡山での公演企画の依頼を受け想う、今朝の五十鈴川だより。

 わずか一週間もたたないうちに、というか、前回の五十鈴川だよりから5日後に、まったく心持ちが、こうも変わるかのような五十鈴川だよりを打つことになろうとは思いもしなかった。

というのがまったくオーバーには思えないほどに、一寸先まったく予期しないメールが、年の瀬というにはちょっと早いが届いて、何やら一気に私の中の老人気分がふっとんでしまって、さてもさてもどうしたらいいのか、老境のハムレットの心持ちで、思案のしどころ、いまも打ちながら、ありがたい気持ちを抱えながら、五十鈴川だよりをとにかく打っているところである。

8年前偶然見つけた本いつもそばにある


長くなるので要点だけを打つ。そのメールは、香川在住のこの数年、多度津出身の音楽家である土取利行さんの企画、浜辺のサヌカイトのライブ(映像に遺してあるが素晴らしい、岡山で上映したい)チェロのエリック・マリアとのサヌカイトのコラボ(今年の春そのライブをみる聴くことは叶ったが、言葉がないほど素晴らしかった。五十鈴川だよりに書いているので読んでもらえると嬉しい)などを全面的にサポートしている大鹿(実名です)さんからのものであった。

用件は、来年土取さんが、来年岡山で春にパーカッションのグループ、再結成したスパイラルアームの公演を、秋に縄文のイベントをやりたいので、是非協力してほしい、来週岡山にゆくので時間を明けてほしいとの依頼メールであった。

もう私のなかで、大きな企画はしないとのシフトチェンジしたおもいを、五十鈴川だよりに打って、まもなく届いたメールであったので、正直一晩私はない頭で思案にくれた。

土取さんとの衝撃的な出会いは26才、25歳初めての異国の地、ロンドン遊学の時である。数々の思いでの中の白眉である。今は亡き20世紀が生んだ偉大な演出家ピーター・ブルック国際劇団の舞台音楽(個人的な音楽活動とは別に、40年以上、最後まで続けた)、アルフレッド・ダリ作、ユビュ王である。

開演前一人ドラムセットに土取さんが座っている。土取さんの演奏で芝居が始まる。舞台は明るい。ピーター・ブルックの名著、何もない空間、そのままである。ドラムセットの周りには見たこともない楽器の数々(今ならわかる)笛や鈴などなど、アフリカはじめとする世界各地の民族伝統楽器が置いてあり、シーンシーンを即興で演奏するのである。演奏しないときは一観客になり笑ったり、自然に反応する。

(私はピーター・ブルックの夏の夜の夢を二十歳くらいの時、東京の日生劇場で観て、そのあまりの斬新さに、若かったしビックリし、そしてシェイクスピア作品だけを演出する演出家だと思っていたので、当時、その事にまずは驚いた。現代演劇としてのシェイクスピア、ピーター・ブルックの存在を知らなかったら、私は恐らく土取さんとのまさに演劇的な出会いはなかったであろう)

打っているとテムズ川の対岸のヤング・ヴック座、ありし日の若き土取さんの軽やかな、チベット僧のような姿で、ドラムスティックを常に右手にもちながらロンドンの街中を歩いていた姿を忘れない。

舞台から、しなやかというしかない、細身の体から放たれる宝石のような珠玉の音のつぶてを浴びた私は茫然自失し、あのピーター・ブルックの音楽を日本人がやっていることに、心底驚いたのである。終演後、怖いもの知らず、楽屋に土取さんを訪ねたのが、出会いである。

土取さんは夕食にピカデリーの菜食レストランに私を誘ってくれ、未知の国の音楽、分けてもアフリカやアジアの音楽、西洋音楽との相違をとうとうとわずかな時間私に語ってくれたのだが、その事が以後私に未知の国を訪ねる契機の種になったことは間違いない。

あれから、47年の歳月が流れ、ある種どこか感無量の思いが去来するのだが、とにもかくにも、我が人生で出会えた稀有な人間、そして言うまでもなく、私の人生にいまもって大きな影響を与え続けている存在である。

私はもう臆面もなく老人である。しかし土取さんは私より年長である。その方がお声をかけてくださるのは甚だの誉れではある。わたしに何が可能であろうか。謙虚に私は問う。そして大きな企画に関わるシフトチェンジを暫し延長することにしたのである。

ただ、土取利行さんでなかったら、多分これほどのエネルギーはわいてこないだろう。土取さんが全人生をかけて、今も果敢に挑戦している姿を前にしては、古いけれど男子として情けないのである。私の思い。情熱のある若い人たちにに土取利行という芸術家、私が大いに啓発され続けているアーティストの存在の多岐にわたる(それぞれの年代で取り組んだ)歩み、軌跡を知ってもらえたら、ということを思いついたとき、老人の私の体にスイッチ(オン)がはいったのである。

続きは、明日打つことにします。