真夜中、目が覚めたのでお休みなのでNHKのラジオをつけると、先日お亡くなりになった西田敏行さんの2018年のインタビュー番組の声が聴こえてきて思わず耳をそばだてた。全部を聴いた訳ではないが、両親の思い出を語るときに、嗚咽してしまう声が、姿は見えないものの、なんともいえない人間性に思わず私もじーんとして、目が覚めてしまった。なぜ語るうちに、感情がコントロールできなくなったのかは、ご本人にしかわからない。
大人の対話、打たれました。 |
また、私は耳にしたその内容を打とうとは思わない。ただ深く心が揺り動かされたことだけは間違いないので、一行であれ五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。76才で逝かれたので、インタビュー当時70才である。福島県の生まれである。あのようなお人柄が生まれたのには、ご両親の偉大な普通の善良なお人柄があったからだということが、実によくわかった。
実は私はほとんど西田さんが、出演していたドラマや、映画を丹念にみていたわけでは、全くない。だが一度だけ西田さんがまだ無名で、記憶に間違いがなければ、青年座の、宮本研作、明治の柩(足尾鉱毒の勇、田中正造氏が主役の作品)という舞台に村の青年の一人で出演していたのを記憶している。なぜ記憶しているのか、突出して声がでかく、生き生きとした存在感が他の村の青年のなかで、ひときわ群を抜いていたからである。
その後あっという間に、多面的に活躍されてゆくようになられ、知らない人はほとんどいなくなってしまうほど、大衆に支持される国民的な俳優になられた。昭和を代表する俳優が、今また一人姿を消した。その寂寥感、私より4才年長ではあるが秋風と共に染みる。山田洋次監督もおっしゃっていたが、もうあのような俳優は出てこないだろうと。やはり俳優は特に時代によって、環境によって産み出されてくるのだと改めて思うし、知らされる。
このコロナ渦中での(もうほとんどコロナの報道は消えたかのようだが)この4年くらいの間に、同世代の70年代から80年代、90年代にに光輝いた、多分野の私が影響を受けた方々の訃報が耳に入らなかった年はない。その都度、なにがしかのことを打てる間は、五十鈴川だよりに打ってきた。(と思う)私だっていつ消えてもおかしくはない年齢に入っていることを、このところ痛感してはいる。だが、正直まだピンとは来ない感覚を生きられている。
だからそういう感覚があるときにこそ、五十鈴川だよりに、今思うことをきちんと打っておかねばと、自戒するのである。死が間近に迫ったら五十鈴川だよりなんか打てないに決まっている。打てるときに打つ。会いたいとき会いたい人にに会う。働けるときに働く。シンプルさの極限的な老人生活、ささやか気儘をつましく元気に送り、孫たちが育ってゆくのを遠くから眺められれば、という超保守的なおじいさんになりつつあるのを、どこか能天気に自覚している。
と、ここまで打って話を変える。山積して解決するのは気か遠くなるほどの、歴史的な糸がもつれにもつれている世界的な問題(ガザ、パレスチナ、ウクライナ、北朝鮮、他)を耳にしても、私は無力である)だが無関心ではないことを、きちんと五十鈴川だよりに打っておく。
詩人の石垣りんさんが書かれている(五十鈴川だよりに打った記憶がある)戦争やあらゆる世界的な困難に無関心になるときに、死はこちら側に近づいてくると。あくまでも当事者としての想像力の羽を広げて考えることに、私の場合はつきる。こちら側にいて安全で飢えもせず生きられる孫の姿の向こう側には、一瞬で命を失う地獄を生きるしかない不条理世界におかれゆく痛ましいというしかない状況がある。
もし、わたしの孫が不条理な状況、瀕死の状態に理不尽に放り込まれたら、私だってガザの人たちとおなじように、狂気の発作に襲われるだろう。いつ何が起きても、起こっても不思議ではない世界を綱渡りのように生きている。生きていられるのが砂上の楼閣的なデジタル現代社会生活なのではないかという、苦い認識が老人の私にはある。
だからといって、どうしたらいいのかは、何度も打っている気がするが、できるだけ余分な情報は入れず、体が喜ぶことに日々をすごし、大昔の人がやっていたようなことは端から無理だとはいえ、限りなく必要不可欠なものを日々大切に、生きる。これしか今のところわたしにはよき方法がない、というのが今日の五十鈴川だよりである。
いま100年時代といわれている。が私はお亡くなりになったときが寿命であると、たぶん養老孟司先生ではなかったかと思うが、さだかではない。長短ではない。虫のように居心地のいいところで私は存在したい。お星さまの寿命のスパンで考えれば、ヒトの寿命等ほとんど同じである。孫たちに老人の私は教えられる。無垢である。余分な情報が入っていない。笑顔がたまらない。自然である。大人が余計なことをしないで、できる限り海の音や、風のおとが聞こえるところにおいてあげたい。
話を戻す。西田敏行さん、あなたのように他者を思いやれる、いわゆる暖かい東北人は、ご両親しかり、災害が多いからこそ育まれてきたことを、インタビューから感じました。あなたのような存在と昭和を生きてこられて本当によかったと思う。慎んでご冥福を祈ります。
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