今月はこのところの五十鈴川だよりのタイトルを見ただけで、まるで老人生活がどこかにいってしまったのではないかと、思えるような塩梅である。しかし、今月もその合間、実によく働いた。今月は残すところ30日の午前中のみとなり、今日明日は労働はオフである。だが打ち合わせや、我が家でのシェイクスピアのリーディング音読レッスン等の予定があり、お陰さまで充実した日々、外見は老人だが、内面は萌える晩秋生活といった体である。
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素晴らしい、ミニ上映会をやりたい。 |
さて話を変える。一昨日夜、夕食後固定電話がなり、ひょっとしたらという思いがして、受話器をとると、案の定猪風来さんからのお電話であった。なにか、切羽詰まった感が伝わってきたので、暫しお話の内容、用件に耳を傾けた。その用件は記さないが、夜の夕食後の私の体は何度も書いているように、まるで老人そのものである。しかし、他ならぬ猪風来さんからの頼みである。受諾した。依頼の用件を26日夕方までに、ファックスかメールで送ってほしいと。
受話器をおいて、夜の疲れた老人の私の体は、一気にどこかにいってしまった。2階の部屋に直行、まずざっと鉛筆で下書きし、タブレットで打ち、一時間もかからずメールで送った。いつもは9時半過ぎには床につくのに、体は疲れているが頭が冴えて、いつもよりずっと遅く11時近くまで、ボーッと過ごした。
昨日午前中で仕事を終え、家に戻るとすぐスマホが鳴った。猪風来さんからのお礼の電話だった。その時、謙遜ではなく、お役にたてたことがまずは何より嬉しかった。何せ猪風来さんはスマホも持っていないし、メールも打たない。現代人ではあるが、限りなく文明の利器にはほど遠い、縄文人的仙人生活を送っている、現代の稀人である。
私など、限りなくこの現代消費文明生活に毒されている俗物であると、どこかで自覚しながら生きている。お金が心も体も全身を多い尽くしているかのような、現代都市型、消費文明生活に、できるだけ毒されないような生活を心がけている。(つもりである)
猪風来さんの40年以上にわたる、全身全霊で、家族全員で実践してきた現代文明からの脱皮を貫いてこられた、縄文人的生き方、その血のにじむ生活のなかで、土と水と炎で生成された縄文土器の偉業とでも言うしかない作品を前にして、私は言葉を失う。スマホなどのインターネット文明利器を、猪風来さんの縄文土器は凌駕してあまりある。
親子二代で成された縄文土器の結晶はこの行き詰まり(つまり人間が人間らしく生きてゆけないような構造のなかに放り込まれているつまり、お金に洗脳されて、心とからだが蝕まれているという現実)現代人生活からの、エクソダス、脱出の道を(未知)照らす。
今猪風来さんが、1986年北海道浜益に家族で移住、そこでの10年間を綴った家族生活の記録、【縄文回帰】という本を読んでいる。150ページまで読み進めたところだが、北の國から何てものではない。いきなり挑戦する自給自足生活の実践記録は、すさまじいものである。だが、痛快で清々しい。本人の嘘のない文章が余すところなく、まるで子供がおもちゃでキャキャような表現で綴られている。動植物の名前も実によく知っていて驚く。(私も富良野で2年10ヶ月をすごし、3度越冬した体験があるので、あの寒さが吹雪が、どのようなものであるのかがわかる。体験したものだけしかわからない)
長くなるのではしょるが、この本のなかには、現代都市型文明生活で失った、家族の根元的な愛の生活とでも言うしかない、細やかな野性動物や植物との共生讃歌が綴られていて胸を打つ。生命を喰う、いただくという厳粛な感覚。猪風来さんが自力で竪穴式住居を建て、そこで一人で煮炊きして、縄文の心をつかむために生活する。ある日立派な木製ベッドを作り、そこに浜益村で生まれ、4才になった原野君が一緒に寝るとお母さんにつれられてやって来る。
絵本が大好きな原野くんのために、ランプを増やして明るくして猪風来さんは彼が寝息をたてるまで本を読んでやる。竪穴式住居は分厚い雪におおわれていて暖かい。静寂と闇が支配する宇宙。絵本、他にはなにもない。愛があるだけである。自力で生きる力がないものは滅びるのである。宇宙の摂理、自然界の掟はかくも厳しい。(はじめてお米を収穫したときの歓喜、文章が弾んでいる)真の意味、全身で生きたものだけが体得できる喜び。
土取さんとの出会いなければ本も読まず、企画者の端くれにもなれなかったし、安易な都市型住民堕落生活で、きっと私は生を終えたに違いない。あらゆる執着を手放し、静かな生活を目指していた矢先での、12年ぶりの土取さんと企画者として再会、猪風来さんとも表面的な関係性から脱皮して、本質的に出会いたい。氏にとって役に立つ企画者でありたい。
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