今週末から来週にかけて5泊6日の予定で、(先月も上京したばかりなのであるが)どうしても私が元気なうちに行かなければならない、娘たちに紹介しておかねばならない人がいるので、上京する。私が娘たち家族に紹介したいHさんは、千葉県の上総湊(上総湊)に今は住んでいる。
長女の子供望晃6才と未彩1才の後ろ姿 |
Hさんとの出会い。人生のこれまでを振り返る時、いよいよこれから私が年を重ねるにしたがって、折々思いだし会いたくなる大切な人なのである。この年齢になるまで、私は絵に書いたかのような不思議というしかない出会いによって助けられ、現在までを辛うじて生きてこられたのだという深い認識がある。
感謝という言葉しかない。Hさんは私の長きに渡って続いている少ない交遊人のなかで、頭抜けて異色の希な人、芸術家(女性)である。
私はこのHさんと34才、富良野塾を率塾した年に、まるでお告げのように出会った。神奈川の三浦と千葉の浜金谷を結ぶフェリーで、親友の河合さんと浜金谷に渡り、そこから鋸山に登り、この辺りに小さい丸太小屋を建てたいねーと、能天気丸出しの思いを河合さんに語ったのである。
26才の時ロンドンで出会い、今に至るも交遊関係が切れず続く河合氏は、そのような奇想天外な私の思いを、真摯に受け止めてくれた。受け止めてくれなかったら、まず丸太小屋は夢で終わり、建てることはかなわなかったと断言できる。
あの時、河合さんが途方もない私の思いを夢物語と一笑に付さなかったことが、今思えばやはり凄いことであるというしかない。私と河合氏はぶらぶらと、浜金谷に当時住んでおられたHさんの家へと続く、軽自動車が一台やっと通る曲がりくねった細い道を散策しながら歩いていて、たまたまHさん芸術家、ご夫婦と出遭ったのである。この出会いが事の始まり。すべてなのである。
私はこの辺りに小さな丸太小屋を建てたいという熱い思いを、路上でいきなりHさんご夫婦に吐露したところ、とにかく家においでと、いきなり見も知らぬ我々を招いてくださり、(木造で中二階のある生活感のない芸術家のアトリエのよう、しゃれた家で手作りの四谷シモン風の人形がおいてあった)庭にたわわに実った夏みかんの焼酎割り(水で割っていない、素晴らしく美味しかった)で歓待してくださり、ご馳走になり、すっかり酔っぱらい、その上なんと結局泊めていただいたのである。
こんなことが我が人生でとにかく起きたのである。今振り返るとやはり奇跡的な出来事という他はない。Hさんご夫婦はとにかくすっとんで異次元世界に棲んでいた。あなたたちが本気なら我々は全面的に協力すると言ってくれたのである。
当時私は富良野塾は率塾はしたものの、さて、これからいかに何をして生きてゆくのかの方途はまったく見えていなかったのだが、足掛け3年近く、富良野で3度越冬し四季を過ごした体験で、どんな仕事をしてでも生きてゆくという自信、手応えのようなものが、ようやくにして備わっていたので、後半の人生に向かう記念碑、シンボル的な丸太小屋を作り、青春と決別する覚悟に、私は燃えていたのである。(と、今にして想う)
次女の子供、葉3才 |
長くなるのではしょるが、富良野でなにもないところから先乗り隊スタッフ(5人)の一人として塾の管理棟建設のために、もらってきた廃材の釘抜きからスタートした体験から、私には当時のお金で100万円あれば小さな丸太小屋を造れる(材料費だけあとは人力で作る)という確信があったのである。私の夢のような思いを、河合さんとHさんご夫婦が受け止めてくれたのである。
4人で大まかな計画を立て、一人10万円出す。残り60万円、仲間を6人(素敵な面々が集まった)募り毎週末東京湾を横断し(丸太の調達、図面、土地を借りる手配他、一切をHさんご夫婦がしてくださったのである)基礎から丸太を組み立て、おおよそ一年後に完成したのである。(わずか3行ですませましたが人間が本気になったらやはり凄いことが実現します)
丸太小屋作りに没頭しているときに、現在の妻と巡り会えた。それから岡山に移住する40才まで、カサ・デ・マルターラ(という名前だった)には何度となく通い、秘密の小さな隠れ家として重宝した。そして、娘が生まれたのである。(長女は記憶にないが丸太小屋に行ったことがある)
長女が3才になり岡山に移住する。その後新しい生活に追われ、すっかり丸太小屋は記憶のなかの秘密のかけがえのない出来事として、私の中にしまい込まれ、Hさんとはお年賀の関係性とかしていたのだが(一度岡山に来ていただいたことがある)、娘たちが巣立ち、それぞれが家族を持ち、孫たちも成長し、最初の孫が小学生になり、一年ほど前から家族全員で丸太小屋を訪ねる計画を立ててくれた。娘たち夫婦が私の思いを汲んでくれ、念願の私の家族との再開が実現する。
人生の折り返し地点で恵建てた丸太小屋は、妻と私を結びつけ、結果私は妻のふるさと岡山へ。中世夢が原という願ってもない職場にも巡り会えたことを、いまあらためて想うとき、あのとき、なぜか丸太小屋を建てたことですべての運がよき方へと、18才からの前半とはうって変わって流れ始めたのである。
Hさんご夫婦との奇跡的な奇縁、不思議である。あれから37年の歳月が流れたが、Hさんのお陰で丸太小屋は、浜金谷から近くの上総湊になんと移築され、ミニギャラリーとなり、いまは亡きご主人(哲夫、てっぷちゃんのことはいつの日にかきちんと書きたい)が愛した梟にちなみ、フクロウハウスとなり、立派に存在している。娘たち家族、孫たち全員9名で、Hさんへのお礼の秋の小さな旅ができるなんてまさに夢とでもいうしかない。でも夢ではない。
ハムレットは言う。あの世に旅だったものは二度と戻ってきたためしはないと。人間は死ぬ。だが、新しい生命(いのち)は生まれてくる。死は宇宙へと還るだけである。孫たちは命の輝きを知らしめてくれる。大事な人とは元気なうちに、しっかりと悔いなく会えるときにあっておこうと想う。
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