わずか一週間もたたないうちに、というか、前回の五十鈴川だよりから5日後に、まったく心持ちが、こうも変わるかのような五十鈴川だよりを打つことになろうとは思いもしなかった。
というのがまったくオーバーには思えないほどに、一寸先まったく予期しないメールが、年の瀬というにはちょっと早いが届いて、何やら一気に私の中の老人気分がふっとんでしまって、さてもさてもどうしたらいいのか、老境のハムレットの心持ちで、思案のしどころ、いまも打ちながら、ありがたい気持ちを抱えながら、五十鈴川だよりをとにかく打っているところである。
8年前偶然見つけた本いつもそばにある |
用件は、来年土取さんが、来年岡山で春にパーカッションのグループ、再結成したスパイラルアームの公演を、秋に縄文のイベントをやりたいので、是非協力してほしい、来週岡山にゆくので時間を明けてほしいとの依頼メールであった。
もう私のなかで、大きな企画はしないとのシフトチェンジしたおもいを、五十鈴川だよりに打って、まもなく届いたメールであったので、正直一晩私はない頭で思案にくれた。
土取さんとの衝撃的な出会いは26才、25歳初めての異国の地、ロンドン遊学の時である。数々の思いでの中の白眉である。今は亡き20世紀が生んだ偉大な演出家ピーター・ブルック国際劇団の舞台音楽(個人的な音楽活動とは別に、40年以上、最後まで続けた)、アルフレッド・ダリ作、ユビュ王である。
開演前一人ドラムセットに土取さんが座っている。土取さんの演奏で芝居が始まる。舞台は明るい。ピーター・ブルックの名著、何もない空間、そのままである。ドラムセットの周りには見たこともない楽器の数々(今ならわかる)笛や鈴などなど、アフリカはじめとする世界各地の民族伝統楽器が置いてあり、シーンシーンを即興で演奏するのである。演奏しないときは一観客になり笑ったり、自然に反応する。
(私はピーター・ブルックの夏の夜の夢を二十歳くらいの時、東京の日生劇場で観て、そのあまりの斬新さに、若かったしビックリし、そしてシェイクスピア作品だけを演出する演出家だと思っていたので、当時、その事にまずは驚いた。現代演劇としてのシェイクスピア、ピーター・ブルックの存在を知らなかったら、私は恐らく土取さんとのまさに演劇的な出会いはなかったであろう)
打っているとテムズ川の対岸のヤング・ヴック座、ありし日の若き土取さんの軽やかな、チベット僧のような姿で、ドラムスティックを常に右手にもちながらロンドンの街中を歩いていた姿を忘れない。
舞台から、しなやかというしかない、細身の体から放たれる宝石のような珠玉の音のつぶてを浴びた私は茫然自失し、あのピーター・ブルックの音楽を日本人がやっていることに、心底驚いたのである。終演後、怖いもの知らず、楽屋に土取さんを訪ねたのが、出会いである。
土取さんは夕食にピカデリーの菜食レストランに私を誘ってくれ、未知の国の音楽、分けてもアフリカやアジアの音楽、西洋音楽との相違をとうとうとわずかな時間私に語ってくれたのだが、その事が以後私に未知の国を訪ねる契機の種になったことは間違いない。
あれから、47年の歳月が流れ、ある種どこか感無量の思いが去来するのだが、とにもかくにも、我が人生で出会えた稀有な人間、そして言うまでもなく、私の人生にいまもって大きな影響を与え続けている存在である。
私はもう臆面もなく老人である。しかし土取さんは私より年長である。その方がお声をかけてくださるのは甚だの誉れではある。わたしに何が可能であろうか。謙虚に私は問う。そして大きな企画に関わるシフトチェンジを暫し延長することにしたのである。
ただ、土取利行さんでなかったら、多分これほどのエネルギーはわいてこないだろう。土取さんが全人生をかけて、今も果敢に挑戦している姿を前にしては、古いけれど男子として情けないのである。私の思い。情熱のある若い人たちにに土取利行という芸術家、私が大いに啓発され続けているアーティストの存在の多岐にわたる(それぞれの年代で取り組んだ)歩み、軌跡を知ってもらえたら、ということを思いついたとき、老人の私の体にスイッチ(オン)がはいったのである。
続きは、明日打つことにします。
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