今日から 3連休である。そして、早11月である。昨日から降り続いた雨が今は止んでいる。先程メル散歩から戻ってきてところ、空は一面どんよりと重い雲が垂れ込めている。とりたてて打ちたいことがある日も、打つことがない日も、調子がいいときも、調子の意気が上がらないときも、お休みの日は何かを綴り打ちたい、老人である。
教わることが染みる秋 |
さて、今年もあと2ヶ月となった。このところ佐藤愛子さん、高樹のぶ子さんの長編小説を立て続けに読んだ。いずれも(エッセイとうは読んだことがあるが)小説は初めて読んだ。そして宗教学の専門家であられる山折哲雄さんの【我が人生の三原則】という御本を読み終えたばかりである。この方の本もようやく初めて読んだ。
とりたてて打つことは思い浮かばないのだが、一言打ちたいのは、博学、博識のその道の専門家のご本、真摯な学識に裏打ちされた文章は、ぐいぐいと引き込まれて読み進むことができ、わずか二日で読み終えた。私にしては本当に早い。
今思うことは、手にして、このような本に巡りあえて本当によかったという単純な思いである。私より年長者で若い頃から学徒として宗教学、思想史を学びながら、ご自身様々な病を体験され、生き返るかのように生還し、学ばれた成果が80才を過ぎてから出されたこの本にはつまっている。何よりも学者が書かれたとは思えないくらい文章がわかりやすく、簡潔、無駄がない。
お三方分野は異なるが、50年以上生き方が一筋、(佐藤愛子さんは90歳を目前の時の小説)人柄が浮かんでくるお仕事ぶりに深く頭を垂れ、静かに脱帽する。いちいちの内容には触れない。もし読んでみたいと思われるかたがいたら、ご自分で手にしてほしい。唯一の自分の現在の心と体で味わうのが一番である。
古典、シェイクスピア作品であろうが、今の高樹のぶ子さんの作品(高樹さんの古典への思い、日本語への思いがすごい)であろうが、一度で理解できるほど、やわではない。山折哲雄先生の本、佐藤愛子さんの本、共通するのはこれから私が明日を迎え、老い路を豊かに生きてゆくためのには欠かせない、心の栄養になるのは間違いないと、思わせられた本であるからこそ、五十鈴川だよりに打っておきたい、ただそれだけである。
老人と若者の違いは(突然のアクシデントがない限り)年よりは若者より確実に死が近いということである。歳を積むことは、死を年年歳歳身近に感じることが深まってゆくということだと思う。若いときにメメントモリとう言葉を知ったときには、食うことが精一杯でとてもではないが、死を身近に感じる(感じることは感じていたと想う)ことよりも、ひたすら現在を生きるしかなかった。だが今はまるで違う。いやでも死を意識する年齢に入ってきたし、考える余裕がある。その事を前向きにとらえ、生きて行きたいのである。
(歳をとったなどという暇もないくらい、佐藤愛子さんは別れた夫の借金を返すためにためにひたすら小説を書き続け借金を返済、あっぱれ。気がついたら歳を重ねていたというのは例外中の例外、だがこういう女傑が私は大好きである)
と、ここまで打ってきて、このまま打つとまるでまとまらない五十鈴川だよりになるのは避けたい。要は読書もシフトチェンジ、一度きりの人生は確かなので、夏目漱石の小説他、これまで題名だけしか知らなかったかたの代表作を中心に、他ジャンルの書物の海を泳ぎたいと、ささやかに思うのだ。一回限りの人生ではとても読みきれないことは承知している。あくまで休日の過ごし方の範囲の中での読書で思うことである。
なんといっても、今現在の生活のなかで私が一番大切にしていることは、私と妻、二人の娘たち家族の家庭の生活である。そして母が時おり言っていた言葉、本を読むばかりが人生ではないと。あくまで己が生きてゆくための読書である。
PS 明らかに・あきらめて往く・もくもくと・ひとり草刈り・秋風がしむ。
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