あまりにも気持ちのいい秋日和、昨日保育園に通う孫たちの運動会の動画や写真が送られてきて、お爺の私はゆっくりとみいっているうちに五十鈴川だよりが打ちたくなった。
老夫婦・スダチをもいで・語り合う |
夏にはまったくやる気が起きなかった家の庭木の剪定作業などを、このところの週末妻がお休みの日に、二人でやっている。まったくといっていいほど私と妻とは異なる性格ではあるが、共同でやらねばならないことのあれやこれやは、生活を共にするもの同士として相談しながら進めている。
昨日は長女が生まれた頃に植えたスダチの樹が、今年もたくさんの実をつけたので収穫し、ついでに剪定し、枝を綺麗に片付け、ついでに妻がモッコウバラの枝も剪定してほしいと言うので、お安いご用(私は仕事でも剪定をするので何てことはない)お昼前の秋の2時間を妻と二人で過ごした。
収穫したスダチ、遠方の友人たち何人かに、久しぶりにお手紙を書き、午後郵便局で送った。お手紙と言えば、もう絶滅危惧種にますますなるであろう私もその一人である。硯で墨を擦り宛名だけでもとおもい小筆で書き、一筆は万年筆で書いた。もうメールでのやり取りがほとんどになりつつあるが、私の場合、ここいちばんはやはり一番しっくりとくる手書きである。
理屈ではないのである。とは言うものの、五十鈴川だより、今となってはこのスタイルが一番しっくりくるのだから、それぞれの加減でバランスをとって併用するのが私には相応しい。昨日と重複するが、年をとるとゆっくり草を抜くように、ゆっくりと手書きで筆や万年筆でも文字を書く時間が、これから先増えてゆく気がしている。そしてその時間を限りなく大切に楽しみたいと想うのである。
一年生になった孫の望晃には、ひらがなでの葉書を出せるのがこれからのちょっとした老いの楽しみである。もうほとんどがメールでのやり取りではあるが、娘たちからお誕生日他に手書きでもらった文章は、大事にとってある。私は文字が乱雑である。うまいと感じる文字には縁がないが、それが私の文字である。
企画者となって、何十年も宛名書きで筆ペンを使い続けてきたせいだと想うが、手でも字を書くという行為がすっかりと身に付いてしまったのである。手で草を抜くように、集中して文字を書くことは実に、私の場合精神の安定になる。日本語を音読することと、日本語を手で書くことは、限りなく私のなかでは大事な事なのである。
なぜなら難しいことは置いといて、私は日本人なのであるから、理屈抜きで日本語を大事にした、基本的な生活を送りたいだけである。先日からゆっくりと高樹のぶ子著、小説小野小町【百夜】ももよを読んでいるのだが昔の日本語の語彙にしびれる。素晴らしい。
るびがふっていないと容易には読めない古語がたくさんある。昔だったら敬遠したかもしれないが、幸いである。今ならゆっくりと味わいながら、筆写(難しい字は)しながら読めるのが楽しい。私がシェイクスピアやチェーホフ作品が好きなのも日本語の翻訳が素晴らしいからである。
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