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2024-10-05

2024年10月最初の(秋がきたと感じるうれしい)五十鈴川だより。

涼しくなってきたので気持ちよく労働ができる。気持ちよく寝て肉体労働者なのでご飯が美味しい。その慎ましきシンプル極まる喜びは例えようもない。その日暮らし、というと物悲しさ感が漂うが、私の場合はちょっとニュアンスが異なる。それを言葉で顕すのは限りなく不可能である。言い換えればその日、自分なりの一日をきちんと丁寧に活きることに、尽きる。



さて、私の生活には本が手放せない。が、読書家であるとはつゆほども思っていない。ただ、ゆっくり、ゆっくりと本を読む生活が、年を重ねるにしたがって好きになってきただけである。もう何度も書いていることだが、本を読むことも、文章を綴ることも、私は30歳くらいまでは、どちらかと言えば読むことはともかく、書くことは大の苦手だったのである。

だが40才で中世夢が原で働くようになり、依頼された原稿が新聞で活字になったころから、何とはなしに書くことが、苦楽しながらだが、白紙に文字を埋めてゆくことが面白くなってきたのである。(振り返ると音読もそうである。長くなるのではしょるが、いつの日にかは書きたい)

読書の秋。私は本を読むことが、以前の自分と比して、ますます好きになってきた来つつある。古稀を過ぎると、好奇心が以前のようには働かなくなるのではないかという、(からだの衰えが進むのではないかとの)老爺心があったが、ありがたいことに今のところ好奇心の衰えは感じていない。誤解を恐れず打てば、好奇心ののびしろは60代より拡がっているようにさえ、感じている。

話は変わる。肉体労働といってもいろんな作業があるが、腰に負担がかかる雑草の根を抜いてゆく労働が私は大の苦手であった。広い敷地を管理するこの仕事に巡りあって丸6年になる。好きであるとまではいかないまでも、いまではほとんど苦になら無い。(私はひとつの作業を2時間以上はやらない。循環作業を繰り返すだけである)

このような感覚にたどりつくまでずいぶん時間がたったとも言える。どのようにしてそのような感覚をこの年齢で体得したのかを記すのも不可能に近い。一言で言えば自分なりにギリギリのところで諦めず面白おかしく、草を抜く単調作業を楽しむ工夫を積み重ねてきたからだろうと想う。

その事実を言葉で説明することはなかなか難しい。ただ確実に言えることは、腰に負担のかからないからだの動かしかた、呼吸を整え、休んでは続け休んでは続けるただそれだけのことを実践しただけである。抜いた草が山になり振り返ると綺麗になっている。(雑草にしたら迷惑であるが、うれしいことに雑草は見えなくなっただけで死んではいない)

苦手であったことが、ある瞬間から喜びに変わる。このような経験を積み重ねてきた結果、最初は手強く感じたことでも、やり方他をギリギリ全身で踏ん張って続けていると、からだの方が教えてくれるとでも言うか、楽になるのである。ランニングハイという言葉があるが、草取りハイとでも言うしかない。だがすべては体が動く健康であるからこそできる、感謝しかない。

さて、再び読書に戻ろう。昨年秋大長編小説レ・ミゼラブルを読んでから日本語の長編小説を限られた生活時間のなかで、草を抜く感覚で読めるようになってきた感じがある。この間佐藤愛子さんの【晩鐘】という小説をチビりチビり読んだのだが、この年齢の今だからこそ深く感動できたのだと思える。(佐藤愛子さんの小説を初めて読んだ。このような方が存在することは限りなく愉快で、人間の存在を肯定的に描き、ご自身がまずもって実践して生きる。ここが凄い、惚れ惚れする)

そして老いゆきながら、自分のなかでなにか自分がこだわってきた、執着していたもののけからの解放のような感覚、殻が弾けるかのような自由感覚があるのだが、これがよいことなのか、ただ単に老いてきただけなのであるのかが、判然とはしない。だがそんなこんな、よしなしことを綴り打ち、72歳の初めての私の秋を見つけたい。

PS 上記の写真の本、難しいことを丁寧に、わずか一週間で教えてくださる。生命の神秘、宇宙の神秘、人類はどこからきたのか。植物とはなにか、動物とはなにか、人類の行く末は。本を読むことは、想像の旅に想いを解き放す、小さき老いゆく自分を慈しみたくなる。


 

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